城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2008

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2008年12月
 
     

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2008年12月23日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!秀頼再建天守の復元画を大きなサイズで!!




秀頼再建天守の復元画を大きなサイズでご覧下さい


今回も、右カラムの季刊リポートに盛り込めなかった話題の中からお届けします。

大阪城天守閣は、上の「入口 ENTER」をクリックすると表示されるホームページにメモしたように、周囲を色々な地下鉄等が走っていてアクセスのよい場所にあります。



そして教科書等でも認知度の高い『大坂夏の陣図屏風』は、この天守閣の3階に展示されています。


右下のモノクロ写真はその『大坂夏の陣図屏風』の天守周辺の描写ですが、実際はこうではなかったか、という仮説を絵にしてみたのが左下の絵です。

ご覧の絵は「秀頼再建天守と付段上の櫓(やぐら)」を描いたもので、右カラムの「第1弾リポート」に掲載中の画像です。

リポートの中では両者の対比をよくお見せできなかったので、ここで改めてご覧いただきます。


 


ご覧のように、右の『大坂夏の陣図屏風』で天守の右側に描かれた櫓は、これまで本丸奥御殿の南東の櫓と考えられてきたものですが、左の絵のようなアングルで見てみますと、付段上にあった櫓とも考えられそうです。

※左の「絵」は、クリックしていただくと大きなサイズでご覧になれます。もしお気に召しましたら「壁紙」等にお使い下さい。)


さて、この左の絵で、櫓の下に斜めに設けられた石段と覆屋根は、例えば中井家蔵『本丸図』に示された石段に比べますと、格段に規模の大きいものです。

これには理由があるのですが、誠に恐縮ながら次回の季刊リポート「秀吉の大坂城・後篇」の中で“秀吉流天守台”とも言うべきものについて、まとめてご紹介する予定です。


また、天守直下の石垣をよくご覧になると、スロープを取り入れた構造で復元しております。

これは豊臣大坂城の天守台が、秀吉時代の姫路城天守台や、朝鮮出兵の本営・肥前名護屋城の天守台と「同じ構想」で築かれていた、と考えるための措置です。

この辺りについても、次回の季刊リポートでさらに詳しくご紹介したいと存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年12月14日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣大坂城・落城の劇的な瞬間とは?




豊臣大坂城・落城の劇的な瞬間とは?


ご覧いただいております季刊リポートは、文脈の関係から盛り込めなかった話題が色々とあるため、そうしたお話を一連でご紹介してまいりたいと思います。

その一回目は、秀吉の遺児・秀頼の大坂城が、ついに落城した劇的な瞬間についてです。


これまで、豊臣時代の大坂城を復元したCGやイラスト、模型等々は、どうしても最盛期の城の姿を再現することになりがちでした。

そのため、大坂夏の陣で城が落ちた時、城内がどういう状況だったか、という観点から描かれた画像などはあまり例がありません。



そこで例えば、右カラム「渾身の第1弾リポート」で(クリックだけで)すぐにもご覧いただける例示の画像ですが、これは秀吉の遺児・秀頼の時代、しかも大坂陣の直前の状況を想定して描いてみた絵です。

まず筆頭に目立つ「秀頼再建天守」に関してはリポートそのものをご覧いただくとして、今日は、その下に鳥居と殿舎が見える「豊国廟(ほうこくびょう/とよくにびょう)」に、是非ご注目いただきたいのです。


この大坂城内の豊国廟こそ、落城の瞬間を想像する上で、欠くことの出来ない重要な存在だからです。


豊国廟とは、秀吉の死去のあと、京都の阿弥陀ケ峰に建立された秀吉の霊廟ですが、その後、十数年を経て、豊臣家に対する徳川幕府の圧迫が強まり、いよいよ風雲急を告げる事態となった時、大坂城の山里丸に「分霊」された社です。

