城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (263)



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2009年12月
   
   

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2009年12月31日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!2009緊急リポートをアップしました!!





2009緊急リポートをアップしました!!


年の瀬も押し詰まった今宵、ようやく新リポートをお届けできます。

新解釈による『天守指図』復元案
〜安土城天主は白壁の光り輝く天守だった〜


どうぞ上のバナーからご覧下さい。


リポートは年に一回でも難しいものであると知りました。
思えば、前回は2年がかりでしたし…

「秀吉の大坂城・後篇」は2010年に改めて完成いたします。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年12月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!2009緊急リポートのお知らせ





2009緊急リポートのお知らせ


ただ今、大晦日12月31日中のアップを目指して、

2009緊急リポート
新解釈による『天守指図』復元案
〜安土城天主は白壁の光り輝く天守だった〜


の作成中です。
ご自由にご覧になれますので、是非ともご期待下さい。








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2009年12月21日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か?





仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か?


「懸造」が分かりやすい郵便切手の清水寺


前回、安土城天主台の南西隅で発見された礎石列について、その上に、天主側から張り出した「懸造(かけづくり)」がそびえていたのでは? という推測を申し上げました。

「清水の舞台のような」とも申し上げたのですが、京都の清水寺本堂のものは、そもそも何のための設備かと確認してみますと、寺のホームページには<舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」で、両袖の翼廊は楽舎である>とあります。


こうした「舞台」の意味を織田信長はどう考えていたか? ということも興味深い問題で、例えばこんな壁画が、中国・山西省の岩山寺に遺されているそうです。


物語上の楼閣を描いた岩山寺の壁画/12世紀の宮廷画家・王逵(おうき)筆


ご覧のとおり、この壁画では楼閣の左側に「宴台」が描かれていて、しかも楼閣自体は当サイトが提起している「十字形八角平面」をしています。

こうした中国の建築スタイルが、ひょっとして、何らかの方法で日本の信長の目に触れていたら… と思うと、安土城天主の成り立ちについても、アレコレと想像がふくらみます。





また問題の礎石列の場所からは、土間と「床」をもつ建物の痕跡も発見されていて、申し上げた「懸造」は、そう単純な形ではなかったことを、ここで補足しておきたいと思います。


それはどういう形かと申しますと、懸造の柱の間に、幅5間×奥行1間ほどの細長い建物が、天主台を背に、西(図では右)を向いて組み込まれていたようなのです。


そのすぐ北隣(上)には、西から伝本丸に入る最後の門が建っていたと考えられていて、各地の城をまわった城郭ファンの“素朴な感覚”から見れば、それは「番所」の類ではないかと感じられるような建物です。

しかもそこからは、城の焼失前は柄が完備していたはずの「鍬先(くわさき)」4個や、「十能」(火のついた炭を運ぶスコップのような道具)6個も発見されたそうで、日夜そこに詰めた番兵たちの常備品として、そういう用具類も置かれた番所の姿が想像できそうです。


このように足下に番所を組み込んだ「懸造」は、まさに上と下から、登城者に“にらみ”を効かせた構造物だったのかもしれません。


(※ちなみに、これが三浦正幸先生のおっしゃる「巨大な木造の階(きざはし)」ではないとしますと、伝二の丸にはどう上がるのか? という問題については、滋賀県の平成12年度の発掘調査報告に「二の丸石垣には改修の痕跡が認められることから、当初は石段等の出入口施設が存在していた可能性も残されている」とあります。)



伝二の丸の上段にある信長廟


さて、その伝二の丸と天主の間に、タコ足状の階段橋(登渡廊)の1本が伸びていたかもしれない、という肝心のお話に移りましょう。

伝二の丸は(前回も話題の)「殿主」「南殿」「紅雲寺御殿」のいずれかがあったと言われ、その判定には発掘調査が欠かせないはずですが、残念ながらここには「御廟」(信長廟)が現存していて、発掘が行われたことは一度も無く、答えが永遠に出ない可能性もささやかれています。

中に立ち入れないため定かではありませんが、遠目には、かなり大きな柱痕(?)のある石も地表に見え、いかにも大規模な建物があったように思われてなりません。

(※例えば上の写真の赤丸内の石!)


もしこのまま永久に調査されないのなら、これはもう、あらゆる可能性を申し上げてもバチは当たらないだろう、ということで、是非ともお伝えしたいのが、お馴染みの『天守指図』の三重目にある“奇妙な壁面の表示”なのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』三重目


ご覧のように、三重目の西側(伝二の丸側)の赤丸の部分に、『天守指図』でも他には見られない描き方の壁(幅1間)があります。

ここがどういう場所なのかを知るため、『信長記』『信長公記』類の「安土御天主之次第」にある三重目の各部屋を割り当ててみますと、驚きの事実が浮上します。





なんと、問題の壁のすぐ内側には、「口に八畳敷の御座敷これあり」と記された部屋が当てはまるのです。

正確を期すため、「安土御天主之次第」三重目の全文をご覧いただきますと、まず南西の隅(図では右上)から各部屋の紹介が始まり、ぐるっと左回りで一周した最後に「口に八畳〜」の部屋が来ることが分かります。


岡山大学蔵『信長記』(U類本)
… 三重目 十二畳敷 花鳥の御絵あり 則花鳥之間と申也
  別に一段四てう敷御座敷あり 同花鳥乃御絵アリ
  次南八畳敷賢人之間に ひょうたんヨリ駒之出たる所有
  東麝香之間八畳敷
  十二てう敷 御門上
  次八てう敷 呂洞賓と申仙人并ふゑつ之図あり
  北廿畳敷 駒之牧之御絵あり
  次十二てう敷 西王母之御絵有 西御絵ハなし
  御縁二段廣縁也
  廿四てう敷之御物置之御南戸有
  口に八てう敷之御座敷在之
  柱数百四十六本立也



そして「安土御天主之次第」全体を探してみても、「口に…畳敷」という独特の表現で記された部屋は、これ以外に一つもありません。

ということは、これは“天主内でも他に例のない場所”であった可能性も考えられ、「口に」と言うだけで分かる印象的な構造があったのではないでしょうか?


ちなみにこの場所は、天守台上からの高さが6m余、伝二の丸の地表からは11m余に及ぶ高所だったと思われます。

当ブログは、ここに、高低差11m余をつなぐ壮大な階段橋(登渡廊)として、仮称「表御殿連絡橋」が架けられていたのではないか、と申し上げたいのです。





このような連絡橋が存在したならば、それはまるで、信長が地上(の御殿)に姿をあらわす「花道」か「天上界からの階段」のようです。

一方、それを天主の側から見ますと、「花道」ならぬ「御鈴廊下」と考えることも出来そうです。

つまりこの連絡橋は、後の江戸城で中奥と大奥をつなぎ、将軍だけが往来できた「御鈴廊下」の原形だったのかもしれない… といった妄想をもかきたてる、注目の舞台装置なのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年12月14日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城の天主台に「清水の舞台」が!?





安土城の天主台に「清水の舞台」が!?


3本の階段橋と懸造が天主台上から突き出していた?(当図は上が南)


今から40年前に内藤昌先生が提起した安土城天主の階段橋(引橋)をめぐって、世の流れの紆余曲折ぶりをご紹介しています。

今回もその続きで、上図のような仮説もご用意しているのですが、まず前回からの一連の図に関して、初めに一つ申しますと、天主脇の「行幸殿」についても、近年また紆余曲折の動きが出ています。

それは、この御殿がそもそも清涼殿と同プランではなく(!)「御幸の御間」(行幸殿)でもなかった、という新説が飛び出すほどの状態です。



その最初の兆候は、滋賀県の発掘調査で活躍された木戸雅寿先生が、現在の「伝本丸」「伝二の丸」「伝三の丸」と天主周辺が、まるごと「本丸」であったはずだとして、次のように記したあたりから始まりました。


木戸説の本丸の範囲(当図は上が南)


東西南北の四つの門で閉じられた空間である本丸は、城のなかで中枢をなす部分である。
ここには天主を取り巻くように、様々な建物が配置されていた重要な場所で、『信長公記』にみられる「白洲」「殿主」「南殿」「紅雲寺御殿」等の建物はすべてこの範囲に存在すると考えられる。
(中略)
「南殿」を天主から見て南に建つ建物とすると、今いうところの「伝本丸御殿」しかない。

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)


というように、木戸先生は(「御幸の御間」の詳しい位置は示さずに)伝本丸の御殿を『信長公記』の「南殿」とされたのです。

木戸先生の指摘によれば、「南殿」は「なでん」と読み、その意味は「紫宸殿」らしい、ということ(『天下統一と城』)でした。

紫宸殿を「南殿」と呼ぶのは、まさに御所の南側正面で“南を向いて建つ”正殿だからでは… という風にも思えてならないのですが、西向きの伝本丸の御殿を「南殿」として、さらなる新説を提唱されたのが、広島大学大学院の三浦正幸先生でした。



伝本丸「南殿」と天主の復元CG(『よみがえる真説安土城』表紙)



安土城に三つあった本丸御殿のなかでも南殿は特殊な御殿であった。まるで路地裏に建っているような、住み心地が悪そうな御殿であったからだ。
南殿の南正面には、狭い通路を挟んで、本丸の南面を守る多門(多聞櫓)が横たわる。しかも、その多門は高さ約1mの石塁上に載っているので、南殿の主殿舎は日当たりも風通しも悪い。見晴らしなぞ問題外である。

(中略)南殿はそれらの建物や天主の間の窪地にすっぽりと落ち込んだような御殿であった。
そうした立地上の特徴からすると、この南殿は信長の奥御殿であったと考えられる。南殿の南西部には、東西八間(七尺二寸間で一七・五m)、南北七間の主殿舎があり、おそらく、そこが信長の日常生活の場であったと思われる。


(三浦正幸『よみがえる真説安土城』2006)


なんと伝本丸の御殿は、清涼殿よりずっとずっと小さな「信長の日常生活の場」であって、したがって「行幸殿」でも「御幸の御間」でもなんでもなく、それらは伝二の丸にあったはずだ、という、滋賀県の“歴史的発見”を全面否定してしまう新説だったのです。


それまで言われて来た「安土城天主に信長は住んだ」という通説も吹き飛ばすほどの内容でしたが、ただ復元CGをよく見ますと、その「南殿」は、発掘調査時に報告された「二階レベルにまで達するほどの高床を支える特異な構造」というほどの高い床では無いようですし、伝三の丸の御殿と「二階部分で」棟続きでもありません。

例えば先程の木戸先生の本では…


伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったり一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。(中略)
(紅雲寺御殿は)宴会が催されるような催事の場所である。「伝三の丸跡」はとても景色のよいところなのでぴったりかもしれない。

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)


とあるように、「各建物の高さ」についての大きな見解の相違が、両先生の間に(もしくは考古学と建築学の間に!?)に出来てしまったようです。

この新たな紆余曲折は(まるで二つの土俵で一つの相撲を取るみたいな話で)しばらく見守る以外になく、当ブログはこの件に関しては、ひとまず「清涼殿と同プラン」という考古学サイドに立って、お話を進めてまいります。



天主台南西下(図では右上)のナゾの礎石列



さて、天主台に関しても、滋賀県の発掘調査は新しい発見をもたらしていて(タコ足状の階段橋の前に)是非お伝えしたいのが、天主台南西下で発見されたナゾの礎石列の“もう一つの解釈方法”です。


前述の三浦先生はこれを、伝二の丸に上がる「巨大な木造の階(きざはし)」と解釈され、先程の説の強力な要素として考えておられますが、当ブログ(私)としては、礎石列についての次の文章がたいへん気になるのです。



調査範囲が全体の三分の一ということもあり全体の正確な構造はわかっていないが、天主の南西隅にあたる部分に半間間隔で大きな柱が立ててあること、寄掛け柱の焼けた痕跡が天主台石垣に認められること、柱の大きさから、この建物は二階建て以上の重量のある大規模な建物になると考えられる。
おそらく、二階部は伝二の丸跡と同一フロアーとなるような一体形の建物と考えられる。
場合によっては天主の張出しも考えられるであろう。


(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)



一番気になるのはズバリ「寄掛け柱の焼けた痕跡」です。

何故なら、それが伝二の丸に上がる階(きざはし)の一部ならば、どうして「寄掛け柱」にするほど“天主台ぎりぎりに密着して”設けなくてはならなかったのでしょうか?


この疑問を解くためには、礎石列は逆に、天守台側から突き出した物(「天主の張出し」)の脚部であったか、それを兼ねた構造物ではないか、と解釈することも十分に可能のように思われます。

つまり、ここにはひょっとすると、清水の舞台のような「懸造」(かけづくり)がそびえていて、その上に、天主台上から続く「舞台」が、登城者を威圧的に見下ろしていたのではないでしょうか。





ご覧のような懸造の舞台は、以前の記事でも申し上げた「天主台上の空き地」(空中庭園)の一部として、南西に広がる安土城下を見渡す場としても、大いに機能したことでしょう。

さて、今回も紙数を費やしているうちに、あと2本の、タコ足状の階段橋を詳しくお話できそうにありません。申し訳アリマセン、次回こそ必ず!







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2009年12月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!タコ足状の階段を周囲に伸ばしていた安土城天主





タコ足状の階段を周囲に伸ばしていた安土城天主


洋書版『宇宙戦争』表紙(1913年)


いきなりこんな写真から始めたのは、現代人の目から見ますと、きっと多くの方が「まるで宇宙戦争のロボットみたい…」とおっしゃるような姿を、ひょっとすると織田信長の安土城天主はしていたかもしれない、というお話をしたいからです。


この話には、40年ほど前の内藤昌先生の天主復元に始まる、紆余曲折のストーリーが含まれていて、まずは城郭ファンお馴染みのこの絵からご覧下さい。


陶板壁画「安土・南蛮図屏風」部分(安土町城郭資料館蔵)


この絵は内藤先生の復元に基づいて描かれた安土城天主ですが、絵の中央下あたりに、天主と天主台下を直接に行き来できる階段橋があります。

この階段橋は、内藤先生の天主台跡の現地調査を経て考証されたもので、その後の“紆余曲折”をご理解いただくため、内藤先生の著書に掲載された実測図の一部を引用させてもらいますと…


内藤昌著『復元・安土城』掲載の実測図より(赤枠は天主台の東南隅の部分)



(※図は上が北東/赤青黒の筆文字は当ブログの補筆)


(天主台は)東南隅辺においては、東側へ三段にわたって下がっている。
まず上から第一段は、『天守指図』にある「東ノ御いゑろうかノみち」に照応するもので、じじつ、直下の本丸御殿跡で引橋脚柱礎石が発見されている。

(中略)中井忠重氏蔵の『名護(古)屋御城御差図』(元和元年頃)には本丸御殿奥より小天守台に「引はし」が記されているが、この安土城でも同様な施設があったわけである。

(内藤昌『復元・安土城』1994より)


すなわち実測図の「第一段」とされた場所が、陶板壁画の階段橋の上端(降り口)にあたり、そこから伝本丸の「御幸の御間(みゆきのおんま)」とされる行幸殿に向かって、階段橋(内藤先生の言う「引橋」)が斜めに伸びていたと考えられたのです。

しかも、その強力な裏付けになったのが実測図の「引橋脚柱礎石」であり、これはやがて、静嘉堂文庫蔵『天守指図』じたいの信憑性を支える“物証”の一つとも見なされました。 何故なら…


静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目(図は上が北)


この図にあるの天主台東南隅の石段がちょうど、問題の階段橋(引橋)の降り口にあたり、物証の礎石ともぴったり符合することになったからです。



ところが、世の流れは奇々怪々なもので、20年後に始まった滋賀県による大々的な発掘調査の結果、物証の「引橋脚柱礎石」は姿を消してしまった(!)のです。

事の次第をご理解いただくため、滋賀県の調査報告書に掲載された実測図をそのまま引用させてもらい、先の図面上にダブらせてみますと、驚きの実情が見えて来ます。


右下は『特別史跡安土城跡発掘調査報告11』掲載「天主台石垣下平面図」より


ご覧のとおり、「引橋脚柱礎石」は半分が「落石」と判定され、もう半分は、すでに痕跡も無かったのか、発掘トレンチの対象から外れているのです。

以来、『天守指図』の信憑性を支える“物証”の一つが消えてしまったせいか、内藤先生の復元はしだいに歴史雑誌等から姿を消し、代わって宮上茂隆先生ほかの復元が誌上をにぎわすようになったことはご承知のとおりです。


しかし当サイト(私)は、この天主台東南隅の階段橋はどっこい(笑)、その可能性が死んではいない(!!)と考えております。


と申しますのは、滋賀県の実測図をもう一度ご覧いただきたいのですが、図中に「抜跡?」と書かれた礎石跡が、問題の「引橋脚柱礎石」よりやや北側に、二ヶ所あることがお分かりでしょうか?



