城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2009年11月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ハイブリッド侍の古代回帰願望? 信長の心を読む





ハイブリッド侍の古代回帰願望? 信長の心を読む


長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)


信長は一番大事なことを見事に言わなかった、と以前の記事で申しましたが、有名な「永楽銭」の旗印についても、信長は一言も、説明らしき言葉を残していません。




この旗印、現代で言うなら、自衛隊が“巨大なドル紙幣”を隊旗に掲げて戦場に現れたようなものでしょう。

で、この旗印をめぐる信長の意図について、真正面から解き明かした論考はさすがに殆ど見かけません。


―――この謎解きのヒントは、「永楽銭」の意図が必ずしも“経済”にあったのではなく、“永楽帝”(明の第3代皇帝)にあったのだと考えますと、また別の推理も成り立ちそうです。


明の永楽帝(1360−1424)


と申しますのは、琵琶湖に大船を浮かべたり、総石垣の城を築いて七重の天主を建てたりした信長の行動は、鄭和(ていわ)の艦隊を派遣し、自らも遠征して明の最大版図を築き、広大な紫禁城を修築した永楽帝にならうものだったようにも見えるからです。

ご承知のとおり永楽銭(永楽通宝)は、そんな永楽帝の時代に鋳造され、日本に輸出されて日本の貨幣流通を担っていた銭貨です。

それを自らの旗印に掲げるという信長の行為は、見る側にも、それなりのイマジネーションを求めるものだったのではないでしょうか。


このように前々回の記事から「曹操」「始皇帝」「永楽帝」と、中国歴代のビッグネームを羅列して節操が無いと言われそうですが、実は、信長から百年ちょっと前の人物である「永楽帝」を含めても、そこに一貫するキーワードは「古代回帰」だったのです。



上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』



マルクスが提唱した発展段階論にしたがって、数千年にわたる中国史を区分しようという論争がなされていたころ、一人の研究者が明代までは古代であると言い切った。
唐と宋のあいだに時代の画期を認め、宋代で中世は終わる、いや宋代から中世が始まるなどと他の多くの研究者が議論をしていたなかにあって、明代までは古代だというその主張は、注目はされたものの受け入れられることはなかった。

しかし、明朝の帝国が行った大運河の改修、鄭和の南海遠征、万里の長城の修築、北京郊外の明十三陵
(みんじゅうさんりょう)などの業績を見てみると、それは確かに古代的である。
近代の枠からはみ出してしまう巨大さがある。
中国史のなかに感覚的にこれと似たものを探してみると、秦が築いた万里の長城、隋が掘った大運河などが思い当たる。
古代から中世・近世を経て現代へと進むという直線的な時間の意識から自由になったとき、中国にまれに現れるこの古代的なものの系譜をたどることができる。


(上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』2005)



信長もこの「古代的なものの系譜」に魅せられた、ということはなかったのでしょうか??

例えば、一万人で巨大な「蛇石(じゃいし)」を安土山に引き上げた、などと伝わる安土築城は、安土山の全山を要塞化するもので、あたかも古墳時代の壮大な土木事業が復活したかのような「古代的な」パワーを感じます。

それにしても、なぜ信長や秀吉はそんな大事業をあえて“好んだ”のでしょうか? ――そこには、或る倒錯した心理が働いていたように思われるのです。


信長は自らが推戴した足利将軍(義昭)を都から追放しましたが、本来なら、清和源氏の血を受け継ぎ、かの八幡太郎義家の末裔である足利将軍に比べれば、武門としての信長や秀吉など、どこの馬の骨かということになりかねません。

そうした負い目について、信長は気にとめた素振りを全く見せなかった(※秀吉は愚痴をもらした)ものの、実際は、信長も焦りを抱えていて、だからこそ「正倉院宝物」に手をかけたのではないかと、『正倉院の謎』のお馴染みの由水常雄先生は指摘しておられます。


