城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/02

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (263)



全エントリ記事の一覧はこちら

2009年2月

新着エントリ
城の再発見!さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング (10/18)
城の再発見!『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか?? (10/13)
城の再発見!家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点 (9/29)
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (23)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)


アクセスカウンタ
今日:2,038
昨日:2,207
累計:2,205,460


RSS/Powered by 「のブログ

2009年02月25日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣秀吉の生涯最大の発見





豊臣秀吉の生涯最大の発見


今回はやや話を戻しまして、「十尺間の天守」に関連した、ある興味深い「本」を見つけたので、その話題でチョット書きます。


下の図は、関白秀吉の大坂城天守の柱割を推定したものです。

こうした破格の(十尺間の)天守は、関白政権(今谷明先生のおっしゃる“王政復古”政権)を喧伝するため、秀吉があえて建造したものと想定しています。



  (※詳細はぜひ2008冬季リポートをご覧下さい)


何故こんなものが必要だったか?と申しますと、例えば「天下」(「天下布武」)という言葉は、中国大陸での用例を踏まえれば、分裂した戦国の世を再統一する願望が込められた言葉だったようです。
(参考:古くは安部健夫著『中国人の天下観念』など)

また立花京子先生も、天下布武の語源について、中国の古典に「天下に武を布き静謐と為す」意味の語句があるのではないかと探し、「七徳の武(しちとくのぶ)」を挙げておられます。


同様に「天守」という名称にも、どこか“古代の統一国家への回帰”という調子が含まれていて、秀吉の王政復古政権を喧伝する「十尺間の天守」も、その範疇にしっかり納まるものだと感じています。


ところが最近、まったく別の視点から「秀吉の狙い」を読み解くヒントが得られそうな本を見つけました。



国際日本文化研究センターの井上章一先生がお書きになった『日本に古代はあったのか』(角川選書/2008年)がそれです。

(※※城郭関連の本ではありませんので念のため)

この本で、井上先生は「自分は歴史学者ではない」と何度も断りながら論述されてはいるものの、その指摘にはハッとするものがあり、要は、日本史には「古代」はもともと存在せず、原始社会からいきなり「中世」封建社会になったのではないか、という内容なのです。




現状の歴史区分をおおまかに申し上げますと、西洋史では、「古代」とは古代ギリシャや古代ローマなどの「奴隷が生産を担った時代」であり、それは5世紀の西ローマ帝国の滅亡で終わり、その後は「中世」に区分されます。

にも関わらず、日本史で「古代」が終わり「中世」になるのは、武家政権が胎動する11世紀頃の院政期とされていて、西洋史に比べると700年も遅く、(前漢の滅亡を古代の終わりとする)中国史に比べると、1000年も遅くなってしまうわけです。


何故こんなことになるのか?? この本によれば、その原因の一つに、第二次大戦後、マルクス主義史観の学者たち(渡辺義通、石母田正といった人々)がそう決めてしまった、という背景もあるそうです。



そこでこの本では、日本に「奴隷が生産を担った古代」など本当にあったのか、という話が展開されていくわけですが、特に興味を引かれたのは、旧ソ連(!!)のコンラードという学者まで例に出して、外国人の研究者がやはり日本の歴史区分はおかしいと感じている部分の紹介でした。


「日本では、武家の台頭によって封建制ができあがったとされやすい。しかし、コンラードは、官僚貴族も封建諸侯であったと考える。公家も武家も、ひとしなみにあつかわれていたのである。(中略)ともに、農奴からあがりをまきあげていたという点では、つうじあう。だから、律令制下の公家社会もまた、封建的であったと、そう考えたのである。」
(『日本に古代はあったのか』)

つまり経済基盤から言えば、公家も、武家も、同じく農民(農奴)に頼った封建領主だ、というわけです。



そこで話は「秀吉」にもどるのですが、百姓から武家になり、やがて豊臣姓を下賜され、人臣を極めた秀吉は、日本の階級社会を突き抜けたスーパーマンのようにも言われます。

ところが『日本に古代はあったのか』のように、日本は有史以来、「中世」封建社会だったとすると、秀吉はことさら特殊な人間ではなかったのかもしれません。


秀吉は、織田信長の家臣であった頃、京都奉行として“公家”をじっくり観察できる時期がありました。

ですから、ひょっとすると、秀吉の生涯最大の発見は「西洋の歴史に照らせば、日本の公家も、武家も、同じ穴のムジナだ」と見抜いて、関白政権の実現性をまったく疑わなかったことではなかったのか、とも思われるのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



