城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/05

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2009年05月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!前説「安土城天主の二大“迷宮”を解く!」





前説「安土城天主の二大“迷宮”を解く!」


名古屋城天守        松本城天守



ご覧のような天守をはじめ、天守台のすぐ上の二つの階が同じ規模で重ねられた例は、草創期の天正から慶長年間を中心に数多くが建てられました。

当ブログによる『天守指図』の新解釈に基づきますと、安土城天主も、それらを先導した同様の形式だったと思われます。



『天守指図』三重目(緑)+二重目(赤)



ご覧のとおり、緑色の「三重目」は、新解釈の二重目(黄色い範囲)の上にしっかりとダブっていることが分かります。

つまり天主台の上は、周囲に“空き地”が取り巻いているものの、そこから建ち上がった二つの階(重)は、ほぼ同じ規模で重ねられていたわけです。


ただ、abcの矢印の箇所だけは、「三重目」が黄色い範囲から少々はみ出していて、これら三箇所については、前回までの図にやや修正が必要かもしれません。

例えば、二重目が元々そこまであったと考えるべきか、それとも三重目の壁面が二重目より外に張り出していたのか、はたまた両方のケースが混在していたのか、どのパターンも可能性はありそうです。


いずれにしましても、そうした安土城天主の本体の低層部は、豊臣大坂城の場合とまったく同じ「11間×12間」だったということが、いっそう明確になって来るのです。







また「三重目」と原資料との整合性については、例えば、赤い二重目の南側(図では上)にある幅二間の小さな「張り出し」に対して、三重目で小さな「屋根」がかけられていて、(これは池上右平も気づかなかったはずの)思わぬ符合を発見できます。


こうした点も含めますと、「三重目」は、(一重目のように)右平が無から“加筆”した図ではなく、原資料に基づいたものと考えて良さそうです。









さて、ここから先を考えていくためには、実は、安土城天主の解明において、難関中の難関とされた二つの大きな謎(言わば“二大迷宮”)の検討が必要なのです。それは…


第一の迷宮 : 高過ぎる天主台の記録「石くら乃高さ十二間余」という謎


第二の迷宮 : 『天守指図』の“吹き抜け空間”は本当にあったのか??




そして次のように申し上げますと、それだけで驚愕の真相にお気づきになるかもしれませんが、上記の二大迷宮は“実は同じ問題だった”(!)という話題を、次回から詳しくお話してまいります。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年05月18日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!その原資料は七重分が描かれてなかった?





その原資料は七重分が描かれてなかった?


今回は、加賀藩に伝わったはずの『天守指図』の原資料を、なぜ池上右平が大幅に「加筆」してしまったのか、その原因に考えをめぐらせてみます。


結論から先に申せば、そうせざるをえないほど右平を“慌てさせた”状態、例えば原資料は七重分の階がすべて揃っていないような表記の仕方だったのではないか、という原因が想起されるのです。


と申しますのは、(以下はこれまでにも『天守指図』への批判として指摘されてきた点ですが)「一重目」の天主台の形状や礎石にまつわる問題、「四重目」の吹き抜け空間を渡る橋の問題など、『天守指図』は階によって、検討課題の有る無しの落差が大きいように思われるからです。


そこで今回は「一重目」を例に挙げながらお話いたします。

(※『天守指図』はこの階について「いしくら」という表記しかなく、他の重階と表記を合わせるため、便宜上「一重目」と呼びます)


天主台遺構(グレー)と「一重目」(青)



ご覧のように礎石の位置を合わせて「一重目」をダブらせますと、すでに様々な不整合が生じていることがお分かりでしょう。例えば…

a.天主台内側の石垣(特に西側/図では右側)が現状の遺構とまったく合わない。

b.しかもその石垣が妙な形で二重に描かれている点は、ひょっとすると、右平が文献(『信長記』)の「二重石垣」を表現しようとした形跡さえ感じられる。

c.石蔵入口の周辺は、おおよそ合致しているように見えながら、その描き方は印象や記憶をスケッチしたような描写であって、現地に則した指図や測量図とは思えない。

d.そして下写真のごとく、石蔵内の土間には、大ぶりな礎石が一面に(一間ごとに)据えられていて、このことから石蔵内は柱が林立していたとも言われるが、「一重目」の描写はまったく違う。





さらに「二重目」を図上にダブらせてみますと、天主台の形状自体が合っていないという、かなり決定的な問題のあることが、すでに指摘されて来たのです。





以上の諸点を踏まえて推測しますと、「一重目」とは、石蔵入口の印象や記憶がしっかり描写されているという、注目すべき特色は備えているものの、それ以外は(あえてハッキリ申し上げれば)この階が“まるごと加筆だった”という、驚天動地の可能性を示しているのではないでしょうか??


