城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (263)



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2010年12月
     
 

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2010年12月21日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!2010年度リポートのお知らせ





2010年度リポートのお知らせ


制作中イラストの一部 /(追記:もう秒読み段階デス!!…)


この年末か、おそらくは年明け早々になりそうですが、2010年度リポート「秀吉の大坂城・後篇 〜中井家蔵『本丸図』に隠された大改造の跡〜」をお届けすべく作業を鋭意、進行中です。

そこで今回はやや余談としまして、今夏に5回にわたって記事を書いた岐阜城で、その後、大きな出来事が重なったため、それを少しだけフォローしておきたいと存じます。


金箔瓦片の出土で、信長居館は「豪華説」に方向転換!?


お聞きのように今年の発掘調査で、いわゆる明治大帝像前の曲輪にあがる「上り通路」が発見され、そこから約3cm四方の金箔瓦片が出て来ました。

岐阜市教育委員会の発表では「今回の金箔瓦の出土により、中心の建物は豪華だったことをうかがわせる」というコメントがあったとか…


その金箔瓦片の現物の印象は、ネット情報(例えば『山城踏査日記&城郭関連情報』さんの記事)によれば、「説明されないとわからないくらい小さい」そうですが、やはり世間一般は“金”に鋭敏であって、あたかも救世主のような瓦片になってしまうのかもしれません。

一時は専門家の間から“信長公記にある御殿の豪華さは割り引いて考えねばならない”といった声も出ていたはずで、もう天と地ほどの落差です。

ただし、もし金箔瓦の出土がこれ一個で終わるとなると、それはそれでまた世間の受取り方も変わってしまうのかもしれません。


かく言う私は、人騒がせな金箔瓦片よりも、賛否両論を浴びる「闇(くらがり)通路」の方が面白く、本当に「上り通路」の上に建物が載るほど強度があったのか? これがまた、建築学の先生方からどんな声があがるのかと興味津々なのです。


岐阜城跡が文化財保護法による国の「史跡」に指定


さて、もう一つの大きな動きとして、岐阜城跡(金華山の北半分、山頂の本丸や砦が分布する209ヘクタール)が国の「史跡」になったそうです。


「史跡」と言われてもピンと来ない感がありますが、でも、問題の山麓居館周辺はどう線引きされたのか?? と思い立ち、とりあえず「信長居館発掘調査」ブログにある「岐阜城跡の史跡指定範囲」という図を使って、お馴染みの図にトレースしてみました。すると…



山麓居館跡に京の東山山荘(現慈照寺/銀閣)をダブらせた図では…


ご覧のとおり、どうやら「史跡」の範囲は、絶妙に、ロープウェー山麓駅やその下の岐阜公園の半分をはずしてあるようなのです。


これは図らずも、先程の発掘調査ブログにある「その範囲はほぼ現在の金華山国有林全域と岐阜公園の現在調査を行っている範囲となり」「これは城域と考えられていた範囲が指定対象となった」という市側の認識どおりです。

このような役所の線引きは、現実の社会の諸条件に沿ったものでしょうが、将来的にこれ自体がジワジワと既成事実化していくものです。


ですから当ブログが申し上げている、信長公居館は、岐阜公園の下半分の平地に「銀閣にならった月見のための、白い四階建て楼閣」として建てられたのでは…… などという“枠外の仮説”は、こんなことから、無言のうちに排除されていくのかもしれません。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年12月07日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!古代中国で「天下」を意味した十字形八角平面





古代中国で「天下」を意味した十字形八角平面


白い安土城天主イラストの解説の最終回として、やはり、天主六重目の檜皮葺き(ひわだぶき)屋根についてお話しせざるをえません。

何故なら、その形状には、織田信長による東洋の歴史的な“洞察”が秘められているかもしれないからです。



論点5.それはまず、後の天守群の「板葺き四重目屋根」の原形であったのかもしれない

ウィンゲの木版画(安土城天主を描いたと言われる一枚)


以前の記事「ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…」でも申し上げたように、ご覧の木版画の色づけした部分について、織豊期城郭研究会の加藤理文先生がこんな指摘をされました。


最下部の渡廊下のような表現は、天主と本丸御殿を結ぶ渡廊下、もしくは御殿同士を結ぶ渡廊下が想定される。(中略)天主本体と異なる表現方法であるため、渡廊下が瓦屋根でないのは確実で、檜皮葺き(檜の皮で屋根を葺くこと)と理解される。

(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「文献にみる安土城の姿」)


当ブログの天主イラストは、加藤先生のこの解釈にインスピレーションを得たものでして、以前の記事のとおり、ウィンゲの木版画は(実は!)天主でないと思われるものの、ひょっとすると「檜皮葺き」は天主六重目の屋根にも採用されたのではないか… という想定で描きました。

そう考えた動機は、安土城の後の天守において、上から二重目の屋根だけをあえて「板葺き」にした例がいくつか(津山城や福山城に)存在したことにあります。



城郭ファンには懐かしい 西ヶ谷恭弘 監修『名城の「天守」総覧』1994年

(※左の上から二つ目が津山城天守、右下が瓦葺きに改装後の福山城天守


ご覧のイラストのような「板葺き四重目屋根」が登場した理由として、一般には、幕府の追及をのがれるため五重を一夜にして四重に変えて見せた苦肉の策、という奇術的な伝説が紹介されます。

しかし、それにしては「板葺き四重目屋根」は前例のない画期的な意匠であって、むしろ余計な世評の広まる危険の方が大きかったようにも思えます…。


そこで、仮に、この屋根の先駆例が安土城天主だったとしますと、それは「五重を四重に見せるため」といった消極的な意図ではなく、反対に、天守の創始者・織田信長にならうための積極的な道具立てだった、ということにもなるでしょう。


それぞれの天守を建造した城主を確認しますと、津山城は、代々織田家に仕えた森家の世継ぎで、本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸の弟であり、自身はまさに安土城にいて凶報を聞いた武将、森忠政(もりただまさ)でした。

一方の福山城は、やはり父が織田家の家臣であり、また徳川家康の母の実家としても知られる水野家の嫡男で、自身は主君を家康・織田信長・豊臣秀吉・再び家康と変えた豪傑、水野勝成(みずのかつなり)でした。


ですから、板葺き四重目屋根がこのように安土城ゆかりの意匠だとすると、これらの城主たちにとっては、自らの“出自や来歴”を家臣団に見せつける道具として、格好のステイタス・シンボルであったのかもしれません。


(※ちなみに、津山城などのいわゆる“無破風”の天守は、その発想そのもの…発案者の細川忠興らの真意…は、必ずしも「幕府をはばかるため」では無かったのではないか、と考えておりまして、この件はいずれ年度リポート等でまとめてご紹介する予定です。)



で、次の論点は、この屋根の東西南北にあったと思われる「唐破風」をめぐるお話です。


論点6.江戸幕府の大棟梁・甲良家の祖、甲良宗広(こうらむねひろ)は幼少期に、この安土城天主を見ていた?


今年はNPO法人による江戸城天守の復元プロジェクトが話題になりましたが、その天守(寛永度天守)の復元のベースになったのは、江戸幕府の作事方大棟梁・甲良家に伝わった「江府御天守図」(都立中央図書館蔵)です。


NPO法人発行『江戸城かわら版』第21号


そしてご覧の復元が三浦正幸先生によって提示されたわけですが、では、この天守の大工頭は誰だったか?と申しますと、かの宮上茂隆先生はこんな見方を示しました。


(江府御天守図は)左下に「大棟梁 甲良豊前扣(ひかえ)」とあるが、寛永度天守を手がけたのは甲良豊後宗広とみられるから、この図は造営後の控えとみられる。焼失後再建を検討した際に提出した資料かもしれない。

(宮上茂隆/歴史群像 名城シリーズ『江戸城』1995)


他方で、大工頭は徳川譜代の木原家(木原義久)という見方もありながら、宮上先生は「甲良豊後宗広」とおっしゃっていて、もしこれが本当だとすると、興味深い歴史の秘話があったように想像できるのです。

それは甲良家が、近江の甲良庄の出だったからです…


甲良家は近江国甲良庄の出身である。始祖は佐々木三郎左衛門尉光広で、建仁寺工匠として技術をみがき、丹羽長秀の建築家であったという。(中略)その子甲良宗広は慶長元年(一五九六)伏見で家康につかえた。

(内藤昌『SD選書 江戸と江戸城』1966)


丹羽長秀は言わずと知れた安土城の普請奉行ですし、宗広(1574−1646)はその後、日光東照宮を絢爛豪華な社殿に大改築した棟梁であって、その宗広が寛永度天守も手がけていて、甲良庄の生れ(幼名小左衛門)だったとなると…

甲良庄はいまも滋賀県犬上郡甲良町で、安土までわずか10kmですから、宗広は十歳に満たない頃、父親に連れられて安土城を眺めたことも充分ありえたのではないか、と。


―――実はこの話は『大人の修学旅行』という旅行ガイド本の記事が元ネタであり、当ブログの天主イラストを描いた時も、得がたい示唆を含んだ話として頭から離れませんでした。


何故なら、ご承知のように寛永度天守のデザインの特徴は、上から二重目の四方に「唐破風」が設けられている点であり、これはひょっとして、宗広少年の眼に焼きついた安土城天主の印象から生まれたものでは…… といった空想が思わず膨らんだからです。


前出『名城の「天守」総覧』表紙の寛永度天守(左上)


かねてから当サイトでは、天守の「唐破風」は、高欄の戸口や玄関など建物正面の、城主が姿を現す場所を示す意匠ではなかったか、と申し上げて来ました。

したがってそれは城主の「目線」を表していたようにも考えられ、それが東西南北の四方を向いている、ということは、或る東洋の歴史観に基づく工夫が施されていたかもしれないのです。



論点7.古代「周」王朝の衰退期に叫ばれた「天下」という言葉がもつ、国家分裂への焦燥感


「宗広少年」云々の話の真偽はさておき、当サイトが申し上げている「十字形八角平面」→詳細記事という形状に、中国由来の観念がからみついていることは確かなようです。

それは「天下」という言葉の発生にかかわる問題のようで、この話は、まことに古典的な文献で気恥ずかしいのですが、安部健夫先生の論考「中国人の天下観念」(『元代史の研究』1972所収)に基づいています。


では中国における「天下」とは何だったか、と申しますと、例えば「王道的天下観念には領土なる観念を指示せず」(田崎仁義)などと評されたように、ここで勝手に意訳すれば、“中華思想のもとでは国境ははっきりしなくても良い”“対等な他国民など存在しないのだから”といった強圧的、かつ拡張主義的な観念をはらんだ言葉だったようです。


安部先生はそんな「天下」という言葉が、いつから中国の古典に頻繁に登場し始めたのかを分析しています。

その結果、伝説的な古代王朝「周」の時代は、まだ「天下」が殆ど無く、かわりに「四方」や「四国」という言葉が使われていたそうです。



少なくとも周代にいわゆる四方・四国が、どちらも「よものくにぐに」の義であったことは問題のないところであろう。(中略)
したがって「四方」とは元来、中国とそれを取りかこむ四周の国々との総称であったわけなのである。(中略)

「四方」がその後、周室の衰えと大諸侯の強力化とのために次第に分裂と混乱の兆しを示してくる。いわゆる「義を失い」「政を異にする」という状態である。その極まるところ世は戦国となった。

しかも周室――「天に厭かれて」再起不能の窮境にあった周室に代わるべきだれか最適任者によって、この「戦国」の状態を克服・そこから離脱し、再度むかしの「四方」的な結合体を回復してもらいたいと言うところにこそ在ったからである。
つまり、少なくともこの場合の「天下」は、求心的な擬集的な力概念であった。


(安部健夫「中国人の天下観念」より)


そのはるか後の日本の戦国時代、足利将軍が都落ちする政情下で、信長が「天下布武」を掲げて武力平定に乗りだし、「四方」に唐破風を向けた天主を築いたのも、どこかで中国仕込みの強圧的な天下観念を学んだからではなかったのか…
と、さらに空想は膨らむのです。








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2010年11月24日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の行幸御殿か?壮大な「懸造り舞台」を夢想する





信長の行幸御殿か?壮大な「懸造り舞台」を夢想する


先月の記事より/安土城の御殿配置をめぐって対立する二案


天主イラストご紹介の前週の記事で、やや“言いっぱなし”のままの話題がありましたので、今回はそれを含めたお話をしたいと思います。

――話の核心はズバリ、混迷の度を深めている安土城の「行幸御殿」問題です。



(天正4年の山科言継の娘・阿茶の書状より)

ミやうねんハ あつちへ 大りさま きやうこう申され候ハんよし、あらあら めてたき御候事や
(明年は安土へ 内裏様 行幸申され候わん由、あらあら目出度き御候事や)


天正4年、まさに安土築城が始まった年に、公家の山科言継の周辺でこうした書状が書かれたことから、天皇の安土城への行幸が計画された可能性が言われて来ました。

そして滋賀県による城址の発掘調査の結果、大胆な仮説が発表されて、大きなニュースになりました。


滋賀県安土城郭調査研究所 編著『図説 安土城を掘る』2004年


それはご覧のように、伝本丸の礎石群は、織田信長が天皇を迎える「行幸御殿」として造営した、御所の「清涼殿」に酷似した建物だった、という画期的な復元案でした。

ところがその後、お馴染みの三浦正幸先生や、京都女子大の川本重雄先生が反論を開始したことから、清涼殿風の行幸御殿は、とたんに雲行きが怪しくなったのです。



高志書院『都市と城館の中世』2010年(価格8000円!!…図書館でどうぞ)


今年出版された千田嘉博・矢田俊文 編著の『都市と城館の中世』に、その川本先生の論考「行幸御殿と安土城本丸御殿」が載っていて、私もたいへん遅まきながら、川本先生の理路整然とした反論を拝読しました。

(※今ごろ拝読するのは、京都女子大でのシンポジウム「安土城本丸御殿をめぐる諸問題」に参加できなかったツケでしょう…)


で、この論考で最も注目すべきポイントは、実は、同じ反論であっても、三浦先生と川本先生の論拠は、まるで違う(!)という点にあったのです。


行幸御殿(「御幸の御間」)をめぐる三者三様



この中で、川本先生はいちばん厳格な解釈を下されているようで、安土城に「行幸御殿」と言えるような建物は実現不可能だった、とおっしゃるのです。

論考では、室町将軍邸や二条城での行幸の例から、「行幸御殿」に必要な間取りや設備を明らかにし、特に、天皇の輿(こし)を寄せる南の階段や、舞を行う広い南の庭が不可欠だったとして、「天主周辺に行幸御殿が建つ余地はない」(!)と結論づけているのです。



本来の行幸御殿に求められる平面は、内裏の建物で言えば天皇の居所を含む御常御殿であり、清涼殿では決してない。
(中略)
行幸御殿とその南に必要な庭を考慮すると、安土城の二の丸以外に行幸御殿が建てられる空間はないが、その二の丸も行幸御殿に中門や風呂・便所などの付属屋までを考えると、建物が二の丸からはみ出してしまう。

また、南庭も二条城と比較すると六割程度の奥行きしか確保できない。
以上のことから、安土城の天主周辺に行幸御殿が建つ余地はないと断ぜざるを得ない。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収)



正直申しまして、この川本先生の反論は、かなり決定的な響きを放っているように感じました。

でも意固地な私としては、行幸御殿がたとえ「清涼殿」風の建物ではなかったとしても、やはり安土城への行幸そのものは行われようとしていたのであり、そこは信長らしい破天荒なやり口で、“別の形の”行幸殿が計画されたのではないか??…と思われてならないのです。

そこで、やや荒唐無稽なシミュレーションですが、川本先生の反論を踏まえた「第四の可能性」をさぐってみたいと思います。




二条城の行幸御殿(中井家蔵「二條御城中絵図」より/その南庭は南北約30m)


安土城の天主台と伝本丸(上の図と同縮尺・同方位)


では、この二つの図を、行幸御殿と天主台の位置を合わせてダブらせますと…



ご覧のように、行幸御殿の南庭の範囲は、ちょうど伝本丸の南の石塁を越えた南斜面の、石垣で囲われた(意味不明の)デッドスペースまでを覆うような形になるのです。

このことは、以前に申し上げた、ある仮説を思い起こさせます。





(※記事「安土城の天主台に「清水の舞台」が!?」の作図/この図は上が南)


これらは、礎石列の発掘成果をもとに、ひょっとすると、天主台の南西側には清水の舞台のような「懸造り(かけづくり)」が張り出していたのではないか? という仮説を申し上げた時のものです。

この図では、懸造り舞台の広さを、出土の礎石列に応じた規模で描きました。


ですが、例えば先の図のように、懸造りを大きく南に張り出すことが出来たなら、その広大な舞台の上で、行幸の「舞御覧」等を挙行するという“壮大なページェント”も考えられたのではないか――と。




かなり荒唐無稽な話になって来たのかもしれませんが、いずれにしましても、冒頭の書状が書かれた天正4年は、まだ安土城の天主が影も形もない頃だった、という点がたいへん重要だと思われるのです。

つまり、申し上げた懸造り舞台は、天主の建造以前の秘史(別計画)として考え、天主台上に天皇の御在所が計画されたと想像しますと、川本先生が論考で指摘された、室町将軍邸での行幸のやり方とも符合するようなのです。



寝殿(しんでん)が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所(かいしょ)は義教(よしのり)の御殿という認識があったものと考えられる(当時の室町殿には常御所と呼ばれる建物もあるので、義教は常御所で起居したのだろう)。

(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収)



つまり室町将軍邸の行幸では、将軍・義教は、言わば主屋である「寝殿」を天皇に明け渡して御在所とし、自分は「会所」や「常御所」を御殿としていたのです。

ならば信長は、己が住居になる「天主」予定地(天主台上の特設御殿)を天皇に明け渡して、その前の懸造り舞台をふくむ一帯で、行幸の諸儀式を繰り広げようと考えたとしても、不思議は無いのではないでしょうか??






こんな推理(妄想?)から感じる事柄は…

 天正4年当時、一旦進みかけた行幸計画をあえて否定することから、
 (「皇帝」イメージにあふれた)天主の建造は始まったのではないか―――


という信長の政治的判断です。

そしてその後に残ったのは、やはり川本先生がおっしゃるような、形式上の行幸殿としての部屋(「上々段」)であったのかもしれません。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年11月09日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由





中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由


宣教師がスケッチしたと伝わる織田信長像(三宝寺蔵)/絵をボカすと眼差しが浮きたつ…


前回は“信長の九龍壁”とも言うべき、安土城天主壁面の飛龍の絵(それが意味する歴史的メッセージ)についてお話しました。

しかしこの建物の上層部分には、やはり信長!と舌を巻くような、大胆な宗教的メッセージも隠されているように思われるのです。




論点3.青い銅板に刻まれたバテレンの絵とは…


(フロイス『日本史』東洋文庫版/柳谷武夫訳より)

(安土城天主は)七階建で、彼の時代までに日本で建てられたうち最も威容を誇る豪華な建築であったという。(中略)屋形の富裕、座敷、窓の美しさ、座敷の内部に輝く金、赤い漆を塗った木柱と全部金色に塗った柱の数…


当サイトは、安土城天主は白い天守だった、と申し上げておりますが、種々の文献では金・青・赤・黒などの色も使われたことになっていて、「赤」は上記のとおり「赤い漆を塗った木柱」とハッキリ翻訳した文献があります。


――では「青」は何だったか?

と言いますと、これまでの諸先生方の復元はまちまちで、とても集約を図れる状態ではないため、当イラストでは、「青」は緑青のまわった銅板の色であり、柱や高欄や破風が「銅板包み」で被われていたものと想定してみました。


後世の施工例ながら、松前城の本丸御門に見られる銅板包み


「青」をこのように考えた場合、そのメリットとして、たとえ「赤」と「青」が同じ階にあっても目がチカチカするような配色にはならず、「赤」と「青」を別々の階と考える必要は無くなります。

そのため、例えば文献の「赤く、あるいは青く塗られており」(フロイス『日本史』)という記述は、間の句読点をはずして読む、という解釈も十分にありうることでしょう。

したがって天主の外壁は、フロイス『日本史』の表現を借りますと、上から「すべて金色」の階、「赤くあるいは青く塗られて」いる階、「黒い漆を塗った窓を配した白壁」の階、という3パターンに整理して考えることも可能になるのです。





さて、その「銅板包み」に関しては、かつて城郭研究のパイオニアの一人、櫻井成廣(さくらいなりひろ)先生がこんな指摘をしました。

(→詳細は記事「岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長」参照)


その壁面装飾については珍しくかつ重要な史料がある。それは井上宗和氏が「銅」という業界誌に発表されたもので、安土城天主を建築した岡部又右衛門以言(これとき)の「安土御城御普請覚え書」である。(中略)
それによると安土城天主木部は防禦のため後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、「赤銅、青銅にて被われたる柱のばてれんの絵など刻みたるに、塗師首(ぬしかしら)のうるしなどにてととのえ、そのさま新奇なれば信長公大いに喜ばれ、一同に小袖など拝領さる」という文句もあるという。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981/上記の( )内は当サイトの補足)


この文章によりますと、赤銅や青銅に透漆(すきうるし/半透明の漆)を施した珍しい意匠が採用され、しかもそこには「ばてれんの絵」が銅板彫刻されていた、というのです。

大天使ミカエル


ここで言われる「ばてれんの絵」とは、おそらくは、当時、フランシスコ・ザビエルの祈願によって、日本の守護聖人とされた「大天使ミカエル」ではないかと想像できます。

しかしそうすると、安土城天主には、キリスト教のイメージと、前回の記事の中国皇帝のイメージが、ごった煮のように混在していることになってしまいます。



論点4.中心は中国皇帝の儒教なのか?キリスト教なのか?

