城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/07

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (258)



全エントリ記事の一覧はこちら

2010年7月
       

新着エントリ
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問” (8/15)
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する (8/2)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (18)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)


アクセスカウンタ
今日:1,009
昨日:2,894
累計:2,085,864


RSS/Powered by 「のブログ

2010年07月26日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!





岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!


――岐阜城の山麓居館には、足利義政の「白い銀閣」に由来した、四階建て楼閣が存在したのではないか?

――しかもその場所は、岐阜公園の真っ只中ではなかったのか?

前々回から、発掘調査関係者の神経にさわるような記事を続けておりますが、これは取りも直さず…

 <本当にこのまま階段状御殿説で突っ走ってもいいのですか>

という、率直な危惧から出た声でもあります。


山麓居館跡の山側奥に「天主」を想定した宮上茂隆案

(成美堂出版『信長の城と戦略』1997より)

かつては織田信長の山麓居館に関して、ご覧のような宮上茂隆先生の「天主説」が話題になりましたが、これに対して、文献にいっそう忠実な復元を行い、信長の居館は階段状の土地に御殿が建ち並んだもの、と考えたのが「階段状御殿説」でした。

この考え方を支持された研究者には、例えば秋田裕毅先生、村田修三先生、小島道裕先生といった方々がいらっしゃったわけですが、しかしその後、発掘調査では山麓居館跡の山側(明治大帝像前やその奥)で、それらしい礎石などの“直接的な物証”は発見されませんでした。

したがって先の宮上「天主」説はもちろんのこと、階段状御殿説も、もはや階段状に見立てられる土地はロープウェー山麓駅の周辺ぐらいしか残っていないため、両説ともに難しい局面にあります。

そんな中にあって、岐阜市では、階段状御殿説に沿って、山側の最も奥まったエリアを、“直接的な物証”の無いまま「信長公居館跡」と認定していく方向のようなのです。




こうした現地の情勢に一抹の危惧を感じながら、当ブログは、まだ未発掘の範囲に「白い四階建て楼閣(月見櫓)」を考えうるのではないか、と申し上げているわけです。

そのため今回は、『フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳/今回は中公文庫版)に基づいて、階段状御殿説よりいっそう「文言どおり」に復元するとどうなるか? という試みをご覧下さい。

注目したい「文言」は次の三つで、ここから新たな突破口が見えそうです。

1.「貴殿に予の邸を見せたい」
2.「約二十の部屋」
3.「三階は山と同じ高さ」





1.「貴殿に予の邸を見せたい」

『フロイス日本史』はフロイスが語り手ですが、信長自身は問題の建物(四階建て楼閣?)を「予の邸」と呼んだ事になっています。その前後の文面は…


宮殿は非常に高いある山の麓にあり(中略)広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます。
ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」と。


(※このあと「予の邸」の見聞録が始まる)


さて、信長がフロイスらにこう語りかけた時、彼らは一体、どこに立っていたのでしょう。

翻訳文を本当にこのまま受け取るなら、信長の言う「予の邸」は、第一に、前廊と歩廊のある「大きい広間」とは、別途の建物であったことが確認できます。


第二に、「予の邸」は、ヨーロッパやインドの建築に見劣りするかもしれないが、少なくとも、フロイスらが“日本国内では見たことのない珍しい建物”である点を、信長は言外に臭わせています。


そして第三に、「予の邸」はその時点ではまだ姿が見えていない、という推測も十分に成り立ちます。
そうでなくては、信長は丸見えの「予の邸」の前で、「見せたものかどうか躊躇する」とグダグダ前置きを並べた(!)ことになってしまいます…。


当ブログが申し上げる「文言どおり」とは、こういう観点であり、ここまで忠実に考えますと、「予の邸」は石段(巨石通路)の上の「大きい広間」からは見えない範囲にあった可能性が濃厚です。






2.「約二十の部屋」

「予の邸」の規模を知るうえで、重要な手掛かりになるのが、この文言です。
次の文面からは、この建物の一階が、少なくとも「約二十」に部屋割りされていたことが確認できます。


私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語るところによれば、それらの幾つかは、内部においてはことに、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとのことです。


ところが、こうなりますと、まさに「部屋数」が問題なのです。
何故なら、城の大広間のような御殿は、意外と部屋数が少ないからです。


聚楽第大広間/かの聚楽第でも、縁をすべて除けば部屋数は10そこそこ


前出の「前廊と歩廊のついた大きい広間」の「前廊」が縁側を意味し、「歩廊」が広縁(上図「廣縁」「ひろゑん」)を意味したことは充分に想像でき、したがってフロイスはこの点をちゃんと理解していたようです。

