城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2009/12

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (265)



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2009年12月
   
   

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2009年12月31日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!2009緊急リポートをアップしました!!





2009緊急リポートをアップしました!!


年の瀬も押し詰まった今宵、ようやく新リポートをお届けできます。

新解釈による『天守指図』復元案
〜安土城天主は白壁の光り輝く天守だった〜


どうぞ上のバナーからご覧下さい。


リポートは年に一回でも難しいものであると知りました。
思えば、前回は2年がかりでしたし…

「秀吉の大坂城・後篇」は2010年に改めて完成いたします。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年12月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!2009緊急リポートのお知らせ





2009緊急リポートのお知らせ


ただ今、大晦日12月31日中のアップを目指して、

2009緊急リポート
新解釈による『天守指図』復元案
〜安土城天主は白壁の光り輝く天守だった〜


の作成中です。
ご自由にご覧になれますので、是非ともご期待下さい。








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2009年12月21日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か?





仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か?


「懸造」が分かりやすい郵便切手の清水寺


前回、安土城天主台の南西隅で発見された礎石列について、その上に、天主側から張り出した「懸造(かけづくり)」がそびえていたのでは? という推測を申し上げました。

「清水の舞台のような」とも申し上げたのですが、京都の清水寺本堂のものは、そもそも何のための設備かと確認してみますと、寺のホームページには<舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」で、両袖の翼廊は楽舎である>とあります。


こうした「舞台」の意味を織田信長はどう考えていたか? ということも興味深い問題で、例えばこんな壁画が、中国・山西省の岩山寺に遺されているそうです。


物語上の楼閣を描いた岩山寺の壁画/12世紀の宮廷画家・王逵(おうき)筆


ご覧のとおり、この壁画では楼閣の左側に「宴台」が描かれていて、しかも楼閣自体は当サイトが提起している「十字形八角平面」をしています。

こうした中国の建築スタイルが、ひょっとして、何らかの方法で日本の信長の目に触れていたら… と思うと、安土城天主の成り立ちについても、アレコレと想像がふくらみます。





また問題の礎石列の場所からは、土間と「床」をもつ建物の痕跡も発見されていて、申し上げた「懸造」は、そう単純な形ではなかったことを、ここで補足しておきたいと思います。


それはどういう形かと申しますと、懸造の柱の間に、幅5間×奥行1間ほどの細長い建物が、天主台を背に、西(図では右)を向いて組み込まれていたようなのです。


そのすぐ北隣(上)には、西から伝本丸に入る最後の門が建っていたと考えられていて、各地の城をまわった城郭ファンの“素朴な感覚”から見れば、それは「番所」の類ではないかと感じられるような建物です。

しかもそこからは、城の焼失前は柄が完備していたはずの「鍬先(くわさき)」4個や、「十能」(火のついた炭を運ぶスコップのような道具)6個も発見されたそうで、日夜そこに詰めた番兵たちの常備品として、そういう用具類も置かれた番所の姿が想像できそうです。


このように足下に番所を組み込んだ「懸造」は、まさに上と下から、登城者に“にらみ”を効かせた構造物だったのかもしれません。


(※ちなみに、これが三浦正幸先生のおっしゃる「巨大な木造の階(きざはし)」ではないとしますと、伝二の丸にはどう上がるのか? という問題については、滋賀県の平成12年度の発掘調査報告に「二の丸石垣には改修の痕跡が認められることから、当初は石段等の出入口施設が存在していた可能性も残されている」とあります。)



伝二の丸の上段にある信長廟


さて、その伝二の丸と天主の間に、タコ足状の階段橋(登渡廊)の1本が伸びていたかもしれない、という肝心のお話に移りましょう。

伝二の丸は(前回も話題の)「殿主」「南殿」「紅雲寺御殿」のいずれかがあったと言われ、その判定には発掘調査が欠かせないはずですが、残念ながらここには「御廟」(信長廟)が現存していて、発掘が行われたことは一度も無く、答えが永遠に出ない可能性もささやかれています。

中に立ち入れないため定かではありませんが、遠目には、かなり大きな柱痕(?)のある石も地表に見え、いかにも大規模な建物があったように思われてなりません。

(※例えば上の写真の赤丸内の石!)