いかに性急な信長とはいえ、まだ風雲急を告げる戦乱の最中のことであった。
天下を執ることを至上の目的として、疾風怒涛のように出現したこの風雲児は、まだまだしなければならないことがたくさんあるはずなのに、なぜそれほどまでに急ぎあせって、正倉院の蘭奢待入手を、寸時の暇もおかずに実行しようとしたのであろうか。


(由水常雄『正倉院の謎』2007より)


長篠合戦図屏風の信長(大阪城天守閣蔵)


そこで余談ながら、先日、CSの番組で哲学者の西部邁さんが、ソースティン・ヴェブレンについて発言しているのを見かけ、あらぬ想像をかき立てられました。


アメリカの経済・社会学者だったヴェブレン(1857−1929)は、ユダヤ人と日本人の強さを「ハイブリッド(雑種)の強さ」と分析したそうです。

この「日本人はハイブリッド」という分析の裏には、日本が明治の開国から50年で、日露戦争で大国ロシアに勝つまでになった姿が、一種異様な脅威として見えていた時代背景があったようです。


で、思わず――― 信長、秀吉の二代にわたる織豊政権のサムライたちもまた、大航海時代がもたらしたハイブリッド(雑種)の強さで、瞬く間に国内を再統一し、朝鮮半島にまで攻めのぼったのではないか… と、あらぬ想像をめぐらしてしまったのです。


信長の心の底には、古代回帰でさらにもう一段のパワーを得たいという、言わば“ハイブリッド侍の古代回帰願望”とでも言うべき、二律背反した心理がうごめいたのではないでしょうか。


ですからあえて申しますと、もし信長や秀吉が、氏素姓に申し分のない高貴な武門の出であったなら、天守は誕生しなかった、とも思われて来るのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年11月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…





信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…


南化玄興作の七言詩「安土山ノ記」
 六十扶桑第一山   六十ノ扶桑第一ノ山
 老松積翠白雲間   老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
 宮高大似阿房殿   宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
 城険固於函谷関   城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
 …         …


これは織田信長の懇望によって妙心寺の僧・南化玄興が詠んだ、という詩の冒頭部分です。

言うなれば安土築城の“公式キャンペーンソング”であったわけで、この詩で安土城はどう表現されたかと申しますと、端的に表しているのが三行目と四行目でしょう。

四行目の「函谷関」はおそらく「惣構どて」を言い表した一語のようにも受け取れますので、となると三行目の「宮ノ高キコト…」は、安土山と頂上の主格部を詠んだ一節ということになるのでしょう。






信長の賛意を得て後世に伝わったはずのこの詩で、安土城主格部が「宮」(!)と表現され、「阿房殿」(いわゆる阿房宮/あぼうきゅう)に見立てられたことは、単なる修辞句として片付けられない問題を含んでいるのではないでしょうか??

阿房宮 前殿遺址(陝西省)


ご存知のとおり「阿房宮」は、秦の始皇帝が最晩年に造営した宮殿であり、実態がはっきりしないため、先程の詩はややもすると“ありきたりの礼讃歌”と見られて来たのですが、実は、そうとばかりも言い切れないのです。

阿房宮について、例えば中国古典文学で活躍された松浦友久先生は…



始皇帝は、天下平定後、渭南(いなん/黄河の支流・渭水の南岸)の上林苑(じょうりんえん)中に「朝宮」(百官の参内する宮殿)を造営して、政治の中枢部を渭南地区へ移行させるつもりであったらしい。
(中略)
かくて、朝宮の前殿(正殿)を、まず阿房(あぼう)の地に造った。これが、いわゆる阿房宮(阿房前殿)と呼ばれる豪壮な建築であった。
東西五〇〇歩(七五〇メートル)、南北五〇丈(一一七メートル)といわれ、殿上には一万人を座らせることができ、殿下には五丈の旗を立てることができた。
秦の法律は厳しく、処罰された人々が七〇万人もいた。これを二手に分けて、阿房宮と驪山陵
(りざんりょう)(始皇帝陵)の造営にあたらせたのである。
(中略)
広さは三百余里、
「離宮別館、山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて、輦道(れんどう)(天子が乗車のまま通行できる高架道)もて相属(あいつら)なる」
という阿房宮の全貌が、もし完成したならば、それにふさわしい佳名(かめい)が選ばれる予定であった。
しかし、造営開始二年後の始皇帝の急死によって、工事はついに未完成に終わった。