一方、安土城天主や福知山城天守など、信長の頃までの天守はたいへん部屋数の多かったことが、文献や絵図から判明しています。


『天守指図』二重目(天主台上の初重)/この階は文献『安土日記』でも部屋数が19


以上の点から申しまして、この建物の一階に「約二十の部屋」があった、という文言がある限り、それは御殿建築ではなく、むしろ“天守に近い楼閣建築”と考える方が自然なのです。



3.「三階は山と同じ高さ」

さて、一連の文章で最も不思議な表現と言われるのが、この部分です。


三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。


金華山の山頂は比高322mですから、「三階は山と同じ高さ」はあまりに不自然で、普通では考えられない表現であるため、大方の人々がこれを真正面から取り合おうとしません。

たとえ山側の奥に階段状御殿を想定したとしても、「三階は山と同じ高さ」は少々無理を含んだ解釈にならざるをえず、「では四階の高さは?」と問われたら、それも「山と同じ高さ」と答えざるをえません。


ところが、この「三階は山と同じ高さ」を極力、文言どおりに受け取る手立ては、無いことも無いのです。




このように岐阜公園の平地のどこかに「四階建て楼閣」を想定しますと、その三階の床は地上6〜8m程の高さはあるでしょう。

それはちょうど、図の等高線のとおり、ロープウェー山麓駅の地表高とほぼ同じ高さであり、そして山麓居館の全体の地形を「上段」「下段」に分けてみますと、「山」は「上段」と同義語のようにも見えて来ます。

ましてやそこに信長の御主殿があったのなら、それを「山」と称するのは、家臣団の誰かが発した呼び名を、そのまま引用した文言のようにも想像できます。




いささか唐突ではありますが、この点に関連して、階段状御殿説を支持された小島道裕先生は、次のようにも述べられていて、この問題を整理するうえでたいへん参考になります。


岐阜城について見れば、山麓の館は、基本的に外に開かれたハレの場で、公式な面会はまず麓で行っているが、そこにも主殿相当の「表」の広間と、文字通り「奥」に相当する茶室の使い分けがあった。茶室は、本来の室町幕府の建物にはない。新しい趣向と言えよう。

(小島道裕『信長とは何か』2006より)


つまり小島先生は、山麓の館にも「表」と「奥」が存在したとおっしゃっているわけです。

ただし「表」「奥」は現代的な感覚では、手前を「表」、その向こうを「奥」と感じてしまいます。

ところが織豊政権の城郭では、地表高の低い下段が(手前であっても)茶室や山里のある「奥」であったケースは多く、それらを踏まえて小島先生の解説を当てはめますと、次のようになるのでしょう。




(前記と同じ文章)

三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。


では最後にもう一点、文中の「一種の茶室が付いた廊下」という部分です。

実は、かの銀閣は、二階から「橋廊下」が伸びていて、地上と連絡していたことが判って来ました。

となりますと、同様の「橋廊下」がこちらは三階にあって、途中に「一種の茶室」(亭)が付設された形で、「上段」まで水平移動で連絡していた、という可能性が考えられるのではないでしょうか?


そんな驚異的な構造は、アルカラ版の『フロイス日本史』ですと、いっそう明確に読み取ることが出来て、興味津々なのです。

例えば東福寺の通天橋のごとく?



(※この建物の話題は、次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年07月16日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の四階建て楼閣は「月見櫓」ではないのか





信長の四階建て楼閣は「月見櫓」ではないのか




(※今回は記事のアップが極端に遅くなってしまい、失礼しました。)

さて、前回は、岐阜城の山麓居館跡と慈照寺の現状を、試しに合成してみた図をご覧いただきました。

そしてこの図からもう一つ読み取れることは、いま山麓居館跡の発掘調査は“或る禁断の領域”をジワジワと囲い込むように進められている、という点でしょう。
と申しますのは…




ご覧のように、これまでの発掘場所が取り囲む中心に、岐阜城観光の大動脈である「金華山ロープウェー」山麓駅とその入口周辺がポッカリと残されていることは、誰の目にも明らかです。

この場所はちょうど、巨石通路と州浜の庭園跡にはさまれたエリアでもあり、当然、何かがあって然るべき場所だと申せましょう。

それは仮に、次のような「導線」を考えてみますと、ある程度の可能性はありうるように思えて来ます。


※ムラサキ色の文字等は当ブログの勝手な推定を含む


こんなふうに勝手気ままに申し上げて調査関係者の方々には恐縮ですが、これは、拙宅のある東京・八王子の八王子城の印象に強くダブるものでして、ご承知のように八王子城は、北条氏照(うじてる)が重臣を安土城の織田信長のもとへ派遣したのち、石垣造りの大規模な改修を行ったとされる城です。