その建立はまさに大坂陣の前年、慶長18年(1613年)春のことでした。


建立の様子は、それに関わった神竜院梵舜の日記に詳しい記録がありますが、例えば「仮殿ヨリ本社迄間廿五間アリ」等と書かれています。

つまり仮殿から本社まで「25間」50m近くもある、壮大な社だったわけです。


現に、山里丸跡のその辺りからは、「参道」と見られる計20間ほどの花崗岩の敷石が、昭和初期に発見されています。


「幕府vs豊臣」の緊迫した情勢下で、秀頼や淀殿がこうした豊国廟を城内に遷宮したのは、もちろん京都の豊国廟に詣でることはもはや不可能、といった事情もあるでしょうが、豊臣家の行く末に対する悲壮な覚悟もあったものと思われます。

そして翌年、大坂陣の開戦後まもなく行われた幕府方の砲撃は、この豊国廟に参詣する秀頼(十二月十八日、秀吉の命日)をねらって打ち込まれたものです。


それでは、大坂城がついに炎上・落城し、豊臣家が滅亡にいたる時、秀頼らのいた場所はどのようであったかを、次の図で想像してみて下さい。



ドラマや映画でくりかえし描かれた秀頼と淀殿らの自害(自決)のシーンは、たいがい粗末な蔵の中が舞台になりましたが、それは図の左上、「糒庫(ほしいいぐら)」に当たります。(別称「朱三矢倉」「糒矢倉」)

広さは「二間五間之庫」(『駿府政事録』)と伝わっていますので、4m×10mたらずの狭い場所で、ここに30名あまりの秀頼主従が立てこもったわけです。


そしてここはご承知のとおり、『おきく物語』の中で、落城の二三日前から入る支度がしてあったと記された場所です。


では何故、この「蔵」だったのでしょうか??

それは上の図でも一目瞭然、「豊国廟」つまり亡き秀吉の膝元で最期を迎えるためであって、「秀頼再建天守」も含めて、これらのすべてが寄り添うようにして建てられていたのです。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年12月05日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!渾身のリポートが完成しました!!




新設HPとリポートが完成です!!


長らくお待たせしましたリポート2件、思えば2年がかりの労作です。どうぞご覧になってください。

(※そしてやはり1件は有料とさせて頂きました。今後とも宜しくお願い申し上げます。)

現在、疲労の極に達しておりますので、また改めまして、ブログ記事の方も全面展開してまいりたいと存じます。感無量です…



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年11月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城に七色の天守はあったか?




大坂城に「七色」の天守はあったか?


右カラムの季刊リポート2件は、ただいま12月1日ごろの完成をめざして必死の努力を続けております。


さて、このブログでお話したい話題は何百とあるのですが、季刊リポートの完成の前に、城郭マニア向けの深い話題をスタートさせるわけにもいかず、今日はこれまでの「リポートこぼれ話」に関連したことをチョットお話します。





写真は#2でご紹介した故・櫻井成廣先生による大坂城天守の大型模型です。

初めてご覧になった方は、屋根の色に驚かれると思うのですが、これは遺された文献をもとに櫻井先生が復元考証したものです。


例えば城戸久・藤岡道夫・古川重春・大類伸・鳥羽正雄といった城郭研究史上のお歴々が名を連ねた『日本城郭全集』(1960年刊)の櫻井先生の文章を引用しますと、「屋根はモンタヌスによると六層あり、瓦は最上層のが金、その下のは銅、その下二層は鉛、最下の二層は石で出来ていた」と書かれています。

つまり写真の屋根は、上から金箔瓦の金色、銅瓦の緑青色、鉛瓦の鉛色、石瓦の石の色という、なかなかお目にかかれないカラフルな建物だったという考証の結果なのです。


文中の「モンタヌス」とはもちろん、1669年(江戸初期)にオランダで出版された『モンタヌス日本史』のことですが、その該当する記述の前後はこうなっています。

「第一の屋は窓及入口の上に斗出し、第一階の上に尚五階あり、上に進むに随ひて狭小なり。第二階には七室あり、第三階も同数なれども室小なり。第四階は六室、第五階は五室、第六階は四室を有す。第一第二の屋背は石を以て葺き、第三第四は鉛、第五は銅、第六は金の瓦なり。他の空地に於ても同様に屋背の飾ある建物あり。」
(和田萬吉訳1924年!刊より/いまも我々が見られる訳文は旧仮名使いのみ)


そして櫻井先生の模型はさらに、屏風絵に描かれた大坂城天守を参考にしながら、板壁の色として黒色と青紫(藤鼠)色、欄干の色として朱色、という三色が加わり、なんと「七色の天守」(!)になったのでした。


ところが「モンタヌス」の屋根の記述は、他の史料にそうした記述や描写が一切無いため、その後の城郭研究でほぼ完全に否定されて、今ではカラフルな模型もまた「幻」の彼方に追いやられてしまった格好です。



それでは「金・銅・鉛…」の色鮮やかな天守像は、いったいどこから来たのでしょうか?

