城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/02

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2010年2月
 
           

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2010年02月26日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!どの戦で天守が「司令塔」だったのか??





どの戦で天守が「司令塔」だったのか??




ご覧の新刊雑誌『週間 江戸』第2号(2月9日発行)で、天守の役割について、チョットこれはどうか… と思う説明文が、さりげなく載っていました。

一見、説得力のある誤情報が伝わるのは、マスコミ批判の厳しい最中、どうも気になるため、今回だけ(安土城シリーズの)番外記事とさせて下さい。


天守の役割
司令塔からシンボルへ
当初は城が攻められた場合に、高い位置から戦況を把握し、兵の移動などを命令する軍事的な指令所であった。やがて泰平の世になると公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合いが大きくなっていった。



それはこんな囲み記事だったのですが、もしこの説明のとおり、「天守の役割」が当初は「軍事的な指令所」であったのなら、初期の天守は、平安末期から続いた侍たちの篭城戦で、何か新しい効果を発揮するために考案された建築、ということになります。

そして「高い位置から戦況を把握する」のは一見、良さそうに感じられますが、鉄砲が戦の主役となった時代に、「高い位置から」見ることにどれほどの効果があったのでしょう。

むしろ様々な文献では、天守が“砲撃のうってつけの標的”になった話が、わんさかと出て来ます。


もし仮に、天守が篭城戦にめざましい効果をもたらしたのなら、天守は国境の砦の類も含めて、一つの国に何十基と建てられても良かったはずです。

ところが現実は、一つの国(大名領)に天守は一つ、という形が常に原則であったわけで、その点だけを取っても、天守がいかなる建造物であったのかを厳然と規定しています。


――ではそもそも、どの戦で、天守は「司令塔」だったのか?

その検証は、幸いにも天守があった時代の篭城戦は比較的、事例が少なく、主な戦の経緯は文献に記されているため、天守の状況もある程度、推測が可能です。



事例1:関ヶ原合戦の前哨戦での大津城

史上、篭城戦を耐え抜いた天守として有名な、大津城の天守。

その「高い位置」を活かしていかに活躍したか、と思えば、実際のところ、大津城は琵琶湖のほとりに秀吉の別業(遊興地)として、また港をおさえる城として築かれたため、周辺の地形で一番低い所にあり、敵の集中砲火をあびました。

その惨状を『慶長記』は、「大津の城三之丸のへいは鉄砲にてうちつくし、こまい計なり。二之丸に松丸殿御家あり。火矢の用心にやねをまくり 鉄砲のおとに女房衆おとろき日夜かなしみ候事おひたゝし」と伝えています。

時の城主・京極高次の陣は本丸のどこにあったか定かでありませんが、天守の二重目に命中した砲弾によって、中にいた松丸殿(まつのまるどの/秀吉の側室で高次の姉)の侍女二人が死に、松丸殿自身は気絶したとも云います。

そうして三之丸や二之丸が陥落し、本丸も陥落寸前という時、高次が降伏を受け入れたことで、天守は焼失をまぬがれたに過ぎないのです。



大坂城天守の窓の女性たち



事例2:大坂夏の陣での豊臣大坂城

城主の豊臣秀頼は、夏の陣の開戦後も本丸の御座間を居所としつつ、戦功のあった家臣に千畳敷で褒賞を与えるなど、必要に応じて城内を移動しています。

そして落城の日、秀頼は最期の出馬のため桜御門まで出張ったものの、味方の総崩れで適わぬとなると、「さて御生害は何方にて遊ばさるべき候や」と家臣に問われ、「殿守を用意仕り候へ」と答えたことが『浅井一政自記』にあります。

一政は「火縄に火を付け持ち参仕り 殿守へ御供致し参候」とも書いていて、御座間に戻っていた秀頼とともに、天守に登ったことが分かります。



会津若松城の鉄門(くろがねもん)と天守(ともに復興)



事例3:幕末の会津若松城

白虎隊(びゃっこたい)の逸話など、悲劇的な篭城城で知られる会津若松城では、藩主・松平容保(かたもり)は戦の間、本丸中心部の櫓門「鉄門」の階上を「御座所」と定め、そこで自軍を指揮しました。