この東西に並んだ「抜跡?」にご注目いただきながら、試しに、この上に『天守指図』二重目の図をダブらせてみましょう。




ご覧のとおり、滋賀県の「抜跡?」は、『天守指図』の石段の描写のまま一段下がった所から、真東に伸びて行幸殿の角隅に“ぴったり着地する”ルート上にあるのです。


「抜跡?」はこのルートの北辺だけ(※問題の“落石”周辺が南辺ならば幅1間強)ですが、本来、天主と「御幸の御間」を直接につなぐ階段橋を設けるなら、こうしたルートの方が合理的と言えるのかもしれません。

何故なら、伝本丸の御殿(行幸殿)と同プランと言われる、慶長年間に造替された清涼殿(京都御所)を例にとった場合、そのルートにあたる場所には、なんと「長橋廊」と呼ばれた紫宸殿との連絡路が、当時もあったからです。


現在の長橋と清涼殿
 
(※江戸期の古制復興による再建/長橋の突き当りは年中行事の衝立)


つまり、問題の階段橋(引橋)を想定することで、天主と「御幸の御間」の位置関係は、御所の正殿・紫宸殿と清涼殿の関係に見立てることも可能になるのです。

かくして内藤先生が考証した階段橋(引橋)は、可能性が死んでいないどころか、新たな認識を生むきっかけにさえなりかねません。


そして実は、安土城天主には、このような階段橋が“あと二ヶ所”は存在したと思われ、詳細はまた次回、お話したいと存じます。






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2009年11月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ハイブリッド侍の古代回帰願望? 信長の心を読む





ハイブリッド侍の古代回帰願望? 信長の心を読む


長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)


信長は一番大事なことを見事に言わなかった、と以前の記事で申しましたが、有名な「永楽銭」の旗印についても、信長は一言も、説明らしき言葉を残していません。




この旗印、現代で言うなら、自衛隊が“巨大なドル紙幣”を隊旗に掲げて戦場に現れたようなものでしょう。

で、この旗印をめぐる信長の意図について、真正面から解き明かした論考はさすがに殆ど見かけません。


―――この謎解きのヒントは、「永楽銭」の意図が必ずしも“経済”にあったのではなく、“永楽帝”(明の第3代皇帝)にあったのだと考えますと、また別の推理も成り立ちそうです。


明の永楽帝(1360−1424)


と申しますのは、琵琶湖に大船を浮かべたり、総石垣の城を築いて七重の天主を建てたりした信長の行動は、鄭和(ていわ)の艦隊を派遣し、自らも遠征して明の最大版図を築き、広大な紫禁城を修築した永楽帝にならうものだったようにも見えるからです。

ご承知のとおり永楽銭(永楽通宝)は、そんな永楽帝の時代に鋳造され、日本に輸出されて日本の貨幣流通を担っていた銭貨です。

それを自らの旗印に掲げるという信長の行為は、見る側にも、それなりのイマジネーションを求めるものだったのではないでしょうか。


このように前々回の記事から「曹操」「始皇帝」「永楽帝」と、中国歴代のビッグネームを羅列して節操が無いと言われそうですが、実は、信長から百年ちょっと前の人物である「永楽帝」を含めても、そこに一貫するキーワードは「古代回帰」だったのです。



上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』



マルクスが提唱した発展段階論にしたがって、数千年にわたる中国史を区分しようという論争がなされていたころ、一人の研究者が明代までは古代であると言い切った。
唐と宋のあいだに時代の画期を認め、宋代で中世は終わる、いや宋代から中世が始まるなどと他の多くの研究者が議論をしていたなかにあって、明代までは古代だというその主張は、注目はされたものの受け入れられることはなかった。

しかし、明朝の帝国が行った大運河の改修、鄭和の南海遠征、万里の長城の修築、北京郊外の明十三陵
(みんじゅうさんりょう)などの業績を見てみると、それは確かに古代的である。
近代の枠からはみ出してしまう巨大さがある。
中国史のなかに感覚的にこれと似たものを探してみると、秦が築いた万里の長城、隋が掘った大運河などが思い当たる。
古代から中世・近世を経て現代へと進むという直線的な時間の意識から自由になったとき、中国にまれに現れるこの古代的なものの系譜をたどることができる。


(上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』2005)



信長もこの「古代的なものの系譜」に魅せられた、ということはなかったのでしょうか??

例えば、一万人で巨大な「蛇石(じゃいし)」を安土山に引き上げた、などと伝わる安土築城は、安土山の全山を要塞化するもので、あたかも古墳時代の壮大な土木事業が復活したかのような「古代的な」パワーを感じます。

それにしても、なぜ信長や秀吉はそんな大事業をあえて“好んだ”のでしょうか? ――そこには、或る倒錯した心理が働いていたように思われるのです。


信長は自らが推戴した足利将軍(義昭)を都から追放しましたが、本来なら、清和源氏の血を受け継ぎ、かの八幡太郎義家の末裔である足利将軍に比べれば、武門としての信長や秀吉など、どこの馬の骨かということになりかねません。

そうした負い目について、信長は気にとめた素振りを全く見せなかった(※秀吉は愚痴をもらした)ものの、実際は、信長も焦りを抱えていて、だからこそ「正倉院宝物」に手をかけたのではないかと、『正倉院の謎』のお馴染みの由水常雄先生は指摘しておられます。


いかに性急な信長とはいえ、まだ風雲急を告げる戦乱の最中のことであった。
天下を執ることを至上の目的として、疾風怒涛のように出現したこの風雲児は、まだまだしなければならないことがたくさんあるはずなのに、なぜそれほどまでに急ぎあせって、正倉院の蘭奢待入手を、寸時の暇もおかずに実行しようとしたのであろうか。


(由水常雄『正倉院の謎』2007より)


長篠合戦図屏風の信長(大阪城天守閣蔵)


そこで余談ながら、先日、CSの番組で哲学者の西部邁さんが、ソースティン・ヴェブレンについて発言しているのを見かけ、あらぬ想像をかき立てられました。


アメリカの経済・社会学者だったヴェブレン(1857−1929)は、ユダヤ人と日本人の強さを「ハイブリッド(雑種)の強さ」と分析したそうです。

この「日本人はハイブリッド」という分析の裏には、日本が明治の開国から50年で、日露戦争で大国ロシアに勝つまでになった姿が、一種異様な脅威として見えていた時代背景があったようです。


で、思わず――― 信長、秀吉の二代にわたる織豊政権のサムライたちもまた、大航海時代がもたらしたハイブリッド(雑種)の強さで、瞬く間に国内を再統一し、朝鮮半島にまで攻めのぼったのではないか… と、あらぬ想像をめぐらしてしまったのです。


信長の心の底には、古代回帰でさらにもう一段のパワーを得たいという、言わば“ハイブリッド侍の古代回帰願望”とでも言うべき、二律背反した心理がうごめいたのではないでしょうか。


ですからあえて申しますと、もし信長や秀吉が、氏素姓に申し分のない高貴な武門の出であったなら、天守は誕生しなかった、とも思われて来るのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年11月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…





信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…


南化玄興作の七言詩「安土山ノ記」
 六十扶桑第一山   六十ノ扶桑第一ノ山
 老松積翠白雲間   老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
 宮高大似阿房殿   宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
 城険固於函谷関   城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
 …         …


これは織田信長の懇望によって妙心寺の僧・南化玄興が詠んだ、という詩の冒頭部分です。

言うなれば安土築城の“公式キャンペーンソング”であったわけで、この詩で安土城はどう表現されたかと申しますと、端的に表しているのが三行目と四行目でしょう。

四行目の「函谷関」はおそらく「惣構どて」を言い表した一語のようにも受け取れますので、となると三行目の「宮ノ高キコト…」は、安土山と頂上の主格部を詠んだ一節ということになるのでしょう。






信長の賛意を得て後世に伝わったはずのこの詩で、安土城主格部が「宮」(!)と表現され、「阿房殿」(いわゆる阿房宮/あぼうきゅう)に見立てられたことは、単なる修辞句として片付けられない問題を含んでいるのではないでしょうか??

阿房宮 前殿遺址(陝西省)


ご存知のとおり「阿房宮」は、秦の始皇帝が最晩年に造営した宮殿であり、実態がはっきりしないため、先程の詩はややもすると“ありきたりの礼讃歌”と見られて来たのですが、実は、そうとばかりも言い切れないのです。

阿房宮について、例えば中国古典文学で活躍された松浦友久先生は…



始皇帝は、天下平定後、渭南(いなん/黄河の支流・渭水の南岸)の上林苑(じょうりんえん)中に「朝宮」(百官の参内する宮殿)を造営して、政治の中枢部を渭南地区へ移行させるつもりであったらしい。
(中略)
かくて、朝宮の前殿(正殿)を、まず阿房(あぼう)の地に造った。これが、いわゆる阿房宮(阿房前殿)と呼ばれる豪壮な建築であった。
東西五〇〇歩(七五〇メートル)、南北五〇丈(一一七メートル)といわれ、殿上には一万人を座らせることができ、殿下には五丈の旗を立てることができた。
秦の法律は厳しく、処罰された人々が七〇万人もいた。これを二手に分けて、阿房宮と驪山陵
(りざんりょう)(始皇帝陵)の造営にあたらせたのである。
(中略)
広さは三百余里、
「離宮別館、山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて、輦道(れんどう)(天子が乗車のまま通行できる高架道)もて相属(あいつら)なる」
という阿房宮の全貌が、もし完成したならば、それにふさわしい佳名(かめい)が選ばれる予定であった。
しかし、造営開始二年後の始皇帝の急死によって、工事はついに未完成に終わった。


(松浦友久・植木久行共著『中国の都城A 長安 洛陽 物語』1987)

(※薄字のカッコ内は当ブログの補筆)




このように(意外にも?)阿房宮は朝宮の前殿(正殿)であって、例えば現在の紫禁城の正殿「太和殿」にあたるような建築であったわけです。

現に、跡地はかなり平坦な場所のようで、伝わる敷地のサイズからも、広大な基段があったことをうかがわせます。


紫禁城「太和殿」(幅約63m)



一方、信長の安土城は、標高約200mの安土山に築かれた山城であり、これは一体、どういうことなのでしょうか?

ここに、実は(信長が単に阿房宮の実態を知らなかったから、では済まない)或る問題が潜んでいるのです。


例えば先の引用文で、信長が阿房宮をどうイメージしていたか?という点でたいへん気になるのが、「山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて」といった修辞句で描かれた風景です。

実際の上林苑がなだらかな丘陵地帯であるにも関わらず、さも、深い谷や山を越えた先に、阿房宮が建っていたかのように文章化されています。

そうした阿房宮の姿は、中国歴代の絵師によって「絵」にも度々描かれ、それらを参照してみますと、あっ と息を呑む事情が判明するのです。例えば…


袁耀「擬阿房宮図軸」


ご覧のとおり、絵画上の「阿房宮」は、黄河の支流・渭水の南岸で、そそりたつ岩山の上にあるのです。

(※この掛け軸の絵全体はパブリックドメインで公開中。)

しかも当サイトが提起している「十字形八角平面」の建物として描かれています。

(※詳しくは『安土城天主に「八角円堂」は無かった!』ご参照。)


この一例として示した絵は、清の時代(乾隆四十五年/江戸中期)のものですが、こうした描法は、他の阿房宮や有名な黄鶴楼を描く絵などもまったく同様であり、中国で古くからある「楼閣山水図」と呼ばれる山水画のパターンでした。


こうした絵が説得力をもった背景には、中国社会での「高楼」のイメージも大きく影響したようです。

と申しますのは、伝説上の帝王「黄帝」が、封禅(ほうぜん)を行って神と通じ、ついに仙人と化して天にのぼったという黄帝伝説や、それにならおうとした漢の武帝が、公孫卿に「仙人は高楼を好む」と進言され、いくつもの高楼を建てた話(『史記』)などが、人々の高楼のイメージを形づくったようです。

つまり高楼は、天(神仙)に通じるための建築とされて来たわけです。




そして阿房宮の実態が早い時期から不明だったためか、「山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて」といった文章から、阿房宮は深山幽谷の楼閣建築として描かれることになり、実際のところ、始皇帝は「封禅」を現実世界で復活させた張本人でもあるため、その宮殿にふさわしい描写とされたのかもしれません。


そうした“絵”を、ひょっとすると、信長も見ていた可能性がある?となりますと、それは「天主(天守)」の発祥や高層化、ひいては「十字形八角平面」の導入ともダイレクトにつながる問題をはらんでいます。


かくして冒頭の「阿房殿」というたった一語に秘められた、信長の発意や願望については、次回も引き続き、お話したいと存じます。






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2009年11月16日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守はなぜ「立体的御殿」だったか?という大問題





天守はなぜ「立体的御殿」だったか?という大問題


三浦正幸監修『すぐわかる 日本の城』2009


先月に発行されたこの本も、広島大学大学院の三浦正幸先生の監修による解説書の一つですが、こうした本をめくっていると、自分が見落としていた点を色々と気づかせてくれます。

特にこの本は「天守」にかなりページを割いていて、「建築編」の扉にある一文には、思わずビビッ!と反応してしまいました。



天守は信長が創案した立体的御殿で、日本人が初めて住んだ高層建築でもあった。(前掲書より)



「天守は立体的御殿」という規定の仕方は、故・宮上茂隆先生もそのようなニュアンスの発言をされたように記憶していますが、それでは何故、“立体的に”御殿を建てる必要があったのか? という問題意識が即座にわいて来ます。

何故なら、天主と平屋の御殿は、安土城でも、両方が並存して建てられていたからです。


例えば三浦先生の以前の監修本において、安土城の伝二ノ丸には絢爛豪華な「表御殿」があったはず、という重要な指摘がありましたが、それは平屋建ての御殿であって、その隣りには「立体的御殿」の天主が“堂々と並存していた”わけで、そうした中で、「天守は御殿を立体的に重ねた日本初の居住用高層建築」と言うだけでは、両者は何を差異としていたのか、分からなくなってしまいます。


高知城の天守と本丸御殿


現代人は天守と御殿が並び建つ風景を見慣れているためか、それに殆ど疑問を感じませんが、御殿を“立体的に建てる”には、それ相応の用途や理由づけがあったはずで、それは平屋の御殿とは明らかに違うものだったはずです。

でなければ、安土城をはじめ各地の城で、天守と御殿が別途に(幕末まで300年近くも)並び続けたことを説明できず、この問題では、三浦先生に「先生、もう一声!」と申し上げたくなるような、ある種のもどかしさが残るのです。



その「蔵」は各重ごとに中二階を設け、正倉院と同じ床面積を実現した!?



さて、当ブログは、天主がなぜ“立体的な”高層建築になったか、という問題について――

安土城天主中心部の「高さ12間余の蔵」と正倉院との床面積の符合や、有名な「蘭奢待」事件当時の信長の不審な行動から、七重の安土城天主は、そもそも正倉院宝物を収奪するための「蔵」であり、その上の七重目に信長自身が座するための「政治的装置」であって、そのための七階建てだったのでは…

という仮説を申し上げています。


思うに、信長は一番大事なことを見事に言わなかった人物のようで、余計な事柄までポンポン発言した豊臣秀吉に比べますと、事を起こす前の発言や行動にたいへん慎重だったため、信長が創造した「天主」についても、多くを推理で補わなくてはなりません。

その意味では、後継者の秀吉が建てた大坂城天守も、実際は、各階が「宝物蔵」として機能していた事実は、見逃せない重要なポイントでしょう。

そしてその後の諸大名の天守は、納めるべき宝物も無いためか、外観のみが目的(格式)となって、中身はただのガランドウと化していった、と言うことが出来るのかもしれません。

繰り返すようですが、「居住用の御殿がしだいに整備されたため、天守に住まなくなった」という説明だけでは、安土城の初めから、天守と御殿が並存し続けたことに、スッキリと答えられないのではないでしょうか?






さて、これまでずっと安土城天主について、「蔵」部分だけの“透視図”をご覧いただきましたが、試しに『天守指図』新解釈による三重目から五重目の平面図を加えてみますと、ご覧のとおり、建物のボリュームが格段に増加します。

こうした「蔵」を取り巻く「居室」空間においても、信長は“思わぬ使い方”をしていたことが、文献や『天守指図』から浮かび上がって来るのです。




三国志の英雄・曹操(そう そう)と宮殿「銅雀台」跡(河北省)


そこで余談ながら、織田信長と曹操は、似たようなキャラクターで描かれることの多い二人ですが、その曹操が、本拠地の鄴(ぎょう)城に建てた宮殿「銅雀台」は、高さが「十六丈」(約33m)と伝わっています。

日本と中国では「丈」という単位の長さが違いますが、奇しくも「十六」という数字が、安土城天主の高さ「十六間半」と通じていて、妙なつながりを見せています。

信長はそうした中国趣味と言いますか、中国の伝統文化に対する強い憧れを持ち続けたことは、故・宮上茂隆先生も強調された点で、それは「天主の高層化」とも無縁ではなかったような気がします。


次回は、そうした信長の心の奥底の動機に、スポットを当ててみたいと思います。






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2009年11月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・正倉院宝物が根こそぎ安土城に運び込まれるとき





続・正倉院宝物が根こそぎ安土城に運び込まれるとき


わが国の“歴史そのもの”であるような正倉院の宝物を、織田信長は根こそぎ持ち出し、完成した安土城天主に収蔵するつもりだったのではないか、という話を申し上げておりますが、今回は具体的に、どのように収蔵できたかを見てみましょう。

まず問題になるのは、宝物を納めた「辛櫃(からびつ)」の形や大きさ、そして織田信長の時代に数はいくつあったか、という点が重要です。


四脚形式の「辛櫃」イメージ画


関根真隆先生の「正倉院古櫃考」(『正倉院の木工』1978所収)によりますと、正倉院で使われた奈良時代の櫃(いわゆる古櫃)は現在、数が166あるそうです。

(※そして奈良時代の後に増えた櫃は、徳川家康による新調など、主に江戸時代以降のもので、したがって信長が目撃した櫃の数は、奈良時代と大きくは変わらなかったようです。)


その古櫃は、形が7種類ほどあるものの、四脚形式の「辛櫃」が112と最も多く、大半を占めています。

ただし、大きさは大小の差がかなりあって、例示されている寸法では、大きいものほど横長のタイプになるようです。(※下はフタを取った身のサイズ)



    高さ     短側     長側
 大:69cm   78.5cm  152.5cm (九五号)
 小:29.8cm 53cm    82.5cm  (五九号)



全体を平均すれば身・高さ四〇〜五〇、身・短側六〇〜七〇、身・長側九〇〜一〇〇の見当になろうかと思われる。(中略)
ただ蓋の高さはおよそ六〜八センチくらいである。

(関根真隆「正倉院古櫃考」/『正倉院の木工』1978所収)



関根先生の「見当」の大きい方の数字をひろって、高さ50cm、短側70cm、長側100cmを全体の平均値としてみますと、そうした辛櫃一つが専有する床の面積は7.8平方尺です。

そこで仮に、古櫃の数「166」で掛け算をしてみますと、合計約1300平方尺となり、これは『天守指図』中央部の4間×6間に対して(二重目〜四重目の3重分で)床の占有率37%となり――

計算上は一つの辛櫃に対して、周囲の床がそれぞれ辛櫃二つ分のスペースしかないことになり、ちょっと狭苦しい感じで、作業に何かと支障が出そうです。


むろん脚が無いタイプや小さな櫃は重ねて置いたようですが、基本的に「櫃」はコンテナのようなものですので、蔵の中にピッチリ詰め込んでしまうわけにはいかず、ある程度のスペースが必要です。

その点、占有率37%は数字の上では余裕があるように見えますが、要は、信長自身が正倉院の中を目撃して、どう判断したかが問題であり、やはり(前々回申し上げたとおり)床面積を“座布団一枚分しか差がない”ほど調整して建てた点は見逃せません。


したがって、安土城天主の「蔵」も正倉院と同じに内部2階建て、すなわち各重に“中二階”のような床を設け、倍の床面積を持たせていたと考えた方が良さそうです。



大洲城天守の「吹き抜け」階段室(二間四方)


さて、そこで再び大きなヒントを与えてくれるのが、大洲城天守の階段室です。

『天守指図』にもこれと似た形の二間四方が描かれていて、安土城天主の「蔵」にも同様の階段室があったのでは?? と以前の記事で取り上げた場所ですが、実は、ここにはもう一つ、チョット不思議な特徴があるのです。


同階段室を階下から見上げて撮った写真


先の写真を階下から見上げた様子で、ご覧のように、二間四方の階段室と言いながら、実は「踊り場」がずいぶんと長く取ってあり、そのため下の階段は二間四方より外側で下階の床に接地しているのです。


同階段室/「踊り場」の上から撮った写真


さらにこのアングルから見ますと、せっかくの太い梁(はり)が分断されている様子がよく分かりますが、考えてみますと、こんなに踊り場を長く取らずに、もっと手前でスッと下階に降ろしていれば、わざわざ太い梁を断ち切る必要も無かった(!)ように見えます。


ところが“梁の分断”は復原の元になった雛形にあるもので、主柱と踊り場を優先させた結果であり、三浦正幸先生が「柱を横方向につなぐ梁などの部材が少なく、構造的には欠陥があった」(『城のつくり方図典』2005)と評したほどのリスクを犯して設けられたものです。

つまり「主柱と長い踊り場」という形はそれほど重要だった…? 何故でしょう??


