城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/08

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (246)



全エントリ記事の一覧はこちら

2009年8月
           
         

新着エントリ
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問” (8/15)
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する (8/2)
城の再発見!後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと?? (7/15)
城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体 (7/4)
城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない… (6/20)
城の再発見!驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか… (6/9)
城の再発見!話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった? (5/25)
城の再発見!続々・信長の「天下」――安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響 (5/10)
城の再発見!続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか? (4/25)
城の再発見!信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から (4/11)
城の再発見!続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると… (3/29)
城の再発見!豊臣大坂城天守も階段群が2系統か →ならば建物の造りは「立体的御殿」のうち?? (3/16)
城の再発見!幕末、幻の大阪籠城戦での「大狭間筒vsエンフィールド銃」の勝負を夢想すると… (3/1)
城の再発見!幻の石山本願寺城から ブータンの要塞寺院「ゾン」へ (2/10)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (6)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (1)


アクセスカウンタ
今日:320
昨日:632
累計:1,850,086


RSS/Powered by 「のブログ

2009年08月31日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!木版画の正体は安土セミナリヨ?それとも…





木版画の正体は安土セミナリヨ?それとも…


「安土山図屏風」景観の切り取り方の推定



前回、幻の「安土山図屏風」二曲一双について、例えば(洛中洛外図にならって)こんな景観の切り取り方をしていたのではないか、と申し上げました。

ここまで仮説として申し上げてしまった以上は、左隻・右隻の「絵」のイメージを画像化することも出来るわけで、そこであえて下の2枚を作ってみました。


「安土山図屏風」左隻と右隻の概略イメージ(作画:横手聡)


これは勿論、それぞれのアングル(画角)から見えそうな物を単純に画像化しただけで、本物の屏風は当然、日本画としての様々な約束事や狩野派の筆づかいの中で巧みに描かれていたはずです。

これはあくまで“検討用のサンプル”であることをご理解下さい。

そして問題の「ウィンゲの木版画」の正体は、こうした屏風絵に描かれた建物の一つだった可能性もあるように思われます。



ウィンゲの木版画(原書にはtempleの注釈あり)



疑問1.ひょっとすると、これは天主以外の、安土城下で特筆すべき別の建物ではないのか?

疑問2.それは西から見た時、背後に、小舟が行き交う水路や舟入りを備えた建物ではなかったのか?

疑問3.ならば何故、その建物は、安土城天主に似た要素を備えているのか?



前々回の記事でこんな三つの疑問を申し上げましたが、例えば「疑問1」(特筆すべき別の建物…)という点では、あの有名な「安土セミナリヨ」がまず頭に浮かびます。


安土セミナリヨの推定地(安土町 大字下豊浦大臼)



宣教師らが織田信長に土地を与えられて建てたという安土セミナリヨは、いまだに遺構が発見されず、現地では大臼(だいうす…デウス)を跡地に推定しています。

当然、遺構が無いため、どんな建物だったのかは決め手を欠く状態で、一説には三階建ての日本式の楼閣建築とも言われ、そうした南蛮寺を描いた扇も有名です。

ところが、『グレゴリオ13世一代記』には鐘塔のある石造風の安土セミナリヨが挿絵に描かれ、ヴァリニャーノ自身も「天主堂は、我がヨーロッパの慣例を保存するやうに造られ、礼拝堂は長くして、日本人がその寺院を造るに慣はしとするやうな横幅があってはならない」と書き残し、日本各地にローマ・バシリカ式の小規模な礼拝堂があった可能性を、岡本良知先生は書いています。


ローマの大聖堂のバシリカ内部




そうした中で「疑問2」(背後に小舟が行き交う水路…)からは、たいへん面白い点を指摘することができます。


右隻イメージ/「大臼」は水路を背後にしている?



