城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/04

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2009年04月26日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・安土城と大坂城の天守も相似形





続報・安土城と大坂城の天守も相似形


『天守指図』の新たな見方による安土城天主と大坂城天守



前回もご覧の図のように、静嘉堂文庫蔵『天守指図』にある安土城天主が、豊臣秀吉の大坂城天守と相似形だった、という考え方に立ちますと、さらに色々とオモシロイ発見が浮上して来ます。


今回はその一つ、石蔵(穴蔵)入口の不思議な「鍵型の曲がり」についてご紹介しましょう。


天主台遺構(グレー)と『天守指図』二重目(赤)



まず上に挙げた図は、現状の天主台遺構の上に『天守指図』を重ねたものです。

ベースの地形図は(例えば私がトレースした陰影図などでは説得力に欠けるため)誠に恐縮ながら、滋賀県による発掘調査後に発表された図を借用させていただきました。


重ね合わせた両方の図は、ただ天主台の礎石だけを合わせてダブらせた状態ですが、たったそれだけでも、妙に、ピッタリと来る感じがあります。


そして今回、話題の焦点となるのが、天主台の左上にみえる「石蔵(穴蔵)の入口」です。





この場所は、左(東)側から石段を登り、天主台の地中に設けられた石蔵(穴蔵)に入る部分ですが、図と写真でご覧のとおり、途中で右に折れて斜めに登り、また左に曲がって石蔵内に入るようになっています。

つまり石段が直進せず、鍵型に曲がっているのです。



普通、物を蔵に運び入れる時、階段が曲がっているより直進していた方が、作業が容易なのは自明の事です。


しかしこの場所はわざと鍵型の曲がりが設けてあり、まさか、このような場所でも“敵の侵入”を考慮したのでしょうか??


全国の天守台にこのような入口の構造の類似例は無いように思われますが、こうした鍵型の曲がりの理由についても、何か言及されたことは無いようです。



ではいったい何故、織田信長はこのような構造を「良し」としたのでしょう?

その隠された理由が、『天守指図』をダブらせることで見えて来るのです。





ベースの遺構の図と、黄色い建築部分との“重なり”に注意してご覧いただきますと、問題の鍵型の一部が、地上(天主台上)に口を開けていることがお分かりになるでしょう。


ということは、例えば、この穴から(階段などを使って)真っ直ぐ進んで天主台上に上がることが出来れば、そのまま天主台上の“空き地”を通って、天主の北側へ回りこむことが出来ます。


では天主の北側に何があるか――― 下図のとおり、天主から張り出し、かつ東西に自前の出入口をもった「土蔵」と思われる構造物に達するのです。






こう考えてみますと、なぜ石蔵入口の石段が鍵型に曲がって築かれたのか、その理由が初めて見えて来たのではないでしょうか?


石蔵入口から入った者は、天主の東の張り出しの下を潜りつつ、場合によっては石蔵に向かわず、北側の土蔵に物を搬入するルートをたどることも出来た、ということであり、石蔵と土蔵は別の用途で使い分けられた可能性がありそうです。

もちろん天主台上への出口の上には、屋根(覆い屋)があったものと思われます。



こうした『天守指図』の新たな見方に基づきますと、安土城では、天主台周囲の“空き地”が様々な形で利用されていた姿が想像されます。


例えば図のように、天主は(土蔵を含めると)七ヶ所も、それぞれ別個の目的をもつ出入口があった、とも思われるのです。


(※前回から話題の『天守指図』は、天主の中心部に描かれた「吹き抜け構造」も関心の的です。その点につきましては、これぞコロンブスの卵、と申し上げられる仮説と共に、いずれ詳しくご紹介する予定です)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年04月20日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城と大坂城の天守も相似形だった!?





安土城と大坂城の天守も相似形だった!?


