城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2011

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2011年12月
       

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2011年12月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城とモン・サン・ミシェル <うみ>を背景にした「空中庭園」






安土城とモン・サン・ミシェル <うみ>を背景にした「空中庭園」


<織田信長が家臣らから受け取った礼銭を、自らの背後に投げた>という
『信長公記』の逸話から推理した、安土城主郭部の使い分け



ご覧の図は1年ほど前の記事(ご参考)でお見せしたものです。

ご承知のように、信長は岐阜城の頃から、山頂に私的な屋敷(城砦)を構え、山麓に公的な御殿を造営して、厳格にハレ(公)とケ(私)の領域を使い分けたと言われます。

上図はそうした信長の規範は安土城ではどうなったのか? という疑問からスタートして、『信長公記』の<礼銭を背後に投げた>という逸話をもとに、主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域を仮定してみたものです。


―――で、何故、再びこれをお目にかけたかと申しますと、現在、2011年度リポートの準備を進めるなかで、その前提として、安土城の件がかなり重要であるように思われ、昨年の記事のままではやや尻切れトンボの状態で、ここでもう一歩、お話を進めておきたいと感じたからです。


なおリポートは予告どおりに…

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
〜豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか〜


というタイトルで作業中です。

このタイトルの中身がどうして安土城に関わるのか、想像がつきにくいとは思いますが、その辺りは是非、リポートの完成をお待ちいただくとして、今回はその「伏線」とも言うべきお話を申し上げたく思います。



<昨年、信長廟が建つ安土城「伝二ノ丸」を再見して深まった疑念>



さて、周囲の木々が切り払われて、様相が一変したという天主台跡を、是非とも見ておきたいと出掛けたおりに、見晴らしの良くなった台上から、下の写真のような角度で見下ろしたとき、以前から感じていた疑念が(確信に近いものに)強まりました。

それは、信長廟の手前の四角いスペース(「伝二ノ丸東溜り」)から、伝二ノ丸に直接上がることは、やはり出来なかったのではないか(!)という強い疑念なのです。






上の図や写真にある信長廟への「石段」は、調査の結果、本能寺の変の後に新設された部分とされています。

したがって問題の四角いスペースは、本来の石垣の形だけで考えれば、そこから伝二ノ丸に上がることは出来ない構造のはずです。

しかしそれでは不便だったろう、ということからか、歴代の先生方の考証においては、何らかの方法で上がれたはずだとして、特段の指摘もない状態がずっと続き、ようやく三浦正幸先生が「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)」があったという復元を提示されて、今日に至っています。


ただしこの「階」については、まことに僭越ながら、何故わざわざ天主台にもたれ掛かるような構造(「寄掛け柱」)で密着させなければならなかったのか、私などにはよく理解できません。

(※そこで当ブログは、問題となっている礎石列を、逆に天主側から張り出した「懸造り舞台」のものではなかったか、と申し上げています。→ご参考


そして昨年、見通しの良い現地を再訪して強く感じたのは、やはり「ここから伝二ノ丸には上がれなかったのだ」(!)という、吹っ切れたような印象だったのです。




ご覧のとおり、図の「ケ」の領域には「虎口が二ヶ所」しか無かった、という意外な姿は、昨年の仮説「信長が礼銭を投げた二ヶ所」にぴたりと一致します。

そして問題の四角いスペースは、狭間塀や櫓門、懸造り舞台(当サイト仮説)に取り囲まれて、さながら桝形(ますがた)虎口の内部のようであったのかもしれません。




ただしこの場合、櫓門が桝形の外側にあって、通常の桝形虎口とは正反対の位置になるため、本来とは違った機能を考える必要がありそうです。

ひょっとしますと、ここは「御白洲」だという見方もあるようですから、例えば登城者や随行の者がここで控えたり、また家来や伝令の者に、はるか舞台の上から信長本人が命令を下したり、といったシチュエーションも考えられるのではないでしょうか。……

いずれにしても、今回の仮説でいちばん影響がでるのは、まるで奥ノ院のような位置付けに変わってしまった「伝二ノ丸」の実像だと思うのです。



<伝二ノ丸には「後宮」と琵琶湖を背景にした「空中庭園」が!?>



信長廟(冒頭の写真@と同じ位置から見た様子)


ここは一説に「表御殿」の跡とも言われましたが…


ここまで申し上げて来たように、伝二ノ丸が、自前の虎口を持たない、「ケ」の領域の最も奥まった曲輪だったとしますと、それに相応しい用途は、まず「後宮」(大奥の原形)と考えるのが自然な見方ではないでしょうか。


もしくは、数寄の空間(山里の原形)と考えるのも、安土城の場合は天主じたいが信長の住居だったようですから、一つの考え方かもしれませんが、いずれにしても「表御殿」などの“接見の場”ではありえなかったように思われるのです。


例えばフロイスは、天主の間近に「多種の潅木がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、魚のため、また鳥のための池」があったように書き残しているものの、今日までの調査で、安土城の主郭部から(伝二ノ丸を除いて)そうした庭園の跡は見つかっていません。

「魚」「鳥(水鳥)」というのですから、枯山水ではなく、本物の池と庭石と草木を配した庭園だったはずですが、それには相応の面積が必要でしょう。

それほどの面積が残るのは、もはや、信長廟のため調査対象外であった伝二ノ丸のほかに、候補地は見当たらない状況です。


そしてもしここに本物の池を備えた庭園があったとしたら、それは背後の琵琶湖とダブルイメージになって、まさに「空中庭園」に見えたのではないか… と思われてならないのです。



モン・サン・ミシェル(フランス/ノルマンディー地方)


中層階の屋上に回廊に囲まれた庭があって、その奥の窓が…


右の赤い人物が見える窓であり、さながら空中庭園のようである


日本でもその後、信長の後継者・豊臣秀吉が築いた伏見城に、「月見の機械(からくり)」と呼ばれた仕掛けが造られて、水面に浮かぶ名月のダブルイメージを秀吉らが楽しんだことはよく知られています。

このように勝手気ままな仮説ながらも、もし本当に、安土城の伝二ノ丸が本格的な「ケ」の領域だったとすると、残った「伝本丸」はやはり…………

ということで、2011年度リポートの中身につながっていくわけです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年12月06日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!水軍大将・菅達長(かん みちなが)は黄金天守を仰ぎ見すぎたのか






水軍大将・菅達長(かん みちなが)は黄金天守を仰ぎ見すぎたのか


今回は、当ブログが累計40万アクセスを越えました御礼を申し上げるとともに、2011年度リポートの準備を進めるなかで初めて気づいた一件をお話させていただこうと思います。

と申しますのは、豊臣秀吉の黄金天守の姿が、ある武将の心に深く根をおろしたために、老齢にも関わらず彼を決死の行動に駆り立てたのではないか… と思われる節を見つけたからです。


<管流水軍の祖・菅達長の城「岩屋城」とは>


ふつう「岩屋城」と言いますと、歴史ファンの多くが北九州の岩屋城… かの猛将・高橋紹運(じょううん)が島津の大軍に抵抗して玉砕した城を思われるでしょうが、今回の話題の城は、淡路島の北端にあった岩屋城です。

この城は、戦国末期の淡路島に割拠した「淡路十人衆」の一人で、島の北岸から東岸の水軍を率いていた菅平右衛門達長(かん へいえもん みちなが)の拠点の一つでした。


そして大坂湾一帯で織田信長と毛利輝元の覇権争いが激化すると、達長は十人衆の中でただ一人、毛利方について奮戦したそうです。
が、そんな淡路島の攻防も、天正九年、織田方の羽柴秀吉と池田之助の軍勢が上陸すると、たった一日で島内は掃討されてしまいます。

達長は逃亡し、その後も城を奪回すべく、長宗我部元親の弟(香宗我部親康)の与力になるなどして戦を続けたものの、再び豊臣秀吉の四国攻めが起こると、ついに長宗我部氏と共に秀吉の軍門に下りました。


しかしそれ以降は、秀吉麾下の水軍として一隊を率い、九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵と出陣し、朝鮮出兵では舟奉行の一人に加えられたと云います。

岩屋で1万石(後に四国伊予で1万5千石)を領することを許され、達長が創始した水軍の術は「菅流」と称して後世に伝えられました。


豊臣大名の居城(天守)配置/慶長3年 1598年当時…秀吉死去の年

(※新人物往来社『日本史総覧』所収「豊臣時代大名表」を参考に作成)


さて、そんな達長の岩屋城ですが、ご覧のとおり大坂湾をグルリと取り囲んだ豊臣大名の居城(天守)群の中にあって、小城ながらも、淡路島から明石海峡を監視するという重要な役目を担っていたことが分かります。

この時期はおそらく近世の岩屋城ではなく、戦国期以来の岩屋城を使っていたものと思われますが、この岩屋城あたりからも海の向こうの豊臣大坂城はよく見えたことでしょう。


フロイスは「とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」(『完訳フロイス日本史』)と書いていますから、ひょっとすると晴れた日の夕刻には、西陽を照り返して強烈に輝く天守が臨めたのかもしれません。

いずれにせよ、これは達長に対する秀吉の全幅の信頼をうかがわせる居城配置だったと思うのですが、慶長3年、秀吉が死去すると、達長は秀吉の遺品として名刀「長光の太刀」を受け取ったとされています。


そして天下分け目の関ヶ原合戦では、達長はやはり西軍に属したため、所領は没収。辛くも朝鮮出兵時に同じ船手の将だった藤堂高虎の嘆願で救われ、高虎の城下で蟄居し、破格の五千石で仕える身となったそうです。


やがて運命の大坂の陣―――。達長はすでに相当な老齢に達していたようですが、冬の陣が終わり、有名な「外堀・内堀の埋め立て」工事の場で、事件が起きました。

達長らは藤堂高虎の埋め立て分の作業を担当したものの、「内堀まで埋めてしまおう」という徳川幕府の謀略に嫌気がさしたのか(はたまた豊臣方に肩入れしたのか)作業をボイコットして現場に出ず、見回りにきた高虎を激怒させました。

この時、高虎は達長を「腰抜け」と罵倒したようです。
それに対して、達長は「悪言を吐きてこたへり、あまつさえ既に公(高虎)に切り掛からんとの風情なり」(『公室年譜略』高山公巻之七)という行動に出たのでした。

達長の悪言とは「私の腰の抜けたるをいつ御覧ありし」だったとも伝わっていて、達長としては“どちらが腰抜けなのか”という鬱憤(うっぷん)もあったのかもしれませんが、達長はこの件で即座に切腹を命じられました。

(※事件の経緯はサイト「辛酉夜話」様がたいへん詳しく、参考にさせて戴きました)


切腹は埋め立てが終了した三日後だったとも云います。

今日では、達長の行動は古武士の気骨を示したもの、等々と語られますが、ついに達長に「悪言」を吐かせたのは、岩屋城から日々眺め続けた金色の城への憧憬だったようにも思われてならないのです。











作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年11月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!拡充版!の新イラストと共に見る天守台構造






拡充版!の新イラストと共に見る天守台構造




ご覧のイラストは、前々回の記事でお届けした新イラストを、さらに広い範囲に拡大して、そこに想定される狭間塀(さまべい)や走長屋などを描き加えたものです。

こうしてご覧いただきますと、当サイトの復元案では、豊臣大坂城の天守台周辺はかなり複雑な構造になっていることがお分かりでしょう。

で、今回は、何故こんな形になるのかを、特に天守台の中の石蔵(穴倉)を中心に図解付きでご覧いただこうと思います。
まずは復元の基本的な考え方としまして…


T.<中井家蔵『本丸図』の朱線はやはり無視できない、という基本スタンス>


通称「黄堀図」部分          「青堀図」部分

(※当図は上が南)


お馴染みの中井家蔵『本丸図』には通称「黄堀図」「青堀図」と呼ばれる2枚があり、そのいずれもが、天守の南西隅(図では天守の右上の角)のあたりを墨線でなく「朱線」で描いています。

『本丸図』の他の箇所では「朱線」は土塀や狭間塀を示しているため、この天守の「朱線」をどう解釈するかについては色々な見解がありました。

前回記事でご紹介した櫻井成廣案は「天守台上の空き地を囲う土塀」と考え、また宮上茂隆案は「(この部分の天守壁面が)本丸地面から直接建ち上がっていた」と考証し、三浦正幸案・佐藤大規案はかなり限定的にとらえて石蔵(穴倉)の入口だけ復元するなど様々でしたが、この部分はやはり、何か“特殊な状態”であったことを示しているように思われてなりません。




そしてもう一つ、ここには気になる「朱線」が引かれています。

天守台の南側(写真では上側)に、御殿(「御納戸」)との境界を区切るかのように引かれた「朱線」があり、その中央付近からは天守側に伸びる「朱線」がT字形に枝分かれしています。

このように天守台の間際を細かく仕切った「塀」というのは、現存天守や城絵図の天守にもまるで例が無いため、諸先生方の復元案では、この塀の用途(ねらい)をはっきり言及したものはありませんでした。


ただ唯一、大竹正芳先生が、『本丸図』は築城開始早々の様子だという前提で、
「この時点ではまだ天守の建物が築かれていなかったに違いない。天守台のまわりを塀で囲ったのは工事の安全確保と機密保持のためではなかろうか」(『秀吉の城』1996年所収)
と指摘されたのが、合理的な解釈として印象に残っているのみです。

大竹先生の解釈は、例えば尾張名古屋城の天守台を加藤家(清正)が独力で築いた際に、石垣技術の「機密保持」のために幕で覆った…云々という伝承を想起させるもので、かなり魅力的です。

しかし加藤家のケースは、築城が徳川幕府の監視下であり、諸大名の分担箇所が複雑に入り組んだ「天下普請」の場であったからで、豊臣大坂城の天守台築造のときも、そのような機密保持は本当に必要だったのでしょうか。


さらに当サイトでは『本丸図』の作成時期は「秀吉の最晩年」だったのではないかと申し上げています。(「2010年度リポート」)

その場合、大竹先生の指摘を参考にしますと、なんと、慶長地震で秀吉の天守が大破したあと、秀頼の再建天守(当サイト仮説)が建つまでの“空白期間”に当たる(!)という可能性が出て来ます。

しかしこれについても、果たしてその状態の「機密保持」は本当に必要だったか?という疑問はぬぐえず、この複雑な塀(朱線)はやはり、何かしら別の役割を担っていたように思われるのです。





U.<いま確認できる秀吉の天守台には「浅い穴倉しかない」という、厳然たる事実>


発掘された秀吉時代の姫路城と肥前名護屋城の天守台跡


(※上写真は加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の写真をもとに作成)
(※下写真の肥前名護屋城跡の礎石等は、穴倉の埋め戻し後の模擬石ですのでご注意を)


さて、豊臣大名の天守台には、大規模な石蔵(穴倉)の有るものと無いものが混在しておりまして、その違いを分けた判断基準は何なのか、定かでありません。

例えば秀吉直臣だった浅野長政の甲府城、加藤清正の熊本城、黒田長政の福岡城などの天守台にはそれが有ったのに、いわゆる五大老の毛利輝元の広島城や萩城、前田利家の金沢城(推定)、小早川隆景の三原城、宇喜多秀家の岡山城などは一様に「無かった」と言えそうだからです。


―――では秀吉自身の居城はどうだったか?とダイレクトに問えば、上写真でご覧のとおり、いま確認できる秀吉の天守台遺構は、姫路城も、肥前名護屋城も、深さ5尺ほどの浅い穴倉しか存在しなかった(!)という厳然たる事実があります。


さらにもしも石垣山城や山崎城の天守台跡にも発掘調査が入れば、事態はずっとクリアになるはずだと思うのですが、私の勝手な印象を申しますと、やはりそれらも大規模な石蔵(穴倉)は想像しにくく、たとえ有ったとしても、同様の浅い穴倉の跡が見つかるのではないかと感じられてなりません。

ですから豊臣大坂城についても、気宇壮大な天守台がそびえながら、その上に、わずか「深さ5尺」という浅い穴倉を“いかに復元できるか”が、現下のマニア冥利(みょうり)につきると思うのです。



で、以上のT.U.の考え方を両立できる復元が、ご覧のとおりの複雑な天守台だと考えられるわけです。



(※上図の「高さ5尺の石塁」は『本丸図』の書き込みの数値にぴったり合致するものです)



(※なお当イラスト左隅の走長屋の窓は、突き上げ戸であった可能性も高いと思われます)

(※また前々回の繰り返しで恐縮ですが、こうした景観の手前には、実際は奥御殿の殿舎群が建ち並んでいて、当イラストはそれらを“透明化”した描写になります)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年11月08日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣大坂城天守の造形の肝(キモ)…「付櫓」の話






豊臣大坂城天守の造形の肝(キモ)…「付櫓」の話


かつて著名イラストレーターの香川元太郎先生が「安土城天主は研究者の数だけ復元案がある」と発言されましたが、豊臣秀吉の大坂城天守にも、これまで多くの復元案が登場して来ました。

前回のブログでお見せした新イラストも、そうした系譜の上にアツかましくも参戦させていただこう、との意気込みで作成したものです。

で、改めて歴代の復元案を見直してみますと、「付櫓(つけやぐら)」の復元方法が、それぞれに千差万別の手法(特に天守台の解釈や屋根の突き合わせ方など)を示していて、これがまたマニアックな興味を引きつけてやまないのです。


<櫻井成廣(さくらい なりひろ)案>
(※櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 大阪城編』1970年に掲載の図より作成)

まずは城郭研究のパイオニアの一人・櫻井先生の復元ですが、これは天守台に大規模な石蔵(穴倉)は無かった(!)という大前提から出発しています。

そのため「付櫓」は、天守本体と同じ高さから二階建てで付設され、そこに天守南面では唯一の(!)出入口がある、という構造です。

しかも屋根は天守二重目の屋根から一続きで葺き降ろし、そこに大きな千鳥破風を設けています。


<宮上茂隆(みやかみ しげたか)案>
(※『歴史群像 名城シリーズ@ 大坂城』1994年に掲載の図より作成)

さて次の宮上案は、お馴染み『大坂夏の陣図屏風』の描写と、中井家蔵『本丸図』で天守台南面に引かれた「朱線」に着目した結果、天守の南西部分は本丸地面から直接建ち上がっていた、と解釈したものです。

その影響なのか「付櫓」も、天守台上より一階分低い位置から建てられ、二階建てであるものの、上の櫻井案ほどは屋根の突き合わせに苦労をしていません。


<三浦正幸(みうら まさゆき)案>
(※三浦正幸 監・編修『CG復元 よみがえる天守』2001年に掲載の図より作成)

この三浦先生の復元案もまた、『大坂夏の陣図屏風』の描写に基づく場合を考察したものですが、新たに熊本城天守との類似性に着目したため、上の宮上案に比べれば、天守の中層以下の破風がすべて90度回転した配置になっています。

その結果、「付櫓」については、天守の(二つ並んだ)比翼千鳥破風の復元を優先せざるをえず、平屋建てとなり、それでも屋根どうしが上下に密着した状態です。

また天守台は明確に、大規模な石蔵(穴倉)が存在したとしています。


<佐藤大規(さとう たいき)案>
(※三浦正幸監修『図説・天守のすべて』2007年に掲載の図より作成)

ご覧の佐藤案は、天守台については、上の三浦先生のもう一つの復元案…『大坂冬の陣図屏風』に基づく案と同一のものだと思われます。

そして「付櫓」についても、建物の高さと壁面の意匠以外は同じ構造のようであり、屋根の突き合わせはまったく無理のない自然な処理になっています。





(※このほか大竹正芳先生の復元画等もありましたが、画像の都合で今回は割愛しました)

こうして各案を見比べますとそれぞれ特徴があり、それと言うのも、この「付櫓」は中井家蔵『本丸図』等に漠然とした平面形が示された以外は、何も文献上に情報が無いため、言わば“どうにでも復元できる”フリーゾーンなのです。

―――ということは、逆を申しますと、この部分の復元は、研究者の個々の発想や資質がもろに表出した箇所でもありそうなのです。




そこで当ブログの新イラストを再度ご覧いただき、この「付櫓」はどんな発想から出たものか?と問われれば、「福山城天守」の構造に大きなヒントを得たことを白状いたします。



<何故か多くの共通点をもつ、福山城天守の不思議さ>



福山城天守(アメリカ軍の空爆で焼失/昭和41年に外観復元)


大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、元和年間に徳川幕府の肝いりで、水野勝成(みずの かつなり)が現在の広島県の福山に新築した近世城郭が、福山城です。

築城時には現存の伏見櫓をはじめ、徳川再築の伏見城から多くの建物が移築され、「伏見城」との関係が深いものの、天守については水野氏による新築と言われています。

ところが、この天守、どうにも豊臣大坂城との共通点が多いように思われてならないのです。


【共通点1】 付櫓と付庇(つけびさし)、その下にある唯一の出入口

上の写真でも明らかなように、この天守は、正面向かって右手前側に「付櫓」と「付庇」が一体化して張り出していて、このデザインは冒頭からご覧の大坂城天守の復元像にそっくりです。(張り出しはともに南東側!)