ここに、実は、安土城天主の蔵“中二階”のヒント(遺伝子)が隠れているのではないでしょうか。



踊り場から横にそれて“中二階”へ?


問題の踊り場から、ご覧のように、真横にそれて進んだ場所に床を設け、各重をそれぞれ二階分として使うことが出来れば、先程の占有率はいっきに18%に低下して、辛櫃はそれぞれ、周囲に辛櫃とほぼ同じ幅の床をゆったりと持つことが出来ます。


かくして、安土城天主の二重目〜四重目の中心部には、六段に及ぶ収蔵庫が、蜂の巣のようにギッシリと重なり、正倉院宝物の到着をひそかに待っていた可能性が考えられるのです。

(次回に続く)






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2009年11月02日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき





正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき


今年の正倉院展ポスター(東京駅構内)


10月24日から始まった第61回正倉院展は、ポスターに写真が出ている紫檀木画漕琵琶(したんもくがそうのびわ)や光明皇后直筆の楽毅論(がっきろん)などが展示の目玉になっています。

古代史ファンや古代美術ファンは全国に相当な数の方々がいらっしゃって、そうした方々にとって、正倉院とは、我が国のアイデンティティと同義語に近い響きをもつ、アンタッチャブルな存在であり続けています。


ところが、この私(当サイト)は、前回までの記事でお察しのように、そうした正倉院宝物は、日本史上で指折りの破壊者であり、変革者であった織田信長によって、根こそぎ運び去られる危険があったのでは、という強い疑念を感じております。

つまり信長が創造した安土城天主とは、第一義的に、正倉院宝物をまるごと収容するために建造された「蔵」だったのではないか……



言葉を換えますと、そのように我が国の“歴史”を横取りすることで、信長は軍事的な支配圏の拡大や、ハ見寺建立に見られる宗教的な支配への願望とともに、自らを“歴史の支配者”としても位置づけるため、考案した巨大な装置―― それが安土城天主だったのではないか、と思われてならないのです。



『信長記』類の写本『安土記』/「右 蔵之高サ十二間余」とある


この仮説は、『信長記』『信長公記』類の「安土御天主之次第」の冒頭にある一文、「石くら乃高さ十二間余」という、ありえない謎の記述が、実は(上写真『安土記』のとおり)天主中心部に組み込まれた「高さ十二間余の蔵」と読むべきではないか?と感じたことから出発しました。


それが静嘉堂文庫蔵『天守指図』において、天主の中心部に(あたかも吹き抜け空間のように誤って)描かれた区画にまさに充当し、そこに一重目から四重目に及ぶ階層的な「蔵」があって、さらに五重目六重目を含めて「高さ12間余」に達していたなら、安土城天主をめぐる“様々な懸案”は一挙に解決するはずです。


では、そうした「蔵」にふさわしい収蔵品は何なのか?と考えますと、有名な蘭奢待の一件(信長自身による正倉院内の実見)を踏まえれば、さらに大胆な暴挙が世の人々を震撼させる“絶大な効果”に信長が気づかなかったはずはない、とも思われるのです。

しかも当ブログの『天守指図』新解釈では、天主七重目の座敷は(五重目六重目の吹き抜けをはさみつつ)正倉院宝物のはるか上に信長が座する形(超越者の立場の顕示)をちゃんと建築的に目論んでいたわけです。





突拍子もないたわ言のように聞こえるかもしれませんが、これこそ「天守とは何だったのか」「なぜ高層化が必要とされたのか」という根源的な問題に答える大切な道筋であり、信長はそうした天主の創造によって、“歴史のリセット”を目指していたのかもしれません。

そういう意味では、この仮説を組み立てるため本を読み漁るなかで、ずっと後の明治維新においても、明治の元勲たちが正倉院に対して“かなり手荒な所業”を平然と行っていたことを知りました。

これでは(仮説の)信長の暴挙と殆ど変わらないではないか、と思えるほどであり、今回はまず、明治維新でこうむった正倉院の難儀からお話したいと存じます。



明治13年の伊藤博文の建議で設けられた棚の配置


織田信長が南倉・中倉・北倉をすべて開けさせ、庫内の様子を実見したことはご紹介しましたが、では、その時の庫内はどうなっていたか?と申しますと、庫内はその後(明治初頭)にかなり雰囲気が変わってしまったのです。



維新後は明治五年(一八七二)に宝庫が開かれ、蜷川式胤らの宝物調査が行われたが、この頃 欧米の博物館事業の影響がわが国にあらわれてきた。
(中略)
明治八年三月一日から五月二十日まで、奈良博覧会(常設でない博物館)が東大寺大仏殿で開かれ、法隆寺の寺宝などとともに「正倉院御物」も、大仏殿の後戸に陳列して公開せられたのである。
秘蔵されてきたものを、明治維新の改革の風潮で開放したものであるが、まことに開放公開すべからざる方法で公開したものであった。

(中略)
明治13年、内務卿伊藤博文は宝庫の内部に棚架を設けて宝物を陳列することを建議した。

(石田茂作・和田軍一編『正倉院』1954所収/和田軍一「正倉院の歴史」より)



この本によりますと、伊藤博文の動機は、大仏殿での陳列が二度三度と続いたことや、前年に香港総督など海外の要人たちに宝物を見せたこと(つまり日本の地位向上への焦り)がきっかけになったようです。

その結果、宝物のかなりの部分が辛櫃(からびつ)から出され、庫内にぐるりと設置されたガラス戸棚に陳列されるはめになり、棚は今も正倉院の内部に残り、棚の名前が宝物の分類(『棚別目録』)に使われ続けています。


陳列棚に囲まれた中倉の内部/階上(岩波写真文庫『正倉院(二)』1952より)

解体修理で床板をはがした様子(岩波写真文庫『正倉院(一)』1951より)


大正2年には本格的な解体修理が行われ、この時、小屋組(こやぐみ/屋根裏の構造)を洋式のクイーンポスト式に変更してしまう、という痛恨の出来事も起きています。

しかし最も劇的な出来事は、正倉院と宝物がある日(明治8年)、明治政府の財産とされ、やがて「御物」(皇室財産)とされたことではないでしょうか?



本来、正倉院の宝物は、東大寺に施入されたものであり、現存する宝物類の一万点余の大部分は、東大寺で使用していたものやそのほかの寄進者たちからの奉納品を、後世になって、正倉院宝庫に移納したものであった。
皇室から移管された宝物などは、光明皇太后の奉献物を除けば、ほとんど皆無であったといっていいだろう。

(中略)
正倉院はじまって以来、正倉院の宝物が皇室財産とみなされたようなことは一度としてなかったのに、明治に入ってから急速に正倉院宝庫の皇室財産化が進められていったのである。

(由水常雄『正倉院の謎』2007)



正倉院宝物が立派な文化財であるのに、文化庁の管轄ではなく、いまも宮内庁の管轄であり続けるのは、この時以来のことなのだそうです。


思えば、「王政復古の大号令」で徳川幕藩体制を塗り変え、天皇を元首として発足した明治新政府は、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教弾圧と国家神道化)」のうねりに乗じて、正倉院の皇室財産化に成功したのかもしれません。

一方、足利将軍を追放し、軍事力による中央集権的な統一権力(「天下布武」)を目指した織田信長もまた、寺院勢力を敵視し、掃討戦を続けました。


織田信長と明治政府、300年の時をはさんで、「正倉院宝物」に対する邪(よこしま)な眼差しが、ゾクッとするほど似ているように感じるのは、私だけでしょうか?

(次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年10月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!戦慄!天主の「蔵」は正倉院と同じ床面積だった





戦慄!天主の「蔵」は正倉院と同じ床面積だった


正倉院(左側が南倉・中央が中倉・右側が北倉)


今週は記事のアップが一日遅くなり、失礼しました!


さて、前回ご紹介した織田信長の「蘭奢待(らんじゃたい)」切り取り事件において、何より重要なポイントは、実は、正倉院の北倉・中倉・南倉の三つの倉内を、信長は自らの目で確かめた、という点にありそうです。

そのあたりの経緯を、再び由水常雄先生の『正倉院の謎』から引用させていただきますと…


この信長の開封には、京都より中倉と北倉の封および鍵をもってきたが、南倉は寺の三綱僧の封がつけられている綱封蔵(こうふうぞう)なので、この鍵も京の公家に保管されていたのだが、持参されなかった。
しかし信長は南倉もみたいというので、寺では相談の上、扉の錠前のついている横木を打ち離し、錠を鍛冶屋に切り取らせて、中をみせた。


(由水常雄『正倉院の謎』2007より/カッコ内は当ブログの補足)


このように信長は、正倉院の倉内の状態に、特別な関心を寄せていたことが分かります。

(※それに対し、大騒動に至った蘭奢待そのものは、二つに割ってそれぞれ茶人・津田宗及と千利休に与えてしまい、その時の破片は重臣・村井貞勝に与えて、自らは香を焚くこともしなかったそうです。)

つまり信長のねらいは、前掲の本で由水先生が指摘したとおり、正倉院の宝物に手をかけるという「超越者の立場を顕示」することにあって、その次の関心事としては、もう香木そのものは眼中に無く、正倉院の“構造と使われ方”を確認することにあったようなのです。



正倉院 平面の模式図(単位:尺)


では、その正倉院の平面の規模ですが、図のように周囲に突き出た「跳ね出し」を除いて、南北の合計が108尺余(約33m)、東西が30尺余(約9.3m)となっています。

北倉・中倉・南倉はほぼ同じ規模で、仮に図の数値から単純に計算しますと…
 北倉=1043.1平方尺
 中倉=1219.1平方尺
 南蔵=1042.5平方尺

三倉の合計は3304.7平方尺になります。


一方、我らが安土城天主の「高さ12間余の蔵」に該当する中心部は、ご覧のとおり七尺間で4間×6間ですので、単純に計算しますと、一重目〜四重目は各重とも1176平方尺ということになります。


正倉院と『天守指図』三重目(同縮尺)


ただし図のように、安土城天主の場合は、四重分の×4ではなく、三重分の×3で考える必要がありそうです。

と申しますのは、石蔵内部の一重目は一間ごとに礎石が配置されていて、柱が林立していた可能性が言われています。

その様子は、ちょうど、正倉院の床下の柱(円束柱)が林立する様子にも似ていて、両者は何か意図的な類似性(床下としての扱い)があるようにも感じられるからです。


そこで仮に、仮にですが、その一重目を除外して、貴重な品々を納める“本式の蔵”として使われたのは、二重目から四重目までの三重分だけだった、と仮定してみますと、その合計の床面積は…

 1176平方尺×3重分=3528平方尺


正倉院3304.7に対して、安土城天主3528。二つの数値はやや近いようですが、まだ、とりたてて何か言えるほどではありません。

ただ、両者はともに扉口付近や階段室など、実際には“収蔵に使えない”スペースがあります。



正倉院の場合は全体の9分の1が扉口付近にあたり、安土城天主の場合は6分の1が階段室になります。

そこで、その面積を除外してみると、どうでしょうか…


 正倉院 3304.7×(9分の8)=2937.5平方尺

 安土城天主 3528×(6分の5)=2940  平方尺




なんと両者の差は2.5平方尺。わずか48cm四方で、座布団一枚分(!)しか差が無かったのです。

建物全体のスケールからすると、これはもう“意図的に同じ規模でピッタリ合わせた”と申し上げても良いレベルにあるのではないでしょうか。




しかし、しかし、後出しジャンケンのようで恐縮なのですが、下図のように、正倉院は内部が二階建てになっていて、さらに一考を要するのです。


正倉院 断面の模式図(大正時代の修理前/北から見た状態)


つまり正倉院の床面積は、先程の数値の倍になるわけです。

果たして奈良時代からこうだったのか、(すなわち信長が見た時もそうだったのか)という点については、円柱の通柱が二階の床を支える構造は、円柱の両脇に角柱二本を添えて支える独特のもので、これを東京文化財研究所の清水真一先生は次のように説明しています。


柱に欠損部が生じることを避けて板床を張るための手法であり、古代の床組構法の典型である。
(奈良国立博物館編『正倉院宝物に学ぶ』2008所収/清水真一「正倉院の建築と機能」)


したがって信長もこの内部の二階建ては目撃したはずで、合計の床面積が倍近くになることも鮮明に記憶したに違いありません。

ちなみに、宝物はすべて辛櫃(からびつ)に納められ、倉内は辛櫃だけが並ぶ状態であり、そのため正倉院の内部一階は、階高が1間強でも十分であったようです。


同縮尺の正倉院と安土城天主「蔵」部分



さて、そうなりますと、安土城天主の「蔵」構造もやや検討が必要で、一重目〜四重目は例の「本柱」8間が中心を貫いていて、各重およそ2間ずつの階高が許されるわけですが、そう単純に2間ずつであったかどうかは分からなくなって来ます。

蘭奢待の切り取りを敢行した信長の意図(さらなる野望)によっては、二重目〜四重目は(正倉院とそっくりに)内部でさらに二段式の床で仕切られ、倍の床面積を有していたのかもしれません。

そうした独特の構造については、階段室(踊り場)との兼ね合いもあって、かなり複雑な仕組みになっていた可能性がありそうなのです。


次回はその驚異的な姿(信長の未完の野望/未遂の暴挙)をご覧いただきます!






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年10月18日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長は天主の核心をベールに包んだまま死んだ





信長は天主の核心をベールに包んだまま死んだ


Bさん「そもそも天守閣って何なんですか? 映画の安土のも随分と大きいみたいで」

私「(いきなりの直球な質問にどうにか答える)」

Bさん「へぇ7階建てですか、木造では限界ですよね…(何故そんなに大きくしたのか)」と、さも聞きたそうな表情。



つい2、3日前も、こんな質問を仕事先の知人から受けて、改めて「天守(天主)」という建造物が抱えている根源的な問題を感じました。

つまり「そもそも何なのか?」という(一般社会からの)素朴な疑問にズバッと答えきれないハンデ―― 言い換えれば、天守(天主)の核心部分が今もってブラックボックスに入ったまま、日本中で城郭談義がなされたり、天守の復元計画が論議されたりしているという、不思議な状況が日々続いています。



織田信長像


当ブログはこの五ヶ月ほど、集中的に安土城天主の“再発見”を記事にしてまいりましたが、その中で、最大かつ最後の謎として残ったのが、天主中心部に構築された「高さ12間余の蔵」に、信長はいったい何を収蔵するつもりだったのか? という問題です。


この「蔵」に何を納めるかは、おそらく安土城天主そのものがどういう性格の建物だったのか、ひいては「天守」は何を目的に誕生したのか、それがなぜ七重もの規模を必要とするに至ったのか、という様々な疑問の解消につながるように思われます。

あえて申し上げるなら、信長は天主(天守)を創造しておきながら、実は、そうした“天主の核心”をベールに包んだまま、本能寺で死んでしまった―― 

このことが結局、21世紀の今日になっても、「天守閣って何ですか?」という日本人全体の意識(認識)に影を落としているように思われてならないのです。




さて、そこで例えば“織田信長と収蔵品”という連想をしてみた場合、最も大勢の方の頭に浮かぶのは、かの有名な「蘭奢待(らんじゃたい)」ではないでしょうか?