    天主の意匠に二つの主題が同居できた理由



世間一般の認識でも、信長はキリスト教に肩入れする一方で、仏教徒(延暦寺僧や本願寺門徒)の殺戮(さつりく)を繰り返したことは有名です。

そのうえ、かの立花京子先生が著書『信長と十字架』で、信長とは、「ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった」武将である、と定義した時には、目の醒めるような思いがしたものです。


「イエズス会のための仏教への鞭(むち)」であり、「イエズス会のために立ち上がった」武将であった信長は、イエズス会からの援助によって全国制覇を遂行していたからこそ、同会の布教状況を視察するヴァリニャーノに、全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのである。
京都馬揃えは、ヴァリニャーノへの全国制覇の事業報告の一つであった。それゆえに、ヴァリニャーノが訪れた天正九年(一五八一)にのみ行われたのである。


(立花京子『信長と十字架』2004)


かく言う私も、世界史の中での信長や豊臣秀吉をもっと語るべきだ、という点では大賛成なのですが、しかし安土城天主の最上階には、中華世界の支配原理と結びついた「儒教」画が描かれていて、中国皇帝のイメージにあふれています。

いったい信長の頭の中では、儒教が中心だったのか、キリスト教が中心だったのか、そのいずれでもなく本当に宗教心が無かったのか、とんと解らなくなります。

この問題は、天守とは何かを解明するうえでも重要な課題ですが、実は、そんな大きなナゾを一発で「氷解」させてしまいそうな本が、これなのです。



岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008年


この本の主たる研究対象は、表紙に描かれた宣教師マテオ・リッチと明朝官人の徐光啓という二人の人物です。

リッチは(言わば中国版フロイスのごとく)中国布教の切り札として送り込まれた語学堪能な宣教師であり、一方の徐は(言わば信長のようなヒラメキで)富国強兵のためにイエズス会の科学技術に目をつけた大臣でした。


この二人を中心に、なんと儒教と天主教(キリスト教)は、言わば同根の宗教であり、矛盾しない(!)とされたのだそうです。

それはちょうど日本で、信長が本能寺の変で横死して間もない時期に(!)。




儒家でないと中国知識人の信頼と協力をえられないことがわかり、リッチは教皇の許可をえて服装も儒服にした。キリスト教のデウスを中国語で天主と呼び、キリスト教を天主教とすることも決めた。(中略)

同時にリッチは、古代中国の儒学はキリスト教と一致すると認め、古典に出てくる上帝はキリスト教の天主と同一である、と教理問答『天主実義』に書いた。(中略)

(徐光啓などの高官や名士である)彼らはリッチが「中華を慕って泰西から九万里を航海」してきた外国人とみなして、その説教である天主教は儒教聖賢の言葉に背かないし、彼の世界知識は仏教や道教よりもしっかりしていると認めて、耶蘇(イエズス)会の活動を容認するようになる。

(岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008)



当時、儒教とキリスト教にこんな“親和性”がありえたことを、いったい日本人の誰が見抜いたでしょうか。

日本国内では仏教とキリスト教が衝突するばかりで、儒教とキリスト教の関係性に思いをめぐらせた者など、皆無だったかもしれません。

日本人でただ一人、それに気づいた人物、織田信長を除いては……









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年10月25日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!解説!イラスト「白い安土城天主」上層部分





解説!イラスト「白い安土城天主」上層部分


このほど、当ブログは累計アクセス数が20万件を越えまして、望外のご支持を頂戴しておりますこと、心より御礼申し上げます。

さて、前回は不本意な形でお見せしたイラストについて、今回は解説文を加えてご覧いただきたく存じます。


『天守指図』新解釈による復元イラスト(北西の湖上から見上げた角度)


論点1.やはり安土城天主に正八角形の「八角円堂」は無かった!

    〜仮称「十字形八角平面」の六重目の具体像〜



まず、安土城天主の構造に、正八角形の「八角円堂」が無かったと考えられる“理由”につきましては、上のバナーの「2009緊急リポート」やブログ記事「安土城天主に「八角円堂」は無かった!」 「図解!安土城天主に「八角円堂」は無かった」等をご参照いただきたく、ここではイラスト化を進めた過程で判った事柄をお話いたします。

(※最上階の七重目については、記事「七重目が「純金の冠」だったワケ」もご参照下さい)



静嘉堂文庫蔵『天守指図』の五重目


当サイトはご覧の『天守指図』五重目の中央部分、十字形の八つ角のある範囲が高く建ち上がり、六重目を構成したのではないか、と考えております。

正直申しまして、その具体像を考える上で最も迷ったポイントは、五重目の南北に突き出した「一段たかし」と書き込みのある部屋(張り出し)の真上の部屋は、どうなっていたのか? という点でした。


何故なら、その上にも何らかの部屋が無くては、六重目が「八角(八つ角のある平面形)」になりませんし、指図に描かれた「華頭窓」等は当然、五重目についての表現であって、その上の部屋については情報が“皆無”だからです。

「張り出し」真上の六重目は開放的な「眺望」室??



そこで当サイトが申し上げている仮称「十字形八角平面」の論拠に立ち返りますと、古来、中国大陸の各地に建てられた楼閣建築において、特徴的な構造物として「抱廈(ほうか)」があり、それは眺望のためのバルコニー的な用途のあるものでした。

岳陽楼図(原在照筆/江戸時代)


こうした見晴らしの良い「抱廈(ほうか)」こそ、中国の楼閣にとって必須のものであり、これが「十字形八角平面」を形づくったわけです。


したがって『天守指図』の「張り出し」の真上にも、そうした「眺望」を第一の目的とする部屋があっても良いのではないか、と考えた場合、それは例えば、のちの松本城天守の月見櫓に見られるような、戸や縁がぐるりと廻った開放的な空間が想像されます。


その場合、縁は当然のごとく、六重目(回廊)の西側に張り出した高欄廻縁が回り込んできたものと思われ、それによって接続路は十分に確保され、外観的には「八角」がいっそう強調される効果もありそうで、今回のイラスト化に“是非モノ”で盛り込んだ次第です。

『天守指図』五重目の解釈案(今回の訂正版)


そのため以前の記事中の作図に、いくつか“訂正”があります。

例えばご覧の上の作図で、赤い矢印線は、五重目の内部から階段を登り、六重目(回廊)を経て、吹き抜けの真上の「七重目」に向かう場合や、一旦、高欄廻縁に出てから南北の「眺望」室に向かう場合の導線を表しています。


ちなみに別の立体的な図では、その縁はご覧のように表現されます。


この「十字形八角平面の六重目」という考え方は、次の「論点2」の内容にも深く関わって来ることになります。



論点2.『信長記』『信長公記』類で知られる天主壁面の「飛龍」の絵が、実は、宣教師の見聞録では一語も書かれていないのは何故なのか??


(『信長記』岡山大学蔵より)

六重め八角四間程有。外柱は朱也、内柱は皆金也。
釈門十代御弟子等、尺尊成道御説法之次第。
御縁輪にハ餓鬼共鬼共かゝせられ、御縁輪はた板にハ、
しやちほこひれうをかゝせられ、
高欄擬法珠ほり物あり。



このような六重目の記録をもとに、諸先生方の復元では、多くの場合、八角の縁下の「はた板」(端板)に「ひれう」(飛龍)の絵を描いて来ました。


ご存知ですか? それは海外の出版物でも踏襲されてます…

(Stephen Turnbull『Japanese Castles 1540−1640』)


こんな壁面の飛龍はイラストから想像するに、遠くからでも目立ったことでしょうが、不思議なことに、フロイス『日本史』など宣教師の見聞録では、この飛龍について書かれた部分が一箇所も無い(!)のです。

例えば外壁に関するくだりでも…


外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。

(『完訳フロイス日本史』松田毅一/川崎桃太訳)


宣教師の目にも「ドラゴン(龍)」と判るような絵が、はっきりと天主の壁面にあったのなら、少しは記録があっても良さそうです。

ところが一言も無い、ということは、何かそこに理由があったからではないのでしょうか?


織田信長が安土時代に使用した龍の朱印


この印判は「天下布武」の文字の両側を、二匹の降り龍が囲んだデザインで、信長が安土への移転を契機に使い始めたものと言われています。

それにしても、このデザイン。パッと見た目で、すぐに「龍」とお分かりになるでしょうか。
――このことから、或る可能性が思い浮かぶのです。


仮に、分かり易く作ってみた印判状の飛龍の図案


つまりここで申し上げたいのは、問題の「飛龍の絵」とは、特に宣教師らの西洋人にとっては、遠目ではとても判別のできなかった、複雑な印判状の図柄(!)という可能性は無かったか? ということです。


日本人ならば、“何かが円形にトグロを巻いている”という絵を見た場合、遅かれ早かれ「龍だ」と連想できるわけですが、宣教師にはそれが唐草模様とも何とも判断がつかず、結局、見聞録に記しきれなかった、という特殊なケースが起きたのではなかったでしょうか。


そして、そういう可能性について考えをめぐらせますと、そこから信長の壮大な意図が見え隠れし始めるのです。


『天守指図』五重目/六本の朱柱?は幅9間にわたって並ぶ


前記『信長記』に「外柱は朱也」とあったとおり、『天守指図』にもその「朱柱」と思われる存在が示されています。

それらは幅9間にわたって並んでいて、全体で六重目の高欄廻縁や屋根庇(ひさし)の軒先を支えていた可能性が想定できます。

(※詳しくは「天空と一体化する安土城天主の上層階」参照)


で、実は、この「幅9間」というのがミソであり、すなわち1間に一匹ずつ「龍」の図柄があったのなら、合計で「九匹の龍」が壁面に並んだことになるからです。

それらは、城下町の広がる西側に向かって。さらには、都や、海のかなたの大帝国に向かって…




九龍壁(紫禁城/太和殿の前門「皇極門」に付設のもの)


九龍壁は、中国の明・清代に正門の目隠しの壁として建てられたものです。

龍が表と裏に九匹ずつ、それぞれ五対に見えるように配置され、縁起のいい「九」と「五」で「九五之尊」を表し、宮殿外から姿の見えない皇帝(天子)の存在を表現したと言います。

(※写真の龍は2匹ずつ波形でくくって「五対」に見せています)


この「九五之尊」という意味では、まさに『天守指図』の朱柱も、九匹の龍を五対に見えるように(!)配置してあることが判ります。




こうして見ますと、文献に伝えられた「飛龍の絵」とは、さながら「信長の九龍壁」とも言うべき確信的な意匠であったことになり、当時の中国の流儀にのっとった、或る政治的なメッセージを発信するための設備だったことになります。


竜のデザインは中国の皇帝につながります。そして安土城の天主は唐様、つまり中国風デザインにつくるよう命じていました。これも皇帝イメージに直結します。小島道裕さんもいうように、信長は天皇を凌駕する皇帝を意図していた可能性がきわめて高いのです。

(千田嘉博『戦国の城を歩く』2009年 ちくま学芸文庫版)


かくして「飛龍の絵」を各々1間幅の図柄と考える時、信長の歴史的なメッセージが天主の壁面に掲げられたことは、いっそう明確になるわけです。


(※次回に続く)







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2010年10月20日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!イラスト「白い安土城天主」作画の経過報告!





イラスト「白い安土城天主」作画の経過報告!


昨年の大晦日の2009年緊急リポートで、ラストにお見せするはずだった「白い安土城天主」の全景イラストは、日曜大工作業の悲しさで、なかなか完成に至りません。

しかし2010年もすでに紅葉の季節となり、せめて“出来た分だけ”でもご覧に入れようと思い立ち、急遽、作業ピッチを上げたのですが、天主の上層部分の作画だけで、とうに息が上がっております。


このままでは記事のアップがどんどん遅れそうなので、ひとまず作画の途中段階と記事のアウトラインだけをご覧に入れつつ、二、三日中に詳しい解説記事を載せますので、本日のところは何とぞご容赦のほどを!



『天守指図』新解釈による復元イラスト(上層部分)


論点1.やはり安土城天主に正八角形の「八角円堂」は無かった!
    〜仮称「十字形八角平面」の六重目の具体像〜













『天守指図』新解釈による復元イラスト(上層部分)


論点2.『信長公記』類で知られる天主壁面の「飛龍」の絵が、実は、宣教師の見聞録では一語も書かれていないのは何故なのか??












『天守指図』新解釈による復元イラスト(上層部分)


論点3.安土城天主は、津山城天守や福山城天守などの「板葺き四重目屋根」の原点であったのかもしれない




申し訳ゴサイマセヌ…。二、三日中に詳しい解説文をアップします!







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2010年10月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!覇城・安土城の山頂にも「大奥」の原形があった!





覇城・安土城の山頂にも「大奥」の原形があった!


のっけから余談で恐縮ですが、時代劇はこんなことも出来るんですね


左は公開中の問題作(?)男女逆転『大奥』のポスターですが、一方、右は1972年の痛快爆笑時代劇、『徳川セックス禁止令 色情大名』(東映京都/鈴木則文監督)でして、これは邦画史に輝ける怪作と申せましょう。


『大奥』は未見ですので、『徳川セックス…』の方で申しますと、真面目一本槍で育った殿様が突然、性愛の悦びに目覚め、それを知らなかった悔しさからトンデモナイお触れを出してしまい… といったストーリーです。

実際に、生類憐みの令の徳川綱吉や、無理なデノミを強行した金正日など、権力者のトンチンカンに泣かされた庶民、という類のお話はあるわけで、映画(メディア)製作者はそんな連想をうまく利用しつつ、なんとか1本仕上げたいと思うわけです。


その辺、男女逆転『大奥』はどんな風になっているのか… ポスターを見る限り、女将軍役の柴咲コウのほおがゲッソリしている(!)のは、なにやら作品の裏読みも出来そうで、気になるポイントです。

いずれにしても「大奥」という存在は、好事家の絶好の話題になりがちですが、城郭論から見ても「城」の本質に関わる大テーマなのです。




千田嘉博『戦国の城を歩く』(2009年/ちくま学芸文庫版)


さてさて、この辺りで本題に入らせていただきますが、前々回から申し上げて来た「信長の作法」は、肝心かなめの安土城では、どう反映されていたのでしょうか?

つまり安土城にも「大奥」の原形はあったのか――

このことを考える時、“山麓と山上にそれぞれ御殿をもち、大名自身は山上の御殿に住んだ”という「戦国期拠点城郭」を明らかにした、千田嘉博先生の指摘はたいへん参考になります。


観音寺城では山城のなかに大名も家臣たちも横並びに屋敷をかまえており、山上の常御殿は大名の政務の場としての比重が高いだけでなく、重臣たちも日常的に訪れた場所でした。こうした御殿のようすは大名と家臣たちが拮抗した横並びの権力構造をもったことと表裏の関係でした。
それにたいして岐阜城では大名である信長だけが突出して山上の屋敷を構え、大名と家臣との隔絶した権力の大きさを示しました。


(千田嘉博『戦国の城を歩く』2009/ちくま学芸文庫版より)





こういう岐阜城のあとに築かれた安土城は、「山麓と山上に分離していた御殿群を山上で統合した城」と言われて来ました。


となると、信長があれほど岐阜城で徹底させた家臣や訪問客との接見のスタイルは、安土ではどうなったのでしょう。

信長のことですから、いっそう度を極めたはずだと考える方が自然であり、そうだとすると、安土城の山上では、どのように「ハレ」(公)と「ケ」(私)の領域が棲み分けられたのでしょうか?


このことは例の、天皇を迎える「御幸の御間」の紛糾(それら御殿の配置がいまだにハッキリしない…)という問題もあって、殆ど解明されて来ていません。



そこで今回は、日本の城郭研究にとっても重要なこのテーマに、斬り込んでみたいと思います。その問題解決へのカギは――

「御礼銭、悉(ことごと)くも信長直に御手にとらせられ、御後へ投させられ」(『信長公記』)

と伝わる、家臣らを安土城に招いたおりの、信長の奇妙な振る舞いにあり、そこには思いも寄らぬ意味合いが隠れていたのです。




安土城の御殿配置をめぐって対立する二案

(A案) 安土城郭調査研究所(藤村泉所長)案


さて、ご覧の(A案)は、この20年、発掘調査を行ってきた安土城郭調査研究所が、本丸御殿は京の御所の清涼殿に酷似した建物だった、と発表して話題になった時の御殿配置です。

(B案) 広島大学大学院教授・三浦正幸案


それに対し、(B案)は、お馴染みの三浦正幸先生らが、伝本丸の礎石列を(A案)のように清涼殿に見立てるのは恣意的すぎる、として反論した際の御殿配置で、「御幸の御間」は伝二ノ丸(ここも本丸と想定)にあったとしています。


では、この両説はハレ(公)とケ(私)の領域を、それぞれどのように棲み分けているのでしょうか?


例えば、後に徳川幕府が招請した二条城の行幸では、天皇の行幸殿は、大名が参集する二ノ丸御殿のとなりに建てられたことを思うと、同じく天皇を迎える「御幸の御間」も、明らかに「ハレ」の領域にあったでしょう。

一方、信長と家族の住居だったと言われる「天主」は、明らかに「ケ」の領域であったはずです。となると…

(A案)の棲み分け/※数字は各曲輪の標高(m)


曲輪の標高に注目いただきたいのですが、この(A案)は「ハレ」と「ケ」の棲み分けが、おおむね曲輪の高さ(標高)に逆らわずに分布しているようです。

(B案)の棲み分け


一方、(B案)は、曲輪の高さとは関係なく、ハレとケの領域が分布していることになります。

例えば近年の城郭論では、曲輪の高低と求心性は、いわゆる「織豊期城郭」の縄張りの“肝”だと言われて来ています。

その意味においては、一見しますと、(A案 安土城郭調査研究所)の方が「織豊期城郭」に、より相応しい造形のようにも見えるのですが、どうなのでしょう??




信長の奇妙な振る舞い 〜信長はどこに立っていたのか〜


さて、やがて本能寺の変が起こる天正十年の正月、信長は家臣らを安土城に招き、主郭部の御殿を拝見させました。

この時の記録が『信長記』『信長公記』類にあり、特に「御馬廻・甲賀衆など御白洲へめされ」で始まる拝見ルートがたいへん詳しいものの、具体的にどういうルートになるかは、(A案)と(B案)でかなり違った結果になります。


(A案ルート) ※安土城郭調査研究所編著『図説安土城を掘る』2004より

(B案ルート) ※三浦正幸監修『よみがえる真説安土城』2006より


ご覧のとおり両者はまるで違う結果になってしまいますが、ただ、こうして見ますと、(A案)は「ハレ」の領域だけを拝見した形であることが判ります。

そして是非とも、ご確認いただきたいのが、「御幸の御間」の拝見が終わった後の、最後のくだりの描写なのです。


御幸の御間拝見の後、初めて参り候御白洲へ罷下り候処に、御台所の口へ祗候(しこう)候へと上意にて、御厩(うまや)の口に立たせられ、十疋宛(ずつ)の御礼銭、悉(ことごと)くも信長直に御手にとらせられ、御後へ投させられ、他国衆、金銀・唐物、様々の珍奇を尽し上覧に備へられ、生便敷(おびただしき)様躰申し足らず。

(『信長公記』より)


ここで何より重要なのは、信長が見せた行動の意味です。

信長は「御馬廻・甲賀衆など」が各々差し出した「御礼銭」を、みずから手で受け取って、後へ投げた(!)というのです。


この話は信長のユニークな性格を語る時によく使われますが、では何故、背後に投げたのか? という点に言及された方はいらっしゃらないように思います。

この件は、その時、信長がどこに立っていたかを類推でき、そこが「御台所の口」に近い「御厩の口」であるとなると、(A案)も(B案)も想定が崩れる可能性があるのです。


(A案)(B案)の「ハレ」と「ケ」



記事の最初の方で(A案)(B案)のハレとケの領域を確認しましたが、いずれにせよ、家臣らは「信長の住居である天主」には一歩も足を踏み入れていません。

ということは、この日、信長は家臣らに格別の配慮を示しつつも、本当のところは、「己が住居」(ケの領域)には基本的に立ち入らせなかったのではないか(!)という疑いが浮上します。


そういう可能性を踏まえて、受け取った「御礼銭」を背後に投げた、信長のアクションの意味を想像してみていただきたいのです。


―― 礼銭をほうり投げるのは無作法なようでいて、実は、それ自体が「銭を受領した」という意味になったのではないか。

――すなわち、「後に投げれば、あとは家の者が拾うから、どんどん手渡してくれ…」と。


つまり、信長はその時、ハレとケの領域の境界線上に当たる場所に立っていて、銭を背後に投げるという行為自体で、「銭は受け取った!」という意思表示をおおげさに家臣らに見せた、ということではなかったのでしょうか??