(松浦友久・植木久行共著『中国の都城A 長安 洛陽 物語』1987)

(※薄字のカッコ内は当ブログの補筆)




このように(意外にも?)阿房宮は朝宮の前殿(正殿)であって、例えば現在の紫禁城の正殿「太和殿」にあたるような建築であったわけです。

現に、跡地はかなり平坦な場所のようで、伝わる敷地のサイズからも、広大な基段があったことをうかがわせます。


紫禁城「太和殿」(幅約63m)



一方、信長の安土城は、標高約200mの安土山に築かれた山城であり、これは一体、どういうことなのでしょうか?

ここに、実は(信長が単に阿房宮の実態を知らなかったから、では済まない)或る問題が潜んでいるのです。


例えば先の引用文で、信長が阿房宮をどうイメージしていたか?という点でたいへん気になるのが、「山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて」といった修辞句で描かれた風景です。

実際の上林苑がなだらかな丘陵地帯であるにも関わらず、さも、深い谷や山を越えた先に、阿房宮が建っていたかのように文章化されています。

そうした阿房宮の姿は、中国歴代の絵師によって「絵」にも度々描かれ、それらを参照してみますと、あっ と息を呑む事情が判明するのです。例えば…


袁耀「擬阿房宮図軸」


ご覧のとおり、絵画上の「阿房宮」は、黄河の支流・渭水の南岸で、そそりたつ岩山の上にあるのです。

(※この掛け軸の絵全体はパブリックドメインで公開中。)

しかも当サイトが提起している「十字形八角平面」の建物として描かれています。

(※詳しくは『安土城天主に「八角円堂」は無かった!』ご参照。)


この一例として示した絵は、清の時代(乾隆四十五年/江戸中期)のものですが、こうした描法は、他の阿房宮や有名な黄鶴楼を描く絵などもまったく同様であり、中国で古くからある「楼閣山水図」と呼ばれる山水画のパターンでした。


こうした絵が説得力をもった背景には、中国社会での「高楼」のイメージも大きく影響したようです。

と申しますのは、伝説上の帝王「黄帝」が、封禅(ほうぜん)を行って神と通じ、ついに仙人と化して天にのぼったという黄帝伝説や、それにならおうとした漢の武帝が、公孫卿に「仙人は高楼を好む」と進言され、いくつもの高楼を建てた話(『史記』)などが、人々の高楼のイメージを形づくったようです。

つまり高楼は、天(神仙)に通じるための建築とされて来たわけです。




そして阿房宮の実態が早い時期から不明だったためか、「山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて」といった文章から、阿房宮は深山幽谷の楼閣建築として描かれることになり、実際のところ、始皇帝は「封禅」を現実世界で復活させた張本人でもあるため、その宮殿にふさわしい描写とされたのかもしれません。


そうした“絵”を、ひょっとすると、信長も見ていた可能性がある?となりますと、それは「天主(天守)」の発祥や高層化、ひいては「十字形八角平面」の導入ともダイレクトにつながる問題をはらんでいます。


かくして冒頭の「阿房殿」というたった一語に秘められた、信長の発意や願望については、次回も引き続き、お話したいと存じます。






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2009年11月16日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守はなぜ「立体的御殿」だったか?という大問題





天守はなぜ「立体的御殿」だったか?という大問題


三浦正幸監修『すぐわかる 日本の城』2009


先月に発行されたこの本も、広島大学大学院の三浦正幸先生の監修による解説書の一つですが、こうした本をめくっていると、自分が見落としていた点を色々と気づかせてくれます。

特にこの本は「天守」にかなりページを割いていて、「建築編」の扉にある一文には、思わずビビッ!と反応してしまいました。



天守は信長が創案した立体的御殿で、日本人が初めて住んだ高層建築でもあった。(前掲書より)