正倉院宝物「蘭奢待」




蘭奢待は、天下一の名香として東大寺の正倉院に秘蔵されていたのを、いちやく天下に踊り出た信長が強引に切り取らせた、という話で知られる香木ですが、この事件が起きたのは天正二年、つまり安土城の築城が始まる2年前のことでした。


蘭奢待とは黄熟香の別名で、慶長年間のころから一般に使われた名称である。
この三字の中に、東大寺の名が隠しこまれている。
誰が考え出したか知らないが、当時よりそのことは知られていたとみえて、香道ではこの香のことを別名「東大寺」とも呼んでいるという。

(由水常雄『正倉院の謎』2007)




歴史ファンですでに読まれた方も多いようですが、この本、正倉院とその宝物の驚くべき実態(大半の散逸と入れ替わり)を紹介していて、特に、歴代の天下人がいかに権力をもって正倉院の扉をコジ開け、宝物を私物化して来たかが詳しく描かれています。


奈良時代に、光明皇太后の名において東大寺に奉献された宝物は、約七四〇点であったが、そのうち今日まで伝存している宝物は、わずかに一五〇点ほどにすぎない。
正倉院に現存する宝物は、古裂やガラス玉類のような「塵芥」を除いて、一万点余りにものぼる。その九千数百点の宝物類は、いったい、いつどのようなところで作られて、どういう経緯をたどって正倉院に入ったのか

(由水常雄『正倉院の謎』2007)


この本で由水先生は、「勅封」で守られたはずの正倉院が、実際は「歴代権力者たちの開封」を受け、嵯峨天皇、藤原道長、鳥羽上皇と後白河法皇、源頼朝、足利義満・義政、そして織田信長、徳川家康、明治天皇といった歴史的な人物たちに開けられた例を列挙しています。

例えば平安三筆の一人であり、独裁的な権力を手にした嵯峨天皇は、国際的な名宝とも言うべき王羲之や王献之の書をはじめ、聖武天皇のゆかりの品や、宮中を飾る大量の屏風類を倉から出させ、わずかの金銭で買い取ってしまったそうです。


こうした正倉院の宝物を自由自在に使うことによって、何びとといえども追従できない文化的荘厳をおこない、超越者の立場を顕示したのである。
(中略)
真に天下を制し権力者になったものだけが、はじめて正倉院の宝物を手にすることができるという、伝統的な権力象徴思想とでもいうべきものが、このとき以来、日本の政治権力者の間で、近代に至るまで受け継がれてゆくことになるのである。
(由水常雄『正倉院の謎』2007)


様々な権力者が正倉院の扉を開けたのち、いよいよ信長による開封(蘭奢待の切り取り)がどのように行われたかは、『天正截香記』(天正二年三月二八日の年預浄実の手記)に詳しく書かれていて、本の中では口語訳で紹介されています。


それを見ますと実際は、寺領の安堵と引き換えに蘭奢待を拝見したい、という信長の書状を塙直政と筒井順慶が持参し、それを寺側が受け取ったものの、返事は今宵までにと言われて大騒ぎになったようです。

そんな騒ぎを他所に、信長は四日後には多聞山城まで来てしまい、結局、自らの名代を寺に遣わし、蘭奢待を城内の泉殿に運ばせて、そこで仏師に切り取らせたのでした。


それからしばらくして、信長自身が倉まで出向いてきて、倉の中を一覧して、大仏詣でに行かれた。
その道中、「紅沈香も天下無双の名香だから、端の倉などに入れておかないで、蘭奢待と一緒に入れるべきである。囲碁盤はもとの北倉においておけばよい。また、後でわかりにくくなるので、櫃には別々に香の銘を書いて入れておくように」と、佐々間衛門を引き返させて、寺門へ伝言させた。

(由水常雄『正倉院の謎』2007)


かくして信長は、先例に構わず、わずか数日で蘭奢待を切り取らせ、正倉院の内部(北倉・中倉・南倉の三つ)を実見した上で、いちいち宝物の置き方にまで注文を付けようとしていたのです。

この時、信長は頭の中でいったい何を目論んでいたのでしょうか?


その2年後には、信長は「太平ノ兆(きざし)」と詠わせた安土山に築城を開始し、やがて建物の中心部に「高さ12間余の蔵」をもつ天主の建造を始めるのです。

(次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年10月12日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・失われた天主「心柱」の歴史





続報・失われた天主「心柱」の歴史


前回、安土城天主と姫路城天守に共通する「12間余」という数値から、草創期の天守には、或る種の“失われた心柱の歴史”があったのではないか、と申し上げました。

今回は、その仮説を補強する意味でも重要な「本柱の継ぎ」についてお話いたします。



ご承知のように、姫路城天守の東西2本の「大柱」は、西側の1本が途中(四重目の床)で継がれていて、実際は上下2本の柱から成っています。

それを踏まえて、安土城天主の場合はどうかと『天守指図』を参照してみますと、下図のとおり、南側の「本柱」は、五重目(六重目)の中心部の柱と“同じ位置”にあって、これらは(姫路城と同様に)上下で継がれていた可能性もありそうなのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』三重目と五重目の色づけ合成


図の赤輪で囲った柱がそれであり、上下に継がれた様子を、試しに前回の立体図に描き加えてみますと…




このように南側の「本柱」は、合計の高さが12間余に迫り、六重目の梁・桁に達していた、と考えることも全く不可能ではないのです。


(※また蛇足ながら、上部の+4間余の柱は、文献で三番目に記された「一尺三寸四方木」がそれであり、残りの「六尺四方」は吹き抜け周囲の柱群がそれであった、と考えるのは調子に乗り過ぎでしょうか?)

柱数二百四本 本柱長さ八間
本柱ふとさ一尺五寸四方 六尺四方 一尺三寸四方木

(尊経閣文庫蔵『安土日記』)





そして、前掲の五重目の図において注目すべき存在が、『天守指図』中で最大の階段でもある、「本柱」脇の長さ2間・幅1間の“大階段”です。

周囲の構造を検討してみますと、この階段は、一重目〜四重目の「蔵」を登ってきた者が、五重目・六重目の吹き抜けに上がるための“区切り”の階段であり、この建物の中でも印象的な舞台装置の一つと言えそうなのです。




角度的にみて、この階段を登り始めたとき、すでに目線の先には、吹き抜けの華やかな格天井の一部が見えていた可能性があります。

おそらく「蔵」内部が比較的に素朴な造りであって、そもそも「金灯爐」で照らされただけの薄暗闇であったのに対し、六重目は窓の可能性があり、陽光が差し込む空間の格天井は、まるで別世界に出たような光景だったのではないでしょうか。


(※ちなみに上図と最後の図のように、居室エリアを登ってきた者は南東隅の階段から五重目に上がり、六重目に向かう階段の下、まさに「本柱」周囲の立体交差的な通路によって合流する形になっていたようです。)


そして、ひたすら「蔵」を登って来た者は、そこに納められる“収蔵品”との対比においても、問題の階段で劇的な印象に襲われることを、織田信長は企図していたようなのです。

(次回に続く)


六重目から七重目に向かう登閣路の推定






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2009年10月05日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!映画に登場した天主「心柱」の失われた?歴史





映画に登場した天主「心柱」の失われた?歴史


城郭ファンの間で話題の映画『火天の城』は、安土城天主の大工棟梁・岡部又右衛門を主人公にしているためか、物語の展開には、巨大な通柱(とおしばしら)が重要な役割を担っています。

この天守を貫く大規模な通柱、昔の堂塔時代の言葉で「心柱」と言えるほどの通柱をもった天守は、かろうじて確認できる数から言っても、姫路城や岡崎城などごくわずかで、完全に少数派に陥っています。


姫路城天守の東西2本の「大柱」(右写真は4階内部)


天守に、太い通柱を使っているよい例は姫路城天守であるが、ここでは天守平面中央部に、東西に並んで二本の太い通柱が立っている。
それらの根本における長径は、三尺余もあり、安土城天主の通柱より、はるかに太い。
それは、ここの通柱が二本しかないこと、地階から最上階(六階。安土と同じ階数)床下まで六階分を貫き十二間余(約八十二尺)もあること、姫路城天守内部は仕切が少なく従って柱数が少ないこと、などが原因して、大断面を必要としたものと考えられる。


(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料について(下)」)


このように姫路城では「大柱」と呼ばれますが、安土城の場合は「本柱」と呼ばれたようで、長さ(高さ)は8間と伝わります。


柱数二百四本 本柱長さ八間
本柱ふとさ一尺五寸四方 六尺四方 一尺三寸四方木


(尊経閣文庫蔵『安土日記』より)


また天主全体の高さは「十六間々中」(16間半)と記されていて、となると、「本柱」はその何重目まで貫いていたのか? という問題が浮上して来ます。


その点、当サイトの『天守指図』新解釈では、「四重目」の図がまるごと池上右平の“加筆”ではないかと考えているため、「本柱」の上端については何も情報が無いことになります。

そこで、姫路城天守の例を引用してみますと、各階の階高は2間前後であり、これと同様の規模と考えるならば、「本柱」8間でやはり4階分、つまり五重目の床下まで達していた、とすることが出来ます。





図のグリーンの領域は、天主中心部に構築された「高さ12間余の蔵」のうち、「本柱」とともに建ち上がった四重目までの「蔵」の範囲を示してみたものです。


この上に、これまでの記事でご説明してきた五重目・六重目の吹き抜けが重なり、その上に七重目が載っていた、としますと、おそらく次のような構造になるでしょう。




ご覧のように「高さ12間余の蔵」とは、一重目〜四重目の階層的な「蔵」と、五重目・六重目の吹き抜けまで、を合算したものではないかと思われるのです。


そしてここで留意すべきは「12間余」という数でしょう。

(前出の宮上茂隆先生の論考より)

地階から最上階床下まで六階分を貫き十二間余(約八十二尺)もあること


なんと「十二間余」は、安土城も、姫路城も(最上階床下までの数値として)思わぬ一致を示していて、ひょっとすると数が踏襲されたのかもしれない… 

ここに何か、草創期の天守の“失われた心柱の歴史”が垣間見えるようなのです。

(次回に続く)







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2009年09月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!二段式の天主台に秘められたナゾ





二段式の天主台に秘められたナゾ


今回からいよいよ『天守指図』新解釈による安土城天主の「立面」(横から見た姿)についてお話してまいります。

初回はまず一番下から、ということで「天主台」から始めましょう。




これは以前の記事(歴史の証言者「池上右平」の功罪)でもご紹介した図ですが、ご覧のように、天主台遺構の断面図と、『天守指図』二重目(天主台上の平面図)を重ね合わせますと、天主台は、南側と北側で1間ほど高低差のあったことが推測できます。


一方、文献には「安土ノ殿主ハ二重石垣」(『信長記』)と記され、天主台は二段式で築かれたと考えられるものの、どういう形状かは判然としませんでした。


(※ちなみに宮上茂隆先生、松岡利郎先生、西ヶ谷恭弘先生は、それぞれの復元案において、天主本体に合わせた矩形の二段目があったとしていますが、もちろんいずれも『天守指図』とは関係がありません。)


そこで、上の図から読み取れる南北の高低差を加味して、立体的に検討してみますと、「天主本体に合わせた矩形の二段目」という考え方は、『天守指図』に基づく限り、納まりがつきにくく、かなり難しいことが分かります。

むしろ下の図のように、「二重石垣」とは、南北の高低差そのものを示した言葉、と考えた方が良さそうなのです。



遺構の断面図と『天守指図』新解釈による試案(赤い部分は天主二重目の範囲)


石垣の上段・下段の境目をどこに区画すべきかは、色々とご意見もあろうかと思いますが、天主本体の内部は部屋割りが連続しているため、「蔵」と思しき北付櫓との間に“境目の段差”を想定しました。

こうしてみますと、北付櫓だけが一段高く、しかも天主本体より高い位置に建てられていたことになります。


天守のある城で、天守の間近でより高い場所に何かを設けた例は珍しく、わずかに「天守台石垣を鑑賞する」コーナーで取り上げた浜松城天守、が思い当たる程度です。


浜松城 天守曲輪/天守台のすぐ奥に「八幡台」がある

謎の「八幡台」を模擬天守から見下ろすと…


浜松城は天守の来歴に諸説あるため、その奥の付櫓台「八幡台」も謎の存在であって、現地の案内板も「城の守り神として、たぶん八幡大菩薩をおまつりした所」といった説明があるばかりです。

城の守り神という意味では、安土城の場合は、「蔵」と思しき構造の北付櫓には、例えば織田家累代の重宝類などを納めたのではないか、とも思われます。


そしてもしそこが重宝類を納めた蔵だとしますと、より大きなナゾが出現します。
織田信長は、肝心の天主中心部の「高さ12間余の蔵」に、いったい何を納めるつもりだったのでしょうか??



しかも以前の記事で申し上げたように、重臣・村井貞勝らが天主を拝見した際に、信長はこの壮大な蔵を、あえて見せなかった(秘匿した)節があります。


かくして、文献が伝えた「二重石垣」は、安土城天主の“最大の謎”に私達をいざなうプロローグでもあるのです。

(次回に続く)










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城の再発見!安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか





安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか


今回から天主の話題に戻ると予告しましたが、安土城「大手道」が何故あれほど大規模なものになったか?という話を忘れていたため、今回だけ、どうかご容赦下さい。

で、その「大手道」ですが、以前の小牧山城の倍近く、約9mもの道幅で築かれています。

発掘調査関係者の報告ではこれを「天皇のための大手道」と考証していて、そうなりますと、実際に天皇の安土行幸があった場合、いかにしてあの石段を登るように想定していたのでしょうか?

そこでポイントになるのは、やはり“天皇の乗り物”でしょう。


例えば、京都・時代祭の名物の一つ、桓武天皇の御鳳輦(ほうれん)


行幸の記録によりますと、織田信長の頃の前後では、室町時代に北山第などへの行幸に使われた乗り物は「御こし」「御輿」と記され、すぐあとの聚楽第や二条城への行幸では「鳳輦」と記されています。

でも『聚楽行幸記』には「鳳輦・牛車、そのほかの諸役以下、事も久しくすたれることなれば、おぼつかなしといへども、民部卿法印玄以奉行として、諸家のふるき記録・故実など尋ねさぐり、相勤めらる」とあって、すでに室町時代の詳細が分からず、豊臣秀吉の周囲があわてた様子もうかがわれます。


当時の鳳輦を描いた絵画としては、例えば国立国会図書館の貴重書画像データベースにある「寛永行幸記」や松平定信の「輿車図考」などが参考になるでしょうし、寸法のデータとしては、静岡市文化財資料館にこんな鳳輦が展示されているそうです。

御鳳輦 1基 方輿125.0 高さ72.0 屋根114.0 柄長394.0
徳川家光公寄進 浅間神社収蔵品



いずれにしましても、鳳輦の柄の長さは4m前後、それに片側5人ほどの仕丁が取り付き、左右と中央の前後、そして周囲にも配置して、総勢20人ほどで担いでいく、という形が一般的だったようです。


もちろん行幸は群集が見守る盛事ですから、安土城に到着して「大手道」の石段にさしかかったとしても、そのまま、鳳輦を担いで登ったはずでしょう。

おそらくは鳳輦を横向きにして、仕丁らが左右に並ぶ形で、ゆっくりと登るつもりだったのではないでしょうか。


そうした姿を想像するとき、初めて、壮大な規模の「大手道」が安土城にとって不可欠の舞台装置であった、と理解できるように感じられます。


二条城 東大手門


さて、城郭への行幸と言えば、ご覧の二条城の東大手門は、寛永行幸の際に後水尾天皇の鳳輦が通過した門ですが、ただ当時は、このような姿ではなかったことが知られています。

門の上の櫓部分がまったく無く、門の柱や冠木の上に直接、屋根がかけられた「高麗門」などの単層の門だったのを、行幸ののちに櫓部分を増築して、現在のような櫓門になったのです。

東大手門は二条城の第一の門であるにも関わらず、何故、単層の門にしていたのか… それは、櫓門では、天皇の頭の上に床(つまり侍の足!)を置く形になってしまうから、と言われています。


このように、幕藩体制の確立に向けて、朝廷に抑圧的な政策を取り続けた徳川幕府でさえ、鳳輦の通過する門の形には配慮していたわけです。


となりますと、例の安土城の「大手門」についても、織田信長が“本気で”天皇を迎えようとしていたなら、それを櫓門にするという選択肢は無かったのではないでしょうか??

仮に、前回の「信長廟の門構え説」から百歩譲って、信長の存命中から「大手門」があったとしても、それが櫓門であった可能性は、極めて低い、と言わざるをえないようです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年09月13日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?





続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?


安土城・伝二の丸の上段にある「信長廟」


写真は織田信長の一周忌のために(羽柴)秀吉が建立したものと云われ、一説には、一番上の丸い石がいわゆる「盆山」ではないかともされています。

ここで、本能寺の変から後の、安土城の主な出来事を挙げてみますと…


天正10年6月  本能寺の変の直後、謎の出火で主郭部が全焼
天正10年同月  山崎の戦いに勝利した秀吉、織田信孝と共に入城
天正10年8月  秀吉、丹羽長秀に城の修復を催促。秋ごろ完成
天正10年12月 織田家の跡目を継いだ三法師(さんぼうし)が入城
天正11年正月  三法師の後見人・織田信雄が城下町に掟を発する
天正11年2月  秀吉、「信長廟」を建立
天正12年12月 秀吉、三法師を坂本城に移し、廃城となる



このように安土城は、信長亡き後も、なお2年半にわたって織田家当主の居城として使い続けられました。

その間、主郭部は「信長廟」が建立された他は(神聖な領域として)手付かずだったものの、年表の「三法師の御殿」がどこに建てられたかは今も不明で、この時期の造営が城内のどこまで及んだのかも、明らかになっていません。

あえて極論しますと、話題の「大手道」でさえ、次のようにチョット不思議な要素を抱えているのです。


「大手道」は途中から信長廟に向かっている…


巨大な天主が山頂にあった頃(つまり信長の存命中)、登り始めの南側はその天主を目指して登っていた「大手道」が、途中からやや左にそれてしまいます。

しかもその方向がちょうど「信長廟」に向かっていて、さながら廟所の参道のようにして、例えば豊臣秀吉の阿弥陀ケ峰、徳川家康の紅葉山東照宮、伊達政宗の経ケ峰など、各地で神格化された武将らの“廟所の長い石段”にも似た趣を見せてしまうのは、何故なのか…

阿弥陀ケ峰の石段(京都市/明治以後の整備による現状)



まぁいくらなんでも、あの大規模な「大手道」が、本能寺の変のあとの修復箇所であるとは申しませんが、こうした不思議な一面も現にあるのです。


一方、前回申し上げた大手門の「四つの門が一列に並ぶ」発掘成果は、城郭としていかにも異様であり、城を見慣れた感覚からしますと、「ここは城ではありません」というシグナルを当時の人々にも与えたことでしょう。



安土山の南側にはハス池もあり、辺りは静寂な空気に包まれていた?