前回、秀吉の大坂築城が、まず天守台の築造から始まったことを申し上げました。

その天守台上に十尺間の黄金天守が建つまでには、実は、一波乱も二波乱もあったものと考えています。


その詳細については2008冬季リポート、及び次回リポートでご紹介しますので、今回はその「天守台」をめぐって、またまた驚きの“相似形”が存在した可能性を指摘しましょう。


それは織田信長の最後の城・安土城の天主台にも、かの「空中庭園」があったかもしれない、という話でもあります。




豊臣大坂城の天守台(十尺間の柱割による復元案)



さて、以前にもご覧いただいた秀吉の大坂城天守台ですが、高さ9間余(約18m)の一段目の石垣の上に、石塁(二段目)が四角形にめぐっていて、その上に天守の建築(赤線部分)が載っていました。


そして一段目の北東隅の“空き地”が、信長の岐阜城山麓の四階建て楼閣における「空中庭園」のなごりであった可能性を、以前の記事で申し上げました。


こうした“空き地”が織豊期の天守台によく見られたことは、西ヶ谷恭弘先生が指摘されたとおりです。

では、織豊期天守の産みの親でもある織田信長の、安土城の天主台には、同様の“空き地”は無かったのでしょうか??




そこで、以下にズラッと並べた図は、これまでに登場した安土城天主の復元案のうちのいくつかです。


土屋純一案       古川重春案       櫻井成廣案


渋谷五郎案(右下)     内藤昌案        佐藤大規案



それぞれの詳しい紹介は省略させていただきますが、一点だけ申し上げますと、上記の案はいずれも、天主台が一段で築造され、その天主台いっぱいに建築が建っていた、と考えられた点が共通しています。




一方、下の宮上茂隆先生、松岡利郎先生、西ヶ谷恭弘先生の案は、天主台が「二段式」で築造され、その二段目の上に建築が建っていて、一段目の上は“空き地”だった、という点が上記のものとは異なります。


宮上茂隆案       松岡利郎案       西ヶ谷恭弘案



細かいことのようですが、この点が大変に重要なのです。

で、その違いは何によるものか? と申しますと、それは例えば、宮上案が当時の天守の平均的な広さにこだわり、また「安土ノ殿主ハ二重石垣」(『信長記』)と伝わる点を踏まえていることです。



現実の安土城天主と天主台との関係は恐らく大坂城に似ていた(大坂城が安土城を模した)であろう。すなわち不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。

(宮上茂隆『国華』第998号「安土城天主の復原とその史料に就いて(上)」より)



この二重石垣(二段式)案が少数派なのは、やはり『信長記』『信長公記』類の天主台の広さに関する記述(北南へ廿間 西東へ十七間)を重視すると、そういう結果に落ち着かざるをえないのかもしれません。


ただ、私などが思うには、「二段式」と「広さ」と遺構の三者を満足させる、コロンブスの卵のような、画期的な復元案が無くもない(!)ように思われるのですが、いずれにしても、現状の天主台跡を全面的に調査すれば、ことはすぐに判明するはずです。



その点、近年の滋賀県による発掘調査は、天主台の外側石垣に関して、八角形と言われる石垣の隅角部を確認するだけに留まり、全体が一段だったのか二段だったのか、という観点から、痕跡を探すような全面的な発掘調査が行われなかった点がやや残念です。

もし将来、活動再開があるなら、是非とも、すべての土砂を撤去した形での調査をお願いしたいところです。




そんな中でも、冒頭で予告した、天守台の驚きの“相似形”が、予想外の展望を切り開いてくれそうなのです。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目



これは先の内藤昌先生の復元案の拠り所となった指図で、現状の天主台遺構とも合致する点が多く、注目された史料です。

内藤先生はこの指図(江戸時代の写本)とその書き込みに沿った形で、不規則な八角形の天守台いっぱいに建築が建てられたと考証しました。



すると先の宮上茂隆先生が反論を起こし、大論争となったのです。


『天守指図』の天守のような不整八角形プランの建築が突然現れて、消えていったとは考えられない。その平面は矩形とは何の関係もない文字通りの不整形であり、平面からみて母屋・庇的な構造にもなり得ない。

(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料に就いて(下)」より)



ところが、ところが、この『天守指図』… 仮に、書き込みに一切とらわれずに、「線」だけに注目して、次のように色づけしてみた部分と、大坂城天守とを比べますと、思わぬ事実が明白になるのです。




安土城天主と大坂城天守、実は相似形?



