城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/06

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (252)



全エントリ記事の一覧はこちら

2010年6月
   
     

新着エントリ
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (09:06)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問” (8/15)
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する (8/2)
城の再発見!後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと?? (7/15)
城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体 (7/4)
城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない… (6/20)
城の再発見!驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか… (6/9)
城の再発見!話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった? (5/25)
城の再発見!続々・信長の「天下」――安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響 (5/10)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (12)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)


アクセスカウンタ
今日:1,324
昨日:1,269
累計:1,947,808


RSS/Powered by 「のブログ

2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!白い銀閣と義政公遠見の櫓が物語るもの





白い銀閣と義政公遠見の櫓が物語るもの


報道記事【秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる】
読売オンライン
読売関西発
産経関西

本当に色々なニュースが飛び込んで来るもので、大坂城についても今年度のリポート「秀吉の大坂城・後篇」の準備が気になっていた矢先でした。

思わずオンライン各紙の文面に見入ってしまいましたが、第一報では詳細が分からないものの、発見された「石組み溝」は「地表から約4メートルの深さ」「地表から約3メートル掘り下げた」とあるのが大変、気がかりです。

もし豊臣時代の山里丸(山里曲輪)が現状より3〜4メートルも深かったとなると、従来の諸先生方の復元は、曲輪の地表高に“かなりの見直し”が迫られるのかもしれません。

――それとも、これって、全焼した石山本願寺の遺構なのでは? と問い正したくもなりますが、少なくとも中井家蔵『本丸図』を参照するかぎり、石組み溝が豊臣時代のものならば、それは秀吉の茶室うんぬんといった話ではなく、下図の「井戸」関連の溝と考えるのが、最も自然な見方だと思われます。


『本丸図』山里丸の井戸(赤印:ニュースの「略図」による石組み溝の位置)


「なんだ井戸か」と気落ちする必要はなくて、むしろこの井戸の存在を証明するものなら、それこそ豊臣大坂城の解明にとって重大な、「秀吉の茶室うんぬん」をはるかに凌駕する歴史的発見であって、それが何故かは、今年度のリポートの中でとくとご説明したいと存じます。

いずれにしましても、来月からの大阪歴史博物館での展示報告が注目されます。


さて、今回の記事で予定していたのは、(三浦正幸先生の江戸城天守の件についても機会を改めて申し上げる事として)またまた別の話題なのです。



慈照寺 銀閣(足利義政の東山山荘・観音殿)


NHK『銀閣よみがえる 〜その500年の謎〜』でも話題になったように、かの「銀閣」は、かつては二層目の壁面に「白土」が塗られていて、言わば白銀色の楼閣であったことから、その名がついた可能性が言われています。

これは城郭の分野においても、様々な推論を生む発見だったように思います。

とりわけ当サイトは「安土城天主は白亜に輝いていた」「黎明期の天守はすでに白かった」等々と申し上げているため、この新発見には注目せざるをえません。


しかしその場合、織田信長がそこから何を汲み取ったか、が問題の焦点になるため、ただ単に銀閣の色彩だけを注視してはならないように思います。

――「義政公遠見之櫓」(よしまさこう とおみのやぐら)。

義政の東山山荘は決して、失意の元将軍の“引きこもり”の館であったわけではなく、東の中尾山(標高280m)山頂の櫓から、つねに都の異変を見張らせていたのであって、そうした義政の構想は、山麓と山頂をセットで考えなければ把握できないでしょう。


北西からの眺め/左が中尾山、奥が大文字と如意ケ岳


この義政公遠見の櫓と東山山荘との位置関係を確認してみますと…




ご覧のように両者は、京都東山の山すそと峰の一つを使って、大きな西向き斜面の上下の端にそれぞれ配置されていました。

では、これと同縮尺の地図で、義政の没年から約80年後、織田信長の居城・岐阜城をご覧いただきますと…




岐阜城も山麓の居館と山頂部の城塞(天守ほか)が空間的に分離していて、その配置はやはり、大きな西向き斜面の上下の端にレイアウトされています。

つまり用途は別として、形としては、義政公遠見の櫓は岐阜城の山頂天守に、また銀閣は山麓居館の「四階建て楼閣」(かつて宮上茂隆先生はこれを「天主」と主張)に対応していた、とも読み取れるのです。



足利義政と言いますと、一般的には、応仁の乱をまねいた室町将軍というレッテルがつきまといます。
しかし新時代の覇王・信長の「東山御物」への執着ぶりは有名で、茶道、華道、香道、作庭、能楽といった「諸芸の祖」義政に対する強い憧憬(あこがれ)を持っていたことは、誰もが認めるところです。

しかも正倉院宝物の香木・蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りについても、義政が行ったことは広く知られていて、信長は義政に続く天下人ならんと意図したことも明らかでしょう。


かくして足利義政と織田信長、二人の間には、一定の価値観の共有があった、と考えるならば、「銀閣」を通じて「四階建て楼閣」の問題にアプローチすることも出来るのではないでしょうか??