それは細部においても、天守の屋根から一続きで葺き降ろしている点や、大きな千鳥破風で屋根の造形をまとめている点、その下に唯一の出入口がある点など、<櫻井成廣(さくらい なりひろ)案>を介した共通点が満載です。


【共通点2】 半地下構造の天守台石蔵(穴倉)

さらに内部の構造でも、付櫓・付庇・天守本体ともに、初階が浅い石蔵(穴倉)を伴っていて、半地下構造になっていました。

これは秀吉の姫路城天守や肥前名護屋城天守が、ともに深さ5尺という、浅い穴倉を伴っていたことを連想させますし、同様の仕組みはやはり<櫻井成廣案>に採用されています。




以上の事柄を踏まえますと、歴代復元案の中でも古い<櫻井成廣案>というのは、なかなか捨てがたい貴重な示唆を含んだ案であると分かり、新イラストでも多くを参考にさせていただいた次第です。

ただし、そうなりますと……




―――ならば、福山城天守で印象的な「付櫓」の望楼部分はどう解釈すればいいのか? ひょっとして豊臣大坂城まで遡(さかのぼ)るのか?

この点では、ご承知のとおり、秀吉が自ら縄張り(設計)した豊臣時代の和歌山城にも「小天守」が築かれ、大小連立天守だった、との伝承があります。(『南紀徳川史』)

また現在の大阪城天守閣(復興)を設計した古川重春(ふるかわ しげはる)先生も、豊臣時代の大坂城は「二層の小天守を伴った所謂複合式の天守で」と著書に記すなど、「小天守」の可能性には寛容な立場でした。(『日本城郭考』1974年)

マニア心理として、思わず新イラストにあらぬものを描き込んでしまいそうな“誘惑”に襲われ、それを振り払うのに精一杯の心境です。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年10月26日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい






新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい


大阪城天守閣蔵の屏風絵(部分)とその推定復元/ともに<西面>!


当サイトでは、豊臣秀吉が創建した大坂城天守について、上記の『大坂城図屏風』が伝えるおびただしい紋章群こそ、この天守に込められた深刻な政治的思惑を示すもの… と申し上げて来ました。

それは、まさに宣教師の「地の太陽は殆ど天の太陽を暗くする」(『日本西教史』)という評伝どおりの破天荒な外観であり、当サイトはそうした屏風絵の描写に忠実にイラスト化を行ったつもりです。

ただしそれ以来、長らくこの<西面>イラストばかりをお見せして来たため、この度、新たに<南面>(厳密には南西の詰ノ丸奥御殿の南部付近)から見上げた様子を推定して、イラスト化してみました。



(※クリックすると壁紙サイズでもご覧いただけます!)


こうしてご覧になれば、『天正記(柴田退治記)』が伝えたとおりの「四方八角」の建築であったことが、如実にお判りになるでしょう。

で、この新イラストで申し上げたいことは多々あるのですが、まず今回は「紋章群」の実際についてお話してみたいと存じます。



<紋章群は大型の木彫なのか?それとも錺(かざり)金具か?>



その紋章群とは、具体的にはどのような材質だったのでしょう。

同時代の事例で似たものを挙げますと、まずは醍醐寺三宝院の国宝・唐門にある木彫の紋が連想され、この門が勅使門であることを示した「菊紋」「桐紋」には、かつて金箔が張られていたそうです。


醍醐寺三宝院 唐門


一方、『信長記』『信長公記』類によりますと、織田信長の安土城天主には、京の装飾金工・後藤平四郎が腕を振るったという金銅製の錺金具が施されていました。
おそらくは釘隠し(くぎかくし)の類かと思われ、その仕事で平四郎は信長から小袖を賜ったと記されています。


ならば大坂城天守の巨大紋章群の場合、果たして木彫なのか? 錺金具の応用なのか? と問われますと、それを判断できる直接的な史料は無いようですが、ただし紋は「壁」そのものに取り付けられた例はあまり一般的でないようで、その点では注意が必要でしょう。

つまり建物に「紋」がつくのは大抵、門扉、破風、瓦、幕、提灯といった箇所になりがちで、醍醐寺三宝院も門扉であり、その例に漏れません。

例えば年代を問わずに色々挙げてみますと…


北野天満宮の門扉         宇和島城天守の唐破風下


靖国神社の白幕             高山陣屋の提灯



―――ですから巨大紋章群の位置も「壁」ではない、と考えた場合、ここで大きなヒントになるのが、ルイス・フロイスの見聞録にある“秀吉が大坂城天守の戸や窓を自分の手で開いて行った”という記述だと思われるのです。


(※『完訳フロイス日本史4』中公文庫版より)

その後関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔の門と窓を急ぎ開くように命じた。
(中略)
彼は城内で登り降りする際には、低い桁がある数箇所を通過するにあたって足を留め、おのおのが上の桁で頭を打たぬよう注意して通るようにと警告した。
そして途中では閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いていった
このようにして我らを第八階まで伴った。



これはフロイスら宣教師など三十人余りが大坂城を訪問したおりのことで、城内で“頭を打ちそうな桁(けた)”と言えば、まさに天守や櫓の階段部分であることは、お城ファンならすぐに思い当たるでしょう。

そして秀吉と一行がわざわざ天守に登閣するのですから、いきなり真っ暗な天守内にゾロゾロ上がっていったとは思えず、事前に窓を開け放つなどの準備は、当然、ぬかりなく行われていたはずです。


にも関わらず、秀吉が自ら開ける箇所を“残していた”というのは、そこに一行の話題となる何か(つまり興味の対象…)があったとも想像できます。

なおかつ、その箇所が秀吉一人では作業が危ういほど重いもの(例えば巨大な木彫が外側に取り付けられた戸など)であったはずはありません。


このように考えた時、ふと想起されるのが、国宝・犬山城天守にある両開きの窓です。
左右の戸は止め金等でフックするだけの構造であり、秀吉一人でも自在に開け閉めできる程度のものです。


犬山城天守の窓(昭和の解体修理時の復原)


そして「一行の興味を引いた何か」がここにあったとしますと、黄金の紋章群とは、大型の扉金具ではなかったか? と考えられるように思うのです。

―――つまり個々の紋章は、止め金と一体化して左右の戸に打たれた錺金具であり、その窓をあける動作を外から見ますと、巨大な紋章が真っ二つに割れて開き、閉めるとぴったり元の紋章に一体化する、といった面白い(やや不敬な印象もあって大胆不敵、かつ破天荒な)仕掛けだったとしますと、前述の秀吉のエピソードはまことに痛快です。




細工としてこれに類似のものは、例えばこちらは全く時代の異なる錺金具ですが、成田山新勝寺の開山堂などにも同類のものが見られます。


と、今回は、かなり手前勝手な「空想」を申し上げてしまったのかもしれませんが、私が想像するに、そんな仕掛けを宣教師らの前で得意げに開け閉めしてみせる秀吉の表情が、ありありと思い浮かぶのは何故なのでしょう。……

(※次回に続く)


(※ちなみに今回のイラストは、下記の三浦正幸先生による復元CGと、ほぼ同じアングルから作画したことになります)

(※そして両者ともに、実際は手前に奥御殿が建ち並んでいたため、このようなアングルから天守の全身をスッキリ見通せなかったことは言うまでもありません)



別冊歴史読本『CG復元 よみがえる天守』2001年







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年10月06日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる






坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる




このところ、ご覧の付櫓(つけやぐら/続櫓)に特徴のある「秀吉流天守台」の話題を続けておりますが、この辺で一旦、中締めをさせて戴くため、今回は、その形状の由来について、(以前に触れた「中央櫓」よりも)ずっと直接的な原形が、琵琶湖畔のいわゆる「浮城」群に出現していたのではないか… というお話を申し上げたいと思います。


大津城天守の移築とされる、彦根城天守

同天守の初重平面

(『国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書』1960年に掲載の図より作成)


ご承知のとおり彦根城天守は、かつては琵琶湖対岸の大津城にあった天守を移築(部材転用)したものとされ、図の「多聞櫓」はやや後世の増築らしいものの、天守本体と「附櫓(つけやぐら)」は築城後まもなく揃って完成(慶長11年頃)したことが判っています。

何より興味深いのは、その天守と附櫓に転用された部材から、前身の建物(大津城天守)の概要が推定されていることで、その初重の平面は、下図のように、四角形と台形が組み合わさった形をしていたそうです。

何故そのように言えるのか、工事の報告書によれば…


前掲報告書に掲載の図(「前身建物推定平面図」)


(報告書の説明文より)

幸い各部材には旧の位置を示す番付や符合が陰刻されていて、この番付や部材寸法等により前身建物の規模を推定することが出来た。
(中略)
「一ノ一」の隅柱を調査してみると、柱への貫穴が矩の手にあけられているわけであるが之が直交せず片方の穴は斜にあけられていた。これはこの隅で建物が直角に組まれていなかったことを示す。
更に「一ノ四」の柱を見た所、貫穴はまともであったが、梁の仕口が直角でなく、斜に穴をあけられていることが認められた。
なお同種の柱が外に二丁あり、挿図の右端の柱通りである「一通り」が、桁行とは直角でなく斜になっていたものと考えざるを得なかった。
この傾きの角度は柱間六間につき一間だけ傾いているとの結果が得られた。


(※報告書には工事関係者として「滋賀県文化財係長(工事監督)大森健二、同技師(工事主任)清水栄四郎…」等とあります)


このようにして判明した傾きのため、大津城天守の一隅は約100度という鈍角(どんかく)であったとされるのですが、この角度、他の天守や天守台(例えば豊臣大坂城や犬山城)にも似たような角度がついていたことは、城郭ファンに良く知られています。


豊臣大坂城天守            犬山城天守


  大津城天守            (彦根城天守)


各天守の平面図を並べてみますと、ご覧のように「付櫓」と「鈍角」の位置関係もまた、秀吉流天守台の成り立ちに関係しているように感じられます。

―――で、ここで最も肝心なことは、<では何故、その一隅だけが鈍角なのか?>という素朴な疑問でしょう。

報告書はそうした疑問に答えていませんが、ごく常識的な連想として、少なくとも彦根城(大津城)の場合は、前身の天守が本丸石垣の鈍角の一隅に建っていたことを示唆しているのではないでしょうか?



<大津城と同じ琵琶湖“浮城”群の一つ、膳所城(ぜぜじょう)の場合は…>



本丸の左手前「隅角」に天守!/滋賀県立図書館蔵の膳所城絵図より作成


話題の大津城が関ヶ原合戦時の砲撃戦の惨状で廃城となり、その後継として至近に天下普請されたのが膳所城(現在も同じ大津市内)でしたが、以前の記事(→ご参考)で申し上げたとおり、その天守は「本丸の左手前隅角」という織田信長の天守位置を踏襲していたように思われます。

その詳しい位置や規模は発掘調査で判明していて、鈍角というよりも、やや鋭角の隅角に建っていたそうです。

そこで試しに、冒頭の彦根城天守をその位置に重ねてみますと…


膳所城天守(図の赤い天守)の位置に


彦根城天守(青い天守)を重ねてみると…

(※『膳所城本丸跡発掘調査報告書』1990年に掲載の測量図より作成)


決して二つの天守に直接の関係はないものの、ご覧のとおり、ともに直角でない隅角に対応できる形をしていて、例えば何か別の天守(言わばミッシングリンク…)を介した関連性が感じられるようです。

また、このようにして初めて合点がいくことは、彦根城天守とは、まず附櫓で「鈍角」にも対応でき、次いで多聞櫓とその石垣で「鋭角」に切り返すデザインになっていた、ということでしょう。


一方、膳所城天守にはいっそう長大な多聞櫓がめぐっていて、その石垣の屈曲の具合を見ますと、それらはなんと、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿の石塁にたいへん良く似た形状になっているのです。

膳所城の石垣             豊臣大坂城の石塁



このように一連の城郭群(豊臣大坂城…大津城…彦根城…膳所城…)は、天守周辺のデザインに関して、それぞれに影響を及ぼし合った痕跡を残しているようです。



<ならば秀吉自身の居城・長浜城や、明智光秀の坂本城はどうなのか?>



やはり大津城の天守も、本丸の左手前隅角の「鈍角」にあった!?

(※『新修大津市史』1980年に掲載の図より作成)


ここまで申し上げた内容から、諸書に掲載中の大津城の推定復元図を踏まえて、その本丸の南西隅の「鈍角」部分(現状はマンションのパークシティ大津)に天守はあったのではないか、と想定してみました。


なお、諸書の推定復元図の中には、この隅角に「橋」を復元したものもありますが、やはりこの位置が最有力だと思われます。

反面、ここから特段の発掘報告が無かったのは、廃城後の変転で天守台が失われたか、または(チョット矛盾するように聞こえるかもしれませんが…)むしろここは初めから「台」そのものが無い形式であり、あくまでも石垣の隅角の形に合わせて天守や附櫓・多聞櫓が配置されたことを、まさに「鈍角」が物語っているように思うのです。


さて、それならば「秀吉流天守台」の源流はどこまでさかのぼれるのか? という興味については、羽柴秀吉時代の長浜城や、琵琶湖“浮城”群の祖形とも言うべき明智光秀の坂本城も、当然、その射程内に入るでしょう。

おそらくは膳所城と同様に、それらの天守は「本丸の左手前隅角」が有力だと思われ、その場合、坂本城には大・小天守があった、という伝承は興味深く、きっと本丸の左手前に大天守、右手前に小天守(月見櫓?)という、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿とそっくりの形だったのではないでしょうか。


―――したがって「秀吉流天守台」は、ひょっとするとライバル・明智光秀の坂本城に産声をあげ、秀吉自身の長浜城、大津城、膳所城と続いた、琵琶湖中に突出した「浮城」群に共通の手法で築かれたのかもしれません。


そう思いますと、面白いことに、冒頭の彦根城天守は、彦根山の山頂に移築されているものの、その「附櫓」はやはり湖の方角に張り出して設けられている(!)ことに気付かされ、これも歴史に埋もれた伝承形態なのかと、ハッとさせられるのです。……



しかも「附櫓」の反対側、つまり写真の手前側が、ちゃんと城の「表」大手方面になっています。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年09月20日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・秀吉の“闘う天守”とシャチホコ池






続・秀吉の“闘う天守”とシャチホコ池


前回は、山崎城天守に始まったと思われる豊臣秀吉の“闘う天守”のお話をしましたが、そんな秀吉の天守との位置関係において、チョット興味深い間柄にあるのが、通称「鯱鉾池」(しゃちほこいけ)です。


『肥前名護屋城図屏風』(佐賀県立名護屋城博物館蔵/部分より作成)


この屏風絵は北側(玄海灘の方)から、朝鮮出兵の“大本営”肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)を描いたもので、天守は本丸塁上の北西角に(朝鮮半島および中国大陸の方に向けて)屹立していて、これも秀吉の“闘う天守”の典型でしょう。

そしてこの絵の中で、シャチホコ池は山里曲輪の手前にくっきりと描かれています。

確かに形はシャチホコの尾のようですが、実はこれが、秀吉のほかの城… 少なくとも豊臣大坂城や伏見城にも、同じ形で、ちゃんと設けられていた(!)可能性がありまして、今回は、少々余談っぽくなるかもしれませんが、このシャチホコ池と“闘う天守”の関係をお話してみたいと思います。



中世都市研究10『港湾都市と対外交易』2004年


(上記書所収/宮武正登「基地の都市「肥前名護屋」の空間構成」より)

秀吉渡海までの「御座所」として築かれた名護屋城は、標高約九〇メートルの「勝雄岳」の最高所に五層の天守を建て、その周囲に本丸以下の大小九箇所の曲輪を配した「総石垣造り」の本格的城郭であった。

これら山上の曲輪群の北麓には秀吉のプライベートルームに相当する上・下山里曲輪が置かれているが、その外濠としての機能を担う通称「鯱鉾池」に対面した低丘陵一帯は、秀吉直属軍の駐屯地区に比定されている。



肥前名護屋城の中心部分(上記書に掲載の図より作成)


ご覧のように、この城は北東にシャチホコ池をはさんで城下町(直属軍の駐屯地区+町場)と港が連なり、その反対側の南西を中心にぐるりと諸大名の陣地が広がっていました。

この点について、上記書の佐賀県教育庁社会教育・文化財課の宮武正登先生は、さらにこう指摘しています。


(宮武正登「基地の都市「肥前名護屋」の空間構成」より)

名護屋城のグランド・プランを検討するに城郭としての防御方向は明らかに南側の山間部を向いており、城下の展開方向とは背中合わせの状態にあるといえる。
(中略)
すなわち、城は南方の丘陵地帯に林立する大名陣地群との連携(ことに加藤清正、福島正則、片桐且元、木下勝俊、堀秀治など譜代・親族系大名の陣所の密集地区に面する点は重要である)、および唐津・博多への主要往還(近世期の唐津街道)との直結を眼目としており、対するに町場は諸国からの物資の輸送起着点である軍港を拠り所として独自に発達を遂げたものと推測できる。


これまで当サイトでは、織田信長や秀吉の時代は、例えば岐阜城や安土城でも明らかなように、城の片側にしか城下町(町場)が無いケースは、むしろ当たり前の形だった、と度々申し上げて来ました。

その点、肥前名護屋城も、北東の港側に城下町、その反対側に(言わば堀切か石塁のごとくに)諸大名の陣地を置いていたことが分かり、築城プランの面白さが感じられます。

そうした中で、シャチホコ池は、秀吉の“闘う天守”の膝元近くにありながらも、城の奥向きや裏方(秀吉のプライベートな領域、城の経済・物資調達をまかなう領域)の真ん中で、ひょう然と、穏やかな風情を漂わせていた感があります。





<じつは伏見城にも?豊臣大坂城にも?あった シャチホコ池>


伏見城跡に隠されたシャチホコ池の痕跡は…

(※加藤次郎『伏見桃山の文化史』に掲載の図より作成)

で、ここからは当サイトの仮説なのですが、ご覧のように、伏見城本丸の北面の直下に設けられたブルーの「空堀」部分は(…以前に私が目た時は少々水が溜まっていましたが)かつての形は、何故かシャチホコ池にそっくりであり、なおかつ周囲の曲輪の関係性も肥前名護屋城に似ているようなのです。

