城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/08

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2010年8月
       

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2010年08月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?





それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?


金閣(昭和25年焼失前の様子)ウィキペディアより


紫の僧院(大徳寺)から半里、あるいはそれ以上進むと、かつてある公方様が静養するために設けた場所がある。そこは非常に古い場所なので、今なお大いに一見に値する。同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の小さい塔のような建物がある。
(中略)
二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。回廊が付いた上階はすべて塗金されていた。そこは、かつては公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池全体を眺め、気が向けば建物の中にいながら池で釣りをしていた。
上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは(空白アリ)パルモ、幅は(空白アリ)パルモで、まったく滑らかで、たった一つの節もない。


(松田毅一・川崎桃太訳 フロイス著『日本史』第一部五八章より)


ルイス・フロイスが遺した膨大な『日本史』の原稿は、ご承知のように数奇な運命をたどり、ようやく昭和50年代に松田毅一・川崎桃太両先生の翻訳で、現存する全文が日本語で読めるまでになりました。

とりわけ上記の第一部五八章、六十章、六一章などは、宣教師が京や奈良で見た建築物を精力的に描写していて、ご覧の「金閣」はむしろあっさりした部類で、三十三間堂、東福寺、興福寺、春日大社、東大寺(頼朝再建の!)は長文での紹介になっています。

注目すべきは、そんな松田・川崎訳『日本史』全12巻を通じて、金閣と同様に“階ごとに建物内部を描写した建物”は、わずかに5例だけ、という点でしょう。

1.金閣(第一部五八章)
2.岐阜城山麓の信長公居館(第一部八九章)
3.都の聖母教会(第一部一〇五章)
4.安土の修道院(第二部二五章)
5.豊臣大坂城天守(第二部七五章)



わずかに5例と申しましても、これはもちろん母数が宣教師の訪れた場所に限られますし、また記載を見送った建物も数多くあったはずで、現に、この中には意外にも安土城天主が含まれておりません。

ですが、ここで申し上げたいのは、岐阜の信長公居館が、こうして金閣や南蛮寺と同様の表記法で書かれている以上は、やはり同じく「楼閣」だったのではないか、という指摘に他なりません。


そこで今回は、ザックリとその楼閣の規模や意匠を推理し、ひょっとすると日本建築史上、複数階の楼閣として最大、かつ最も豪壮華麗な建物だったのでは? というお話を致します。



信長公居館の高さ…

当ブログはこれまでの記事で「四階建て楼閣」と申し上げて来ましたが、より厳密には、その階数について、フロイス『日本史』とほぼ同文の『耶蘇会士日本通信』に、たいへん気になる“一語”が紛れ込んでいるのです。すなわち…


第一階には十五又は二十の座敷あり。其ビオブ(黄金を以て飾りたる板戸なり)の締金及び釘は皆純金を用ひたり。座敷の周囲に地階と同平面の縁あり。甚だ良き木材を用ひたり。其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし。縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


これは一階の紹介文ですが、赤字で示した「座敷の周囲に地階と同平面の縁あり」はフロイス『日本史』には無い情報で、つまり一階の座敷と縁の下にそれと同平面(同規模)の「地階」があったと言うのです。

冒頭で申し上げたとおり、あれだけ各地で日本建築を見たフロイスが、よもや単なる床下程度のものを、わざわざ「地階」と書くとは思われません。
やはりそれなりの高さや構造の地階があったとしますと、楼閣全体は相当な規模に達していたようなのです。


それは後の五重天守を先取りするほどの規模だった!?


ご覧の模式図は、「地階」という問題の一語を踏まえつつ、さらに一階、二階、三階、四階のいずれにも「前廊」があった、と書かれている点をキッチリと反映させて、宮上茂隆先生のように三階を屋根裏階としてしまうような解釈はせずに、素直に描いてみたものです。

前々回も指摘しましたとおり、「前廊」は、『日本史』の用例から見て「縁側」か「廻縁」の類であることは充分に想像できますので、したがって全体のプロポーションは金閣・銀閣と同様の楼閣スタイルか、若干の変異形だろうと考えました。


「其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし」(前掲文より)

しかもその「前廊」は黒漆で仕上げられ、鏡のようだった、という一文は、後の安土城天主での「御座敷内外柱惣に、漆ニ而布を着せられ、其上皆黒漆也」という記録を思わせ、信長はそうとうに黒漆の仕上げが好みだったのだなと感じさせるものです。



信長公居館の意匠…

飛雲閣(二階の縁の板戸に三十六歌仙の絵が描かれている)ウィキペディアより


さて、前掲の一階の紹介文に「縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり」とある所は、思わず、後に建てられた飛雲閣の二階部分を連想させます。

では信長公居館では、こうした華麗な板絵が一階を廻っていたのでしょうか?