想像してみていただきたいのですが、入口が沢山ある、というのは、それだけで“来訪者を迎え入れる”空気を漂わせますし、やはり何か「城郭」とは別種の構想が無いことには成立しえないものです。

そこで前回、これはひょっとして、本能寺の変の後に整備された「信長廟の門構え」の可能性はないのですか?? と申し上げたわけです。


最近の発掘調査では、四つの門は城外との境界線にあるのではなく、城の範囲はもっと南側の水堀まであったことが判明しています。

したがって四つの門と石塁は、城内に設けられた“第二の境界線”であって、城の防禦面から見ても、ある時期までこれが存在しなかったか、より簡便な土塁であった可能性は、否定できないように思われます。


そして冒頭の年表のように、本能寺の変後の安土城は、すべからく秀吉の影響下にあったことが明らかで、この点から、正対した門が三つ横に並んだ理由も説明できそうです。

すなわち、これらの門は、本能寺の変で落命した、織田家の人々を示したのではないでしょうか。

彼らの犠牲をそういう形で強調することが、仇敵の明智光秀を討った秀吉の立場を不動のものにするうえで、「信長廟」の建立とともに必要とされたのではないか、と申し上げたいのです。


写真は石清水八幡宮の楼門、手前に唐破風の屋根庇が突出している


まず中央の大手門は、文句無く、山頂の「信長廟」を意識した、信長自身の廟所の門であったように思われます。

発見された礎石から、間口11mの門が“半ば表に突き出る形で”建っていたようですが、そんな形は城の櫓門ではありえないため、やはり突出した屋根庇のある楼門などを考えざるをえないでしょう。

また老婆心ながら、発掘調査で浮上した大手門の推定位置が「大手道」より少し東にズレているのは、ひょっとすると、「大手門」と「大手道の主要部分」と「山頂の信長廟」とが一直線上になるように“調整”した結果ではないかとも思われ、門をくぐった時にそうした場所に立てる工夫がなされたのかもしれません。


そして東側の門は、信長の後を追って戦死した嫡子、信忠(のぶただ)の廟所の門とされたように思われます。

ご承知のように信忠は三法師の父親であり、本能寺の変の戦場からあえて離脱しなかった姿勢が、信長とともに祀る対象として欠かせなかったのかもしれません。


さらに枡形門の脇にある西の門が、信忠とともに二条御所で戦死した一族衆、信長の末弟・長利(ながとし)や信長の五男・勝長(かつなが)を祀る廟所の門とされたのではないでしょうか。



これが四つの門を「信長廟の門構え」とした想定の概略ですが、重要なことは「内裏の三門に見立てた」という解釈にしても、これらの門の内側には、何もそれらしき関連の遺構は無い、という事実です。

四つの門は互いにすぐ内側の通路でつながっていて、その奥の敷地は、後世の撹乱のためか、もともと完成していなかったのか、何も発見されなかったのです。

その意味において付け加えますと、この「廟所の門構え」説では、廃城までの時間的な制約があったため、例えば“石塁と門が完成した時点で時間切れとなり、そのまま沙汰止みになってしまった”という皮肉なケースも考えうるのです。



では次回から再び、天主の立面を明らかにしていく話題に戻ります!!


【2013年4月25日補筆】
ここで申し上げた件については、新たなブログ記事で、安土城郭研究所の松下浩先生の注目発言をご紹介していますので、是非こちらもご参照下さい。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年09月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?





異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?


前回、幻の「安土山図屏風」について、絵の概略のイメージを作ってみましたが、その左隻の方をシャルヴォア『日本史』の銅版画と比べてみますと、いくつかの発見があります。


上:安土山図屏風(左隻)イメージ / 下:シャルヴォア『日本史』銅版画


ご覧のとおり、双方の描写には共通する点が多々あるように思われ、中でも今回、特にご注目いただきたいのは“城道”です。

と申しますのは、銅版画で主郭部につながる城道は、現地のその周辺の道とおおよそ一致するように見えるからです。

例えば、銅版画の主郭部の虎口(本丸南虎口?)から出た城道が、山の斜面を西へ斜めに下ってハ見寺につながるところなど、良く似ています。




そして注目すべきはその下、両側に屋敷(曲輪)群が多数連なった「大手道(おおてみち)」と思しき城道も描かれている点です。

(※銅版画は道がややクネクネと曲がっていて、一見、西斜面の「七曲道」のようにも見えますが、急峻な「七曲道」の両側に屋敷群が連なることは無く、やはり「大手道」と見る方が自然でしょう。)


発掘調査後の「大手道」現状


「大手道」は平成元年から行われた滋賀県の発掘調査で姿を現し、御所の清涼殿と同じプランの礎石列とともに、歴史ファンの話題をさらった大発見です。

山の南斜面に長さ約180m、幅9mもの直線的な石段が続き、両側に石垣造りの曲輪跡が並んでいて、その上は左右に道が屈曲しながら主郭部に達しています。


発掘調査関係者の報告では、これは「天皇のための大手道」(滋賀県安土城郭調査研究所『安土城・信長の夢』2004)とされていますが、ただ、これほど大掛かりな城道でありながら、『信長記』類などの文献にはまったく登場せず、「大手道」の名称も当時のものではないという、やや留意すべき点もあります。



小牧山城にも「大手道」が…


そして、ここで指摘せざるをえないポイントが、「大手道」は織田信長の以前の城・小牧山城にも、ちゃんとある、という事実でしょう。


小牧山城は信長が美濃攻略以前の永禄6年、居城として築いた城で、山の南斜面に(道幅は安土城の半分ほどですが)約150mの直線的な「大手道」が築かれています。

小牧市教育委員会の中嶋隆先生は、発掘調査の結果から、「大手道」は一部の改修を除く大部分が信長時代のままと考えられるとし、そのねらいを推測しています。


「南麓の城下から見上げたときの印象や大手道を通って主郭へ至る途中での視覚を重視して、新しい装いを施した城を造り出そうとしたのではないかと思われる。」
(『信長の城下町』2008所収/中嶋隆「小牧城下町」より)


こうなりますと、「大手道」とは、信長の築城術において、どういう目的を与えられた城道なのか?という疑問が改めて浮上し、少なくとも“安土城だけの検討では解明しきれない”ように思えて来ます。



近江八幡城/直線的な城道の脇に並ぶ曲輪跡の石垣


(※例えばその他にも「両側に屋敷(曲輪)群をともなった直線的な城道」という点では、近江八幡城や犬山城などの例も思い浮かびます。)

(※このうち近江八幡城のケースでは、それは、城下町と、山の南斜面の中腹にあった城主・豊臣秀次の屋敷とを「最短」で結ぶための直線的な城道であり、一見すると「領国内の大名権力の集中」というテーマに深く関わる形態のようにも感じられます。)


その点では、小牧山城も似たようなもので、信長の築いた城下町が山の南麓約1km四方に広がっていたとされ、「大手道」は視覚的な効果はもちろんのこと、実際は、信長自身が城下町から山の鞍部まで馬で一気に駆け上がるための設備だったのかもしれません。


その意味でたいへん気になるのは、安土城「大手道」の石段が、踏み面(づら)を広くして築かれている点です。

これは各地の神社などでも見られる手法で、馬(神馬)がそこを駆け上がれるように、馬の歩幅に合わせて造られる石段です。


この石段の件は、信長の「大手道」とは本来、何だったのか? という命題に解明の光を当てる“物証”の一つとも思われるのですが、そうした中で、「大手道」の南端で思いもよらぬ発見があり、逆に“謎”が深まってしまいました。


それは日本国内のどの城郭にも例のない「大手門を中心に建ち並ぶ四つの門」です。


「大手道」南端の大手門跡周辺/この左右に門が一列に並んでいた


こうした門構えは、安土城の以前も、以後も、城郭では類似例がありません。

この謎の状況について、滋賀県の報告書類では「天皇を迎え入れるにあたり城そのものを内裏に見立てて玄関を内裏と同じ三門にした」(滋賀県安土城郭調査研究所『図説 安土城を掘る』2004)という解釈を行い、それに通用口の枡形門が加わって、四つの門が建ち並んだとしています。



しかしこれは、正直申しまして、やや無理のある拙速、のように感じられてなりません。


むしろ、もっと視野を広くして、あらゆる状況のバリエーションを想定して、解釈を下しても良かったのでは、と思われるのです。


そこで大胆な問いを申し上げますと、例えば、この「四つの門」は本当に、信長の存命中から、現状のような遺構が出来上がっていたのでしょうか??



例えば、江戸城内の紅葉山東照宮… 歴代将軍の廟所の門が並んでいる

(次回に続く)





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2009年08月31日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!木版画の正体は安土セミナリヨ?それとも…





木版画の正体は安土セミナリヨ?それとも…


「安土山図屏風」景観の切り取り方の推定



前回、幻の「安土山図屏風」二曲一双について、例えば(洛中洛外図にならって)こんな景観の切り取り方をしていたのではないか、と申し上げました。

ここまで仮説として申し上げてしまった以上は、左隻・右隻の「絵」のイメージを画像化することも出来るわけで、そこであえて下の2枚を作ってみました。


「安土山図屏風」左隻と右隻の概略イメージ(作画:横手聡)


これは勿論、それぞれのアングル(画角)から見えそうな物を単純に画像化しただけで、本物の屏風は当然、日本画としての様々な約束事や狩野派の筆づかいの中で巧みに描かれていたはずです。

これはあくまで“検討用のサンプル”であることをご理解下さい。

そして問題の「ウィンゲの木版画」の正体は、こうした屏風絵に描かれた建物の一つだった可能性もあるように思われます。



ウィンゲの木版画(原書にはtempleの注釈あり)



疑問1.ひょっとすると、これは天主以外の、安土城下で特筆すべき別の建物ではないのか?

疑問2.それは西から見た時、背後に、小舟が行き交う水路や舟入りを備えた建物ではなかったのか?

疑問3.ならば何故、その建物は、安土城天主に似た要素を備えているのか?



前々回の記事でこんな三つの疑問を申し上げましたが、例えば「疑問1」(特筆すべき別の建物…)という点では、あの有名な「安土セミナリヨ」がまず頭に浮かびます。


安土セミナリヨの推定地(安土町 大字下豊浦大臼)



宣教師らが織田信長に土地を与えられて建てたという安土セミナリヨは、いまだに遺構が発見されず、現地では大臼(だいうす…デウス)を跡地に推定しています。

当然、遺構が無いため、どんな建物だったのかは決め手を欠く状態で、一説には三階建ての日本式の楼閣建築とも言われ、そうした南蛮寺を描いた扇も有名です。

ところが、『グレゴリオ13世一代記』には鐘塔のある石造風の安土セミナリヨが挿絵に描かれ、ヴァリニャーノ自身も「天主堂は、我がヨーロッパの慣例を保存するやうに造られ、礼拝堂は長くして、日本人がその寺院を造るに慣はしとするやうな横幅があってはならない」と書き残し、日本各地にローマ・バシリカ式の小規模な礼拝堂があった可能性を、岡本良知先生は書いています。


ローマの大聖堂のバシリカ内部




そうした中で「疑問2」(背後に小舟が行き交う水路…)からは、たいへん面白い点を指摘することができます。


右隻イメージ/「大臼」は水路を背後にしている?



ご覧のとおり、西から眺めた「新しい都市」(新市街地)を描いたはずの右隻は、大臼が屏風の中央に見え、ちょうど水路を背後にしていて、そこに“問題の小舟”が往来していた様子も十分に想像できるのです。

もしこの位置に「ウィンゲの木版画」の元絵があったのなら、かなり思い切った解釈ではありますが、この絵は三階建てのセミナリヨの表側であって、下の黄色い部分は“檜皮葺きの玄関か門”と見えなくもありません。





しかも「疑問3」(安土城天主に似た要素…)を考えますと、現に安土セミナリヨは、信長から特に許されて安土城と同じ瓦を使用していたばかりか、ひょっとすると建物自体も“天主に似せて”建てていた(!)という、思いもよらぬ見方が出来るのかもしれません。

仮にそうだとするなら、宣教師らは「ローマ・バシリカ」と言いながら、セミナリヨの表側を安土城に似せてしまう、という政治的メリットの誘惑に傾いたわけで、真相への興味(妄想?)は尽きそうにありません。



ただし今回は、もう一つの可能性を、申し上げなければなりません。それは左隻の安土山中にあった寺院(temple)「ハ見寺」(そうけんじ)です。


名所図会の安土山ハ見寺(中央に本堂/画面右上隅に主郭部の石垣)

東から撮ったハ見寺本堂跡(遠景の山々の下にかすかに湖面が見える)



ハ見寺の本堂は、寺の古文書によりますと、裳階(もこし)の付いた五間四方の禅宗様式の仏殿だったそうで、二階建てのような構造をしていました。

(※この二階部分には「扇椽閣/せんえんかく」という二間四方の密閉された部屋が組み込まれていて、ここが信長の化身である神体「盆山」を安置した場所ではないかと、秋田裕毅先生が指摘した所でもあります。)


そうした幻の本堂は、東から見た様子が、ウィンゲの木版画に似た姿になりそうなのです。




と申しますのは、この絵は見方を変えますと“二階建ての仏殿”と“その手前の門か回廊”と見ることも可能で、現に、本堂のすぐ東にはかつて「裏門」があって、これが例えば萱葺き(かやぶき)の屋根であったなら、まさにこのとおりに見えたのではないでしょうか?

しかも仏殿部分の左下のスパッと切り取られたあたりは、地面との接地部分なのだと理解できて、先程のセミナリヨよりも、いっそう自然な描写に感じられます。

そして木版画のアングルは、本堂を南東から眺めたような角度であり、これは左隻で東から見た安土山にぴったりマッチングしそうです。



左隻イメージ/「本堂」は湖水を背後にしていた?




結局のところ、木版画の正体は安土セミナリヨか?ハ見寺本堂か?という答えは、西洋で何故この絵が着目されたかという“動機”の点では、「安土セミナリヨ」が有力ではないでしょうか。

しかし建物の描写やtempleというキャプションからは「ハ見寺本堂」の方が有力のようで、残念ながら、現状は五分五分と言わざるをえません。

結論として、この木版画は、安土城天主と考える以外にも、ご覧のような可能性は十分にありうると思われるのです。


さて次回は、安土城と天主の「向き」をめぐる“意外な盲点”をご紹介します。







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2009年08月24日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!幻の「安土山図屏風」はここにある





幻の「安土山図屏風」はここにある


ウィンゲの木版画       シャルヴォア『日本史』掲載の銅版画  


前回、左側のウィンゲの木版画は、原書のキャプションでは「temple(寺院)」であり、右のシャルヴォアの絵に比べますと、「西の城下町から眺めた天主」としては不合理(宙に浮く小舟!)である点をお伝えしました。

では、木版画の建物はいったい何なのか? そして幻の「安土山図屏風」とはどういう関係にあったのか? 前回に引き続いて、“ウィンゲの怪”の真相にググ―ッと迫ることにしましょう。


それには第一のステップとして、「安土山図屏風」について、明らかになっている点を確認しておく必要がありそうですが、その辺りは内藤昌先生の著書『復元・安土城』が一番詳しいようです。



それは、一五八五年(天正十三年)三月二十三日発行の『羅馬報知』(Avisi di Roma:ヴァチカン図書館蔵)に、「極大きくて誠に薄い木の皮に、日本の主要なる一都会(安土)の絵を描いて、それには沢山の大きな建築が描いてある」とか、『ベナツキの談話(Dalla Relatione del Benacci)』に「信長(安土カ)と称する日本の首都を描いた高二ブラチヤ(約六尺)長四・五ブラチヤ(一二〜一五尺)の画」とあるに相応する。
また一六六〇年フィレンツェにて発行されたバルトーリ著『耶蘇会史・日本の部(Bartoli ; Storia della Compagna di Gesu.U Giappone.)』でも使節らが献上した日本特産品について、「そのうち最も善きものは、屏風(beobi)とよばれる装飾家具の二つ(一双)であった。其の一には新しい都市と、他の一には安土山(Anzuciama)の不落の城を筆を以て描いたものであって、それは信長がヴァリニヤノ師へ、其の愛情の記念として贈ったものと同物である」と述べている。
この二曲一双の屏風は、グレゴリオ一三世によってヴァチカン内の世界各地の地図や都市図で飾られた「地誌廊」に展示されていたらしいが、その後の行方はまったく不明である。


(内藤昌『復元・安土城』1994)



この文章によりますと、屏風は高さが約六尺(2m弱)、幅十二〜十五尺(4m前後)の「二曲一双」で、左右の両隻に「新しい都市」と「安土山の不落の城」を分けて描いていたことになります。



洛中洛外図屏風/六曲一双の左隻(させき)と右隻(うせき)


織田信長といえば、かの上杉本「洛中洛外図屏風」を上杉謙信に贈ったほどの人物ですから、彼の「安土山図屏風」も(安土を都になぞらえる意味で)洛中洛外図を踏まえて制作された、と考えてもいいように思われます。

しかも絵師は「日本の最も著名なる画工」(イエズス会日本年報)と伝わり、狩野永徳であった可能性もあるのですから、その描き方に共通の手法があったとしても何ら不思議ではありません。


そこでまず「洛中洛外図屏風」の手法として想起されるのは、景観の独特の切り取り方でしょう。

どういう切り取り方かと申しますと、屏風の左隻には、上京(かみぎょう)を東から眺めた景色を描き、一方の右隻には、下京(しもぎょう)を西から眺めた景色を描く、という基本的なパターンがあったとされています。

(※その結果、二条城など「城」は左隻に多く描かれることになりました。)


これを試しに「安土」に当てはめてみると、どうなるでしょう?





