城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/01

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2010年01月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!まるで動物園!?安土城天主の木像群





まるで動物園!?安土城天主の木像群


『2009緊急リポート』で“黒漆で塗られた柱や床、金色の障壁画で居室空間が統一された”云々と申し上げましたが、安土城天主の内部については、もう一つ、特徴的なポイントがあるため、今回はその件をチョットお話いたします。


七階を有し、其室数甚だ多ければ、先頃信長も此家の中にては迷ふべしと言へり、其道を知るべき標識は多種の木像なり。

『耶蘇会士 日本通信』(村上直次郎訳)


安土城天主の内部について、宣教師が報告した「多種の木像」とは、果たしてどういうものだったのでしょう?


数多くの部屋の中から、目指す部屋に迷わずに行けるように、例えば、それらは“方角”を示したものではないのか…

というふうに、極めて常識的に考えますと、それらは「十二支の木像」だったとするのが、自然な解釈ではないでしょうか??



十二支と方位


十二支はご承知のとおり、当時の人々にとって、年や時刻だけでなく、方位を示す記号としても日常的に馴染みのあったものです。

そしてその木像が、天主内部にどのように設置されたかを想像してみますと、まず「木像」と書かれている点で、類似例として、神社仏閣の軒下に彫刻された獅子や獏(ばく)などの彩色像が思い当たります。




これらは木鼻を彫刻・彩色したもので、もとより頭の上の位置にありますから、例えば、こうした類が建物内で廊下の長押上(柱)に突出して取り付けられたとしても、特に通行の邪魔にはなりませんし、遠くからも良く見えたことでしょう。

ではその状況を、仮に『天守指図』二重目で考えてみますと…




このように南側(図では上)の二重目入口付近から、東側を通って北側に回り込む廊下に沿って、巳(蛇/へび)辰(龍/りゅう)卯(兎/うさぎ)寅(虎/とら)丑(牛/うし)子(鼠/ねずみ)亥(猪/いのしし)と、計7種の木像が、柱の上部に並んでいた可能性が考えられるのです。

それらは見るからに壮観で、忘れられない印象を残したのではないでしょうか。また、これならば黒漆で統一された居室空間も、迷わずに歩くことが出来たのかもしれません。


さて、大胆な木像群が並んでいた上に、各部屋の障壁画には、様々な生き物も描かれていたわけで、図にそれらを加えてみますと…




信長自身の御座を含む南西奥の各部屋には、金地の襖絵に鵞鳥(がちょう)や雉(きじ)の親子が描かれ、棚には鳩(はと)の絵があって、このような空間にもし現代人が足を踏み入れたなら、「ここはバーチャルな動物園か」とつぶやきかねない状況です。

これも織田信長という人物と、安土城天主という建物の、ユニークな一面を物語る特徴であるように思われます。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年01月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝二ノ丸の正体を姫路城からさぐると…





伝二ノ丸の正体を姫路城からさぐると…


年末年始の『2009緊急リポート』で話が途切れてしまった、安土城天主から周囲に伸びていた“タコ足状の階段橋(登渡廊)”の話題に戻りたいと思います。




ご覧のように天主の三重目と伝二ノ丸の御殿とをつなぐ仮称「表御殿連絡橋」の可能性を申し上げました。

しかしその伝二ノ丸が、どんな曲輪であったのかは、「信長廟」のために発掘調査が行えず、これまでに例えば、広島大学大学院の三浦正幸先生の画期的な復元考察を筆頭として、二、三の考察があったに過ぎないようです。




三浦先生の復元考察は、ご覧の本の中でCG画像つきで紹介されたように、伝二ノ丸は「本丸の表側である西方を占めていた」曲輪であり、そこには「表御殿」が建てられたはず、というもので、まさにその通りではないかと思われるエポックメイキングな考察でした。


その表御殿は、伝二ノ丸の中央付近にあったとされているのですが、その点では、やや気になる一件があります。

と申しますのは、現在、当サイトは“白亜の安土城天主”の全景をイラスト化している最中で、その画面に伝二ノ丸の一部も含まれるため、曲輪の形状を上から横から色んな角度から見ているうちに、かねてから感じていた“疑念”がますます強くなって来たのです。