その原因として「階の名称が誤伝した」可能性が言われて来ました。

例えば、豊臣秀吉の大坂城天守は、登閣した大名の毛利輝元が日記の中で「金之間、銀の間、銭の間、御宝物の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重也」と書いていて、各階の名称がやや似ていたことが原因だった可能性はあります。

これは、徳川幕府が再建した(四代目の)天守でも、階の名称が同じような呼び方になっていて、さらに誤伝を生み易かったとも言えます。
確かにそうした考え方は有力でしょう。



ですがもう一つ、可能性が潜んでいるのではないかと、自分では密かに考えています。

と申しますのは、天守の歴史上、確実に、色とりどりの瓦で屋根を葺いた天守がもう一つあり、それが徳川家康の駿府城天守であることは、城郭ファンにとっては常識です。
最上重から下へ「金箔瓦」「銅瓦」「鉛瓦」「土瓦」と、実に様々な瓦が使われていました。

このように、質実を説いた本人の言説とはウラハラに、「天守の華やかさ」という点では家康もまったく負けていなかったのです。





ここで一つ、想像力をたくましくして、もし例えば「徳川家康ゆかりの大坂城天守」があったなら…… というふうに考えたとき、突如として「或る天守」が脳裏に浮かぶのです。

それは前回も申し上げた「西ノ丸天守」……



この先のお話は、また季刊リポートなどで是非ともご紹介したく存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年11月07日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!リポートこぼれ話#3




大坂城には「五代」におよぶ天守建造の歴史があった


右カラムで「渾身の第1弾リポート」「驚異の2008冬季リポート」を予告中ですが、歴史ファンの方から「そんなこと言うなら大坂城にはいくつ天守があったんだぁ?」という声が聞かれそうなので、チョットご紹介します。


いま城郭研究における定説では、大坂城には、現状の復興天守閣も含めて「三代」にわたる天守建造の歴史があったとされています。

「初代」は豊臣秀吉が創建した天守、「二代目」は徳川幕府が再興した天守、そして「三代目」が昭和初期に復興された現在の天守閣です。



ですが、右カラムのリポートは、そうした定説に真っ向からあらがうものです。

と申しますのは、このリポートの大前提は、まず秀吉の遺児・豊臣秀頼(とよとみのひでより)が豊臣時代に自らの天守を再建していた、という仮説に基づくものですし、それだけに留まらず、なんと大坂城には「五代」に及ぶ天守建造の歩みがあったと考えているからです。


   1.豊臣秀吉の創建天守(天正13年1585年完成)
         ※慶長伏見地震による被災(慶長元年1596年)
                ※秀吉死没(慶長3年1598年)

   2.西ノ丸天守(慶長5年1600年頃完成)
       
   3.豊臣秀頼の再建天守(慶長8年1603年以降の完成) 
         ※大坂夏の陣による焼失(慶長20年1615年)

   4.徳川幕府による再建天守(寛永4年1627年完成) 
             ※落雷による焼失(寛文5年1665年)

   5.現在の復興天守閣(昭和6年1931年竣工)     


「初代」の豊臣秀吉の創建天守は「2008冬季リポート」でご紹介する予定の天守ですし、「三代目」豊臣秀頼の再建天守は「第1弾リポート」で取り上げている天守です。

また「四代目」徳川幕府による再建天守は、天守台と指図類が残っていて、徳川特有の層塔型の天守であったことが判っています。

そして「五代目」が現在の大阪城天守閣であり、住友家など大阪市民の浄財をもとに、古川重春先生の設計による鉄骨鉄筋コンクリート造で、四代目の天守台の上に建設されました。