飛雲閣の場合、板絵は表と内側に一人ずつ描いていて、室内からも三十六歌仙が並ぶところを鑑賞できる形になっています。

思うに、紹介文の「日本及び支那の古き歴史」という画題も、どちらかと申せば、文人墨客にまつわる絵の方が、岐阜城山麓の下段(「奥」)の茶室と同居する空間にはふさわしいのかもしれません。

そうしたことから、この楼閣の一階は、会所のような広間を中心に、二十近い納戸や控えの間が連なる場所だった、と推理することも出来そうです。



ご参考:金襴(きんらん)の拝敷き(→愛知県の垂本畳店さんのサイトをご参照下さい


さて、フロイス『日本史』の二階の記述には、「市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて」という一文があるため、「金襴の幕」は何か古代王朝風の幕が御簾のかわりに廻っていたようにも言われて来ました。

ところが前述の『耶蘇会士日本通信』では、この部分の表現がやや違っていて、むしろこちらの方がずっと合理的に解釈できそうなのです。


宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


このように「座敷は金襴の布を張り」という形に「布」とされていて、しかも「座敷は」と畳敷きの間である前提で述べています。

これは結局、金襴を畳の縁に使用した、と考える方が、古代王朝風の幕よりもずっと現実的なのではないでしょうか?

つまり『日本史』の「市の側も山の側も」という部分は、『耶蘇会士日本通信』の「町の一部及び山を見るべし」という箇所の形容詞と取り違えたのかもしれません。




さて最後に、三階の「茶室」問題についても、同様に『耶蘇会士日本通信』に見逃せない一文が加わっているのです。


第三階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり、其巧妙完備せることは少くとも予が能力を以て之を述ぶること能はず、又之を過賞すること能はず。予は嘗て此の如き物を観たることなし

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


つまり、この茶室は「予は嘗て此の如き物を観たることなし」というように、フロイスがここで初めて見たスタイルの茶室である、という重要な“ただし書き”が付いているわけです。

フロイスは大友宗麟の城も、都の将軍邸も、堺の有力商人の屋敷も訪れていて、そんな人物がこういう書きぶりを見せているだけに、信長の茶室はそうとうに奇抜なもの… 例えば、橋廊下の途中に設けた観望の茶亭だったのでは… などという妄想が思わず広がってしまうのです。


それは日本の楼閣で史上最大、かつ華麗なる意匠の集大成!?


※岐阜城の話題は今回で一旦、終了いたします。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年08月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「白い四階建て月見櫓」の立地場所をさぐる





「白い四階建て月見櫓」の立地場所をさぐる


足利義政の「白い銀閣」をイメージするうってつけの建物、見つけました

足利市の法楽寺本堂/銀閣を模して昭和58年に建立 →関連サイトはこちら



さて、どうも岐阜市や関係者の方々の間には、悲願の岐阜城「信長公居館」の復元に一歩でも二歩でも近づきたい!…との強い思惑があるのかもしれませんが、その焦りのような空気が、東京の方にまで漂って来ている感があります。

居館の痕跡が見つからなかった有力候補地(明治大帝像前)


ことに近年、関係する専門家の方々が、信長の山麓居館について、『フロイス日本史』に描かれた豪華さや破格ぶりを疑問視して、「豪華さは可能性の一つ」などと、或る種の“防御線”を張っている辺りに、それが如実に感じられてしまいます。

そうした防御線の狙いは、おそらくは、発掘調査で礎石などの直接的な物証が挙がっていない状況下でも、現地の山側奥に、簡素な信長公居館(!)を想定しうるように、今から期待値を下げておく点にあるのではないかと、城郭ファンの目には見えてしまいます。



一方、四階建て月見櫓ならば、銀閣と同様に「橋廊下」も想定できる…


一方、当ブログが執拗に(?)申し上げているのは、『フロイス日本史』の「予の邸」とは、織田信長が主殿(「大きい広間」)と別個に、庭園(山里)に設けた遊興のための楼閣ではなかったのか、という新たな視点です。