ご覧のとおり、西から眺めた「新しい都市」(新市街地)を描いたはずの右隻は、大臼が屏風の中央に見え、ちょうど水路を背後にしていて、そこに“問題の小舟”が往来していた様子も十分に想像できるのです。

もしこの位置に「ウィンゲの木版画」の元絵があったのなら、かなり思い切った解釈ではありますが、この絵は三階建てのセミナリヨの表側であって、下の黄色い部分は“檜皮葺きの玄関か門”と見えなくもありません。





しかも「疑問3」(安土城天主に似た要素…)を考えますと、現に安土セミナリヨは、信長から特に許されて安土城と同じ瓦を使用していたばかりか、ひょっとすると建物自体も“天主に似せて”建てていた(!)という、思いもよらぬ見方が出来るのかもしれません。

仮にそうだとするなら、宣教師らは「ローマ・バシリカ」と言いながら、セミナリヨの表側を安土城に似せてしまう、という政治的メリットの誘惑に傾いたわけで、真相への興味(妄想?)は尽きそうにありません。



ただし今回は、もう一つの可能性を、申し上げなければなりません。それは左隻の安土山中にあった寺院(temple)「ハ見寺」(そうけんじ)です。


名所図会の安土山ハ見寺(中央に本堂/画面右上隅に主郭部の石垣)

東から撮ったハ見寺本堂跡(遠景の山々の下にかすかに湖面が見える)



ハ見寺の本堂は、寺の古文書によりますと、裳階(もこし)の付いた五間四方の禅宗様式の仏殿だったそうで、二階建てのような構造をしていました。

(※この二階部分には「扇椽閣/せんえんかく」という二間四方の密閉された部屋が組み込まれていて、ここが信長の化身である神体「盆山」を安置した場所ではないかと、秋田裕毅先生が指摘した所でもあります。)


そうした幻の本堂は、東から見た様子が、ウィンゲの木版画に似た姿になりそうなのです。




と申しますのは、この絵は見方を変えますと“二階建ての仏殿”と“その手前の門か回廊”と見ることも可能で、現に、本堂のすぐ東にはかつて「裏門」があって、これが例えば萱葺き(かやぶき)の屋根であったなら、まさにこのとおりに見えたのではないでしょうか?

しかも仏殿部分の左下のスパッと切り取られたあたりは、地面との接地部分なのだと理解できて、先程のセミナリヨよりも、いっそう自然な描写に感じられます。

そして木版画のアングルは、本堂を南東から眺めたような角度であり、これは左隻で東から見た安土山にぴったりマッチングしそうです。



左隻イメージ/「本堂」は湖水を背後にしていた?




結局のところ、木版画の正体は安土セミナリヨか?ハ見寺本堂か?という答えは、西洋で何故この絵が着目されたかという“動機”の点では、「安土セミナリヨ」が有力ではないでしょうか。

しかし建物の描写やtempleというキャプションからは「ハ見寺本堂」の方が有力のようで、残念ながら、現状は五分五分と言わざるをえません。

結論として、この木版画は、安土城天主と考える以外にも、ご覧のような可能性は十分にありうると思われるのです。


さて次回は、安土城と天主の「向き」をめぐる“意外な盲点”をご紹介します。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2009年08月24日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!幻の「安土山図屏風」はここにある





幻の「安土山図屏風」はここにある


ウィンゲの木版画       シャルヴォア『日本史』掲載の銅版画  


前回、左側のウィンゲの木版画は、原書のキャプションでは「temple(寺院)」であり、右のシャルヴォアの絵に比べますと、「西の城下町から眺めた天主」としては不合理(宙に浮く小舟!)である点をお伝えしました。

では、木版画の建物はいったい何なのか? そして幻の「安土山図屏風」とはどういう関係にあったのか? 前回に引き続いて、“ウィンゲの怪”の真相にググ―ッと迫ることにしましょう。


それには第一のステップとして、「安土山図屏風」について、明らかになっている点を確認しておく必要がありそうですが、その辺りは内藤昌先生の著書『復元・安土城』が一番詳しいようです。



