城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2010/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2010年11月24日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の行幸御殿か?壮大な「懸造り舞台」を夢想する





信長の行幸御殿か?壮大な「懸造り舞台」を夢想する


先月の記事より/安土城の御殿配置をめぐって対立する二案


天主イラストご紹介の前週の記事で、やや“言いっぱなし”のままの話題がありましたので、今回はそれを含めたお話をしたいと思います。

――話の核心はズバリ、混迷の度を深めている安土城の「行幸御殿」問題です。



(天正4年の山科言継の娘・阿茶の書状より)

ミやうねんハ あつちへ 大りさま きやうこう申され候ハんよし、あらあら めてたき御候事や
(明年は安土へ 内裏様 行幸申され候わん由、あらあら目出度き御候事や)


天正4年、まさに安土築城が始まった年に、公家の山科言継の周辺でこうした書状が書かれたことから、天皇の安土城への行幸が計画された可能性が言われて来ました。

そして滋賀県による城址の発掘調査の結果、大胆な仮説が発表されて、大きなニュースになりました。


滋賀県安土城郭調査研究所 編著『図説 安土城を掘る』2004年


それはご覧のように、伝本丸の礎石群は、織田信長が天皇を迎える「行幸御殿」として造営した、御所の「清涼殿」に酷似した建物だった、という画期的な復元案でした。

ところがその後、お馴染みの三浦正幸先生や、京都女子大の川本重雄先生が反論を開始したことから、清涼殿風の行幸御殿は、とたんに雲行きが怪しくなったのです。



高志書院『都市と城館の中世』2010年(価格8000円!!…図書館でどうぞ)


今年出版された千田嘉博・矢田俊文 編著の『都市と城館の中世』に、その川本先生の論考「行幸御殿と安土城本丸御殿」が載っていて、私もたいへん遅まきながら、川本先生の理路整然とした反論を拝読しました。

(※今ごろ拝読するのは、京都女子大でのシンポジウム「安土城本丸御殿をめぐる諸問題」に参加できなかったツケでしょう…)


で、この論考で最も注目すべきポイントは、実は、同じ反論であっても、三浦先生と川本先生の論拠は、まるで違う(!)という点にあったのです。


行幸御殿(「御幸の御間」)をめぐる三者三様



この中で、川本先生はいちばん厳格な解釈を下されているようで、安土城に「行幸御殿」と言えるような建物は実現不可能だった、とおっしゃるのです。

論考では、室町将軍邸や二条城での行幸の例から、「行幸御殿」に必要な間取りや設備を明らかにし、特に、天皇の輿(こし)を寄せる南の階段や、舞を行う広い南の庭が不可欠だったとして、「天主周辺に行幸御殿が建つ余地はない」(!)と結論づけているのです。



本来の行幸御殿に求められる平面は、内裏の建物で言えば天皇の居所を含む御常御殿であり、清涼殿では決してない。
(中略)
行幸御殿とその南に必要な庭を考慮すると、安土城の二の丸以外に行幸御殿が建てられる空間はないが、その二の丸も行幸御殿に中門や風呂・便所などの付属屋までを考えると、建物が二の丸からはみ出してしまう。

また、南庭も二条城と比較すると六割程度の奥行きしか確保できない。
以上のことから、安土城の天主周辺に行幸御殿が建つ余地はないと断ぜざるを得ない。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収)



正直申しまして、この川本先生の反論は、かなり決定的な響きを放っているように感じました。

でも意固地な私としては、行幸御殿がたとえ「清涼殿」風の建物ではなかったとしても、やはり安土城への行幸そのものは行われようとしていたのであり、そこは信長らしい破天荒なやり口で、“別の形の”行幸殿が計画されたのではないか??…と思われてならないのです。

そこで、やや荒唐無稽なシミュレーションですが、川本先生の反論を踏まえた「第四の可能性」をさぐってみたいと思います。




二条城の行幸御殿(中井家蔵「二條御城中絵図」より/その南庭は南北約30m)


安土城の天主台と伝本丸(上の図と同縮尺・同方位)


では、この二つの図を、行幸御殿と天主台の位置を合わせてダブらせますと…



ご覧のように、行幸御殿の南庭の範囲は、ちょうど伝本丸の南の石塁を越えた南斜面の、石垣で囲われた(意味不明の)デッドスペースまでを覆うような形になるのです。

このことは、以前に申し上げた、ある仮説を思い起こさせます。





(※記事「安土城の天主台に「清水の舞台」が!?」の作図/この図は上が南)