たぶん、こんなことになるのではないかと思うのですが、こうしてみると安土山や城は順当に「左隻」に描かれ、一方の右隻は港を手前に、信長が築いた城下町(新市街地)を中心にしていたことになります。


で、この場合、出来上がった「絵」には意外な点が想像されるのです。


―― 左隻の安土山は東から眺めた状態のため、山頂の主郭部は、天主より東側の「伝本丸」が手前に見え、(近年、御所の清涼殿と同じプランと解釈されて話題になった)御幸の御間(みゆきのおんま)?が強調された絵だったのかもしれないのです。

東南の方角から見た主郭部のイメージ


つまり主郭部はこんな角度からの描写であり、天主の手前に、石塁で囲まれた御幸の御間?が見えたとも思われるのですが、さて、この構図、どこかで見覚えありませんでしょうか…

右写真はシャルヴォア『日本史』掲載の銅版画(主郭部の拡大)


この思わぬ一致を、どうお感じでしょうか?

そしてさらに驚愕を覚えるのは右の図中「A」「B」の注釈文であって、注釈文の拡大画像もご覧いただきながら話を続けましょう。




まず全体のタイトルは「アンヅチアマの城と町の図」で、問題はこの2行目と3行目にあります。

2行目に「信長の天国」le Paradis de Nobunagaとあり、3行目「A」は「皇帝の宮殿」le Palais de l’Empereurであり、「信長」と「皇帝」は二行の間で“別人格”として表記されているのです。

もし信長と皇帝が同一人格であるなら、「皇帝の宮殿」は「彼の宮殿」などと表記されても良いはずなのに、わずか二行の間で“言葉を変えて”いるのです。

(※これは別のケースでは、『モンタヌス日本史』のように晩年の徳川家康を「皇帝」と誤解して伝えた例もあるわけですが、この絵の場合は、やはり2〜3行の中で言葉を変えた点は要注意と言わざるをえないでしょう。)

そして3行目「B」天主は「チタデル/要塞」la Citadelleであり、山の中腹「C」は「諸侯の屋敷」Maisons des Seigneursです。


このように、シャルヴォアの絵は、なんと、御所の清涼殿と同じプランとされた「御幸の御間」?と思しき“行幸殿”を、はっきりそれと意識して、手前に大きく(東から)描いた節があるのです。


これは近年、滋賀県の調査を経て主張された安土城と一致する認識が、すでに18世紀のフランスで共有されていた可能性を示していて、大いに驚かざるをえません。

特に主郭部については、昨今、天皇を迎える行幸殿(行宮)を守るような「天守構え」(天守と櫓と石塁で囲んだ領域)であった可能性が言われていて、そうした中で、天主を「チタデル」と伝えた“ある種の正確さ”にも舌を巻く思いがします。

その嗅覚の鋭敏さは、「皇帝の宮殿」と「チタデル」をセットにした上で、それらを「信長の天国」le Paradis de Nobunagaと銘打った政治的感性にも現れていて、この銅版画は「ただならぬ逸品」として再評価されるべきではないでしょうか。


(※これは当サイトが主張する「天守は公武合体の新たな統一権力の樹立と版図を示す革命記念碑(維新碑)」という考え方とも、しっかり一致します。)



さて、こうなるとシャルヴォアの銅版画は、上半分(安土山)が「東」からの描写なのに、下半分(新市街地)は「西」から描いていることになります。

この妙な混乱を招いた元凶は、ひょっとすると、新市街地の遠景にあったはずの繖山(きぬがさやま)ではないのでしょうか?





この際、思い切った仮説を申し上げますと、「安土山図屏風」は当初、左右が「安土山の不落の城」「新しい都市」という別々の画題であることが認識されていたにも関わらず、その後どこかの時代で、スケッチが重なる過程で、両者が誤って一つの風景に再構成されてしまったのではないでしょうか??

例えば右隻の繖山が、左隻の安土山と同じ山(の遠景)に誤解されたとすると、上下の再構成の結果は、シャルヴォアの絵と同じ一枚になるでしょう。

つまり幻の「安土山図屏風」は、姿を変えてここにある、とも思われるのです。




安土山と繖山



右の繖山は、信長が攻め落とした観音寺城の曲輪や城道が山全体にあって、もし屏風にそうした描写があったなら、それはもう安土山と混同されても不思議ではありません。


さて次回こそ「ウィンゲの木版画」の正体に迫ります!!







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2009年08月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…





ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…


松岡利郎先生の模型の画像化(推定イメージ)



前回ご紹介した“『信長記』類にあくまでも忠実な”松岡利郎先生の復原模型は、一方で、いわゆる「ウィンゲの木版画」を参考にしている感があります。


ウィンゲの木版画とは、ご承知のとおり、織田信長が宣教師ヴァリニャーノに贈った幻の「安土山図屏風」がヴァチカンに収蔵されると、それを画家ウィンゲがスケッチし、その一部をカルタリが著書の挿絵にするため木版画にしたもの、と伝わっています。


通称「ウィンゲの木版画」(安土城天主の上層部分とされる一枚)


建物の最上階には、華頭窓が二つずつあり、その間の壁面に「戸」は無く、廻縁も無いため、壁面の様子は松岡先生の模型にたいへん良く似ています。


ですがこの木版画は、なんと原書の段階では、絵のキャプション(注釈)が「temple」(!!)だったそうなのです。
(※詳細は内藤昌『復元・安土城』P299注18をご参照下さい。)

そんな中でも、この一枚は、日本の城郭研究者の間で「安土城天主の上層部分を描いた可能性が高い」とされ、松岡先生の模型もそうした考え方を採用したように思われます。


そして実に不思議なことに、この絵は、当ブログの『天守指図』新解釈とも、相通じるような描写を含んでいるのです。


新解釈『天守指図』各重の色分け/六重目に大規模な廻縁

通称「ウィンゲの木版画」/これは渡り廊下?大規模な廻縁?


木版画の色づけした部分を、天主の手前にある「渡り廊下」と推定されたのは、織豊期城郭研究会の代表、加藤理文先生です。


最下部の渡廊下のような表現は、天主と本丸御殿を結ぶ渡廊下、もしくは御殿同士を結ぶ渡廊下が想定される。ヨーロッパにおいて、建物同士を結ぶ廊下の存在が珍しいためか、屏風に多くの渡廊下が描かれていたためかは、判然としない。天主の前面に描くことで、手前にあったことを表現していたと考えたい。
(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「文献にみる安土城の姿」)



こうした加藤先生の指摘は、滋賀県による現地の発掘調査等を踏まえたものであり、異論を申し上げるつもりは毛頭ございません。

ただ、木版画の色づけした部分の描写と、かねてから申し上げている新解釈『天守指図』六重目の西側の大規模な廻縁が、あまりにも“似ている”ように思われ、しかも加藤先生の続く一文がたいへんに興味深いのです。



天主本体と異なる表現方法であるため、渡廊下が瓦屋根でないのは確実で、檜皮葺き(檜の皮で屋根を葺くこと)と理解される。
(前記論考より)



この画期的な考え方に立ちますと、我田引水で恐縮ですが、新解釈『天守指図』の六重目(及び大規模な廻縁)の屋根も、ひよっとすると「檜皮葺き」だった(!)という可能性も考えられるのかもしれません。

そうだとしますと、後の天守群において、上から二重目の屋根をあえて「板葺き」にした例(※津山城や福山城)が思わず想起されます。

そして、そのような板葺き屋根の先駆例が安土城天主なのだ、となれば、それらは決して(「五重を四重に見せる」といった)消極的な意図で板葺きにしたものではなく、天守の創始者・織田信長ゆかりの“伝統”を踏まえた意匠だった、ということにもなりかねません。


このようにウィンゲの木版画は、安土城天主の上層部分としますと、言われている以上に“貴重な鑑賞ポイント”が盛り込まれているようです。

そして木版画のように、正面に見えるのが天主西面の廻縁ならば、安土城全体も西側から(つまり城下町や琵琶湖の側から)見た姿となり、そうしたイメージは、以前の記事でご紹介したあの「絵」と同じ構図になりそうです。



シャルヴォア著『日本史』掲載の銅版画「安土城下の図」



この銅板画について、加藤先生は、先の論考に続いて重要な発言をされています。


琵琶湖と安土山の位置関係、城下町と城の位置関係、中腹に広がる家臣たちの屋敷地など、本来の安土山の景観に近いうえ、空にたなびく霞雲の表現、飛び交う鳥の姿は、織豊期の障壁画の表現方法と酷似し、何らかの手本の存在を感じさせる。その手本こそ、失われた「安土山図屏風」の可能性が高い。
城下町の位置から、この図は百々橋口
(どどばしぐち)から望んだ姿と推定できる。
逆にいえば「安土山図屏風」は百々橋口から望んだ姿で描かれていたことになる。現在は、発掘調査で検出された大手道を正面とする場合が多い。だが、『信長公記』の記載では、百々橋口が正面なのである。この絵は百々橋口正面を裏付ける、貴重な絵でもある。


(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「安土城下の図」)

(※カッコ内は当ブログの補筆)



シャルヴォアの銅版画と幻の「安土山図屏風」の間には絵画的な接点があり、ともに安土城の正面を「西」に見立てて描いている―― ここまで申し上げてきた内容からも、そのような判断を下しても構わないように見えます。


しかし、しかしなのです…

ウィンゲの木版画だけは、西から見た天主の上層部分だとすると、ただ一点、どうにも不合理なものが描かれているのです。

それは、屋根の頂上にダブった「小舟」です。




冷静に考えてみれば当たり前のことですが、シャルヴォアの絵と同じ構図なら、安土山の頂にそびえる天主の背景は、東の空一面でなければならず、そこに「小舟」が浮いていたら、まことに可笑しな空想画か、シャガールの絵のようになってしまいます。


あえてそうした可能性を探るとするなら、その絵は「南」か「東」の上空から安土山と琵琶湖を急角度に見下ろして、天主と湖面がダブって見えるような鳥瞰図の類でなければなりません。

しかしそれはもう、シャルヴォアの絵とはまるで異なるアングルですし、その場合、天主の西側の廻縁が正面から見えるはずもありません。


どうやら、事の真相はかなり複雑であって、ウィンゲの木版画じたい「本当に安土城天主なのか?」「ひょっとすると原書の注釈どおりtempleなのでは?」といった疑念が生じ始めるのです。



(※さらに余談を申せば、織田信長が心血を注いだ安土城天主に、絵師は「小舟」をダブらせて描くでしょうか?? そんな絵を見た信長は、即座に絵師を引き据え、自ら手打ちで斬り殺すのではないかと思われてなりません。)

(※現に、古今の絵画上の天守で、市井の風物をダブらせた例は皆無のように思われます。あってもそれは城内の建築等にとどまるのが常です。)



これらが、私自身が「ウィンゲの木版画は本当に安土城天主なのか」という疑念をぬぐいきれない理由です。




…ひょっとすると、それは天主以外の、安土城下で特筆すべき別の建物ではないのか?

…それは「西」から見た時、背後に、小舟が行き交う水路か舟入りを備えた建物ではなかったのか??

…ならば何故、その建物は、安土城天主に似た要素を備えているのか???


この複雑怪奇な「ウィンゲの怪」をあばく驚愕のアイデアは、また次回のお楽しみにさせていただきたく存じます。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年08月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目





続々報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目


このところ話題にしています「七重目」は、安土城天主の各重の中でも、研究者によって復原の結果が千差万別になっている階です。

その様子は例えば、下の表のように『信長記』類のキーワードを軸に比較してみますと、よく分かるようです。





例えば内藤昌先生の復原は、先生ご自身が“発掘”した『天守指図』を基本に据えているため、文献のキーワードに比べますと、池上右平の書き込みにかなり“引っ張られた”結果になっています。

ご覧の色文字で対比したとおり、七重目に関しては、ほとんどの要素が文献の記述からやや離れたものになっています。


そして今回の記事では、これとは対極的な復原もあることを是非ご紹介したいと思います。それが下の安土城天主の模型です。


松岡利郎先生の復原模型(熱海城にて撮影)


写真は十数年前、熱海城(!)に展示されていた模型を、レンズ付きフィルムでガラス越しに撮ったものです。

そのため当然のごとく鮮明でなく、せっかくの模型のディティールが伝わらない恐れもあって、今回は独自に“絵”にしてみました。



松岡先生の模型「七重目」の画像化(推定イメージ/画:横手聡)



松岡利郎先生は、当ブログの小松城天守の記事(『実在したもう一つの吹き抜け』)でも著作を引用させていただいた先生ですが、その復原模型は文献『信長記』類に忠実であろうとする以上に、『信長記』類のT類本(『安土日記』)とU〜W類本(『信長公記』等)の“相違点”まで反映させようとしたものなのです。





このように“色文字”で対比できる“文献との差”はわずかです。


では、松岡先生の復原方針はどういうものだったのか、『信長記』類のT類本とU〜W類本の“相違点”を確認してみましょう。

(※下記『安土日記』の「上一重」は七重目のこと)


尊経閣文庫蔵『安土日記』(T類本)
上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ



岡山大学蔵『信長記』(U類本)
上七重目 三間四方 御座敷之内皆金也
外輪是又金也
四方之内柱にハ上龍下龍 天井ニハ天人御影向之所
御座敷之内ニハ三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢等をかゝせられ
ひうちほうちやく数十二つらせられ
狭間戸鉄也 数六十余有 皆黒漆也




【T類本からU〜W類本になって、本文から消えた要素】
1.外輪(そとがわ)の欄干
2.金色の柱
3.絵師の名、狩野永徳


【T類本からU〜W類本になって、本文に加えられた要素】
4.外輪(そとがわ)も金づくし
5.内柱に上り龍・下り龍
6.天井に天人御影向の絵
7.儒教画は座敷内にある
8.十二個の火打ち・宝ちゃく


ただし5.6.8.の要素は、T類本『安土日記』にも行間補記として後から書き込みされていて、どういう経緯でそうなったのか判断がつかないため、やや注意が必要とされている要素です。

(※また狭間戸が「数六十余有」という部分も、天主全体の窓の数と誤伝したもの、と言われています。)

したがって、そうした条件もつかず、純然と“消えたり”“加えられたり”した要素は、「1.外輪の欄干」「2.金色の柱」と「4.外輪も金づくし」であり、やはり欄干と外壁の様子が焦点になってくるわけです。


そのような状況を踏まえた復原アイデアとして、「外輪の欄干は無かった」という“改定”がU〜W類本で行われた、と考えたのが、先の松岡先生の復原模型であるように思われます。

欄干も廻縁も無く、七重目の外観がすべて金づくしになった模型は、そうした『信長記』類の事情を踏まえた、ある意味で、まことに理にかなった復原であり、舌を巻くような思いがいたします。

(※当ブログの「見せかけの欄干」説も改めて主張させていただきます!)






特にこの金づくしの外観は、シャルヴォア『日本史』で七重目が“一個の純金の冠”と表現されたことや、モンタヌス『日本史』の大坂城天守の瓦(金・銅・鉛・石瓦の四色!)、さらにウィンゲの木版画が深く影響しているようで、次回はそうした観点から、驚くべき安土城天主の可能性をご紹介してまいります。






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2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目





続報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目


香川元太郎著『日本の城[古代〜戦国]編』1996



多彩な活躍で知られる香川元太郎先生は、かつて著書の中で「近年では、安土城研究家の数だけ復原案があると言っても過言ではない」との名言(嘆息?)をお書きになっています。

かくいう当ブログも前回、七重目には窓(狭間戸)がちゃんとあり、逆に、廻縁にでる「戸」が無く、そのために“見せかけの欄干”がめぐっていた? という自説を、厚かましくも紹介させていただきました。


新解釈『天守指図』の七重目



この草創期の安土城天主にして、すでに“見せかけの欄干”があったという当説には、どこか違和感を覚えた方もいらっしゃるように思われますので、今回は織田信長の以前の天守はどうであったかを是非ご覧いただきましょう。




岐阜城天守推定復原図(西側立面)/復原:城戸久


当ブログで度々ご紹介しています城郭研究のパイオニア・城戸久先生は、織田信長時代の岐阜城(山頂)天守の復原に取り組み、ご覧のような立面図を発表しました。

以来、これが山頂の天守について、最もオーソライズされた復原像と見なされています。



この復原作業に際して最も重要な史料とされたのが、岐阜城が廃城となった後に、その南に築城された加納城の「御三階」櫓の絵図でした。

城戸先生は天守の代用とされたこの「御三階」を、信長時代に由来する岐阜城天守の移築(および改築)と考証し、立面図のような復原に至ったのです。


中でも最上階の縁や匂欄(高欄)は、その加納城と「丸岡城」の天守を最も参考にしながら、復原作業を進めたそうです。



加納城『御三階の図』望楼部分(片野記念館蔵)

丸岡城天守の望楼内部/腰高の「中窓」で外側の縁には出られない構造



最上層の外部周囲に縁、匂欄をめぐらせた例は犬山・丸岡・広島の各城にみられる。
ことに丸岡城は中窓となっており、
(復原作業は)加納城図記入の「内敷に四・六尺」から同じように中窓としたが、(加納城が)異なる点は図の縁、匂欄が南北のみにあって東西になく、華頭窓になっていることである。
この点少し疑問であるが、図の華頭窓を尊重すると彦根城のような例もあり、また中窓で廻縁を有する丸岡城もあるので、おそらく当初は完全な廻縁があったとみなし、丸岡城と同じ手法としたのである。


(城戸久『名古屋城と天守建築』1981)

(※カッコ内は当ブログの補筆です。/また「内敷に四・六尺」は、窓辺の内敷の棚まで高さ4.6尺、約139cmという解釈のようです)




このように、実は城戸先生の岐阜城天守において、すでに、床からある程度の高さのある「中窓」のため、廻縁は“見せかけの欄干”と考えられていたのです。


そうした最上階の様子は、冒頭の香川元太郎先生が、同じ著書の中でイラストレーション化していて、ここは誠に恐縮ながら、その一部分を引用させていただきたく存じます。


岐阜城 山の上の天守(イラストレーション:香川元太郎)



ご覧のとおり、この廻縁は実際には出ることが出来ない構造であり、もちろん「戸」は無く、しかも床は畳敷き(座敷)として描かれています。


こうした復原が真実であるなら、“見せかけの欄干”は信長にとって、もはや使い慣れた馴染みの設え(しつらえ)であったわけです。



次回も、安土城天主の七重目について、ある興味深い復原模型を紹介いたします。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年07月27日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!本当に窓が無かった?安土城天主の七重目





本当に窓が無かった?安土城天主の七重目


信長の館(滋賀県安土町)の復元例



上の写真は、内藤昌先生の考証に基づいて1992年のセビリア万博に出品され、現在は「信長の館」に展示中の七重目の内部です。

実に魅力的な原寸大の復元ですが、ご覧のとおり、この階には「窓」が一つもありません。


窓の無い最上階をもつ天守は、歴史上いくつか確認することができ、例えば国宝の犬山城天守も、遠目には窓のあるような外観でありながら、実は“見せかけの窓枠”が打ち付けてあるだけです。


犬山城天守の最上階/見せかけの窓枠

同/内部に赤く照りかえす絨毯



ご覧のような内部は、廻縁にでる戸を開けなければ真っ暗闇であり、戸を開け放つと、気持ちのいい陽光と風が入り込み、幕末に藩主が敷かせたという赤い絨毯がふかふかして、たいへん気持ちのいい空間になります。


しかしご想像のとおり、風雨の吹き荒れる日や、冬場の寒さの厳しい日などは、「望楼」「物見」と云いながら、この戸を開け放つことは容易でありません。

もし敵勢に城を囲まれた非常時において、天候が悪いと最上階は真っ暗闇、となると、何のための望楼(高層建築)なのか!?ということにもなってしまいます。


これは、ある種の、平和になった時代の、天守最上階の姿ではないのでしょうか??