さて今日は、この年表の「二代目」西ノ丸天守に是非ご注目いただきたいのです。

西ノ丸天守とは、大坂城二ノ丸西端の西ノ丸にあったと伝わる天守で、有名な石田三成の徳川家康弾劾状によって、その存在が知られたものです。

また松平家忠の日記『家忠日記』によると、この西ノ丸天守は、秀吉死没の翌年、徳川家康が大坂城の西ノ丸に入るとき、増田長盛ら豊臣政権の奉行衆が家康を迎えるために建てたと記されていて、しかも『卜斎記』『落穂集』では、それが藤堂高虎の指図で五重の天守として建てられたように書かれています。



そうした西ノ丸天守は、これまで城郭研究の場では殆どかえりみられず、言わば「大坂城天守にはカウントされない」ような扱いを受けて来ました。

しかし上の年表をご覧いただくと、時系列的にみると、西ノ丸天守とは、家康のための天守と言うよりも、むしろ慶長伏見地震によって本丸天守が被災したのち、豊臣秀吉の遺命に基づいて建造された「震災後復興天守」であった可能性も指摘できるのではないでしょうか?



これはすなわち、秀吉死没の前後、大坂城には建造中の西ノ丸天守しか無かった(!?)という状況を示唆しているのかもしれません。



石田三成は例の弾劾状で、西ノ丸天守が「ご本丸のごとく」建造された点を非難しているだけであって、大坂城に天守が二つ(本丸天守と西ノ丸天守)あったとは記していません。

したがって三成が憤激してみせた時、大坂城にあった天守は「西ノ丸天守」だけであって、そのために西ノ丸がまさに「ご本丸のごとき」様相になったのであり、本丸には天守が無かったという可能性は、充分にありうるものと思われるのです。



正直申しまして、かつて盛んに書かれた「大坂城に並び立つ二つの天守」というのは、本当か??という印象で、どうにも納得できません。

もしその通りなら、徳川家康は、本丸天守に明らかに見劣りする“急造天守”に甘んじたのでしょうか?

増田長盛ら奉行衆は、そのような“代物”で、豊臣家を支える筆頭大名・徳川家康を本気で迎えたのでしょうか?


それよりは「大坂城にはもはや西ノ丸天守しか無かったのだ」と考えた方が、あらゆる点が(徳川家康の心理としても)合理的に説明できるように思われてならないのです。



かつて『大坂夏の陣図屏風』に描かれた四重櫓が「西ノ丸天守ではないか」という指摘もありましたが、ならば何故、天守とこの四重櫓は「ほとんど相似形」の建築として描かれているのでしょうか。

「天守が二つ」の観点に立つなら、それらは建造時期も、施主も、そしておそらく大工も異なるはずなのに…。


(※「それは所詮、屏風絵だから」などと言ってはなりません。それでは『大坂夏の陣図屏風』の建築描写はすべて根底から疑わしくなってしまいます。)


やはり四重櫓は四重櫓であり、大坂陣の配陣図などにある「物見櫓」か「太鼓櫓」に相当するのではないかと思われます。



ではここで、西ノ丸天守が立派に「二代目」大坂城天守であることを示す(城郭ファンには興味深い)ある事実を指摘しましょう。





ご覧のように、自らの余命を察した秀吉が、幼子・秀頼の未来を守るため普請した外郭線「惣構(そうがまえ)」の、まさに中心点(!)に「西ノ丸天守」はあったのです。


この西ノ丸天守については、さらなる新視点や大胆仮説と共に、いずれ季刊リポートで詳しく取り上げたいと考えています。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年10月27日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!リポートこぼれ話#2




いまだに解明しきれない豊臣時代の大坂城天守

完成間近のリポートに関連して、ある歴史的な「混迷」についてチョットご紹介します。


下に並べてみたのは、幻の豊臣時代の大坂城天守について、その復元研究の歩みが分かりやすく表紙等に描かれた本です。







左の本は、1936年(昭和11年!!)に豊臣時代の本丸平面図(『城塞繹史』)を発見した故・櫻井成廣先生が、自作の大型模型の写真を載せた本です。

この模型の写真は、1970年の著作『豊臣秀吉の居城 大阪城編』等にも同じ写真が載っています。

櫻井先生は『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』という二つの屏風絵に描かれた天守を“融合”させて、写真のような復元をしました。
(※下に拡大写真あります)



