城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2008/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2008年11月
           
           

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2008年11月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城に七色の天守はあったか?




大坂城に「七色」の天守はあったか?


右カラムの季刊リポート2件は、ただいま12月1日ごろの完成をめざして必死の努力を続けております。


さて、このブログでお話したい話題は何百とあるのですが、季刊リポートの完成の前に、城郭マニア向けの深い話題をスタートさせるわけにもいかず、今日はこれまでの「リポートこぼれ話」に関連したことをチョットお話します。





写真は#2でご紹介した故・櫻井成廣先生による大坂城天守の大型模型です。

初めてご覧になった方は、屋根の色に驚かれると思うのですが、これは遺された文献をもとに櫻井先生が復元考証したものです。


例えば城戸久・藤岡道夫・古川重春・大類伸・鳥羽正雄といった城郭研究史上のお歴々が名を連ねた『日本城郭全集』(1960年刊)の櫻井先生の文章を引用しますと、「屋根はモンタヌスによると六層あり、瓦は最上層のが金、その下のは銅、その下二層は鉛、最下の二層は石で出来ていた」と書かれています。

つまり写真の屋根は、上から金箔瓦の金色、銅瓦の緑青色、鉛瓦の鉛色、石瓦の石の色という、なかなかお目にかかれないカラフルな建物だったという考証の結果なのです。


文中の「モンタヌス」とはもちろん、1669年(江戸初期)にオランダで出版された『モンタヌス日本史』のことですが、その該当する記述の前後はこうなっています。

「第一の屋は窓及入口の上に斗出し、第一階の上に尚五階あり、上に進むに随ひて狭小なり。第二階には七室あり、第三階も同数なれども室小なり。第四階は六室、第五階は五室、第六階は四室を有す。第一第二の屋背は石を以て葺き、第三第四は鉛、第五は銅、第六は金の瓦なり。他の空地に於ても同様に屋背の飾ある建物あり。」
(和田萬吉訳1924年!刊より/いまも我々が見られる訳文は旧仮名使いのみ)


そして櫻井先生の模型はさらに、屏風絵に描かれた大坂城天守を参考にしながら、板壁の色として黒色と青紫(藤鼠)色、欄干の色として朱色、という三色が加わり、なんと「七色の天守」(!)になったのでした。


ところが「モンタヌス」の屋根の記述は、他の史料にそうした記述や描写が一切無いため、その後の城郭研究でほぼ完全に否定されて、今ではカラフルな模型もまた「幻」の彼方に追いやられてしまった格好です。



それでは「金・銅・鉛…」の色鮮やかな天守像は、いったいどこから来たのでしょうか?

その原因として「階の名称が誤伝した」可能性が言われて来ました。

例えば、豊臣秀吉の大坂城天守は、登閣した大名の毛利輝元が日記の中で「金之間、銀の間、銭の間、御宝物の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重也」と書いていて、各階の名称がやや似ていたことが原因だった可能性はあります。

これは、徳川幕府が再建した(四代目の)天守でも、階の名称が同じような呼び方になっていて、さらに誤伝を生み易かったとも言えます。
確かにそうした考え方は有力でしょう。



ですがもう一つ、可能性が潜んでいるのではないかと、自分では密かに考えています。

と申しますのは、天守の歴史上、確実に、色とりどりの瓦で屋根を葺いた天守がもう一つあり、それが徳川家康の駿府城天守であることは、城郭ファンにとっては常識です。
最上重から下へ「金箔瓦」「銅瓦」「鉛瓦」「土瓦」と、実に様々な瓦が使われていました。

このように、質実を説いた本人の言説とはウラハラに、「天守の華やかさ」という点では家康もまったく負けていなかったのです。





ここで一つ、想像力をたくましくして、もし例えば「徳川家康ゆかりの大坂城天守」があったなら…… というふうに考えたとき、突如として「或る天守」が脳裏に浮かぶのです。

それは前回も申し上げた「西ノ丸天守」……



この先のお話は、また季刊リポートなどで是非ともご紹介したく存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2008年11月07日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!リポートこぼれ話#3




大坂城には「五代」におよぶ天守建造の歴史があった


右カラムで「渾身の第1弾リポート」「驚異の2008冬季リポート」を予告中ですが、歴史ファンの方から「そんなこと言うなら大坂城にはいくつ天守があったんだぁ?」という声が聞かれそうなので、チョットご紹介します。


いま城郭研究における定説では、大坂城には、現状の復興天守閣も含めて「三代」にわたる天守建造の歴史があったとされています。

「初代」は豊臣秀吉が創建した天守、「二代目」は徳川幕府が再興した天守、そして「三代目」が昭和初期に復興された現在の天守閣です。



ですが、右カラムのリポートは、そうした定説に真っ向からあらがうものです。

と申しますのは、このリポートの大前提は、まず秀吉の遺児・豊臣秀頼(とよとみのひでより)が豊臣時代に自らの天守を再建していた、という仮説に基づくものですし、それだけに留まらず、なんと大坂城には「五代」に及ぶ天守建造の歩みがあったと考えているからです。