「天守は立体的御殿」という規定の仕方は、故・宮上茂隆先生もそのようなニュアンスの発言をされたように記憶していますが、それでは何故、“立体的に”御殿を建てる必要があったのか? という問題意識が即座にわいて来ます。

何故なら、天主と平屋の御殿は、安土城でも、両方が並存して建てられていたからです。


例えば三浦先生の以前の監修本において、安土城の伝二ノ丸には絢爛豪華な「表御殿」があったはず、という重要な指摘がありましたが、それは平屋建ての御殿であって、その隣りには「立体的御殿」の天主が“堂々と並存していた”わけで、そうした中で、「天守は御殿を立体的に重ねた日本初の居住用高層建築」と言うだけでは、両者は何を差異としていたのか、分からなくなってしまいます。


高知城の天守と本丸御殿


現代人は天守と御殿が並び建つ風景を見慣れているためか、それに殆ど疑問を感じませんが、御殿を“立体的に建てる”には、それ相応の用途や理由づけがあったはずで、それは平屋の御殿とは明らかに違うものだったはずです。

でなければ、安土城をはじめ各地の城で、天守と御殿が別途に(幕末まで300年近くも)並び続けたことを説明できず、この問題では、三浦先生に「先生、もう一声!」と申し上げたくなるような、ある種のもどかしさが残るのです。



その「蔵」は各重ごとに中二階を設け、正倉院と同じ床面積を実現した!?



さて、当ブログは、天主がなぜ“立体的な”高層建築になったか、という問題について――

安土城天主中心部の「高さ12間余の蔵」と正倉院との床面積の符合や、有名な「蘭奢待」事件当時の信長の不審な行動から、七重の安土城天主は、そもそも正倉院宝物を収奪するための「蔵」であり、その上の七重目に信長自身が座するための「政治的装置」であって、そのための七階建てだったのでは…

という仮説を申し上げています。


思うに、信長は一番大事なことを見事に言わなかった人物のようで、余計な事柄までポンポン発言した豊臣秀吉に比べますと、事を起こす前の発言や行動にたいへん慎重だったため、信長が創造した「天主」についても、多くを推理で補わなくてはなりません。

その意味では、後継者の秀吉が建てた大坂城天守も、実際は、各階が「宝物蔵」として機能していた事実は、見逃せない重要なポイントでしょう。

そしてその後の諸大名の天守は、納めるべき宝物も無いためか、外観のみが目的(格式)となって、中身はただのガランドウと化していった、と言うことが出来るのかもしれません。

繰り返すようですが、「居住用の御殿がしだいに整備されたため、天守に住まなくなった」という説明だけでは、安土城の初めから、天守と御殿が並存し続けたことに、スッキリと答えられないのではないでしょうか?






さて、これまでずっと安土城天主について、「蔵」部分だけの“透視図”をご覧いただきましたが、試しに『天守指図』新解釈による三重目から五重目の平面図を加えてみますと、ご覧のとおり、建物のボリュームが格段に増加します。

こうした「蔵」を取り巻く「居室」空間においても、信長は“思わぬ使い方”をしていたことが、文献や『天守指図』から浮かび上がって来るのです。




三国志の英雄・曹操(そう そう)と宮殿「銅雀台」跡(河北省)


そこで余談ながら、織田信長と曹操は、似たようなキャラクターで描かれることの多い二人ですが、その曹操が、本拠地の鄴(ぎょう)城に建てた宮殿「銅雀台」は、高さが「十六丈」(約33m)と伝わっています。

日本と中国では「丈」という単位の長さが違いますが、奇しくも「十六」という数字が、安土城天主の高さ「十六間半」と通じていて、妙なつながりを見せています。

信長はそうした中国趣味と言いますか、中国の伝統文化に対する強い憧れを持ち続けたことは、故・宮上茂隆先生も強調された点で、それは「天主の高層化」とも無縁ではなかったような気がします。


次回は、そうした信長の心の奥底の動機に、スポットを当ててみたいと思います。






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2009年11月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・正倉院宝物が根こそぎ安土城に運び込まれるとき