しかも前回の記事で申し上げたように、この楼閣(四階建て月見櫓)は、いわゆるアルカラ版のフロイス日本史ですと、いっそう輪郭がハッキリして来るようなのです。


アルカラ版の日本史とは、お馴染みの松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』が、フロイスの母国語ポルトガル語の写本から翻訳したのに対し、岐阜市歴史博物館が所蔵するスペイン・アルカラで印刷されたスペイン語訳フロイス書簡集から、同館の高木洋先生が翻訳したもので、通称「アルカラ版」と呼ばれています。


この両者の翻訳文には微妙な違いがあり、中にはけっこう重要な単語も含まれていて、その最たるものは「三階は山と同じ高さ」が、なんと「三階と山は平行」(!)に変わっている点でしょう。


この「平行」という表現は、当ブログが申し上げた山麓居館「上段」と楼閣の三階が、まさに同一の高さ(水平レベル)にあって、それを橋廊下が定規のようになって、歴然と見てとれる様子を描写したものではないでしょうか?

この点に関しては、高木先生ご自身も、三階と山をむすぶ渡り廊下の可能性に言及されていて、先生にも是非、白い四階建て月見櫓の方もご検討いただけましたら、恐悦至極です。





さて、ではこの下段にあたる岐阜公園の平地のどこに、四階建て月見櫓は建っていたと考えられるのでしょうか?


この部分は戦国から江戸時代まで、文献の記録が乏しく、岐阜城の歴史では定評ある村瀬茂七『稲葉山城史』(1937年)でもハッキリとしません。

第三篇の第三章「居館」には、フロイスなど宣教師関連の情報以外では、「千畳敷段々下西に南北へ桐の馬場跡あり今は畑となる」(岐陽故事)とか、「此の屋敷に用ひたりし石材は加納城築造の時全部引移され其影だになし」(金華山史)とあるのみです。


そして幕末はただの荒地になっていましたが、明治以降は一転して、公園化とともに宗教施設、物産陳列場、柔道場、動物園など、ありとあらゆる施設が建設・解体を繰り返した場所だそうです。


昭和11年「躍進日本大博覧会」の会場配置図から作成


特に戦前、昭和11年(1936年)に岐阜公園と長良川河畔で開催された「躍進日本大博覧会」では、約30棟もの展示館(パビリオン)が建ち並びました。

この時は、なんと巨石通路の上にも、明治大帝像前にも、池の際にも、各種の建物があったそうで、しかし逆を申せば、そんな試練にも巨石通路は地中で生き抜いたわけですから、これはむしろ勇気を与えてくれる一件なのかもしれません。


(※こうした岐阜公園の歴史については、岐阜市歴史博物館ボランティアガイドの後藤征夫さんのサイト「岐阜公園の移り変わり」にも詳しいのでご参照下さい。)


さて、上図で見逃せないポイントは、岐阜公園の「池」がこの時、すでにあったという事実ではないでしょうか…



この「池」が、果たしていつの時代までさかのぼれるかは、先の『稲葉山城史』にも記載がなく、『岐阜市史』でも、岐阜公園の開園からの記録の中で「池」の整備に触れた言葉は一つもありません。

しかし、ろくに記録が無い、ということは、ひょっとするとこの池は、江戸時代から藪の中に“原形”があって、その後、時代ごとに「庭の手入れ」の範ちゅうで整えられて来た、という可能性もあるように思われます。


そこで、当サイトからのご提案として、今後の発掘調査の中で、是非一度、この「池」を調査してみてはいかがでしょうか?



かの銀閣も錦鏡池のほとりに建っている


もし「池」が相当に古いものをベースにしている、という何らかの手掛かりが得られれば、それだけでも、そこが庭園(山里)であった可能性が生まれ、展望が大きく開けて来るように思うのです。

結論として、今後もなお、発掘調査の方々が作業を続行できるように予算を付けて頂き、とにかく“全部を”確認したうえで、「信長公居館」の跡地認定や復元に歩を進めるべきではないでしょうか?




追記:四階建て月見櫓の「位置」を逆算する方法

さて、この際、もっと調査範囲を限定できるイイ方法はないものか? と考えますと、次の二つが思い浮かびます。

1.銀閣と月待山の位置関係を金華山に立体的に当てはめる

2.中秋の名月が金華山の山頂天守に重なって見える地点をさがす


1の方法は手軽なようですが、月待山は割となだらかな山であるため、どの辺に月が出るのを良しとするかで、答えが変わって来ます。

また2の方法は、山を見上げる角度が、金華山は月待山よりほんの何度か高くなるため、その分の月の動きを私は計算できず、いっそ今年あたり、現地で確認してみるのが一番、確実なのかもしれません。………








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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