例えばグリーンの部分、肥前名護屋城では「秀吉のプライベートルームに相当する上・下山里曲輪」ですが、伏見城でも「松ノ丸」になっていて、これは『宗湛日記』に<木幡の関の松原を活かした茶庭と茶室があった>と伝わる曲輪であり、秀吉の側室・松の丸殿の御殿が建てられた場所です。

しかもこの松ノ丸は、慶長地震後に伏見城が再建された時、本丸とともに真っ先に完成した曲輪とも言われ(櫻井成廣『豊臣秀吉の居城』)、秀吉の居住のためには最優先される場所(=プライベートルーム?)であったのかもしれません。

肥前名護屋城             伏 見 城          

(※両図の縮尺は異なります)


さて、このようなシャチホコ池は、はるか以前の豊臣大坂城にも、その痕跡があった可能性をご覧いただきましょう。


(※両図は『僊台武鑑』大坂冬の陣配陣図、『大坂築城丁場割図』より作成)

このとおり豊臣大坂城にも、先ほどの肥前名護屋城や伏見城とまったく同じ位置(ブルーの部分)に、シャチホコ池の形を見いだすことが出来ます。


この水掘は左図の『僊台武鑑』の描写によりますと、大川(淀川)から舟で直接に侵入することが出来ますので、これこそ豊臣大坂城の物資調達の要を成す地点だったのかもしれません。

ですから、これが本当にシャチホコ池の元祖としますと、その機能は、やがて肥前名護屋城の例の「港」に引き継がれたことにもなります。


シャチホコ池とは、そうした“大坂城の隆盛の記憶”を引きずる存在として、肥前名護屋城にも、伏見城にも、大坂城と同じ位置にシンボリックに設けられたのではないか… などと考えることも出来るのではないでしょうか。


そして豊臣大坂城のグリーンの部分について申しますと、秀吉が死んで、関ヶ原合戦後には片桐且元の屋敷になったとされますが、それ以前はどういう風に使われたのか、よく判っていないようです。

ひょっとして、千利休か誰かの茶頭屋敷があったのなら、まことにお似合いではないかと思うのですが…


秀吉の城はほんとうに同じ手法が繰り返されていて、シャチホコ池も、常に各城で“闘う天守”の脇にあって静かに水を湛えていたのかもしれません。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年09月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!秀吉の“闘う天守”が出現した天王山






秀吉の“闘う天守”が出現した天王山



天王山山頂の山崎城(二ノ丸)の井戸跡/でも現地では「天王山城」と…


山崎城(京都市)は羽柴秀吉が天下取りに名乗りをあげた城であり、秀吉の城を語る上でかなり重要な存在だと思うのですが、世間的にはどうも名称の定まらない城でして、諸先生方もバラバラの名で呼んで来られました。

「山崎城」(平井聖ほか編『日本城郭大系』) 「天王山宝寺城」(村田修三編『中世城郭辞典』) 「山崎宝寺城」(西ヶ谷恭弘編『秀吉の城』)…

さらには「宝寺城」「宝積寺城」「鳥取尾山城」とも呼ばれたそうで、そもそも天王山は全国的に有名な山なのですから、冒頭の写真のとおり「天王山城」でいいのではないかと思うものの、やっかいなことに、京都府内にはもう一つ「天王山城」(綾部市)があるそうで、本当にツイてない城です。

(※ただし綾部市は昔の丹波国ですから「丹波天王山城」としてもらう手もあるのかもしれませんが…)



秀吉の天守は“次の攻略目標”を指し示していた!?

山崎城の天守の外正面 → 北向き → 次は北ノ庄城の柴田勝家が攻略目標!


さて、本題に入りますと、当ブログは以前の記事(→ご参考)で、秀吉の天守群はある時期から“次の攻略目標”を指し示していた、という仮説を申し上げました。

その最初の事例が、山崎城の天守でした。

このことから申しまして、山崎城天守とは、それまでの織田信長の天主には無かった、秀吉独自の解釈が加わった天守のように感じられ、それは言わば“闘う天守”という性格付けではなかったかと思うのです。


これまで当サイトは一貫して「天守は戦闘を主目的とした建造物ではない」「戦の司令塔(城主の御座所)でもなかった」と主張してまいりましたが、秀吉の天守群は「本丸の塁線の一角に設ける」という鉄則があり、そのような点から「天守の軍事性」を指摘される先生方(例えば城郭談話会の高田徹先生など)もいらっしゃいます。

そこでこの機会に、当ブログの秀吉流天守台の話題も兼ねて、この“闘う天守”についてお話してみたいと思います。



<はじめに 天守台の規模をめぐる疑問>

…山崎城の天守台は諸書の縄張図の想定よりずっと小さく、天守はほぼ天守台いっぱいに建っていたのではないか?




石垣の痕跡から類推できるのは、約10m四方?の天守本体と付櫓か


(※写真は拡大してご覧になれます)


これまでに公表された縄張図をもとに、天守台の規模は「東西35m南北20m」などと言われますが、現地にのこる石垣の痕跡を見ますと、それよりもずっと小さなもののようで、天守はその小さな台上いっぱいに建てられた印象があります。

この城跡はこれまで発掘調査が無かったらしく、はやく専門家の方々の調査をお願いしたいところですが、少なくとも現状の天守跡からは、前回記事の秀吉時代の姫路城と同じく、方丈建築の影響を感じ取れそうです。






初重の規模が10m四方と聞いて“ずいぶん小さい…”とお感じになった方のために挙げてみたのが、ご覧の絵でして、これは大坂冬の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城の本丸の櫓です。

(※当サイトはこれが実際には奥御殿北西の「月見櫓」だと考えています)

『兼見卿記』によりますと、山崎城天守は大坂築城が佳境に入った頃に解体撤去されていて、その規模はまさにこの櫓と同程度と言えそうなのです。……



<山崎城から始まった 秀吉とその家臣団の天守周辺デザイン>



で、前出の高田先生は、例えばご覧の「天守は城内のどこに築かれたか」という論考において、会津若松城などを例に挙げながら、次のように指摘されました。

(※なお当サイトでは、会津若松城の基本構想は、豊臣大坂城と瓜二つであることを度々申し上げています)


別冊歴史読本『天守再現』1997年


(高田徹「天守は城内のどこに築かれたか」/別冊歴史読本『天守再現』より)

会津若松城では中心部分を天守台を含んだ石塁(上部に走長屋と呼ばれる多聞をのせる)で二分し、内側を本丸として本丸御殿や茶室などを設けている。
(中略)
北出丸、西出丸から土橋を渡り、虎口を通過して帯曲輪内部に進むと、眼前に天守と天守台がその進行を阻むように立ちはだかる。

会津若松城の本丸(論考に掲載の図)

(引用文の続き)

会津若松城の天守が飾りものに過ぎなければ、あえてこのような位置に築かなくとも、本丸の奥まった位置に築くことですむ。
それがなされていないのは、この天守が侵入者を余さず監視し、また侵入者に対して視覚的な威圧感を与える役割をもっていたからと考えられる。



という風にして「天守の軍事性」が指摘されたわけですが、これに関して二点だけ申し上げたいのは、まず<「侵入者」と言うより「来城者」への威圧感の方がずっと頻度は高かっただろうこと>と、また万が一、侵入者(敵兵)の場合は、<そこまで敵勢に踏み込まれて、この城が最終的に落城をまぬがれることは100%近く有り得ないのではないか…>という厳しい戦況判断です。

それならば何故、築城者の蒲生氏郷(がもう うじさと)(…そして秀吉)は、あえてそのような位置に天守を築いたのでしょうか?


――それはきっと、本丸の最期の防衛は、天守が一手に引き受ける、という役割分担の明確化であり、かつ、その天守脇を敵勢に突破された時こそ、落城の瞬間であるという、戦闘者特有の“見切り”だったのではないでしょうか。


そんな戦闘者の“覚悟”のようなものは、おそらく織田信長の天主には存在せず、秀吉のころに与えられた性格付けであって、それがあまたの大名家の天守に影響し続けたと思われます。

で、そうした天守周辺のデザインが、山崎城に始まったようなのです。


会津若松城/天正18年(1590年)築城

山崎城/天正10年(1582年)築城


ご覧のとおり、二つの天守の位置は、ともに本丸の一角を占めながら、その反対側に天守を被うような曲輪(帯曲輪)を伴っています。

そしてこの曲輪は、例えば豊臣大坂城では「山里曲輪」(旧表御殿!)に、石垣山城では「西曲輪」に、そして肥前名護屋城では「遊撃丸」や「二ノ丸」に、という風に、しだいに変容しながら常に秀吉の城に設けられたものでした。


豊臣大坂城の場合/天守は詰ノ丸の左手前隅角


そしてこれらの天守は、かねてから申し上げている「詰ノ丸の左手前隅角」という信長の作法を応用しつつ、“闘う天守”として、うまく塁線の一角にはめ込むことに成功した、と言うことが出来そうです。

しかもそのためには「秀吉流天守台」の形状が、この上なく合致していることに、ご留意いただきたいのです。



―――では、秀吉はこのアイデアを、いつごろ、どこで、誰から得たのでしょうか?

そのヒントは、ひょっとすると(近年は殆ど聞かれなくなった用語ですが)戦国期の畿内でいくつかの城に見られた「中央櫓(ちゅうおうやぐら)」にあるのでは… と感じておりまして、これはまた回を改めてお話したいと思います。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年08月25日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!「殿守(てんしゅ)を上げる」若き秀吉のやり方






「殿守(てんしゅ)を上げる」若き秀吉のやり方


(※今回は画像用レンタルサーバーにメンテナンスと仕様変更があり、やむなく記事のアップが遅れ、失礼しました)


さて、当サイト「天守が建てられた本当の理由」は名称の中に「建てる」という一般的な言葉を使って参りましたが、この間にも、諸先生方の著書では「当時は天守を“上げる”と言った」との指摘が度々ありました。

私があえて「建てる」という言葉を選びましたのは、やはり番組制作でのトラウマがあって、一般の方々により広くアピールするためには、いきなり専門用語を使ってはならないという、やや四角四面な強迫観念も働いてのことでした。


ですが、今回、<秀吉流天守台>のお話を再開するうえで、この天守/殿守(てんしゅ)を「上げる」という言い方の語源的なイメージが、たいへん重要なカギを握っているようでして、この機会に是非、そうした一連の懸案をまとめてお話してみたいと思います。

(※なお、ご承知のように天守は「天主」「殿守」「殿主」と様々な漢字が当てられて来ました)



<秀吉流天守台と「方丈建築」(ほうじょうけんちく)との深い縁… その1>



姫路城天守台の土中で発見された羽柴秀吉時代の礎石と石垣

(※加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の図をもとに作成)


朝鮮出兵の本拠地・肥前名護屋城の天守台跡で発見された礎石

(※佐賀県立名護屋城博物館『名護屋城跡』1998年に掲載の図をもとに作成)


当サイトが申し上げている<秀吉流天守台>の特徴の一つが、ご覧のような礎石の配置、つまり独特な天守の柱割り(はしらわり)にあると申せましょう。

秀吉は織田家の家臣のころ(姫路城天守の築造は天正9年頃)から、天下人になってからも(肥前名護屋の築城開始は天正18〜19年)この手法を踏襲し続けたようで、その間の、豊臣大坂城もまったく同じだったと言えそうです。




かの中井家蔵『本丸図』の書き込み(図の黒字「十一間」「十二間」)によって、豊臣大坂城天守の初層のサイズは明確です。

で、その数字(黒字)は京間(六尺五寸間)での測量値と言われ、しかも当サイトが申し上げている「天下人・秀吉の天守は十尺間で建てられた」という仮説に沿って柱割りをしますと、まことに綺麗に、中央の柱間だけ基準柱間の1間半(天守本体は桁行7間半、梁間6間+張出1間)で割り付けることが可能なのです。(!)


このように中央の柱間だけを幅広にして初層を築いた天守は、おそらく秀吉の居城だけでしか見られない特異な現象でしょう。





では、これら<秀吉流天守台>に一貫した手法は何に由来したのだろうか? と想像しますと、真っ先に思い当たるのは、やはり「方丈建築」ではないかと思われるのです。

方丈建築の一例:大仙院本堂/永正10年(1513年)造営


(※平面図は『日本建築史基礎資料集成 十六』に掲載の図をもとに作成)


方丈建築と言いますのは、禅宗の寺院建築群のなかで僧侶(長老や住持)の住居として建てられたものです。

縁で囲われた室内は六室に分かれ、正面中央には儀式のための広い部屋「室中(しっちゅう)」があるものの、その他はおおむね居住用の部屋になっていました。

そしてこの「室中」に入る正面中央の柱間だけが幅広で、ご覧の大仙院本堂は「1間半」になっているのです。


(※しかも方丈建築は、正面の向かって右側に、細長い「玄関」が手前側に突き出していて、これは豊臣大坂城をはじめとする天守群の正面右側の付櫓―― 例えば彦根城や犬山城などの例を想わせ、いっそう縁浅からぬものを感じさせます)


では、この仮説のとおりならば、いったいなぜ秀吉は自らの天守に、禅宗の方丈建築の手法を採り入れることになったのでしょうか?

その経緯や人物の関与等はなかなか把握できませんが、ひょっとして、主君・織田信長の安土城天主に触発されて、秀吉もまた、姫路城天守を“住居”として築こうとした(!?)可能性は無かったのでしょうか。



<じつは戦国期から代々、姫路城天守の台上には礎石建物が載っていた…>



現存の姫路城天守


いま姫路城天守は平成の大修理の真っ只中ですが、55年前の昭和31年(1956年)にも「昭和の大修理」が行われていて、大小天守の全面的な解体修理の過程で、前出の羽柴秀吉時代の天守台跡が発見されました。

工事を主導した加藤得二技官(当時)が、発見の様子を詳しく著書に記しています。

出土した秀吉時代の天守台石垣の上端(北西から見た様子)

(※加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の写真をもとに作成)


加藤技官の著書によれば、ご覧の秀吉時代の石垣や礎石は、現天守の礎石上端から地下に0.396m〜1.965mの範囲で(深さ約5尺の浅い穴倉を伴いながら)埋まっていたそうです。

そして留意すべき点は、さらにその下からも、いっそう古い時代の礎石や瓦片が発見されたことです。


(加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年より/文中「三層閣」は天守のこと)

【赤松氏時代の礎石?の出土と貝塚跡】
秀吉の三層閣の礎石を配列する地盤から、さらに〇.七五メートル(二.五尺)、現在天守の地盤から二.六四メートル(八.八尺)下方に秀吉以前の城?の礎石三個が出土した。

(中略)
礎石はちょうど建物の東南隅石にあたるもので、これより西北方に連続するであろうとする礎石の配列は憶測の域を出ないことをお断りしておく。

姫路城の沿革によると、応仁二年(一四六八)赤松政則(則村より五代の孫)が父祖の旧領を回復した際、城地を拡張して東峰に城を築いたと伝え、くだって永禄四年(一五六一)小寺重隆(黒田姓)が旧城の近くに新城を築いた(『姫路城史』)と伝えるなどのことから考察して、この新城の東南隅に擬せられるものとされた。

(中略)
東辺に出土した旧石垣から黒田新城?の出土礎石までの距離は一九メートルある。
このことは天正八〜九年の秀吉の築城にあたって、在来構居の敷地が東へ一九メートル、南へ七〜八メートル拡張されたことを示すものであった。




つまりは姫路城天守台の土中を透視すると、こんな状態かと…


したがって、秀吉が姫路で我が天守を建てようと意気込んだ時、その場所にはすでに、別の礎石建物(黒田新城の詰ノ丸御殿?)が建っていた、という点がたいへん重要なポイントのように思われるのです。


そこで秀吉は自らの天守の初層に、僧侶の住居である「方丈建築」の手法を採り入れつつ、その上に望楼を載せて「殿守(てんしゅ)を上げた」――

という風に想像をめぐらせますと、「殿守を上げる」という言い方の最初のニュアンスはおそらく、既存の御殿の上に、さらに望楼が天高く現れた驚き(屋上屋を重ねる執拗さへの恐れ)に、最大の力点を置いた表現だったように思われるのです。

しかもご承知のとおり、近年の城郭研究では、戦国期の後半にはもう、高い山城の山頂本丸にも礎石建物(御殿)のあったことが明確になって来ています。


加藤技官の考証に基づいて描かれた秀吉時代の天守(裏表紙イラスト)

(学研『歴史群像 名城シリーズI 姫路城』1996年より)


結局のところ、「天守を上げる」という語源的イメージの背景には、中井均先生らの織豊期城郭論や千田嘉博先生の戦国期拠点城郭論に見られるような、当時の最先端の城の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に、あえて必要以上の望楼を上げることから、天守は誕生した… というストーリーが見えて来るようです。









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城の再発見!では駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか






では駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか




「穴倉」の有無をめぐる前回の表です。

このうち赤ラインで囲った駿府城(すんぷじょう)は、おそらく天守自体は五重天守に含まれ、かつ穴倉(石蔵)は無かったとハッキリ申し上げられるでしょうが、しかしその天守台の方にも「無かった」と断言できるのかどうか、チョット難しい事情を抱えています。

これは城郭ファンの方々が少なからず感じている点でもあり、そしてそこから導かれる驚愕の可能性について(今回もまた秀吉流天守台の話には戻らずに)是非この機会に触れておきたいと思います。


駿府城天守の復元模型の一例(巽櫓での展示/1994年!撮影)

(※これは様々な変遷を経てきた駿府城天守の復元案の一つで、
以下の説明には一番適当なので、あえて挙げてみました…)


さて、慶長12年から13年(1608年)にかけて、徳川家康が自らの隠居城として再築した駿府城(静岡市)には、じつに特異な形の天守がありました。

それはご覧のとおり、史上最大の天守台に“穴倉のごとき窪み”(深さ2間少々)があって、その中にスッポリ収まるように天守が建っていた、と考えられているのです。

(※ただしご覧の模型は、天守の向きが以降の復元案とは90度異なり、また天守台周縁部の石塁上にあった多聞櫓や隅櫓等々の復元がされていません)



で、前回の記事では、大型天守が「石垣に大きな荷重をかけない」ように築かれたことを申し上げましたが、この天守はそんな心配とは無縁のスタイルです。

――天守は石垣にいっさい荷重をかけず、その直下に穴倉が隠れているわけでもなく、逆に自分より広大な穴倉(?)の中に収まっているのです。

このような復元は『当代記』等の天守各階の平面規模や、大日本報徳社蔵の城絵図の描写から、まず間違いないものと言われています。


そしてこの天守台、形だけに注目しますと、なんと、前回記事の三浦正幸先生の講演にも登場した「名古屋城天守」にソックリ(!)なのです。



あの巨大な名古屋城天守が、まるで縮小コピーのよう…

(※両者は同縮尺/静岡県立中央図書館蔵『駿府城御本丸御天守之図』
および名古屋城管理事務所蔵の天守建築図をもとに作成)


両者の手法の一致は、これまでも度々指摘されて来た点です。


(駿府城の)天守台の形は名古屋城とほぼ同じ構成である。
まず大天守台の南辺に沿って石段をのぼり、左折して小天守台に入る。小天守台の中で二度右折し橋台に出る。
さらに大天守台の入口には喰い違い虎口(くいちがいこぐち)が設けられていた。

(中略)
また、天守は本丸石垣の角に位置する塁上式で大天守東側に桝形虎口(ますがたこぐち)があり、地階には井戸が設けられていた。

(解説文:大竹正芳/西ヶ谷恭弘監修『名城の「天守」総覧』1994年より)


というように駿府城の天守台は、三浦先生が「穴倉」の代表として例に挙げた名古屋城天守とソックリの手法でありながら、そのあまりの巨大さのためか、「穴倉」としての使用が完全に封殺されたような状態だったのです。




そして、この特異な天守が登場するまでには、なかなか複雑な経緯をたどったことが知られています。概略を申しますと…


慶長11年 3月 家康、旧城主の内藤信成を長浜へ移し、城の内外を巡視
慶長12年 2月 城の修築工事が始まる
      5月 天守(台)の根石を置き始める
      7月 天守台石垣と殿閣が完成し、家康が本丸の殿閣に入る
      12月 城中失火で殿舎を焼失。家康は二ノ丸に避難
慶長13年 正月 再建工事(堀と塁と殿閣)を急がせる
      2月 殿舎が上棟。大天守・小天守いっせいに作事開始
      3月 殿舎落成し、家康が新殿に移る
      8月 天守が上棟
慶長15年 半ば頃 天守落成



このように諸書の記録では、慶長12年の天守台や殿閣が完成して、わずか5ヶ月後に殿舎が焼失したとあるのですが、この時、果たして<天守木造部の工事は始まっていたのか><その工事中の天守も焼けたのか><天守台に損傷があったのか>については、意外なことに、何も記録が無い(!)ようなのです。

そして火事の2ヶ月半後には大天守・小天守の作事が開始(再開?)されていますので、天守台の焼けた(?)石垣を全面的に積み直せたかどうかも、微妙なタイミングです。


これら諸々の状況から考えられる可能性としては、火事の前に<天守木造部は実際には未着工のままで何も無かった>か、もしくは<着工の記録を何らかの理由で伏せてしまった>という別種の疑惑もありうるように思われるのです。




幻の超巨大天守!の仮想模型(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981年より)


ここで今回の記事のメインイベンター、櫻井成廣(さくらい なりひろ)先生の「超巨大天守」の登場です。

ご覧の模型は、櫻井先生が、あくまでも「駿府城大天守台の上にその広さどおりの大天守閣ができたら、どんな姿になったであろう」(写真の著書より)という、仮定の興味に基づいて自作したものです。

ですから勿論、天守台の中には“例の穴倉”が入っている想定であり、天守台上の初層の広さは24間半×21間とし、「各層の壁面の高さは大体定まっているから、自然(と)外観は七層、内部は九重に」(写真の著書)という、超巨大サイズになっています。


この模型製作の当時は、まだ大日本報徳社蔵の城絵図が知られていなかったようで、それでこんな大胆な模型を作れたのかもしれませんが、その後、城絵図が認知されますと、しだいに「超巨大天守」は半ば荒唐無稽な試みとして忘れ去られて来ました。

ところが今日、三浦先生の「穴倉」存在理由の再定義という事態が、その典型例として挙げた名古屋城天守台と、駿府城天守台との間にある“手法の一致”をどう解釈したらいいのか、新たな興味を喚起しているように思えるのです。


時期的には、よりコンパクトな方が後になって築かれた… これは何故なのか?