これらは、礎石列の発掘成果をもとに、ひょっとすると、天主台の南西側には清水の舞台のような「懸造り(かけづくり)」が張り出していたのではないか? という仮説を申し上げた時のものです。

この図では、懸造り舞台の広さを、出土の礎石列に応じた規模で描きました。


ですが、例えば先の図のように、懸造りを大きく南に張り出すことが出来たなら、その広大な舞台の上で、行幸の「舞御覧」等を挙行するという“壮大なページェント”も考えられたのではないか――と。




かなり荒唐無稽な話になって来たのかもしれませんが、いずれにしましても、冒頭の書状が書かれた天正4年は、まだ安土城の天主が影も形もない頃だった、という点がたいへん重要だと思われるのです。

つまり、申し上げた懸造り舞台は、天主の建造以前の秘史(別計画)として考え、天主台上に天皇の御在所が計画されたと想像しますと、川本先生が論考で指摘された、室町将軍邸での行幸のやり方とも符合するようなのです。



寝殿(しんでん)が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所(かいしょ)は義教(よしのり)の御殿という認識があったものと考えられる(当時の室町殿には常御所と呼ばれる建物もあるので、義教は常御所で起居したのだろう)。

(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収)



つまり室町将軍邸の行幸では、将軍・義教は、言わば主屋である「寝殿」を天皇に明け渡して御在所とし、自分は「会所」や「常御所」を御殿としていたのです。

ならば信長は、己が住居になる「天主」予定地(天主台上の特設御殿)を天皇に明け渡して、その前の懸造り舞台をふくむ一帯で、行幸の諸儀式を繰り広げようと考えたとしても、不思議は無いのではないでしょうか??






こんな推理(妄想?)から感じる事柄は…

 天正4年当時、一旦進みかけた行幸計画をあえて否定することから、
 (「皇帝」イメージにあふれた)天主の建造は始まったのではないか―――


という信長の政治的判断です。

そしてその後に残ったのは、やはり川本先生がおっしゃるような、形式上の行幸殿としての部屋(「上々段」)であったのかもしれません。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年11月09日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由





中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由


宣教師がスケッチしたと伝わる織田信長像(三宝寺蔵)/絵をボカすと眼差しが浮きたつ…


前回は“信長の九龍壁”とも言うべき、安土城天主壁面の飛龍の絵(それが意味する歴史的メッセージ)についてお話しました。

しかしこの建物の上層部分には、やはり信長!と舌を巻くような、大胆な宗教的メッセージも隠されているように思われるのです。




論点3.青い銅板に刻まれたバテレンの絵とは…


(フロイス『日本史』東洋文庫版/柳谷武夫訳より)

(安土城天主は)七階建で、彼の時代までに日本で建てられたうち最も威容を誇る豪華な建築であったという。(中略)屋形の富裕、座敷、窓の美しさ、座敷の内部に輝く金、赤い漆を塗った木柱と全部金色に塗った柱の数…


当サイトは、安土城天主は白い天守だった、と申し上げておりますが、種々の文献では金・青・赤・黒などの色も使われたことになっていて、「赤」は上記のとおり「赤い漆を塗った木柱」とハッキリ翻訳した文献があります。


――では「青」は何だったか?

と言いますと、これまでの諸先生方の復元はまちまちで、とても集約を図れる状態ではないため、当イラストでは、「青」は緑青のまわった銅板の色であり、柱や高欄や破風が「銅板包み」で被われていたものと想定してみました。


後世の施工例ながら、松前城の本丸御門に見られる銅板包み


「青」をこのように考えた場合、そのメリットとして、たとえ「赤」と「青」が同じ階にあっても目がチカチカするような配色にはならず、「赤」と「青」を別々の階と考える必要は無くなります。

そのため、例えば文献の「赤く、あるいは青く塗られており」(フロイス『日本史』)という記述は、間の句読点をはずして読む、という解釈も十分にありうることでしょう。

したがって天主の外壁は、フロイス『日本史』の表現を借りますと、上から「すべて金色」の階、「赤くあるいは青く塗られて」いる階、「黒い漆を塗った窓を配した白壁」の階、という3パターンに整理して考えることも可能になるのです。





さて、その「銅板包み」に関しては、かつて城郭研究のパイオニアの一人、櫻井成廣(さくらいなりひろ)先生がこんな指摘をしました。

(→詳細は記事「岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長」参照)