ご覧のとおり、このようしてみると、両者はともに、天守本体の東側と北側に張り出しのある「相似形の建築」に見えてくるのです。


しかも両者ともに、東側は「天守入口」であり、北側はおそらく「蔵」であって、それらを除いた本体の規模は、ともに「11間×12間」だったと想定できるのです。



すなわち『天守指図』の天守台上にも、やはり周囲に“空き地”がめぐっていて、それらは信長自慢の「空中庭園」であった可能性が想像されてなりません。



はた目には不倶戴天の敵同士とも見えた両先生ですが、なんと、内藤先生が世に出された史料と、宮上先生が強固に主張された説とが、実は、ぴったり重なり合うという事実が隠れていたのです。






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2009年04月13日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城に隠された、もう一つの相似形





大坂城に隠された、もう一つの相似形


予告どおり大坂城の話題に戻ります。

ただし前回まで「天守の発祥」について色々とお話しましたので、豊臣秀吉の大坂城においても、天守(特に天守台)の築造がいかに肝心要の事業だったかをご紹介します。


大阪城の航空写真(※上が南)



かつて東洋学者の藤枝晃先生が、「大阪城の本丸は前方後円墳だった」という説を発表しました。


航空写真でご覧のように、現在の大阪城は徳川幕府の再築を経たものですが、本丸の形には前方後円墳の面影が感じられ、藤枝先生がおっしゃったとおりのようです。

そうしますと、この場所の歴史的な変遷としては、前方後円墳→→石山本願寺→豊臣氏の大坂城→幕府再築の大阪城→現在の大阪城公園ということになります。


そして当ブログは、さらにもう一つ、大坂城には“意外な相似形”が隠されていることを指摘したいと思います。






左の豊臣大坂城の図で青く示した部分は、いわゆる本丸の奥御殿と表御殿、そして二ノ丸の(塀で区画された)南部のスペースです。

この部分を仔細に眺めますと、妙なことに、秀吉の有力家臣だった蒲生氏郷(がもううじさと)の会津若松城に酷似しているのです。



すなわち豊臣大坂城の本丸奥御殿は会津若松城では本丸にあたり、同様に、表御殿は二ノ丸にあたり、二ノ丸南部は会津若松城では三ノ丸にあたるというわけです。


しかも天守台の配置もそっくりであって、それぞれの曲輪の屈曲の具合まで、妙に似ていることがお分かりでしょうか?

(※表御殿と会津若松城の二ノ丸は“左右”が反転している可能性もあります)


これは、まるで一方が、もう一方を参照しながら築城したようにも感じられます。

(※勿論、時系列では大坂城の方が先です)



このように見直してみますと、豊臣大坂城の縄張りには、実は、本丸・二ノ丸・三ノ丸が一列に並んだ「連郭式」のレイアウトが隠れていた可能性があるのです。

これには一体、どういう経緯があったのでしょうか?

その謎を解くヒントが、右の「山科本願寺」の復元図にありそうなのです。






山科本願寺は、浄土真宗の中興の祖と云われる蓮如が、文明10年(1478年)、門徒らと共に京都の東・山科盆地に築いた寺内町です。

ここには武家の城に先行する大規模な土塁のあったことが注目されていますが、やがて六角定頼と日蓮宗徒の焼き討ちに遭うと、教団は大坂の石山(豊臣大坂城の前身、石山本願寺)に移転しました。


そうした山科本願寺と豊臣大坂城は、全体のレイアウトが似ているのです。

殊に北部(図では下)のカーブを描いた辺り、豊臣大坂城で云えば前方後円墳の「円」にあたる箇所はよく似ていて、天守台と山里丸の高低差のある部分が山科本願寺では「大ホリ」にあたり、また二ノ丸南部に向けて曲輪が斜めに接続していく形も同じです。


何故このような相似形が生まれたのか?