それは、一五八五年(天正十三年)三月二十三日発行の『羅馬報知』(Avisi di Roma:ヴァチカン図書館蔵)に、「極大きくて誠に薄い木の皮に、日本の主要なる一都会(安土)の絵を描いて、それには沢山の大きな建築が描いてある」とか、『ベナツキの談話(Dalla Relatione del Benacci)』に「信長(安土カ)と称する日本の首都を描いた高二ブラチヤ(約六尺)長四・五ブラチヤ(一二〜一五尺)の画」とあるに相応する。
また一六六〇年フィレンツェにて発行されたバルトーリ著『耶蘇会史・日本の部(Bartoli ; Storia della Compagna di Gesu.U Giappone.)』でも使節らが献上した日本特産品について、「そのうち最も善きものは、屏風(beobi)とよばれる装飾家具の二つ(一双)であった。其の一には新しい都市と、他の一には安土山(Anzuciama)の不落の城を筆を以て描いたものであって、それは信長がヴァリニヤノ師へ、其の愛情の記念として贈ったものと同物である」と述べている。
この二曲一双の屏風は、グレゴリオ一三世によってヴァチカン内の世界各地の地図や都市図で飾られた「地誌廊」に展示されていたらしいが、その後の行方はまったく不明である。


(内藤昌『復元・安土城』1994)



この文章によりますと、屏風は高さが約六尺(2m弱)、幅十二〜十五尺(4m前後)の「二曲一双」で、左右の両隻に「新しい都市」と「安土山の不落の城」を分けて描いていたことになります。



洛中洛外図屏風/六曲一双の左隻(させき)と右隻(うせき)


織田信長といえば、かの上杉本「洛中洛外図屏風」を上杉謙信に贈ったほどの人物ですから、彼の「安土山図屏風」も(安土を都になぞらえる意味で)洛中洛外図を踏まえて制作された、と考えてもいいように思われます。

しかも絵師は「日本の最も著名なる画工」(イエズス会日本年報)と伝わり、狩野永徳であった可能性もあるのですから、その描き方に共通の手法があったとしても何ら不思議ではありません。


そこでまず「洛中洛外図屏風」の手法として想起されるのは、景観の独特の切り取り方でしょう。

どういう切り取り方かと申しますと、屏風の左隻には、上京(かみぎょう)を東から眺めた景色を描き、一方の右隻には、下京(しもぎょう)を西から眺めた景色を描く、という基本的なパターンがあったとされています。

(※その結果、二条城など「城」は左隻に多く描かれることになりました。)


これを試しに「安土」に当てはめてみると、どうなるでしょう?





たぶん、こんなことになるのではないかと思うのですが、こうしてみると安土山や城は順当に「左隻」に描かれ、一方の右隻は港を手前に、信長が築いた城下町(新市街地)を中心にしていたことになります。


で、この場合、出来上がった「絵」には意外な点が想像されるのです。


―― 左隻の安土山は東から眺めた状態のため、山頂の主郭部は、天主より東側の「伝本丸」が手前に見え、(近年、御所の清涼殿と同じプランと解釈されて話題になった)御幸の御間(みゆきのおんま)?が強調された絵だったのかもしれないのです。

東南の方角から見た主郭部のイメージ


つまり主郭部はこんな角度からの描写であり、天主の手前に、石塁で囲まれた御幸の御間?が見えたとも思われるのですが、さて、この構図、どこかで見覚えありませんでしょうか…

右写真はシャルヴォア『日本史』掲載の銅版画(主郭部の拡大)


この思わぬ一致を、どうお感じでしょうか?

そしてさらに驚愕を覚えるのは右の図中「A」「B」の注釈文であって、注釈文の拡大画像もご覧いただきながら話を続けましょう。




まず全体のタイトルは「アンヅチアマの城と町の図」で、問題はこの2行目と3行目にあります。

2行目に「信長の天国」le Paradis de Nobunagaとあり、3行目「A」は「皇帝の宮殿」le Palais de l’Empereurであり、「信長」と「皇帝」は二行の間で“別人格”として表記されているのです。

もし信長と皇帝が同一人格であるなら、「皇帝の宮殿」は「彼の宮殿」などと表記されても良いはずなのに、わずか二行の間で“言葉を変えて”いるのです。

(※これは別のケースでは、『モンタヌス日本史』のように晩年の徳川家康を「皇帝」と誤解して伝えた例もあるわけですが、この絵の場合は、やはり2〜3行の中で言葉を変えた点は要注意と言わざるをえないでしょう。)

そして3行目「B」天主は「チタデル/要塞」la Citadelleであり、山の中腹「C」は「諸侯の屋敷」Maisons des Seigneursです。


このように、シャルヴォアの絵は、なんと、御所の清涼殿と同じプランとされた「御幸の御間」?と思しき“行幸殿”を、はっきりそれと意識して、手前に大きく(東から)描いた節があるのです。