続・正倉院宝物が根こそぎ安土城に運び込まれるとき


わが国の“歴史そのもの”であるような正倉院の宝物を、織田信長は根こそぎ持ち出し、完成した安土城天主に収蔵するつもりだったのではないか、という話を申し上げておりますが、今回は具体的に、どのように収蔵できたかを見てみましょう。

まず問題になるのは、宝物を納めた「辛櫃(からびつ)」の形や大きさ、そして織田信長の時代に数はいくつあったか、という点が重要です。


四脚形式の「辛櫃」イメージ画


関根真隆先生の「正倉院古櫃考」(『正倉院の木工』1978所収)によりますと、正倉院で使われた奈良時代の櫃(いわゆる古櫃)は現在、数が166あるそうです。

(※そして奈良時代の後に増えた櫃は、徳川家康による新調など、主に江戸時代以降のもので、したがって信長が目撃した櫃の数は、奈良時代と大きくは変わらなかったようです。)


その古櫃は、形が7種類ほどあるものの、四脚形式の「辛櫃」が112と最も多く、大半を占めています。

ただし、大きさは大小の差がかなりあって、例示されている寸法では、大きいものほど横長のタイプになるようです。(※下はフタを取った身のサイズ)



    高さ     短側     長側
 大:69cm   78.5cm  152.5cm (九五号)
 小:29.8cm 53cm    82.5cm  (五九号)



全体を平均すれば身・高さ四〇〜五〇、身・短側六〇〜七〇、身・長側九〇〜一〇〇の見当になろうかと思われる。(中略)
ただ蓋の高さはおよそ六〜八センチくらいである。

(関根真隆「正倉院古櫃考」/『正倉院の木工』1978所収)



関根先生の「見当」の大きい方の数字をひろって、高さ50cm、短側70cm、長側100cmを全体の平均値としてみますと、そうした辛櫃一つが専有する床の面積は7.8平方尺です。

そこで仮に、古櫃の数「166」で掛け算をしてみますと、合計約1300平方尺となり、これは『天守指図』中央部の4間×6間に対して(二重目〜四重目の3重分で)床の占有率37%となり――

計算上は一つの辛櫃に対して、周囲の床がそれぞれ辛櫃二つ分のスペースしかないことになり、ちょっと狭苦しい感じで、作業に何かと支障が出そうです。


むろん脚が無いタイプや小さな櫃は重ねて置いたようですが、基本的に「櫃」はコンテナのようなものですので、蔵の中にピッチリ詰め込んでしまうわけにはいかず、ある程度のスペースが必要です。

その点、占有率37%は数字の上では余裕があるように見えますが、要は、信長自身が正倉院の中を目撃して、どう判断したかが問題であり、やはり(前々回申し上げたとおり)床面積を“座布団一枚分しか差がない”ほど調整して建てた点は見逃せません。


したがって、安土城天主の「蔵」も正倉院と同じに内部2階建て、すなわち各重に“中二階”のような床を設け、倍の床面積を持たせていたと考えた方が良さそうです。



大洲城天守の「吹き抜け」階段室(二間四方)


さて、そこで再び大きなヒントを与えてくれるのが、大洲城天守の階段室です。

『天守指図』にもこれと似た形の二間四方が描かれていて、安土城天主の「蔵」にも同様の階段室があったのでは?? と以前の記事で取り上げた場所ですが、実は、ここにはもう一つ、チョット不思議な特徴があるのです。


同階段室を階下から見上げて撮った写真


先の写真を階下から見上げた様子で、ご覧のように、二間四方の階段室と言いながら、実は「踊り場」がずいぶんと長く取ってあり、そのため下の階段は二間四方より外側で下階の床に接地しているのです。


同階段室/「踊り場」の上から撮った写真


さらにこのアングルから見ますと、せっかくの太い梁(はり)が分断されている様子がよく分かりますが、考えてみますと、こんなに踊り場を長く取らずに、もっと手前でスッと下階に降ろしていれば、わざわざ太い梁を断ち切る必要も無かった(!)ように見えます。


ところが“梁の分断”は復原の元になった雛形にあるもので、主柱と踊り場を優先させた結果であり、三浦正幸先生が「柱を横方向につなぐ梁などの部材が少なく、構造的には欠陥があった」(『城のつくり方図典』2005)と評したほどのリスクを犯して設けられたものです。

つまり「主柱と長い踊り場」という形はそれほど重要だった…? 何故でしょう??


