城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/06

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!たった4坪だった?安土城天主の六重目





たった4坪だった?安土城天主の六重目


今回からいよいよ、新解釈『天守指図』の四重目から上、最上階までを順次、ご紹介してまいります。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』より



池上右平の重大な“加筆”が疑われる『天守指図』ですが、ご覧のように、二重目と三重目については、原資料(安土城天主の設計図の写し)に比較的、忠実な図である可能性を申し上げました。

では、その上の「四重目」はどうかと申しますと、これがまた“問題山積”なのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』四重目



まず図の中央に、吹き抜け空間を南北に渡る「橋」があり、ちょうど通柱(「本柱」)の上に架けられた形ですが、これは、せっかくの通柱が単独で「橋」を支えるだけの構造になっていて、やはり理解に苦しむものです。

また当ブログの『天守指図』新解釈においては、「高さ12間余の蔵」がはるか六重目まで達していた可能性があり、四重目に「橋」を考える余地はありません。


そして、いっそう大きな難点と思われるのが、「間」という言葉の意味の取り違えであり、宮上茂隆先生は次のように指摘しました。(※文中の「三階」は四重目のこと。『指図』は『天守指図』のこと)



それは三階に関し、『信長記』が「十二間」と記す室を、『指図』がすべて「十二畳」の広さに描いている点である。この『信長記』における「間」というのは長さを意味する場合のように「ケン」と読むのではなく、「マ」と読む。それが意味するところは一間(ケン)×一間(ケン)の広さ、すなわち今日いう一坪なのである。したがって「十二間(マ)」とあったら、畳敷にして二十四畳敷の広さがなければならない。

(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料に就いて(下)」)






つまり南側(図では上)の「竹ノ間」「松ノ間」と書き込みのある部屋は、『信長記』類の「南十二間」「次十二間」という語句に従うなら、それぞれ倍の広さでなければならなかったわけです。


以上のような批判は、『天守指図』四重目について、二つの可能性を示しているように思われます。

1.一重目と同様、四重目もまるごと池上右平の“加筆”だった?

2.本来の四重目は、三重目とほぼ同じ平面ではないのか?







つまり「原資料」は一見、四重目の図が欠けたようでいながら、実は(三重目と同じ平面のため)省略しただけかもしれない、という考え方もありそうなのです。


現に、東の張り出しの上に問題の「次十二間」(松の間)を見立てますと、『信長記』類の四重目の記述にある部屋は、すべて『天守指図』三重目の図に(若干の部屋割り変更だけで)当てはめることが出来ます。




さて、そのような考え方に立ちますと、七重分の図が揃わない「原資料」も、それはそれで“十分に完結した”書き方であったように思えてきます。


となると、原資料とは、一つの図で複数の階を表すような“略図”の類だったのかもしれません。



そこで本日のメインテーマ、「五重目」「六重目」の話にようやく入れるわけですが、ズバリ結論から申しまして、下の「五重目」の図は、「六重目」もいっぺんに表現した図ではないかと思われるのです。

すなわち、この中に、六重目の“八角ノ段”も描かれている(!)というわけです。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』五重目




この図に正八角形は無く、これまで数多の復元案においてトレードマークのようだった「八角ノ段(八角円堂)」は存在しません。

しかし別の解釈による「八角ノ段」が隠れているのです。


何をフザケたことを!!とお感じになるかもしれませんが、ここで重要な論拠が二つありまして、一つは先に挙げた「間」という言葉の問題です。



『信長記』における「間」というのは長さを意味する場合のように「ケン」と読むのではなく、「マ」と読む。それが意味するところは一間(ケン)×一間(ケン)の広さ、すなわち今日いう一坪なのである。

(宮上茂隆先生の前記著書より)




そこで『信長記』類の六重目の記述をご覧下さい。(※階の上下を逆に数える『安土日記』では「二重目」の記述)


岡山大学蔵『信長記』
六重め八角四間程有 外柱ハ朱也 内柱ハ皆金也 …

尊経閣文庫蔵『安土日記』
二重目八角四間ほと有 外柱ハ朱 内柱皆金也 …



先の宮上先生の指摘に従うなら、四重目において「間」を「マ」と読んで「1坪」の広さと解釈したのですから、六重目においても「間」は「マ」と読んで、「六重目は八角、4坪ほど有り」と堂々と解釈すべきではないのでしょうか??