仮説<この日の信長の行動から推理した安土城主郭部の「ハレ」と「ケ」の棲み分け>


信長の立ち位置は、ご覧のような石段の下あたりだったと考えますと、文献上に残る“奇妙な”行動も、その場にいた者ならハッキリと判った、信長の意図が隠れていたことになります。


かくして「御厩の口」が本当に図のような位置だったとなりますと、いやおうなく「御台所」や「御厩」の位置をはじめ、天主取付台や伝二ノ丸の性格についても、色々と見直しが迫られるのかもしれません。

現状のままでは(A案ルート)(B案ルート)は共に、信長が銭を投げたのは、北東斜面の伝台所跡のあたりということであり、そんな裏手で銭をほおり投げて、何になるのか、心配になって来ます。

(※次回に続く)







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2010年09月22日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!仇敵・毛利家をも制覇した“信長の作法”





仇敵・毛利家をも制覇した“信長の作法”




前回ご覧いただいた江戸城の初代(慶長度)天守が、大手から見ると、やはり詰ノ丸の「左手前の隅角」にあった一件は、もちろん江戸城にとどまらず、様々な城に新たな解釈を加えるものです。

そこで今回は、この「作法」を適用してみるとスッキリ整理できる、各地の“天守の位置問題”についてお話しましょう。




A.中津城 〜信長の「作法」からも言える本来の天守位置〜


大分県の中津城は、近年、旧藩主の奥平家の関連会社が3億2000万円で売りに出したことで話題になりましたが、今夏、中津市への売却交渉が決裂したそうで、この調子では中国人資産家にでも買われてしまいそう(でも本丸の神社が障壁か…)で、先行きはかなり不透明です。

(※10月15日補筆/このほど売却先は東京の福祉事業を営む会社に決まったとのこと)

さらに、この城、かつて築城時に天守(三重櫓とも)があったと言われる所とは別の位置に、写真の鉄筋コンクリート造の模擬天守が建てられていて、なかなかに問題が多いのです。


中津城 現在の模擬天守



この城は藤堂高虎らと並ぶ“築城名人”黒田官兵衛(孝高/如水)が、豊臣秀吉から中津16万石を与えられて築いた、自らの居城です。

官兵衛にとっては、長年の秀吉に対する奉公の恩賞として得た城であり、また築城名人という意識も既にあったように推測されますので、当然、天守の位置をおざなりに決めるはずはありません。


今では城内の案内板等にも「本来の天守位置」が示されて来ていますが、この位置は、かつて本丸が「上段」と「下段」に分かれていた当時を考えますと、ちゃんと本丸上段の「左手前の隅角」になるのです。

ですから、この本来の天守位置は「信長の作法」から見ても正しく、かつ、その三重の建物はまぎれもなく「天守」であったはずだ、ということが補強的に説明できるわけです。

やや大げさに申しますと、そうした天守の“有職故実”を踏まえることも、築城名人にとっては必須の素養だったのかもしれません。




B.弘前城 〜定石を堅く守っていた築城時の五重天守〜


青森県の弘前城は、津軽為信が、徳川家康の許しを得て計画を開始した居城で、二代目の信牧のとき、五重の天守も完成したと言います。

しかし今、私たちが見られるのは、本丸の南東隅にある江戸後期の再建天守(三階櫓)であり、本来の五重天守は、向かって左側奥(南西隅)の見えづらい所にあったと『正保城絵図』に書き込まれています。

これには異説もあるものの、では何故、そんな場所に本来の天守があったというのか、理由は殆ど説明されて来ませんでした。


弘前城 江戸後期の再建天守



ですがご覧のとおり、本来の天守位置は、本丸の大手側から見ますと、ちゃんと「本丸の左手前の隅角」にあるわけで、言わば家康と同様に、天守の「作法」に従っていたに過ぎないのです。

5万石に満たない津軽家は、分不相応の巨大な城郭と五重天守を築くにあたって、定石を踏まえることに強くこだわったのではないでしょうか。

私見ですが、二ノ丸の現存の櫓群にしても、どことなく「聚楽第図屏風」の櫓群に似ているように感じられてなりません。




C.萩城 〜仇敵・毛利家にまで及んだ信長の天守立地「作法」〜


さて、織田信長は、備中高松城で毛利勢と対峙する秀吉の援軍要請を受け、明智光秀に出陣を命じたところ、逆にその明智勢に一命を絶たれてしまいました。

思えば、信長に追われた足利義昭を迎え入れ、石山本願寺に補給を行うなど、毛利家は一貫して信長の仇敵でした。

その毛利家が、関ヶ原の敗戦後に萩に居城を移したとき、何故かご覧のとおり、天守を「本丸の左手前の隅角」に建てているのです。


萩城の本丸跡 向かって左奥がやはり天守台!



これは実に不思議な光景に見えてならないのですが、信長の怨讐が、ついに毛利家にのしかかった結果なのでしょうか……

でも、以前の郡山城の時代にも、秀吉の軍門に下った毛利輝元が、城山の山頂に本丸と天守を築いたとき、大手から見て左側に天守台を寄せている点など、すでに不可解な現象は始まっていたようです。

もしかすると、秀吉の政権下で「信長の作法」は天下の作法として定着し、それはもはや天下人の秀吉や家康に従うポーズに変容していたのかもしれません。


岐阜城 山麓居館と山頂部の城塞


いずれにしましても、信長の岐阜城から始まった同様の天守位置は、例えば洲本城や村上城など、各地の城でなぞるように踏襲され、それは思わぬ城にも及んでいたのです。


D.順天城(韓国) 〜天下布武の城・岐阜城の「作法」が援用された城〜


秀吉が軍を差し向けた文禄・慶長の役で、朝鮮半島に築かれた「倭城」群にも、それぞれ天守のあったことが記録されています。

しかし多くは、狭小な峰上に本丸を細長く縄張りしたためか、峰の方角にしばられて、天守の立地は種々雑多なものになっています。

そんな中でも比較的、余裕を持って縄張りされたように感じるのが、半島南岸に並んだ倭城群の最左翼にあった、順天城です。


順天城の城址(韓国 全羅南道/曲輪の名は仮称)


築城者は浅野家文書から宇喜多秀家と藤堂高虎(在番は小西行長)とされ、ご覧のとおり、ここにも岐阜城と同じ天守位置が繰り返されているようなのです。

ということは、信長の「作法」は朝鮮半島にも及んだのでしょうか?


ここで改めて申しますと、戦国時代を日本の国家の分裂状態と見なし、新たな武器・戦法によって中央集権的な体制に再統一すべく戦争を続けたのが、信長の「天下布武」政策であったとするなら、天守とは、その版図を示す“維新碑”であったろう、というのが当サイトの主張です。


ですから、そうした天守が、秀吉の指示で朝鮮に建てられたとき、信長が「天下布武」印を使い始めた岐阜城の景観が、あるべき姿として援用されたことは、半島南部の“切り取り戦”「慶長の役」に対する、秀家と高虎の意識を表しているかのようで、誠に興味深いのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年09月06日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!江戸城天守の立地に隠された“信長の作法”





江戸城天守の立地に隠された“信長の作法”


モンタヌス『日本史』挿絵の江戸城/何故か三基の巨大天守が建ち並ぶ


6月にNPO法人「江戸城再建を目指す会」が発表した江戸城天守の再建プロジェクトは、テレビのニュース番組にも取り上げられ、ご覧になった方も多いかと存じます。


当ブログは発表の前に、城内(皇居東御苑)の現存天守台が危ない、という記事を書きましたが、その点がNPO幹部の方々の“眼中に無い”ことは明らかなようで、その意味でも、プロジェクト自体は、予算的に考えても、遺跡保存の点でも、まだまだ実現性の遠いものでした。

ただ、ひょっとすると、それでも構わないのだ!!…という確信犯的な(失礼)運動だとするなら、三浦正幸先生の監修を仰いだ復元CG等がテレビで流れ、世間の耳目を集めただけでも、NPO活動としては上々の成果を得たのかもしれません。


(※なお当日の三浦先生の発表講演は、現存の天守台について「当時の石垣の高さは、現在残っている石垣よりも2メートル高かった」と、たった一言触れるだけに留まっています)




さて、その江戸城は、江戸時代の初めに「慶長度」「元和度」「寛永度」という三代の天守が矢継ぎ早に建て替えられ、したがって上の絵のように、三基の天守が同時に建っていたことは無い、とされています…

絵はあえて三代の天守をいっぺんに描いたのかもしれませんが、それらの天守の建つ位置は、ちょうど絵のように、本丸の中央部から北部へ動いたことが判っています。

実は、その立地には「或る法則」(信長好みの作法?)が隠れている、という本邦初の指摘を今回はしてみたいと思います。




岐阜城の復興天守/織豊政権の天守は、多くが詰ノ丸(本丸)の左手前の隅角にある…


ここでちょっとだけ岐阜城の話に戻るのをお許しいただくと、フロイス『日本史』は、山頂部の城塞について、はっきりとその性格付けをしています。


城へ登ると、入口の最初の三つの広間には、諸国のおもだった殿たちの息で、信長に仕えている十二歳から十七歳になる若侍がおそらく百人以上もいました。いろいろの知らせを上下に達するためです。そこからは誰もそれ以上中へはいることができません。なぜかというと、中では、信長は侍女たちと彼の息子である公子たちとだけに用をさせていたからです。すなわち、〔息子たちは〕奇妙とお茶筅で、兄は十三歳、弟は十一歳くらいでした。

(東洋文庫版『日本史 キリシタン伝来のころ』より)


これはもう、要するに、山頂部の城塞は「大奥」の原形なのだと申し上げても、いささかも問題は無いのではないでしょうか?


ご覧の東洋文庫版『日本史』は、ドイツ人のザビエル研究者G.シュールハンメルが翻訳したドイツ語版を、柳谷武夫氏が日本語に翻訳し直したもので、二重の翻訳がかえって文体のあいまいさを整理した感もあり、特に山頂部は「その山頂に彼の根城があります」と、「根城」という訳語を使った点は注目に値するでしょう。

つまり山頂部の(天守を含む)城塞こそ信長と家族の「根城」であり、それが「大奥」の原形だったとするなら、そうした岐阜城の使い方は、織豊政権以降の城郭プランに多大な影響を残したと思われます。すなわち…




このところの記事で申し上げたように、山麓居館の表と山頂部の城塞が、それぞれハレ(公)の空間とケ(私)の空間に使い分けられるなかで、山頂部は「大奥」と同じ役割を持ち始めたようです。

そして注目すべきは、天守の位置でしょう。

信長以降、織豊政権下の天守は、かなりの確率で「本丸・詰ノ丸の左手前の隅角」に建てられているのです。

ダマサレたと思って数えて戴ければ、あの天守も、この天守も、と思わぬ天守が次々と当てはまることがお判りになるでしょう。


膳所城の絵図(滋賀県立図書館蔵)/やはり本丸の左手前の隅角に天守


大変に分かり易い例が、琵琶湖畔の膳所(ぜぜ)城です。

城としてはややマイナーな印象の膳所城は、豊臣政権が崩壊した関ヶ原合戦の直後に、徳川家康がいちはやく実質的な天下普請を発令して築いた城です。


そしてそんな時期に完成したにも関わらず、天守は岐阜城と同様に、本丸の左手前の隅角にあるのです。(※縄張りは築城の名人とされる藤堂高虎)

何故こんなところに天守が? と一般の人々はまるで意味が分からず、首をひねることでしょうが、実はここに、信長以来の「天守建造の作法」がしっかりと脈打っているのです。


もう一例、これはどうでしょうか? かの名城、伏見城です(広島市立中央図書館蔵)




そして江戸城の寛永度(三代目)天守=赤印/これはやや「作法」が崩れている?


ここでようやく江戸城の話題に戻ります。

冒頭の再建プロジェクトの対象でもある寛永度天守は、いわゆる単立型の天守として、「大奥」の真ん中にどっぷり漬かって建っています

これはどうやら「その作法」が効いてないようにも見えますが、では時期をさかのぼって、初代の慶長度天守はどうだったのかを確認しますと…




大手から見て天守は詰ノ丸の左手前の隅角!



ご覧のとおり、もはや織田信長とは何の関係も無いはずの江戸城も、「信長の作法」が踏襲されていたのです。

そして縄張り(設計)は、やはり“名人”藤堂高虎でした。


(次回に続く)









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2010年08月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?





それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?


金閣(昭和25年焼失前の様子)ウィキペディアより


紫の僧院(大徳寺)から半里、あるいはそれ以上進むと、かつてある公方様が静養するために設けた場所がある。そこは非常に古い場所なので、今なお大いに一見に値する。同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の小さい塔のような建物がある。
(中略)
二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。回廊が付いた上階はすべて塗金されていた。そこは、かつては公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池全体を眺め、気が向けば建物の中にいながら池で釣りをしていた。
上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは(空白アリ)パルモ、幅は(空白アリ)パルモで、まったく滑らかで、たった一つの節もない。


(松田毅一・川崎桃太訳 フロイス著『日本史』第一部五八章より)


ルイス・フロイスが遺した膨大な『日本史』の原稿は、ご承知のように数奇な運命をたどり、ようやく昭和50年代に松田毅一・川崎桃太両先生の翻訳で、現存する全文が日本語で読めるまでになりました。

とりわけ上記の第一部五八章、六十章、六一章などは、宣教師が京や奈良で見た建築物を精力的に描写していて、ご覧の「金閣」はむしろあっさりした部類で、三十三間堂、東福寺、興福寺、春日大社、東大寺(頼朝再建の!)は長文での紹介になっています。

注目すべきは、そんな松田・川崎訳『日本史』全12巻を通じて、金閣と同様に“階ごとに建物内部を描写した建物”は、わずかに5例だけ、という点でしょう。

1.金閣(第一部五八章)
2.岐阜城山麓の信長公居館(第一部八九章)
3.都の聖母教会(第一部一〇五章)
4.安土の修道院(第二部二五章)
5.豊臣大坂城天守(第二部七五章)



わずかに5例と申しましても、これはもちろん母数が宣教師の訪れた場所に限られますし、また記載を見送った建物も数多くあったはずで、現に、この中には意外にも安土城天主が含まれておりません。

ですが、ここで申し上げたいのは、岐阜の信長公居館が、こうして金閣や南蛮寺と同様の表記法で書かれている以上は、やはり同じく「楼閣」だったのではないか、という指摘に他なりません。


そこで今回は、ザックリとその楼閣の規模や意匠を推理し、ひょっとすると日本建築史上、複数階の楼閣として最大、かつ最も豪壮華麗な建物だったのでは? というお話を致します。



信長公居館の高さ…

当ブログはこれまでの記事で「四階建て楼閣」と申し上げて来ましたが、より厳密には、その階数について、フロイス『日本史』とほぼ同文の『耶蘇会士日本通信』に、たいへん気になる“一語”が紛れ込んでいるのです。すなわち…


第一階には十五又は二十の座敷あり。其ビオブ(黄金を以て飾りたる板戸なり)の締金及び釘は皆純金を用ひたり。座敷の周囲に地階と同平面の縁あり。甚だ良き木材を用ひたり。其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし。縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


これは一階の紹介文ですが、赤字で示した「座敷の周囲に地階と同平面の縁あり」はフロイス『日本史』には無い情報で、つまり一階の座敷と縁の下にそれと同平面(同規模)の「地階」があったと言うのです。

冒頭で申し上げたとおり、あれだけ各地で日本建築を見たフロイスが、よもや単なる床下程度のものを、わざわざ「地階」と書くとは思われません。
やはりそれなりの高さや構造の地階があったとしますと、楼閣全体は相当な規模に達していたようなのです。


それは後の五重天守を先取りするほどの規模だった!?


ご覧の模式図は、「地階」という問題の一語を踏まえつつ、さらに一階、二階、三階、四階のいずれにも「前廊」があった、と書かれている点をキッチリと反映させて、宮上茂隆先生のように三階を屋根裏階としてしまうような解釈はせずに、素直に描いてみたものです。

前々回も指摘しましたとおり、「前廊」は、『日本史』の用例から見て「縁側」か「廻縁」の類であることは充分に想像できますので、したがって全体のプロポーションは金閣・銀閣と同様の楼閣スタイルか、若干の変異形だろうと考えました。


「其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし」(前掲文より)

しかもその「前廊」は黒漆で仕上げられ、鏡のようだった、という一文は、後の安土城天主での「御座敷内外柱惣に、漆ニ而布を着せられ、其上皆黒漆也」という記録を思わせ、信長はそうとうに黒漆の仕上げが好みだったのだなと感じさせるものです。



信長公居館の意匠…

飛雲閣(二階の縁の板戸に三十六歌仙の絵が描かれている)ウィキペディアより


さて、前掲の一階の紹介文に「縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり」とある所は、思わず、後に建てられた飛雲閣の二階部分を連想させます。

では信長公居館では、こうした華麗な板絵が一階を廻っていたのでしょうか?


飛雲閣の場合、板絵は表と内側に一人ずつ描いていて、室内からも三十六歌仙が並ぶところを鑑賞できる形になっています。

思うに、紹介文の「日本及び支那の古き歴史」という画題も、どちらかと申せば、文人墨客にまつわる絵の方が、岐阜城山麓の下段(「奥」)の茶室と同居する空間にはふさわしいのかもしれません。

そうしたことから、この楼閣の一階は、会所のような広間を中心に、二十近い納戸や控えの間が連なる場所だった、と推理することも出来そうです。



ご参考:金襴(きんらん)の拝敷き(→愛知県の垂本畳店さんのサイトをご参照下さい


さて、フロイス『日本史』の二階の記述には、「市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて」という一文があるため、「金襴の幕」は何か古代王朝風の幕が御簾のかわりに廻っていたようにも言われて来ました。

ところが前述の『耶蘇会士日本通信』では、この部分の表現がやや違っていて、むしろこちらの方がずっと合理的に解釈できそうなのです。


宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


このように「座敷は金襴の布を張り」という形に「布」とされていて、しかも「座敷は」と畳敷きの間である前提で述べています。

これは結局、金襴を畳の縁に使用した、と考える方が、古代王朝風の幕よりもずっと現実的なのではないでしょうか?

つまり『日本史』の「市の側も山の側も」という部分は、『耶蘇会士日本通信』の「町の一部及び山を見るべし」という箇所の形容詞と取り違えたのかもしれません。




さて最後に、三階の「茶室」問題についても、同様に『耶蘇会士日本通信』に見逃せない一文が加わっているのです。


第三階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり、其巧妙完備せることは少くとも予が能力を以て之を述ぶること能はず、又之を過賞すること能はず。予は嘗て此の如き物を観たることなし

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


つまり、この茶室は「予は嘗て此の如き物を観たることなし」というように、フロイスがここで初めて見たスタイルの茶室である、という重要な“ただし書き”が付いているわけです。

フロイスは大友宗麟の城も、都の将軍邸も、堺の有力商人の屋敷も訪れていて、そんな人物がこういう書きぶりを見せているだけに、信長の茶室はそうとうに奇抜なもの… 例えば、橋廊下の途中に設けた観望の茶亭だったのでは… などという妄想が思わず広がってしまうのです。


それは日本の楼閣で史上最大、かつ華麗なる意匠の集大成!?