ここに、実は、安土城天主の蔵“中二階”のヒント(遺伝子)が隠れているのではないでしょうか。



踊り場から横にそれて“中二階”へ?


問題の踊り場から、ご覧のように、真横にそれて進んだ場所に床を設け、各重をそれぞれ二階分として使うことが出来れば、先程の占有率はいっきに18%に低下して、辛櫃はそれぞれ、周囲に辛櫃とほぼ同じ幅の床をゆったりと持つことが出来ます。


かくして、安土城天主の二重目〜四重目の中心部には、六段に及ぶ収蔵庫が、蜂の巣のようにギッシリと重なり、正倉院宝物の到着をひそかに待っていた可能性が考えられるのです。

(次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年11月02日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき





正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき


今年の正倉院展ポスター(東京駅構内)


10月24日から始まった第61回正倉院展は、ポスターに写真が出ている紫檀木画漕琵琶(したんもくがそうのびわ)や光明皇后直筆の楽毅論(がっきろん)などが展示の目玉になっています。

古代史ファンや古代美術ファンは全国に相当な数の方々がいらっしゃって、そうした方々にとって、正倉院とは、我が国のアイデンティティと同義語に近い響きをもつ、アンタッチャブルな存在であり続けています。


ところが、この私(当サイト)は、前回までの記事でお察しのように、そうした正倉院宝物は、日本史上で指折りの破壊者であり、変革者であった織田信長によって、根こそぎ運び去られる危険があったのでは、という強い疑念を感じております。

つまり信長が創造した安土城天主とは、第一義的に、正倉院宝物をまるごと収容するために建造された「蔵」だったのではないか……



言葉を換えますと、そのように我が国の“歴史”を横取りすることで、信長は軍事的な支配圏の拡大や、ハ見寺建立に見られる宗教的な支配への願望とともに、自らを“歴史の支配者”としても位置づけるため、考案した巨大な装置―― それが安土城天主だったのではないか、と思われてならないのです。



『信長記』類の写本『安土記』/「右 蔵之高サ十二間余」とある


この仮説は、『信長記』『信長公記』類の「安土御天主之次第」の冒頭にある一文、「石くら乃高さ十二間余」という、ありえない謎の記述が、実は(上写真『安土記』のとおり)天主中心部に組み込まれた「高さ十二間余の蔵」と読むべきではないか?と感じたことから出発しました。


それが静嘉堂文庫蔵『天守指図』において、天主の中心部に(あたかも吹き抜け空間のように誤って)描かれた区画にまさに充当し、そこに一重目から四重目に及ぶ階層的な「蔵」があって、さらに五重目六重目を含めて「高さ12間余」に達していたなら、安土城天主をめぐる“様々な懸案”は一挙に解決するはずです。


では、そうした「蔵」にふさわしい収蔵品は何なのか?と考えますと、有名な蘭奢待の一件(信長自身による正倉院内の実見)を踏まえれば、さらに大胆な暴挙が世の人々を震撼させる“絶大な効果”に信長が気づかなかったはずはない、とも思われるのです。

しかも当ブログの『天守指図』新解釈では、天主七重目の座敷は(五重目六重目の吹き抜けをはさみつつ)正倉院宝物のはるか上に信長が座する形(超越者の立場の顕示)をちゃんと建築的に目論んでいたわけです。





突拍子もないたわ言のように聞こえるかもしれませんが、これこそ「天守とは何だったのか」「なぜ高層化が必要とされたのか」という根源的な問題に答える大切な道筋であり、信長はそうした天主の創造によって、“歴史のリセット”を目指していたのかもしれません。