これは近年、滋賀県の調査を経て主張された安土城と一致する認識が、すでに18世紀のフランスで共有されていた可能性を示していて、大いに驚かざるをえません。

特に主郭部については、昨今、天皇を迎える行幸殿(行宮)を守るような「天守構え」(天守と櫓と石塁で囲んだ領域)であった可能性が言われていて、そうした中で、天主を「チタデル」と伝えた“ある種の正確さ”にも舌を巻く思いがします。

その嗅覚の鋭敏さは、「皇帝の宮殿」と「チタデル」をセットにした上で、それらを「信長の天国」le Paradis de Nobunagaと銘打った政治的感性にも現れていて、この銅版画は「ただならぬ逸品」として再評価されるべきではないでしょうか。


(※これは当サイトが主張する「天守は公武合体の新たな統一権力の樹立と版図を示す革命記念碑(維新碑)」という考え方とも、しっかり一致します。)



さて、こうなるとシャルヴォアの銅版画は、上半分(安土山)が「東」からの描写なのに、下半分(新市街地)は「西」から描いていることになります。

この妙な混乱を招いた元凶は、ひょっとすると、新市街地の遠景にあったはずの繖山(きぬがさやま)ではないのでしょうか?





この際、思い切った仮説を申し上げますと、「安土山図屏風」は当初、左右が「安土山の不落の城」「新しい都市」という別々の画題であることが認識されていたにも関わらず、その後どこかの時代で、スケッチが重なる過程で、両者が誤って一つの風景に再構成されてしまったのではないでしょうか??

例えば右隻の繖山が、左隻の安土山と同じ山(の遠景)に誤解されたとすると、上下の再構成の結果は、シャルヴォアの絵と同じ一枚になるでしょう。

つまり幻の「安土山図屏風」は、姿を変えてここにある、とも思われるのです。




安土山と繖山



右の繖山は、信長が攻め落とした観音寺城の曲輪や城道が山全体にあって、もし屏風にそうした描写があったなら、それはもう安土山と混同されても不思議ではありません。


さて次回こそ「ウィンゲの木版画」の正体に迫ります!!







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2009年08月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…





ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…


松岡利郎先生の模型の画像化(推定イメージ)



前回ご紹介した“『信長記』類にあくまでも忠実な”松岡利郎先生の復原模型は、一方で、いわゆる「ウィンゲの木版画」を参考にしている感があります。


ウィンゲの木版画とは、ご承知のとおり、織田信長が宣教師ヴァリニャーノに贈った幻の「安土山図屏風」がヴァチカンに収蔵されると、それを画家ウィンゲがスケッチし、その一部をカルタリが著書の挿絵にするため木版画にしたもの、と伝わっています。


通称「ウィンゲの木版画」(安土城天主の上層部分とされる一枚)


建物の最上階には、華頭窓が二つずつあり、その間の壁面に「戸」は無く、廻縁も無いため、壁面の様子は松岡先生の模型にたいへん良く似ています。


ですがこの木版画は、なんと原書の段階では、絵のキャプション(注釈)が「temple」(!!)だったそうなのです。
(※詳細は内藤昌『復元・安土城』P299注18をご参照下さい。)

そんな中でも、この一枚は、日本の城郭研究者の間で「安土城天主の上層部分を描いた可能性が高い」とされ、松岡先生の模型もそうした考え方を採用したように思われます。


そして実に不思議なことに、この絵は、当ブログの『天守指図』新解釈とも、相通じるような描写を含んでいるのです。


新解釈『天守指図』各重の色分け/六重目に大規模な廻縁

通称「ウィンゲの木版画」/これは渡り廊下?大規模な廻縁?