(※ご承知のとおり、近年、岐阜城の山麓居館跡では発掘調査が行われ、数々の発見があったものの、四階建て楼閣の痕跡は発見されず、当ブログでは楼閣説と階段状御殿説の折衷案などを記事にしましたが、なお展望は開けておりません。そこで…)


すなわち銀閣は創建以来、東山山荘の池の西側で、東を向いて建っているわけで、そうした位置取りを、岐阜城の山麓居館に当てはめてみるとどうなるでしょうか。

――下の図は、ともに同縮尺・同方位で、仮に、両者の池の滝口の位置を重ねる形で合成してみたものです。


岐阜城の山麓居館と東山山荘(赤い表示:慈照寺の現状)


なんと、こうしてみますと銀閣は、発掘調査で注目された巨石通路や明治大帝像前といった場所ではなく、ずっと手前の、岐阜公園の園内で、来園者が売店の味噌田楽などを手にブラブラ散策している真っ只中にあることになります。

ということは、ひょっとすると四階建て楼閣も、これまで発掘調査を行ってきた領域とは、まるで見当違いの範囲に建っていたことにもなりかねないのです。


岐阜公園(池の奥に巨石通路/園内広場の遠景の嶺に山頂天守)


こうした考え方には、巨石通路と『フロイス日本史』の描写と順序が違ってしまうという反論がありえますが、それに関しては、かの「銀閣寺垣」のような巨石列のアプローチが、手前の城下側にもあったのかもしれません。

また四階建て楼閣そのものが、楼閣ではなく、四段に造成された土地に建ちならぶ御殿群である、という主張も有力ではあるものの、この主張は多分に、現状の発掘調査範囲の地形を前提にした発想によるものではないのでしょうか??


以上の論点は、ひとえに「銀閣」という、境内の内側を向いて建つ建築を想定することで、初めて見えて来る「視点」だという所が肝心です。

そしてもし信長の四階建て楼閣が東を(つまり城内側を)正面にしていたなら、この先例が、のちに豊臣秀吉が大成する「天守と山里」が併設された城、すなわち「公と私」が上下の段差をもって向き合う城郭スタイル、にまで発展したようにも思われるのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年06月15日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・ドンジョンvs天守!翻訳の隠れた意図をさぐる





続・ドンジョンvs天守! 翻訳の隠れた意図をさぐる


Donjon     vs     Tenshu
ピュイヴェール城(フランス)        丸岡城(福井県)


前回も申し上げたとおり、初めて天守をDonjonと翻訳した書物は特定できておりませんが、「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、実のところ、日本の城郭研究の側からの“呼び水”があった節があります。

それは古くは、戦前から活躍した城郭研究のパイオニアの一人、大類伸(おおるいのぶる)先生の著作にもさかのぼります。



要するに天守閣は封建時代の階級的思想の表現である。少数の武士階級が、多数の民衆を圧服して、社会に立つた時代の産物に外ならぬ。これが支那思想の産物であるとは到底考へられぬ。
併し西洋の封建城郭には厳として天守閣の存するのを認めるのである。固より其の構造も名称も本邦のものとは全く別物であるが、一城の中枢たる最も壮大な建築たる点に於ては全然同一である。

(大類伸『城郭之研究』1915年/大正4年!!)




ご覧のように日本側の主要な専門家が、欧州の城の主塔(キープ/ドンジョン)を「天守閣」と呼んでしまって来た、という歴史的な経緯があるのです。

ですから、この文章がわざわざ「構造も名称も本邦のものとは全く別物である」とはっきり断ってはいても、こうした書物を参照した人が、思わず天守(天守閣)をDonjonと翻訳しても、それを責めることはできないでしょう。


また上の文章と同様のことは、近年まで城郭研究の“大御所の一人”であった井上宗和(いのうえむねかず)先生の著書にも多々見受けられることは、城郭ファンの間ではよく知られた点です。


さらに下の世代で申しますと、「戦国期拠点城郭」という(おそらく天守の発祥にとっても)たいへん重要な指摘をされている、千田嘉博(せんだよしひろ)先生もまた、著書の中でキープやドンジョンを「天守閣」とお書きになっています。
例えば下の『別冊歴史読本O』巻頭特集の序文でも…






欧州古城紀行は再現された土と木づくりの城を出発点に、各国の中世城郭の精髄をめぐり、ついで大砲戦に備えた要塞や防御都市へと進んでいく。
天守閣のなかの螺旋階段など足元の悪いところも多く、高い塔の上から身を乗り出しての写真撮影はたいへん危険をともなう。

(『日本の城 世界の城』1999所収/千田嘉博「ヨーロッパ古城紀行」)




何故、わざわざ欧州の主塔を「天守閣」と書くような筆法が、今日まで綿々と続いて来たのでしょうか?