そういう意味では、この仮説を組み立てるため本を読み漁るなかで、ずっと後の明治維新においても、明治の元勲たちが正倉院に対して“かなり手荒な所業”を平然と行っていたことを知りました。

これでは(仮説の)信長の暴挙と殆ど変わらないではないか、と思えるほどであり、今回はまず、明治維新でこうむった正倉院の難儀からお話したいと存じます。



明治13年の伊藤博文の建議で設けられた棚の配置


織田信長が南倉・中倉・北倉をすべて開けさせ、庫内の様子を実見したことはご紹介しましたが、では、その時の庫内はどうなっていたか?と申しますと、庫内はその後(明治初頭)にかなり雰囲気が変わってしまったのです。



維新後は明治五年(一八七二)に宝庫が開かれ、蜷川式胤らの宝物調査が行われたが、この頃 欧米の博物館事業の影響がわが国にあらわれてきた。
(中略)
明治八年三月一日から五月二十日まで、奈良博覧会(常設でない博物館)が東大寺大仏殿で開かれ、法隆寺の寺宝などとともに「正倉院御物」も、大仏殿の後戸に陳列して公開せられたのである。
秘蔵されてきたものを、明治維新の改革の風潮で開放したものであるが、まことに開放公開すべからざる方法で公開したものであった。

(中略)
明治13年、内務卿伊藤博文は宝庫の内部に棚架を設けて宝物を陳列することを建議した。

(石田茂作・和田軍一編『正倉院』1954所収/和田軍一「正倉院の歴史」より)



この本によりますと、伊藤博文の動機は、大仏殿での陳列が二度三度と続いたことや、前年に香港総督など海外の要人たちに宝物を見せたこと(つまり日本の地位向上への焦り)がきっかけになったようです。

その結果、宝物のかなりの部分が辛櫃(からびつ)から出され、庫内にぐるりと設置されたガラス戸棚に陳列されるはめになり、棚は今も正倉院の内部に残り、棚の名前が宝物の分類(『棚別目録』)に使われ続けています。


陳列棚に囲まれた中倉の内部/階上(岩波写真文庫『正倉院(二)』1952より)

解体修理で床板をはがした様子(岩波写真文庫『正倉院(一)』1951より)


大正2年には本格的な解体修理が行われ、この時、小屋組(こやぐみ/屋根裏の構造)を洋式のクイーンポスト式に変更してしまう、という痛恨の出来事も起きています。

しかし最も劇的な出来事は、正倉院と宝物がある日(明治8年)、明治政府の財産とされ、やがて「御物」(皇室財産)とされたことではないでしょうか?



本来、正倉院の宝物は、東大寺に施入されたものであり、現存する宝物類の一万点余の大部分は、東大寺で使用していたものやそのほかの寄進者たちからの奉納品を、後世になって、正倉院宝庫に移納したものであった。
皇室から移管された宝物などは、光明皇太后の奉献物を除けば、ほとんど皆無であったといっていいだろう。

(中略)
正倉院はじまって以来、正倉院の宝物が皇室財産とみなされたようなことは一度としてなかったのに、明治に入ってから急速に正倉院宝庫の皇室財産化が進められていったのである。

(由水常雄『正倉院の謎』2007)



正倉院宝物が立派な文化財であるのに、文化庁の管轄ではなく、いまも宮内庁の管轄であり続けるのは、この時以来のことなのだそうです。


思えば、「王政復古の大号令」で徳川幕藩体制を塗り変え、天皇を元首として発足した明治新政府は、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教弾圧と国家神道化)」のうねりに乗じて、正倉院の皇室財産化に成功したのかもしれません。

一方、足利将軍を追放し、軍事力による中央集権的な統一権力(「天下布武」)を目指した織田信長もまた、寺院勢力を敵視し、掃討戦を続けました。


織田信長と明治政府、300年の時をはさんで、「正倉院宝物」に対する邪(よこしま)な眼差しが、ゾクッとするほど似ているように感じるのは、私だけでしょうか?

(次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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