たった4坪しか無かった六重目。しかも八角…


まさか!?とお感じになるかもしれませんが、この文献史料の情報どおりに「六重目はたった4坪しか無かった」とすることも、『天守指図』新解釈では可能であり、まさにそのように“図示”されているのです。









次回は、この「安土城天主に八角円堂は無かった」という、暴論すれすれの大テーマでお話したいと存じます。

何故なら、日本の城郭研究のパイオニア・城戸久先生がこんな発言をしたことがあり、私も長い間、同じ疑問を感じて来たからです。


特に六重目の「八角四間有、外柱は朱也」とあるのは、もっとも問題のところである。八角は文字通り、八角形と解すると、まことに異様な外形となる。もし、安土城の上層が、八角形であったとすれば、それが後世に、何等かの影響を与えてもよいはずである。

(城戸久『城と民家』1972)


日本の城郭史上、安土城天主のほかに、正八角形(八角円堂)を組み込んだと思しき天守が、一つも無かったことは、ご承知のとおりです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年06月22日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「ドーム」と海外に伝えられた安土城天主





「ドーム」と海外に伝えられた安土城天主


ご紹介しております安土城天主の「高さ12間余の蔵」。今回は、それが何重目まで達していたのか? という問題の手掛かりをさぐってみます。



小松城「本丸御櫓」/垂直に重なる上之間と石之間



前回、小松城の本丸御櫓の吹き抜け(石之間)は、その真上にある「上之間」御座敷の“格式を示すための様式ではないか”と申し上げました。


その理由は、この吹き抜けが透し彫りの格天井で飾られたほかに“何も無い空間”であり、したがって来訪者に華やかな天井で「上」や「天」を意識させることが、この場所の“唯一の目的”ではなかったかと思われるからです。


そうした特異な造形に関して、かつて櫻井成廣先生が面白い指摘をしたことがあります。

著書『戦国名将の居城』において、1736年(江戸中期)にパリで刊行されたシャルヴォア著『日本史』の中に安土城天主の紹介文があり、そこに「ドーム」という意外な言葉があることを指摘したのです。

(※この書物は安土城の銅版画でもお馴染みです)


シャルヴォア著『日本史』掲載の銅版画「安土城下の図」



同書は戦前すでに訳を完了したという老人があった(その人はシャルルワと発音していた)。その書はいまだに出版されていないが、従来日本には知られていない史料がいくつも含まれているので、ここに安土城に関する部分を少し訳して見る。
(中略/以下は訳文の一部)この塔は七重で日本の習慣にしたがっておのおのの階に屋根があり、おのおのの屋根と縁はその色彩のためにきわだって美麗であった。そこではおのおのの色を保存しまた更に引き立てるために、われわれのもっとも見事な鏡とほとんど同じ光彩を持ち、またいかなる風害にも耐えることができる漆が塗ってあった。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981)


このように『日本史』には、当ブログでもご紹介した「赤銅や青銅に透漆(すきうるし)を施したバテレンの絵の銅板彫刻」という、岡部家(安土城天主の大工棟梁・岡部又右衛門の家系)に伝わる話と相通じる表現があります。

そしてその表現の直後に「ドーム」という言葉が登場するのです。


この塔全体は頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのようなもので完成されていた。当時このドームは内側も外側も紺色やさまざまの絵やモザイクのようなたくさんの装飾で大層趣味よく飾られていた。そしてその豪華さを漆はさらに引き立てており、その絢爛さに人はそれから目を離すことも、見続けることもできないほどであった。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981)


文中の「ドームのようなもの」について、櫻井先生ご自身は天主頂上の屋根の形と解釈し、自作の復元模型に丸い起り屋根(むくりやね)を採用しました。


ただ、この屋根の復元案はあまり多くの支持が得られなかったようで、その後、シャルヴォアの「ドーム」という貴重な一語も、ほとんど顧みられなくなってしまったのです。



松本城天守の木連格子/「モザイク」??