   1.豊臣秀吉の創建天守(天正13年1585年完成)
         ※慶長伏見地震による被災(慶長元年1596年)
                ※秀吉死没(慶長3年1598年)

   2.西ノ丸天守(慶長5年1600年頃完成)
       
   3.豊臣秀頼の再建天守(慶長8年1603年以降の完成) 
         ※大坂夏の陣による焼失(慶長20年1615年)

   4.徳川幕府による再建天守(寛永4年1627年完成) 
             ※落雷による焼失(寛文5年1665年)

   5.現在の復興天守閣(昭和6年1931年竣工)     


「初代」の豊臣秀吉の創建天守は「2008冬季リポート」でご紹介する予定の天守ですし、「三代目」豊臣秀頼の再建天守は「第1弾リポート」で取り上げている天守です。

また「四代目」徳川幕府による再建天守は、天守台と指図類が残っていて、徳川特有の層塔型の天守であったことが判っています。

そして「五代目」が現在の大阪城天守閣であり、住友家など大阪市民の浄財をもとに、古川重春先生の設計による鉄骨鉄筋コンクリート造で、四代目の天守台の上に建設されました。




さて今日は、この年表の「二代目」西ノ丸天守に是非ご注目いただきたいのです。

西ノ丸天守とは、大坂城二ノ丸西端の西ノ丸にあったと伝わる天守で、有名な石田三成の徳川家康弾劾状によって、その存在が知られたものです。

また松平家忠の日記『家忠日記』によると、この西ノ丸天守は、秀吉死没の翌年、徳川家康が大坂城の西ノ丸に入るとき、増田長盛ら豊臣政権の奉行衆が家康を迎えるために建てたと記されていて、しかも『卜斎記』『落穂集』では、それが藤堂高虎の指図で五重の天守として建てられたように書かれています。



そうした西ノ丸天守は、これまで城郭研究の場では殆どかえりみられず、言わば「大坂城天守にはカウントされない」ような扱いを受けて来ました。

しかし上の年表をご覧いただくと、時系列的にみると、西ノ丸天守とは、家康のための天守と言うよりも、むしろ慶長伏見地震によって本丸天守が被災したのち、豊臣秀吉の遺命に基づいて建造された「震災後復興天守」であった可能性も指摘できるのではないでしょうか?



これはすなわち、秀吉死没の前後、大坂城には建造中の西ノ丸天守しか無かった(!?)という状況を示唆しているのかもしれません。



石田三成は例の弾劾状で、西ノ丸天守が「ご本丸のごとく」建造された点を非難しているだけであって、大坂城に天守が二つ(本丸天守と西ノ丸天守)あったとは記していません。

したがって三成が憤激してみせた時、大坂城にあった天守は「西ノ丸天守」だけであって、そのために西ノ丸がまさに「ご本丸のごとき」様相になったのであり、本丸には天守が無かったという可能性は、充分にありうるものと思われるのです。



正直申しまして、かつて盛んに書かれた「大坂城に並び立つ二つの天守」というのは、本当か??という印象で、どうにも納得できません。

もしその通りなら、徳川家康は、本丸天守に明らかに見劣りする“急造天守”に甘んじたのでしょうか?

増田長盛ら奉行衆は、そのような“代物”で、豊臣家を支える筆頭大名・徳川家康を本気で迎えたのでしょうか?


それよりは「大坂城にはもはや西ノ丸天守しか無かったのだ」と考えた方が、あらゆる点が(徳川家康の心理としても)合理的に説明できるように思われてならないのです。



かつて『大坂夏の陣図屏風』に描かれた四重櫓が「西ノ丸天守ではないか」という指摘もありましたが、ならば何故、天守とこの四重櫓は「ほとんど相似形」の建築として描かれているのでしょうか。

「天守が二つ」の観点に立つなら、それらは建造時期も、施主も、そしておそらく大工も異なるはずなのに…。


(※「それは所詮、屏風絵だから」などと言ってはなりません。それでは『大坂夏の陣図屏風』の建築描写はすべて根底から疑わしくなってしまいます。)


やはり四重櫓は四重櫓であり、大坂陣の配陣図などにある「物見櫓」か「太鼓櫓」に相当するのではないかと思われます。



ではここで、西ノ丸天守が立派に「二代目」大坂城天守であることを示す(城郭ファンには興味深い)ある事実を指摘しましょう。





ご覧のように、自らの余命を察した秀吉が、幼子・秀頼の未来を守るため普請した外郭線「惣構(そうがまえ)」の、まさに中心点(!)に「西ノ丸天守」はあったのです。


この西ノ丸天守については、さらなる新視点や大胆仮説と共に、いずれ季刊リポートで詳しく取り上げたいと考えています。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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