それはひょっとすると、この山科本願寺のレイアウトを踏襲しながら、大坂の石山本願寺は前方後円墳の上に建設され、それがすでに、のちの豊臣大坂城とほぼ同じ連郭式の土塁造りの城塞になっていた、ということではないのでしょうか??




石山本願寺の復元に関しては、すでに諸先生方による研究が進んではおりますが、この“思わぬ相似形”が示す仮説ならば、かの千貫櫓(せんがんやぐら)の石山本願寺時代の位置についても、無理なく説明することが出来ます。


千貫櫓とは、織田信長の軍勢が石山本願寺を攻めたとき、難攻不落の手強い櫓を「千貫、銭を出しても欲しい櫓」と呼んだことに始まります。




そしてその位置は、仮説のとおりならば、豊臣大坂城の千貫櫓とまったく同じ場所だった、と考えることも可能になるのです。



ですから、秀吉による第一期の大坂築城とは、実は、堀を一から掘り始めるような土木工事はごく一部に限られ、多くは石山本願寺の構造をそのまま流用して、もっぱら総石垣の構築に全力を傾けたものだったのかもしれません。


となると、秀吉が完成させた当初の大坂城は、まさに図の青い部分だった可能性が浮上し、それによって会津若松城との相似も十分に説明がつくのです。


(※中井家蔵『本丸図』との整合性を懸念される方に申し上げますと、次回リポート「秀吉の大坂城・後篇」で驚くべき種明かしを予定しています。ご期待下さい)



秀吉の大坂城天守(十尺間の復元案)



さて、今回の結論として注目すべき点は、秀吉が、そうした大坂城の築城を「天守台の築造」から開始したことでしょう。


唯今所成大坂普請者、先天守土台也

(唯今成る所の大坂普請は先ず天守の土台なり/『秀吉事記』)



天正11年夏、来たる徳川家康・織田信雄連合軍との激突を前に、秀吉は同心する大名や家臣団を動員して「石集め」を終えると、9月に天守台の築造を始め、11月にはその石垣を完成させています。


城の中心から石垣を築くという手順もさることながら、まずは天守ありき、という秀吉の築城術のもと、自らの陣営の正統性をアピールするため、十尺間という“関白太政大臣の天守”が建造されることになったのだと思われます。





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2009年04月06日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長





岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長


岐阜城での「空中庭園」の可能性を申し上げた前回を受けて、やはりもう一回だけ、余談を続けさせて下さい。

と申しますのは、この話、場合によっては途方もない(世界史的な)広がりをもつことが予想されるからです。


バビロンの空中庭園の想像画



まず世界史で「空中庭園」と言えば、原点は古代世界の七不思議のひとつ、バビロンの空中庭園にさかのぼります。

現在、その空中庭園の実像については、バビロン遺跡(バグダッド南方90km)の中の43m×30mの遺構や文献史料から、れんが造りの“角錐型の段状建築物に設けられた庭園”ではなかったかという説が有力です。


“段状”という言葉を聞くと、岐阜城の「四階建て楼閣」もまた段状の土台(草創期の天守台)を利用していた可能性を申し上げたばかりです。

時空を超えた、思わぬ符合に、早速、頭がクラクラし始めます。



しかも信長の岐阜城は、山頂に天守、山麓に空中庭園をもつ楼閣を備えていたとすれば、その景観は宣教師らキリスト教徒の目から見れば、まるでバベルの塔と空中庭園という、伝説どおりのバビロンを見たような印象だったとも思われます。


どれも偶然の一致だったとは言え、そうした“符合”をもたらしたのは、やはり織田信長という人物の「天」に対する格別な思いと、建造物のスペクタクル性(高石垣や蛇石など)を好んだ独特の気質だったと申せましょう。