ところが、文中にある「モザイク」の語源はそもそも「寄木細工」だそうで、それが転じて、イスラム建築のタイル模様などもモザイクと呼ばれたそうです。


ですから、シャルヴォアが書いた「このドームは内側も外側も紺色やさまざまの絵やモザイクのようなたくさんの装飾で」という文章から、いきなりイスラム建築の青い“円形の”ドーム屋根などを連想してしまうのは、かなり大きな間違いを犯しているのかもしれません。


もし「モザイク」という一語が、天守の破風に多用された「木連格子」や、金沢城の「海鼠壁(なまこかべ)」のような意匠を伝えた言葉だとしたら、それで飾られた「ドームのようなもの」は、必ずしも屋根ではなく、建物全体を示した可能性もありうるのではないでしょうか?


しかも『日本史』が出版された18世紀、欧州で「ドームのようなもの」と書けば、それは人々に「ドゥオーモ」、すなわち各地のランドマークであった「大聖堂(のようなもの)」と受け取られたようにも思われます。


サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ)

前記「安土城下の図」/大聖堂のように(?)描かれた天主



イタリア・フィレンツェの街に君臨するサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、15世紀に建てられたドゥオーモですが、1579年、ドーム屋根の天井にフレスコ画『最後の審判』を完成させました。

この年は天正7年、ちょうど安土城天主が完成した年でした。





ここで申し上げたいのは、天守とドゥオーモに建築的な影響があったか否かというような話ではなく、ただ安土城で“それ”を見たか、聞いた西洋人らが、結果的に本国に「ドームのようなもの」と伝えた認識の仕方に注目したいのです。

大聖堂の圧倒的な天井画は、人々に天上の世界を感じさせ、天に君臨する超越者“神”の存在を意識させます。





それとほぼ同じことが、小松城の「吹き抜け」でも試みられた節があるのであって、それは安土城天主の吹き抜け(高さ12間余の蔵)が先例になっていたと思われるのです。

そしてその狙いは、やはり天上世界を思わせる天井の上に、主君(の座す座敷)が天を越える超越者のように見える形を示したかったのではないでしょうか??

櫻井先生の訳文もまた、そうした仕掛けの存在を傍証しています。



この塔全体は頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのようなもので完成されていた。(前記の訳文より)


これを具体的に読み解きますと、信長の座す七重目(「御座敷」)が「一個の純金の冠」であり、その下の六重目以下は、まとめて「ひとつのドームのようなもの」であった、と解釈することも出来るでしょう。


そうした構想は、例えば『信長記』『信長公記』類に記された“障壁画も無い五重目”と“極めて華やかな六重目”という記録とも、ある意味“符合”しているようです。

つまり五重目とは中心部の「蔵」の続きであって、その上の六重目は「ドームのようなもの」の天井画に相当していたのかもしれません。



「安土城天主 信長の館」の復元六重目



ということは、「高さ12間余の蔵」は六重目まで達していた(!)という予想外の答えに到達するわけで、それでは、かの“正八角形とされる八角ノ段”はどうなってしまうのか!? といった新たな疑問も噴出して来ます。


そうした疑問につきましては、また回を改めて、じっくりご説明したいと存じます。





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2009年06月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!実在した「もう一つの吹き抜け」





実在した「もう一つの吹き抜け」


前々回から安土城天主に“ある種”の吹き抜け空間(高さ12間余の蔵)が存在した可能性をご紹介していますが、今回は、実在したもう一つの吹き抜けの例を見ておきましょう。