そして私が一番気になるのは、両者の出現の時期なのです。

すなわち、よりコンパクトな方(より着実な方?)が後になってから出現している…

この順序が物語るものは、想像力を膨らませますと、やはり問題の「超巨大天守」はいったんは計画されて、それに合わせて天守台が築かれ、もしくは天守木造部の着工もあって、それらの続行を徳川幕府が早々と「断念」していた(!)ということではないのでしょうか。

そしてその不名誉な技術的「断念」を、火事のドサクサの中に隠蔽(いんぺい)しつつ、その2年後に、名古屋城の大天守で雪辱を果たしていたのではないか――

といった勝手な空想が頭の中を飛び交うのです。


天守の技術的失敗と申しますと、例えば豊臣時代の丹波亀山城天守にはややかんばしくない評判が残っていたり、徳川将軍の江戸城でも完成したはずの天守台を削ったり積み増したりしていました。

そのように天守にも当然、試行錯誤や失敗作の類はあったはずで、駿府城の天守台はそうした秘史の存在を臭わせているように感じるのです。


歴史の裏側に、超巨大天守の「断念」と名古屋での再チャレンジが!?


(※ちなみに今回の仮説は、慶長度の江戸城天守は五重天守ではない!
という想定に基づいています。つまり当時、名古屋城天守は
あらゆる面で史上最大だったことになります)






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城の再発見!鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか






鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか


前回、鎌刃城(かまはじょう)の「大櫓」跡は“天守とは別次元のもの”とアッサリ申し上げてしまい、言葉足らずの点もあったようで、今回はちゃんと当サイトの思うところを申し上げることに致します。


米原市教育委員会編『戦国の山城・近江鎌刃城』2006年


さて、鎌刃城(滋賀県米原市番場)はご覧のイラストが全国の城郭ファンの記憶にも新しいように、10年程前の発掘調査の結果、「この鎌刃城から日本の天守が始まったらしい」(前掲書)という、画期的な「大櫓」の礎石群が見つかった戦国期の山城です。

イラストの一番手前がその「大櫓」であり、ただしご覧のような櫓台の石垣は確認されておらず、推定復元のものです。(※→後半のキーポイント)

また基本情報として、鎌刃城は文献には15世紀に堀氏の城として登場し、最後は織田信長が廃城したとされています。


で、上記の本はシンポジウムの講演録をまとめたもので、村田修三先生、加藤理文先生、三浦正幸先生、木戸雅寿先生、中井均先生(奥書の順)というオールスターキャストの先生方が顔を並べていて、とりわけ何故、注目の「大櫓」が「後の天守に相当する建物」と考えられるのか―― については、三浦正幸先生の講演録が詳しく説明してくれています。



<「大櫓」が天守の発祥である理由は「穴倉」があるから…>



前掲書に掲載の測量図をもとに作成(※上が南/色づけは当ブログによる)


ご覧の図で発掘の様子は想像できると思いますが、話の発端は、北西尾根の突端にある北第六曲輪(北−Y曲輪)で、京間(六尺五寸間)できれいに並んだ5間四方の礎石群が見つかったことです。

しかも、これらの礎石群が、図のように周囲を土塁にピッチリ囲まれていて、すり鉢の底のような場所にあったことが“大問題”になったのです。


(前掲書所収/三浦正幸「鎌刃城の建物を復元する」より)

そこでどうもおかしいと思って、ひょっとしたらこれは穴倉ではないのかと考えたのです。そう考えてみますと、そのおかしな土塁の意味もわかってきます。
(中略)
つまり五間四方の建物のまわりに一間ずつ延ばすと土塁の上に乗ります。そうすると、七間四方ですから四十九坪、つまり畳百畳敷きくらいの非常に大きな建物になります。
(中略)
なおかつ、御殿というのは普通、床下に地下室がないのです。要するに穴倉はないのです。御殿の下に穴倉があるもの、これは一体何かというと、天守しかないのです。


ということで、三浦先生は、当時は「天守」という名称が存在しなかったため、これを「大櫓」と仮称しつつ、「後の天守に相当する建物である」と結論づけたのです。



<内側が土塁のままの穴倉を何に使ったのか? 単なる床下空間か>



安土城天主台の穴倉跡(右下が内部の北西角)/内側も石垣で築かれていた


ご承知のように「穴倉」とは、天守台の内部に造られた空間で、確認されている多くの事例が「倉庫」として使われたものです。

そして歴史上、穴倉のあった天守、無かった天守の割合は、小さな天守では<無い天守>の方が圧倒的に多くて、たとえ五重天守を見ても<半々>というところであり、しかも時代的にはどちらが古いとも一概に言えません。



(※当ブログでは「(徳川家を含む)織田信長の直臣であった大名家に特有の設備として、
天守台石蔵があった、という傾向は言えるかもしれない」との趣旨を述べたことがあります。)


で、このような「穴倉」の最初の出現が鎌刃城だった、ということになって来たわけですが、発掘調査時の写真なども眺めているうちに、何か引っかかるものを感じたのです。




それは前出の図にもあるように、東側(左側)の土塁を貫通して作られた入口通路には「石垣」が丁寧に張ってあるのに対して、肝心の穴倉の中はどうかと見れば、すべて「土塁」のままになっている、という点に“妙な違和感”を覚えたのです。

おそらく城郭史上、天守の穴倉の中が「土塁のまま」という例は前代未聞のことであって、そういう意味でも、鎌刃城は注目すべき過渡期の事例ということなのでしょうか?


しかもそこは当時も土間でしょうから、ひょっとすると完全な「床下扱い」だったかもしれませんが、それにしては前掲書の復元案では、床下空間の高さが2m前後はあったことになるようです。

ならばこの穴倉は、古代の竪穴住居のように土の窪みに物を保管したのか… まさか… と頭の中は堂々めぐりを始めます。

そこで前出の三浦先生は、実にコペルニクス的な(!)論理の転換をされたのです。


(前掲書所収/三浦正幸「鎌刃城の建物を復元する」より)

倉庫として使うために穴倉があった、と今まで建築の先生方は言っておられたのです。
しかし、よく考えてみますと、倉庫にするのだったら、別に天守の地下を倉庫にしなくても、曲輪はいっぱい空いていますので、そこに蔵をいくらでも造ればいいのじゃないかと思うのです。
そうすると、こうした蔵は、もっと別の意味があっただろうと考えるのが普通なのです。
実は当時の技術を考えてみますと、天守のような高層建築を、穴倉なしで建てるほど勇気が無かったと考えるのが一番かと思います。

(中略)
後の慶長十七年(一六一二)に尾張名古屋城の天守を造る時も、その時ですら問題になっており、結局どうなっているかと言うと、尾張名古屋の天守もちゃんと穴倉があるのです。そして天守の本体の重さは全部、地下の穴倉の柱で支えているのです。
(中略)
だから天守は石垣の上に建っているけれども、実は重さはほとんど地下の穴倉の礎石が支えていて、石垣は一階の外壁の重さしか支えていない。
これが天守の構造であり、尾張名古屋の大天守はそのように造られていました。



三浦先生の指摘のとおり、確かに「石垣に大きな荷重をかけない」という天守建築の技術はオーソライズされて来ました。

しかしそれにしても、三浦先生の“穴倉の第一目的は倉庫機能ではない”というコペルニクス的な論旨にとって、実は、復元イラストの櫓台の石垣(※推定復元!)が、この上なく重要な“生命線”になっていることがお分かりでしょうか。……!




しかもイラストのように櫓台の外側を石垣としますと、内側は土塁のままだったわけですから、それこそ空前絶後の手法ということになってしまい、そうした過渡的な(?)穴倉の有効性がもっと検証されるべきだと思うのですが…

ついでに申し上げますと、以前は天守台の「石蔵」と当たり前のように言っていたものの、昨今は用語が「穴倉」に統一されて来たのは、もしやこれと関係あるのでしょうか。



<城郭マニアの連想――「大櫓」周辺は松山城「隠門」の仕掛けにそっくり!?>



僭越ながら、私のような者にとっては、「穴倉」の存在理由とは、その建物が単独で持ち堪(こた)える“自己完結力”のためではないか―― と長い間、思い込んで来たわけで、それは「天守」も、鎌刃城「大櫓」も、同じじゃないかと思われるフシがあります。




と申しますのは、左のイラストにもあるとおり、問題の箇所は東(左)から城道が伸びて来ていて、直前で二股に分かれて、一方は「大櫓」の南(上)の曲輪(北−X曲輪)に達して「大手門」とされる門につながり、一方はまさに「大櫓」穴倉の入口通路につながっていた、とされているのです。

これらの配置はいったい何をねらったのでしょう。

もちろん「大櫓」が突端にあるのは防御や見栄えのためとしても、城道のプランが城外から直接、穴倉に物資を運び込むことを主眼としていたら、やはり「倉庫機能」がこの穴倉の主要目的だということになってしまいます。



伊予松山城の筒井門(右奥の陰に隠門がある)


――そこで申し上げたいのが、伊予松山城の有名な仕掛け「隠門(かくれもん)」なのです。

これは(写真の左側から)敵兵が城道を登って来てこの筒井門を攻めた時、向こうの陰の「隠門」から城兵が不意打ちをかけるもの、と言われますが、この形、そっくりではないでしょうか。


つまり「大櫓」の穴倉は、決死隊(斬り込み隊)が中に潜み、横から反撃を加えるための「武者隠し」だったのではないか? ということなのです。



ご覧のように、大手門わきの土塁(又は石垣)に開いたわずか幅1間弱の通路から突然、城兵が押し出して来たら、寄せ手は混乱することでしょう。

そして城兵が押し出すにはそれなりの人数が必要でしょうが、穴倉が5間四方(約10m四方)であれば、二、三十人の武者が潜むには十分な広さでしょうし、もちろん上階から補充兵が降りて来て、第二弾を放つこともあったでしょう。

そしてその中に臨時に“収蔵”されるのが武者であるなら、内側が土塁のままであってもまったく構わない、という点が重要です。(!)


ここに「天守」と「大櫓」の穴倉をめぐる共通項が隠れているように思うのです。



つまり城が危機的な局面を迎えても、「天守」は最後まで持ち堪える―― そして「大櫓」も敵に攻め寄せられながらも持ち堪え、起死回生の斬り込み隊を放つ、といった目的意識(自己完結力)では一致していて、それを担保する設備が「穴倉」だったのではないでしょうか??

ですから鎌刃城「大櫓」は、天守(特に大型天守)にあった方が好ましい設備「穴倉」を先取りした建築、という意味では、歴史的な意義を語りかけて来るのでしょうが、だからと言って、天守そのものの「直接の発祥」だとは到底、思えないのです。



ここは前回の繰り返しで恐縮ですが、やはり櫓と天守の間には相当な「飛躍」があったはずで、天守は戦闘用の構造物ではなかったはずです。

もし仮に、天守が「大櫓」のように敵前で他の櫓以上の戦闘能力を発揮したなら、極端な話ですが、日本中の城には、出城や陣城の類も含めて、何千基にものぼる「天守」がひしめき合ったように思います。

それこそ大坂城や江戸城あたりでは、きっと「五番天守」だの「七番天守」だの、という状態(呼ばれ方)になっていたのではないでしょうか。……








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城の再発見!「天守」は何に一番似ているのか…






「天守」は何に一番似ているのか…


   皇帝       vs      八幡神


どうも前々回から、当サイトの大テーマ「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」の核心に近い話題を続けておりまして、本来ならば早く「秀吉流天守台」の続きに戻りたいところですが、またまた今回だけ、織田信長や豊臣秀吉の想念にあった「天守」像について、一応のケリをつけたいと思います。

果たして彼等の想念に一番近いものは何だったのか? つまり本来の「天守」… 江戸時代に各藩の分権統治の象徴になってしまう以前の「天守」について、そのオリジンを探ってみたいという、やや大それた内容です。


江戸初期、徳川家の威光を関八州に示した江戸城天守


さて、城郭関連の本で天守の発祥を説明する場合は、近年では鎌刃城で発見された「大櫓」跡が引き合いに出されることも多いのですが、当サイトは、そうした櫓の類と「天守」との間には大きな次元の違い(飛躍)があったはず、と申し上げて来ました。


そもそも「天守」は戦闘用の建造物ではないはずで、すなわち文献上も考古学的にも、天守が戦闘時に指揮所もしくは城主の御座所として使用された証拠は、おそらく“皆無”であることがそれを物語っています。

ですから「天守」は最初に出現した時から、平時の、統治のための政治的モニュメントであったはずなのです。


例えば天守最上階の「物見ノ段」という名称にしても、ひょっとすると、これが本当に戦闘時もそういう機能だったのか定かではないように思われ、むしろ天守のような高所からの「物見」というのは、日本古来の、為政者としての振る舞い「国見(くにみ)」を踏まえた所作、であった可能性も考えるべきではないのでしょうか?

その意味では、古代に天武天皇が吉野川のほとりに建てたという、伝説の「高殿」なども、天守に至る源流の一つに位置づけられるような気はするものの、より具体的な関わりが指摘できるものとしましては…


      楼閣山水図の阿房宮    平和の塔(旧「八紘一宇の塔」/宮崎市)

(※「平和の塔」写真はサイト「PhotoMiyazaki−宮崎観光写真」様からの引用です)


まず左の阿房宮については、信長が懇望した南化玄興作の七言詩「安土山ノ記」では、安土城の主郭部が始皇帝の「阿房宮」に擬せられています。


ただし当時、阿房宮の外観が日本にどのように伝わっていたか、という点では、ご覧のような楼閣山水図の類によって“深山幽谷にそびえる高楼”として認識されていた可能性もありうるのです。(→参考記事

これがもしも信長の岐阜城本丸や安土城の主郭部という“水辺の山上の城砦”につながった一因であるのなら、そうした高楼こそ、信長が志向した「皇帝」にふさわしい住居であり、まさに「天主」の原形だったのかもしれません。



一方、右写真の平和の塔はもちろん近代の建造物ですが、旧名の「八紘一宇(はっこういちう)」は、近代日本の“怪物”の一人、宗教家の田中智學(たなか ちがく)が造語した言葉で、戦前の軍国主義の記憶と深く結びついたものです。


(ウィキペディアより)

八紘一宇とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇/八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む」から作られた言葉で、大意としては天下を一つの家のようにすること。転じて第二次世界大戦中に大東亜共栄圏の建設の標語のひとつとして用いられた。


つまり「八紘」とは「八つの方位」を意味する言葉であって、口語訳では「八紘(あめのした)」と読むものです。

これは取りも直さず、信長の安土城天主に「八角」(『信長公記』)が組み込まれたこと、また秀吉の大坂城天守も「四方八角」(『天正記』)であったこと、そして「天下」という言葉が古代中国では「四方」「四国」で代用されたこと(→参考記事を強く想起させます。

で、それら(八紘/天下)を「一つの家のようにすること」とは、まさに信長や秀吉の「天下布武」政策―― 戦国の世(分裂国家)の再統一という政治目標にピタリと合致していて、その意味では、「天守」本来の建築の企図は、400年後の「八紘一宇の塔」とまさに同一であったのかもしれません。(!…)




   皇帝        vs      八幡神
  


……ですが、上の方の二つの建造物はどちらも、この世に一つしか存在しない(!)という点が決定的に「天守」とは異なっていて、これはかなり重要な要素のように思われるのです。

天守は歴史上、日本列島周辺に100基以上が建造されたわけで、しかも一つの領国に一基という原則が、ある程度、徹底されていたことからしますと、例えばですが、奈良時代に東大寺を頂点として諸国に一寺ずつ建立された「国分寺」(とその七重塔)なども考慮に入れる必要があるのかもしれません。



<天守の解明に不可欠な、数の問題… 足利尊氏「利生塔」への注目>



その国分寺と同様に、14世紀、室町幕府を開いた足利尊氏・直義(たかうじ・ただよし)兄弟が、日本全国の六十六ヶ国と二島(壱岐、対馬)にそれぞれ「安国寺・利生塔(あんこくじ・りしょうとう)」を建立する一大事業を行いました。


 かつて「利生塔」の唯一現存例とされた、浄土寺の多宝塔(尾道市)

(※現在は同寺にあった五重塔が「利生塔」の一塔とされている/
「利生塔」の形式は五重塔・三重塔・多宝塔など様々だった)


一大事業は夢窓疎石(むそう そせき)の勧めで始まり、夢窓の法話に“元弘(後醍醐天皇の改元)以来の天下大乱の悪因縁から逃れるため”とあるそうです。

この安国寺・利生塔の研究では、辻善之助先生、今枝愛真先生、松尾剛次先生といった方々の業績があって、たいへん興味深いことに、北朝の尊氏・直義兄弟が事業を行った影響で、当初、南朝方の領国には建立されなかったそうなのです。


辻博士も強調されているように、寺院の建立はその土地領有の標章ともなるものであるから、安国寺・利生塔の存在は、その地方が室町政権の統治下にあることを示すものである。
このような意味で、寺院の設置は各国守護を通じての勢力範囲の維持に役立てられ、同時にまた、一種の軍隊屯営、前進拠点、もしくは、その他の軍略上の要衝という一面を持っていたとおもわれる。