そこで今回の記事のメインは、岐阜城は、時空を超えた偶然の一致が、さらにもう一つあったかもしれないというお話です。



岐阜城(金華山)山頂の岩



話の中心になるのは、ご覧のように山頂に突き出た“岩”です。


金華山は険しい岩山として知られる山ですが、この岩、当時の城絵図にも描かれたもので、天守はこの岩の脇に天守台を築いて建てられています。

つまり厳密に申せば、天守は金華山の「最頂点」にあったわけではなく、わざわざこの岩を避けて建てたことになるのです。



そこで先程の空中庭園のように、世界史的な観点から「岩山の最頂点」を見ていくと、例えば、各地の岩山の聖堂に掲げられた「大天使ミカエル」の像がまず想起されます。


サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂(フランス)

大天使ミカエル(聖ミカエル)



旧約聖書に登場するミカエルは、キリスト教においてはラファエル、ガブリエルと並ぶ大天使の一人とされました。

特に、サタンと闘った軍装の守護天使というイメージが強く、そのため山頂や建物の屋根に像が掲げられたと云います。


しかも、来日したフランシスコ・ザビエルがミカエルに日本の守護を祈願したことから、当時、ミカエルは日本の守護聖人ともされたのです。



「でも、それが織田信長とどう関係するのか」とお感じになられるかもしれませんが、櫻井成廣先生はかつて信長の最後の城・安土城天主に関して、こんな指摘をしたことがあります。


その壁面装飾については珍しくかつ重要な史料がある。それは井上宗和氏が「銅」という業界誌に発表されたもので、安土城天主を建築した岡部又右衛門以言(これとき)の「安土御城御普請覚え書」である。
子孫の以之(これゆき)という人が持っていて、名古屋空襲で焼失したが、記憶によって原本どおりに書いて井上氏に贈られたものだということであって、その古い写本の世に出ることが切望される。
それによると安土城天主木部は防禦のため後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、「赤銅、青銅にて被われたる柱のばてれんの絵など刻みたるに、塗師首(ぬしかしら)のうるしなどにてととのえ、そのさま新奇なれば信長公大いに喜ばれ、一同に小袖など拝領さる」という文句もあるという。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981)


※( )内は当サイトの補足


安土城天主の外壁が「赤」「青」など色とりどりであった話は『フロイス日本史』で知られて来ましたが、上の文章によれば、それらは赤銅や青銅に透漆(すきうるし/半透明の漆)を施した珍しい意匠であって、しかもそこには「ばてれんの絵」が銅板彫刻されていた、というのです。


これが真実だとすると、従来の数々の復元画はその点の修正を迫られかねない話ですが、それにしても「ばてれんの絵」とはいったい何を描いた絵だったのでしょう。


まさか宣教師そのものを描くことはなかったでしょうから、それは聖母子像だったのでしょうか? それとも聖人たちの姿でしょうか?


おそらくはそうではなく、統一戦争を進めた織田信長が、安土山の山頂の天主に描くキリスト教のモチーフとして最もふさわしいのは、「大天使ミカエル」ではなかったかと思われるのです。


と申しますのは、軍装の大天使ミカエルが「日本の守護聖人」になったという話を聞いたなら、信長は大いに納得して、その像を自らの天主の柱に刻むことも大いにありうるものと想像されるからです。



そうしてみますと、岐阜城の山頂の“岩”もまた、大天使ミカエルが天から降臨する場として実にふさわしく、ここでもまた、時空をまたいだ偶然の一致が起きたことになりそうです。


安土城 伝本丸北虎口(15年程前の調査以前の様子)



思えば、『信長公記』に記された巨石「蛇石(じゃいし)」は、なぜ安土山(安土城)に運び上げる必要があったのでしょう?


一万余の人数で昼夜三日がかりで運び上げたとありますが、その狙いを信長は語らなかったようで、『信長公記』は何も伝えていません。

ひょっとすると、信長は、安土山の山頂に“岩”が無いことに不興を示し、それを見た津田信澄が配下を動員して運搬し、信長に献上したのかもしれません。



ところが肝心の蛇石そのものは、現在のところ、滋賀県が続けてきた発掘調査においても、城内のどこからも(天主台の地中からも)発見されず、真相は闇の中です。

ただ岐阜城の例からすると、蛇石は天主台とは別の所に屹立して据えられ、その後に崩落した可能性もあるのではないでしょうか??





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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