それは小松城(石川県)の実質的な天守であった「本丸御櫓」です。


小松城 天守台跡



現存の天守台上にあった「本丸御櫓」は、規模こそ格段に小さな数奇屋風の建築でしたが、丹羽家(長秀の子・長重)と前田家(利家の子・利常)という、安土城天主と濃密な関係にあった大名家と“二重に”ゆかりのある建物でした。


そうした「本丸御櫓」の詳細は、例えば松岡利郎先生の論考(喜内敏編『金沢城と前田氏領内の諸城』所収)が参考になり、まさに安土城天主の復元のためのヒントが“満載”された建物だったことが分かります。


そこで上記の本にある復元アイソメ図をもとに、模式図を作ってみました。


小松城「本丸御櫓」模式図/当図は一階の奥が玄関


建物の規模が小さいわりには天守の代用をなすものであり、極めて興味深い構成をとっていたことが知られる。ことに中央部の石之間が二階まで吹き抜けとされて、その上に透し彫りの格天井を張ったあたりは特異なもので、安土城天主に見られる手法を思わしめるものとして注目される。

(松岡利郎/『金沢城と前田氏領内の諸城』所収「小松城の建築」)


ご覧の「石之間」の真上には、まったく同じ位置、同じ広さで、三階「上之間」の御座敷(八畳)がありました。

しかも「石之間」は何に使われた空間なのか記録が無いようで、となると、このスタイル自体が、御座敷の“格式を示すための様式”だったのかもしれません。


小松城本丸御櫓は前田利常の建立にかかるものと見なされ、かつその前身が丹羽長重の天守であったと伝えられるところから考えると、丹羽・前田両家はともに織田信長に仕えてきた家柄であるから、あながち無関係とはいいきれまい。とりわけ、丹羽長重の父長秀は信長の安土築城にあたって普請奉行をつとめた人物であったことは見逃せない事実である。

(松岡利郎/『金沢城と前田氏領内の諸城』所収「小松城の建築」)

(※ちなみに前田家は話題の池上右平が仕えた大名家です)



では、安土城や小松城において「吹き抜け」と「最上階」「蔵」は、それぞれどういう関係にあったと考えるべきなのでしょう?


そうした疑問を整理するヒントが、本丸御櫓の最大の注目点でもある“厳密に区分けされた登閣ルート”の存在ではないかと思われるのです。





二階の左右両室は「側二階」として、たがいに分かれているうえに三階との連絡はついていない。

(松岡利郎/『金沢城と前田氏領内の諸城』所収「小松城の建築」)

図ではやや分かりにくいかもしれませんが、一階奥の玄関から入ったすぐ両脇に、左右の部屋に入るための引戸があって、それぞれを入ると目の前に「側二階」に上がる専用の階段がありました。

そして「側二階」は、玄関から石之間を経て(図では手前の)裏口まで続く通路によって、左右(東西)に分離されていました。


さらに「石之間」から三階「上之間」に直接上がる専用の階段室もあり、これら三つの登閣ルートはそれぞれ完全に独立していて、玄関付近で別れた後はもう連絡することが無かったのです。


この不思議な階層構造は、一見、何を目的としていたのか想像も出来ませんが、もしかすると、安土城天主の「高さ12間余の蔵」が何か影響を与えた結果なのではないでしょうか?


安土城天主の「蔵」空間は周囲から隔絶されていた?