もしこのまま永久に調査されないのなら、これはもう、あらゆる可能性を申し上げてもバチは当たらないだろう、ということで、是非ともお伝えしたいのが、お馴染みの『天守指図』の三重目にある“奇妙な壁面の表示”なのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』三重目


ご覧のように、三重目の西側(伝二の丸側)の赤丸の部分に、『天守指図』でも他には見られない描き方の壁(幅1間)があります。

ここがどういう場所なのかを知るため、『信長記』『信長公記』類の「安土御天主之次第」にある三重目の各部屋を割り当ててみますと、驚きの事実が浮上します。





なんと、問題の壁のすぐ内側には、「口に八畳敷の御座敷これあり」と記された部屋が当てはまるのです。

正確を期すため、「安土御天主之次第」三重目の全文をご覧いただきますと、まず南西の隅(図では右上)から各部屋の紹介が始まり、ぐるっと左回りで一周した最後に「口に八畳〜」の部屋が来ることが分かります。


岡山大学蔵『信長記』(U類本)
… 三重目 十二畳敷 花鳥の御絵あり 則花鳥之間と申也
  別に一段四てう敷御座敷あり 同花鳥乃御絵アリ
  次南八畳敷賢人之間に ひょうたんヨリ駒之出たる所有
  東麝香之間八畳敷
  十二てう敷 御門上
  次八てう敷 呂洞賓と申仙人并ふゑつ之図あり
  北廿畳敷 駒之牧之御絵あり
  次十二てう敷 西王母之御絵有 西御絵ハなし
  御縁二段廣縁也
  廿四てう敷之御物置之御南戸有
  口に八てう敷之御座敷在之
  柱数百四十六本立也



そして「安土御天主之次第」全体を探してみても、「口に…畳敷」という独特の表現で記された部屋は、これ以外に一つもありません。

ということは、これは“天主内でも他に例のない場所”であった可能性も考えられ、「口に」と言うだけで分かる印象的な構造があったのではないでしょうか?


ちなみにこの場所は、天守台上からの高さが6m余、伝二の丸の地表からは11m余に及ぶ高所だったと思われます。

当ブログは、ここに、高低差11m余をつなぐ壮大な階段橋(登渡廊)として、仮称「表御殿連絡橋」が架けられていたのではないか、と申し上げたいのです。





このような連絡橋が存在したならば、それはまるで、信長が地上(の御殿)に姿をあらわす「花道」か「天上界からの階段」のようです。

一方、それを天主の側から見ますと、「花道」ならぬ「御鈴廊下」と考えることも出来そうです。

つまりこの連絡橋は、後の江戸城で中奥と大奥をつなぎ、将軍だけが往来できた「御鈴廊下」の原形だったのかもしれない… といった妄想をもかきたてる、注目の舞台装置なのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年12月14日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城の天主台に「清水の舞台」が!?





安土城の天主台に「清水の舞台」が!?


3本の階段橋と懸造が天主台上から突き出していた?(当図は上が南)


今から40年前に内藤昌先生が提起した安土城天主の階段橋(引橋)をめぐって、世の流れの紆余曲折ぶりをご紹介しています。

今回もその続きで、上図のような仮説もご用意しているのですが、まず前回からの一連の図に関して、初めに一つ申しますと、天主脇の「行幸殿」についても、近年また紆余曲折の動きが出ています。

それは、この御殿がそもそも清涼殿と同プランではなく(!)「御幸の御間」(行幸殿)でもなかった、という新説が飛び出すほどの状態です。



その最初の兆候は、滋賀県の発掘調査で活躍された木戸雅寿先生が、現在の「伝本丸」「伝二の丸」「伝三の丸」と天主周辺が、まるごと「本丸」であったはずだとして、次のように記したあたりから始まりました。


木戸説の本丸の範囲(当図は上が南)


東西南北の四つの門で閉じられた空間である本丸は、城のなかで中枢をなす部分である。
ここには天主を取り巻くように、様々な建物が配置されていた重要な場所で、『信長公記』にみられる「白洲」「殿主」「南殿」「紅雲寺御殿」等の建物はすべてこの範囲に存在すると考えられる。
(中略)
「南殿」を天主から見て南に建つ建物とすると、今いうところの「伝本丸御殿」しかない。

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)


というように、木戸先生は(「御幸の御間」の詳しい位置は示さずに)伝本丸の御殿を『信長公記』の「南殿」とされたのです。

木戸先生の指摘によれば、「南殿」は「なでん」と読み、その意味は「紫宸殿」らしい、ということ(『天下統一と城』)でした。

紫宸殿を「南殿」と呼ぶのは、まさに御所の南側正面で“南を向いて建つ”正殿だからでは… という風にも思えてならないのですが、西向きの伝本丸の御殿を「南殿」として、さらなる新説を提唱されたのが、広島大学大学院の三浦正幸先生でした。



伝本丸「南殿」と天主の復元CG(『よみがえる真説安土城』表紙)



安土城に三つあった本丸御殿のなかでも南殿は特殊な御殿であった。まるで路地裏に建っているような、住み心地が悪そうな御殿であったからだ。
南殿の南正面には、狭い通路を挟んで、本丸の南面を守る多門(多聞櫓)が横たわる。しかも、その多門は高さ約1mの石塁上に載っているので、南殿の主殿舎は日当たりも風通しも悪い。見晴らしなぞ問題外である。