※岐阜城の話題は今回で一旦、終了いたします。








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2010年08月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「白い四階建て月見櫓」の立地場所をさぐる





「白い四階建て月見櫓」の立地場所をさぐる


足利義政の「白い銀閣」をイメージするうってつけの建物、見つけました

足利市の法楽寺本堂/銀閣を模して昭和58年に建立 →関連サイトはこちら



さて、どうも岐阜市や関係者の方々の間には、悲願の岐阜城「信長公居館」の復元に一歩でも二歩でも近づきたい!…との強い思惑があるのかもしれませんが、その焦りのような空気が、東京の方にまで漂って来ている感があります。

居館の痕跡が見つからなかった有力候補地(明治大帝像前)


ことに近年、関係する専門家の方々が、信長の山麓居館について、『フロイス日本史』に描かれた豪華さや破格ぶりを疑問視して、「豪華さは可能性の一つ」などと、或る種の“防御線”を張っている辺りに、それが如実に感じられてしまいます。

そうした防御線の狙いは、おそらくは、発掘調査で礎石などの直接的な物証が挙がっていない状況下でも、現地の山側奥に、簡素な信長公居館(!)を想定しうるように、今から期待値を下げておく点にあるのではないかと、城郭ファンの目には見えてしまいます。



一方、四階建て月見櫓ならば、銀閣と同様に「橋廊下」も想定できる…


一方、当ブログが執拗に(?)申し上げているのは、『フロイス日本史』の「予の邸」とは、織田信長が主殿(「大きい広間」)と別個に、庭園(山里)に設けた遊興のための楼閣ではなかったのか、という新たな視点です。

しかも前回の記事で申し上げたように、この楼閣(四階建て月見櫓)は、いわゆるアルカラ版のフロイス日本史ですと、いっそう輪郭がハッキリして来るようなのです。


アルカラ版の日本史とは、お馴染みの松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』が、フロイスの母国語ポルトガル語の写本から翻訳したのに対し、岐阜市歴史博物館が所蔵するスペイン・アルカラで印刷されたスペイン語訳フロイス書簡集から、同館の高木洋先生が翻訳したもので、通称「アルカラ版」と呼ばれています。


この両者の翻訳文には微妙な違いがあり、中にはけっこう重要な単語も含まれていて、その最たるものは「三階は山と同じ高さ」が、なんと「三階と山は平行」(!)に変わっている点でしょう。


この「平行」という表現は、当ブログが申し上げた山麓居館「上段」と楼閣の三階が、まさに同一の高さ(水平レベル)にあって、それを橋廊下が定規のようになって、歴然と見てとれる様子を描写したものではないでしょうか?

この点に関しては、高木先生ご自身も、三階と山をむすぶ渡り廊下の可能性に言及されていて、先生にも是非、白い四階建て月見櫓の方もご検討いただけましたら、恐悦至極です。





さて、ではこの下段にあたる岐阜公園の平地のどこに、四階建て月見櫓は建っていたと考えられるのでしょうか?


この部分は戦国から江戸時代まで、文献の記録が乏しく、岐阜城の歴史では定評ある村瀬茂七『稲葉山城史』(1937年)でもハッキリとしません。

第三篇の第三章「居館」には、フロイスなど宣教師関連の情報以外では、「千畳敷段々下西に南北へ桐の馬場跡あり今は畑となる」(岐陽故事)とか、「此の屋敷に用ひたりし石材は加納城築造の時全部引移され其影だになし」(金華山史)とあるのみです。


そして幕末はただの荒地になっていましたが、明治以降は一転して、公園化とともに宗教施設、物産陳列場、柔道場、動物園など、ありとあらゆる施設が建設・解体を繰り返した場所だそうです。


昭和11年「躍進日本大博覧会」の会場配置図から作成


特に戦前、昭和11年(1936年)に岐阜公園と長良川河畔で開催された「躍進日本大博覧会」では、約30棟もの展示館(パビリオン)が建ち並びました。

この時は、なんと巨石通路の上にも、明治大帝像前にも、池の際にも、各種の建物があったそうで、しかし逆を申せば、そんな試練にも巨石通路は地中で生き抜いたわけですから、これはむしろ勇気を与えてくれる一件なのかもしれません。


(※こうした岐阜公園の歴史については、岐阜市歴史博物館ボランティアガイドの後藤征夫さんのサイト「岐阜公園の移り変わり」にも詳しいのでご参照下さい。)


さて、上図で見逃せないポイントは、岐阜公園の「池」がこの時、すでにあったという事実ではないでしょうか…



この「池」が、果たしていつの時代までさかのぼれるかは、先の『稲葉山城史』にも記載がなく、『岐阜市史』でも、岐阜公園の開園からの記録の中で「池」の整備に触れた言葉は一つもありません。

しかし、ろくに記録が無い、ということは、ひょっとするとこの池は、江戸時代から藪の中に“原形”があって、その後、時代ごとに「庭の手入れ」の範ちゅうで整えられて来た、という可能性もあるように思われます。


そこで、当サイトからのご提案として、今後の発掘調査の中で、是非一度、この「池」を調査してみてはいかがでしょうか?



かの銀閣も錦鏡池のほとりに建っている


もし「池」が相当に古いものをベースにしている、という何らかの手掛かりが得られれば、それだけでも、そこが庭園(山里)であった可能性が生まれ、展望が大きく開けて来るように思うのです。

結論として、今後もなお、発掘調査の方々が作業を続行できるように予算を付けて頂き、とにかく“全部を”確認したうえで、「信長公居館」の跡地認定や復元に歩を進めるべきではないでしょうか?




追記:四階建て月見櫓の「位置」を逆算する方法

さて、この際、もっと調査範囲を限定できるイイ方法はないものか? と考えますと、次の二つが思い浮かびます。

1.銀閣と月待山の位置関係を金華山に立体的に当てはめる

2.中秋の名月が金華山の山頂天守に重なって見える地点をさがす


1の方法は手軽なようですが、月待山は割となだらかな山であるため、どの辺に月が出るのを良しとするかで、答えが変わって来ます。

また2の方法は、山を見上げる角度が、金華山は月待山よりほんの何度か高くなるため、その分の月の動きを私は計算できず、いっそ今年あたり、現地で確認してみるのが一番、確実なのかもしれません。………








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2010年07月26日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!





岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!


――岐阜城の山麓居館には、足利義政の「白い銀閣」に由来した、四階建て楼閣が存在したのではないか?

――しかもその場所は、岐阜公園の真っ只中ではなかったのか?

前々回から、発掘調査関係者の神経にさわるような記事を続けておりますが、これは取りも直さず…

 <本当にこのまま階段状御殿説で突っ走ってもいいのですか>

という、率直な危惧から出た声でもあります。


山麓居館跡の山側奥に「天主」を想定した宮上茂隆案

(成美堂出版『信長の城と戦略』1997より)

かつては織田信長の山麓居館に関して、ご覧のような宮上茂隆先生の「天主説」が話題になりましたが、これに対して、文献にいっそう忠実な復元を行い、信長の居館は階段状の土地に御殿が建ち並んだもの、と考えたのが「階段状御殿説」でした。

この考え方を支持された研究者には、例えば秋田裕毅先生、村田修三先生、小島道裕先生といった方々がいらっしゃったわけですが、しかしその後、発掘調査では山麓居館跡の山側(明治大帝像前やその奥)で、それらしい礎石などの“直接的な物証”は発見されませんでした。

したがって先の宮上「天主」説はもちろんのこと、階段状御殿説も、もはや階段状に見立てられる土地はロープウェー山麓駅の周辺ぐらいしか残っていないため、両説ともに難しい局面にあります。

そんな中にあって、岐阜市では、階段状御殿説に沿って、山側の最も奥まったエリアを、“直接的な物証”の無いまま「信長公居館跡」と認定していく方向のようなのです。




こうした現地の情勢に一抹の危惧を感じながら、当ブログは、まだ未発掘の範囲に「白い四階建て楼閣(月見櫓)」を考えうるのではないか、と申し上げているわけです。

そのため今回は、『フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳/今回は中公文庫版)に基づいて、階段状御殿説よりいっそう「文言どおり」に復元するとどうなるか? という試みをご覧下さい。

注目したい「文言」は次の三つで、ここから新たな突破口が見えそうです。

1.「貴殿に予の邸を見せたい」
2.「約二十の部屋」
3.「三階は山と同じ高さ」





1.「貴殿に予の邸を見せたい」

『フロイス日本史』はフロイスが語り手ですが、信長自身は問題の建物(四階建て楼閣?)を「予の邸」と呼んだ事になっています。その前後の文面は…


宮殿は非常に高いある山の麓にあり(中略)広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます。
ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」と。


(※このあと「予の邸」の見聞録が始まる)


さて、信長がフロイスらにこう語りかけた時、彼らは一体、どこに立っていたのでしょう。

翻訳文を本当にこのまま受け取るなら、信長の言う「予の邸」は、第一に、前廊と歩廊のある「大きい広間」とは、別途の建物であったことが確認できます。


第二に、「予の邸」は、ヨーロッパやインドの建築に見劣りするかもしれないが、少なくとも、フロイスらが“日本国内では見たことのない珍しい建物”である点を、信長は言外に臭わせています。


そして第三に、「予の邸」はその時点ではまだ姿が見えていない、という推測も十分に成り立ちます。
そうでなくては、信長は丸見えの「予の邸」の前で、「見せたものかどうか躊躇する」とグダグダ前置きを並べた(!)ことになってしまいます…。


当ブログが申し上げる「文言どおり」とは、こういう観点であり、ここまで忠実に考えますと、「予の邸」は石段(巨石通路)の上の「大きい広間」からは見えない範囲にあった可能性が濃厚です。






2.「約二十の部屋」

「予の邸」の規模を知るうえで、重要な手掛かりになるのが、この文言です。
次の文面からは、この建物の一階が、少なくとも「約二十」に部屋割りされていたことが確認できます。


私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語るところによれば、それらの幾つかは、内部においてはことに、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとのことです。


ところが、こうなりますと、まさに「部屋数」が問題なのです。
何故なら、城の大広間のような御殿は、意外と部屋数が少ないからです。


聚楽第大広間/かの聚楽第でも、縁をすべて除けば部屋数は10そこそこ


前出の「前廊と歩廊のついた大きい広間」の「前廊」が縁側を意味し、「歩廊」が広縁(上図「廣縁」「ひろゑん」)を意味したことは充分に想像でき、したがってフロイスはこの点をちゃんと理解していたようです。

一方、安土城天主や福知山城天守など、信長の頃までの天守はたいへん部屋数の多かったことが、文献や絵図から判明しています。


『天守指図』二重目(天主台上の初重)/この階は文献『安土日記』でも部屋数が19


以上の点から申しまして、この建物の一階に「約二十の部屋」があった、という文言がある限り、それは御殿建築ではなく、むしろ“天守に近い楼閣建築”と考える方が自然なのです。



3.「三階は山と同じ高さ」

さて、一連の文章で最も不思議な表現と言われるのが、この部分です。


三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。


金華山の山頂は比高322mですから、「三階は山と同じ高さ」はあまりに不自然で、普通では考えられない表現であるため、大方の人々がこれを真正面から取り合おうとしません。

たとえ山側の奥に階段状御殿を想定したとしても、「三階は山と同じ高さ」は少々無理を含んだ解釈にならざるをえず、「では四階の高さは?」と問われたら、それも「山と同じ高さ」と答えざるをえません。


ところが、この「三階は山と同じ高さ」を極力、文言どおりに受け取る手立ては、無いことも無いのです。




このように岐阜公園の平地のどこかに「四階建て楼閣」を想定しますと、その三階の床は地上6〜8m程の高さはあるでしょう。

それはちょうど、図の等高線のとおり、ロープウェー山麓駅の地表高とほぼ同じ高さであり、そして山麓居館の全体の地形を「上段」「下段」に分けてみますと、「山」は「上段」と同義語のようにも見えて来ます。

ましてやそこに信長の御主殿があったのなら、それを「山」と称するのは、家臣団の誰かが発した呼び名を、そのまま引用した文言のようにも想像できます。




いささか唐突ではありますが、この点に関連して、階段状御殿説を支持された小島道裕先生は、次のようにも述べられていて、この問題を整理するうえでたいへん参考になります。


岐阜城について見れば、山麓の館は、基本的に外に開かれたハレの場で、公式な面会はまず麓で行っているが、そこにも主殿相当の「表」の広間と、文字通り「奥」に相当する茶室の使い分けがあった。茶室は、本来の室町幕府の建物にはない。新しい趣向と言えよう。

(小島道裕『信長とは何か』2006より)


つまり小島先生は、山麓の館にも「表」と「奥」が存在したとおっしゃっているわけです。

ただし「表」「奥」は現代的な感覚では、手前を「表」、その向こうを「奥」と感じてしまいます。

ところが織豊政権の城郭では、地表高の低い下段が(手前であっても)茶室や山里のある「奥」であったケースは多く、それらを踏まえて小島先生の解説を当てはめますと、次のようになるのでしょう。




(前記と同じ文章)

三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。


では最後にもう一点、文中の「一種の茶室が付いた廊下」という部分です。

実は、かの銀閣は、二階から「橋廊下」が伸びていて、地上と連絡していたことが判って来ました。

となりますと、同様の「橋廊下」がこちらは三階にあって、途中に「一種の茶室」(亭)が付設された形で、「上段」まで水平移動で連絡していた、という可能性が考えられるのではないでしょうか?


そんな驚異的な構造は、アルカラ版の『フロイス日本史』ですと、いっそう明確に読み取ることが出来て、興味津々なのです。

例えば東福寺の通天橋のごとく?



(※この建物の話題は、次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年07月16日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の四階建て楼閣は「月見櫓」ではないのか





信長の四階建て楼閣は「月見櫓」ではないのか




(※今回は記事のアップが極端に遅くなってしまい、失礼しました。)

さて、前回は、岐阜城の山麓居館跡と慈照寺の現状を、試しに合成してみた図をご覧いただきました。

そしてこの図からもう一つ読み取れることは、いま山麓居館跡の発掘調査は“或る禁断の領域”をジワジワと囲い込むように進められている、という点でしょう。
と申しますのは…




ご覧のように、これまでの発掘場所が取り囲む中心に、岐阜城観光の大動脈である「金華山ロープウェー」山麓駅とその入口周辺がポッカリと残されていることは、誰の目にも明らかです。

この場所はちょうど、巨石通路と州浜の庭園跡にはさまれたエリアでもあり、当然、何かがあって然るべき場所だと申せましょう。

それは仮に、次のような「導線」を考えてみますと、ある程度の可能性はありうるように思えて来ます。


※ムラサキ色の文字等は当ブログの勝手な推定を含む


こんなふうに勝手気ままに申し上げて調査関係者の方々には恐縮ですが、これは、拙宅のある東京・八王子の八王子城の印象に強くダブるものでして、ご承知のように八王子城は、北条氏照(うじてる)が重臣を安土城の織田信長のもとへ派遣したのち、石垣造りの大規模な改修を行ったとされる城です。

城の概略を申せば、山頂に曲輪群のある深沢山の山すそに氏照の「御主殿」があるわけですが、それは手前の「引橋」を渡って入る形であり、また「御主殿」の奥の山側には氏照の「庭」が設けてあるという、岐阜城に酷似したプランを感じさせるものです。

八王子城 御主殿に至る橋(橋の脚部は現代工法による)


もし岐阜城の山麓居館にも、どこかにこうした類の橋を考えられるのならば、その先のロープウェー山麓駅と入口周辺は、まさに信長の「御主殿」があっても不思議ではないように思われるのです。


金華山ロープウェー山麓駅(写真=ウィキペディアより)この地面の下に??


地元では長年、「信長公居館」を復元したいとの計画を掲げておられますが、この場所の可能性を確認するには、金華山ロープウェーの運営会社(名鉄グループ)が、例えて言えば、姫路城天守を何年も覆い隠すような大英断(?)を出来るのかどうか、また掘ったとしても開業当時からの工事で地中に「物」があるかどうかも余談を許さず、二重三重の障壁がありそうです。

結局、この場所はアンタッチャブルなゾーンとして、永久に候補地から除外されてしまいそうで、そうなると信長公居館の「階段状御殿説」は有力な候補地の一つを失うことにもなるのでしょう。





一方、前回から申し上げているとおり、山麓居館全体のプランを、足利義政の東山山荘との関連から考えるならば、楼閣(信長の四階建て楼閣)はずっと手前の岐阜公園内にあったことになりそうです。

そもそも義政の銀閣は、月見の楼閣として、すぐ東の月待山にのぼる月をめでるために建てられたわけですから、信長の四階建て楼閣もまた、金華山を見上げて東向きに建っていたと考えることも可能でしょう。

そのためにはある程度、山すそから離れないと、金華山の山頂(天守)は見えないという物理的条件が付きます。

いずれにしましても、真相究明のキーワードは「月見」であって、そこから信長の一大構想が見えて来るようにも思われるのです。



岡山城に現存する月見櫓


ご覧の岡山城の月見櫓は、内側から眺めると三階建てに見え、城外からは二重櫓に見えるという特異な構造で知られています。最上階は月見のために、東と南が開放的な造りになっています。

こうした月見櫓を建てた例は歴史上に数多くありましたが、特殊ケースの松本城を除くと、それらの位置取りは大きく二つのパターンに分かれます。


一つは、本丸の「南東隅」の石垣上に建つスタイルで、東と南を大きく見晴らす上では合理的で、福山城や福岡城などがそうした形です。

もう一つが、写真の岡山城のスタイルで、これは逆に「北西隅」の石垣上に建っていて、つまり安全な城内側を月見の方角にして、開放的な造りを可能にしたものです。

実は、これと同じ位置取りと思われるのが、豊臣大坂城なのです。




ご覧のとおり、この月見櫓から東の空にのぼる月を見たとしますと、それは天守と重ねて(!)眺めることが出来るのです。(岡山城も同様)

「天守と月」…これはいったい何を意味するのだろうか、と考えたとき、まず頭に浮かぶのは、秀吉の黄金の大坂城天守について、宣教師が書き残した文言です。



地の太陽は殆ど天の太陽を暗くすると言へるごとく、光輝爛々たる者なり

(『日本西教史』1931年翻訳版より)



つまり秀吉の黄金天守は「太陽」に見立てられたのであり、一方、それを「月」と共に眺められる位置に月見櫓があって、もしも、その発祥が信長の四階建て楼閣、いや足利義政の「白い銀閣」だとしたら、そこにはひょっとすると、彼等の秘められた一大構想が存在したと見て取ることも出来るのではないでしょうか?

そこで、この際、信長の四階建て楼閣は「月見櫓」の発祥だったのではないか、と申し上げておきたいと思うのです。




――この山麓居館の平地には山里庭園が広がり、その池のほとりに信長の「四階建て楼閣」が建ち、金華山のはるか山頂には「天守」が輝き、日が暮れると一転して、黒いシルエットになった天守の近くに「月」が浮かぶ…

そんな空間を想像するとき、諸芸の祖・足利義政にあこがれた信長の目論見が、ようやく見えて来た感もあるのですが、いかがお感じでしょうか?



次回は、四階建て楼閣の具体像について、可能な限りお伝えしてみたいと思います。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!白い銀閣と義政公遠見の櫓が物語るもの





白い銀閣と義政公遠見の櫓が物語るもの


報道記事【秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる】
読売オンライン
読売関西発
産経関西

本当に色々なニュースが飛び込んで来るもので、大坂城についても今年度のリポート「秀吉の大坂城・後篇」の準備が気になっていた矢先でした。

思わずオンライン各紙の文面に見入ってしまいましたが、第一報では詳細が分からないものの、発見された「石組み溝」は「地表から約4メートルの深さ」「地表から約3メートル掘り下げた」とあるのが大変、気がかりです。

もし豊臣時代の山里丸(山里曲輪)が現状より3〜4メートルも深かったとなると、従来の諸先生方の復元は、曲輪の地表高に“かなりの見直し”が迫られるのかもしれません。

――それとも、これって、全焼した石山本願寺の遺構なのでは? と問い正したくもなりますが、少なくとも中井家蔵『本丸図』を参照するかぎり、石組み溝が豊臣時代のものならば、それは秀吉の茶室うんぬんといった話ではなく、下図の「井戸」関連の溝と考えるのが、最も自然な見方だと思われます。


『本丸図』山里丸の井戸(赤印:ニュースの「略図」による石組み溝の位置)


「なんだ井戸か」と気落ちする必要はなくて、むしろこの井戸の存在を証明するものなら、それこそ豊臣大坂城の解明にとって重大な、「秀吉の茶室うんぬん」をはるかに凌駕する歴史的発見であって、それが何故かは、今年度のリポートの中でとくとご説明したいと存じます。

いずれにしましても、来月からの大阪歴史博物館での展示報告が注目されます。


さて、今回の記事で予定していたのは、(三浦正幸先生の江戸城天守の件についても機会を改めて申し上げる事として)またまた別の話題なのです。



慈照寺 銀閣(足利義政の東山山荘・観音殿)


NHK『銀閣よみがえる 〜その500年の謎〜』でも話題になったように、かの「銀閣」は、かつては二層目の壁面に「白土」が塗られていて、言わば白銀色の楼閣であったことから、その名がついた可能性が言われています。

これは城郭の分野においても、様々な推論を生む発見だったように思います。

とりわけ当サイトは「安土城天主は白亜に輝いていた」「黎明期の天守はすでに白かった」等々と申し上げているため、この新発見には注目せざるをえません。


しかしその場合、織田信長がそこから何を汲み取ったか、が問題の焦点になるため、ただ単に銀閣の色彩だけを注視してはならないように思います。

――「義政公遠見之櫓」(よしまさこう とおみのやぐら)。

義政の東山山荘は決して、失意の元将軍の“引きこもり”の館であったわけではなく、東の中尾山(標高280m)山頂の櫓から、つねに都の異変を見張らせていたのであって、そうした義政の構想は、山麓と山頂をセットで考えなければ把握できないでしょう。


北西からの眺め/左が中尾山、奥が大文字と如意ケ岳


この義政公遠見の櫓と東山山荘との位置関係を確認してみますと…




ご覧のように両者は、京都東山の山すそと峰の一つを使って、大きな西向き斜面の上下の端にそれぞれ配置されていました。

では、これと同縮尺の地図で、義政の没年から約80年後、織田信長の居城・岐阜城をご覧いただきますと…




岐阜城も山麓の居館と山頂部の城塞(天守ほか)が空間的に分離していて、その配置はやはり、大きな西向き斜面の上下の端にレイアウトされています。

つまり用途は別として、形としては、義政公遠見の櫓は岐阜城の山頂天守に、また銀閣は山麓居館の「四階建て楼閣」(かつて宮上茂隆先生はこれを「天主」と主張)に対応していた、とも読み取れるのです。



足利義政と言いますと、一般的には、応仁の乱をまねいた室町将軍というレッテルがつきまといます。
しかし新時代の覇王・信長の「東山御物」への執着ぶりは有名で、茶道、華道、香道、作庭、能楽といった「諸芸の祖」義政に対する強い憧憬(あこがれ)を持っていたことは、誰もが認めるところです。

しかも正倉院宝物の香木・蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りについても、義政が行ったことは広く知られていて、信長は義政に続く天下人ならんと意図したことも明らかでしょう。


かくして足利義政と織田信長、二人の間には、一定の価値観の共有があった、と考えるならば、「銀閣」を通じて「四階建て楼閣」の問題にアプローチすることも出来るのではないでしょうか??