その壁面装飾については珍しくかつ重要な史料がある。それは井上宗和氏が「銅」という業界誌に発表されたもので、安土城天主を建築した岡部又右衛門以言(これとき)の「安土御城御普請覚え書」である。(中略)
それによると安土城天主木部は防禦のため後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、「赤銅、青銅にて被われたる柱のばてれんの絵など刻みたるに、塗師首(ぬしかしら)のうるしなどにてととのえ、そのさま新奇なれば信長公大いに喜ばれ、一同に小袖など拝領さる」という文句もあるという。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981/上記の( )内は当サイトの補足)


この文章によりますと、赤銅や青銅に透漆(すきうるし/半透明の漆)を施した珍しい意匠が採用され、しかもそこには「ばてれんの絵」が銅板彫刻されていた、というのです。

大天使ミカエル


ここで言われる「ばてれんの絵」とは、おそらくは、当時、フランシスコ・ザビエルの祈願によって、日本の守護聖人とされた「大天使ミカエル」ではないかと想像できます。

しかしそうすると、安土城天主には、キリスト教のイメージと、前回の記事の中国皇帝のイメージが、ごった煮のように混在していることになってしまいます。



論点4.中心は中国皇帝の儒教なのか?キリスト教なのか?

    天主の意匠に二つの主題が同居できた理由



世間一般の認識でも、信長はキリスト教に肩入れする一方で、仏教徒(延暦寺僧や本願寺門徒)の殺戮(さつりく)を繰り返したことは有名です。

そのうえ、かの立花京子先生が著書『信長と十字架』で、信長とは、「ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった」武将である、と定義した時には、目の醒めるような思いがしたものです。


「イエズス会のための仏教への鞭(むち)」であり、「イエズス会のために立ち上がった」武将であった信長は、イエズス会からの援助によって全国制覇を遂行していたからこそ、同会の布教状況を視察するヴァリニャーノに、全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのである。
京都馬揃えは、ヴァリニャーノへの全国制覇の事業報告の一つであった。それゆえに、ヴァリニャーノが訪れた天正九年(一五八一)にのみ行われたのである。


(立花京子『信長と十字架』2004)


かく言う私も、世界史の中での信長や豊臣秀吉をもっと語るべきだ、という点では大賛成なのですが、しかし安土城天主の最上階には、中華世界の支配原理と結びついた「儒教」画が描かれていて、中国皇帝のイメージにあふれています。

いったい信長の頭の中では、儒教が中心だったのか、キリスト教が中心だったのか、そのいずれでもなく本当に宗教心が無かったのか、とんと解らなくなります。

この問題は、天守とは何かを解明するうえでも重要な課題ですが、実は、そんな大きなナゾを一発で「氷解」させてしまいそうな本が、これなのです。



岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008年


この本の主たる研究対象は、表紙に描かれた宣教師マテオ・リッチと明朝官人の徐光啓という二人の人物です。

リッチは(言わば中国版フロイスのごとく)中国布教の切り札として送り込まれた語学堪能な宣教師であり、一方の徐は(言わば信長のようなヒラメキで)富国強兵のためにイエズス会の科学技術に目をつけた大臣でした。


この二人を中心に、なんと儒教と天主教(キリスト教)は、言わば同根の宗教であり、矛盾しない(!)とされたのだそうです。

それはちょうど日本で、信長が本能寺の変で横死して間もない時期に(!)。




儒家でないと中国知識人の信頼と協力をえられないことがわかり、リッチは教皇の許可をえて服装も儒服にした。キリスト教のデウスを中国語で天主と呼び、キリスト教を天主教とすることも決めた。(中略)

同時にリッチは、古代中国の儒学はキリスト教と一致すると認め、古典に出てくる上帝はキリスト教の天主と同一である、と教理問答『天主実義』に書いた。(中略)

(徐光啓などの高官や名士である)彼らはリッチが「中華を慕って泰西から九万里を航海」してきた外国人とみなして、その説教である天主教は儒教聖賢の言葉に背かないし、彼の世界知識は仏教や道教よりもしっかりしていると認めて、耶蘇(イエズス)会の活動を容認するようになる。

(岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008)



当時、儒教とキリスト教にこんな“親和性”がありえたことを、いったい日本人の誰が見抜いたでしょうか。

日本国内では仏教とキリスト教が衝突するばかりで、儒教とキリスト教の関係性に思いをめぐらせた者など、皆無だったかもしれません。

日本人でただ一人、それに気づいた人物、織田信長を除いては……









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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