(※ちなみにこの犬山城天守は、望楼部を含めて慶長6年、関ヶ原合戦の翌年の新築という新説も出されています。)


では安土城天主の七重目も、本当に窓が無かったのか? まずは文献から見てみましょう。



尊経閣文庫蔵『安土日記』(『信長記』T類本)
上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ


(※この文献は階数を上から数えるため「上一重」は七重目のこと)


このように安土城天主の最上階の記録は、どの『信長記』類の本文も(金色だった範囲はやや相違があるものの、それ以外の描写は)大差ありません。

(※言葉を替えれば、どの文献も“行間補記”がクセモノなのです。)


では、そうした本文に共通する“要素”を(冷静に)書き出してみますと…


要素1.「三間四方」の「御座敷」である

要素2.「狭間戸(さまど)」が「鉄」張りで「黒漆」塗りである

要素3.縁という表現は使わずに「外輪(そとがわ)」に「欄干」がある

要素4.「狩野永徳」の描いた儒教画が4点か5点ある




これら四つの要素を他の天守と比べてみますと、安土城天主はかなり特殊でありながらも、かすかに共通点もあるようなのです。





すなわち、まがりなりにも「座敷」を備えた熊本城や小松城、そして「見せかけの欄干」を備えた丸岡城や彦根城の天守が、意外に共通性を感じさせるのです。

(※このうち「狭間戸」は、日本の城郭では一般に、堅格子(たてごうし)の入った窓を意味したこと。また「座敷」は、中世住宅において「畳敷き」を意味したことは、古建築の分野の研究成果を踏まえています。)


松山城の狭間戸の例(写真右下)

同/内側から(堅格子と外側の突上戸)



ちなみに冒頭の原寸大復元では、要素1「座敷」が板敷きに解釈され、要素2「狭間戸」はありません。これについて内藤先生は次のように述べておられます。


ここでいう狭間戸は後述『天守指図』で判明するように、東西南北の各面中央柱間にある折桟唐戸のことである。
(中略)
かの鹿苑寺金閣の最上階の床は黒漆であるを参考とすれば、この安土城天主最上階の床も黒漆であったとしてまず誤りなかろう。このくらい黒漆塗りの部分が多くなければ、『天守指図』六階冒頭の記述に「いつれもこくしつなり」というはずがないと思われる。

(内藤昌『復元・安土城』1994)

(※文中「六階」は地階を含まない数え方で「七重目」のこと)



折桟唐戸(おりさんからど)とは両開きで折りたためる(廻縁に出るための)桟唐戸のことですが、「狭間戸」をあえて桟唐戸と読み替え、『天守指図』の書き込みを最優先するという、先生のこうした発想の裏には、やはり文献の示す“要素”が基本的に多過ぎて、三間四方の望楼には納まらない、という悪条件も影響したものと思われます。



要素があふれる安土城天主の七重目



ですが、この悪条件を、どうにか破綻なく解決できる、画期的なアイデアはないものでしょうか?
実は、そうしたアイデアは無くもないのです。


と申しますのは、七重目は基本的に「座敷」であって、おそらく突上戸による「狭間戸」があり、そのうえ「狩野永徳」の絵のスペースも必要で、見せかけの「欄干」にせざるを得なかった… 

つまりは(特に記述の無い)「戸」がそもそも無かったのでは!!という、逆転の発想が、すべてを満足する答えではないのでしょうか。



戸が無かった??安土城天主の七重目(当ブログの試案)



「窓」が無いのではなく、逆に、廻縁にでる「戸」が無かった――


こうしたスタイルは、先に並べた天守群の中では、「丸岡城天守」にいちばん近い、ということにもなります。



草創期の安土城天主にして、すでに“見せかけの欄干”があったという当説には、なかなか抵抗感があるかもしれませんが、室内に狩野永徳の絵を四、五点も配置するという、他の天守には無い条件をクリアするための措置だったと思われます。

しかもこの説は、文献に伝わる「言葉」を、一語も、曲解せずに(!)着地点を見出した結果なのです。


次回も、七重目の復元をめぐる、もう一つのアイデアをご紹介します。







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2009年07月20日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!図解!安土城天主に「八角円堂」は無かった





図解!安土城天主に「八角円堂」は無かった


前々回から話題の安土城天主の「八角円堂」問題や、その代案としての「十字形八角平面」については、やや立体的な説明が不足したまま、話を進めてしまったようです。

今回はその反省から、可能な限り“図解”を交えて、新解釈『天守指図』の二重目から六重目までを一旦、総括してみたいと思います。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』/原資料に忠実な図は?



『天守指図』の7重分の平面図のうち、池上右平による“加筆”ではなく、加賀藩にもたらされた「原資料」に比較的忠実と思われる図は、ご覧のような一部分に過ぎないことを説明してまいりました。

そこから本来の各重を色分けしてみますと…


新解釈『天守指図』の天主台と二重目


新解釈『天守指図』の三重目


新解釈『天守指図』の四重目/各部屋の想定位置



「四重目」は以前の記事で「三重目とほぼ同じではないか」と申し上げましたが、そのすぐ上の五重目が屋根裏階として描かれているため、四重目の主要部分が屋根裏(五重目)より広い、ということは物理的にありえません。


そうした条件を反映したのが上の「四重目」案であり、その図上に『信長記』類に記された各部屋のおおよその位置を想定してみました。

若干の部屋割りの変更は必要になるものの、これで面積的には十分に納まりがつきます。



新解釈『天守指図』の五重目と六重目



そして問題の「六重目」は、五重目の中心部に建ち上がった“十字形八角平面”であって、“八角円堂”は存在しなかったと思われます。

この十字形八角平面は、眺望のための中国建築の様式(抱廈/ほうか)を南北に採用したもので、安土城天主はさらに城下町を一望できる設備として、西側に大規模な廻縁(まわりえん)を設けていたようです。



仙台城 城下を一望した「本丸懸造」CG(復元:三浦正幸)


余談ながら、ご覧の仙台城は“天守の無かった城”として有名ですが、ただし本丸の断崖絶壁から城下町を一望する書院建築「本丸懸造(かけづくり)」がありました。

この城は言わずと知れた伊達政宗の居城であり、同じく東国の雄・佐竹義宣の久保田城(秋田県)も「御出し書院」という、天守の代用とされた建築が、本丸の切り岸の上に建てられました。


このように、城主のために城下町の眺望を確保することは、あるべき「天守」の機能の一つであったようで、その原点は、あるいは安土城天主の六重目ではなかったかとも思われるのです。



新解釈『天守指図』の七重目



さて、新解釈『天守指図』の仕上げとして「七重目」をお示しせざるをえないのですが、例えばご覧のような、いびつな平面形であったように思われるのです。


最大の理由は『信長記』類の「上七重め 三間四方 御座敷之内皆金也」という記述の中の、「座敷」という言葉の(中世建築における)意味なのですが、詳しくは次回、改めてお話させていただきたいと存じます。

そして話題はいよいよ、安土城天主の立面(横から見た姿!)を検討するプロセスに入ってまいります。







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2009年07月12日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!天空と一体化する安土城天主の上層階





天空と一体化する安土城天主の上層階


前回、安土城天主に「八角円堂」は無く、そのかわりに豊臣秀吉の大坂城天守と同様に、最上階の直下に「十字形八角平面」のあった可能性が高いことを申し上げました。

今回は、その安土城天主の「十字形八角平面」を際立たせた、安土桃山風の豪放なディティールについてお話いたします。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』安土城天主の五重目/ 六重目が一緒に描かれた図



まず上の図は以前の記事でもご覧のものですが、六重目がたった4坪の回廊だったとしても、『信長記』類の記述とは何ら矛盾の無いことは明らかです。


岡山大学蔵『信長記』
六重め八角四間程有 外柱ハ朱也 内柱ハ皆金也
釈門十代御弟子等 尺尊成道御説法之次第
御縁輪にハ餓鬼共鬼共かゝせられ
御縁輪はた板にハ しやちほこひれうをかゝせられ
高欄擬法珠ほり物あり



すなわち回廊の壁面に「釈迦十大弟子」や「釈迦説法図」などの仏画が描かれた中を、七重目に向かって進んだとも想像できるからです。


しかも六重目と「御縁輪」の関係が特筆されたあたりは、上の図もしっかりと合致しています。

そこで改めて同じ図を、下のようにご覧いただきますと、たいへん不思議なことに西側の「のや(屋根裏)」にだけ、6本の柱が描かれています



静嘉堂文庫蔵『天守指図』安土城天主の五重目/ 西側にしかない6本の柱



ご覧の赤い輪で囲った柱は、なぜ西側にしか無いのでしょうか?

試しに、これら6本の柱を『天守指図』三重目(四重目とほぼ同じか)にダブらせてみますと、この五重目の屋根裏から新規に建てられた柱である可能性が強く、ということは、柱は上の屋根を突き抜けて、六重目の壁面より外の「何か」を支えていた節があります。


となると、例えばここには、回廊(六重目)と接続した西側だけの大規模な廻縁(まわりえん)が、6本の柱に支持されて、コの字型に張り出していた、とは考えられないでしょうか?

その規模は実に南北9間、東西2間、幅1間に及びます。


これはおそらく、天主(安土山)西側の城下町を見渡すには格好の設備であり、まさに“眺望”のための「十字形八角平面」を際立たせた構造物のようにも思われます。

しかも城下からそうした信長の姿を目撃した場合、神々しいほどの印象を与えた可能性があるのです。


御縁輪はた板にハ しやちほこひれうをかゝせられ
高欄擬法珠ほり物あり


(前記『信長記』部分)


すなわち、コの字型の縁下の「はた板」(端部の板)には「鯱」や「飛龍」が描かれ、縁は擬宝珠や高欄、彫物で飾られたうえに、6本の柱の構造からは、それらが六重目の屋根にまで達して、軒を支えていた様子も想像できるからです。


富士山本宮浅間大社(静岡県)本殿



そうした安土城天主の廻縁に近いイメージを感じさせるのが、ご覧の建築であり、まるで天空と一体化するかのような構想です。


富士山本宮浅間大社のホームページによりますと、この本殿はなんと徳川家康の造営によるもので、1階が5間四面葺き卸しの宝殿造り、2階が間口3間奥行2間の流れ造りという、他に例の無い構造です。

その構造がいっそう分かりやすい写真は、前記ホームページに掲載されていて、特に2階の基部がまるで『信長記』類の「はた板」を連想させる点など、一目瞭然です。

もしこの基部に「鯱」や「飛龍」が描かれていたら、と思うと、身震いがしそうです。


なお安土城天主の場合、この上にさらに七重目があったわけであり、また廻縁は六重目の南北の張り出し(「小屋之段」)にもそれぞれ接続していた可能性があります。


安土山内/本丸とハ見寺の間の城道



さて最後に、この幻の廻縁に関して、是非とも指摘したい点が、かの「ハ見寺」(そうけんじ)との位置関係です。

ご承知のとおり、ハ見寺は信長が安土山上に建立し、フロイス『日本史』によりますと、信長の誕生日に合わせた参詣を領民に命じたと伝えられる寺です。


そうした寺の遺構は、本丸の南西200mほどの峰上にあり、したがって寺に詣でた領民は、いやがおうにも安土城天主の豪放華麗な西面を、より間近から仰ぎ見る形になっていたのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年07月05日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城天主に「八角円堂」は無かった!





安土城天主に「八角円堂」は無かった!


安土城天主CGの一例(復元:佐藤大規)



安土城天守を除いて、八角形の上層部分をもった天守は、いまだかつて伝えられていないし、そのようなものは、今までに認められていない。もし、まことに安土城天守の上層部が八角平面であったとすれば、後世、どこかで、だれかが模倣してもよいはずである。それを範としたと考えられる秀吉の大坂城天守においては、なおさらのことである。

(城戸久『城と民家』1972)


前回もご紹介した、日本の城郭研究のパイオニア・城戸久先生の発言ですが、日本史上、安土城天主のほかに、正八角形(八角円堂)を組み込んだと思しき天守が、一つも無かったことは、ゆるぎない事実です。

ところが、例えば上記CGの復元案には「日本建築の屋根の造り方の常識の内であること」(『よみがえる日本の城 22 安土城』2005)という説明の文言があったりします。

これは一体、どういうことなのでしょう??


今回は、日本の城郭研究者にとって、一種の“トラウマ”ともなっている「安土城天主の八角円堂」問題についてご紹介します。



岡山城天守



さて、ひとまず八角円堂は頭の隅に置きつつ、望楼型天守でかなりポピュラーであった構造物、屋根上の「張り出し」にご注目いただきましょう。

写真の岡山城天守では、下から三重目で手前に張り出した箇所ですが、これは大屋根の屋根裏階の眺望を得るため、階を部分的に大屋根の外にせり出して、窓と覆い屋根を設けたものです。


では試しに、この張り出しのある階とは、一般にどのような平面形をしていたのか、次の図をご覧下さい。





ご覧のとおり、階全体は十字形というか、赤十字マークのような形をしています。で、この形を的確に表現できる「日本語」は意外にも無いようです。

すると、それは必ずしも現代に限ったことでなく、ひょっとすると信長や秀吉の時代もそうであったかもしれない、と考えた時、ある大きな疑問が浮上します。

と申しますのは、この形、「角」が「八つ」突出しているため、便宜的に「八角」と呼んだことはなかったのだろうか?? という疑問なのです。



例えば、八つの角をもった建築は中国大陸に多くの事例があり、杜甫の「岳陽楼に登る」の詩で有名な岳陽楼は、日本では江戸期の襖絵でもよく知られています。


岳陽楼図(原在照筆/京都御所 御学問所)



また現に、中国河北省石家荘の毘廬寺(びるじ)正殿も十字形の平面ですが、「五花八角殿」との異名があります。

さらに有名な武漢の「黄鶴楼」をはじめ、四方に部屋(中国建築の用語で「抱廈/ほうか」)を張り出した手法は、より複雑さを増しながら、城壁の角楼や苑内の亭など、眺望を第一とする建築に特有の様式として大陸各地に普及しました。


   紫禁城角楼(北京市)        東岳廟飛雲楼(山西省)



我が国の天守の「張り出し」にはこれほどの複雑さはありませんが、中国建築の「抱廈」は、屋内と外気との間に設けた別空間を目的とし、そのバルコニー的な意味合いは共通していたのかもしれません。

したがって、十字形に八つの角がある平面は、「眺望」とたいへんに縁の深い形であったと言えそうなのです。

当ブログでは、この形を仮に「十字形八角平面」と呼ぶことにいたします。




そして一方、幻の安土城天主の復元においては、城郭研究史上の名だたる先生方は殆ど、六重目の「八角」(『信長記』類)を「八角円堂」であると解釈して来られました。


八角円堂とは、法隆寺の夢殿のごとく正八角形の平面をした建築であり、古来、アジアでは「故人の供養塔」に使われる場合が多かったものです。

ですから、安土城天主の復元案はいずれも、そうした八角円堂を最上階望楼の直下に組み込んでいることになります。

いったい何故、古今の城郭研究者は、文献中の「八角」を八角円堂と解釈したのでしょうか?