(※ご承知のとおり、近年、岐阜城の山麓居館跡では発掘調査が行われ、数々の発見があったものの、四階建て楼閣の痕跡は発見されず、当ブログでは楼閣説と階段状御殿説の折衷案などを記事にしましたが、なお展望は開けておりません。そこで…)


すなわち銀閣は創建以来、東山山荘の池の西側で、東を向いて建っているわけで、そうした位置取りを、岐阜城の山麓居館に当てはめてみるとどうなるでしょうか。

――下の図は、ともに同縮尺・同方位で、仮に、両者の池の滝口の位置を重ねる形で合成してみたものです。


岐阜城の山麓居館と東山山荘(赤い表示:慈照寺の現状)


なんと、こうしてみますと銀閣は、発掘調査で注目された巨石通路や明治大帝像前といった場所ではなく、ずっと手前の、岐阜公園の園内で、来園者が売店の味噌田楽などを手にブラブラ散策している真っ只中にあることになります。

ということは、ひょっとすると四階建て楼閣も、これまで発掘調査を行ってきた領域とは、まるで見当違いの範囲に建っていたことにもなりかねないのです。


岐阜公園(池の奥に巨石通路/園内広場の遠景の嶺に山頂天守)


こうした考え方には、巨石通路と『フロイス日本史』の描写と順序が違ってしまうという反論がありえますが、それに関しては、かの「銀閣寺垣」のような巨石列のアプローチが、手前の城下側にもあったのかもしれません。

また四階建て楼閣そのものが、楼閣ではなく、四段に造成された土地に建ちならぶ御殿群である、という主張も有力ではあるものの、この主張は多分に、現状の発掘調査範囲の地形を前提にした発想によるものではないのでしょうか??


以上の論点は、ひとえに「銀閣」という、境内の内側を向いて建つ建築を想定することで、初めて見えて来る「視点」だという所が肝心です。

そしてもし信長の四階建て楼閣が東を(つまり城内側を)正面にしていたなら、この先例が、のちに豊臣秀吉が大成する「天守と山里」が併設された城、すなわち「公と私」が上下の段差をもって向き合う城郭スタイル、にまで発展したようにも思われるのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年06月15日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・ドンジョンvs天守!翻訳の隠れた意図をさぐる





続・ドンジョンvs天守! 翻訳の隠れた意図をさぐる


Donjon     vs     Tenshu
ピュイヴェール城(フランス)        丸岡城(福井県)


前回も申し上げたとおり、初めて天守をDonjonと翻訳した書物は特定できておりませんが、「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、実のところ、日本の城郭研究の側からの“呼び水”があった節があります。

それは古くは、戦前から活躍した城郭研究のパイオニアの一人、大類伸(おおるいのぶる)先生の著作にもさかのぼります。



要するに天守閣は封建時代の階級的思想の表現である。少数の武士階級が、多数の民衆を圧服して、社会に立つた時代の産物に外ならぬ。これが支那思想の産物であるとは到底考へられぬ。
併し西洋の封建城郭には厳として天守閣の存するのを認めるのである。固より其の構造も名称も本邦のものとは全く別物であるが、一城の中枢たる最も壮大な建築たる点に於ては全然同一である。

(大類伸『城郭之研究』1915年/大正4年!!)




ご覧のように日本側の主要な専門家が、欧州の城の主塔(キープ/ドンジョン)を「天守閣」と呼んでしまって来た、という歴史的な経緯があるのです。

ですから、この文章がわざわざ「構造も名称も本邦のものとは全く別物である」とはっきり断ってはいても、こうした書物を参照した人が、思わず天守(天守閣)をDonjonと翻訳しても、それを責めることはできないでしょう。


また上の文章と同様のことは、近年まで城郭研究の“大御所の一人”であった井上宗和(いのうえむねかず)先生の著書にも多々見受けられることは、城郭ファンの間ではよく知られた点です。


さらに下の世代で申しますと、「戦国期拠点城郭」という(おそらく天守の発祥にとっても)たいへん重要な指摘をされている、千田嘉博(せんだよしひろ)先生もまた、著書の中でキープやドンジョンを「天守閣」とお書きになっています。
例えば下の『別冊歴史読本O』巻頭特集の序文でも…






欧州古城紀行は再現された土と木づくりの城を出発点に、各国の中世城郭の精髄をめぐり、ついで大砲戦に備えた要塞や防御都市へと進んでいく。
天守閣のなかの螺旋階段など足元の悪いところも多く、高い塔の上から身を乗り出しての写真撮影はたいへん危険をともなう。

(『日本の城 世界の城』1999所収/千田嘉博「ヨーロッパ古城紀行」)




何故、わざわざ欧州の主塔を「天守閣」と書くような筆法が、今日まで綿々と続いて来たのでしょうか?

実は、そこには「天守とは何か」をめぐる、研究者間の、かなり根深い思想の対立が横たわっているようなのです…。

例えば下の本では、ブログ冒頭の大類伸先生について、城郭研究の歴史における位置づけが試みられていて参考になります。


井上章一『南蛮幻想』(2008年)


伝統建築の意匠論など、多数の著作がある井上章一先生の本です。

この450頁余に及ぶ著書は、前半まるごとを費やして、「天守閣」についての江戸時代から今日に至る認識の変化を、数多くの引用文を挙げて追っています。


例えば江戸時代の半ばにはもう、天守が何のために建っているのか、日本人はさっぱり解らなくなっていて、禁教の「天主教(キリスト教)起源説」がまことしやかに語られるなど、アレコレと邪推がなされた経緯が分かります。

そして時代を経るごとに、研究者の考え方に“変化のうねり”が生じて、明治時代には田中義成(たなかよしなり)が「天主は梵語」だとする「仏典起源説」をとなえ、天主=須弥山の帝釈天という考え方を打ち出しました。



大類が、はじめてその城郭論をあらわしたのは、一九一〇(明治四十三)年のことである。そして、彼ははやくもその第一論文で、いままでの定説を否定した。「本邦城櫓並天守閣の発達」と題された論文が、それである。
(中略)
天守閣の具体的なルーツには、室町時代の武家屋敷にあった主殿のことを、あげている。主殿が発展をとげて、天守閣にいたったとする理解である。
(中略)
ヨーロッパにも日本にも、いわゆるフューダリズム(封建制)の時代があった。封建諸侯、大名などといった戦士階級が、それぞれの所領で、民衆を支配する。そんな時代を、日欧がともに通過してきたことへ、大類は目をむける。と同時に、文官優位の中国がそういう時代をもたなかったことも、書きそえた。
けっきょく、天守閣は、戦士階級が民衆を圧迫する封建制の産物であるという。だから、封建時代のあった日本と欧州には、それが成立した。だが、封建諸侯の割拠しにくい中国だと、その出現は「到底考へられぬ」ことになる。これが、大類伸のいだいていた基本的な見取図である。

(井上章一『南蛮幻想』2008)




この井上先生の解釈によれば、大類先生と同様に、今なお欧州のキープやドンジョンを「天守閣」と呼ぶ先生方にも、ひょっとすると、そうした思想的な背景を推察できるのかもしれません。

“封建時代を共有した日本と欧州には、両者とも自然のうちに「天守閣」が生まれたはずだ”と。

ただし『南蛮幻想』はその後、鳥羽正雄、藤岡道夫、城戸久、内藤昌、宮上茂隆といった先生方が登場し、考え方の主流が「日本起源説」からしだいに(安土城天主の)「中国起源説」に移った経緯を紹介しています。





かくして「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、思わぬ事情が起因していた可能性がありますが、正直申しまして、「それでもナントカならないものか…」という気持ちは変わりません。

すなわち、日欧が封建主義を経験したと言っても、天守が登場したのは安土桃山時代の直前のことで、それ以前の鎌倉・室町時代に天守は無かったわけですし、また建築的に見て、天守は断じてドンジョンと同じではないからです。


さらに当ブログは、織田信長の懇望によって詠まれた七言詩「安土山ノ記」において、山頂の安土城主格部が「宮」と表現され、始皇帝の「阿房宮」(あぼうきゅう)に見立てられたことを申し上げました。


七言詩「安土山ノ記」
 六十扶桑第一山   六十ノ扶桑第一ノ山
 老松積翠白雲間   老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
 宮高大似阿房殿   宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
 城険固於函谷関   城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
 …         …



これは、とりもなおさず「中国起源説」の有効性を示していますし、だからと言って、結果的に天守が「日本固有の建造物」に落ち着いたことにも、何ら問題は無いはず、と考えています。


袁耀「擬阿房宮図軸」(部分)/後世の描画の一例

(※詳細は「信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…」参照)


ご覧のように、絵画で伝わった「阿房宮」は(実際と異なり)、大河・渭水の南岸にそそりたつ岩山の楼閣であった可能性があり、やはり信長という「個人」のイマジネーションこそが、天守(ともに水辺の山頂にある岐阜城天守や安土城天主)の起源の幾十%かを、確実に担ったように思われてならないからです。








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2010年06月01日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!ドンジョンvs天守!こんなに違う翻訳語どうし





ドンジョンvs天守!こんなに違う翻訳語どうし


「死の色」「神の色」で塗りくるめた巨塔としての、姫路城天守


織田信長が初めて高層化させた天守は、特に安土城ではその「白さ」ゆえに、人々に強い違和感を与えたのではないか、と申し上げました。

では、そうした天守を外国人・宣教師らはどう見たのでしょうか?

『フロイス日本史』では、「彼ら(日本人)がテンシュと呼ぶ一種の塔」と伝え、「塔」とするだけで、それ以上に具体的な欧州の建築等になぞらえて“翻訳”してはいない点が、この上なく重要だと思われます。

その理由を探りつつ、天守とは何だったのか、「翻訳語」の観点から迫ってみましょう。




この件はいつか書かねばならないと思っていた話題であり、先日も、NHK『トラッド・ジャパン』で「城」を取り上げた回があり、この番組は日本の魅力をどう英語で表現するかが毎回のテーマですが、番組中で再三再四、天守をDonjon (ドンジョン)と翻訳していました。

近年、世間ではさすがに、天守をDonjonと訳すケースはずいぶん減ったように感じていただけに、こういう事が身近であると、どうにも気になります。


ロシュ城(フランス)のDonjonと付設の土牢内部


欧州の城郭で領主が立て篭もる主塔がある場合、ネットで海外のサイト等を見るかぎり、それは一般の人々にはDonjonと呼ばれているようです。

(※Keepと書くのは専門書だけではないでしょうか?)


Donjon(やKeep)は、領主が人質や罪人を押し込めるため、塔の地階に土牢を造るケースが多かったことから、Dungeon(ダンジョン/土牢)という派生語を生じたと言われています。

Dungeonはたいがい、小さな扉を閉じると真っ暗闇になり、囚人は鎖につながれたまま、斜めの石敷きに横たわり、排泄物はたれ流しで、食糧が入れられる瞬間以外は、真っ暗闇でただ月日の経過を耐えるしかない、という地獄のような閉所でした。


したがって元々のDonjon自体にも、そうした暗いニュアンスがつきまとい、またDonjonにはそれなりに期待される機能や構造的な特徴がちゃんとありました。


ですから、遠目に日本の天守Tenshuに似ているとしても、実際は全くの別物であり、同じ「城の主塔」であっても、建物としての特性がまるで違うのです。

もちろん天守台の石蔵(穴倉)が「土牢」として使われた例など、聞いたこともなく、文献上でも一件も確認されていないと思います。



(※当ブログ「天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする」より)


石蔵(穴倉)の用途は、以前の記事に書きましたように、安土城天主では「硝石蔵」であったと考えられ、その後の天守でも「焔硝蔵」か「保存食庫」であって、そのために湿気を防ぐような丁寧な石敷きを施した例もあります。

逆を申しますと、殆どの天守台の穴倉は「土間」もしくは「板の間」ですから、もしそこに囚人を押し込めたなら、その者が中でどんな“破壊活動”を企てるか、心配になって仕方がないでしょう。


これほどまでに違うのに、何故、いつから、天守をDonjonと翻訳するようになったのか…

不覚にも私は、そうした書物などを具体的につかめておりませんで、そこで現状のままでも出来る作業として、Donjon vs Tenshuという比較を、とりわけ「地階」の構造と役割を中心に行ってみます。



Donjon     vs     Tenshu
ロチェスター城         姫路城      
 
 


イギリスのロチェスター城は、建物中心部の木造の床や屋根が失われていますが、その部分を見下ろすと、一番下の地階が密閉された空間だったことが分かります。

一方の姫路城天守の地階は、南東側(表側)だけが石垣に隠れた構造であって、この階全体に板敷きの床があり、そこから上階へと階段で登れるようになっていて、とても「人質」を押し込めるような機能は想定されていないのです。



Donjon     vs     Tenshu
ロンドン塔           小田原城
 


ロンドン塔のホワイトタワーも、ロチェスター城と同じ四角いサイコロ形の「スクエアキープ」に分類される主塔ですが、やはり地階が密閉された構造のため、人々は2階から入る形になっています。

これはもちろん緊急時に階段をはずして、敵の侵入を防ぎ、領主一族(王家)が立て篭もるための工夫でしょうが、一方、小田原城天守は、往時も現状の復興天守と同じく、長大な石段で天守台を登りつめ、そのまま建物に入るだけの構造でした。

つまり「天守台」とは、立て篭もるための「かさ上げ」ではないのであって、なにより中国古来の建築的な格式を示すための「台」である、という根本的な違いがあります。

しかもこの小田原城の天守台は、石蔵(穴倉)の無いタイプで、いかに使おうとも土牢Dungeonには不向きな構造なのです。



Donjon     vs     Tenshu
ヴァンセンヌ城         宇和島城     
 


そしてDonjon vs Tenshuは、そもそも領主の避難所なのか否か、という点でも決定的に違っています。

フランスのヴァンセンヌ城は、シャトーと書かれる場合があるにも関わらず、城の一部に専用の堀と回廊を廻らし、その中にDonjonがそびえています。

やはり地階は密閉された空間で、その上に橋を渡って入る1階、王の居室がある2階、見張り役が詰める3階、という厳重すぎるほどの構えです。


一方、宇和島城の天守Tenshuは、ご覧のように開放的な玄関を備え、天守自体は本丸内にポツンと孤立して建っています。

これが完成した頃、すでに城主の居所は本丸にさえ無く、城主は一生のうちに幾度か、儀式のおりにしか天守に登りませんでした。

つまり主の使用頻度を挙げれば、DonjonTenshuは比べようも無いほど差があるのです。



こうなりますと、Donjonという建物の由来も考慮して比較すべきでしょう。

例えば「キープ」KeepのウィキペディアWikipedia英語版を見ますと、KeepDonjonの関係が示されています。


A keep is a strong central tower which is used as a dungeon or a fortress. Often, the keep is the most defended area of a castle, and as such may form the main habitation area, or contain important stores such as the armoury, food, and the main water well, which would ensure survival during a siege.
An earlier word for a keep, still used for some medieval monuments, especially in France, is donjon; a derivative word is dungeon. In Germany, this type of structure commonly is referred to as Bergfried, and in Spanish as torre del homenaje.


(翻訳)
キープは土牢や要塞として使われる堅固な中央の塔である。多くの場合、キープは居住空間をはじめ、篭城戦に備えた武器庫、食糧庫、井戸から成る、城内で最も防御されたエリアである。キープは中世において、フランスではドンジョンと呼ばれ、ここからダンジョンという派生語が生じた。同様のものがドイツではベルクフリート、スペインではトーレ・デル・オメナヘと呼ばれた。


こうした書き方に沿って「天守」を独自に英文で説明するならば…



Tenshu is a unique Japanese-style castle tower, was not used as a dungeon. It was built by samurai warrior, who succeeded in the reunification of Japan in the second half of the Age of Discovery.

Ten written with kanji, means firmament and reign. So if you read literally, Tenshu is a tower, which protects firmament and reign.



(翻訳)
天守は、日本固有の様式の主塔で、土牢としては使われなかった。それは大航海時代の後半、日本の再統一に成功したサムライの居城に建てられた。

漢字の「天」は天空や治世を意味する。したがって文字どおりに読めば、「天守」とは天空や治世を守る塔なのである。



とでもなるはすで、こう説明されれば、欧米人の誰もが「それはdonjonではない! そんな大事なことを、どうして説明して来なかったのか」と問い掛けて来るでしょう。

この場合、天守が「天主」「殿守」「殿主」とも書かれたことをネグっていますので、厳密には正しい紹介文ではありませんが、天守の建造物としての特色は簡潔に言い表していると思います。


要は、天守が日本固有の建造物であることを、どうアピールすべきかが喫緊の課題であって、断じてdonjonと同じ物ではありえない、という主張がまず不可欠でしょう。

日本は今後、観光立国を目指すのだそうですが、その中でいやおうなく観光地の目玉の一つになる「天守」が、現状のような理解(翻訳)のされ方のままで、より多くの外国人に紹介されるのは実に情けない限りです。


我々がいま目指すべき方向は、卑屈な翻訳で自己規制してしまうのではなく、天守Tenshuが少なくとも日本固有の意味を持ったキープkeepとして、ドンジョンdonjonやベルクフリートBergfried、トーレ・デル・オメナヘtorre del homenajeと同列か、それ以上の扱いで、世界で語られる状況を作ることにあるはずです。

違うでしょうか?