2009年02月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!秀吉の天守は“次の攻略目標”を指し示した





秀吉の天守は“次の攻略目標”を指し示した


前回、天守の「正面」論議についてお話した中で、その「外正面」が“敵方”を意味していた可能性に触れました。


  前回の略図(犬山城天守)より


今回は、そうした織豊期天守の驚くべき“模範例”として、天下人・秀吉の天守群の隠された目的を指摘してみたいと思います。


  豊臣秀吉像(大阪 豊國神社)


主君・織田信長の横死後、天下の覇権をめざした羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、その後の生涯で次々と居城を築き、“普請狂”と揶揄(やゆ)されました。

築城開始年
天正10年 天王山城(山崎城)
天正11年 大坂城
天正14年 聚楽第
天正17年 淀城
天正18年 石垣山城
天正19年 肥前名護屋城
文禄3年  伏見城(指月)
慶長元年  伏見城(木幡山)



この他にも、いわゆる妙顕寺城など京屋敷の類を含めますと、もっと数は多くなるわけですが、そうした居城のうち、「天守の位置や向き」がある程度はっきりしているのは、赤文字と以下の図で示した六つの城と言えるでしょう。

(※図はいずれも上が真北です)


天王山城(山崎城)


【天守の外正面=北 →北ノ庄城の柴田勝家??】


信長亡き後の織田家中で、厳しく対立した二大巨頭が、秀吉と柴田勝家でした。

秀吉は清洲会議で山城国(京都)を手中にすると、早速、天王山(大山崎町)に築城を開始。それを知った柴田勝家は「憤激した」と伝えられますが、その理由は定かでありません。

  天王山

  天守台石垣の痕跡


完成した城の本丸(山頂)には、北寄りに天守が建てられ、現在もその天守台の痕跡を見ることが出来ます。

問題はその方角であって、外正面はズバリ「北」を向いています。

つまり(憤激した)柴田勝家の居城・北ノ庄城(福井県)を、次なる攻略目標として指し示したような形で、その天守は山頂に建っていたことになります。




大坂城


【天守の外正面=北 →京の朝廷??】


各種の絵図によって、秀吉の大坂城天守は、本丸の「北東」隅にあったとされています。
しかしそれは「鬼門」の方角に当たるため、秀吉は何故そのような位置を選んだのか不審とされて来ました。


が、これについても外正面(この場合も「北」)を考えますと、答えの手掛かりが得られるのかもしれません。


と申しますのは、築城が始まったのは天正11年の夏のことですが、天守台の工事に取り掛かった9月、秀吉はいわゆる「大坂遷都計画」を周囲に語ったという旨の伝聞が、本多忠勝の書状にあります。

この時、秀吉は、城に隣接した天満地区に新たな御所を建設し、都を移そうと画策していたと言われます。


そうした中で、天守を本丸「北東」隅に建てたということは、例えば、はるか淀川上流(北東)の京の朝廷を、新たな攻略目標に挙げ、政治的圧力をかける意思を示した、と解釈することもできるのではないでしょうか。




聚楽第


【天守の外正面=西 →「明」帝国??】


しかし遷都計画が朝廷の強い抵抗で挫折すると、今度は、秀吉の方から朝廷に接近するような形で、京の都に聚楽第が造営されました。


この聚楽第の天守の位置はさほど明確ではないのですが、本丸「北西」隅にあったという説が有力です。

そして三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』を参照しますと、完成した天守は、内正面が東の御所を向き、外正面が西を向いていた可能性が濃厚です。


すでに九州遠征は終わっていたこの段階で、何故、攻略目標が「西」なのか?