官軍の激しい砲撃を受け、無残な姿をさらした天守の写真が現存していますが、そうした結果を城方はちゃんと予期していたわけです。



これらの記録から判ることは、「天守は司令塔」という言葉が、単なる物見の塔として、使い番の兵が危険をかえりみず登っては眼下の情勢を確認し、再び降りてきて城主に報告する、という使用方法を言うのなら、充分ありえたでしょう。


しかしそんな危険な場所が、文字どおり「戦の司令塔」――城主の御座所(本陣)とされた例は、残念ながら、文献上から見つけ出すことは難しいのです。

むしろ「落城」が決定的になった時点でしか、城主(主将)は天守に登らない、という不文律さえ見えて来ます。



しかも上の事例1〜3でもお感じのとおり、篭城戦での天守は(決して安全な場所ではないにも関わらず)“城の女性たちがこもる場所”とされた可能性が濃厚なのです。

それは天守の位置が、例えば『匠明』屋敷図に照らしてみますと、ちょうど夫人の生活空間と言われる「御上方」の位置に当たるため、かなり興味深い現象です。

そうした天守に、合戦の当事者の中心であり、一族の家父長である「城主」が登るということは、その行為自体が、ひょっとすると「敗北の自認」「落城の覚悟」を城内に知らしめる効果も含んでいたのではないでしょうか?





以上の結論として、天守は、基本的に「平時のための」建築である、という理解が不可欠のように思われます。


より具体的に申しますと、織豊政権においては統一戦争の版図を領民に示すための「政治的モニュメント」であり、徳川幕藩体制下では(分権国家としての)各藩の統治の中心を示す「政治的モニュメント」であったわけです。


そうした天守の理解は、冒頭の『週間 江戸』の説明文では、後半の「公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合い」という部分は正しく、しかもそれは戦国末期(天守の発生当初)から一貫して続いた観念だと申せましょう。

つまり北ノ庄城や豊臣大坂城で、落城が確実になったとき、それぞれの城主(柴田勝家や豊臣秀頼)が天守に登った動機は、まさに統治者の「権威」を示す天守とともに、滅びる覚悟を決めたからに他ならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年02月17日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする





天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする


昨年六月から続けて来ました「安土城天主」のシリーズ記事も、いよいよ最終盤と考えております。(※その最終回は、シリーズ中でも最大級の仰天仮説を準備中です。)

ということで、今回は、これまで殆ど触れて来なかった一重目(地階/天主台石蔵)の“或る矛盾”についてご紹介しましょう。



お馴染みの『信長記』『信長公記』類は、二重目(『安土日記』では六重目)の記述のなかで、
「御なんとの数七ツ 此下に金灯爐つらせられ候」
「御南戸之数七ツ有 此下に金灯爐をかせられ候」

という、二種類の「金灯爐」についての説明があります。


両者は、釣ったのか、置いたのか、という形状は異なるものの、それらの位置を説明どおりに配置してみますと…


新解釈『天守指図』二重目の七つの納戸


仮に、七つの納戸の真下に配置してみた「金灯爐」


このように「金灯爐」は暗い石蔵内を照らすものですから、配置としてはややアンバランスですが、入口から遠い北側に並べたのは合理的な配置と言えるのかもしれません。


一方、他の文献にはたいへん気になる記述があり、それは石蔵内部が「弾薬庫」だったという宣教師の報告です。


中央に一種の塔がある。塔は七層楼で、内外ともに驚くべき構造である。
(中略)建物は悉く木造であるにも拘らず、内外共に石及び石灰を用いて造ったものの如く見える。要するにこの建築は、欧州の最も壮麗なる建築と比することができる。
我々は、更にこの城が鉄砲と云う新兵器に対応して鉄の狭間戸を有し、地下には弾薬庫をもつ最近の設備をそなえていたことに一驚する。


(耶蘇会士 日本通信)


この証言は、織田信長の後継者・豊臣秀吉の大坂城天守も、天守台石蔵は弾薬庫だったという伝承があり、あながち否定できるものではありません。

となりますと、安土城の場合、天主台石蔵の中に「弾薬」と「金灯爐」が同居していたことになり、そんな危険極まりない“矛盾”をいったいどのように解釈すればいいのでしょうか?