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年05月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!白い「七重ノ塔」の異様さ





白い「七重ノ塔」の異様さ


上のバナーからご覧頂ける『2009緊急リポート』は、織田信長の安土城天主が、白亜に光り輝く外観であった可能性を論述しております。

ただし、当時、信長が「白い天主」を建てたことは、後の江戸時代の白い天守群とは、かなり意味が違っていたようにも思われ、今回は是非その辺りを補足してみたいと存じます。

先に一言だけ結論めいたことを申しますと、その頃、「白」は城郭建築にとって必ずしも普通の色ではなかったという、当時の感覚に立ち戻らなくては、信長の意図を受け止められないように感じるのです。



さて、安土城天主が、諸先生方の復元のごとく黒漆の下見板張りではなく、白漆喰の塗り込めだったという主張には、当サイトよりはるかに先行した「森俊弘案」があることは、城郭マニアの方ならすでにご承知のとおりです。


『城郭史研究』21号(2001年)に掲載された森俊弘案


この復元は文献『安土日記』に基づきながら、外観については、内藤昌先生の史料やデータの読み方(『復元 安土城』等)を批判する形で、白壁の可能性を打ち出しています。


内藤氏も天主復元に関する検討過程で、宣教師による報告書簡等から天主外観に関するデータを抽出、紹介しているが、報告文自体には「悉く外部甚だ白く」「或は白色で、日本風に黒漆を塗った窓を備へ」「黒い漆を塗った窓を配した白壁」とあり、「壁は白い」としているのである。但し宣教師の観察に対して内藤氏は何故か否定的である。

(森俊弘「再読 安土日記」/『城郭史研究』21号所収)



という形で内藤先生との解釈の違いを述べつつ、当時(天守成立の黎明期)の、記録に残る主要な天守が「意外に」白かったことを挙げています。


文献史料では、安土城建設以前の永禄八年(一五六五)、大和多聞山城に「甚だ白く光沢ある壁」を塗った「塔」があったと宣教師は記している。また絵画史料でも聚楽第天守を挙げることができる。

(前述書より)



こうした論点は、当サイトの『2009緊急リポート』も賛同していて、どうか両方の文脈を読み比べて頂けますと、誠に幸いです。



伊勢・安土桃山文化村(旧伊勢戦国時代村)の安土城模擬天主

ウッディジョーの木製模型「1/150 安土城 天守閣」


これまで諸先生方の復元は黒い下見板ばかりでしたが、ご覧のような“外野席”には、すでに幾つか「白い安土城天主」が存在していて、我々のイメージづくりの参考になりそうです。


では、なぜ天守は最初から白壁だったのか、白い旗印の「源氏」とは縁もゆかりもない信長がなぜ白い天主を望んだのか…
『2009緊急リポート』は「中世寺院の技術」に着目し、安土城が城として初めて総石垣や(金箔)瓦を導入したのと同様に、天主も「中世寺院の白壁」を導入したものと考えました。


つまり、それまで「白」という色は、城主の屋形の一部分を除けば、およそ城郭には「縁の無い色であった」点を是非、確認しておきたいのです。

ましてや城郭内で、何かをまっ白に塗り込める、などということは、それまでは考えようも無い、特殊な行為だったはずです。


……古来、日本では「白」は神を示す色であり、「あの世」を想起させる色でもありました。

江戸時代、切腹にのぞむ武士がまっ白な死装束を着たことや、その源流であるのか、中国の農村で葬儀の列が白い喪服姿であったことも、やはり何か関連しているのでしょうか。


洋の東西を問わず、白は神の色として畏敬されてきました。古代ギリシャやエジプトでは、白は神を彩る色でした。キリスト教では、神は全ての色に染まらない白い光の色として表現されています。イスラム教でも白は、唯一絶対の神の色です。白は日本の神道における禊(みそぎ)の色とされ、古代から祭祀には欠かせない特別な色です。白い動物は中国や韓国でも吉兆とされています。また、タイやスリランカなどの仏教国では白象は神の使者として神聖視されおり、白鳩は西洋では平和の象徴です。

(武川カオリ『色彩力』2007)



武士の死装束/薩摩藩家老 平田靱負(ひらたゆきえ)の切腹(治水神社蔵)





さて、建築史家として日本で一番顔の知られた藤森照信先生が、城(天守)とその白色について、面白いことを書いておられます。


 読者の皆さんにも、姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本の物ではないような。国籍不明というか来歴不詳というか、世界のどの国のどの建築にもルーツがないような、それでいてイジケたりせずに威風堂々、威はあたりを払い、白く明るく輝いたりして。
 天守閣がなんかヘンに見えるにはちゃんと視覚的理由があるはずで、それを今、思いついたのだが、
“高くそびえるくせに白く塗られている”
せいではあるまいか。屋根が層をなしてそびえるだけなら五重塔と同じで、法隆寺や薬師寺の塔と同じにしっくりくるのだが、漆喰で白く塗りくるめられているのがいけない。自分のイメージのなかで、法隆寺の五重塔をまっ白く仕上げてみたら、このことは納得できるだろう。白く塗っていいのは低い建物だけで、天に向って高くそびえてもらっては困る。

(藤森照信『建築史的モンダイ』2008)



この指摘はたいへん貴重であるように思われます。この文章は、信長が安土城天主の外壁の「色彩」に込めた日本史上初の試みを、みごとに言い当てているのではないでしょうか。


当サイトは、安土桃山時代の直前に突如現れた「天守」は、日本の伝統建築とは断絶した性格を併せ持ち、その原初的な信長や豊臣秀吉の天守は、殆どが「白い」天守だった可能性を申し上げて来ました。


そうした白い巨塔「天守」を目撃した者にとって、第一印象は、藤森先生が言われるとおり、「なんかヘンな存在」「国籍不明というか来歴不詳」の建造物が出現したように感じられたに違いありません。


おそらくは、それこそが「白」を選んだ信長の狙いであって、白い七重塔が琵琶湖畔の山頂にぬおっと建ち上がる、という異様さ・おぞましさ・戦慄感(現代の新興宗教のモニュメントのような存在感)を、当時の人々の心に、強く刻み込んだように思われてならないのです。


「死の色」「神の色」で塗りくるめた巨塔としての、姫路城天守






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年05月03日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「腹案アリ」江戸城の現存天守台が危ない!





「腹案アリ」江戸城の現存天守台が危ない!


「江戸城の貴重な現存天守台を守るべき」と申し上げましたが、それはその通りとしても、やはり東京は都市の目玉になる建造物が無い…という感想をお持ちの方は、日本人の間に多いようです。

外国人はけっこう、欧米人が浅草や築地、アジア人がお台場や秋葉原で「日本的なもの」を充分に味わい、満足しているようですから、妙な現象です。

そこで今回は、是が非でも都心(皇居周辺)に東京の目玉が欲しい!という方々のために、特別に当サイトからの「腹案」を提示いたしましょう。



腹案その1「明治宮殿の再建」(写真は明治宮殿千草の間/ウィキペディアより)




現在の皇居宮殿(新宮殿)はすでに築40年を越えていて、近い将来、建て替えを迫られることは必定です。

そしてその時にこそ、「東京とは何ぞや」という問いにダイレクトに答えられる、和洋折衷の木造の大宮殿「明治宮殿」を再建してはどうでしょうか?


そもそも「なぜ皇居が江戸城にあるのか」という根本命題もあいまいなまま、東京の人々は毎日を暮らしています。

そんな中で、もし東京に「明治宮殿」が復活したなら、明治天皇とは、近代日本の「武家の棟梁」を兼ねた人物だったことを、改めて認識でき、日本史の大きな流れを感じられる場にもなるのではないでしょうか?


でも、この案は「城」サイトとしては、やや不本意かもしれませんので…


腹案その2「江戸に開府した徳川家康の初代天守の発掘」




ご覧の図は『極秘諸国城図』(松江城管理事務所蔵)に描かれた江戸城で、本丸に黒々と四角く見えるのが家康時代の初代天守、いわゆる「慶長度天守」です。


ご承知のとおり、江戸城は慶長12年(1607年)頃に完成した慶長度天守から、二代目の元和度天守、三代目の寛永度天守という、三つの天守が江戸初期に矢継ぎ早に建て替えられました。

それらは位置を変えて建造されたため、家康の天守の痕跡は、おそらく今も皇居東御苑の芝生の下に眠っているのです。


『極秘諸国城図』の本丸周辺を地図にダブらせると…

江戸城と慶長度天守の基本構想が浮かび上がる

いまは全てがこの皇居東御苑の芝生の下に…

では具体的に、どの辺りに慶長度天守は眠っているのか?


このように慶長度天守の位置は、皇居東御苑を周回する苑路と重なっていて、この苑路や芝生をはいで発掘調査を行えば、きっと地中から巨大な天守台の痕跡が姿を現すことでしょう。


前述の明治宮殿と同じく、この初代の天守跡こそ、江戸が都市として発展を始めた時代を物語る「遺物」そのものであり、これを現代の東京人が目の当たりにできる意義は大きいと申せます。

ましてや現存天守台に復元天守を(時代考証をゴマかして)載せる!などの愚挙に比べれば、どれほど価値が高いか、比べることさえ恥ずかしくなります。


そんな貴重な「江戸城創建時の遺物」が姿を現したなら、巨大なガラス屋根で覆い、いつでも見学できる施設(「家康の天守館」?「江戸タイムマシン」??)を整備すれば良いのではないでしょうか?


(※ただし、ご推察のとおり皇居東御苑は宮内庁の所管であり、その頑迷きわまる「障壁」はあまりに強固で、復元天守とて同じことですが、実現にどれほどの時間と手間を要するかは見当もつきません…)



では、ちなみに慶長度天守とは、どんな天守だったかと申しますと、文献では『愚子見記』『当代記』等が参考になります。



一、江戸御殿守 七尺間 十八間 十六間 物見 七間五尺 五間五尺 高石ヨリ棟迄廿二間半 是権現様御好也

一、尾張御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 八間 六間 下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故物見大キ也

(『愚子見記』より)




『愚子見記』は家康の江戸城天守について、建屋のサイズと高さ(約44mで三代目より50cmほど低いだけ)、そして尾張御殿守(名古屋城天守)は初重と二重目が同じサイズで建ち上がるのに対し、江戸城天守は初重から逓減(ていげん)が始まっていたことを暗に伝えています。


また、よく引用される「是権現様御好也」(これ、ごんげんさまのおこのみなり)は、この文面で見るかぎり、「是」(これ)の直前にある「高石ヨリ棟迄廿二間半」が家康の「御好也」というふうにしか読み取れず、世間で言われる「鉛瓦で雪山のように見えた」云々を指しているとは、到底、読めない点が要注意です。

つまり、家康は「とにかく高く造れ」と指示したに過ぎなかった可能性が、この文面からは濃厚に漂ってくるのです。



去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、殿守台は二十間四方也

(『当代記』より)




『当代記』も天守台が何らかの方針変更を受けて、より高く積み直された経過を伝えていて、広さについては「二十間四方」と明記しています。


こうした慶長度天守については、さまざまな研究者による復元案があり、その状況は、例えば安土城天主よりも「触れ幅が大きい」と言えるのかもしれません。

そこで先生方への非礼も省みず、それらの案を“思い切った言い方”で総括してみますと、いずれも一長一短でありながら、どれもが示唆に富んだ「注目点」を含んでいるようです。

どういうことかと申しますと…


★連立式天守による天守構え(天守曲輪)を想定した内藤昌案

★『愚子見記』どおりに初重からの逓減(ていげん)を想定した宮上茂隆案

★切石と自然石による二段式天守台を想定した大竹正芳案

★二代目や三代目ほどの巨大天守ではないと想定した金澤雄記案



こうして各個バラバラに見える復元案は、例えば中井家所蔵の「江戸御天守指図」を採用するか否かという決定的な差異も含んだままですが、そんな中でも、それぞれの「注目点」と、『愚子見記』『当代記』の内容をうまく統合することは、十分に可能だと思われるのです。

すなわち…




このような仮想プランを出発点に、どこまでディティールを具体化できるかと申しますと、実は、この復元にピッタリの「或る史料」が現存しています。

その復元プロセスと驚きの大胆仮説は、いずれ当サイトの201X年リポートでお伝えしたいと考えていて、当ブログの「腹案」は決してガセネタではございません。



(※次回は再び、安土城天主に話題を戻してまいります。)


(※2013年2月追記 / 上記の図は、2012年度リポートにおいて、大幅に修正したものを掲載しております。ご参照下さい。)







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2010年04月19日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!江戸城の現存天守台が危ない!!





江戸城の現存天守台が危ない!!




昨年あたりから、出版業界で「城」関連は比較的売れる、というデータが一人歩きしたせいなのか、「城」を扱う単行本・雑誌・ムック類の発行が大盛況です。

そのあおりで、なかには城郭ファンの頭に血がのぼるような、噴飯モノの記事も見受けられ、当ブログも対応に追われています。

そして、またまた現れました!―――

“隠れコンクリート教”の使徒による謀(はかりごと)を、いつの間にか既成事実化しかねない記事が…





小学館の意欲的な情報誌『SAPIO』の4月21日号に、ご覧のような江戸城天守の再建プロジェクトを伝える記事があるのですが、つくづく、門外漢のスタッフによるマスコミ報道ほど、危なっかしいものはない(!…)と自戒を込めつつ、紹介せざるをえません。


と申しますのは、おそらく記事の執筆者をはじめ、ここに寄稿している日本財団の笹川陽平会長や「江戸城再建を目指す会」の会員の方々も、ほとんど自覚しておられないのでしょうが、この記事が示すプロジェクトは、結果的に、いま江戸城に現存している天守台を「破壊」もしくは「大規模改変」してしまう(!)可能性を含んでいるからです。


そのことは記事の中で「スーパーゼネコン関係者」なる人物が「石垣の石材なども含め資材の確保だけで予算をオーバー」云々と語っている点からも明白でしょう。

考えてみれば、江戸時代初期の大火で焼失した天守を、厳密に復元しようとすればするほど、現存天守台は「解体」「撤去」して、復元考証どおりの新しい石材(伊豆石)や木材を使って建設せざるをえないのです。


将軍の実弟・保科正之の「歴史的な献策」を受けて築かれた現存天守台


御影石の「切石」積みは加賀藩前田家の手伝普請によるもの


罹災した天守台に使われていた伊豆石/江戸城内で転用された様子



ご覧のような写真は城郭ファンなら常識のうちでしょうが、いまある天守台は、明暦の大火で寛永度の江戸城天守が焼失したあと、先代将軍の実弟・保科正之(ほしなまさゆき)が次のように献策したことから、天守台だけの修築に終わったとされています。


「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)


そしてこの時、修築された現存天守台は、高さが罹災前の7間から5間半に抑えられ、石材は伊豆石から御影石に変わり、より精緻な「切石」で積まれました。

保科正之のこの歴史的な献策によって、天守の進化は断ち切られたかのようにも言われますが、正之の言はただそれだけの意味だったのか、かなり疑問を感じています。


何故なら、ご覧のように各地の城にも、天守台を築きながら、結局、その上に天守を建てなかった例がいくつもあって…

赤穂城天守台        篠山城天守台


これらは「城持ち大名が徳川幕府に遠慮したため」などと説明されますが、そうであるならば、「遠慮」された側の徳川将軍の江戸城が、なぜ、巨大天守の尾張徳川家や紀州徳川家にも劣るような形を選んで、天守を再建しなかったのか、どうにも合点が行かないからです。


この不合理をうまく説明するためには、発想を転換して、保科正之は、泰平の世にふさわしく、天守を建てない(領民に見せない)治世のあり方を、諸大名の前で範を示すため、江戸城で果断に「天守台だけ築く」スタイルを定番化させようとした、と解釈しても良いのではないでしょうか?

つまり天守台だけの築造は、「天守の進化における最終形態を示していた」という、積極果敢な評価を下しても良いようにさえ思われるのです。





そうした意味において、たいへん示唆に富んだ文章があるのでご紹介しましょう。

ご覧の本は、江戸の都市建設を進めた人々の願望を検証した著作ですが、その前書きの中で…



江戸市中において、将軍関係の施設は大きな割合を占めていたのだが、その存在感は意外にも希薄なこともしばしばだった。将軍家には図像学的抑制とでも呼ばれるべきものが顕著に見られた。そしてそのような状態であることが好まれたのである。

このよい例は、江戸城の天守閣が焼け落ちた一六五七年にさかのぼる。その後天守閣は再建されなかったのである。幕府が困窮していたとか、太平の世にあって必要としなかったともいわれるが、筆者が思うに、これは図像学上不必要だったからではなかろうか。戦国時代には高くそびえる天守閣が必要不可欠だった。しかし、これは城主が人民を見下ろすことを可能にすると同時に、人民が城主を下から見上げることも可能にしてしまった。

しかし、古来東アジア全域で統治者は見られるということを嫌ったのである。これはヨーロッパとはまったく逆だった。ヨーロッパでは、古代ローマから、統治者はあらゆる物に自分の肖像を刻印することに心を砕き、自らの肖像画や彫像を要所要所に配置した。これに対して、徳川幕府は、自らの姿を隠したのである。


(タイモン・スクリーチ『江戸の大普請』2007)






例えば昨年の日本の政権交代後、いわゆる「姿を見せない旧来型権力」として、検察や記者クラブ制度などが批判のやり玉にあげられています。

それと似たような権力のスタイルが、江戸時代の天守の建て方においても適用されたのではないか?

そして天守は、織田信長や豊臣秀吉が得意としたヨーロッパ的な「見せる」天守から、ついに「姿を見せない」究極の方法論に到達していたのではないか? という考え方が成り立つのかもしれません。


そうだとしますと、江戸城の現存天守台こそ、天守の進化と終着点を体現した「生き証人」であって、他に替えがたい重大な価値を秘めていることが解ります。


そうした貴重な文化遺産を、ただの石積みじゃないか、と安易に考え、「破壊」や「改変」に手を貸すような者は、もはや「城」の奥義を語る資格は無いはず、とここで申し上げておきたいのです。



さて、冒頭の『SAPIO』の記事によれば、「江戸城再建を目指す会」が広島大学大学院の三浦正幸先生に作成を依頼した復元図が、6月17日に江戸東京博物館で発表される予定だそうで、どのような復元を想定しているのか、注目されます。


天守の進化の「最終形態」がここに現存しています――





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2010年04月05日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?





内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?


前回、安土城天主の歴代復元案の中から、特に宮上茂隆案と佐藤大規案を対比させて、天主台遺構と復元建築とのマッチングの具合にスポットを当てました。

そして今回は、別の復元案による対戦を“立体的に”観戦してみましょう。



『天守指図』新解釈による天主台の形状(南北/赤ライン)



まずご覧の図は、手前味噌ながら、かなり以前の記事(歴史の証言者「池上右平」の功罪)で作成した、当サイトの『天守指図』新解釈による天主台です。

このように、滋賀県による実測図(断面図)と『天守指図』二重目を素直(すなお)に重ねるだけでも、天主台の高さや形状(赤ライン)を割り出すことが出来ます。

その結果、天主台の南側と北側は、高さが1間ほど違うことが分かり、これがすなわち『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」ではないのか? と申し上げたわけです。


上図は天主台を「南北に」切って見た形状ですが、ちなみに「東西に」切った場合は下図のようになります。

(※これらの断面はいずれも、天主台上の“一箇所だけ礎石の無い”中心地点を通る線で切った断面)


『天守指図』新解釈による天主台の形状(東西/赤ライン)


この断面は、南北二段のうち南側の低い場所に当たるため、天主台は赤ラインのように想定でき、石垣遺構と天主台平面は特に問題もなく、きれいに整合します。

このように“立体的に”見ることで、歴代復元案の中でも、似たように感じられる二案が、実は相当に違うものであることが鮮明になるのです。



内藤昌案 vs 佐藤大規案 (左右はともに同じ方角からの比較)



この両者は、ともに八角形(七角形)の天主台いっぱいに天主が建てられた、とする復元案ですが、その平面形の複雑さからか、両者がどう違うのか、詳しくは比較検討されたことのない二案です。そこでまずは…


内藤昌案による天主台の形状(南北/濃紺ライン)


内藤案はご覧のように、先生ご自身が“発掘”した『天守指図』がそのまま(「安土ノ殿主ハ二重石垣」を考慮せずに)段差なく天主台に載る形になっています。

そして指図と石垣遺構をマッチングさせるため、天主台南側の石垣だけに曲面(いわゆる扇の勾配/青矢印の部分)を導入せざるをえなくなり、これが前回登場の宮上茂隆先生の批判を招くことになった箇所です。



佐藤大規案による天主台の形状(南北/赤紫ライン)


一方、同様にして佐藤案を南北の断面図に重ねますと、これは殆ど問題なく整合することが分かり、試しに内藤案と佐藤案をダブらせてご覧いただきますと…




このとおり内藤案の天主台は、歴代復元案の中でもひときわ高いもので、石蔵(穴倉)の階高は佐藤案の倍ほどもあります。

安土城天主の高さは『信長記』『信長公記』類に「16間半」と伝わるものの、内藤先生は著書で「ふつう天守高さは、石垣上端より最上層大棟衾瓦上端まで」(『復元 安土城』1994)と発言し、それは一重目(石蔵)からではなく、二重目から「16間半」あったのだという、全体的に背の高い復元を行いました。




しかも、長さ8間と伝わる「本柱」(通し柱)が貫いたのは、『天守指図』そのままに下から三重目までとしたため、一重目(石蔵)の高さも相応の規模にならざるをえなかったのです。

しかし今回、是非とも注目いただきたいポイントは、佐藤案も総高では意外に背が高い、という点であり、内藤案と張り合う(!)ほどの総高に達しています。これはいったい何故なのでしょうか?