それを解くヒントは、秀吉の辞世として有名な「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」という文言に隠れているようです。


この句は、ご承知のとおり、実際は聚楽第の“完成披露の席”で秀吉が詠んだ句であり、秀吉の死後に孝蔵主が辞世の句に推挙したものでした。


ですから「ゆめの又ゆめ」とは、挫折した「大坂遷都」のことであって、また「つゆとをち〜わがみかな」とは、すでに秀吉が計画を表明していた大陸遠征(朝鮮出兵)において、秀吉自身も渡海して「遠征先で果てる」覚悟を詠ったと考えるべきでしょう。

そうした当時の状況を踏まえますと、外正面の「西」は、やはり大陸の「明」帝国を、次なる攻略目標として天下に示したものと思われるのです。




肥前名護屋城


【天守の外正面=西 →「明」】


そして現実に朝鮮出兵の本営となった肥前名護屋城の天守も、当然のごとく「西」を外正面にして建てられていて、“作法”をしっかりと踏まえていたことが分かります。



伏見城(木幡山)


【天守の外正面=西 →「明」】


その後、14万余の将兵を朝鮮半島に送ったまま、秀吉が没した木幡山の伏見城も、肥前名護屋城と同じく、天守は本丸「北西」隅にあったと言われます。

外正面は、言わば“未完の攻略目標”として、秀吉の妄執のごとく「西」を向いていたと考えられるのです。




さて、ご紹介の順をあえて飛ばして、最後に挙げてみたい城が「石垣山城」です。

この天守の場合は、やや変わった“対象”が攻略目標にされた節があるからです。


石垣山城


【天守の外正面=南西 →???】


北条氏の巨城・小田原城を攻囲する「小田原攻め」では、徳川家康、織田信雄などの諸大名が動員され、秀吉の御座所として、小田原を見おろす傘懸山(かさがけやま/別称:石垣山)に城が築かれました。


その石垣山城の天守は“妙な方角”を外正面にしていました。

小田原城のある東側ではなく、一見、戦と無関係のように思える「南西」を向いていたのです。


いったい石垣山の南西に何がある?と地図をたどりますと、なんと、その先にあったのは豊臣大名・徳川家康の駿府城なのです。





記録によれば、秀吉の命令による徳川氏の関東への国替えは、この小田原攻めが終わるとそのまま実施に移されました。

つまり家康は駿府に戻ることなく、戦支度のまま江戸に向かい、新領地に入ることになるのです。


そうした「関東移封」をいつごろ家康が受諾したかは、様々な研究がありますが、遅くとも小田原攻めに参陣した時点で、すでに家康主従は国替えを覚悟していたと考えられています。


そして家康の陣は、小田原城の東側に設けられ、ちょうど家康の視点からは、小田原城の向こう側(西側)に石垣山が見えるような位置になりました。


そして始まった石垣山城の築城。 見る見るうちに城が形を成し、ついに天守が本丸の南西寄りに姿を現したとき、(北条勢の驚愕よりも)強い衝撃を受けたのは、「家康その人」ではなかったでしょうか??


秀吉の天守は「無言の恫喝」となって、豊臣の最有力大名・徳川氏をすみやかに関東へと追いやったのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



2009年02月08日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守の「四方正面」が完成するとき





天守の「四方正面」が完成するとき


最近、「天守とは何か」という話題をめぐって、各誌のインタビュー記事などで、広島大学の三浦正幸先生が、天守と櫓(やぐら)の決定的な違いは「四方正面であること」という発言を度々されています。(カラット『自遊人』3月号など)

城郭の建築的な検証において、かつてない規模で体系化をはかる三浦先生らしい指摘だなあと、たいへん興味深く感じました。

ふつつかながら、この私も、そうした天守の「正面」論議に参加させて頂きたく、チョット書きます。


三浦先生のご発言の趣旨は、
●櫓は城内側に窓がない(極端に少ない)のに対し、天守は、第一に、篭城戦で司令塔の機能を果たすため四方に「窓」が不可欠で「四方正面」になること
●そして第二に、城下町に囲まれた居城では、大名の格式として、城下のどの方角にも正面を見せるため「四方正面」でなければならない
という重要な定義を含んでいるようです。




この寛永期の江戸城の絵でもお分かりのように、三浦先生のそうした定義は、まるでミツバチに囲まれた女王バチのごとく、城と天守が城下町に取り巻かれ、それらを睥睨(へいげい)していたイメージと、まさに合致するものです。