と申しますのは、(前回の記事のとおり)専用の階段室があった「蔵」空間も、実は、周囲の居室空間と隔絶した構造になっていて、小松城と同じように、別々の登閣ルートを進む形になっていた、と考えられるかもしれないからです。


しかも、そう考えますと、例えば村井貞勝らの天主拝見を記録した『安土日記』には「高さ12間余の蔵」がまるで登場しないという不思議さ… つまり貞勝らは、行きも帰りも居室空間を通って、七重を昇り降りしたからである、という謎解きの可能性も出てくるのです。



ならば何故、織田信長は重臣に「蔵」を見せなかったのか? という疑問は、この一連の問題の核心に迫るポイントなのかもしれません。






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2009年06月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「それ」は文献史料の冒頭に明記されていた





「それ」は文献史料の冒頭に明記されていた


内藤昌先生の復元による安土城天主の模型



これまでの『天守指図』に対する否定的な意見のうち、最も有力な論拠は「肝心の吹き抜け構造が文献史料にまったく登場しない」というものでした。


ところが前回の記事のとおり、『信長記』類「安土御天主之次第」のまさに冒頭に、それは「高さ12間余の蔵」として明記されていた可能性があり、そのように考えることで『信長記』類の歴史的な“謎”も解決しうることを申し上げました。

それにしても「高さ12間余の蔵」が文字どおりの構造だとすると、それは具体的にどのようなものだったのでしょう。



復元模型の「吹き抜け」は高さ約9間4尺を想定



まず「12間余」という高さですが、内藤先生の復元では(立面図によると)吹き抜けの総高は約9間4尺であり、それよりさらに2間以上(およそ1階分)は高かったことになります。

かねてから『天守指図』の吹き抜け構造については、強度的な疑問が投げ掛けられて来ただけに、ここはやや慎重にならざるをえません。


そこで結論に近いところを先に申し上げますと、「高さ12間余の蔵」とは、『天守指図』のような一つの巨大な空間というより、やはり太田牛一の“真意”を汲み取って、あくまでも「蔵」としての貯蔵を目的とする階層的な姿を思い浮かべるべきではないかと思われるのです。



大洲城(愛媛県)の復元天守と台所櫓



右カラムの城photoでもご覧の大洲城天守は、平成16年に復元された珍しい四重の天守で、内部に独特の構造を持っていることでも知られています。


その復元は伝来の雛形をもとに(奇しくも『天守指図』批判の急先鋒だった)故・宮上茂隆先生が基本設計を行い、その後、三浦正幸先生が設計を引き継がれたという、我が国の城郭研究においても注目すべき建築です。


そうした大洲城天守には、1〜2階と3〜4階をそれぞれ貫く通柱(心柱)があり、1〜2階については、その柱のすぐ脇に「吹き抜け」構造の階段室があったのです。

ご覧のように「二間四方」の吹き抜けのスペースを介して、階段と踊り場が設けられていました。






一方、『天守指図』の三重目にも、注目すべき「二間四方」が存在するのです。


この二間四方は本当に「舞台」だったのか?



天主中央のひときわ太い通柱(「本柱」)の脇に「二間四方」の区画が描かれていて、そこに「ふたい(舞台)」という池上右平の書き込みがあります。

これもまた賛否両論の対象になった箇所ですが、内藤先生の復元においても、吹き抜け空間に突き出して設けられた(能や幸若舞のための)小ぶりな舞台だったとされています。



しかし、池上右平の“加筆”の修正をめざす『天守指図』新解釈から申せば、むしろこの小さい「二間四方」の方こそ、大洲城天守と同様の階段室であり、実際の「吹き抜け」そのものであったように思われてなりません。


そして残り約20坪の中央のスペースこそ、まさに太田牛一が『信長記』類に書き残そうとした「蔵」の床面であって、これが階段室の位置を変えながら階を幾重にも構築することで、「高さ12間余の蔵」という前代未聞の構造も具体化できたと想定できるわけです。






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2009年06月01日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城天主の二大迷宮を解く!!





安土城天主の二大迷宮を解く!!