実は、そこには「天守とは何か」をめぐる、研究者間の、かなり根深い思想の対立が横たわっているようなのです…。

例えば下の本では、ブログ冒頭の大類伸先生について、城郭研究の歴史における位置づけが試みられていて参考になります。


井上章一『南蛮幻想』(2008年)


伝統建築の意匠論など、多数の著作がある井上章一先生の本です。

この450頁余に及ぶ著書は、前半まるごとを費やして、「天守閣」についての江戸時代から今日に至る認識の変化を、数多くの引用文を挙げて追っています。


例えば江戸時代の半ばにはもう、天守が何のために建っているのか、日本人はさっぱり解らなくなっていて、禁教の「天主教(キリスト教)起源説」がまことしやかに語られるなど、アレコレと邪推がなされた経緯が分かります。

そして時代を経るごとに、研究者の考え方に“変化のうねり”が生じて、明治時代には田中義成(たなかよしなり)が「天主は梵語」だとする「仏典起源説」をとなえ、天主=須弥山の帝釈天という考え方を打ち出しました。



大類が、はじめてその城郭論をあらわしたのは、一九一〇(明治四十三)年のことである。そして、彼ははやくもその第一論文で、いままでの定説を否定した。「本邦城櫓並天守閣の発達」と題された論文が、それである。
(中略)
天守閣の具体的なルーツには、室町時代の武家屋敷にあった主殿のことを、あげている。主殿が発展をとげて、天守閣にいたったとする理解である。
(中略)
ヨーロッパにも日本にも、いわゆるフューダリズム(封建制)の時代があった。封建諸侯、大名などといった戦士階級が、それぞれの所領で、民衆を支配する。そんな時代を、日欧がともに通過してきたことへ、大類は目をむける。と同時に、文官優位の中国がそういう時代をもたなかったことも、書きそえた。
けっきょく、天守閣は、戦士階級が民衆を圧迫する封建制の産物であるという。だから、封建時代のあった日本と欧州には、それが成立した。だが、封建諸侯の割拠しにくい中国だと、その出現は「到底考へられぬ」ことになる。これが、大類伸のいだいていた基本的な見取図である。

(井上章一『南蛮幻想』2008)




この井上先生の解釈によれば、大類先生と同様に、今なお欧州のキープやドンジョンを「天守閣」と呼ぶ先生方にも、ひょっとすると、そうした思想的な背景を推察できるのかもしれません。

“封建時代を共有した日本と欧州には、両者とも自然のうちに「天守閣」が生まれたはずだ”と。

ただし『南蛮幻想』はその後、鳥羽正雄、藤岡道夫、城戸久、内藤昌、宮上茂隆といった先生方が登場し、考え方の主流が「日本起源説」からしだいに(安土城天主の)「中国起源説」に移った経緯を紹介しています。





かくして「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、思わぬ事情が起因していた可能性がありますが、正直申しまして、「それでもナントカならないものか…」という気持ちは変わりません。

すなわち、日欧が封建主義を経験したと言っても、天守が登場したのは安土桃山時代の直前のことで、それ以前の鎌倉・室町時代に天守は無かったわけですし、また建築的に見て、天守は断じてドンジョンと同じではないからです。


さらに当ブログは、織田信長の懇望によって詠まれた七言詩「安土山ノ記」において、山頂の安土城主格部が「宮」と表現され、始皇帝の「阿房宮」(あぼうきゅう)に見立てられたことを申し上げました。


七言詩「安土山ノ記」
 六十扶桑第一山   六十ノ扶桑第一ノ山
 老松積翠白雲間   老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
 宮高大似阿房殿   宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
 城険固於函谷関   城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
 …         …



これは、とりもなおさず「中国起源説」の有効性を示していますし、だからと言って、結果的に天守が「日本固有の建造物」に落ち着いたことにも、何ら問題は無いはず、と考えています。