ただ、私などの率直な感想を申し上げますと、「天守は最初からそうだっただろうか?」という思いもあるのです。


長浜城             犬山城


特に、織田信長から豊臣秀吉までの戦乱の時代、城に“攻守のベクトル”が根深く存在し、城下町は城の片側にしか無く、望楼型天守が一般的だった時代までは、やはり天守には「正面と側面の明確な違い」があったように思われてなりません。




これは犬山城天守の略図ですが、天守の入口は、本丸以下の城内や、その先にある城下町の方角にも、ピタリと合わせて設けられていて、この面が天守の「正面」であったと解釈せざるをえない状況です。


しかもその「正面」は、言うなれば「内正面」と「外正面」とでも表現すべき、ある種の概念(作法)を含んでいたようにも思われるのです。


と申しますのは、織豊期の天守は多くが本丸の一隅に建てられたわけですが、「内正面」は本丸など城内(および城下町)を向いた面であり、傾向として「破風がやや多い」などの特色を持たせて、「味方」「内輪」「家中」「幸い」といったニュアンスを含ませた感があります。


その反対側が「外正面」であり、これはもろに城外に向いたケースも多く、城の「敵方」を意味し、統一戦争を進めた織豊大名の「険しい形相」を示した面とも言えるでしょう。


例えば先の図の犬山城は、尾張と美濃の国境にあった城ですが、「外正面」は木曽川沿いの断崖の上に屹立した面であり、北の美濃に向けられていて、実際にも、木曽川の対岸は敵勢が布陣したことのある場所でした。


ただ、この「外正面」はもう一つ別の意味も持ち合わせていたようで、「敵方」のほかに「正式」「公儀」「主君」といった意味でも使われ、つまり外正面は「城として正式に対峙すべき方角」を示していたようなのです。

例えば図の長浜城の場合、その「外正面」は琵琶湖を向いていたはずで、そうした姿を城下町の側から見ますと、長浜城天守は、その先に、天下人である「主君」織田信長の居城・安土城を、はるかに指し示していたことになるのです。


  長浜城歴史博物館の模擬天守



こうした考え方は、三浦先生の定義のように、「窓」の有無(多寡)という建築の物理的(物質的)な指標では判断できないのですが、とりわけ豊臣秀吉の時代、多くの大名が居城をあえて海沿いに移し、天守が「海辺の突端」に築かれたりした時代があったことを思うと、なおさら強調せざるをえません。


その分かりやすい例が、いわゆる豊臣五大老の一人、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の居城・名島城(なじまじょう)と、その後の福岡城の築城をめぐる一件ではないでしょうか。


  名島城の推定図


名島城は、福岡県の博多の東5キロほどに城跡があり、ご覧の図は、現地の地形図の高低に合わせて、伝来の城絵図をどうにか重ねてみたものです。
(※見づらくてスミマセン!!)

実はこの話題は、今年末のリポート(2009冬季『そして天守は海を越えた』)でたっぷりご紹介しようと予定している話題の一部分でして、作図がやや準備不足ですが、この際、かいつまんでお話しましょう。


名島城は、城絵図にある石垣の間数を合算しますと、まさに豊臣五大老にふさわしい大規模な居城であったことが分かり、特に、天守曲輪や本丸は玄海灘に突き出すような形で築かれていました。

もちろん城下の侍屋敷は陸側のわずかな土地にしか設けることが出来ず、おそらく天守の内正面は東の本丸等を向き、外正面は西の「海」を向いていたでしょう。


この場合の海は「敵方」であり、豊臣五大老の立場にふさわしく、政権の大政策・朝鮮出兵に呼応して、海の彼方の「明」帝国を仮想敵とする姿勢を示していたものと思われます。


こうした海辺の築城は、全国で数え上げますと、豊臣政権下でかなりの数にのぼったことが分かります。


しかし歴史の流れは、ご承知のとおり朝鮮出兵の大失敗という破局を迎え、関ヶ原戦を経て徳川氏が幕藩体制を志向すると、鎖国政策のため諸大名は「海」と決別せざるをえず、一斉に居城を内陸部に移し、領内の農政と城下経営で藩を運営する時代が始まりました。