石蔵入口の周辺につきましては、右平が何らかの別資料から得た情報を“加味”して、この「一重目」を書き上げた、と考えた方が、あらゆる点が合理的に説明できるように思われるのです。


これは必ずしも極論でないと信じて付け加えますと、『天守指図』の全体についても、場合によっては、七重分の図のうち、原資料にあったのは、三点か、四点だけだった可能性もありうると思われ、そうした安土城天主をめぐる究明の落着点については、回を改めてお話したいと存じます。






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2009年05月10日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!歴史の証言者「池上右平」の功罪





歴史の証言者「池上右平」の功罪


3回ほど続けて記事にした『天守指図』について、ここで一旦、整理してみたいと思います。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』



これは40年ほど前、静嘉堂文庫に収蔵されていた加賀藩作事奉行の池上家の史料群にあった巻物(標題『天守指図』)を、内藤昌先生が見出し、幻の安土城天主の指図(設計図)の写しであると発表し、話題になったものです。


(※ご覧のとおり、前回までご紹介したのは、七重のうち下から二重目、すなわち天主台上の初重の図になります)


内藤先生は天主台跡の実測調査も行い、「天主の建築的・具体的形態を示す技術史料として池上右平『天守指図』に優るものはない」と巻物が伝える情報を高く評価し、それを中心とした復元案を示しました。


復元の内容については、内藤昌著『復元・安土城』や『国華』第987号・第988号に詳しく、また安土駅前にある城郭資料館の20分の1模型も有名です。






そして発表の翌年、早くも激しく反論したのが宮上茂隆先生で、先生のキャラクターも作用したのでしょうが、反論のキツい言葉づかいは、一介の城郭マニアの目から見ても“学問の業界はキビしいっ!”と感じたものです。


ところが、いま改めて、宮上先生の文章を点検し直してみますと、意外にも“両先生が合意した領域は大きいではないか”という印象があるのです。


例えば、『天守指図』とは、建仁寺流の名門大工・山上善右衛門から秘蔵の資料を伝授された、加賀藩作事奉行・池上家の三代目・右平が、自筆署名した図の写しである、という経緯について…



『天守指図』を池上右平の創作とみる筆者としては、後で、右平執筆の時期について少し違った意見を述べるが、その他の点については筆者としても勿論異論はない
(中略)
『天守指図』は、『信長記』(一つは前記『安土日記』。他も前田家本であろう)と、安土城天主跡の資料とに基づいて、延宝七年(一六七九)頃に、前田藩の建築官僚である池上右平が製作した安土城天主の推定復原図というべきもので…

(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料に就いて(下)」より)



あれほどキツい反論の言葉を連ねた宮上先生も、赤文字にした部分のとおり、やはり現地の詳しい資料か調査が無ければ『天守指図』を書けないことは認めていて、ただ、『天守指図』そのものが実際の設計図の写しであることは絶対に認められない、というスタンスだったわけです。






さて、ひるがえって、当ブログは『天守指図』の新解釈によって、(a)安土城天主と大坂城天守の初重平面は相似形、(b)天主台の石段が鍵型に曲げられた理由、(c)『信長記』等が伝える天主台寸法は南北と東西が逆かもしれない、といった再発見がありうることをお伝えしました。

引き続き、オモシロイ再発見は色々とあって、そうした状況を踏まえますと、『天守指図』をめぐる両先生の論争には“折衷案が隠れていた”としか考えられないのです。



すなわち、建仁寺流大工・山上善右衛門が加賀藩に伝えた原資料(天主設計図)に対して、池上右平がかなりの規模で「加筆」してしまった結果が『天守指図』ではないのか、という考え方です。


ただし右平本人に悪意は無かったものと思われ、おそらくは大工の息子として作事奉行・池上家に婿養子に入った身を思い、多数の写本と共に、独学で『天守指図』を書き上げたのではなかったでしょうか。