木版画の色づけした部分を、天主の手前にある「渡り廊下」と推定されたのは、織豊期城郭研究会の代表、加藤理文先生です。


最下部の渡廊下のような表現は、天主と本丸御殿を結ぶ渡廊下、もしくは御殿同士を結ぶ渡廊下が想定される。ヨーロッパにおいて、建物同士を結ぶ廊下の存在が珍しいためか、屏風に多くの渡廊下が描かれていたためかは、判然としない。天主の前面に描くことで、手前にあったことを表現していたと考えたい。
(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「文献にみる安土城の姿」)



こうした加藤先生の指摘は、滋賀県による現地の発掘調査等を踏まえたものであり、異論を申し上げるつもりは毛頭ございません。

ただ、木版画の色づけした部分の描写と、かねてから申し上げている新解釈『天守指図』六重目の西側の大規模な廻縁が、あまりにも“似ている”ように思われ、しかも加藤先生の続く一文がたいへんに興味深いのです。



天主本体と異なる表現方法であるため、渡廊下が瓦屋根でないのは確実で、檜皮葺き(檜の皮で屋根を葺くこと)と理解される。
(前記論考より)



この画期的な考え方に立ちますと、我田引水で恐縮ですが、新解釈『天守指図』の六重目(及び大規模な廻縁)の屋根も、ひよっとすると「檜皮葺き」だった(!)という可能性も考えられるのかもしれません。

そうだとしますと、後の天守群において、上から二重目の屋根をあえて「板葺き」にした例(※津山城や福山城)が思わず想起されます。

そして、そのような板葺き屋根の先駆例が安土城天主なのだ、となれば、それらは決して(「五重を四重に見せる」といった)消極的な意図で板葺きにしたものではなく、天守の創始者・織田信長ゆかりの“伝統”を踏まえた意匠だった、ということにもなりかねません。


このようにウィンゲの木版画は、安土城天主の上層部分としますと、言われている以上に“貴重な鑑賞ポイント”が盛り込まれているようです。

そして木版画のように、正面に見えるのが天主西面の廻縁ならば、安土城全体も西側から(つまり城下町や琵琶湖の側から)見た姿となり、そうしたイメージは、以前の記事でご紹介したあの「絵」と同じ構図になりそうです。



シャルヴォア著『日本史』掲載の銅版画「安土城下の図」



この銅板画について、加藤先生は、先の論考に続いて重要な発言をされています。


琵琶湖と安土山の位置関係、城下町と城の位置関係、中腹に広がる家臣たちの屋敷地など、本来の安土山の景観に近いうえ、空にたなびく霞雲の表現、飛び交う鳥の姿は、織豊期の障壁画の表現方法と酷似し、何らかの手本の存在を感じさせる。その手本こそ、失われた「安土山図屏風」の可能性が高い。
城下町の位置から、この図は百々橋口
(どどばしぐち)から望んだ姿と推定できる。
逆にいえば「安土山図屏風」は百々橋口から望んだ姿で描かれていたことになる。現在は、発掘調査で検出された大手道を正面とする場合が多い。だが、『信長公記』の記載では、百々橋口が正面なのである。この絵は百々橋口正面を裏付ける、貴重な絵でもある。


(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「安土城下の図」)

(※カッコ内は当ブログの補筆)



シャルヴォアの銅版画と幻の「安土山図屏風」の間には絵画的な接点があり、ともに安土城の正面を「西」に見立てて描いている―― ここまで申し上げてきた内容からも、そのような判断を下しても構わないように見えます。


しかし、しかしなのです…

ウィンゲの木版画だけは、西から見た天主の上層部分だとすると、ただ一点、どうにも不合理なものが描かれているのです。

それは、屋根の頂上にダブった「小舟」です。




冷静に考えてみれば当たり前のことですが、シャルヴォアの絵と同じ構図なら、安土山の頂にそびえる天主の背景は、東の空一面でなければならず、そこに「小舟」が浮いていたら、まことに可笑しな空想画か、シャガールの絵のようになってしまいます。


あえてそうした可能性を探るとするなら、その絵は「南」か「東」の上空から安土山と琵琶湖を急角度に見下ろして、天主と湖面がダブって見えるような鳥瞰図の類でなければなりません。

しかしそれはもう、シャルヴォアの絵とはまるで異なるアングルですし、その場合、天主の西側の廻縁が正面から見えるはずもありません。


どうやら、事の真相はかなり複雑であって、ウィンゲの木版画じたい「本当に安土城天主なのか?」「ひょっとすると原書の注釈どおりtempleなのでは?」といった疑念が生じ始めるのです。



(※さらに余談を申せば、織田信長が心血を注いだ安土城天主に、絵師は「小舟」をダブらせて描くでしょうか?? そんな絵を見た信長は、即座に絵師を引き据え、自ら手打ちで斬り殺すのではないかと思われてなりません。)

(※現に、古今の絵画上の天守で、市井の風物をダブらせた例は皆無のように思われます。あってもそれは城内の建築等にとどまるのが常です。)



これらが、私自身が「ウィンゲの木版画は本当に安土城天主なのか」という疑念をぬぐいきれない理由です。




…ひょっとすると、それは天主以外の、安土城下で特筆すべき別の建物ではないのか?