それは、伝二ノ丸は、姫路城の備前丸と、形状や位置付けがほぼ同じ構想で築かれたのではないか? という疑念なのです。



同縮尺の安土城(上が東)と姫路城(上が北)


右の姫路城の「備前丸」は、ご承知のように、雄大な大小連立天守をはじめ現状の姫路城を築いた大名・池田輝政(てるまさ)が、自らの居館を置いていた、という伝承のある曲輪です。

図のように並べますと、伝二ノ丸も備前丸も、天主(天守)に面して半円形の曲輪が設けられ、その両端から出入りする形になっていて、一方は主に城外への連絡口、一方は主に天主(天守)側への連絡口、というプランも同じです。

しかもご丁寧に、半円形の弧の先には、三角形の似たような曲輪を設けている点はご愛嬌であり、しかし、そうした基本構想が、織田信長の家臣であった頃の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって実現した可能性を思うと、笑ってばかりもいられません。


ひょっとすると、秀吉も、信長にならってここに「表御殿」を構え、さらにそれにちなんで、織田・豊臣・徳川の政権下で有力大名であり続けた池田家が、当主・輝政の居館をここに構えた、とも想像できるからです。


そうなりますと、安土城の伝二ノ丸の正体をあばく上では、姫路城の備前丸が、かなり重要なカギを握っているのかもしれません。


「播州姫路城図」にある備前丸の建築群を重ねてみると…


十数年前に発見された「播州姫路城図」によって、それまでは明確でなかった備前丸の建築群も、ある程度はっきりして来ました。

例えば備前丸の東半分(図では右側)に大きく示された建物は「御台所」「上台所」であり、曲輪の周辺部は「渡御櫓」や「長局」がグルリと取り巻いています。

そうした建築群の中で最も注目すべきは、周辺部の西側、見晴らしのよい石垣上に建てられた「御対面所」でしょう。



備前丸の建物のうち、特色あるのは御対面所である。
その位置は西側の前方に張り出した高石垣の上にあり、渡櫓ながら梁行が四間半で他より大きく、御対面所と称するからには内部に接客対面のための座敷を備えていたと思われる。
現存する帯の櫓・西ノ丸化粧櫓と同じように押板(床ノ間)や棚をしつらえていたかどうか定かでないものの、備前丸が池田輝政の居館とされた伝承および近くに御台所・上台所・雪隠も存在したことと考え合わせると興味深い。


(松岡利郎「失われた姫路城の建築」/『歴史群像 名城シリーズ10 姫路城』1996所収)



仙台城の断崖上の「本丸懸造(掛作家/かけづくりや)」/復元:三浦正幸



他の城で、これと似た例は久保田城本丸の「御出書院」や仙台城本丸の「掛作家」、小諸城二之丸の「御矢倉御座敷」、熊本城本丸の「小広間」・同数奇屋丸の「二階御広間」、鳥取城二之丸の「走櫓」などがある。
いずれも桁行長く梁間の大きい建物で、室内に床ノ間・上段をしつらえており、本丸において眺望がよくきく位置を占めていた。


(松岡先生の前記論考より)


この論考の直後に発見された「播州姫路城図」をよく見ますと、御対面所の北半分にも、やはり上段と床ノ間があったように描かれています。


こうして「曲輪の形状」を主眼にして考えた場合、安土城の伝二ノ丸においても、中央付近ではなく、むしろ石垣上の琵琶湖を見晴らす絶好の位置に、最も重要な建物があったように思われてならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年01月11日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!七重目が「純金の冠」だったワケ





七重目が「純金の冠」だったワケ



大晦日にアップした『2009緊急リポート』のこのイラストについて、若干の説明をさせて頂くことにします。

ご覧のような復元の発想は、やはり宣教師が書き遺した次の報告文と、さらに松岡利郎先生の、七重目外観は壁から屋根まで全部“金づくし”になった復元模型に、大いに勇気づけられた結果です。


壁は頂上の階の金色と青色を塗りたる他は、悉く外部甚だ白く、太陽反射して驚くべき光輝を発せり。

(『耶蘇会士 日本通信』 村上直次郎訳)


『2009緊急リポート』で申し上げたとおり、安土城天主は、実は、最上階以外の外壁を白漆喰で塗り上げた“白亜の天守”であり、黒漆を多用したのは狭間戸や内部の柱・長押等であったのだと思われます。


