城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/09

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2009年09月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!二段式の天主台に秘められたナゾ





二段式の天主台に秘められたナゾ


今回からいよいよ『天守指図』新解釈による安土城天主の「立面」(横から見た姿)についてお話してまいります。

初回はまず一番下から、ということで「天主台」から始めましょう。




これは以前の記事(歴史の証言者「池上右平」の功罪)でもご紹介した図ですが、ご覧のように、天主台遺構の断面図と、『天守指図』二重目(天主台上の平面図)を重ね合わせますと、天主台は、南側と北側で1間ほど高低差のあったことが推測できます。


一方、文献には「安土ノ殿主ハ二重石垣」(『信長記』)と記され、天主台は二段式で築かれたと考えられるものの、どういう形状かは判然としませんでした。


(※ちなみに宮上茂隆先生、松岡利郎先生、西ヶ谷恭弘先生は、それぞれの復元案において、天主本体に合わせた矩形の二段目があったとしていますが、もちろんいずれも『天守指図』とは関係がありません。)


そこで、上の図から読み取れる南北の高低差を加味して、立体的に検討してみますと、「天主本体に合わせた矩形の二段目」という考え方は、『天守指図』に基づく限り、納まりがつきにくく、かなり難しいことが分かります。

むしろ下の図のように、「二重石垣」とは、南北の高低差そのものを示した言葉、と考えた方が良さそうなのです。



遺構の断面図と『天守指図』新解釈による試案(赤い部分は天主二重目の範囲)


石垣の上段・下段の境目をどこに区画すべきかは、色々とご意見もあろうかと思いますが、天主本体の内部は部屋割りが連続しているため、「蔵」と思しき北付櫓との間に“境目の段差”を想定しました。

こうしてみますと、北付櫓だけが一段高く、しかも天主本体より高い位置に建てられていたことになります。


天守のある城で、天守の間近でより高い場所に何かを設けた例は珍しく、わずかに「天守台石垣を鑑賞する」コーナーで取り上げた浜松城天守、が思い当たる程度です。


浜松城 天守曲輪/天守台のすぐ奥に「八幡台」がある

謎の「八幡台」を模擬天守から見下ろすと…


浜松城は天守の来歴に諸説あるため、その奥の付櫓台「八幡台」も謎の存在であって、現地の案内板も「城の守り神として、たぶん八幡大菩薩をおまつりした所」といった説明があるばかりです。

城の守り神という意味では、安土城の場合は、「蔵」と思しき構造の北付櫓には、例えば織田家累代の重宝類などを納めたのではないか、とも思われます。


そしてもしそこが重宝類を納めた蔵だとしますと、より大きなナゾが出現します。
織田信長は、肝心の天主中心部の「高さ12間余の蔵」に、いったい何を納めるつもりだったのでしょうか??



しかも以前の記事で申し上げたように、重臣・村井貞勝らが天主を拝見した際に、信長はこの壮大な蔵を、あえて見せなかった(秘匿した)節があります。


かくして、文献が伝えた「二重石垣」は、安土城天主の“最大の謎”に私達をいざなうプロローグでもあるのです。

(次回に続く)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年09月20日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか





安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか


今回から天主の話題に戻ると予告しましたが、安土城「大手道」が何故あれほど大規模なものになったか?という話を忘れていたため、今回だけ、どうかご容赦下さい。

で、その「大手道」ですが、以前の小牧山城の倍近く、約9mもの道幅で築かれています。

発掘調査関係者の報告ではこれを「天皇のための大手道」と考証していて、そうなりますと、実際に天皇の安土行幸があった場合、いかにしてあの石段を登るように想定していたのでしょうか?

そこでポイントになるのは、やはり“天皇の乗り物”でしょう。


例えば、京都・時代祭の名物の一つ、桓武天皇の御鳳輦(ほうれん)


行幸の記録によりますと、織田信長の頃の前後では、室町時代に北山第などへの行幸に使われた乗り物は「御こし」「御輿」と記され、すぐあとの聚楽第や二条城への行幸では「鳳輦」と記されています。

でも『聚楽行幸記』には「鳳輦・牛車、そのほかの諸役以下、事も久しくすたれることなれば、おぼつかなしといへども、民部卿法印玄以奉行として、諸家のふるき記録・故実など尋ねさぐり、相勤めらる」とあって、すでに室町時代の詳細が分からず、豊臣秀吉の周囲があわてた様子もうかがわれます。