…それは「西」から見た時、背後に、小舟が行き交う水路か舟入りを備えた建物ではなかったのか??

…ならば何故、その建物は、安土城天主に似た要素を備えているのか???


この複雑怪奇な「ウィンゲの怪」をあばく驚愕のアイデアは、また次回のお楽しみにさせていただきたく存じます。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2009年08月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目





続々報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目


このところ話題にしています「七重目」は、安土城天主の各重の中でも、研究者によって復原の結果が千差万別になっている階です。

その様子は例えば、下の表のように『信長記』類のキーワードを軸に比較してみますと、よく分かるようです。





例えば内藤昌先生の復原は、先生ご自身が“発掘”した『天守指図』を基本に据えているため、文献のキーワードに比べますと、池上右平の書き込みにかなり“引っ張られた”結果になっています。

ご覧の色文字で対比したとおり、七重目に関しては、ほとんどの要素が文献の記述からやや離れたものになっています。


そして今回の記事では、これとは対極的な復原もあることを是非ご紹介したいと思います。それが下の安土城天主の模型です。


松岡利郎先生の復原模型(熱海城にて撮影)


写真は十数年前、熱海城(!)に展示されていた模型を、レンズ付きフィルムでガラス越しに撮ったものです。

そのため当然のごとく鮮明でなく、せっかくの模型のディティールが伝わらない恐れもあって、今回は独自に“絵”にしてみました。



松岡先生の模型「七重目」の画像化(推定イメージ/画:横手聡)



松岡利郎先生は、当ブログの小松城天守の記事(『実在したもう一つの吹き抜け』)でも著作を引用させていただいた先生ですが、その復原模型は文献『信長記』類に忠実であろうとする以上に、『信長記』類のT類本(『安土日記』)とU〜W類本(『信長公記』等)の“相違点”まで反映させようとしたものなのです。





このように“色文字”で対比できる“文献との差”はわずかです。


では、松岡先生の復原方針はどういうものだったのか、『信長記』類のT類本とU〜W類本の“相違点”を確認してみましょう。

(※下記『安土日記』の「上一重」は七重目のこと)


尊経閣文庫蔵『安土日記』(T類本)
上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ



岡山大学蔵『信長記』(U類本)
上七重目 三間四方 御座敷之内皆金也
外輪是又金也
四方之内柱にハ上龍下龍 天井ニハ天人御影向之所
御座敷之内ニハ三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢等をかゝせられ
ひうちほうちやく数十二つらせられ
狭間戸鉄也 数六十余有 皆黒漆也




【T類本からU〜W類本になって、本文から消えた要素】
1.外輪(そとがわ)の欄干
2.金色の柱
3.絵師の名、狩野永徳


【T類本からU〜W類本になって、本文に加えられた要素】
4.外輪(そとがわ)も金づくし
5.内柱に上り龍・下り龍
6.天井に天人御影向の絵
7.儒教画は座敷内にある
8.十二個の火打ち・宝ちゃく


ただし5.6.8.の要素は、T類本『安土日記』にも行間補記として後から書き込みされていて、どういう経緯でそうなったのか判断がつかないため、やや注意が必要とされている要素です。

(※また狭間戸が「数六十余有」という部分も、天主全体の窓の数と誤伝したもの、と言われています。)

したがって、そうした条件もつかず、純然と“消えたり”“加えられたり”した要素は、「1.外輪の欄干」「2.金色の柱」と「4.外輪も金づくし」であり、やはり欄干と外壁の様子が焦点になってくるわけです。


そのような状況を踏まえた復原アイデアとして、「外輪の欄干は無かった」という“改定”がU〜W類本で行われた、と考えたのが、先の松岡先生の復原模型であるように思われます。

欄干も廻縁も無く、七重目の外観がすべて金づくしになった模型は、そうした『信長記』類の事情を踏まえた、ある意味で、まことに理にかなった復原であり、舌を巻くような思いがいたします。

(※当ブログの「見せかけの欄干」説も改めて主張させていただきます!)