袁耀「擬阿房宮図軸」(部分)/後世の描画の一例

(※詳細は「信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…」参照)


ご覧のように、絵画で伝わった「阿房宮」は(実際と異なり)、大河・渭水の南岸にそそりたつ岩山の楼閣であった可能性があり、やはり信長という「個人」のイマジネーションこそが、天守(ともに水辺の山頂にある岐阜城天守や安土城天主)の起源の幾十%かを、確実に担ったように思われてならないからです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年06月01日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!ドンジョンvs天守!こんなに違う翻訳語どうし





ドンジョンvs天守!こんなに違う翻訳語どうし


「死の色」「神の色」で塗りくるめた巨塔としての、姫路城天守


織田信長が初めて高層化させた天守は、特に安土城ではその「白さ」ゆえに、人々に強い違和感を与えたのではないか、と申し上げました。

では、そうした天守を外国人・宣教師らはどう見たのでしょうか?

『フロイス日本史』では、「彼ら(日本人)がテンシュと呼ぶ一種の塔」と伝え、「塔」とするだけで、それ以上に具体的な欧州の建築等になぞらえて“翻訳”してはいない点が、この上なく重要だと思われます。

その理由を探りつつ、天守とは何だったのか、「翻訳語」の観点から迫ってみましょう。




この件はいつか書かねばならないと思っていた話題であり、先日も、NHK『トラッド・ジャパン』で「城」を取り上げた回があり、この番組は日本の魅力をどう英語で表現するかが毎回のテーマですが、番組中で再三再四、天守をDonjon (ドンジョン)と翻訳していました。

近年、世間ではさすがに、天守をDonjonと訳すケースはずいぶん減ったように感じていただけに、こういう事が身近であると、どうにも気になります。


ロシュ城(フランス)のDonjonと付設の土牢内部


欧州の城郭で領主が立て篭もる主塔がある場合、ネットで海外のサイト等を見るかぎり、それは一般の人々にはDonjonと呼ばれているようです。

(※Keepと書くのは専門書だけではないでしょうか?)


Donjon(やKeep)は、領主が人質や罪人を押し込めるため、塔の地階に土牢を造るケースが多かったことから、Dungeon(ダンジョン/土牢)という派生語を生じたと言われています。

Dungeonはたいがい、小さな扉を閉じると真っ暗闇になり、囚人は鎖につながれたまま、斜めの石敷きに横たわり、排泄物はたれ流しで、食糧が入れられる瞬間以外は、真っ暗闇でただ月日の経過を耐えるしかない、という地獄のような閉所でした。


したがって元々のDonjon自体にも、そうした暗いニュアンスがつきまとい、またDonjonにはそれなりに期待される機能や構造的な特徴がちゃんとありました。


ですから、遠目に日本の天守Tenshuに似ているとしても、実際は全くの別物であり、同じ「城の主塔」であっても、建物としての特性がまるで違うのです。

もちろん天守台の石蔵(穴倉)が「土牢」として使われた例など、聞いたこともなく、文献上でも一件も確認されていないと思います。



(※当ブログ「天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする」より)


石蔵(穴倉)の用途は、以前の記事に書きましたように、安土城天主では「硝石蔵」であったと考えられ、その後の天守でも「焔硝蔵」か「保存食庫」であって、そのために湿気を防ぐような丁寧な石敷きを施した例もあります。

逆を申しますと、殆どの天守台の穴倉は「土間」もしくは「板の間」ですから、もしそこに囚人を押し込めたなら、その者が中でどんな“破壊活動”を企てるか、心配になって仕方がないでしょう。


これほどまでに違うのに、何故、いつから、天守をDonjonと翻訳するようになったのか…

不覚にも私は、そうした書物などを具体的につかめておりませんで、そこで現状のままでも出来る作業として、Donjon vs Tenshuという比較を、とりわけ「地階」の構造と役割を中心に行ってみます。



Donjon     vs     Tenshu
ロチェスター城         姫路城      
 
 


イギリスのロチェスター城は、建物中心部の木造の床や屋根が失われていますが、その部分を見下ろすと、一番下の地階が密閉された空間だったことが分かります。

一方の姫路城天守の地階は、南東側(表側)だけが石垣に隠れた構造であって、この階全体に板敷きの床があり、そこから上階へと階段で登れるようになっていて、とても「人質」を押し込めるような機能は想定されていないのです。



Donjon     vs     Tenshu
ロンドン塔           小田原城
 


ロンドン塔のホワイトタワーも、ロチェスター城と同じ四角いサイコロ形の「スクエアキープ」に分類される主塔ですが、やはり地階が密閉された構造のため、人々は2階から入る形になっています。