(中略)南殿はそれらの建物や天主の間の窪地にすっぽりと落ち込んだような御殿であった。
そうした立地上の特徴からすると、この南殿は信長の奥御殿であったと考えられる。南殿の南西部には、東西八間(七尺二寸間で一七・五m)、南北七間の主殿舎があり、おそらく、そこが信長の日常生活の場であったと思われる。


(三浦正幸『よみがえる真説安土城』2006)


なんと伝本丸の御殿は、清涼殿よりずっとずっと小さな「信長の日常生活の場」であって、したがって「行幸殿」でも「御幸の御間」でもなんでもなく、それらは伝二の丸にあったはずだ、という、滋賀県の“歴史的発見”を全面否定してしまう新説だったのです。


それまで言われて来た「安土城天主に信長は住んだ」という通説も吹き飛ばすほどの内容でしたが、ただ復元CGをよく見ますと、その「南殿」は、発掘調査時に報告された「二階レベルにまで達するほどの高床を支える特異な構造」というほどの高い床では無いようですし、伝三の丸の御殿と「二階部分で」棟続きでもありません。

例えば先程の木戸先生の本では…


伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったり一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。(中略)
(紅雲寺御殿は)宴会が催されるような催事の場所である。「伝三の丸跡」はとても景色のよいところなのでぴったりかもしれない。

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)


とあるように、「各建物の高さ」についての大きな見解の相違が、両先生の間に(もしくは考古学と建築学の間に!?)に出来てしまったようです。

この新たな紆余曲折は(まるで二つの土俵で一つの相撲を取るみたいな話で)しばらく見守る以外になく、当ブログはこの件に関しては、ひとまず「清涼殿と同プラン」という考古学サイドに立って、お話を進めてまいります。



天主台南西下(図では右上)のナゾの礎石列



さて、天主台に関しても、滋賀県の発掘調査は新しい発見をもたらしていて(タコ足状の階段橋の前に)是非お伝えしたいのが、天主台南西下で発見されたナゾの礎石列の“もう一つの解釈方法”です。


前述の三浦先生はこれを、伝二の丸に上がる「巨大な木造の階(きざはし)」と解釈され、先程の説の強力な要素として考えておられますが、当ブログ(私)としては、礎石列についての次の文章がたいへん気になるのです。



調査範囲が全体の三分の一ということもあり全体の正確な構造はわかっていないが、天主の南西隅にあたる部分に半間間隔で大きな柱が立ててあること、寄掛け柱の焼けた痕跡が天主台石垣に認められること、柱の大きさから、この建物は二階建て以上の重量のある大規模な建物になると考えられる。
おそらく、二階部は伝二の丸跡と同一フロアーとなるような一体形の建物と考えられる。
場合によっては天主の張出しも考えられるであろう。


(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)



一番気になるのはズバリ「寄掛け柱の焼けた痕跡」です。

何故なら、それが伝二の丸に上がる階(きざはし)の一部ならば、どうして「寄掛け柱」にするほど“天主台ぎりぎりに密着して”設けなくてはならなかったのでしょうか?


この疑問を解くためには、礎石列は逆に、天守台側から突き出した物(「天主の張出し」)の脚部であったか、それを兼ねた構造物ではないか、と解釈することも十分に可能のように思われます。

つまり、ここにはひょっとすると、清水の舞台のような「懸造」(かけづくり)がそびえていて、その上に、天主台上から続く「舞台」が、登城者を威圧的に見下ろしていたのではないでしょうか。





ご覧のような懸造の舞台は、以前の記事でも申し上げた「天主台上の空き地」(空中庭園)の一部として、南西に広がる安土城下を見渡す場としても、大いに機能したことでしょう。

さて、今回も紙数を費やしているうちに、あと2本の、タコ足状の階段橋を詳しくお話できそうにありません。申し訳アリマセン、次回こそ必ず!