安土城天主台跡 南側石垣



幻の安土城天主を解明するという“夢”は、あらゆる城郭ファンが、必ず一度はいだくものと言えそうです。

かく申し上げる当人も、城マニアの道にはまり始めた頃はご同様でして、妙な案を思いついては壁にブチ当たって挫折し、「安土城はやはり鬼門だ…」とジンクスのようなものを感じて来ました。

ですが、ある時、『天守指図』は新解釈が可能である!と気づいてからは、不思議とそうした挫折を味わうことも無くなって来たようです。


さて、安土城天主の解明をさまたげている、二つの大きな謎“二大迷宮”とも言えるのが…

第一の迷宮:高過ぎる天主台石垣の記録「石くら乃高さ十二間余」という謎

第二の迷宮:『天守指図』の“吹き抜け空間”は本当にあったのか??



今回から順次、この“二大迷宮”を解くための大胆な仮説をご紹介して行きます。



まず今回は「第一の迷宮」ですが、これは歴代のいずれの大先生も例外なく首をかしげた、文字どおり“迷宮入り”した難問中の難問です。


岡山大学蔵『信長記』(太田牛一自筆、池田家本)
 安土御天主之次第
石くら乃高さ十二間余
一重石くら之内を土蔵ニ御用 是より七重也
 ……


建勲神社蔵『信長公記』(太田牛一自筆)
 安土山御天主之次第
石くらの高さ十二間余也
一石くら之内を一重土蔵ニ御用 是ヨリ七重也
 ……


上記の酷似した二つの例のように、『信長記』『信長公記』類の大多数は「安土御天主之次第」という条目の冒頭が決まってこのように始まり、“問題の文言”がその一行目に掲げられているのです。


「石くら乃高さ十二間余」


この「石くら」は今日まで、天主台石垣を指すものと考えられて来ました。

ですから“言葉どおり”に受け取りますと、「高さ十二間余」は京間(六尺五寸間)で24m余りに達するため、途方もない高さの天主台石垣があったことになり、下図のように、遺構の周辺はとてもそのような石垣を想定できないのです。



滋賀県の調査報告書より作図(赤ラインは『天守指図』新解釈の天主台)



こうした事態に、諸先生方は、様々な切り口から“突破口”を見出そうとして来られました。


例えば、『信長記』等の数多い写本をT類〜W類に分類しますと、U類以降はすべて一行目に“問題の文言”があることから…


このような数値が記載されているということは、UV類本の筆者である太田牛一が書き加えたものと考えねばならない。石垣の高さを実測しようとすると、鉛直高を求めるのは難しく、石垣斜面に沿って測ることになるから、鉛直高より数値が大きくなるのは避けられない。しかし鉛直高の倍にもなるはずはないから、牛一は実測もせずに憶測でその値を書いたことになる。この牛一の態度は、UV類本全体の信憑性というものを考えるときに考慮しなくてはならない。
(宮上茂隆『国華』第998号「安土城天主の復原とその史料に就いて(上)」)


どう考えても「十二間余」を、本丸地表よりの寸法とするには異常である。ちなみに貞享四年(一六八七)に作成された『近江国蒲生郡安土古城図』によると、天主台西側に「石垣高八間」、さらに北側帯曲輪三段にわたって「此方石垣高一間」「北道幅同深一間」「此方石垣高三間」とある。(中略)よって牛一の記す「石くら乃高さ十二間余」とは、周辺帯曲輪を含めた総合的な高さ寸法と理解すれば、天主台石垣関係高さで整合性をもつ。
(内藤昌『復元・安土城』1994)


つまり宮上先生は太田牛一の記述の「信憑性」に問題の矛先を向け、一方、内藤先生は「周辺帯曲輪を含めた総合的な高さ」と考証されるなど、まったく対極的な指摘がなされていて、結局のところ、私などには“謎は少しも解けていない”と感じられてならないのです。


こうなるともう、ある種のコロンブスの卵(発想の大転換)が必要であり、例えば、文献の中には“思わぬ変異形”も遺されていて、同じ『信長記』類の写本のひとつ『安土記』という文献には、なんと…