城の概略を申せば、山頂に曲輪群のある深沢山の山すそに氏照の「御主殿」があるわけですが、それは手前の「引橋」を渡って入る形であり、また「御主殿」の奥の山側には氏照の「庭」が設けてあるという、岐阜城に酷似したプランを感じさせるものです。

八王子城 御主殿に至る橋(橋の脚部は現代工法による)


もし岐阜城の山麓居館にも、どこかにこうした類の橋を考えられるのならば、その先のロープウェー山麓駅と入口周辺は、まさに信長の「御主殿」があっても不思議ではないように思われるのです。


金華山ロープウェー山麓駅(写真=ウィキペディアより)この地面の下に??


地元では長年、「信長公居館」を復元したいとの計画を掲げておられますが、この場所の可能性を確認するには、金華山ロープウェーの運営会社(名鉄グループ)が、例えて言えば、姫路城天守を何年も覆い隠すような大英断(?)を出来るのかどうか、また掘ったとしても開業当時からの工事で地中に「物」があるかどうかも余談を許さず、二重三重の障壁がありそうです。

結局、この場所はアンタッチャブルなゾーンとして、永久に候補地から除外されてしまいそうで、そうなると信長公居館の「階段状御殿説」は有力な候補地の一つを失うことにもなるのでしょう。





一方、前回から申し上げているとおり、山麓居館全体のプランを、足利義政の東山山荘との関連から考えるならば、楼閣(信長の四階建て楼閣)はずっと手前の岐阜公園内にあったことになりそうです。

そもそも義政の銀閣は、月見の楼閣として、すぐ東の月待山にのぼる月をめでるために建てられたわけですから、信長の四階建て楼閣もまた、金華山を見上げて東向きに建っていたと考えることも可能でしょう。

そのためにはある程度、山すそから離れないと、金華山の山頂(天守)は見えないという物理的条件が付きます。

いずれにしましても、真相究明のキーワードは「月見」であって、そこから信長の一大構想が見えて来るようにも思われるのです。



岡山城に現存する月見櫓


ご覧の岡山城の月見櫓は、内側から眺めると三階建てに見え、城外からは二重櫓に見えるという特異な構造で知られています。最上階は月見のために、東と南が開放的な造りになっています。

こうした月見櫓を建てた例は歴史上に数多くありましたが、特殊ケースの松本城を除くと、それらの位置取りは大きく二つのパターンに分かれます。


一つは、本丸の「南東隅」の石垣上に建つスタイルで、東と南を大きく見晴らす上では合理的で、福山城や福岡城などがそうした形です。

もう一つが、写真の岡山城のスタイルで、これは逆に「北西隅」の石垣上に建っていて、つまり安全な城内側を月見の方角にして、開放的な造りを可能にしたものです。

実は、これと同じ位置取りと思われるのが、豊臣大坂城なのです。




ご覧のとおり、この月見櫓から東の空にのぼる月を見たとしますと、それは天守と重ねて(!)眺めることが出来るのです。(岡山城も同様)

「天守と月」…これはいったい何を意味するのだろうか、と考えたとき、まず頭に浮かぶのは、秀吉の黄金の大坂城天守について、宣教師が書き残した文言です。



地の太陽は殆ど天の太陽を暗くすると言へるごとく、光輝爛々たる者なり

(『日本西教史』1931年翻訳版より)



つまり秀吉の黄金天守は「太陽」に見立てられたのであり、一方、それを「月」と共に眺められる位置に月見櫓があって、もしも、その発祥が信長の四階建て楼閣、いや足利義政の「白い銀閣」だとしたら、そこにはひょっとすると、彼等の秘められた一大構想が存在したと見て取ることも出来るのではないでしょうか?

そこで、この際、信長の四階建て楼閣は「月見櫓」の発祥だったのではないか、と申し上げておきたいと思うのです。




――この山麓居館の平地には山里庭園が広がり、その池のほとりに信長の「四階建て楼閣」が建ち、金華山のはるか山頂には「天守」が輝き、日が暮れると一転して、黒いシルエットになった天守の近くに「月」が浮かぶ…

そんな空間を想像するとき、諸芸の祖・足利義政にあこがれた信長の目論見が、ようやく見えて来た感もあるのですが、いかがお感じでしょうか?



次回は、四階建て楼閣の具体像について、可能な限りお伝えしてみたいと思います。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。