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2009年12月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!タコ足状の階段を周囲に伸ばしていた安土城天主





タコ足状の階段を周囲に伸ばしていた安土城天主


洋書版『宇宙戦争』表紙(1913年)


いきなりこんな写真から始めたのは、現代人の目から見ますと、きっと多くの方が「まるで宇宙戦争のロボットみたい…」とおっしゃるような姿を、ひょっとすると織田信長の安土城天主はしていたかもしれない、というお話をしたいからです。


この話には、40年ほど前の内藤昌先生の天主復元に始まる、紆余曲折のストーリーが含まれていて、まずは城郭ファンお馴染みのこの絵からご覧下さい。


陶板壁画「安土・南蛮図屏風」部分(安土町城郭資料館蔵)


この絵は内藤先生の復元に基づいて描かれた安土城天主ですが、絵の中央下あたりに、天主と天主台下を直接に行き来できる階段橋があります。

この階段橋は、内藤先生の天主台跡の現地調査を経て考証されたもので、その後の“紆余曲折”をご理解いただくため、内藤先生の著書に掲載された実測図の一部を引用させてもらいますと…


内藤昌著『復元・安土城』掲載の実測図より(赤枠は天主台の東南隅の部分)



(※図は上が北東/赤青黒の筆文字は当ブログの補筆)


(天主台は)東南隅辺においては、東側へ三段にわたって下がっている。
まず上から第一段は、『天守指図』にある「東ノ御いゑろうかノみち」に照応するもので、じじつ、直下の本丸御殿跡で引橋脚柱礎石が発見されている。

(中略)中井忠重氏蔵の『名護(古)屋御城御差図』(元和元年頃)には本丸御殿奥より小天守台に「引はし」が記されているが、この安土城でも同様な施設があったわけである。

(内藤昌『復元・安土城』1994より)


すなわち実測図の「第一段」とされた場所が、陶板壁画の階段橋の上端(降り口)にあたり、そこから伝本丸の「御幸の御間(みゆきのおんま)」とされる行幸殿に向かって、階段橋(内藤先生の言う「引橋」)が斜めに伸びていたと考えられたのです。

しかも、その強力な裏付けになったのが実測図の「引橋脚柱礎石」であり、これはやがて、静嘉堂文庫蔵『天守指図』じたいの信憑性を支える“物証”の一つとも見なされました。 何故なら…


静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目(図は上が北)


この図にあるの天主台東南隅の石段がちょうど、問題の階段橋(引橋)の降り口にあたり、物証の礎石ともぴったり符合することになったからです。



ところが、世の流れは奇々怪々なもので、20年後に始まった滋賀県による大々的な発掘調査の結果、物証の「引橋脚柱礎石」は姿を消してしまった(!)のです。

事の次第をご理解いただくため、滋賀県の調査報告書に掲載された実測図をそのまま引用させてもらい、先の図面上にダブらせてみますと、驚きの実情が見えて来ます。


右下は『特別史跡安土城跡発掘調査報告11』掲載「天主台石垣下平面図」より


ご覧のとおり、「引橋脚柱礎石」は半分が「落石」と判定され、もう半分は、すでに痕跡も無かったのか、発掘トレンチの対象から外れているのです。

以来、『天守指図』の信憑性を支える“物証”の一つが消えてしまったせいか、内藤先生の復元はしだいに歴史雑誌等から姿を消し、代わって宮上茂隆先生ほかの復元が誌上をにぎわすようになったことはご承知のとおりです。


しかし当サイト(私)は、この天主台東南隅の階段橋はどっこい(笑)、その可能性が死んではいない(!!)と考えております。


と申しますのは、滋賀県の実測図をもう一度ご覧いただきたいのですが、図中に「抜跡?」と書かれた礎石跡が、問題の「引橋脚柱礎石」よりやや北側に、二ヶ所あることがお分かりでしょうか?



この東西に並んだ「抜跡?」にご注目いただきながら、試しに、この上に『天守指図』二重目の図をダブらせてみましょう。




ご覧のとおり、滋賀県の「抜跡?」は、『天守指図』の石段の描写のまま一段下がった所から、真東に伸びて行幸殿の角隅に“ぴったり着地する”ルート上にあるのです。


「抜跡?」はこのルートの北辺だけ(※問題の“落石”周辺が南辺ならば幅1間強)ですが、本来、天主と「御幸の御間」を直接につなぐ階段橋を設けるなら、こうしたルートの方が合理的と言えるのかもしれません。

何故なら、伝本丸の御殿(行幸殿)と同プランと言われる、慶長年間に造替された清涼殿(京都御所)を例にとった場合、そのルートにあたる場所には、なんと「長橋廊」と呼ばれた紫宸殿との連絡路が、当時もあったからです。


現在の長橋と清涼殿
 
(※江戸期の古制復興による再建/長橋の突き当りは年中行事の衝立)


つまり、問題の階段橋(引橋)を想定することで、天主と「御幸の御間」の位置関係は、御所の正殿・紫宸殿と清涼殿の関係に見立てることも可能になるのです。

かくして内藤先生が考証した階段橋(引橋)は、可能性が死んでいないどころか、新たな認識を生むきっかけにさえなりかねません。


そして実は、安土城天主には、このような階段橋が“あと二ヶ所”は存在したと思われ、詳細はまた次回、お話したいと存じます。






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