実のところ、佐藤案も、説明文には「高さが一六間半」とあるものの、他の多くの復元案と同じ方法で、石蔵内部の地面から最上階の屋根の棟までを測りますと、ゆうに19間近く(約18.7間)もあることが効いているのです。


これは、天守の高さについて、例えば広島城天守の伝来(「十七間六尺」)や岡山城天守の実測値(「六十尺九寸」)が、いずれも“最上階の桁の上端まで”を測った値であることを踏まえた手法です。

この手法ならば、計測に含まれない最上階の屋根部分の高さだけ、実際の天主は高くなるわけで、佐藤案の場合、これで2間以上高く復元できたことになります。


すなわち内藤案と佐藤案という、底辺のだだっ広い「多角形」天主が、どちらも総高を高く復元することに苦心した“舞台裏”が透けて見えて来るわけです。





さて、内藤案vs佐藤案の勝負の行方は、天主台を「東西に」切った断面図を見た瞬間に、突如として幕切れを迎えます。


内藤昌案による天主台の形状(東西/濃紺ライン)


内藤案はやはり石蔵の高さを保つため、西側の石垣に扇の勾配が含まれ、また東側は入口のための複雑な構造が設けられています。

一方、佐藤案は、石蔵の深さを、発表されている図面類のとおりとしますと…


佐藤大規案による天主台の形状(東西/赤紫ライン)


ご覧のように、天主の東側と西側に、天主台石垣との間に幅半間〜1間ほどの“空き地”が出来てしまい、しかも東側は(内側の石垣遺構の角度がかなりユルイため)天主壁面が石垣の内側にズリ落ちてしまいかねない、ぎりぎりの位置になるのです。

各誌に掲載された佐藤案の図面類には、何故か、こうした“空き地”は示されておらず、また佐藤案を紹介したイラストやCGにも見られず、もちろんデアゴスティーニの模型にもこうしたディティールは存在しません。



思えば佐藤案は、『信長記』『信長公記』類にある「東西17間 南北20間」という規模を実現しようと、南北に細長い形状を志向して復元されたようですが、だからと言って、現存する石垣遺構との整合性を無視するわけには参りません。

またまた佐藤案には、「説明」をお願いしたい状況が出現してしまったのです。


内藤昌案 vs 佐藤大規案 (ともに南東の方角から)






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城の再発見!宮上案vs佐藤案は勝負がつかない





宮上案vs佐藤案は勝負がつかない




前回ご紹介した『歴史スペシャル』2010年2月号は、安土城天主の歴代復元案の“公平性”云々という観点だけでなく、各論の“相違点”を見ても、実に面白いポイントが見つかります。

そこで今回は、特に<宮上茂隆案vs佐藤大規案>の比較において、天主台石垣の上に天主がいかに載っていたかをめぐる攻防を“観戦”してみましょう。


宮上茂隆案 vs 佐藤大規案


お馴染みの表紙イラストでご覧のとおり、左の宮上案は天主台石垣が二段式になっていて、これは『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」という記述を具体化させたものですが、それに対して…


(宮上案は)低い堤防状の穴蔵石垣を天主台の内側に引き込めて設け、整然とした四角形平面の天主に復元しているが、そうであれば、低い穴蔵石垣に合わせて礎石列を並べられたはずで、現存する遺構との整合性がない。

(三浦正幸/『歴史スペシャル』2010年2月号より)


このように、佐藤案を紹介する三浦正幸先生の文章には、宮上案への批判が含まれています。三浦先生の論点は、文章が短いために分かりにくいので、図示して解説しますと…


宮上茂隆案の天主台と天主


この案を批判する三浦先生の論点は、天主台全体の八角形(七角形とも)に沿った形で、石蔵(穴蔵)の内側にも石垣が築かれているのに、なぜこの宮上案は、二段目の外側の石垣がいきなり四角形になるのか… それならば、内側の石垣も四角形になったうえで、その「低い穴蔵石垣に合わせて礎石列」が縦横に並ぶはずではないか、という点にあるのでしょう。


確かに宮上案の二段目の石垣は、イラストのように外観上は自然に見えますが、天主を取り払った状態で見ますと複雑きわまりないものであり、三浦先生の指摘も大いにうなずけます。

しかし、宮上先生は、生前に『国華』誌上でこのようにも発言しているのです。


不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。

(宮上茂隆『国華』第998号「安土城天主の復原とその史料に就いて(上)」より)


つまり宮上先生は“二段目が無かった”ケースも目配せしていて、つまり宮上案の重心は「二段式」天主台にあったわけではなく、天主木造部と天主台石垣の間の「広い空地」にあったのだと言えます。

そうなりますと、佐藤案も『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」をまったく考慮していないわけですから、この勝負、本当は両者痛み分け、というか、場外乱闘の末に両者リングアウト、という判定が妥当のようにも感じられるのです。……



いずれにしましても、三浦先生の文章には次のような一文もあって、これは当代一の権威者とされる三浦先生にしては、実に恐れ多いことながら、「質疑応答」の類が必要であるようにも思われます。


(佐藤案は)『信長公記』に記載されている東西17間、南北20間の規模や、各階のすべての部屋割りはもとより、一階の柱数204本をはじめ各階の柱数まで完全に一致させた、初めての復元案である。

(三浦正幸/『歴史スペシャル』2010年2月号より)


現存する天主台の遺構が、『信長記』『信長公記』類が伝える「東西17間・南北20間」になかなか当てはまらないことは、城郭マニアの間では常識の範ちゅうにあります。

ですから、この三浦先生の文章には思わず“本当か!?”と身を乗りだしてしまうわけですが、ならば今回は、発表されている佐藤案の二重目(天主台いっぱいに建つ「一階」)について、キッチリと吟味してみることにしましょう。


佐藤大規案/天主台いっぱいに建てられた天主


まずは佐藤案の二重目を、滋賀県の調査による実測図にダブらせてみますと、なんとご覧のとおり、ほぼ当てはまってしまいます…

つまり「東西17間・南北20間では無かった」はずの遺構に、ほぼ当てはまってしまうわけですから、この時点で早くも一抹の不安がよぎります。


宮上案と佐藤案/天主台の南北の規模はほとんど変わらない


―― 右側の佐藤案は、本当に「東西17間・南北20間」を実現しているのか??

そんな初歩的な疑問を感じつつ、試しに佐藤案の図面類を“定規で測って”みますと、もう何か、こちらのリアクションに困るような事態に至るのです。




皆さんも是非お試しいただきたいのですが、この作業を一番やり易いのは『よみがえる 真説 安土城』(2006年)でして、14ページにある大きめの図に定規を当ててみて下さい。

その二重目の図(この本では「一階復元平面図」と表記)は、ちょうど1間(七尺間)が1cmに当たるので定規で測りやすく、佐藤案の東西・南北の寸法がすぐに分かります。そうして測った定規の値は…

 東西15.6cm/南北17.6cm(ともに側柱の芯心間)

ですからこの数値のまま、復元の寸法も…

 東西15.6間/南北17.6間(ともに七尺間)

となり、佐藤案は少なくとも七尺間では「東西17間・南北20間」に程遠いことが分かります。



それでも京間(6尺5寸間)や田舎間(6尺間)で測った場合、そうなるのかもしれない、と気を取り直して、計算の便宜上すべて「尺」に直すため7を掛けますと…

 東西109.2尺/南北123.2尺

で、この値を6.5(京間)や6(田舎間)で割れば答えが出るわけですが、どうも様子が変なのです……


 東西 109.2÷6.5(京間)=16.8間
 南北 123.2÷6.5(京間)≒18.95間



このように京間で測った場合、東西はみごと16.8間で文献の「17間」の近似値になるものの、南北は約19間であり、これを「約20間」と言い切るのは厳しいでしょう。そこで田舎間も試してみますと…


 東西 109.2÷6(田舎間)=18.2間
 南北 123.2÷6(田舎間)≒20.53間



今度は南北がどうにか「20間」の近似値になるものの、東西は1間以上違ってしまいます。これはいったい、どうしたこと…… と言うより、こんなことは予想された通りの事態でしょう。



そこで、まさか?!と思いつつ、松江城天守などで使われている6尺3寸間(松江城での実測は6.37尺)で計算してみます。すると…


 東西 109.2÷6.3≒17.33間
 南北 123.2÷6.3≒19.55間



なんと、佐藤案の数値は、“四捨五入”すれば東西17間・南北20間に納まる値だったのです。


このように安土桃山時代に四捨五入が使われたのか、私は不覚にも存じません。

また、天主台礎石の7尺間に対して、あえて6尺3寸間で計測することを、どう理屈づけられるのか…。

それとも、もっと別のロジック(論理/解釈)が佐藤案にはあるのか…


佐藤案がそのあたりの「ロジック」を誌上で説明してくれないかぎり、この試合は、とても観客(読者)が判定を下せない“無効試合”になりそうなのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年03月08日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ろくろ首のプロポーションは何故なのか





ろくろ首のプロポーションは何故なのか


「やりだすとドウニモ止まらない」というのは、人間の悪い性癖の一つで、こんな感情は押さえ込んだ方が、世の中を穏便に渡って行くうえで大切な「肝要」と思われるのですが、今回もまたヤッてしまうことに致します…。

と申しますのも、今度は「安土城天主」に関わる事柄で、どうも“気になって仕方の無い新刊雑誌”がもう一つ、出現したからです。



松山城天守の破風の鉄砲狭間


…ですが、その前に、前回の記事で「天守は基本的に平時のための建築ではないか」というお話をしたものの、それにしては、天守にも写真のような鉄砲狭間があるのは可笑しいではないか? というご意見があるのかもしれません。


この松山城天守の場合、破風の内側に二人分の座れるスペースがあって、その前に鉄砲狭間が二つあり、そこから敵兵を狙撃できる形になっています。こうした備えを見る限り、天守も、それなりの戦闘能力があったように感じられます。

特筆すべき例としては、織田信長の重臣・柴田勝家の北ノ庄城天守は、それ自体にも相当な防御力(鉄砲の火力)を備えていたという指摘が、過去に某誌上であったように記憶しております。

また松江城天守では、敵兵が天守入口を突破した後も、なお天守内部の奥から銃撃できる仕掛けがあったりもします。


――それにしても、上記の例は、いずれも“最後の抵抗を試みる”ための工夫であって、歴史上、敵勢が本丸になだれ込み、天守だけが孤立したような状況で、そこから大逆転で勝利できたという、奇蹟のような事例は存在しません。

やはり天守だけで殺到する敵勢をはね返すのは不可能であって、上記の様々な工夫は、せいぜい城主一族が自刃するまでの「時間稼ぎ」が目的であったとしか考えられないのです。





さて、冒頭で申し上げた、気になって仕方の無い新刊雑誌とは、ご覧の『歴史スペシャル』2010年2月号(世界文化社)です。

創刊号だけに、かなり力のこもった印象でまとめられ、そうした中の特集の一つとして、安土城天主の歴代の復元案がフカンされています。


記事の執筆者は、内藤昌案については女流時代劇研究家のペリー荻野さん、宮上茂隆案については竹林舎建築研究所を継いだ木岡敬雄さん、西ヶ谷恭弘案は先生ご自身が筆を取られ、佐藤大規案は広島大学大学院の三浦正幸先生が筆を取られる、という豪華なラインナップです。


内藤案・宮上案は先生ご本人の執筆がかなわぬのは致し方無いとしても、全体の印象として、佐藤案が時系列的に一番後になるため、これだけが他案からの批判・検証を受けずに済んでいる、というイメージが否めません。

「後から走る者の優位性」と言えばそれまでですが、このままでは、どこかフェアでないようにも感じられ、例えばこの後に、執筆者たちの対談(トークバトル)のコーナーでもあれば、緊張感が走り、さぞや盛り上がった事だろうと感じました。



まさに安土城天主をめぐる現下の状況は、各々がリングコーナーに引き篭もって、シャドーボクシングに明け暮れているかのようです。

もっとマスコミ側の仕掛けが必要か?と自問自答する前に、当ブログで出来る事を、まずヤッてしまおう、と思います。

そこで――「どこかフェアでない」部分の解消のため、手前勝手に(内藤先生や宮上先生に成り代わって)佐藤案に対する印象を挙げてみることにします。


とは申しても、色々と挙げても恐縮ですので、ここは一点だけ、各地で天守を見慣れた方ならば誰もが感じている…

<あの「ろくろ首」のようなプロポーションは何故なのか?>

という一点を指摘してみたいと思います。



佐藤大規案の天主東西面のシルエット


デアゴスティーニの模型が完成しますと如実に分かるとおり、この天主は、東西から眺めた時、望楼部が急に細長く立ち上がっています。

何故このようなプロポーションになったのか? …まずは復元の説明文で触れられている「岡山城天守」を検討してみる必要がありそうです。


岡山城天守と佐藤案のシルエット


ご覧のとおり、これは何か、佐藤案の復元の秘密をのぞいてしまっているような感もありますが、(両者の縮尺を無視して)天守台とその上の初重・二重目をピッタリと重ねてみますと、岡山城天守の二重目の大屋根(入母屋屋根)は、佐藤案の大屋根とほぼ同じ位置に来ます。


しかしその上はまるで別物のようで、岡山城天守はさらに四重目の入母屋屋根が載ったうえに、五重目(最上階)があるのに対し、佐藤案はそうした二段目の入母屋屋根の替わりに「八角円堂」の屋根と構造体があるため、急激に細くならざるをえません。

また余談ながら、その「八角円堂」の屋根が、岡山城天守の唐破風のある葺き降し屋根とほぼ同じ位置にあるのは、何かのご愛嬌なのでしょうか?



松江城天守と佐藤案のシルエット


次いで、三浦先生が別の著作で注目されている「松江城天守」と比べても、同じような現象が見て取れます。

松江城天守は二重目の大屋根の上に、それと直交する大ぶりな「張り出し」があって、佐藤案も同じ位置に、直交する三層目の屋根(張り出し)を設けています。

しかしその上はやはり別物で、松江城天守が規則的な逓減(ていげん)を保って四重目・五重目を重ねているのに対し、佐藤案はいきなり「八角円堂」になり、その上にほぼ同じ規模の最上階を載せています。



こうして見ますと、佐藤案は、せっかく岡山城天守や松江城天守という参考例を挙げていたのですから、そのデザイン上の奥義を“もう少し素直(すなお)に”受け入れても良かったのではないでしょうか…。

仮に「八角円堂」を採用するとしても、例えばその南北に“二段目の入母屋屋根”を付設する等の工夫をしていたら、あの「ろくろ首」のようなプロポーションは避けられたように思われるのです。







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2010年02月26日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!どの戦で天守が「司令塔」だったのか??





どの戦で天守が「司令塔」だったのか??




ご覧の新刊雑誌『週間 江戸』第2号(2月9日発行)で、天守の役割について、チョットこれはどうか… と思う説明文が、さりげなく載っていました。

一見、説得力のある誤情報が伝わるのは、マスコミ批判の厳しい最中、どうも気になるため、今回だけ(安土城シリーズの)番外記事とさせて下さい。


天守の役割
司令塔からシンボルへ
当初は城が攻められた場合に、高い位置から戦況を把握し、兵の移動などを命令する軍事的な指令所であった。やがて泰平の世になると公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合いが大きくなっていった。



それはこんな囲み記事だったのですが、もしこの説明のとおり、「天守の役割」が当初は「軍事的な指令所」であったのなら、初期の天守は、平安末期から続いた侍たちの篭城戦で、何か新しい効果を発揮するために考案された建築、ということになります。

そして「高い位置から戦況を把握する」のは一見、良さそうに感じられますが、鉄砲が戦の主役となった時代に、「高い位置から」見ることにどれほどの効果があったのでしょう。

むしろ様々な文献では、天守が“砲撃のうってつけの標的”になった話が、わんさかと出て来ます。


もし仮に、天守が篭城戦にめざましい効果をもたらしたのなら、天守は国境の砦の類も含めて、一つの国に何十基と建てられても良かったはずです。

ところが現実は、一つの国(大名領)に天守は一つ、という形が常に原則であったわけで、その点だけを取っても、天守がいかなる建造物であったのかを厳然と規定しています。


――ではそもそも、どの戦で、天守は「司令塔」だったのか?

その検証は、幸いにも天守があった時代の篭城戦は比較的、事例が少なく、主な戦の経緯は文献に記されているため、天守の状況もある程度、推測が可能です。



事例1:関ヶ原合戦の前哨戦での大津城

史上、篭城戦を耐え抜いた天守として有名な、大津城の天守。

その「高い位置」を活かしていかに活躍したか、と思えば、実際のところ、大津城は琵琶湖のほとりに秀吉の別業(遊興地)として、また港をおさえる城として築かれたため、周辺の地形で一番低い所にあり、敵の集中砲火をあびました。

その惨状を『慶長記』は、「大津の城三之丸のへいは鉄砲にてうちつくし、こまい計なり。二之丸に松丸殿御家あり。火矢の用心にやねをまくり 鉄砲のおとに女房衆おとろき日夜かなしみ候事おひたゝし」と伝えています。

時の城主・京極高次の陣は本丸のどこにあったか定かでありませんが、天守の二重目に命中した砲弾によって、中にいた松丸殿(まつのまるどの/秀吉の側室で高次の姉)の侍女二人が死に、松丸殿自身は気絶したとも云います。

そうして三之丸や二之丸が陥落し、本丸も陥落寸前という時、高次が降伏を受け入れたことで、天守は焼失をまぬがれたに過ぎないのです。



大坂城天守の窓の女性たち



事例2:大坂夏の陣での豊臣大坂城

城主の豊臣秀頼は、夏の陣の開戦後も本丸の御座間を居所としつつ、戦功のあった家臣に千畳敷で褒賞を与えるなど、必要に応じて城内を移動しています。

そして落城の日、秀頼は最期の出馬のため桜御門まで出張ったものの、味方の総崩れで適わぬとなると、「さて御生害は何方にて遊ばさるべき候や」と家臣に問われ、「殿守を用意仕り候へ」と答えたことが『浅井一政自記』にあります。

一政は「火縄に火を付け持ち参仕り 殿守へ御供致し参候」とも書いていて、御座間に戻っていた秀頼とともに、天守に登ったことが分かります。



会津若松城の鉄門(くろがねもん)と天守(ともに復興)



事例3:幕末の会津若松城

白虎隊(びゃっこたい)の逸話など、悲劇的な篭城城で知られる会津若松城では、藩主・松平容保(かたもり)は戦の間、本丸中心部の櫓門「鉄門」の階上を「御座所」と定め、そこで自軍を指揮しました。

官軍の激しい砲撃を受け、無残な姿をさらした天守の写真が現存していますが、そうした結果を城方はちゃんと予期していたわけです。



これらの記録から判ることは、「天守は司令塔」という言葉が、単なる物見の塔として、使い番の兵が危険をかえりみず登っては眼下の情勢を確認し、再び降りてきて城主に報告する、という使用方法を言うのなら、充分ありえたでしょう。


しかしそんな危険な場所が、文字どおり「戦の司令塔」――城主の御座所(本陣)とされた例は、残念ながら、文献上から見つけ出すことは難しいのです。

むしろ「落城」が決定的になった時点でしか、城主(主将)は天守に登らない、という不文律さえ見えて来ます。



しかも上の事例1〜3でもお感じのとおり、篭城戦での天守は(決して安全な場所ではないにも関わらず)“城の女性たちがこもる場所”とされた可能性が濃厚なのです。

それは天守の位置が、例えば『匠明』屋敷図に照らしてみますと、ちょうど夫人の生活空間と言われる「御上方」の位置に当たるため、かなり興味深い現象です。

そうした天守に、合戦の当事者の中心であり、一族の家父長である「城主」が登るということは、その行為自体が、ひょっとすると「敗北の自認」「落城の覚悟」を城内に知らしめる効果も含んでいたのではないでしょうか?





以上の結論として、天守は、基本的に「平時のための」建築である、という理解が不可欠のように思われます。


より具体的に申しますと、織豊政権においては統一戦争の版図を領民に示すための「政治的モニュメント」であり、徳川幕藩体制下では(分権国家としての)各藩の統治の中心を示す「政治的モニュメント」であったわけです。


そうした天守の理解は、冒頭の『週間 江戸』の説明文では、後半の「公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合い」という部分は正しく、しかもそれは戦国末期(天守の発生当初)から一貫して続いた観念だと申せましょう。

つまり北ノ庄城や豊臣大坂城で、落城が確実になったとき、それぞれの城主(柴田勝家や豊臣秀頼)が天守に登った動機は、まさに統治者の「権威」を示す天守とともに、滅びる覚悟を決めたからに他ならないのです。








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2010年02月17日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする





天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする


昨年六月から続けて来ました「安土城天主」のシリーズ記事も、いよいよ最終盤と考えております。(※その最終回は、シリーズ中でも最大級の仰天仮説を準備中です。)

ということで、今回は、これまで殆ど触れて来なかった一重目(地階/天主台石蔵)の“或る矛盾”についてご紹介しましょう。



お馴染みの『信長記』『信長公記』類は、二重目(『安土日記』では六重目)の記述のなかで、
「御なんとの数七ツ 此下に金灯爐つらせられ候」
「御南戸之数七ツ有 此下に金灯爐をかせられ候」

という、二種類の「金灯爐」についての説明があります。


両者は、釣ったのか、置いたのか、という形状は異なるものの、それらの位置を説明どおりに配置してみますと…


新解釈『天守指図』二重目の七つの納戸


仮に、七つの納戸の真下に配置してみた「金灯爐」


このように「金灯爐」は暗い石蔵内を照らすものですから、配置としてはややアンバランスですが、入口から遠い北側に並べたのは合理的な配置と言えるのかもしれません。


一方、他の文献にはたいへん気になる記述があり、それは石蔵内部が「弾薬庫」だったという宣教師の報告です。


中央に一種の塔がある。塔は七層楼で、内外ともに驚くべき構造である。
(中略)建物は悉く木造であるにも拘らず、内外共に石及び石灰を用いて造ったものの如く見える。要するにこの建築は、欧州の最も壮麗なる建築と比することができる。
我々は、更にこの城が鉄砲と云う新兵器に対応して鉄の狭間戸を有し、地下には弾薬庫をもつ最近の設備をそなえていたことに一驚する。


(耶蘇会士 日本通信)


この証言は、織田信長の後継者・豊臣秀吉の大坂城天守も、天守台石蔵は弾薬庫だったという伝承があり、あながち否定できるものではありません。

となりますと、安土城の場合、天主台石蔵の中に「弾薬」と「金灯爐」が同居していたことになり、そんな危険極まりない“矛盾”をいったいどのように解釈すればいいのでしょうか?