ただ、上の報告文に、七重目は「金色と青色を塗りたる」とあっても、実際の「金色」が金泥を“塗ったもの”ではなく、柱でも壁でも金箔瓦でも、それらが漆塗りの上に金箔を“貼ったもの”であることは、まず間違いありません。

ということは、「青色」についても、それは決して“塗ったものとは限らない”という当然の解釈が成り立つことを、初めにチョット申し上げておきます。


そのためイラストは、ずっと自然な用例として、「青色」を六重目屋根の棟の色(青銅製)として描き、その他にも、軒の隅木に下がる「ひうちほうちゃく(宝鐸)」が青銅の地を見せていた可能性も高そうです。


では、そうした七重目が、シャルヴォア『日本史』で「純金の冠」とまで表現されたことに、何か特別な理由は無かったのでしょうか?



むしろ戸が無かった??天主七重目(当サイトの試案)


これは以前の記事(『本当に窓が無かった?安土城天主の七重目』)でお目にかけた図で、七重目は窓(狭間戸)があり、戸が無く、見せかけの欄干がめぐっていた姿を仮定した模式図です。

イラストもこれを基本にして描きましたが、今回は若干の訂正があり、それは前述の「ひうちほうちゃく」の数に起因する問題なのです。


法隆寺夢殿と宝鐸(風鐸)の絵


宝鐸(ほうたく)は、ご覧のように仏堂の軒の隅などに釣った風鈴状の飾りで、風鐸(ふうたく)とも呼ばれます。


岡山大学蔵『信長記』(U類本)
… 上七重め 三間四方 御座敷之内皆金也 外輪(そとがわ)是又金也
  四方之内柱にハ上龍下龍(のぼりりゅう くだりりゅう)
  天井ニハ天人御影向之所
  御座敷之内ニハ三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢等をかゝせられ
  ひうちほうちやく数十二つらせられ
  狭間戸鉄也
 …


このように『信長記』類にある「ひうちほうちゃく」は、内藤昌先生によれば「風池宝鐸」のことであり、別の解釈では、「ひうち」は隅を意味する建築用語の「火打ち」につながる語句では? という指摘もあったように記憶しています。

その「ひうちほうちゃく」が12個も、安土城天主の七重目に釣ってあったと書かれているため、その数をどう軒先に釣るのかが問題になり、昭和初期の土屋純一博士の復元を手本に、七重目に4個、六重目に8個、というふうに“分割配置”する手法が定番化して来ました。


土屋案の上層部分(『名古屋高工25周年記念論文集』より)


当サイトの『天守指図』新解釈も、六重目は「十字形八角平面」ですので、屋根の隅は八つあるわけで、それらの軒先に「ひうちほうちゃく」を釣れば、七重目と合わせて計12個、とすることも可能でした。

当初はそういう考えも頭にあったのですが、しかし、ここはやはり“文献どおりの復元”に鋭意努めるべきではないか、と思い立ち、考えを改めて、下図のようなアイデアに至ったのです。


狭間戸が張り出していた??天主七重目(訂正版)


分かりにくいかもしれませんが、狭間戸の部分が(小さな欄干の幅だけ)外に張り出しています。

この形は、かつて城戸久先生が岐阜城天守を復元した際、参考にした加納城の御三階櫓(岐阜城天守の移築か)の窓の構造をヒントにしています。

つまり窓辺に内敷の棚がある構造で、「狭間戸」はその棚の向こうに張り出し、しかも加納城の御三階櫓と同じく「華頭窓」形式とし、内側に小さな引戸を設けて、それらを両側に引くことで、幅半間の窓を開くことが出来ないか、と考えたものです。

実例としては、岡山城天守の最上階の華頭窓(第二次大戦での焼失前の状態)と、やや似たようなところがあるかもしれません。


この張り出し構造によって、その分、屋根も外側に張り出す形になり、その両端に「ひうちほうちゃく」を釣れば、プラス8個を実現でき、“文献の記述どおりに”12個とも七重目の屋根の隅角に釣ることが出来ます。


かくして宝鐸12個が七重目をぐるりと囲んでみますと、当時の宣教師らの目には、まさしく騎馬民族や欧州諸国の王がかぶった王冠(「純金の冠」)のようにも見えたのではないでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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