大阪城に現存する焰硝蔵(えんしょうぐら)


弾薬庫と申しますと、例えば江戸時代に建てられた「焰硝蔵」が大阪に現存しています。

これは調合済みの黒色火薬を保管した火薬庫であり、以前のものが落雷による爆発事故を起こしたため、より頑丈に建て直されたと伝わっています。


ここで気になるのは、本来、「焰硝」とは、黒色火薬の原料「木炭」「硫黄」「硝石」のうちの「硝石」(硝酸カリウム)だけを意味した言葉と思われるものの、上記の例は黒色火薬と同義語で使われています。

ひょっとすると、この言葉のあやが、安土城の“矛盾”を解くヒントではないのでしょうか?

鞄結梔サ学同人が発行した『化学辞典』(1994年)にはこうあります。


硝酸カリウム[potassium nitrate] KNO3,式量101.10.
天然には硝石(saltpeter, niter)として産する。無色の結晶または結晶性粉末。
(中略)酸化力を有し、有機物、硫黄、炭素など還元性の物質を混合したものは爆発性がある。火工品製造、金属熱処理剤、食品添加物などの用途がある。


なんと硝酸カリウムは食品添加物として、肉の赤み付けや、舌でなめると冷ヤッとする効果があるそうですが、何よりこれ自体は燃えず「爆発性も無い」という点が見逃せません。


「長篠合戦図屏風」の信長(大阪城天守閣蔵)


そうした「硝石」は当時、大半が南蛮貿易で輸入され、信長・秀吉らが推進する統一戦争において重大な役割を占めた物資でした。


となると、信長の大戦略に欠かせない「硝石」だけを、天主の一重目に貯蔵したとしても、そのことには特段の不思議さは感じられません。

むしろ「硝石」が燃えないことを知っていた信長は、その貴重な舶来品を納める階として「天主台石蔵」を発明した(?)のかもしれません。





このことは、もしかすると「天守台石蔵」がどのように成立したのか、という発生起源を解き明かすヒントになるのではないでしょうか?


全国の天守台には、「石蔵」の有るものと、無いものの両パターンがあって、いったい何を基準に選択されたかと申しますと、小規模な天守台に無いのは当たり前としても、それ以外を分ける決定的な判断基準は見当たりません。

かろうじて有り得るのは、(徳川氏宗家を含む)織田家臣団だった大名家に特有の設備として、天守台石蔵があった、という傾向は言えるのかもしれないのです。


つまり天守台石蔵とは、鉄砲による“国家間の地図の書き換え”という軍事的な誘惑に則した城郭設備の一つであって、それにのめりこんだ織田家臣団のぬぐえぬ習慣として、その後に(用途が変わっても)形が踏襲され続けたものではないのでしょうか??



京都の本能寺跡で発見された瓦


さて、ここからは全くの余談ですが、“信長と地下の弾薬庫”と言いますと、いわゆる「八切意外史」の一冊『信長殺し、明智光秀ではない』の仰天ストーリーが思い出されてなりません。


ご存知の方も多いと思いますが、要点だけ申しますと、実は本能寺の地下にも焰硝蔵があった、という設定をいちはやく打ち出した小説です。

そしてその夜、正体不明の軍勢が本能寺の周辺に整列した数時間後、突然、寺の建物が爆発し、中にいた者は「髪の毛一筋残さず」吹き飛ばされ、信長も落命した、という筋立てなのです。


すなわち、本能寺の変とは何だったのか? という意外性で読ませる小説であって、一方、最近の発掘調査では、信長がいた本能寺の居所は、実にこじんまりとした建物を堀がめぐっていただけの“戦の陣所のような仮御殿”だった可能性が浮上しています。

となると、そんな無用心な居所を、夜明け前に軍勢が静かに囲むというのは、あたかも信長の出陣を待つ準備のようでもあり、ならば「髪の毛一筋残さず」と伝えられた爆発的炎上は何なのか、まことに意味深長なストーリーなのです。








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2010年02月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!織田信長の「隠し部屋」を発見!?