これはもちろん緊急時に階段をはずして、敵の侵入を防ぎ、領主一族(王家)が立て篭もるための工夫でしょうが、一方、小田原城天守は、往時も現状の復興天守と同じく、長大な石段で天守台を登りつめ、そのまま建物に入るだけの構造でした。

つまり「天守台」とは、立て篭もるための「かさ上げ」ではないのであって、なにより中国古来の建築的な格式を示すための「台」である、という根本的な違いがあります。

しかもこの小田原城の天守台は、石蔵(穴倉)の無いタイプで、いかに使おうとも土牢Dungeonには不向きな構造なのです。



Donjon     vs     Tenshu
ヴァンセンヌ城         宇和島城     
 


そしてDonjon vs Tenshuは、そもそも領主の避難所なのか否か、という点でも決定的に違っています。

フランスのヴァンセンヌ城は、シャトーと書かれる場合があるにも関わらず、城の一部に専用の堀と回廊を廻らし、その中にDonjonがそびえています。

やはり地階は密閉された空間で、その上に橋を渡って入る1階、王の居室がある2階、見張り役が詰める3階、という厳重すぎるほどの構えです。


一方、宇和島城の天守Tenshuは、ご覧のように開放的な玄関を備え、天守自体は本丸内にポツンと孤立して建っています。

これが完成した頃、すでに城主の居所は本丸にさえ無く、城主は一生のうちに幾度か、儀式のおりにしか天守に登りませんでした。

つまり主の使用頻度を挙げれば、DonjonTenshuは比べようも無いほど差があるのです。



こうなりますと、Donjonという建物の由来も考慮して比較すべきでしょう。

例えば「キープ」KeepのウィキペディアWikipedia英語版を見ますと、KeepDonjonの関係が示されています。


A keep is a strong central tower which is used as a dungeon or a fortress. Often, the keep is the most defended area of a castle, and as such may form the main habitation area, or contain important stores such as the armoury, food, and the main water well, which would ensure survival during a siege.
An earlier word for a keep, still used for some medieval monuments, especially in France, is donjon; a derivative word is dungeon. In Germany, this type of structure commonly is referred to as Bergfried, and in Spanish as torre del homenaje.


(翻訳)
キープは土牢や要塞として使われる堅固な中央の塔である。多くの場合、キープは居住空間をはじめ、篭城戦に備えた武器庫、食糧庫、井戸から成る、城内で最も防御されたエリアである。キープは中世において、フランスではドンジョンと呼ばれ、ここからダンジョンという派生語が生じた。同様のものがドイツではベルクフリート、スペインではトーレ・デル・オメナヘと呼ばれた。


こうした書き方に沿って「天守」を独自に英文で説明するならば…



Tenshu is a unique Japanese-style castle tower, was not used as a dungeon. It was built by samurai warrior, who succeeded in the reunification of Japan in the second half of the Age of Discovery.

Ten written with kanji, means firmament and reign. So if you read literally, Tenshu is a tower, which protects firmament and reign.



(翻訳)
天守は、日本固有の様式の主塔で、土牢としては使われなかった。それは大航海時代の後半、日本の再統一に成功したサムライの居城に建てられた。

漢字の「天」は天空や治世を意味する。したがって文字どおりに読めば、「天守」とは天空や治世を守る塔なのである。



とでもなるはすで、こう説明されれば、欧米人の誰もが「それはdonjonではない! そんな大事なことを、どうして説明して来なかったのか」と問い掛けて来るでしょう。

この場合、天守が「天主」「殿守」「殿主」とも書かれたことをネグっていますので、厳密には正しい紹介文ではありませんが、天守の建造物としての特色は簡潔に言い表していると思います。


要は、天守が日本固有の建造物であることを、どうアピールすべきかが喫緊の課題であって、断じてdonjonと同じ物ではありえない、という主張がまず不可欠でしょう。

日本は今後、観光立国を目指すのだそうですが、その中でいやおうなく観光地の目玉の一つになる「天守」が、現状のような理解(翻訳)のされ方のままで、より多くの外国人に紹介されるのは実に情けない限りです。


我々がいま目指すべき方向は、卑屈な翻訳で自己規制してしまうのではなく、天守Tenshuが少なくとも日本固有の意味を持ったキープkeepとして、ドンジョンdonjonやベルクフリートBergfried、トーレ・デル・オメナヘtorre del homenajeと同列か、それ以上の扱いで、世界で語られる状況を作ることにあるはずです。

違うでしょうか?







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。