特にこの金づくしの外観は、シャルヴォア『日本史』で七重目が“一個の純金の冠”と表現されたことや、モンタヌス『日本史』の大坂城天守の瓦(金・銅・鉛・石瓦の四色!)、さらにウィンゲの木版画が深く影響しているようで、次回はそうした観点から、驚くべき安土城天主の可能性をご紹介してまいります。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目





続報・本当に窓が無い?安土城天主の七重目


香川元太郎著『日本の城[古代〜戦国]編』1996



多彩な活躍で知られる香川元太郎先生は、かつて著書の中で「近年では、安土城研究家の数だけ復原案があると言っても過言ではない」との名言(嘆息?)をお書きになっています。

かくいう当ブログも前回、七重目には窓(狭間戸)がちゃんとあり、逆に、廻縁にでる「戸」が無く、そのために“見せかけの欄干”がめぐっていた? という自説を、厚かましくも紹介させていただきました。


新解釈『天守指図』の七重目



この草創期の安土城天主にして、すでに“見せかけの欄干”があったという当説には、どこか違和感を覚えた方もいらっしゃるように思われますので、今回は織田信長の以前の天守はどうであったかを是非ご覧いただきましょう。




岐阜城天守推定復原図(西側立面)/復原:城戸久


当ブログで度々ご紹介しています城郭研究のパイオニア・城戸久先生は、織田信長時代の岐阜城(山頂)天守の復原に取り組み、ご覧のような立面図を発表しました。

以来、これが山頂の天守について、最もオーソライズされた復原像と見なされています。



この復原作業に際して最も重要な史料とされたのが、岐阜城が廃城となった後に、その南に築城された加納城の「御三階」櫓の絵図でした。

城戸先生は天守の代用とされたこの「御三階」を、信長時代に由来する岐阜城天守の移築(および改築)と考証し、立面図のような復原に至ったのです。


中でも最上階の縁や匂欄(高欄)は、その加納城と「丸岡城」の天守を最も参考にしながら、復原作業を進めたそうです。



加納城『御三階の図』望楼部分(片野記念館蔵)

丸岡城天守の望楼内部/腰高の「中窓」で外側の縁には出られない構造



最上層の外部周囲に縁、匂欄をめぐらせた例は犬山・丸岡・広島の各城にみられる。
ことに丸岡城は中窓となっており、
(復原作業は)加納城図記入の「内敷に四・六尺」から同じように中窓としたが、(加納城が)異なる点は図の縁、匂欄が南北のみにあって東西になく、華頭窓になっていることである。
この点少し疑問であるが、図の華頭窓を尊重すると彦根城のような例もあり、また中窓で廻縁を有する丸岡城もあるので、おそらく当初は完全な廻縁があったとみなし、丸岡城と同じ手法としたのである。


(城戸久『名古屋城と天守建築』1981)

(※カッコ内は当ブログの補筆です。/また「内敷に四・六尺」は、窓辺の内敷の棚まで高さ4.6尺、約139cmという解釈のようです)




このように、実は城戸先生の岐阜城天守において、すでに、床からある程度の高さのある「中窓」のため、廻縁は“見せかけの欄干”と考えられていたのです。


そうした最上階の様子は、冒頭の香川元太郎先生が、同じ著書の中でイラストレーション化していて、ここは誠に恐縮ながら、その一部分を引用させていただきたく存じます。


岐阜城 山の上の天守(イラストレーション:香川元太郎)



ご覧のとおり、この廻縁は実際には出ることが出来ない構造であり、もちろん「戸」は無く、しかも床は畳敷き(座敷)として描かれています。


こうした復原が真実であるなら、“見せかけの欄干”は信長にとって、もはや使い慣れた馴染みの設え(しつらえ)であったわけです。



次回も、安土城天主の七重目について、ある興味深い復原模型を紹介いたします。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。