当時の鳳輦を描いた絵画としては、例えば国立国会図書館の貴重書画像データベースにある「寛永行幸記」や松平定信の「輿車図考」などが参考になるでしょうし、寸法のデータとしては、静岡市文化財資料館にこんな鳳輦が展示されているそうです。

御鳳輦 1基 方輿125.0 高さ72.0 屋根114.0 柄長394.0
徳川家光公寄進 浅間神社収蔵品



いずれにしましても、鳳輦の柄の長さは4m前後、それに片側5人ほどの仕丁が取り付き、左右と中央の前後、そして周囲にも配置して、総勢20人ほどで担いでいく、という形が一般的だったようです。


もちろん行幸は群集が見守る盛事ですから、安土城に到着して「大手道」の石段にさしかかったとしても、そのまま、鳳輦を担いで登ったはずでしょう。

おそらくは鳳輦を横向きにして、仕丁らが左右に並ぶ形で、ゆっくりと登るつもりだったのではないでしょうか。


そうした姿を想像するとき、初めて、壮大な規模の「大手道」が安土城にとって不可欠の舞台装置であった、と理解できるように感じられます。


二条城 東大手門


さて、城郭への行幸と言えば、ご覧の二条城の東大手門は、寛永行幸の際に後水尾天皇の鳳輦が通過した門ですが、ただ当時は、このような姿ではなかったことが知られています。

門の上の櫓部分がまったく無く、門の柱や冠木の上に直接、屋根がかけられた「高麗門」などの単層の門だったのを、行幸ののちに櫓部分を増築して、現在のような櫓門になったのです。

東大手門は二条城の第一の門であるにも関わらず、何故、単層の門にしていたのか… それは、櫓門では、天皇の頭の上に床(つまり侍の足!)を置く形になってしまうから、と言われています。


このように、幕藩体制の確立に向けて、朝廷に抑圧的な政策を取り続けた徳川幕府でさえ、鳳輦の通過する門の形には配慮していたわけです。


となりますと、例の安土城の「大手門」についても、織田信長が“本気で”天皇を迎えようとしていたなら、それを櫓門にするという選択肢は無かったのではないでしょうか??

仮に、前回の「信長廟の門構え説」から百歩譲って、信長の存命中から「大手門」があったとしても、それが櫓門であった可能性は、極めて低い、と言わざるをえないようです。






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2009年09月13日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?





続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?


安土城・伝二の丸の上段にある「信長廟」


写真は織田信長の一周忌のために(羽柴)秀吉が建立したものと云われ、一説には、一番上の丸い石がいわゆる「盆山」ではないかともされています。

ここで、本能寺の変から後の、安土城の主な出来事を挙げてみますと…


天正10年6月  本能寺の変の直後、謎の出火で主郭部が全焼
天正10年同月  山崎の戦いに勝利した秀吉、織田信孝と共に入城
天正10年8月  秀吉、丹羽長秀に城の修復を催促。秋ごろ完成
天正10年12月 織田家の跡目を継いだ三法師(さんぼうし)が入城
天正11年正月  三法師の後見人・織田信雄が城下町に掟を発する
天正11年2月  秀吉、「信長廟」を建立
天正12年12月 秀吉、三法師を坂本城に移し、廃城となる



このように安土城は、信長亡き後も、なお2年半にわたって織田家当主の居城として使い続けられました。

その間、主郭部は「信長廟」が建立された他は(神聖な領域として)手付かずだったものの、年表の「三法師の御殿」がどこに建てられたかは今も不明で、この時期の造営が城内のどこまで及んだのかも、明らかになっていません。

あえて極論しますと、話題の「大手道」でさえ、次のようにチョット不思議な要素を抱えているのです。


「大手道」は途中から信長廟に向かっている…


巨大な天主が山頂にあった頃(つまり信長の存命中)、登り始めの南側はその天主を目指して登っていた「大手道」が、途中からやや左にそれてしまいます。

しかもその方向がちょうど「信長廟」に向かっていて、さながら廟所の参道のようにして、例えば豊臣秀吉の阿弥陀ケ峰、徳川家康の紅葉山東照宮、伊達政宗の経ケ峰など、各地で神格化された武将らの“廟所の長い石段”にも似た趣を見せてしまうのは、何故なのか…

阿弥陀ケ峰の石段(京都市/明治以後の整備による現状)



まぁいくらなんでも、あの大規模な「大手道」が、本能寺の変のあとの修復箇所であるとは申しませんが、こうした不思議な一面も現にあるのです。


一方、前回申し上げた大手門の「四つの門が一列に並ぶ」発掘成果は、城郭としていかにも異様であり、城を見慣れた感覚からしますと、「ここは城ではありません」というシグナルを当時の人々にも与えたことでしょう。



安土山の南側にはハス池もあり、辺りは静寂な空気に包まれていた?