では今回も、そうした歴史の証言者「池上右平」の功罪を浮き彫りにする、仮説の図をご覧いただきましょう。

すでにお気付きかもしれませんが、現状の天主台石垣の延長面と、『天守指図』の天主台上の辺が立体的に交わる線を求めれば、“天主台の高さ”が明らかになります。






その作業をご覧のように図上演習してみますと、天主台は、南部が北部より一間ほど低くなっていた可能性がありそうです。

そしてこのような段差が“容認”できるのも、新解釈による“空き地”の効果であって、これで宮上先生の批判の一つ(内藤説の石垣の反り)も解決できます。


ただし、図に二段目の石垣が描かれていないのは、ひょっとすると南部と北部の段差が“二段式”と見られたのかもしれず、全体の複雑な形状については、改めて別の図で示す必要がありそうです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年05月03日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらに続報・安土城と大坂城の天守は…





さらに続報・安土城と大坂城の天守は…


今回も、『天守指図』の新解釈によって、ある“妙な符合”が出現するというお話です。


土屋純一先生の復元案   古川重春先生の復元案



安土城天主の復元研究において、諸先生方が苦慮された難問の一つが「天主台の広さ」でした。


例えば上記の二案は、土屋純一先生と古川重春先生が昭和初期に行った復元ですが、今日ではやや奇異に見えるほど平面規模の大きな(太った)建築になっています。


天主台の広さについての記録は、織田信長の家臣・村井貞勝らの天主拝見に基づく『安土日記』の本文には無く、のちに成立した『信長記』『信長公記』類の該当条目の冒頭に「二重 石くらの上 廣さ北南へ廿間 東西へ十七間」とあります。

上記二案はこの記録に基づいた復元です。



ところがその後、発掘調査で明らかになった天主台の遺構は、それほど広くなく、東西十七間(六尺五寸間で約33m)はまだしも、南北二十間(同じく約39m)はとても遺構内に納まらず、研究者を悩ませる結果になったのです。


以後、この難問を解くため、様々な“解釈”が登場することになりました。一例を挙げますと…



今実測図上で調べると、「北南へ廿間」は、西辺とそれに連なる西北の辺を合わせた長さに、「東西へ十七間」は、南辺とそれに続く南東辺を合わせた長さに、それぞれほぼ一致する。

(宮上茂隆『国華』第998号「安土城天主の復原とその史料に就いて(上)」より)




こうしたややこしい状況が今日まで続くわけですが、前々回からご紹介の、安土城と大坂城の天守は相似形、という考え方に立ちますと、この歴史的な難問に対して、ヘッ?と足をすくわれるような“妙な符合”が現れるのです。


天主台は南北と東西の寸法が逆??



ご覧のとおり「北南へ廿間 東西へ十七間」ではなく、『天守指図』の新解釈からは、南北と東西を入れ替えた寸法にピッタリ納まる天主台が、柱間どおりの七尺間で自然に導かれるのです。


これには、天主台上の空き地を堂々と寸法にカウントできる、という条件の変化が大きく寄与しています。



とりわけ上図の赤い矢印で示した箇所がミソであり、ここは石蔵入口の南側石垣が手前に鋭角に張り出していたわけですが、従来、その張り出し方は、下のイラストのように三段階で低くなっていたという理解が一般化して来ました。


学研『歴史群像 名城シリーズ3 安土城』



このイラストの段差は、内藤昌先生が天主台調査後に発表した“立体的復元”を踏襲したものです。

内藤先生は手前の一番低い段について、「登閣御門前を本丸側より遮蔽するための構成と考定できる」(内藤昌『復元・安土城』1994)とされましたが、その高さを断定する材料が無いことも暗に認めておられます。


ですから、表紙のイラストほどに急激に低くはならず、仮に段差があったとしても“同じ天主台上”と見える程度のものであれば、それらを含めて「東西二十間」とカウントできた可能性は高いと思われます。


したがって「南北十七間 東西二十間」であれば、実際の遺構とも、大いに合致する可能性がありうるわけなのです。




確かに文献研究においては、南北と東西を入れ替えるなど“邪道中の邪道”とも見えます。

が、安土城と大坂城の天守は相似形という考え方では、天主台上の空き地の存在感が実に大きく、石蔵入口の横の石垣に注目するのは“ごく自然な発想”と申せます。






かくして、歴史的に『安土日記』以外の文献(『信長記』等)が判を押したように冒頭に掲げてきた数値が、実は、南北と東西の入れ替えだけで、現状の遺構にぴったりと合致する可能性が出て来た…

この“妙な符合”をどうお感じになりますでしょうか?








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