(今枝愛真『中世禅宗史の研究』1978年復刊より)


なんと、このように安国寺・利生塔の性格は、ただの寺院や仏塔ではなくて、信長権力や秀吉政権にとっての「天守」の役割にそっくりだったのです。


例えば秀吉の天守(と城)が小田原攻めでは突貫工事で築かれ、北条方への威圧として使われた一件や、その後も政権の版図を示すかのように、豊臣大名が次々と居城に天守を建て始めたことなどは、まるで歴史のデジャブのようです。

かくして「天守」に何が一番似ているか、という点で、安国寺・利生塔は外すことの出来ない存在だと思われるのです。


そこで信長や秀吉のねらいを推測しますと、日本六十余州にわたって、一国一塔ずつを(新機軸の「天守」で)建て直してしまうことは、室町幕府の消滅や織豊政権による再統一を“視覚化”させる上で、大いに役立つものと見なしたのかもしれません。


ただし重要なポイントとして、「天守」はそれに留まらず、海を越えて朝鮮半島にも多数が築かれたことはご承知のとおりです。

それらは織豊政権の「拡張主義」の結果であり、例えば400年後の世界でレーニン像が東欧・中央アジアからベトナムにも建てられたり、近年、毛沢東像がチベットや東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)であえて新設されたりしていることと同根の出来事なのでしょう。


レーニン像(ビシュケク)  毛沢東像(カシュガル)  

(※「毛沢東像」写真はサイト「心の旅」様からの引用です)

結局のところ、「天守」は何に一番似ているのか、という問いに答えを出すには、例えば倭城の天守の実像がもう少し見えて来るようなことでもないかぎり、現状では少々難しいのかもしれません。(残念…)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年06月28日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・皇帝vs八幡神 …大成功?した秀吉の世論誘導






続報・皇帝vs八幡神 …大成功?した秀吉の世論誘導


唐突ですが、現代の戦意高揚の立役者と言えば…

証言する少女ナイラ/油まみれの水鳥/救出されたジェシカ・リンチ上等兵


写真は今回の話題の伏線として挙げてみたもので、いずれも米国民の軍事行動への支持を高めることに成功した事例です。
で、前回は、織田信長と豊臣秀吉の天守が担ったはずの“人心収らん術”について触れましたが、信長の天主は本能寺の変による挫折があったものの、秀吉の天守はひょっとすると“大成功”を収めていたのかもしれません。

と申しますのは、やはり問題の屏風絵にある「菊紋」「桐紋」「左三つ巴紋」「牡丹唐草」の四種類の紋章群が、それを示唆しているようなのです。


大坂図屏風(大阪城天守閣蔵)より


菊紋(十六八重菊)     桐紋(太閤桐)     巴紋(左三つ巴)


このうち「菊紋」「桐紋」は天皇家の紋としても有名で、秀吉が豊臣姓を下賜されたとき、同時に拝領した紋でもあります。

屏風絵の「菊紋」は天皇家の紋と同じ十六八重菊のように見え、「桐紋」は葉脈の少なさや左右の花房が傾いていることから秀吉特有の「太閤桐」とも見えます。


そして天守四重目には「巴紋」があります。巴は神社の紋「神紋」の代表格であり、前回に申し上げた「八幡大菩薩」の紋としても古今の武家から尊崇されたものです。

屏風絵には左巻きの「左三つ巴紋」が描かれ、これと同様のものは神功皇后の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)ゆかりの織幡神社や気比神宮など、数多くの神社で使われています。

(※当ブログの巴の「左右」表記は丹羽基二先生が考証した古い表記法によります)


牡丹唐草


さらに天守二重目と五重目縁下には「牡丹唐草」があります。

牡丹紋は五摂家(藤原氏嫡流)の近衛家の紋として知られ、当時、秀吉が「藤原秀吉」として関白に叙任されたことや、その一件などで縁の深い近衛信尹(このえ のぶただ)の家紋がそれであることも連想されます。

このように四種類の紋は、それぞれに秀吉との関係を語ることが出来る紋章だと言えます。


では、これらが天守全体を使って並べられたこと自体については、特段の意味もなく、ただの羅列に過ぎないと理解していいのでしょうか?

そうではなく、反対にこの点こそが秀吉の狙いであり、紋章群は例えて言うと“秀吉が発したブロックサイン”ではなかったかという感があるのです。



仮説:「見せる天守」に隠された民族の寓意



野球でお馴染みのブロックサインは、監督やベースコーチが敵側にさとられずに次の作戦を味方に伝えるため、複数のサインの組み合わせや順序で指示を伝えるものです。

つまりサインの一つ一つは敵に見られてもその真意は知られず、味方プレーヤーに意図を伝え、密かに意思統一を図るための手段です。


もしもブロックサインという言葉が稚拙であるなら、それは「暗示」「隠喩」「寓意」と称してもいいものかもしれません。

いずれにしても紋章群は、それ全体で、ある一つの(同じ民族だけに通じる)暗示を伝えた、というのが真相に近いのではないでしょうか。……




そしてその中身と言えば、やはり“王政復古の新政権として、神功皇后の三韓征伐伝説を世情に喚起したい”といった、政治的な思惑であったように思われるのです。

つまり、これらの紋章群を掲げた大坂城天守とは、後の「朝鮮出兵」に向けて、底深い意図をもって誕生した建造物だったのではないか…

この点に関連して、著書『雑兵たちの戦場』等で知られる藤木久志先生は、秀吉の朝鮮出兵への動員令をテコに、全国各地で、大名による直接支配が進んだことを指摘しておられます。


政権による全国統一の貫徹と朝鮮出兵の態勢づくりとは並行し統一して進められていった、と断定してもよいであろう。佐竹領で、動員令と太閤検地の指令とが同時に発せられている事実は、統一と侵略の不可分を直接に示す。

(藤木久志『戦国史をみる目』1995年)




秀吉の朝鮮出兵は文禄元年4月、「数千艘」とも伝わる、小西行長・宋義智ら第一陣の釜山上陸から開始されました。

しかし秀吉自身がこの戦争について初めて語ったのは、その7年も前の天正13年だったことはご承知のとおりです。

以来、豊臣政権がこの戦争に向けた態勢固めは凄まじく、前出の藤木久志先生は、開戦の年に発令された「個人の人身把握をめざす個別調査のための人掃い(ひとばらい)令」とその台帳を例に挙げておられます。


こうして秀吉権力によって握られたこの帳面は、やがて民衆の徴兵台帳とも、欠落を追及するさいのブラック・リストともなった。
翌年春、「高麗へ召し連れ候船頭・かこ(水夫)ども相煩い、過半死」という悲惨な状況がおこったさいにも、秀吉権力はただちにこの台帳により、「浦々に相残り候かこども、ことごとく相改め、かみ(上)は六十、下は十五を限って補充を早急におこなえ」という徴発の態勢をとることができた。


(藤木久志『戦国史をみる目』1995年)


まさに国家人民を挙げての総力戦であったことが想像されますが、それをいかに遂行したのかと言えば、藤木先生の同書の指摘がさらに興味深いものです。


しかも、日本人をとらえていた侵略戦のイデオロギーのありようを知ろうとするなら、高麗日記の田尻という侍が、緒戦の連勝に酔いしれながら、そのかみ神功皇后、新羅を退治していらいの日本の神力をみよ、と宇佐八幡宮によせて、特異な意識のたかぶりを示していたことを、見逃しにはできない。

(藤木久志『戦国史をみる目』1995年)


ここに抜粋した鍋島家の侍・田尻鑑種(たじり あきたね)ばかりでなく、当時、従軍した将兵らの心には、際立った“神国意識”が満ち満ちていたことが指摘されているのです。


豊臣秀吉像(大阪 豊國神社)


宣教師の報告にも、朝鮮出兵の直前には“日本中が湧き立っていた”という描写があるものの、そのような高揚感(世情喚起、世論誘導)がいかにして起きたのか、詳しい解明はまだ研究途上のようです。





その点で、もし秀吉にとって統一(再統一)と大陸遠征が不可分のものであったなら、政権発足時に建造した天守にすでに三韓征伐の寓意が込められ、八幡三神の神紋を中心に建物が荘厳された、という可能性はありうるように思われます。

つまり秀吉は、いにしえの記憶の底から「天皇の大権」を呼び覚ますことでまず陣営(関白政権)の正統性を獲得し、そのうえ「神国意識」を奮い立たせることで、天下統一後もつづく戦時体制の構築に成功したとも言えそうなのです。


かつて秀吉の城を「見せる城」と評されたのは小和田哲男先生ですが、華やかな金色の意匠の裏に狡猾な政治的「暗示」を組み込んだ大坂城天守は、おそらく古今に比類なき「見せる天守」であったのです。




これまで秀吉の天守を、たんに“成り上がりの豪華趣味”と評する、表層的で一面的なとらえ方が横行して来たわけですが、むしろ信長ともども、この二人が「成り上がり」だからこそ天守を創造したのであって、私はそういう(豪華趣味という)とらえ方には断固、反対の声を上げるものです。

秀吉の天守は、はるかに深刻な政治的思惑を帯びて、出現した建造物だと思うからです。









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2011年06月15日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!皇帝vs八幡神 …信長と秀吉の天守にあらわれた人心収らん術の相違






皇帝vs八幡神 …信長と秀吉の天守にあらわれた人心収らん術の相違




かねてから申し上げて来ましたように、天守とは、それまでの日本の歴史や武家の伝統などを引き継いで出現したものではなく、主に当時のほんの二、三人の人物らの想念が形になって現れた、まことに作為的な造形物だったように思われます。


そびえ立つ天主(天守と同じ意だが、安土城では天主と表記されている)という垂直的なシンボルは、連歌や一揆に象徴されるような、平等原理を基本とした室町時代の社会のあり方や、庭や犬追物といった水平的なシンボルを特徴とする室町幕府的な館のあり方とは正反対のものであり、天下人を頂点として、上位の人間が下位の人間に対して絶対的な優位に立つピラミッド型の権力のシンボルである。

(小島道裕『信長とは何か』2006年)


小島道裕先生のこのような指摘や、また千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭の発展形態として出現したのが信長・秀吉スタイルの城でした」(『戦国の城を歩く』)という発言、そして中井均先生監修の「それまでの城にも、確かに高層建築物は存在していた。しかし、その高層建築物を城内の最も高所に築いて、自分の居住施設とし、「てんしゅ」と呼ばせたのは、信長の安土城からである」(『日本の城』)といった文章など、織豊期城郭の曲輪(くるわ)配置の強い求心性と天守の出現とを関連づけるような考え方が、近年とみに勢いを増しております。


で、思いますに、その(天守“創造”の)ねらいは決して自領内の統治にとどまるものではなかったはずで、何故なら狭い自領だけのことであれば、従来どおりの支配のスタイルで何の不足も無かっただろうからです。

したがって天守“創造”の動機には、その頃、全国政権としての統治のあり方を模索する立場に立っていた、織田信長や羽柴(豊臣)秀吉という成り上がりの“貴種の生まれでない天下人”の強い渇望があったように思われるのです。


その点に関しては前回、「秀吉流天守台」のお話を続ける中で《秀吉の天守と鶴岡八幡宮》という話題に踏み込んだ経緯もありましたので、この機会に一度、信長と秀吉の天守から見えて来る、足利将軍追放(室町幕府消滅)後の人心収攬(しゅうらん)術の模索について確認しておくことに致します。



当サイトの安土城天主の推定イラスト


ご覧のイラストを解説した以前の記事の中で、壁面の「龍」はひょっとすると印判状の紋章であって、さながら中国の九龍壁の「九五之尊」によって「皇帝」を示したのかもしれない、と申し上げました。(→参考記事

その点では、前出の小島先生はこうも発言しておられます。


信長が中国を意識し、自分を皇帝になぞらえようとしていたことは間違いないだろう。天皇を超える権威として存在していたのは、中国の皇帝しかいない。少なくとも信長の意識としては、安土はすなわち、天主の下に天皇を従えた「皇帝」たる信長の都市として意味づけられていたと考えることができる。

(小島道裕『信長とは何か』2006年)


まさに「信長の九龍壁」は城下町の中心に向けられていたわけですが、しかし小島先生が同書で「天下統一の戦争というものが本当に必要だったのかどうかは自明なことではない」ともおっしゃっているとおり、戦国の世で、信長ただ一人が天下統一(再統一!)を叫んでいたわけで、そうした早過ぎた革命児の末路(本能寺の変)が、「皇帝」云々の真の意図を判らなくしてしまいました。



そして秀吉の天守には別種のおびただしい紋章群が… 大坂図屏風(大阪城天守閣蔵)より


その点、後継者の豊臣秀吉は、信長が果たせなかった天下統一を成し遂げた上で、諸大名を総動員して朝鮮出兵に踏み切るという、信長同様の政治目標に(その結末は別として)到達することが出来ました。


そうした秀吉の天守の中には、ご覧の屏風絵のように、日本の城郭建築には似つかわしくない、異様な表現で描かれた天守があることはご存知のとおりです。

上の『大坂図屏風』の天守がそれで、壁面にはおびただしい数の金色の紋章群が並び、屋根には金色の彫刻充填式の破風が据えられ、軒瓦にも金箔が押されています。ここまで黄金づくしで飾り立てられた天守は、他に類似例もありません。

このあまりの異様さから、おそらくは“黄金関白の城”を誇張して描いた特殊な例と解され、これを詳細に検証しようという試みも殆ど行われて来ませんでした。


そこで問題の屏風絵をよく見てみますと、天守には「菊紋」「桐紋」「左三つ巴紋」「牡丹唐草」の四種類の紋章が配置されています。


菊紋(十六八重菊)     桐紋(太閤桐)     巴紋(左三つ巴)


そのうち、ご覧の「菊紋」「桐紋」「三つ巴紋」の三種類は、前回にお話した鶴岡八幡宮など我が国の八幡信仰の起こりと言われる、宇佐神宮の神紋と同様であることが分かります。

これは秀吉が自らの死後に「新八幡」という神号を贈られることを願った件(フランシスコ・パシオの報告)を踏まえますと、問題の天守におびただしい紋章群が掲げられた意図について、改めて検証してみる価値は大きいと思われるのです。



《 辺境の地で「軍旗」に降り立つ神、八幡神 》



宇佐神宮 本殿


平安時代に関東で蜂起した平将門や、石清水八幡宮で元服した源義家、平家物語の那須与一など、日本のあらゆる武家が武運を祈ったのは「八幡大菩薩」でした。

大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮は、その八幡信仰の発祥地にして、全国に四万社以上あるという八幡宮(八幡神社)の総本宮です。


その本殿には、祭神の八幡三神を祀る社が横に並んでいます。

一之御殿の祭神は八幡大神(はちまんおおかみ)であり、社伝(『八幡宇佐宮御託宣集』)によれば、第十五代天皇の応神天皇(誉田別尊/ほんだわけのみこと)の霊であるとされています。

二之御殿の祭神は比売大神(ひめおおかみ)であり、これは地方神の宗像三女神であるとも、また別説には応神天皇の后神とも言われています。

そして三之御殿の祭神が、応神天皇の母、神功皇后(息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと)です。
ご承知のように、神功皇后(じんぐうこうごう)は軍勢を率いて朝鮮半島に渡り、百済・新羅・高句麗の三国に朝貢させたという「三韓征伐伝説」(『日本書記』)の主人公です。
神功皇后は応神天皇を妊娠したまま出陣し、帰国して出産したとされています。




これら三つの社が現在の形に整ったのは弘仁14年(西暦823年)と伝えられ、社殿全体は南に見える御許山(おもとやま)を向いて建立されています。

この山は八幡神が馬に乗って出現したという民間伝承のある山ですが、例えば、山を御神体とする神社はその山を背にして建立されるものであって、その点、宇佐神宮は反対に山側(九州内陸部)を向いて建っているのです。


御許山と周辺の山々


飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年


何故このような形なのか、別府大学の飯沼賢司先生は、これは八幡神の起源にかかわる問題であるとして、次のように指摘されています。


八幡神はその成立の時から、国家というものを背負って登場し、発展してきた。鎮座した宇佐という場所は、古代国家の西の国境であり、八幡神はやがて西方鎮守の神から大仏建立を契機に国家の鎮守神へと変身した。

(飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年)


すなわち八幡神は、古代国家が九州の「隼人」と戦う中で神として現れたもので、その直接の契機は、和銅7年(西暦714年)、隼人側の大隈国の真っ只中(辛国城)に古代国家が豊前の国人衆を入植させたことでした。

社伝に「辛国城(からくにのしろ)に始めて八流(やつながれ)の幡(はた)と天降りて、我は日本の神と成れり」とある瞬間が訪れたのです。


入植民は、周囲の隼人の人々と常に緊張状態にあり、その緊張と争いの中で、「八流の幡」がその城に天降ったのである。
まさに対隼人との戦いの際の軍旗に降りた神であった。


(飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年)


秀吉が自らの死後にまでこだわった「八幡」とは、その起源をたどっても、辺境の地に立って新たな国境を守護する神であり、最前線の尖兵らの軍旗に降り立つ神、すなわち「軍神」であったのです。



(※次回に続く)


  皇帝        vs      八幡神


足利将軍の追放後に、いかにして戦国の世(分裂国家)を再統一するのか…

信長と秀吉、それぞれの深意は天守の紋章群に?








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2011年06月01日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・秀吉流天守台 〜消えた「六十一雁木」と鶴岡八幡宮〜






続・秀吉流天守台 〜消えた「六十一雁木」と鶴岡八幡宮〜


最初に、お陰様をもちまして、当ブログが累計30万アクセスを超えましたこと、厚く御礼申し上げます。

※また先日、「のブログ」全体の緊急メンテナンスがありましたが、依然として接続しづらい状況が続いております。そのため「のブログ」では、6月13日(月)午前1時〜午後9時に第2弾のメンテナンス(20時間)を行うそうです。


さて、前回ご紹介した「秀吉流天守台」の件ですが、豊臣大坂城の方については、或る別の解釈もありうることをここで申し添えたいと思います。


二つの天守台はさらにソックリだった可能性も…


上の図のように、もしも豊臣大坂城の付壇の書き込み「石垣高サ六間」がいちばん天守に近い位置にあったならば、この付壇じたいが「幅広の石段だった」という考え方も可能になるわけでして、それは結果的に、小田原城(や肥前名護屋城)にいっそう酷似した天守台になりうる、という点です。



これは大変に魅力的な解釈であり、これによって、問題の「小さな石段」がたった五段しか中井家蔵『本丸図』に描かれていないことも、物理的に説明しやすくなります。



と申しますのは、付壇の方はどの先生方の復元においても、少なくとも詰ノ丸奥御殿の地表から3〜4間(6〜8m)の高さがあったように復元されているからです。
そんな高さを「たった五段」で登りきれるはずもなく、そこで、いずれの先生方の復元も「小さな石段」をやむなく“二十段前後の石段”としているのが実情なのです。

その点で、もしも「付壇」じたいが実は「石段」であって、高さ3〜4間の殆どをそこで登り降りできてしまうのなら、「小さな石段」の方は残りの何尺か(南に続く石塁の高さだけ)を「五段で」カバーすれば、無事に着地できるというわけです。



……これは本当に、ほんとうに魅力的な解釈なのですが、ここはやはり、『本丸図』の書き込みを尊重しまして、ひとまずこれ以上は追究しないことにしておきます。

で、今回は「秀吉流天守台」のまた別の側面――《天守の上手(かみて)に虎口あり》という、豊臣秀吉の天守群に由来するはずの法則と、その法則が“消えてしまった”天守群についてお話をしてまいります。



岡山城天守(昭和41年再建)


ご覧の岡山城天守については、以前から「安土城を模した」という『備前軍記』等の言い伝えがよく引用されましたが、正直申しまして、織田信長の安土城天主よりは、よっぽど豊臣秀吉の天守群に似ているはず(!…)と、私は信じて疑わない者の一人です。

建物じたいは比較検討が出来ないとしても、立地の場所、天守台やその周辺のプランは、どう見ても秀吉の天守群に似かよっているとしか思えないからです。


その特徴的な構造のひとつに「六十一雁木(がんぎ)」という石段があります。


岡山城「六十一雁木」の位置(当図は上が北)


城主の奥御殿にあたる「本段」の、天守に向かって右側(上手/かみて…演劇用語の“客席から見て右側”)に「六十一雁木」とその門があります。

一方、本段の南西(図では左下)の櫓門は、江戸時代には「不明門」(あかずのもん)でしたから、「六十一雁木」は奥御殿の“勝手口”として主要な出入口になっていました。


名称の「六十一雁木」はもちろん六十一段の石段という意味ですが、現状は二十五段ほどしか無く、かつては旭川の船着場までさらに石段が続いていて、全部で六十一段あったことから、その名が残ったと言われます。

しかしそれは江戸初期の「正保城絵図」において、すでに現状と同じ程度の石段しか描かれていませんので、六十一段のすべてが盛んに実用されたのは、築城者の宇喜多秀家や小早川秀秋の時代(つまり秀吉の影響がまだ色濃いころ)までなのかもしれません。


それにしては何故、「六十一」という数字が、徳川の世になっても(さもアリガタそうに)継承されたのか、ちょっと疑問に感じていたのですが、なんと…



あの鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の大石段も六十一段だった!