想像してみていただきたいのですが、入口が沢山ある、というのは、それだけで“来訪者を迎え入れる”空気を漂わせますし、やはり何か「城郭」とは別種の構想が無いことには成立しえないものです。

そこで前回、これはひょっとして、本能寺の変の後に整備された「信長廟の門構え」の可能性はないのですか?? と申し上げたわけです。


最近の発掘調査では、四つの門は城外との境界線にあるのではなく、城の範囲はもっと南側の水堀まであったことが判明しています。

したがって四つの門と石塁は、城内に設けられた“第二の境界線”であって、城の防禦面から見ても、ある時期までこれが存在しなかったか、より簡便な土塁であった可能性は、否定できないように思われます。


そして冒頭の年表のように、本能寺の変後の安土城は、すべからく秀吉の影響下にあったことが明らかで、この点から、正対した門が三つ横に並んだ理由も説明できそうです。

すなわち、これらの門は、本能寺の変で落命した、織田家の人々を示したのではないでしょうか。

彼らの犠牲をそういう形で強調することが、仇敵の明智光秀を討った秀吉の立場を不動のものにするうえで、「信長廟」の建立とともに必要とされたのではないか、と申し上げたいのです。


写真は石清水八幡宮の楼門、手前に唐破風の屋根庇が突出している


まず中央の大手門は、文句無く、山頂の「信長廟」を意識した、信長自身の廟所の門であったように思われます。

発見された礎石から、間口11mの門が“半ば表に突き出る形で”建っていたようですが、そんな形は城の櫓門ではありえないため、やはり突出した屋根庇のある楼門などを考えざるをえないでしょう。

また老婆心ながら、発掘調査で浮上した大手門の推定位置が「大手道」より少し東にズレているのは、ひょっとすると、「大手門」と「大手道の主要部分」と「山頂の信長廟」とが一直線上になるように“調整”した結果ではないかとも思われ、門をくぐった時にそうした場所に立てる工夫がなされたのかもしれません。


そして東側の門は、信長の後を追って戦死した嫡子、信忠(のぶただ)の廟所の門とされたように思われます。

ご承知のように信忠は三法師の父親であり、本能寺の変の戦場からあえて離脱しなかった姿勢が、信長とともに祀る対象として欠かせなかったのかもしれません。


さらに枡形門の脇にある西の門が、信忠とともに二条御所で戦死した一族衆、信長の末弟・長利(ながとし)や信長の五男・勝長(かつなが)を祀る廟所の門とされたのではないでしょうか。



これが四つの門を「信長廟の門構え」とした想定の概略ですが、重要なことは「内裏の三門に見立てた」という解釈にしても、これらの門の内側には、何もそれらしき関連の遺構は無い、という事実です。

四つの門は互いにすぐ内側の通路でつながっていて、その奥の敷地は、後世の撹乱のためか、もともと完成していなかったのか、何も発見されなかったのです。

その意味において付け加えますと、この「廟所の門構え」説では、廃城までの時間的な制約があったため、例えば“石塁と門が完成した時点で時間切れとなり、そのまま沙汰止みになってしまった”という皮肉なケースも考えうるのです。



では次回から再び、天主の立面を明らかにしていく話題に戻ります!!


【2013年4月25日補筆】
ここで申し上げた件については、新たなブログ記事で、安土城郭研究所の松下浩先生の注目発言をご紹介していますので、是非こちらもご参照下さい。






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2009年09月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?





異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?


前回、幻の「安土山図屏風」について、絵の概略のイメージを作ってみましたが、その左隻の方をシャルヴォア『日本史』の銅版画と比べてみますと、いくつかの発見があります。


上:安土山図屏風(左隻)イメージ / 下:シャルヴォア『日本史』銅版画


ご覧のとおり、双方の描写には共通する点が多々あるように思われ、中でも今回、特にご注目いただきたいのは“城道”です。

と申しますのは、銅版画で主郭部につながる城道は、現地のその周辺の道とおおよそ一致するように見えるからです。

例えば、銅版画の主郭部の虎口(本丸南虎口?)から出た城道が、山の斜面を西へ斜めに下ってハ見寺につながるところなど、良く似ています。




そして注目すべきはその下、両側に屋敷(曲輪)群が多数連なった「大手道(おおてみち)」と思しき城道も描かれている点です。

(※銅版画は道がややクネクネと曲がっていて、一見、西斜面の「七曲道」のようにも見えますが、急峻な「七曲道」の両側に屋敷群が連なることは無く、やはり「大手道」と見る方が自然でしょう。)