大阪城に現存する焰硝蔵(えんしょうぐら)


弾薬庫と申しますと、例えば江戸時代に建てられた「焰硝蔵」が大阪に現存しています。

これは調合済みの黒色火薬を保管した火薬庫であり、以前のものが落雷による爆発事故を起こしたため、より頑丈に建て直されたと伝わっています。


ここで気になるのは、本来、「焰硝」とは、黒色火薬の原料「木炭」「硫黄」「硝石」のうちの「硝石」(硝酸カリウム)だけを意味した言葉と思われるものの、上記の例は黒色火薬と同義語で使われています。

ひょっとすると、この言葉のあやが、安土城の“矛盾”を解くヒントではないのでしょうか?

鞄結梔サ学同人が発行した『化学辞典』(1994年)にはこうあります。


硝酸カリウム[potassium nitrate] KNO3,式量101.10.
天然には硝石(saltpeter, niter)として産する。無色の結晶または結晶性粉末。
(中略)酸化力を有し、有機物、硫黄、炭素など還元性の物質を混合したものは爆発性がある。火工品製造、金属熱処理剤、食品添加物などの用途がある。


なんと硝酸カリウムは食品添加物として、肉の赤み付けや、舌でなめると冷ヤッとする効果があるそうですが、何よりこれ自体は燃えず「爆発性も無い」という点が見逃せません。


「長篠合戦図屏風」の信長(大阪城天守閣蔵)


そうした「硝石」は当時、大半が南蛮貿易で輸入され、信長・秀吉らが推進する統一戦争において重大な役割を占めた物資でした。


となると、信長の大戦略に欠かせない「硝石」だけを、天主の一重目に貯蔵したとしても、そのことには特段の不思議さは感じられません。

むしろ「硝石」が燃えないことを知っていた信長は、その貴重な舶来品を納める階として「天主台石蔵」を発明した(?)のかもしれません。





このことは、もしかすると「天守台石蔵」がどのように成立したのか、という発生起源を解き明かすヒントになるのではないでしょうか?


全国の天守台には、「石蔵」の有るものと、無いものの両パターンがあって、いったい何を基準に選択されたかと申しますと、小規模な天守台に無いのは当たり前としても、それ以外を分ける決定的な判断基準は見当たりません。

かろうじて有り得るのは、(徳川氏宗家を含む)織田家臣団だった大名家に特有の設備として、天守台石蔵があった、という傾向は言えるのかもしれないのです。


つまり天守台石蔵とは、鉄砲による“国家間の地図の書き換え”という軍事的な誘惑に則した城郭設備の一つであって、それにのめりこんだ織田家臣団のぬぐえぬ習慣として、その後に(用途が変わっても)形が踏襲され続けたものではないのでしょうか??



京都の本能寺跡で発見された瓦


さて、ここからは全くの余談ですが、“信長と地下の弾薬庫”と言いますと、いわゆる「八切意外史」の一冊『信長殺し、明智光秀ではない』の仰天ストーリーが思い出されてなりません。


ご存知の方も多いと思いますが、要点だけ申しますと、実は本能寺の地下にも焰硝蔵があった、という設定をいちはやく打ち出した小説です。

そしてその夜、正体不明の軍勢が本能寺の周辺に整列した数時間後、突然、寺の建物が爆発し、中にいた者は「髪の毛一筋残さず」吹き飛ばされ、信長も落命した、という筋立てなのです。


すなわち、本能寺の変とは何だったのか? という意外性で読ませる小説であって、一方、最近の発掘調査では、信長がいた本能寺の居所は、実にこじんまりとした建物を堀がめぐっていただけの“戦の陣所のような仮御殿”だった可能性が浮上しています。

となると、そんな無用心な居所を、夜明け前に軍勢が静かに囲むというのは、あたかも信長の出陣を待つ準備のようでもあり、ならば「髪の毛一筋残さず」と伝えられた爆発的炎上は何なのか、まことに意味深長なストーリーなのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年02月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!織田信長の「隠し部屋」を発見!?





織田信長の「隠し部屋」を発見!?


まるで動物園? 居並ぶ十二支の木像と鳥の画


前回、安土城天主の十二支の木像をご紹介するなかで、『天守指図』二重目の部屋の配置にも話が及んだため、いっそこの機会に、他の各部屋がどのように配置されるのかも、ご覧いただこうと思います。

その過程で、織田信長の重要な「隠し部屋」の存在が浮上するのです。



新解釈『天主指図』二重目/当てはめた文献上の各部屋


『信長記』『信長公記』類はそれぞれ微妙な差異がありますが、天主二重目の主な相違点は、「雉(きじ)の子を愛する」絵がある四畳敷と、「御棚に鳩」の絵がある四畳敷は、同じ部屋なのかどうか、という点になります。

上の図は、その点について、同じ部屋のこととする『安土日記』に基づきながら、ただし「十七てう敷」は他の『信長記』類のように「十畳敷」が正しい、という方針に沿って各部屋を当てはめてみたものです。



尊経閣文庫蔵『安土日記』(二重目の記述/この文献では六重目と表記)
… 六重目
  十二畳敷 墨絵ニ梅之御絵を被遊候
  同間内御書院有 是ニ遠寺晩鐘景気被書 まへに盆山被置也
  次四てう敷 雉の子を愛する所
  御棚ニ鳩計かゝせられ

  又十二てう敷ニ鵞をかゝせられ鵞の間と申也
  又其次八畳敷唐之儒者達をかゝせられ
  南又十二てう敷
  又八てう敷
  東十二畳敷
  御縁六てう敷
  次三てう敷
  其次八てう敷御膳を拵申所
  又其次八畳敷御膳拵申所
  六てう敷御納戸
  又六畳敷 何も御絵所金也
  北之方御土蔵有
  其次御座敷廿六畳敷御なんと也
  西六てう敷
  次十七てう敷
  又其次十畳敷
  同十二畳敷
  御なんとの数七ツ
  此下ニ金灯爐つらせられ候 …






このなかで文献と『天守指図』の描写が合わない部屋が一つあり、それは天主本体の東寄り(図で左寄り)の階段に接したカギ型の六畳間三つのうち、一番南側(図では上)の部屋は階段の上になり、実際は文献どおりの八畳間(「次八畳」)だったと思われる点です。(図は修正済み)

そもそも二部屋にまたがる階段スペースというのは、他の天守や櫓にも例の無い形ですし、これはやはり池上右平の“加筆”ではないかと疑われる部分です。

また北東隅(図では左下)の階段も同様でしょう。(修正済み)


さて、このように当てはめてみて、妙な形で残ってしまった(つまり村井貞勝らが拝見しなかった疑いのある)部分が、南西奥(右上)の角に小さく突き出た部屋であり、ここはいったい何なのか… という疑問が浮上します。



信長の「隠し部屋」が二重目の最奥に??


この場所は、信長の御座と思われる「雉の子を愛する」絵の四畳敷の、さらに奥に位置していて、その間が柱と間仕切りで画されているため、普段はまさに「雉と子」の板絵等で隠されていた可能性がありそうなのです。

そしてそれは、全体の配置から見ますと「上段」「上々段」であった疑いが濃厚です。

昔主殿の図(『匠明』)と仙台城大広間


ご覧のように、この場所は「上段」「上々段」が相応しく、「上々段」は言うまでもなく天皇の御座を意味した場合も考えられます。

そんな「上段」「上々段」が、安土城天主のなかで普段は隠され、信長はそれを重臣の村井貞勝らに見せなかった可能性がある、ということは、いったい何を物語っているのでしょうか。





ご覧のように、この一帯は、梅の間の「御書院」「まへに盆山」(信長の化身とされた石)がごく間近にあった可能性と合わせて、安土城天主のなかでもトップシークレットに位置づけられた空間のようなのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年01月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!まるで動物園!?安土城天主の木像群





まるで動物園!?安土城天主の木像群


『2009緊急リポート』で“黒漆で塗られた柱や床、金色の障壁画で居室空間が統一された”云々と申し上げましたが、安土城天主の内部については、もう一つ、特徴的なポイントがあるため、今回はその件をチョットお話いたします。


七階を有し、其室数甚だ多ければ、先頃信長も此家の中にては迷ふべしと言へり、其道を知るべき標識は多種の木像なり。

『耶蘇会士 日本通信』(村上直次郎訳)


安土城天主の内部について、宣教師が報告した「多種の木像」とは、果たしてどういうものだったのでしょう?


数多くの部屋の中から、目指す部屋に迷わずに行けるように、例えば、それらは“方角”を示したものではないのか…

というふうに、極めて常識的に考えますと、それらは「十二支の木像」だったとするのが、自然な解釈ではないでしょうか??



十二支と方位


十二支はご承知のとおり、当時の人々にとって、年や時刻だけでなく、方位を示す記号としても日常的に馴染みのあったものです。

そしてその木像が、天主内部にどのように設置されたかを想像してみますと、まず「木像」と書かれている点で、類似例として、神社仏閣の軒下に彫刻された獅子や獏(ばく)などの彩色像が思い当たります。




これらは木鼻を彫刻・彩色したもので、もとより頭の上の位置にありますから、例えば、こうした類が建物内で廊下の長押上(柱)に突出して取り付けられたとしても、特に通行の邪魔にはなりませんし、遠くからも良く見えたことでしょう。

ではその状況を、仮に『天守指図』二重目で考えてみますと…




このように南側(図では上)の二重目入口付近から、東側を通って北側に回り込む廊下に沿って、巳(蛇/へび)辰(龍/りゅう)卯(兎/うさぎ)寅(虎/とら)丑(牛/うし)子(鼠/ねずみ)亥(猪/いのしし)と、計7種の木像が、柱の上部に並んでいた可能性が考えられるのです。

それらは見るからに壮観で、忘れられない印象を残したのではないでしょうか。また、これならば黒漆で統一された居室空間も、迷わずに歩くことが出来たのかもしれません。


さて、大胆な木像群が並んでいた上に、各部屋の障壁画には、様々な生き物も描かれていたわけで、図にそれらを加えてみますと…




信長自身の御座を含む南西奥の各部屋には、金地の襖絵に鵞鳥(がちょう)や雉(きじ)の親子が描かれ、棚には鳩(はと)の絵があって、このような空間にもし現代人が足を踏み入れたなら、「ここはバーチャルな動物園か」とつぶやきかねない状況です。

これも織田信長という人物と、安土城天主という建物の、ユニークな一面を物語る特徴であるように思われます。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年01月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝二ノ丸の正体を姫路城からさぐると…





伝二ノ丸の正体を姫路城からさぐると…


年末年始の『2009緊急リポート』で話が途切れてしまった、安土城天主から周囲に伸びていた“タコ足状の階段橋(登渡廊)”の話題に戻りたいと思います。




ご覧のように天主の三重目と伝二ノ丸の御殿とをつなぐ仮称「表御殿連絡橋」の可能性を申し上げました。

しかしその伝二ノ丸が、どんな曲輪であったのかは、「信長廟」のために発掘調査が行えず、これまでに例えば、広島大学大学院の三浦正幸先生の画期的な復元考察を筆頭として、二、三の考察があったに過ぎないようです。




三浦先生の復元考察は、ご覧の本の中でCG画像つきで紹介されたように、伝二ノ丸は「本丸の表側である西方を占めていた」曲輪であり、そこには「表御殿」が建てられたはず、というもので、まさにその通りではないかと思われるエポックメイキングな考察でした。


その表御殿は、伝二ノ丸の中央付近にあったとされているのですが、その点では、やや気になる一件があります。

と申しますのは、現在、当サイトは“白亜の安土城天主”の全景をイラスト化している最中で、その画面に伝二ノ丸の一部も含まれるため、曲輪の形状を上から横から色んな角度から見ているうちに、かねてから感じていた“疑念”がますます強くなって来たのです。

それは、伝二ノ丸は、姫路城の備前丸と、形状や位置付けがほぼ同じ構想で築かれたのではないか? という疑念なのです。



同縮尺の安土城(上が東)と姫路城(上が北)


右の姫路城の「備前丸」は、ご承知のように、雄大な大小連立天守をはじめ現状の姫路城を築いた大名・池田輝政(てるまさ)が、自らの居館を置いていた、という伝承のある曲輪です。

図のように並べますと、伝二ノ丸も備前丸も、天主(天守)に面して半円形の曲輪が設けられ、その両端から出入りする形になっていて、一方は主に城外への連絡口、一方は主に天主(天守)側への連絡口、というプランも同じです。

しかもご丁寧に、半円形の弧の先には、三角形の似たような曲輪を設けている点はご愛嬌であり、しかし、そうした基本構想が、織田信長の家臣であった頃の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって実現した可能性を思うと、笑ってばかりもいられません。


ひょっとすると、秀吉も、信長にならってここに「表御殿」を構え、さらにそれにちなんで、織田・豊臣・徳川の政権下で有力大名であり続けた池田家が、当主・輝政の居館をここに構えた、とも想像できるからです。


そうなりますと、安土城の伝二ノ丸の正体をあばく上では、姫路城の備前丸が、かなり重要なカギを握っているのかもしれません。


「播州姫路城図」にある備前丸の建築群を重ねてみると…


十数年前に発見された「播州姫路城図」によって、それまでは明確でなかった備前丸の建築群も、ある程度はっきりして来ました。

例えば備前丸の東半分(図では右側)に大きく示された建物は「御台所」「上台所」であり、曲輪の周辺部は「渡御櫓」や「長局」がグルリと取り巻いています。

そうした建築群の中で最も注目すべきは、周辺部の西側、見晴らしのよい石垣上に建てられた「御対面所」でしょう。



備前丸の建物のうち、特色あるのは御対面所である。
その位置は西側の前方に張り出した高石垣の上にあり、渡櫓ながら梁行が四間半で他より大きく、御対面所と称するからには内部に接客対面のための座敷を備えていたと思われる。
現存する帯の櫓・西ノ丸化粧櫓と同じように押板(床ノ間)や棚をしつらえていたかどうか定かでないものの、備前丸が池田輝政の居館とされた伝承および近くに御台所・上台所・雪隠も存在したことと考え合わせると興味深い。


(松岡利郎「失われた姫路城の建築」/『歴史群像 名城シリーズ10 姫路城』1996所収)



仙台城の断崖上の「本丸懸造(掛作家/かけづくりや)」/復元:三浦正幸



他の城で、これと似た例は久保田城本丸の「御出書院」や仙台城本丸の「掛作家」、小諸城二之丸の「御矢倉御座敷」、熊本城本丸の「小広間」・同数奇屋丸の「二階御広間」、鳥取城二之丸の「走櫓」などがある。
いずれも桁行長く梁間の大きい建物で、室内に床ノ間・上段をしつらえており、本丸において眺望がよくきく位置を占めていた。


(松岡先生の前記論考より)


この論考の直後に発見された「播州姫路城図」をよく見ますと、御対面所の北半分にも、やはり上段と床ノ間があったように描かれています。


こうして「曲輪の形状」を主眼にして考えた場合、安土城の伝二ノ丸においても、中央付近ではなく、むしろ石垣上の琵琶湖を見晴らす絶好の位置に、最も重要な建物があったように思われてならないのです。








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2010年01月11日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!七重目が「純金の冠」だったワケ





七重目が「純金の冠」だったワケ



大晦日にアップした『2009緊急リポート』のこのイラストについて、若干の説明をさせて頂くことにします。

ご覧のような復元の発想は、やはり宣教師が書き遺した次の報告文と、さらに松岡利郎先生の、七重目外観は壁から屋根まで全部“金づくし”になった復元模型に、大いに勇気づけられた結果です。


壁は頂上の階の金色と青色を塗りたる他は、悉く外部甚だ白く、太陽反射して驚くべき光輝を発せり。

(『耶蘇会士 日本通信』 村上直次郎訳)


『2009緊急リポート』で申し上げたとおり、安土城天主は、実は、最上階以外の外壁を白漆喰で塗り上げた“白亜の天守”であり、黒漆を多用したのは狭間戸や内部の柱・長押等であったのだと思われます。


ただ、上の報告文に、七重目は「金色と青色を塗りたる」とあっても、実際の「金色」が金泥を“塗ったもの”ではなく、柱でも壁でも金箔瓦でも、それらが漆塗りの上に金箔を“貼ったもの”であることは、まず間違いありません。

ということは、「青色」についても、それは決して“塗ったものとは限らない”という当然の解釈が成り立つことを、初めにチョット申し上げておきます。


そのためイラストは、ずっと自然な用例として、「青色」を六重目屋根の棟の色(青銅製)として描き、その他にも、軒の隅木に下がる「ひうちほうちゃく(宝鐸)」が青銅の地を見せていた可能性も高そうです。


では、そうした七重目が、シャルヴォア『日本史』で「純金の冠」とまで表現されたことに、何か特別な理由は無かったのでしょうか?



むしろ戸が無かった??天主七重目(当サイトの試案)


これは以前の記事(『本当に窓が無かった?安土城天主の七重目』)でお目にかけた図で、七重目は窓(狭間戸)があり、戸が無く、見せかけの欄干がめぐっていた姿を仮定した模式図です。

イラストもこれを基本にして描きましたが、今回は若干の訂正があり、それは前述の「ひうちほうちゃく」の数に起因する問題なのです。


法隆寺夢殿と宝鐸(風鐸)の絵


宝鐸(ほうたく)は、ご覧のように仏堂の軒の隅などに釣った風鈴状の飾りで、風鐸(ふうたく)とも呼ばれます。


岡山大学蔵『信長記』(U類本)
… 上七重め 三間四方 御座敷之内皆金也 外輪(そとがわ)是又金也
  四方之内柱にハ上龍下龍(のぼりりゅう くだりりゅう)
  天井ニハ天人御影向之所
  御座敷之内ニハ三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢等をかゝせられ
  ひうちほうちやく数十二つらせられ
  狭間戸鉄也
 …


このように『信長記』類にある「ひうちほうちゃく」は、内藤昌先生によれば「風池宝鐸」のことであり、別の解釈では、「ひうち」は隅を意味する建築用語の「火打ち」につながる語句では? という指摘もあったように記憶しています。

その「ひうちほうちゃく」が12個も、安土城天主の七重目に釣ってあったと書かれているため、その数をどう軒先に釣るのかが問題になり、昭和初期の土屋純一博士の復元を手本に、七重目に4個、六重目に8個、というふうに“分割配置”する手法が定番化して来ました。


土屋案の上層部分(『名古屋高工25周年記念論文集』より)


当サイトの『天守指図』新解釈も、六重目は「十字形八角平面」ですので、屋根の隅は八つあるわけで、それらの軒先に「ひうちほうちゃく」を釣れば、七重目と合わせて計12個、とすることも可能でした。

当初はそういう考えも頭にあったのですが、しかし、ここはやはり“文献どおりの復元”に鋭意努めるべきではないか、と思い立ち、考えを改めて、下図のようなアイデアに至ったのです。


狭間戸が張り出していた??天主七重目(訂正版)


分かりにくいかもしれませんが、狭間戸の部分が(小さな欄干の幅だけ)外に張り出しています。

この形は、かつて城戸久先生が岐阜城天守を復元した際、参考にした加納城の御三階櫓(岐阜城天守の移築か)の窓の構造をヒントにしています。

つまり窓辺に内敷の棚がある構造で、「狭間戸」はその棚の向こうに張り出し、しかも加納城の御三階櫓と同じく「華頭窓」形式とし、内側に小さな引戸を設けて、それらを両側に引くことで、幅半間の窓を開くことが出来ないか、と考えたものです。

実例としては、岡山城天守の最上階の華頭窓(第二次大戦での焼失前の状態)と、やや似たようなところがあるかもしれません。


この張り出し構造によって、その分、屋根も外側に張り出す形になり、その両端に「ひうちほうちゃく」を釣れば、プラス8個を実現でき、“文献の記述どおりに”12個とも七重目の屋根の隅角に釣ることが出来ます。


かくして宝鐸12個が七重目をぐるりと囲んでみますと、当時の宣教師らの目には、まさしく騎馬民族や欧州諸国の王がかぶった王冠(「純金の冠」)のようにも見えたのではないでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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