岡山城の築城の約500年前、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、関東の武家政権の精神的支柱として、現在の地に遷宮したのが鶴岡八幡宮です。

ご覧の表紙の写真で、大石段の上に見えるのが上宮の楼門で、左側に写っている大木が源実朝(さねとも)暗殺で有名だった「隠れ銀杏」です。




で、前回に申し上げた「小田原攻め」を終えた秀吉も、帰路にこの鶴岡八幡宮を参詣したわけですが、その時、秀吉が社殿の修理を命じた「修営目論見図」を見るかぎり、石段などの基本的な構造は当時から変わっていないようです。

どの解説本を見ましても、大石段は「六十一段」とされて来ていて(※現状は改修の結果、六十段になってしまったそうですが)武家が「六十一」という石段の数に特別な感情をいだいた理由も、ここから推察できそうです。


そこで思うのは、天守の上手の「六十一雁木」は、たんに岡山城だけの現象なのだろうか? という疑問です。


西ヶ谷恭弘責任編集『秀吉の城』1996年


秀吉と家臣団の城の“何らかの傾向”を調べたい場合、どの城を選ぶかは人によって違いが出ることもありえますので、私の好みが出ないように、例えばご覧の西ヶ谷恭弘先生の本で取り上げた城を見ますと…


秀吉直臣の城に見られる《天守の上手に虎口あり》という法則?


それは秀吉自身の天下取りの城(山崎宝寺城)に始まっていた?


まず上図の城はいずれも、天守との位置関係において、まったく同じ場所に主要な虎口(正門か、もしくはより実用的な第二の門)が必ず設けられています。

同じプランの城を西ヶ谷先生の本で数えますと、本の「秀吉の城12」「秀吉直臣の城18」のうち、天守の位置がおおよそ確定している城を計19としますと、その中の姫路城、山崎宝寺城、肥前名護屋城、伏見城、会津若松城、甲府城、和歌山城、大和郡山城、岡山城、但馬竹田城、鹿野城、洲本城、熊本城と、13の城が同じプランを採用しています。


こうした傾向は一方で、おそらくは秀吉の聚楽第を経て、徳川家の駿府城や名古屋城、福井城といった、一連の矩形の城にも引き継がれたのだろうと思われるのです。

名古屋城天守の直下の不明御門(あかずのごもん…城主らの緊急脱出用)を外から見た様子

※現在の再建天守は非常階段も見えてご愛嬌です



以上の結論としまして、実は、豊臣大坂城にも「六十一雁木」があったのではないか、そしてそれは当サイトが申し上げている秀吉晩年の本丸大改造(中井家蔵『本丸図』)で“消えてしまった”のではないか… と私は感じております。


かなり荒唐無稽な印象を持たれるかもしれませんが、でも前回の小田原城天守の長大な石段はどこから生まれたのか? 秀吉は天守に至る参道を設けていたのではないか? という疑問に対する回答が、この豊臣大坂城の“消えた六十一雁木”にあるように思われてならないのです。


それは空想の域を出ないものの、さぞや壮観であったろうと…

そして秀吉は自らの天守を、鶴岡八幡宮と対照させたのではないか、とも…








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年05月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!天下人の基壇「秀吉流天守台」が存在した!?






天下人の基壇「秀吉流天守台」が存在した!?


2010年度リポートの「工程の推理」の話題が一段落したところで、豊臣秀吉が「天守」の歴史にいかに貢献したかを確認するため、今回から、秀吉の天守をめぐる大胆仮説を幾つか申し上げてまいります。……


小田原城天守(昭和35年復興)


さて、お馴染みの小田原城天守は、最初の天守がいつごろ建てられたのかハッキリしないものの、江戸時代の初めの「正保城絵図」には、現状とほとんど変わらないような三重天守が描かれています。





そして現状の天守台石垣は、関東大震災での崩壊後に修築されたものですが、これもほぼ旧態(江戸時代の初め)に近い形の石垣であることは、「正保城絵図」や大震災前の古写真で確認できます。

で、この天守台の形、一見しますと徳川将軍の城(江戸城や駿府城など)に類似したプランのように感じられるかもしれませんが、よくよく見ますと、実は中井家蔵『本丸図』の豊臣大坂城の天守台と、非常に似かよった構想で築かれているのです。


なんと小田原城と豊臣大坂城が… 天守台の平面の比較(ともに左が南)



ご覧の色分けのように、双方の天守台の部分部分は、その形や高さ・面積の比率がやや異なってはいるものの、それぞれに対応する部分の配置はまったく同じです。

ただし何故か天守台と本丸(詰ノ丸)御殿の位置関係が逆になるのですが、天守台それ自体は、おそらく同一のプランから生まれたと申し上げてもいいほど似ています。

具体的に申せば、双方とも、天守台南側の石段から登ると、同じような形で張り出した続櫓(付櫓)を経て天守本体に入ること。
そして双方とも天守台は二段式であり、中段に武者走りがめぐっていること。
しかもその武者走りは、ともに天守台の二辺だけをめぐっていて、先程の続櫓(付櫓)との位置関係もそっくりであること、などです。




このようにして見ますと、小田原城天守台は必ずしも徳川将軍の天守台に一番似ている、とは言いきれない事情がお分かりいただけるでしょう。

では何故、こんなことが起きてしまったのでしょうか?

小田原城と豊臣大坂城という、意外な二つの城をつなぐ“ミッシングリンク”として考えられるのは、やはり、すぐ間近にあった、豊臣秀吉の小田原攻めの御座所「石垣山城」以外にはないのかもしれません。


小田原城天守から見た石垣山(笠懸山)…笠を伏せたような山の頂が城跡


天正18年1590年、関白秀吉が率いる約20万の軍勢の包囲によって、北条氏の本拠地・小田原城が降伏、開城しました。

御座所の石垣山城を含む小田原の地は、徳川家康の領内となり、家康の重臣による統治や、無城主の城番時代が続くうちに、江戸時代を迎えました。


その過程でいつごろ石垣山城が破却されたのかは、これまた定かでなく、一方の小田原城がようやく近世城郭として面目を一新したのは、寛永10年(1633年)、三代将軍・徳川家光の上洛にそなえた作事のおりでした。

冒頭の「正保城絵図」はその完成した状態を描いたものですから、天守台の“酷似”の原因を想像してみますと、石垣山城を管轄した小田原城主の学習なのか、もしくは伏見城の手伝い普請等による徳川家の学習と考える以外はなさそうです。


そしてさらに興味深いのが、小田原城天守台の最大の特徴である、長大な登閣石段なのです。

小田原城天守台の石段(現状)


これほど長い石段をもつ天守台は、他の城にはなかなか類例がありません。

唯一、意外な所にヒントがあって、秀吉が小田原攻めと相前後して築城を命じた、九州の肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)の屏風絵に、意外なモノがあったのです。

『肥前名護屋城図屏風』(佐賀県立名護屋城博物館蔵)の本丸周辺


ご覧のとおり、天守の手前に、小田原城の石段にも似たスロープが(!)描かれているのです。

屏風絵のこの程度の描写にこだわるのはセンシティブに過ぎるのかもしれませんが、この絵の妙に石垣を傾斜させた描写には、はっきりと意図してこの線を引いた、という感じが見て取れます。


では実際の城跡はどうなっているのか?と申しますと、残念ながら江戸時代の城破り(しろわり)のためか、該当する辺りの崩壊は激しく、一部に残る石垣を含めて三次元的な解析が必要のようです。


肥前名護屋城址/該当する周辺を天守台跡から見おろすと…


で、他に何か手がかりがないかと考えた場合、真っ先に思い当たるのは、中井家蔵『本丸図』の黄堀図に描かれた、小さな石段です。




この石段、別史料(青堀図)では省略されてしまうほどに存在感が薄く、これまでは城郭研究者の関心を殆ど呼ばなかったものです。

ですが、この石段はまさに小田原城(や肥前名護屋城)との共通性を物語る大事な存在です。

しかもこの石段を上がると、長さ「十二間」という細長い付壇があった点がかなり重要のように思われ、何故なら、この付壇は言わば「天守に至る参道」の役割を果たしていたようにも思われるからです。




となると、やはり豊臣大坂城の石段も、相当に重要な位置付けにあったはずで、これら各城に共通する手法を「秀吉流天守台」と呼ぶべきではないかと思われるのです。


と申しますのは、この手法が、やがて徳川将軍の天守台 ――つまり天守台(天守本体)の手前に小天守台が設けられ、その右側から幅広い(三間幅の)石段で登閣する形―― に発達したと考えることも出来そうだからです。

そしてその場合、秀吉の天守台は“天下人の基壇”とされたのかもしれません。

(※詳細はまた回を改めてお話し致します)



二代目・豊臣秀頼の再建天守を仮定したイラスト


さて、かなり以前にご紹介したこのイラストも、そうした秀吉流天守台の長大な石段を描いた絵であり、この頃は石段が屋根で被われていて、これが「大坂夏の陣図屏風」の天守周辺の描写につながったのだろうと考えたものです。

あれから2年越しで、ようやくこの絵の種明かしをすることが出来ました。

(※次回に続く)


※お知らせ  最近、当ブログを含む「のブログ」全体に接続しづらい状態が続いています。「のブログ」では5月23日(月)に17時間(午前1時〜午後6時)をかけた緊急メンテナンスを行うそうです。今後の改善が期待されます。








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2011年05月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!会津若松城と大坂城、二つの楼閣の不思議なめぐり合わせ






会津若松城と大坂城、二つの楼閣の不思議なめぐり合わせ




左の絵は「大坂冬の陣図屏風」に描かれた豊臣大坂城の、本丸(詰ノ丸)奥御殿の楼門式の玄関と遠侍と思われる建物で、これは当サイトの「リポートの前説」(一番上のバナー)でもご紹介したものです。

そして右の写真は、豊臣秀吉が国内平定の総仕上げ「奥羽仕置」を行うべく下向した地・会津若松城で、本丸御殿内に建てられた「御三階」という楼閣の現在の姿です。
これは幕末の戊辰戦争で会津が落城したのち、近くの阿弥陀寺に“ある改造”を施して移築され、当時は本堂として使われたそうです。

(※会津若松城の唯一現存する建物)



二つはいずれも唐破風屋根の入口があって、見た目にも似たところがありますが、今回はこの二つの楼閣の“人知を超えた”めぐり合わせについてのお話です。


では最初に「リポートの前説」を思い出していただくため、是非、その部分をもう一度ご覧下さい。


【疑惑】屏風絵の本丸奥御殿は180度回転している


屏風絵の本丸奥御殿には、鎧をまとった豊臣秀頼が描かれています。
その周辺の殿舎の並び方を仔細に眺めてみますと、それらは中井家蔵『本丸図』の奥御殿を、東西が逆になるように、180度回転した形で描いていることが分かります。




『本丸図』と照らし合わせれば、建物の名称も分かります。
すなわち秀頼のいる御殿が「小書院」であり、その奥には屋根に煙出しのある「台所」があり、左側の大きな屋根二つが「広間」と「対面所」です。

さらに左側の桧皮葺の楼閣は、織田有楽斎ゆかりの正伝院楼門と同形式の玄関と「遠侍」であり、辺りは南庭の路地、数寄の空間につながっていたことまで分かります。




この屏風絵の操作を図解すると…(中井家蔵『本丸図』の同じ範囲で/ともに左方向が北)


ご覧の図解のように、上記の文面で申し上げたのは、大坂冬の陣図屏風は諸資料の合成によって描かれていて、特に奥御殿の周辺は、『本丸図』を180度回転させた形で描かれているのではないか… という疑惑です。

で、もしそのとおりならば、屏風絵に北向きで描かれた玄関付きの楼閣こそが、『本丸図』奥御殿の「遠侍」に他ならないことになるわけです。




ということで、奥御殿は、正式にはこの南の楼閣(楼門)から御殿にあがる形だったと思われるのですが、ここで留意すべきは、『本丸図』(青堀)ではこれらの殿舎がオレンジ色に色分けされている点でしょう。



2010年度リポートではオレンジ色は「建替え新築」を意味したのでは… と申し上げました。

では何故、この周辺にオレンジ色が集中しているのか? と考えますと、あえて大胆に申せば、これらは秀吉の築城以前の、織田信長が命じた丹羽長秀(にわ ながひで)在番時代にさかのぼる、城内で最も古い殿舎群だったのではないでしょうか?

そして大改造の頃には、それらは(少なくとも)築20年近くを経ていたため、建替え新築になったのではないかと……。

で、ご注目いただきたいのは、チョット細かな描写で恐縮ですが、「遠侍」の唐破風の玄関だけは濃い黄色(つまり「移築」?)で色分けされた点です。



これをグググッと深読みしますと、ひょっとすると、丹羽長秀の在番時代は、玄関は西側の台所?の側にしか無かったのではないでしょうか… 

つまりそこが丹羽長秀の「旧遠侍」であり、秀吉の築城を経て、大改造のおりに、その「旧遠侍」玄関の由緒ある唐破風屋根を、「建替え新築」した南側の「新遠侍」にコンバート(移築)したのではないのか……

それらはもちろん大改造の目的、<南に大手を付け替える>という狙いに合わせた措置だったのではないかと……


マニアックな妄想もほどほどにしろ、と言われかねませんが、しかし次の会津若松城の場合を見ますと、そうとばかりも言えないのかもしれません。




右の阿弥陀寺「御三階」は、実際には、正面の唐破風屋根がもともと「御三階」にあったものではなく、城の本丸御殿「内玄関」にあったものを寺が譲り受けて、このように付設したと言われます。

(※「大書院玄関」と表現される場合もあるようです)

高瀬家蔵「若松城下絵図屏風」に描かれた本丸御殿の玄関と御三階



したがって阿弥陀寺の楼閣は、会津若松城の殿舎のポイントとなる部分を、幸運にも、二つも受け継いだ建築物と言えそうです。

こうしたカニバリズム的な措置は伝統建築によくあることで、いっそう興味深いのは、その会津若松城の原形と思われる豊臣大坂城でも、「内玄関」という場所は、文献に度々登場して来た場所だということです。

例えば『落穂集』には、慶長4年、徳川家康が登城して秀頼母子に対面したとき、帰りに「大台所」の「大行燈」(おおあんどん)を供の者に見物させて「内玄関」から出て帰ったという記述があります。


大台所ニ之有る弐間四面の大行燈は外ニ之無き者也。供の者共に見せよとの仰ニ付、備後守承られ中の口に出て御供中を同道して参られ候へば、各各御見せ遊され、夫(これ)より直に内玄関へ御出遊され、御供中を召連られ御旅館へ御帰遊され候と也。

(『落穂集』より)


ここにある「大台所」「中之口」「内玄関」は『本丸図』ではどこに当たるのか?と探してみますと、秀頼母子との対面は奥御殿(の御対面所)で行われたとも言いますので、その場合…



この時、家康は千畳敷に戻る廊下(いわゆる「百間廊下」か)をたどらずに、その前をわざわざ「右の方へ」曲がって、大台所の大行燈を見たいと言い出したそうです。

これは慶長4年(秀吉の死の翌年、関ヶ原の前年)という微妙な時期で、家康が暗殺者の気配を感じて打った大芝居だ、という説もあって、上記の引用の「直に内玄関へ御出遊され」というのは、早く建物外に出るためのとっさの行動で、家康主従が集団で通った「内玄関」とは、まさに屏風絵の楼閣の玄関であったのかもしれません。




ちなみに右の「御三階」の玄関に光り輝いているのは、会津松平家の会津葵(あいづあおい/丸に三つ葉葵)の紋です。

会津若松城と大坂城… と言えば、もちろん“最後の将軍”徳川慶喜と松平容保らの大坂城脱出行の一件も想起されます。


明治時代に阿弥陀寺の関係者がそこまで意図したとは、とても思えないのですが、この二つの楼閣はいずれも、故ある「内玄関」を伴った楼閣のようなのです。










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2011年04月19日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!工程の推理(3)−銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ−






工程の推理(3)−銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ−


宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年/表紙と裏表紙


裏表紙の中ノ段帯曲輪(本丸西側)…詰ノ丸奥御殿より一段低く復元してある


前回も引用させて戴いた宮上先生の本ですが、ご覧のように表紙から裏表紙にわたって、豊臣大坂城の本丸を北から眺めた様子が描かれています。(イラストレーション:穂積和夫)

で、今回の話題は、ちょうど裏表紙の真ん中に描かれた、本丸西側の「中ノ段帯曲輪」(なかのだん おびぐるわ)についてです。


この部分、上記イラストは中井家蔵『本丸図』をごく素直に読んで、詰ノ丸奥御殿よりも一段低い高さで描いてありますが、実は、会津若松城との比較や、別の絵図(『大坂築城地口坪割図』)を踏まえますと、必ずしもこうではなかったのかもしれない、と思われるからです。



【仮説】本丸西側の中ノ段帯曲輪は、実際には詰ノ丸とあまり変わらない高さであり、そのため詰ノ丸の北西虎口は、城郭史上に特筆すべき堅固な「外枡形」(そとますがた)形式の虎口であったのかもしれない



詰ノ丸北西虎口(赤い部分)/敵勢に十字砲火を浴びせる“恐怖の外枡形”か


冒頭のイラストレーションとは異なり、このように中ノ段帯曲輪をより高く想定しますと、石段のすべてを囲い込む形が生まれ、これは例えば、安土城の伝黒金門(でん くろがねもん)の周辺にも似た「外枡形」形式の虎口になります。


これには『本丸図』の描線の情報をやや修正して「読む」必要がありますが、そうすることで、(類似性を申し上げている)会津若松城の天守から鉄門(くろがねもん)にかけての構造に似た形にもなり、その上、銃撃のための巧みな工夫が浮き彫りになるのです。


雁行(がんこう)させた鉄砲狭間は、撃ち手の利便性のためか


この石段を登りきった先の石塁が「雁行」状になっていることは、これまで全く注目されて来なかった点です。

しかし、こうして考えてみますと、雁行状の石塁とその鉄砲狭間は、銃身の長い「狭間鉄砲」(さまでっぽう)の撃ち手らに対して、限られた範囲でより広い稼動スペースを与えるための工夫だったのかもしれません。

しかも…

太線の弾道… 銃撃からの逃げ場を無くす、容赦ない石積み!