発掘調査後の「大手道」現状


「大手道」は平成元年から行われた滋賀県の発掘調査で姿を現し、御所の清涼殿と同じプランの礎石列とともに、歴史ファンの話題をさらった大発見です。

山の南斜面に長さ約180m、幅9mもの直線的な石段が続き、両側に石垣造りの曲輪跡が並んでいて、その上は左右に道が屈曲しながら主郭部に達しています。


発掘調査関係者の報告では、これは「天皇のための大手道」(滋賀県安土城郭調査研究所『安土城・信長の夢』2004)とされていますが、ただ、これほど大掛かりな城道でありながら、『信長記』類などの文献にはまったく登場せず、「大手道」の名称も当時のものではないという、やや留意すべき点もあります。



小牧山城にも「大手道」が…


そして、ここで指摘せざるをえないポイントが、「大手道」は織田信長の以前の城・小牧山城にも、ちゃんとある、という事実でしょう。


小牧山城は信長が美濃攻略以前の永禄6年、居城として築いた城で、山の南斜面に(道幅は安土城の半分ほどですが)約150mの直線的な「大手道」が築かれています。

小牧市教育委員会の中嶋隆先生は、発掘調査の結果から、「大手道」は一部の改修を除く大部分が信長時代のままと考えられるとし、そのねらいを推測しています。


「南麓の城下から見上げたときの印象や大手道を通って主郭へ至る途中での視覚を重視して、新しい装いを施した城を造り出そうとしたのではないかと思われる。」
(『信長の城下町』2008所収/中嶋隆「小牧城下町」より)


こうなりますと、「大手道」とは、信長の築城術において、どういう目的を与えられた城道なのか?という疑問が改めて浮上し、少なくとも“安土城だけの検討では解明しきれない”ように思えて来ます。



近江八幡城/直線的な城道の脇に並ぶ曲輪跡の石垣


(※例えばその他にも「両側に屋敷(曲輪)群をともなった直線的な城道」という点では、近江八幡城や犬山城などの例も思い浮かびます。)

(※このうち近江八幡城のケースでは、それは、城下町と、山の南斜面の中腹にあった城主・豊臣秀次の屋敷とを「最短」で結ぶための直線的な城道であり、一見すると「領国内の大名権力の集中」というテーマに深く関わる形態のようにも感じられます。)


その点では、小牧山城も似たようなもので、信長の築いた城下町が山の南麓約1km四方に広がっていたとされ、「大手道」は視覚的な効果はもちろんのこと、実際は、信長自身が城下町から山の鞍部まで馬で一気に駆け上がるための設備だったのかもしれません。


その意味でたいへん気になるのは、安土城「大手道」の石段が、踏み面(づら)を広くして築かれている点です。

これは各地の神社などでも見られる手法で、馬(神馬)がそこを駆け上がれるように、馬の歩幅に合わせて造られる石段です。


この石段の件は、信長の「大手道」とは本来、何だったのか? という命題に解明の光を当てる“物証”の一つとも思われるのですが、そうした中で、「大手道」の南端で思いもよらぬ発見があり、逆に“謎”が深まってしまいました。


それは日本国内のどの城郭にも例のない「大手門を中心に建ち並ぶ四つの門」です。


「大手道」南端の大手門跡周辺/この左右に門が一列に並んでいた


こうした門構えは、安土城の以前も、以後も、城郭では類似例がありません。

この謎の状況について、滋賀県の報告書類では「天皇を迎え入れるにあたり城そのものを内裏に見立てて玄関を内裏と同じ三門にした」(滋賀県安土城郭調査研究所『図説 安土城を掘る』2004)という解釈を行い、それに通用口の枡形門が加わって、四つの門が建ち並んだとしています。



しかしこれは、正直申しまして、やや無理のある拙速、のように感じられてなりません。


むしろ、もっと視野を広くして、あらゆる状況のバリエーションを想定して、解釈を下しても良かったのでは、と思われるのです。


そこで大胆な問いを申し上げますと、例えば、この「四つの門」は本当に、信長の存命中から、現状のような遺構が出来上がっていたのでしょうか??



例えば、江戸城内の紅葉山東照宮… 歴代将軍の廟所の門が並んでいる

(次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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