蓬左文庫蔵『安土記』(尾張家本)
 安土御天主之次第
蔵ノ高サ十二間余
一重右クラ之内ヲ土蔵ニ御用 是ヨリ七重也
 ……


滋賀県立安土城考古博物館蔵『安土記』
 安土御天主之次第
蔵之高サ十二間余
一重右クラノ内ヲ土蔵ニ御用 是ヨリ七重也
 ……





ご覧のとおり「石くら」が「右 蔵」に変わっているのです。


この場合の「右」は、右側のタイトル行「安土御天主之次第」の中の「安土御天主」を指していると解釈する以外はなく、とすると(この文献の)一行目の意味は、「安土御天主」の「蔵」が「高サ十二間余」だと言っていることになります。


しかし、高さ十二間余(24m余)の蔵!?と聞いて、諸先生方は、即座に「石」を「右」と書き間違えたものと断じられて来ました。

例えば前出の(『天守指図』の)内藤昌先生は、『安土記』をW類本と分類し、それは江戸中期の流布本にすぎないとしています。


W類本は、管見する限り江戸中期以降の写本が一般である。(中略)このW類本のみ片仮名であり、しかも「石蔵……」が「右蔵……」に、「……坂井左衛門尉……」が「……酒井左衛門尉……」に、「……法花宗……」が「……法華宗……」になっていたりして、所々に誤写校訂の跡が歴然としており(以下略)
(内藤昌『国華』第987号「安土城の研究」上)



ここでは「右 蔵」は「誤写校訂」とされています。


でも、その一方で、由緒正しき『信長記』類に“途方もない高さの天主台”が記述されていて、現地の遺構にまるでそぐわず、それが安土城天主の解明の支障になっているという実態はどうすべきなのでしょうか?


そもそも何故、そんな記述が、あらゆる『信長記』等の該当条目の“冒頭”に掲げられているのか? という指摘があっても良いのではないかと思われるのです。

つまり天主台の高さは“冒頭に掲げるべき情報だろうか?”という問題意識です。



本来なら、冒頭に掲げるべきは、その建築にとって最も特徴的な造形や色彩などを挙げるべきであって、その方が歴史的建造物の素晴らしさが際立つはずです。

(※例えばT類本の『安土日記』は「御殿主ハ七重 悉黒漆也(ことごとく黒うるしなり)」を冒頭に掲げています)


ですから同様に、UV類本も、太田牛一の“ある種の改定”として冒頭の文言が差し替えられたなら、それは本来、もっと建造物の特徴をアピールすべきものだった、はずではないのでしょうか??



そこで当ブログの大胆仮説を申し上げますと、太田牛一自筆の「石くら乃高さ十二間余」は言わば“言葉足らずのフライング”であって、牛一が真に言わんとしたことは、まさに江戸中期に“訂正”流布された「右蔵ノ高サ十二間余」だったのではないか、ということなのです。


すなわち「高さ十二間余の蔵」こそ、安土城天主について語るべき最大のポイントであり、T類本の「悉黒漆也」をはるかに上回る特徴であると後になって判明し、それは牛一の手でも文献にしっかりと(やや言葉足らずに?)明記されていた、という推論が浮かび上がるのです。






この話題は次回も引き続き、その驚異の構造がのちの天守に与えた影響など、より幅広い視点からお話したいと存じます。


なお最後に一つ、現代人に馴染みのある「右、何々」という言い方、果たして古文書にもあったのか?という疑問を感じられた方のために、古語辞典からの引用を添えておきます。


角川書店『古語大辞典』第五巻(平成11年初版)より
みぎ【右】名
… 6.文書で、前に記してある事柄。前条。「右、山上憶良大夫類聚歌林に曰く」[万葉・七左注]「応に水早を消し豊穣を求むべき事、右、臣伏して以みるに、国は民を以て天と為し、民は食を以て天と為す」[本朝文粋・二] 7.さきに言ったことをさす。前言。6の言い方を話し言葉に適用したもの。「もつともみぎにさやうにいふた程に、それは身がうけとれ共」[狂言・石神]「三味線をつぎつぎ右の噂して」[洒落文台]






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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