城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/04

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2010年04月19日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!江戸城の現存天守台が危ない!!





江戸城の現存天守台が危ない!!




昨年あたりから、出版業界で「城」関連は比較的売れる、というデータが一人歩きしたせいなのか、「城」を扱う単行本・雑誌・ムック類の発行が大盛況です。

そのあおりで、なかには城郭ファンの頭に血がのぼるような、噴飯モノの記事も見受けられ、当ブログも対応に追われています。

そして、またまた現れました!―――

“隠れコンクリート教”の使徒による謀(はかりごと)を、いつの間にか既成事実化しかねない記事が…





小学館の意欲的な情報誌『SAPIO』の4月21日号に、ご覧のような江戸城天守の再建プロジェクトを伝える記事があるのですが、つくづく、門外漢のスタッフによるマスコミ報道ほど、危なっかしいものはない(!…)と自戒を込めつつ、紹介せざるをえません。


と申しますのは、おそらく記事の執筆者をはじめ、ここに寄稿している日本財団の笹川陽平会長や「江戸城再建を目指す会」の会員の方々も、ほとんど自覚しておられないのでしょうが、この記事が示すプロジェクトは、結果的に、いま江戸城に現存している天守台を「破壊」もしくは「大規模改変」してしまう(!)可能性を含んでいるからです。


そのことは記事の中で「スーパーゼネコン関係者」なる人物が「石垣の石材なども含め資材の確保だけで予算をオーバー」云々と語っている点からも明白でしょう。

考えてみれば、江戸時代初期の大火で焼失した天守を、厳密に復元しようとすればするほど、現存天守台は「解体」「撤去」して、復元考証どおりの新しい石材(伊豆石)や木材を使って建設せざるをえないのです。


将軍の実弟・保科正之の「歴史的な献策」を受けて築かれた現存天守台


御影石の「切石」積みは加賀藩前田家の手伝普請によるもの


罹災した天守台に使われていた伊豆石/江戸城内で転用された様子



ご覧のような写真は城郭ファンなら常識のうちでしょうが、いまある天守台は、明暦の大火で寛永度の江戸城天守が焼失したあと、先代将軍の実弟・保科正之(ほしなまさゆき)が次のように献策したことから、天守台だけの修築に終わったとされています。


「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)


そしてこの時、修築された現存天守台は、高さが罹災前の7間から5間半に抑えられ、石材は伊豆石から御影石に変わり、より精緻な「切石」で積まれました。

保科正之のこの歴史的な献策によって、天守の進化は断ち切られたかのようにも言われますが、正之の言はただそれだけの意味だったのか、かなり疑問を感じています。


何故なら、ご覧のように各地の城にも、天守台を築きながら、結局、その上に天守を建てなかった例がいくつもあって…

赤穂城天守台        篠山城天守台


これらは「城持ち大名が徳川幕府に遠慮したため」などと説明されますが、そうであるならば、「遠慮」された側の徳川将軍の江戸城が、なぜ、巨大天守の尾張徳川家や紀州徳川家にも劣るような形を選んで、天守を再建しなかったのか、どうにも合点が行かないからです。


この不合理をうまく説明するためには、発想を転換して、保科正之は、泰平の世にふさわしく、天守を建てない(領民に見せない)治世のあり方を、諸大名の前で範を示すため、江戸城で果断に「天守台だけ築く」スタイルを定番化させようとした、と解釈しても良いのではないでしょうか?