このように『本丸図』の描線のままでは意図が分からなかった、細かな石積みの狙い… 敵勢を容赦なく銃撃でなぎ倒すための仕掛けが、ここに隠れていた可能性も浮上してくるのです。




さて、問題の中ノ段帯曲輪が、通説よりずっと高い位置にあったと感じさせるもう一つの理由は、下の絵図の不思議な描写です。


毛利家文庫『大坂築城地口坪割図』(南を上にした状態)


これは豊臣氏の滅亡後に、徳川幕府が大坂城の大改修(二ノ丸石垣の再築工事)を諸大名に分担させた時の絵図ですが、中央の本丸については、まだ豊臣時代のままである可能性が指摘されて来た史料です。

そこで試しに、この図上で、詰ノ丸の範囲を色づけしてみますと…

同図の詰ノ丸の範囲(ブルー)

上図の同じ範囲を『本丸図』で色づけすると…


ご覧のとおり、豊臣氏の滅亡直後の絵図では、詰ノ丸の範囲が広がっていることがお判りになるでしょう。

しかもブルーの領域はちょうど、問題の中ノ段帯曲輪と詰ノ丸を合わせて、一つの曲輪に造成したような形で広がっています。



ですが、もともと中ノ段帯曲輪と詰ノ丸が、冒頭の裏表紙イラストほどの段差があったとしたら、そんな土盛りを行ったうえに、石垣面をぴったり延長して嵩上げ(かさあげ)することなど、簡単に出来るものでしょうか?

それも豊臣秀頼らの主従が城内で生活を続けていた中で…


それよりは、もともと、一つの曲輪に造成しやすい高さがあって、秀頼時代に、その間にあった長い石塁をたんに撤去しただけ、と考えた方がずっと合理的ではないでしょうか。

中ノ段帯曲輪(本丸西側)と詰ノ丸の一体化を示した『大坂築城地口坪割図』


結論として、やはり中ノ段帯曲輪の高さは、必ずしも通説どおりではなかったのではないか…

そして実際の豊臣大坂城は、(秀頼時代の化粧直しの青写真である)『本丸図』のとおりに、すべてがそのまま施工されたとは限らないのでは…

二つの絵図を突き合わせると、そんな疑いも、無くは無いのです。








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2011年04月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!窮民を収容した「本願寺城」の都におとらぬ富貴さ!






窮民を収容した「本願寺城」の都におとらぬ富貴さ!


前回から、豊臣大坂城の極楽橋は「慶長元年に新設された」とする《慶長元年説》に対する疑いを申し上げています。

その理由(論点)を挙げ始めると本当にキリがないのですが、とりあえず羅列した上で、最後に「極楽橋」という名称の由来(寺内町「本願寺城」の実像!)についてお話したいと思います。



理由2.極楽橋周辺の水堀は「十ブラザ前後」の廊下橋ではとても渡れない…



中井家蔵『本丸図』の極楽橋周辺


《慶長元年説》が根拠とする『イエズス会日本報告集』の「十ブラザ前後」という長さの廊下橋では、そもそも極楽橋周辺の水掘は、途中までしか渡れない(!)という物理的な“無理”が伴います。

何故なら、「このブラザは往時のポルトガルの長さの単位で、二.二メートルにあたるから」(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』1992年)であって、つまり「十ブラザ前後」は22m前後=11間前後であり、この水掘の中ほどまでしか届かないのです。


したがって「十ブラザ前後」の廊下橋は、前回、櫻井成廣先生の模型でもお見せした、千畳敷御殿の南の空堀に架かる廊下橋、と考えるのがせいぜい合理的な範囲の長さでしか無いのです。



理由3.かの宮上茂隆先生も、千畳敷に付設された廊下橋と舞台を想定した



宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』(1984年)

※表紙は「極楽橋」を中井家蔵『本丸図』どおりに木橋で描いている


ご覧の宮上茂隆先生の著書『大坂城 天下一の名城』は、ある年代の城郭ファンにとっては懐かしい一冊ですが、この中でも千畳敷と舞台をつなぐ廊下橋が紹介されています。


対面のさい使節に能を見せるための能舞台は、空堀の向かい側に設けられ、千畳敷との間には橋がかけられました。舞台と橋はいずれも彩色され、彫り物などでみごとに飾られていました。

(宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年)


ここで宮上先生が「舞台と橋はいずれも彩色され、彫り物などでみごとに飾られて」と書いたあたりは、やはり『イエズス会日本報告集』の「鳥や樹木の種々の彫刻」等々の表現を意識した結果と思われ、先生がこれらを慶長元年に千畳敷と共に造営されたもの、と考えたことは明らかです。


ただし、ご覧のイラストレーションからは、千畳敷を(櫻井先生とは異なり)「大坂夏の陣図屏風」のままに南北棟の殿舎と想定したためか、懸造りがより大きく南に張り出し、その分、約十間(十ブラザ)の廊下橋は、能舞台の脇(向こう側)を通り越して楽屋につながる形になったことが分かりますし、しかも廊下橋には「小櫓」の類が見られないなど、興味深い点がいくつか盛り込まれています。




そして表紙においては、極楽橋が中井家蔵『本丸図』のとおりに木橋で描かれていて、これは従来の通説に従って、『本丸図』は築城後まもない時期の城絵図である、という考え方に沿ったものでしょう。


で、これに引き比べますと、《慶長元年説》の場合、極楽橋は“まだ当分は存在しない”ことになるわけですから、下の絵のように極楽橋は消えてしまいます。


これは『イエズス会日本報告集』の問題のくだりが「太閤はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし」と始まっている以上、新規の架橋なのでしょう。

――しかし、そうしますと《慶長元年説》では、中井家蔵『本丸図』は、どの時期を描いた絵図だということになるのでしょうか?

もし仮に秀頼時代まで下るとしても、『本丸図』表御殿と千畳敷の時系列的な関係を考えますと、すでに解決策の無い袋小路に陥っているのかもしれません。


《慶長元年説》による極楽橋の未設状態




理由4.肝心要の文献が、極楽橋は「二十間」程度だったことを示唆している



豊国社の跡地から見た阿弥陀ケ峰


ここまでご覧のように、極楽橋の長さは、いずれの先生方の復元でも「二十間」程度ですが、これを裏付けるかのような数字が、日本側の肝心要の文献に記されています。


豊国明神の鳥居の西に 廿間ばかりの二階門建立す 大坂極楽橋を引かれおわんぬ

(『義演准后日記』慶長五年五月十二日条)


この文面は、最終的に廊下橋の「極楽橋」が慶長5年(1600年)、豊臣大坂城から移築され、豊国社の正門(楼門)になったことを伝えたものです。(※その後、再び竹生島に移築)


で、この肝心要の文献に「廿間(にじゅっけん)ばかり」とあるのが要注意点であって、これは言わば“縦使い”の廊下橋を、“横使い”にして、楼門と左右翼廊による約20間幅の門に仕立て直した、という意味になるのでしょう。

「廿間」は39m余ですから相応の構えになりますし、逆に、もしも極楽橋が半分の「10ブラザ前後」しか無かったなら、そこに他の何かを継ぎ足さなくてはなりません。



理由5.しかも『イエズス会日本報告集』の「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」形の廊下橋と言えば、あの有名な橋もたしか秀吉が…



京都の観光名所、東福寺の「通天橋」


ご覧の「通天橋」は歴史上、度々架け替えられて来たそうで、現在の橋は、以前の橋が昭和34年(1959年)8月の台風で倒壊したのを、翌々年に再建したもので、橋脚が鉄筋コンクリート造に変わっています。

で、歴代の通天橋をザッと振り返りますと、寺が発行した『東福寺誌』には…


慶長二年
三月 秀吉の命により、瑤甫恵瓊、東福の通天橋を改架す



という記述があって、なんと秀吉は大坂城に“問題の廊下橋”を架けた翌年(!)に、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)に命じて通天橋も架け替えさせていたのです。

この慶長2年の通天橋は、惜しくも江戸後期の文政12年(1829年)にまた架け替えられてしまい、詳しい形状等は不明のようです。

ただし文政12年の通天橋は、前述の昭和34年の台風で倒壊するまでは健在で、これが古写真等にも数多く残っていて、現状とほぼ同じデザインなのです。


ご参考/江戸時代の名所図会(上方文化研究センター蔵『澱川両岸一覧』文久3年)より

ご参考/通天橋の古写真 「京都東福寺通天橋(国立国会図書館所蔵写真帖)」より


橋の中央に平屋造りの小櫓?


で、慶長元年の問題の廊下橋について『イエズス会日本報告集』は「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」と伝えていて、早くもその翌年に、秀吉はこの通天橋も架け替えさせたわけですから、両者のデザインの“思わぬ符合”が示唆するものは一つでしょう。

大坂城の廊下橋が「此の如き結構は世に類なし」と宣教師が伝えたほどの出来栄えで、さも得意げな秀吉の表情が目に浮かぶようです。


ただし、現状の通天橋は張り出しが片側にしかなく、言わば「平屋造り」の「小櫓」が一基しか無い形ですが、もしも慶長年間には張り出しが橋の両側、もしくは片側に二つ並んでいたとするなら、それはまさしく『イエズス会日本報告集』の記述にピッタリであり、なおかつ、望楼のある極楽橋とはまったくの別物と言えるでしょう。

結局のところ、豊臣大坂城で、望楼のある廊下橋は「極楽橋」だけで、一方の『イエズス会日本報告集』の廊下橋は「平屋造り」の張り出しだけだった、という可能性もありうるのです。



以上のような諸々の疑いから、大坂城「極楽橋」が慶長元年に架けられたとする《慶長元年説》は、幾重にも困難がつきまといます。

正直申しまして、『イエズス会日本報告集』という文献と「城郭論」にもう少し、折り合いがつけばいいのに…(否、櫻井先生や宮上先生の段階ではついていたはず!)と、古参の城郭マニアとしては、ただ、ただ、戸惑うばかりなのです。




補論:「極楽橋」という名は極楽浄土にちなんだものか? それとも全く別の由来のものか?



藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』2006年


さて、豊臣大坂城の前身は石山本願寺であったことから、「極楽橋」という名も、何か仏教に関連したもののように見えます。


しかし例えば「極楽浄土」にちなんだものとすると、極楽橋は本丸の北側に架けられた橋であって(しかも伏見城や金沢城の極楽橋も北側であり)「西方浄土」の西ではない点が矛盾してしまうのかもしれません。

この点に関しては、「村の城」等の研究で知られた藤木久志(ふじき ひさし)先生が、ご覧の表紙の著書で、そのヒントになるような指摘をされているので、是非ご紹介したいと思います。


藤木先生は、近江堅田の真宗本福寺の僧、明誓(みょうせい)が記した『本福寺跡書』によると、本願寺教団とは、商人や職人を本業とする幹部門徒を中核とした、経済的に豊かな教団であり、飢饉のときには窮民らを進んで寺内町に収容したのだと言います。



「御流(本願寺教団)ノ内ヘタチヨリ、身ヲ隠ス」というのは、飢餓や戦争の辛い世を生き残れない、数多くの難民や、世をはみ出した牢人たちを、本願寺教団は包容し匿(かくま)っていた、という。

真宗教団というのは、不遇な人々にとって、大切な生き残るための組織(生命維持装置)でもあった、というのである。

これは、真宗教団の本質についての、とても重要な証言であり、広く一向衆の寺の組織や、寺内町の門徒たちの職業構成についても、同じ視点から検討してみることが、今後の大きな課題になるであろう。


(藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』2006年より)



つまり一般に、当時の「本願寺」や「一向宗」に対して抱かれている“ムシロ旗を振りかざす貧農門徒の集団”といった先入観は、実態とは真逆に近い誤りだったわけで、この点は仁木宏先生も『二水記』の記述から、山科本願寺のたいへん富貴な実像を指摘しています。



筆者の鷲尾隆康(わしお たかやす)は「中流」の公家で、本願寺とは別に利害関係のない人です。その彼の日記の中に(中略)
「寺中」=本願寺は大変広く、その「荘厳」さは「仏国」のようだ。寺内町の「在家」=町屋もまた「洛中」の町屋と違わないぐらい立派だ。「居住の者」はみな「富貴」=富裕で、町人の「家々」の装飾も大変「美麗」である、というのです。

(仁木宏「山科寺内町の歴史と研究」/『戦国の寺・城・まち』1998年所収)



当ブログも以前の記事で、石山本願寺が何十基もの櫓を構えた可能性をお伝えしましたが、それほど「本願寺城」というのは、豊かな経済力や軍事力を備え、それを伝え聞いた人々がさらに集まるという、実在の“王城楽土”であったようなのです。


ですから、ひょっとすると織田信長は、戦場での門徒兵の捨て身の抵抗よりも、むしろ本願寺教団が果たした“社会制度的成功”とでも言うべきものに、いっそう大きな脅威を感じたのかもしれません。

そしてその後、秀吉が大坂城本丸の大手口とした「極楽橋」は、そんな“王城楽土”の輝きを、あえて積極的に継承するための命名だったのではないか――

などと思うわけなのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年03月21日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!望楼のある「極楽橋」は築城当初から存在していた






望楼のある「極楽橋」は築城当初から存在していた




毎日この国の存亡が問われる局面下で、たかが橋一本にこだわるマニア心理はおぞましいと思いつつ、それでも自分なりの決着をつけねば死ぬに死にきれません。
で、「覚悟を決めて」この記事を書きます。……


前回から話題の大坂城「極楽橋」は、豊臣秀吉の晩年の慶長元年(1596年)になって新設されたものだという《慶長元年説》が昨今、定番化しつつありますが、これには大きな戸惑いを感じざるをえません。


と申しますのは、この件では過去に、城郭研究のパイオニアの一人、櫻井成廣(さくらい なりひろ)先生が示したような“別の考え方”(後述)があり、私もずぅーっと(20年以上?)そうだろうと思って来たからです。

それは、屋根や望楼のある廊下橋の「極楽橋」は、結論として、秀吉の築城当初からあったことを容認しうる考え方です。

(※そこで当サイトでは、廊下橋の「極楽橋」は、天正11年(1583年)に始まった秀吉の築城時に架けられたものと考えています)


で、問題の《慶長元年説》の根拠になっているのは、1596年(慶長元年)12月28日付の、ルイス・フロイスの「年報補筆」(『イエズス会日本報告集』所収)の中の「大坂と都での造営のこと」というくだりです。

このくだりは直前に「太閤様へのシナ国王の使節」という文章もあって、まさに朝鮮出兵の収拾策をめぐる明国との交渉の経緯が紹介され、それに続くくだりに、太閤・秀吉が大坂城の堀に「巨大な橋」を架けた話が出てまいります。

やや長文ですが、一連の全文をまずご覧下さい。


(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。
その小櫓には、四角の一種の旗幟
(のぼり)〔長さ八〜九パルモ、幅四パルモ〕が鍍金された真鍮から垂れ、また(小櫓)には鳥や樹木の種々の彫刻がかかっている。(小櫓)は太陽の光を浴びるとすばらしい輝きを放ち、櫓に新たな装飾を添える。

(橋の)倚りかかれるよう両側の上方に連ねられた欄干は、はめ込みの黄金で輝き、舗道もまた非常に高価な諸々の装飾で鮮明であり、傑出した工匠たちの手によって入念に仕上げられたすばらしい技巧による黄金塗りの板が介在して輝いていた。

そこで堺奉行(小西ベント如清)はこの建物について話題となった時、我らの同僚の某司祭に、(その橋は)十ブラザ前後あるので、黄金と技巧に一万五千金が注ぎ込まれたことを肯定したほどである。


(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

(※細字だけ当ブログの補筆)



《慶長元年説》では、この「巨大な橋」こそ極楽橋であり、「鳥や樹木の種々の彫刻」等といった華やかな描写は、例えばオーストリアで発見された豊臣期大坂図屏風の極楽橋の描き方によく符合するとしています。




確かに一見、そのようにも感じられますが、それは話の大前提として、大坂城には華やかな廊下橋がこれ(極楽橋)一本しか無かった場合のことです。

ところが、実際は、そうでも無いようなのです。



論点1.『日本西教史』が伝える、豊臣大坂城にあった“もう一つの廊下橋”



太閤殿下は頻(しき)りに支那の使者を迎ふる用意を命じ、畳千枚を敷るゝ程の宏大美麗なる会同館を建て、(中略)其内に入れば只金色の光り耀然たるを見るのみ。
城外には湟
(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)りにして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱欄干甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。

(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より)

(※細字だけ当ブログの補筆)



ご覧のように『日本西教史』では、冒頭の『イエズス会日本報告集』とまったく同時期の情勢を伝えた部分で、どう見ても「極楽橋」とは別個の、金づくしの廊下橋が新規に架けられたことを伝えています。

こちらの廊下橋は、「畳千枚」の「会同館」つまり千畳敷(御殿)と、その前の堀を隔てた大舞台とを「往来」するための橋のようです。

「鍍金したるを瓦を以て屋を葺き」とありますから間違いなく廊下橋ですし、しかも「一万五千金」という費用の額も『イエズス会日本報告集』と一致しています。


櫻井先生はこれを自作の模型にも反映させていて、ここで是非とも、先生の著書から写真を引用させて戴きたく存じます。


櫻井成廣先生の豊臣大坂城の模型(『戦国名将の居城』より)


左から千畳敷、廊下橋(金ノ渡廊)、大舞台


この模型は本丸を南西から見たところで、「極楽橋」はちょうど反対側の見えない所になります。

櫻井先生はこのように表御殿曲輪の堀際に、清水の舞台のような懸造り(かけづくり)で千畳敷が建てられ、同時に廊下橋や大舞台も併設されたとしていて、これらによって秀吉は、明国の使節に豊臣政権の余力(戦争継続力)を誇示しようとしたのかもしれません。


フロイシュ書簡及び『日本西教史』は御殿の前に堀を越して舞台を設けたとあり、西教史は御殿と舞台とを繋ぐのに約十間の廊下を以てしたと記して居るが、空堀の幅は本丸図によると十三間半であったから三間位突出ていれば廊下の長さは矢張り十間位になる筈であってよく一致する。

(櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 大阪城編』1970)


「三間位突出て」(つきでて)というのは懸造りの部分のことでしょうが、こうして櫻井先生が「金ノ渡廊」と仮称した(もう一つの)廊下橋こそ、冒頭の『イエズス会日本報告集』の「巨大な橋」に当たるのだろうと、ずぅーっと思い込んできた私としましては、いま何故、これが「極楽橋」と混同されてしまうのか、不思議でならない思いがします。

つまり慶長元年に架けられた廊下橋が、この「金ノ渡廊」であって、「極楽橋」はそれ以前から存在していたはずでは… と申し上げたいわけです。



そこで例えば「巨大な橋」という描写を、大坂城の堀のサイズに則して考えてみますと、両者の橋の印象はかなり異なっていたはずです。

何故なら、実際の橋脚の高さは大きく変わらなかったものの、水掘に架かる「極楽橋」は殆どが水面下で、一方の「金ノ渡廊」は水の無い空堀に架かっていたため、見える橋脚はおそらく3倍近い高さがあったと思われるからです。






論点2.しかも『イエズス会日本報告集』の「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」形の廊下橋と言えば、あの巨大な橋もたしか秀吉が…

(次回に続く)








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2011年03月09日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!全国に広がる「極楽橋」チルドレンの城郭群