其外部は四方八面よりの美観を保つ為に出来た構造であったものと考へられる。(古川重春『日本城郭考』1974)

…(吉田)兼倶は「神霊管領長上」を自称し、伊勢の神霊が吉田社に移ったとして、京都東山に八角円堂の「大元宮」という新様式の建築を創始する。(中略)五階に八角円堂をもつ安土城天主は、そうした「大元宮」をさらに高層化したものといえよう。(内藤昌『復元・安土城』1994)

八角平面の建物も、もともと道教に由来する形式である。八角と四角の建物を上下に重ねた楼閣は、わが国においては安土城だけであるが、中国においては現存するものだけでも少なくない。(宮上茂隆『歴史群像 名城シリーズ3 安土城』1994)

八角堂構造は、現存する天守や、写真・図面等で形の分かっている失われた天守にも一つもない。あまりに独創的で真似されなかったのだろうか。(香川元太郎『日本の城 古代〜戦国編』1996)



ご覧のように、ここに列記した先生方は、何故「八角」かという理由づけはバラバラですが、その復元案は軒並み「八角円堂」を採用しています。


特に、中世住宅の「間」という言葉は一間×一間の広さ(一坪)を意味した、という野地先生以来の研究を支持した宮上茂隆先生まで、「八角四間程有」の「間」は広さでなく、長さと読んで、八角円堂の“直径”としてしまったのは驚きです。


これはもう、「八角円堂」が城郭研究者にとって、ある種の“トラウマ”になっているのではないか、と思わざるをえない状況です。



安土城天主には八角円堂があった―――この天守研究における“定説中の定説”には、もはや異を唱えるのも並大抵ではないのですが、今回は試しに、天守の歴史における「八角円堂」の出現例と、張り出し等による「十字形八角平面」の出現例の頻度を、比べてご覧頂きたいと存じます。






当ブログが申し上げたい意図は、上の表で一目瞭然でしょう。

右の「十字形八角平面」は、実際には、この何倍かの事例が歴史上に存在したのではないかとも思われます。


ですから最低限申し上げられることは、天守の歴史において頻発したのは、豊臣秀吉の大坂城天守を一つの原点とした「十字形八角平面」であり、“八つの角をもつ平面”としては圧倒的に主流を占めていたという事実です。


おそらくは、第二の望楼として“眺望”にふさわしい様式(「抱廈」)を採用したものであり、それが諸大名の望楼型天守において「張り出し」となり、全国に普及していったのではないかと思われるのです。


(※余談ながら、これは後に層塔型天守にも応用され、例えば寛永度の江戸城天守において、最上階のすぐ下の階で、四方に「張り出し」が設けられたのは、この手法の最終形態だったのかもしれません。)


ですから端的に申せば、「八角」とは、「供養」の場ではなく「眺望」のための場だったのです。




新解釈『天守指図』安土城と豊臣大坂城/二つの天守は相似形だった



この二つの天守が“相似形”だった可能性を考えてみても、やはり、安土城天主には八角円堂は無かった―― 日本の城郭研究がトラウマから解き放たれ、こう断言できる日の来ることを願ってやみません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!たった4坪だった?安土城天主の六重目





たった4坪だった?安土城天主の六重目


今回からいよいよ、新解釈『天守指図』の四重目から上、最上階までを順次、ご紹介してまいります。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』より



池上右平の重大な“加筆”が疑われる『天守指図』ですが、ご覧のように、二重目と三重目については、原資料(安土城天主の設計図の写し)に比較的、忠実な図である可能性を申し上げました。

では、その上の「四重目」はどうかと申しますと、これがまた“問題山積”なのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』四重目



まず図の中央に、吹き抜け空間を南北に渡る「橋」があり、ちょうど通柱(「本柱」)の上に架けられた形ですが、これは、せっかくの通柱が単独で「橋」を支えるだけの構造になっていて、やはり理解に苦しむものです。

また当ブログの『天守指図』新解釈においては、「高さ12間余の蔵」がはるか六重目まで達していた可能性があり、四重目に「橋」を考える余地はありません。


そして、いっそう大きな難点と思われるのが、「間」という言葉の意味の取り違えであり、宮上茂隆先生は次のように指摘しました。(※文中の「三階」は四重目のこと。『指図』は『天守指図』のこと)



それは三階に関し、『信長記』が「十二間」と記す室を、『指図』がすべて「十二畳」の広さに描いている点である。この『信長記』における「間」というのは長さを意味する場合のように「ケン」と読むのではなく、「マ」と読む。それが意味するところは一間(ケン)×一間(ケン)の広さ、すなわち今日いう一坪なのである。したがって「十二間(マ)」とあったら、畳敷にして二十四畳敷の広さがなければならない。

(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料に就いて(下)」)






つまり南側(図では上)の「竹ノ間」「松ノ間」と書き込みのある部屋は、『信長記』類の「南十二間」「次十二間」という語句に従うなら、それぞれ倍の広さでなければならなかったわけです。


以上のような批判は、『天守指図』四重目について、二つの可能性を示しているように思われます。

1.一重目と同様、四重目もまるごと池上右平の“加筆”だった?

2.本来の四重目は、三重目とほぼ同じ平面ではないのか?







つまり「原資料」は一見、四重目の図が欠けたようでいながら、実は(三重目と同じ平面のため)省略しただけかもしれない、という考え方もありそうなのです。


現に、東の張り出しの上に問題の「次十二間」(松の間)を見立てますと、『信長記』類の四重目の記述にある部屋は、すべて『天守指図』三重目の図に(若干の部屋割り変更だけで)当てはめることが出来ます。




さて、そのような考え方に立ちますと、七重分の図が揃わない「原資料」も、それはそれで“十分に完結した”書き方であったように思えてきます。


となると、原資料とは、一つの図で複数の階を表すような“略図”の類だったのかもしれません。



そこで本日のメインテーマ、「五重目」「六重目」の話にようやく入れるわけですが、ズバリ結論から申しまして、下の「五重目」の図は、「六重目」もいっぺんに表現した図ではないかと思われるのです。

すなわち、この中に、六重目の“八角ノ段”も描かれている(!)というわけです。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』五重目




この図に正八角形は無く、これまで数多の復元案においてトレードマークのようだった「八角ノ段(八角円堂)」は存在しません。

しかし別の解釈による「八角ノ段」が隠れているのです。


何をフザケたことを!!とお感じになるかもしれませんが、ここで重要な論拠が二つありまして、一つは先に挙げた「間」という言葉の問題です。



『信長記』における「間」というのは長さを意味する場合のように「ケン」と読むのではなく、「マ」と読む。それが意味するところは一間(ケン)×一間(ケン)の広さ、すなわち今日いう一坪なのである。

(宮上茂隆先生の前記著書より)




そこで『信長記』類の六重目の記述をご覧下さい。(※階の上下を逆に数える『安土日記』では「二重目」の記述)


岡山大学蔵『信長記』
六重め八角四間程有 外柱ハ朱也 内柱ハ皆金也 …

尊経閣文庫蔵『安土日記』
二重目八角四間ほと有 外柱ハ朱 内柱皆金也 …



先の宮上先生の指摘に従うなら、四重目において「間」を「マ」と読んで「1坪」の広さと解釈したのですから、六重目においても「間」は「マ」と読んで、「六重目は八角、4坪ほど有り」と堂々と解釈すべきではないのでしょうか??


たった4坪しか無かった六重目。しかも八角…


まさか!?とお感じになるかもしれませんが、この文献史料の情報どおりに「六重目はたった4坪しか無かった」とすることも、『天守指図』新解釈では可能であり、まさにそのように“図示”されているのです。









次回は、この「安土城天主に八角円堂は無かった」という、暴論すれすれの大テーマでお話したいと存じます。

何故なら、日本の城郭研究のパイオニア・城戸久先生がこんな発言をしたことがあり、私も長い間、同じ疑問を感じて来たからです。


特に六重目の「八角四間有、外柱は朱也」とあるのは、もっとも問題のところである。八角は文字通り、八角形と解すると、まことに異様な外形となる。もし、安土城の上層が、八角形であったとすれば、それが後世に、何等かの影響を与えてもよいはずである。

(城戸久『城と民家』1972)


日本の城郭史上、安土城天主のほかに、正八角形(八角円堂)を組み込んだと思しき天守が、一つも無かったことは、ご承知のとおりです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年06月22日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「ドーム」と海外に伝えられた安土城天主





「ドーム」と海外に伝えられた安土城天主


ご紹介しております安土城天主の「高さ12間余の蔵」。今回は、それが何重目まで達していたのか? という問題の手掛かりをさぐってみます。



小松城「本丸御櫓」/垂直に重なる上之間と石之間



前回、小松城の本丸御櫓の吹き抜け(石之間)は、その真上にある「上之間」御座敷の“格式を示すための様式ではないか”と申し上げました。


その理由は、この吹き抜けが透し彫りの格天井で飾られたほかに“何も無い空間”であり、したがって来訪者に華やかな天井で「上」や「天」を意識させることが、この場所の“唯一の目的”ではなかったかと思われるからです。


そうした特異な造形に関して、かつて櫻井成廣先生が面白い指摘をしたことがあります。

著書『戦国名将の居城』において、1736年(江戸中期)にパリで刊行されたシャルヴォア著『日本史』の中に安土城天主の紹介文があり、そこに「ドーム」という意外な言葉があることを指摘したのです。

(※この書物は安土城の銅版画でもお馴染みです)


シャルヴォア著『日本史』掲載の銅版画「安土城下の図」



同書は戦前すでに訳を完了したという老人があった(その人はシャルルワと発音していた)。その書はいまだに出版されていないが、従来日本には知られていない史料がいくつも含まれているので、ここに安土城に関する部分を少し訳して見る。
(中略/以下は訳文の一部)この塔は七重で日本の習慣にしたがっておのおのの階に屋根があり、おのおのの屋根と縁はその色彩のためにきわだって美麗であった。そこではおのおのの色を保存しまた更に引き立てるために、われわれのもっとも見事な鏡とほとんど同じ光彩を持ち、またいかなる風害にも耐えることができる漆が塗ってあった。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981)


このように『日本史』には、当ブログでもご紹介した「赤銅や青銅に透漆(すきうるし)を施したバテレンの絵の銅板彫刻」という、岡部家(安土城天主の大工棟梁・岡部又右衛門の家系)に伝わる話と相通じる表現があります。

そしてその表現の直後に「ドーム」という言葉が登場するのです。


この塔全体は頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのようなもので完成されていた。当時このドームは内側も外側も紺色やさまざまの絵やモザイクのようなたくさんの装飾で大層趣味よく飾られていた。そしてその豪華さを漆はさらに引き立てており、その絢爛さに人はそれから目を離すことも、見続けることもできないほどであった。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981)


文中の「ドームのようなもの」について、櫻井先生ご自身は天主頂上の屋根の形と解釈し、自作の復元模型に丸い起り屋根(むくりやね)を採用しました。


ただ、この屋根の復元案はあまり多くの支持が得られなかったようで、その後、シャルヴォアの「ドーム」という貴重な一語も、ほとんど顧みられなくなってしまったのです。



松本城天守の木連格子/「モザイク」??



ところが、文中にある「モザイク」の語源はそもそも「寄木細工」だそうで、それが転じて、イスラム建築のタイル模様などもモザイクと呼ばれたそうです。


ですから、シャルヴォアが書いた「このドームは内側も外側も紺色やさまざまの絵やモザイクのようなたくさんの装飾で」という文章から、いきなりイスラム建築の青い“円形の”ドーム屋根などを連想してしまうのは、かなり大きな間違いを犯しているのかもしれません。


もし「モザイク」という一語が、天守の破風に多用された「木連格子」や、金沢城の「海鼠壁(なまこかべ)」のような意匠を伝えた言葉だとしたら、それで飾られた「ドームのようなもの」は、必ずしも屋根ではなく、建物全体を示した可能性もありうるのではないでしょうか?


しかも『日本史』が出版された18世紀、欧州で「ドームのようなもの」と書けば、それは人々に「ドゥオーモ」、すなわち各地のランドマークであった「大聖堂(のようなもの)」と受け取られたようにも思われます。


サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ)

前記「安土城下の図」/大聖堂のように(?)描かれた天主



イタリア・フィレンツェの街に君臨するサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、15世紀に建てられたドゥオーモですが、1579年、ドーム屋根の天井にフレスコ画『最後の審判』を完成させました。

この年は天正7年、ちょうど安土城天主が完成した年でした。





ここで申し上げたいのは、天守とドゥオーモに建築的な影響があったか否かというような話ではなく、ただ安土城で“それ”を見たか、聞いた西洋人らが、結果的に本国に「ドームのようなもの」と伝えた認識の仕方に注目したいのです。

大聖堂の圧倒的な天井画は、人々に天上の世界を感じさせ、天に君臨する超越者“神”の存在を意識させます。





それとほぼ同じことが、小松城の「吹き抜け」でも試みられた節があるのであって、それは安土城天主の吹き抜け(高さ12間余の蔵)が先例になっていたと思われるのです。

そしてその狙いは、やはり天上世界を思わせる天井の上に、主君(の座す座敷)が天を越える超越者のように見える形を示したかったのではないでしょうか??

櫻井先生の訳文もまた、そうした仕掛けの存在を傍証しています。



この塔全体は頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのようなもので完成されていた。(前記の訳文より)


これを具体的に読み解きますと、信長の座す七重目(「御座敷」)が「一個の純金の冠」であり、その下の六重目以下は、まとめて「ひとつのドームのようなもの」であった、と解釈することも出来るでしょう。


そうした構想は、例えば『信長記』『信長公記』類に記された“障壁画も無い五重目”と“極めて華やかな六重目”という記録とも、ある意味“符合”しているようです。

つまり五重目とは中心部の「蔵」の続きであって、その上の六重目は「ドームのようなもの」の天井画に相当していたのかもしれません。



「安土城天主 信長の館」の復元六重目



ということは、「高さ12間余の蔵」は六重目まで達していた(!)という予想外の答えに到達するわけで、それでは、かの“正八角形とされる八角ノ段”はどうなってしまうのか!? といった新たな疑問も噴出して来ます。


そうした疑問につきましては、また回を改めて、じっくりご説明したいと存じます。





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2009年06月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!実在した「もう一つの吹き抜け」





実在した「もう一つの吹き抜け」


前々回から安土城天主に“ある種”の吹き抜け空間(高さ12間余の蔵)が存在した可能性をご紹介していますが、今回は、実在したもう一つの吹き抜けの例を見ておきましょう。

それは小松城(石川県)の実質的な天守であった「本丸御櫓」です。


小松城 天守台跡



現存の天守台上にあった「本丸御櫓」は、規模こそ格段に小さな数奇屋風の建築でしたが、丹羽家(長秀の子・長重)と前田家(利家の子・利常)という、安土城天主と濃密な関係にあった大名家と“二重に”ゆかりのある建物でした。


そうした「本丸御櫓」の詳細は、例えば松岡利郎先生の論考(喜内敏編『金沢城と前田氏領内の諸城』所収)が参考になり、まさに安土城天主の復元のためのヒントが“満載”された建物だったことが分かります。


そこで上記の本にある復元アイソメ図をもとに、模式図を作ってみました。


小松城「本丸御櫓」模式図/当図は一階の奥が玄関


建物の規模が小さいわりには天守の代用をなすものであり、極めて興味深い構成をとっていたことが知られる。ことに中央部の石之間が二階まで吹き抜けとされて、その上に透し彫りの格天井を張ったあたりは特異なもので、安土城天主に見られる手法を思わしめるものとして注目される。

(松岡利郎/『金沢城と前田氏領内の諸城』所収「小松城の建築」)


ご覧の「石之間」の真上には、まったく同じ位置、同じ広さで、三階「上之間」の御座敷(八畳)がありました。

しかも「石之間」は何に使われた空間なのか記録が無いようで、となると、このスタイル自体が、御座敷の“格式を示すための様式”だったのかもしれません。


小松城本丸御櫓は前田利常の建立にかかるものと見なされ、かつその前身が丹羽長重の天守であったと伝えられるところから考えると、丹羽・前田両家はともに織田信長に仕えてきた家柄であるから、あながち無関係とはいいきれまい。とりわけ、丹羽長重の父長秀は信長の安土築城にあたって普請奉行をつとめた人物であったことは見逃せない事実である。

(松岡利郎/『金沢城と前田氏領内の諸城』所収「小松城の建築」)

(※ちなみに前田家は話題の池上右平が仕えた大名家です)



では、安土城や小松城において「吹き抜け」と「最上階」「蔵」は、それぞれどういう関係にあったと考えるべきなのでしょう?


そうした疑問を整理するヒントが、本丸御櫓の最大の注目点でもある“厳密に区分けされた登閣ルート”の存在ではないかと思われるのです。





二階の左右両室は「側二階」として、たがいに分かれているうえに三階との連絡はついていない。

(松岡利郎/『金沢城と前田氏領内の諸城』所収「小松城の建築」)

図ではやや分かりにくいかもしれませんが、一階奥の玄関から入ったすぐ両脇に、左右の部屋に入るための引戸があって、それぞれを入ると目の前に「側二階」に上がる専用の階段がありました。

そして「側二階」は、玄関から石之間を経て(図では手前の)裏口まで続く通路によって、左右(東西)に分離されていました。


さらに「石之間」から三階「上之間」に直接上がる専用の階段室もあり、これら三つの登閣ルートはそれぞれ完全に独立していて、玄関付近で別れた後はもう連絡することが無かったのです。


この不思議な階層構造は、一見、何を目的としていたのか想像も出来ませんが、もしかすると、安土城天主の「高さ12間余の蔵」が何か影響を与えた結果なのではないでしょうか?


安土城天主の「蔵」空間は周囲から隔絶されていた?



と申しますのは、(前回の記事のとおり)専用の階段室があった「蔵」空間も、実は、周囲の居室空間と隔絶した構造になっていて、小松城と同じように、別々の登閣ルートを進む形になっていた、と考えられるかもしれないからです。


しかも、そう考えますと、例えば村井貞勝らの天主拝見を記録した『安土日記』には「高さ12間余の蔵」がまるで登場しないという不思議さ… つまり貞勝らは、行きも帰りも居室空間を通って、七重を昇り降りしたからである、という謎解きの可能性も出てくるのです。



ならば何故、織田信長は重臣に「蔵」を見せなかったのか? という疑問は、この一連の問題の核心に迫るポイントなのかもしれません。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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