現在、各地にのこる城下町は、すべてこうした江戸時代の立地の名残です。


名島城も例外でなく、入封した黒田長政によって廃城となり、新たに、より内陸部で広い城下町を建設でき、しかも商都・博多に隣接する城として「福岡城」が築かれたのです。


この段階に至ってようやく、各地の天守は、四方に城下町を取り巻く形が可能になり、領内統治の印として「四方正面」を完成できたと言えるのではないでしょうか。

その姿は、個々の領内で統治が完結する分権国家(幕藩体制)にふさわしく、そうした推移と、いわゆる「層塔型天守」の普及とが、時期的にリンクしていることも要注意かもしれません。


結局のところ、天守とは、政治体制の違いによって概念を大きく変えた建造物だったと思わずにはいられないのです。

(※なお「天守は篭城時の司令塔」というテーマも興味深く、篭城から落城に至る経緯が文献で比較的詳しく伝わる伏見城や大坂城を例に、回を改めて、ご紹介したいと思います。)




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



2009年02月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!特撮映画の神様がつくった豊臣大坂城





特撮映画の神様がつくった豊臣大坂城


映画・テレビに登場する天守は、現存や復興の「別の」天守を「堂々と」画面に映し出すことが日常茶飯事であって、これは映画の誕生以来、百年以上もまかり通っています。

例えば姫路城天守で「江戸城」と字幕を打つカットなど、かの『暴れん坊将軍』の旧作でお見かけしたりすると、ある種の“爽快感”も漂うほどです。


でも、2、3日前に時代劇専門チャンネルで見かけたNHK大河『おんな太閤記』(1981年放送)では、秀吉の長浜城を、岡山城天守の妙な仰角アングルでこなしていたら、次に、その岡山城のシーンが来てしまい、やむなく松江城天守で「岡山城」と字幕を打っていました。

その時の、現場のスタッフの狼狽ぶりが目に浮かぶようです。


さて、当ブログがこだわる豊臣時代の大坂城も、映画やテレビにさんざん登場してきましたが、そうした中で「さすがは!!」と感じ入った1本が、三船敏郎主演の東宝映画『大坂城物語』(1961年公開)です。

映画の冒頭シーンからタイトルバックが、豊臣大坂城の威容を見せつける移動ショットで、終盤クライマックスの砲撃で櫓の壁が崩れるシーンなど、みごとなミニチュアセットの特撮で表現されています。




この映画、特技監督はあの円谷英二(つぶらやえいじ/1901−1970)であり、つまりは、ゴジラを創造した“特撮映画の神様”が手がけた豊臣大坂城なのです。


時期的には、円谷監督60歳の時の仕事で、前年には傑作『ガス人間第一号』、同じ年には日本映画初の海外同時公開『モスラ』、翌年には東宝30周年記念『キングコング対ゴジラ』公開という、東宝特撮映画の黄金期につくられた映画です。


そして写真でご覧のとおり、この大坂城天守の造形は、まぎれもなく故・櫻井成廣先生の復元案を忠実になぞっています。

(※エントリ記事「大坂城に七色の天守はあったか?」ご参照下さい。ただし円谷監督は、櫻井先生の復元案にある屋根の色については、さすがにそのままは採用できなかったようで、普通の土瓦で屋根を葺いています。)

また映画のクライマックスでは、櫻井先生が復元に苦心された千畳敷御殿も、みごとな仕上がりで登場し、二階部分から「炎上」しています。


なお余談ながら、この円谷監督の豊臣大坂城は、市川染五郎(現・松本幸四郎)主演『士魂魔道 大龍巻』(宝塚映画/1964年公開)という作品でも、まったく同じミニチュアセットのシーンが登場します。

こちらも特技監督に「円谷英二」の名がクレジットされるのですが、映画を見続けても、それ以外に特撮シーンが一つも見当たらないまま物語は進み、ラストになって、びっくり仰天の“大特撮シーン”が現れ、筋立てがドンデン返しを食らうという、かなり破天荒な作品です。
(※失礼!両作とも映画全体は名匠・稲垣浩監督の作品です。)


こちらは『大坂城物語』とは制作年度が違うため、きっと豊臣大坂城のシーンは、撮影済みのフィルムを、両巨匠(稲垣&円谷コンビ)の一存で、制作会社の違いも乗り越えて「使い回した」のではないでしょうか??




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