全国に広がる「極楽橋」チルドレンの城郭群


前回、最後のくだりが「極楽橋」の話題になり、それは豊臣大坂城の本丸の「顔」であったと申し上げましたが、今回は、その補足の余談をチョットお話させて戴きます。

――それは豊臣大坂城のあとも、「極楽橋」か、ほぼ同様の廊下橋を持つ城は全国にいくつも事例が続いていて、それらの橋はまさに本丸の「顔」であったり、はたまた奥の別郭への「扉」であったりした、というお話です。


高橋隆博編『新発見 豊臣期大坂図屏風』2010年

(※ちなみにこの話題は、大坂城にいつごろ廊下橋形式の極楽橋があったのか?という「時期の問題」がつきまといますが、仮に上記の本の解説のように慶長元年〜同5年という限られた時期であったとしても、それが「顔」だったのか、別郭への「扉」だったのかという、橋の位置付けはやはり重要ですから、ひとまずこちらのお話を先に致します。)



  一例:金沢城「極楽橋」の現状    一例:和歌山城に復元された「御橋廊下」
 


大坂城以降の「極楽橋」や屋根付の廊下橋には様々なものがあり、その多様性をどのように整理できるかが課題でしょう。そこで例えば…




まず「極楽橋」という名のついた橋の一群があり、そして別の名がついた屋根付の廊下橋の一群もある中で、それらを位置関係や用途から分類しますと、本丸の「顔」として建てられた例と、おもに数寄の別郭への「扉」として設けられた例が混在しているようです。

しかも「極楽橋」という名称を受け継ぎながら、屋根が無かった木橋もあるため、話はやや複雑です。


例えば伏見城の「極楽橋」もそうで、多くの洛中洛外図屏風であたかも“城の顔”のように描かれたものの、それらはすべて屋根の無い木橋でした。

かと思えば、2010年に初公開された洛中洛外図屏風(個人蔵)では、手前の「極楽橋」とは別に、城内の奥まった場所に(おそらくは舟入堀を越えて学問所に渡るための)豪華な廊下橋が描かれていて話題になりました。


KKベストセラーズ『歴史人』2011年1月号にも掲載された話題の屏風


こうした状況は、「極楽橋」と廊下橋の使われ方が、すでに豊臣政権下で変化していた影響ではないかと思われるものの、真相はよく分かりません。

そんな中でも、次のような興味深い現象が見られるのです。



注目すべき事例1 ―渡った先の左手前隅角に天守台 松平秀康の福井城―



福井城に復元された「御廊下橋」/ちょうど背後の石垣が天守台


福井城はご承知のとおり、徳川家康の次男で、二代将軍・秀忠の兄にあたる松平秀康(まつだいら ひでやす)が築いた居城です。

かつては写真の天守台上に天守がそびえていて、この写真の方角から見ますと、まさに当サイトが申し上げている「信長の作法」を踏まえていた疑いがあります。


詰ノ丸(「奥」)の左手前隅角に天守 …豊臣大坂城の場合



しかも福井城の城絵図によりますと、上記の写真の手前側、つまり「御廊下橋」のこちら側は「山里」と名づけられた“馬出しのような曲輪”になっていて、その形状はまるで、当リポートの「北馬出し曲輪」にそっくり(!)なのです。

松平文庫蔵『寛文年間家中屋敷図』より     リポートの豊臣大坂城イラスト
 


このようなデザインの類似や「山里」という名称の符合は、豊臣大坂城のこの場所の変遷(歴史)を踏まえたものだと言わざるをえません。

これはいったい何故なのか?と考えますと、やはり城主の松平秀康が、家康の次男でありながら、実際は豊臣秀吉の側近くで育ったという事実を想わずにはいられません。


小牧・長久手戦後の事実上の人質として、秀康が豊臣家の養子に入ったのは11歳の時。
まさに完成途上の大坂城で秀吉と対面した秀康は、その後、関東の結城家を継いでもなお、伏見や名護屋で秀吉の側近くに仕えたと言います。

関ヶ原合戦の後に福井を居城とし、松平を名乗った秀康が、はるばる江戸入りする時には、二代将軍・秀忠が兄の秀康を品川まで出迎え、駕籠を並べて江戸に入ったという有名な逸話を残しました。


そんな秀康の居城にやはり、豊臣大坂城の残照がくっきりと残されていたことには、徳川と豊臣の間で数奇な人生をおくった秀康の、意地のようなものが感じられるのです。






注目すべき事例2 ―徳川秀忠・家光の二条城の細部も豊臣大坂城そっくり―



二条城の「橋廊下」/橋の二階部分が取り壊された現状


さて、二条城は江戸初期に、大御所・徳川秀忠と三代将軍・家光が、後水尾天皇の行幸を迎えるため、二重の堀に囲まれた城に大改造されました。

そしてその時、二ノ丸御殿から本丸御殿へ内掘を渡る地点に「橋廊下」が架けられました。

行幸の直後に橋の二階部分は取り壊されたものの、今に残る橋の様子もまた、色々と見所が多いのです。


かつては立体交差の複雑な構造だった… 天皇は橋廊下の二階を通って左の本丸へ


全体の構想として、本丸が大御所・秀忠の御殿、二ノ丸が将軍・家光の御殿を兼ねていたと言われますので、「橋廊下」は本丸の格式を高めつつ、ひょっとすると“奥の院”に渡るニュアンスを加味する意図もあったのかもしれません。

したがって「橋廊下」は本丸の「顔」でありつつ、別郭への「扉」でもあったのかもしれず、まさに大坂城や伏見城で熟成された「極楽橋」の進化形のようです。


左:橋を渡って本丸側から見たところ     右:少し角度をずらして撮影 
 


さらに現状の細部を見ますと、これはもう豊臣大坂城を手本とした可能性が濃厚なのです。

例えば右写真の奥の小さな石段は、中井家蔵『本丸図』の極楽橋のたもとに描かれた小さな石段と、まったく同じ位置関係になります。




そして二条城の場合、この小さな石段の上を、先程の天皇が渡った二階廊下が通っていて、そのまま真っ直ぐ本丸御殿の遠侍に達する形になっていました。

(※リポートのイラストもほぼ同じ構造を想定しています)






一方、二条城「橋廊下」の一階を渡って来た者は、大きな方の石段を登って本丸の敷地に上がり、目の前に現れた本丸御殿の玄関から入る形になります。

これもまた豊臣大坂城の仮説と同じスタイルです。


ちなみに下の右写真のように、一階を渡った突き当たりの石垣は、他より大ぶりな石を選んで積んであり、この橋が本丸の正面入口であることを示しています。

左:小さな石段の側から見た様子       右:突き当たりの石垣     
 



このように「極楽橋」の進化と伝播は、なかなか語り尽くすことが出来ませんで、また回を改めてお話させて戴きます。―――



高松城の「鞘橋」/背後に見える建物が天守台上の玉藻殿(解体前)

ここもまた廊下橋を渡った先の左隅に天守が!!









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年02月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!工程の推理(2)−秀吉時代の大坂城が出来るまで−






工程の推理(2)−秀吉時代の大坂城が出来るまで−


クイズ番組の「二つの絵を見て、違いを探して下さい!」ではありませんが、今回の話題は、まさに二つの屏風絵の違いが【謎解き】に関わって来ます。……




上は「京大坂祭礼図屏風」(個人蔵)の大坂城本丸で、下は「大坂冬の陣図屏風」(東京国立博物館蔵)で同じ範囲が描かれた部分です。

ご覧のように上の絵は、極楽橋や桜御門のほかに、手前(西側)から本丸に渡る“もう一本の木橋”が架かっているのに対し、下の絵は、その橋の辺りがちょうど金雲で見えなく(!)なっています。

当ページの最上部バナーの「リポートの前説」をお読みの方は、「アッ」とお気付きのことでしょうが、ここでも問題の“金雲”が暗躍しているのです。

では早速、この【謎解き】を始めることにしましょう。



工程の仮説3.会津若松城と同様に二つの馬出し曲輪があったはず




今回のリポートのイラストにおいて、やはり“風当たりの強い”特徴的な表現(仮説)が、本丸の北側と西側に描いた「馬出し曲輪」でしょう。

これらは現存の会津若松城にも見られるもの(北出丸・西出丸)ですが、現地の発掘調査では、同じ場所から、前代の蒲生(がもう)時代と思しき馬出しの石垣跡も見つかっています。

会津若松城と大坂城築城時の馬出し(※図の両城の方角は異なる)


左の会津若松城を築いた蒲生氏郷(がもう うじさと)は、豊臣政権下で徳川家康・毛利輝元に次ぐ92万石の大大名に登りつめた人物ながら、突然の病で早死にしたために、のちに新井白石が『藩翰譜』(はんかんふ)で石田三成による毒殺説をほのめかしました。

私の勝手な印象でも、氏郷の最盛時の領国(会津若松ほか)は海が無く、内陸部に封じ込められた感があって、これも氏郷の実力が政権中枢部から警戒されていた証のように思われてなりません。


そんな中で、氏郷が、秀吉の天下統一の総仕上げ「奥羽仕置」の地・会津若松で、居城を大坂城とそっくりに築いていたとしますと、これは、かなり痛切な響きがあります。

氏郷の胸中を含めて、築城の方針に関する発言は殆ど無かったようですが、これはひょっとすると、「ひたすら大坂城のとおり」ならば、もう何も仰々しく語る必要は無かったのかもしれません。





さて、今回の仮説の「北馬出し曲輪」は、第一義的には極楽橋が直接、城外にさらされることを避けつつ、本丸北側の防御と出撃の機能を担った曲輪です。

その形は、幸いにして『僊台武鑑』の大坂冬の陣配陣図(個人蔵)にうっすらと痕跡が残されているようなのです。




ご覧の場所が「北馬出し曲輪」の範囲だったとしますと、例えば京橋を渡って来た者がここに入るには、いったん掘際の狭い通路を進んで、さらに堀と本丸に背を向けながら城門に向かわざるをえない、という巧みな構造が見えて来ます。


また、この馬出し曲輪の東側(図では左)は、配陣図の「舟入り堀」に接していた可能性も見てとれます。

このような形式は「馬出し」本来の機能とはやや違ったものになりますが、京の都と連絡する淀川の水運こそ、豊臣政権にとって重大な意味を持っていた点を踏まえますと、かなり信憑性は高いのではないでしょうか。


ちなみに、後の伏見城にも(こちらは大坂城との連絡のために)巨大な「舟入り堀」が備えられていて、それは慶長地震の復興時にもきちんと再築されたほど、不可欠の設備だったことが判ります。

したがって大坂城も、同じ淀川水系の城として、伏見城に似た条件下にあったと考えますと、「舟入り堀」に接した曲輪(「北馬出し曲輪」)には、おそらく接遇のための「舟入御殿」が設けられていたと想像されるのです。






さて、一方の「西馬出し曲輪」は、会津若松城と全く同じならば本丸の東側になりますが、正反対の西側であったように思われます。

その第一の理由は、中井家蔵『本丸図』にある、石垣の下段に設けられた「細い城道」の不可思議な様子にあるのです。




この細い道を城外(右)からたどりますと、本丸に深く切れ込んだ掘の際をグルッと半周して、詰ノ丸や山里曲輪の直下にまで達することが出来ます。

逆にたどる場合は、まるで落城時の脱出ルートみたいですが、それにしては何故、道の先端が城外で“むきだし”になっているのでしょうか?

これでは侵入者に「ここからどうぞ」と言わんばかりであって、およそ理解不能です。


ですから例えば、本来、この道の先端には“何か”があったのではないでしょうか??

その“何か”によって城外と隔てられていたのが、やがて輪郭式の二ノ丸が築かれて、全体が城内に組み込まれますと、その後に“何か”が無くなった時、先端はむきだしのまま放置されてしまったのかもしれません。

で、その“何か”こそ「西馬出し曲輪」だとしますと、この道は、密かに馬出しの内側に通じることになり、それは柵ごしに堀や本丸を眺めただけでは殆ど気付かれない、見事な仕掛けになります。





そして第二の理由が、冒頭に申し上げた“もう一本の木橋”です。

改めてご覧いただきますと、上側の「京大坂祭礼図屏風」には、西から本丸に渡る木橋が描かれています。



このような木橋は『本丸図』の類は勿論、どの大坂陣の配陣図にも見当たらない“謎の木橋”であり、下側の「大坂冬の陣図屏風」の絵師は頭を抱えたことでしょう。

――こんな木橋、資料のどこにある! また金雲で隠すしかないッ… と。


つまりこの木橋は、「大坂冬の陣図屏風」が描かれた江戸初期から、密かに、問題とされて来た存在であることが疑われるのです。




では試しに、この木橋が(築城当初は)実在した可能性を考えてみますと、例えば、第一の理由で浮上した「西馬出し曲輪」の地点から、まっすぐ東(下図では左)に木橋が延びていた場合、その着地点はちょうど山里曲輪の西端(右端)の一段低い場所になります。

そしてこの場所は、先程の「細い城道」の終着点でもあるのです。




つまりこの木橋が実在した場合、《西馬出し曲輪―木橋―山里曲輪の西端―細い城道―西馬出し曲輪…》という、ループ状の閉じた空間が出来上がるのです。

このことから「細い城道」とは、城外と城内の中間に設けられた、帯曲輪の一部であったことが明確になり、これもまた見事な工夫(オリジナリティ)と言えるのではないでしょうか。


そこでさらにイラストでは、『本丸図』の石垣の屈曲を“改造の跡”と想定して、そこに木橋の東端や櫓門、および屏風絵の三重櫓を描いてみました。





さて、以上の仮説を総合しますと、問題の「表御殿」は二つの門「主門・脇門」(礼門・通用門)を備えたことになり、それは京の足利将軍邸にならったデザインである可能性が出て来るのです。

足利将軍邸の二つの門について、千田嘉博先生はこう書いておられます。


館の正面には平唐門形式の礼門(らいもん)とよぶ正式の門と、四脚門形式の日常の通用門という二つの門があったことも見てとれます。礼門は将軍のお出ましなど特別なときしか用いませんでした。(中略)日常使いの通用門は戸が開いていて、人びとが出入りできました。

(千田嘉博『戦国の城を歩く』2003年)


このように築城時の表御殿が、足利将軍邸の作法にのっとって造営されていたのなら、ひょっとすると、唐破風屋根のある極楽橋こそ、人々に事実上の「礼門」と見られていたのではないのか―――

華やかさといい、奇抜さといい、秀吉の宮殿の「顔」として申し分のない建造物だったと思われます。

(次回に続く)








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2011年02月09日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!秀吉時代の大坂城が出来るまで−工程の推理(1)−






秀吉時代の大坂城が出来るまで−工程の推理(1)−




越年でお届けした2010年度リポートは、ご覧のイラストの解説が間に合っておりませんで、今回からその補足説明をしてまいります。


工程の仮説1.基本的な縄張りは石山本願寺をそのまま踏襲した


まずは、ルイス・フロイスが伝えた大坂築城のくだりの一部です。


旧城の城壁や濠は、このようにすべて新たに構築された。そして宝物を貯え、武器や兵糧を収容する多数の大いなる地下室があったが、それらの古い部分は皆新たに改造され、警備のために周囲に設けられた砦は、その考案と美観においてやはり新建築に属し、とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた。

(『完訳フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳)


ご覧のように、豊臣秀吉の大坂城の前身が石山本願寺(「旧城」)であったことは確実ですが、構造(縄張り)的にどこまで関連があったのかは明確でありません。

そうした中で、当サイトは、豊臣大坂城の築城当初の構造は“石山本願寺と殆ど変わらなかった(!)のではないか”という仮説を申し上げております。

それは上記の文章にも拠りますし、さらには…




ご覧の図の右側は、本願寺がその昔、大坂に本拠地を移す以前の「山科本願寺」の様子でして、周囲には巨大な土塁と堀をめぐらした国内有数の要害でした。

そして左の青い部分が、リポートで申し上げた大坂築城当初の範囲であり、この両者の相似形には、本願寺側の一貫した着想(つまり両方とも本願寺の普請だった可能性)が感じられてならないからです。

(※これは当ブログの記事「大坂城に隠された、もう一つの相似形」でも申し上げた件です。)


で今回、是非とも付け加えたいのが、石山本願寺にも“相当な数の櫓が林立していた”可能性があることです。


松岡利郎先生の指摘によりますと、天文10年(1541年)の寺側の記録に「寺中之櫓悉吹倒之、只五相残」(『証如上人日記』)とあるそうで、櫓がことごとく倒れ、たった五棟だけが残った、というのですから、通常はいったい何十棟(!?)の櫓が建ち並んでいたのでしょうか。

これも先程のフロイスの報告「警備のために周囲に設けられた砦は、その考案と美観においてやはり新建築に属し」という文章と突き合せて考えますと、櫓について秀吉がやったことは、新しく織豊城郭の手法を駆使しつつも、同じ場所(の石垣上)に櫓を再建しただけではないのか… といった疑いが深まるのです。


唯今成す所の大坂の普請は、先づ天守の土台也。其高さ莫大にて、四方八角、白壁翠屏の如し

(『天正記(柴田退治記)』より)

リポートでも引用したこの文章の「翠屏(すいへい)」は屏風のことですから、城には「四方八角」の天守がそびえ立ち、石垣の上に白漆喰の櫓や塀が「屏風のごとく」幾重にも屈曲しながら連なっていたことが推測できます。

その辺は、まさに「新建築」や「天守閣」で人々を驚かそうとした秀吉のねらい通りだったのかもしれません。





さて、ちなみにフロイスもまた、秀吉時代の大坂城が“北を大手としていた”可能性をほのめかしていて、この機会に是非ご紹介しましょう。

それは秀吉が大坂遷都を断念した後、その空いた土地(天満)に、再び本願寺を呼び戻した時の報告文です。


筑前殿は、本章の冒頭で述べたように雑賀に移っていた大坂の仏僧(顕如)に対しては、彼が悪事をなさず、なんらの裏切りなり暴動をなさぬようにと、川向うにあたり、秀吉の宮殿の前方の孤立した低地(中之島、天満)に居住することを命じたが…

(『完訳フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳)


このようにフロイスは、天満を「宮殿の前方の」とさり気なく形容していて、「背後」とか「裏」とかいった言葉は、決して用いていないのです。


現在の京橋と復興天守閣/これが城本来の正面(北)からの景観か?




工程の仮説2.大規模な石垣工事で会津若松城に酷似した連郭式の城へ


申し上げたように、秀吉の最初の大坂築城工事とは、土塁づくりの旧城を、石垣や白壁や天守のある新式の城に「改装」したことに他ならないようです。

そして出来上がった大坂城は、《本丸−二ノ丸−三ノ丸》と曲輪が連なる「連郭式」の城として、現存の会津若松城にそっくりな縄張りであったように思われます。

(※左の大坂城の曲輪は通例のままの名称で、これが築城当初は、本丸−二ノ丸−三ノ丸であったはずです。)



いま会津若松城の話題と言いますと、江戸後期の旧観を取り戻すべく「赤瓦」への改修が終わったところで、三月には記念のイベントが開かれるそうです。

会津若松市観光公社のHPより


こうした天守の雄姿は、遠くからも、例えば会津若松の駅の方からやって来る場合も、時おり、建物の間に天守を望見することが出来ます。

ところが城の東側、二ノ丸・三ノ丸の側から城に近づく場合は、フッと、いつの間にか天守が全く見えなくなる区域があり、やっと本丸に至る「廊下橋」の辺りに来ても、天守はまことに見えづらいままなのです。






これはまるで…

同じく、天守が見えにくい大阪城二ノ丸南西の大手口


このように、天守をしっかり見せる必要の無い方角…… それは本来ならば、身内や家中に連なる者供が控える区域であったはず―― そんな風に思えてならないのですが…。

(次回に続く)








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年01月21日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!2010年度リポートをアップしました!!






2010年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

秀吉の大坂城・後篇
〜中井家蔵『本丸図』に隠された大改造の跡〜


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