織田信長の「隠し部屋」を発見!?


まるで動物園? 居並ぶ十二支の木像と鳥の画


前回、安土城天主の十二支の木像をご紹介するなかで、『天守指図』二重目の部屋の配置にも話が及んだため、いっそこの機会に、他の各部屋がどのように配置されるのかも、ご覧いただこうと思います。

その過程で、織田信長の重要な「隠し部屋」の存在が浮上するのです。



新解釈『天主指図』二重目/当てはめた文献上の各部屋


『信長記』『信長公記』類はそれぞれ微妙な差異がありますが、天主二重目の主な相違点は、「雉(きじ)の子を愛する」絵がある四畳敷と、「御棚に鳩」の絵がある四畳敷は、同じ部屋なのかどうか、という点になります。

上の図は、その点について、同じ部屋のこととする『安土日記』に基づきながら、ただし「十七てう敷」は他の『信長記』類のように「十畳敷」が正しい、という方針に沿って各部屋を当てはめてみたものです。



尊経閣文庫蔵『安土日記』(二重目の記述/この文献では六重目と表記)
… 六重目
  十二畳敷 墨絵ニ梅之御絵を被遊候
  同間内御書院有 是ニ遠寺晩鐘景気被書 まへに盆山被置也
  次四てう敷 雉の子を愛する所
  御棚ニ鳩計かゝせられ

  又十二てう敷ニ鵞をかゝせられ鵞の間と申也
  又其次八畳敷唐之儒者達をかゝせられ
  南又十二てう敷
  又八てう敷
  東十二畳敷
  御縁六てう敷
  次三てう敷
  其次八てう敷御膳を拵申所
  又其次八畳敷御膳拵申所
  六てう敷御納戸
  又六畳敷 何も御絵所金也
  北之方御土蔵有
  其次御座敷廿六畳敷御なんと也
  西六てう敷
  次十七てう敷
  又其次十畳敷
  同十二畳敷
  御なんとの数七ツ
  此下ニ金灯爐つらせられ候 …






このなかで文献と『天守指図』の描写が合わない部屋が一つあり、それは天主本体の東寄り(図で左寄り)の階段に接したカギ型の六畳間三つのうち、一番南側(図では上)の部屋は階段の上になり、実際は文献どおりの八畳間(「次八畳」)だったと思われる点です。(図は修正済み)

そもそも二部屋にまたがる階段スペースというのは、他の天守や櫓にも例の無い形ですし、これはやはり池上右平の“加筆”ではないかと疑われる部分です。

また北東隅(図では左下)の階段も同様でしょう。(修正済み)


さて、このように当てはめてみて、妙な形で残ってしまった(つまり村井貞勝らが拝見しなかった疑いのある)部分が、南西奥(右上)の角に小さく突き出た部屋であり、ここはいったい何なのか… という疑問が浮上します。



信長の「隠し部屋」が二重目の最奥に??


この場所は、信長の御座と思われる「雉の子を愛する」絵の四畳敷の、さらに奥に位置していて、その間が柱と間仕切りで画されているため、普段はまさに「雉と子」の板絵等で隠されていた可能性がありそうなのです。

そしてそれは、全体の配置から見ますと「上段」「上々段」であった疑いが濃厚です。

昔主殿の図(『匠明』)と仙台城大広間


ご覧のように、この場所は「上段」「上々段」が相応しく、「上々段」は言うまでもなく天皇の御座を意味した場合も考えられます。

そんな「上段」「上々段」が、安土城天主のなかで普段は隠され、信長はそれを重臣の村井貞勝らに見せなかった可能性がある、ということは、いったい何を物語っているのでしょうか。





ご覧のように、この一帯は、梅の間の「御書院」「まへに盆山」(信長の化身とされた石)がごく間近にあった可能性と合わせて、安土城天主のなかでもトップシークレットに位置づけられた空間のようなのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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