つまり天守台だけの築造は、「天守の進化における最終形態を示していた」という、積極果敢な評価を下しても良いようにさえ思われるのです。





そうした意味において、たいへん示唆に富んだ文章があるのでご紹介しましょう。

ご覧の本は、江戸の都市建設を進めた人々の願望を検証した著作ですが、その前書きの中で…



江戸市中において、将軍関係の施設は大きな割合を占めていたのだが、その存在感は意外にも希薄なこともしばしばだった。将軍家には図像学的抑制とでも呼ばれるべきものが顕著に見られた。そしてそのような状態であることが好まれたのである。

このよい例は、江戸城の天守閣が焼け落ちた一六五七年にさかのぼる。その後天守閣は再建されなかったのである。幕府が困窮していたとか、太平の世にあって必要としなかったともいわれるが、筆者が思うに、これは図像学上不必要だったからではなかろうか。戦国時代には高くそびえる天守閣が必要不可欠だった。しかし、これは城主が人民を見下ろすことを可能にすると同時に、人民が城主を下から見上げることも可能にしてしまった。

しかし、古来東アジア全域で統治者は見られるということを嫌ったのである。これはヨーロッパとはまったく逆だった。ヨーロッパでは、古代ローマから、統治者はあらゆる物に自分の肖像を刻印することに心を砕き、自らの肖像画や彫像を要所要所に配置した。これに対して、徳川幕府は、自らの姿を隠したのである。


(タイモン・スクリーチ『江戸の大普請』2007)






例えば昨年の日本の政権交代後、いわゆる「姿を見せない旧来型権力」として、検察や記者クラブ制度などが批判のやり玉にあげられています。

それと似たような権力のスタイルが、江戸時代の天守の建て方においても適用されたのではないか?

そして天守は、織田信長や豊臣秀吉が得意としたヨーロッパ的な「見せる」天守から、ついに「姿を見せない」究極の方法論に到達していたのではないか? という考え方が成り立つのかもしれません。


そうだとしますと、江戸城の現存天守台こそ、天守の進化と終着点を体現した「生き証人」であって、他に替えがたい重大な価値を秘めていることが解ります。


そうした貴重な文化遺産を、ただの石積みじゃないか、と安易に考え、「破壊」や「改変」に手を貸すような者は、もはや「城」の奥義を語る資格は無いはず、とここで申し上げておきたいのです。



さて、冒頭の『SAPIO』の記事によれば、「江戸城再建を目指す会」が広島大学大学院の三浦正幸先生に作成を依頼した復元図が、6月17日に江戸東京博物館で発表される予定だそうで、どのような復元を想定しているのか、注目されます。


天守の進化の「最終形態」がここに現存しています――





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年04月05日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?





内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?


前回、安土城天主の歴代復元案の中から、特に宮上茂隆案と佐藤大規案を対比させて、天主台遺構と復元建築とのマッチングの具合にスポットを当てました。

そして今回は、別の復元案による対戦を“立体的に”観戦してみましょう。



『天守指図』新解釈による天主台の形状(南北/赤ライン)



まずご覧の図は、手前味噌ながら、かなり以前の記事(歴史の証言者「池上右平」の功罪)で作成した、当サイトの『天守指図』新解釈による天主台です。

このように、滋賀県による実測図(断面図)と『天守指図』二重目を素直(すなお)に重ねるだけでも、天主台の高さや形状(赤ライン)を割り出すことが出来ます。

その結果、天主台の南側と北側は、高さが1間ほど違うことが分かり、これがすなわち『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」ではないのか? と申し上げたわけです。


上図は天主台を「南北に」切って見た形状ですが、ちなみに「東西に」切った場合は下図のようになります。

(※これらの断面はいずれも、天主台上の“一箇所だけ礎石の無い”中心地点を通る線で切った断面)


『天守指図』新解釈による天主台の形状(東西/赤ライン)


この断面は、南北二段のうち南側の低い場所に当たるため、天主台は赤ラインのように想定でき、石垣遺構と天主台平面は特に問題もなく、きれいに整合します。

このように“立体的に”見ることで、歴代復元案の中でも、似たように感じられる二案が、実は相当に違うものであることが鮮明になるのです。



内藤昌案 vs 佐藤大規案 (左右はともに同じ方角からの比較)



この両者は、ともに八角形(七角形)の天主台いっぱいに天主が建てられた、とする復元案ですが、その平面形の複雑さからか、両者がどう違うのか、詳しくは比較検討されたことのない二案です。そこでまずは…


内藤昌案による天主台の形状(南北/濃紺ライン)