中央の本は、昭和50年代に、かの安土城天主の復元論争(vs内藤晶先生)で知られた、建築家の故・宮上茂隆先生による復元です。

宮上先生は、上記の二つの屏風絵のうち、『大坂夏の陣図屏風』がより正しい描写であると提唱し、それに基づいた復元をしました。




そして右の本は、いま城郭研究でめざましい活躍を見せている、広島大学の三浦正幸先生による復元です。

三浦先生は、上記の二つの屏風絵の天守が、あまりにも建築的特徴が異なっている、という「矛盾」に対処するため、二種類の復元図を示しておられます。

表紙のCG画像は、その二つのうち『大坂夏の陣図屏風』に基づく方の復元ですが、上記の宮上先生の復元ともかなり違うものになっています。




このように豊臣時代の大坂城天守の復元においては、二つの屏風絵の「矛盾」を克服するために、いずれの城郭研究者の方々も、多大なる労力を費やして来たのです。

そして結局のところ、いまだに、この矛盾を解決する決定的な論拠は見出されていません。



右カラムにある「渾身の第1弾《無料》リポート」「驚異の2008冬季リポート」は、そうした大坂城天守の復元をめぐる紆余曲折を、一気に整理し直そうという、大胆不敵な試みでもあります。

城郭ファンはもちろん、城郭研究者の方々にとっても“コロンブスの卵”のような仮説と指摘を多数盛り込んでおります。近日公開!!




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年10月17日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!リポートこぼれ話#1



新設HPやリポートそのものの完成を急いでいる最中に、「こぼれ話」もないだろうとは思いますが、ブログ画面でご覧の「絵」についてチョットご紹介します。

これらの天守の絵はphotoshopで描いております。


サイトを作ろうと考え始めた2年前、3DのCGを勉強すべきか、2Dで描いていこうか迷った時期がありましたが、参考本にphotoshop1本で建築パースを描いている記事があり、そのレトロ調が「いにしえの天守」を蘇らせるにイイのではないかと感じました。



実際の制作は、ご覧のように、長年作ってきた333分の1スケールの城郭模型(写真は制作途中のもの)をベースにして画像化しています。

城郭マニアの方にはすぐ見抜かれてしまうと思いますが、細かいところで色々と修正しながら描きました。

極楽橋から入った奥の石塁、淀殿の屋敷、豊国廟の鳥居、菱櫓のサイズなど、模型と画像には制作の時期差があるため、自らの研究成果が色々と反映されています。

(※詳しくは第1弾《無料》リポートでご紹介しています。完成あと一歩です!)



結果的に、2年前にphotoshopを選択したのは良かったのではと思っています。

幼少期にプラモデル世代だった私にとっては、出来上がった天守の絵が、プラモデル箱で馴染んだ小松崎茂さんの絵のようにも見えてくるからです。

今後さらに描いていく予定の天守は、いずれも現存しないものばかりを予定しています。

そして、それらは建築的復元というよりは、安土桃山期から江戸初期の武家や領民にとって「天守はどういう存在として見えたか?」を主眼に描きたいと努めています。

その意味でも、今後もphotoshopのレトロ調を維持しつつ、ある程度の枚数が集積したあかつきには、「天守画」というジャンルとして集大成できたら、と願望はふくらむ一方です。



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年10月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!リンク集をアップ



リポートや新設HPの完成を急いでおりますが、並行してブログの工事も進行中です。
アップしたリンク集はさらに充実を図り、今後は、

「現存天守の鑑賞ポイント写真集」

「天守台の鑑賞(!?)ポイント写真集」

「リポートこぼれ話」

「インタビュー にっぽん城郭研究者 列伝」
 (…奇しくも同じ住宅地の故・櫻井成廣先生をはじめ、
   草創期の研究者から現役バリバリの先生方まで)


といった記事を展開してみたいと
考えております。


【Myリンク集】は表ページにあります。



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年10月09日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!お知らせ



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

公開が当初の予告より一ヶ月以上遅れております。技術的な課題クリアのための新設HPとの連動工事は、ただいま最終盤です。近日公開予定!!


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