内藤案はご覧のように、先生ご自身が“発掘”した『天守指図』がそのまま(「安土ノ殿主ハ二重石垣」を考慮せずに)段差なく天主台に載る形になっています。

そして指図と石垣遺構をマッチングさせるため、天主台南側の石垣だけに曲面(いわゆる扇の勾配/青矢印の部分)を導入せざるをえなくなり、これが前回登場の宮上茂隆先生の批判を招くことになった箇所です。



佐藤大規案による天主台の形状(南北/赤紫ライン)


一方、同様にして佐藤案を南北の断面図に重ねますと、これは殆ど問題なく整合することが分かり、試しに内藤案と佐藤案をダブらせてご覧いただきますと…




このとおり内藤案の天主台は、歴代復元案の中でもひときわ高いもので、石蔵(穴倉)の階高は佐藤案の倍ほどもあります。

安土城天主の高さは『信長記』『信長公記』類に「16間半」と伝わるものの、内藤先生は著書で「ふつう天守高さは、石垣上端より最上層大棟衾瓦上端まで」(『復元 安土城』1994)と発言し、それは一重目(石蔵)からではなく、二重目から「16間半」あったのだという、全体的に背の高い復元を行いました。




しかも、長さ8間と伝わる「本柱」(通し柱)が貫いたのは、『天守指図』そのままに下から三重目までとしたため、一重目(石蔵)の高さも相応の規模にならざるをえなかったのです。

しかし今回、是非とも注目いただきたいポイントは、佐藤案も総高では意外に背が高い、という点であり、内藤案と張り合う(!)ほどの総高に達しています。これはいったい何故なのでしょうか?


実のところ、佐藤案も、説明文には「高さが一六間半」とあるものの、他の多くの復元案と同じ方法で、石蔵内部の地面から最上階の屋根の棟までを測りますと、ゆうに19間近く(約18.7間)もあることが効いているのです。


これは、天守の高さについて、例えば広島城天守の伝来(「十七間六尺」)や岡山城天守の実測値(「六十尺九寸」)が、いずれも“最上階の桁の上端まで”を測った値であることを踏まえた手法です。

この手法ならば、計測に含まれない最上階の屋根部分の高さだけ、実際の天主は高くなるわけで、佐藤案の場合、これで2間以上高く復元できたことになります。


すなわち内藤案と佐藤案という、底辺のだだっ広い「多角形」天主が、どちらも総高を高く復元することに苦心した“舞台裏”が透けて見えて来るわけです。





さて、内藤案vs佐藤案の勝負の行方は、天主台を「東西に」切った断面図を見た瞬間に、突如として幕切れを迎えます。


内藤昌案による天主台の形状(東西/濃紺ライン)


内藤案はやはり石蔵の高さを保つため、西側の石垣に扇の勾配が含まれ、また東側は入口のための複雑な構造が設けられています。

一方、佐藤案は、石蔵の深さを、発表されている図面類のとおりとしますと…


佐藤大規案による天主台の形状(東西/赤紫ライン)


ご覧のように、天主の東側と西側に、天主台石垣との間に幅半間〜1間ほどの“空き地”が出来てしまい、しかも東側は(内側の石垣遺構の角度がかなりユルイため)天主壁面が石垣の内側にズリ落ちてしまいかねない、ぎりぎりの位置になるのです。

各誌に掲載された佐藤案の図面類には、何故か、こうした“空き地”は示されておらず、また佐藤案を紹介したイラストやCGにも見られず、もちろんデアゴスティーニの模型にもこうしたディティールは存在しません。



思えば佐藤案は、『信長記』『信長公記』類にある「東西17間 南北20間」という規模を実現しようと、南北に細長い形状を志向して復元されたようですが、だからと言って、現存する石垣遺構との整合性を無視するわけには参りません。

またまた佐藤案には、「説明」をお願いしたい状況が出現してしまったのです。


内藤昌案 vs 佐藤大規案 (ともに南東の方角から)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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