城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2011/04

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (263)



全エントリ記事の一覧はこちら

2011年4月
         

新着エントリ
城の再発見!さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング (10/18)
城の再発見!『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか?? (10/13)
城の再発見!家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点 (9/29)
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (23)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)


アクセスカウンタ
今日:2,038
昨日:2,207
累計:2,205,460


RSS/Powered by 「のブログ

2011年04月19日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!工程の推理(3)−銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ−






工程の推理(3)−銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ−


宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年/表紙と裏表紙


裏表紙の中ノ段帯曲輪(本丸西側)…詰ノ丸奥御殿より一段低く復元してある


前回も引用させて戴いた宮上先生の本ですが、ご覧のように表紙から裏表紙にわたって、豊臣大坂城の本丸を北から眺めた様子が描かれています。(イラストレーション:穂積和夫)

で、今回の話題は、ちょうど裏表紙の真ん中に描かれた、本丸西側の「中ノ段帯曲輪」(なかのだん おびぐるわ)についてです。


この部分、上記イラストは中井家蔵『本丸図』をごく素直に読んで、詰ノ丸奥御殿よりも一段低い高さで描いてありますが、実は、会津若松城との比較や、別の絵図(『大坂築城地口坪割図』)を踏まえますと、必ずしもこうではなかったのかもしれない、と思われるからです。



【仮説】本丸西側の中ノ段帯曲輪は、実際には詰ノ丸とあまり変わらない高さであり、そのため詰ノ丸の北西虎口は、城郭史上に特筆すべき堅固な「外枡形」(そとますがた)形式の虎口であったのかもしれない



詰ノ丸北西虎口(赤い部分)/敵勢に十字砲火を浴びせる“恐怖の外枡形”か


冒頭のイラストレーションとは異なり、このように中ノ段帯曲輪をより高く想定しますと、石段のすべてを囲い込む形が生まれ、これは例えば、安土城の伝黒金門(でん くろがねもん)の周辺にも似た「外枡形」形式の虎口になります。


これには『本丸図』の描線の情報をやや修正して「読む」必要がありますが、そうすることで、(類似性を申し上げている)会津若松城の天守から鉄門(くろがねもん)にかけての構造に似た形にもなり、その上、銃撃のための巧みな工夫が浮き彫りになるのです。


雁行(がんこう)させた鉄砲狭間は、撃ち手の利便性のためか


この石段を登りきった先の石塁が「雁行」状になっていることは、これまで全く注目されて来なかった点です。

しかし、こうして考えてみますと、雁行状の石塁とその鉄砲狭間は、銃身の長い「狭間鉄砲」(さまでっぽう)の撃ち手らに対して、限られた範囲でより広い稼動スペースを与えるための工夫だったのかもしれません。

しかも…

太線の弾道… 銃撃からの逃げ場を無くす、容赦ない石積み!


このように『本丸図』の描線のままでは意図が分からなかった、細かな石積みの狙い… 敵勢を容赦なく銃撃でなぎ倒すための仕掛けが、ここに隠れていた可能性も浮上してくるのです。




さて、問題の中ノ段帯曲輪が、通説よりずっと高い位置にあったと感じさせるもう一つの理由は、下の絵図の不思議な描写です。


毛利家文庫『大坂築城地口坪割図』(南を上にした状態)


これは豊臣氏の滅亡後に、徳川幕府が大坂城の大改修(二ノ丸石垣の再築工事)を諸大名に分担させた時の絵図ですが、中央の本丸については、まだ豊臣時代のままである可能性が指摘されて来た史料です。

そこで試しに、この図上で、詰ノ丸の範囲を色づけしてみますと…

同図の詰ノ丸の範囲(ブルー)

上図の同じ範囲を『本丸図』で色づけすると…


ご覧のとおり、豊臣氏の滅亡直後の絵図では、詰ノ丸の範囲が広がっていることがお判りになるでしょう。

しかもブルーの領域はちょうど、問題の中ノ段帯曲輪と詰ノ丸を合わせて、一つの曲輪に造成したような形で広がっています。



ですが、もともと中ノ段帯曲輪と詰ノ丸が、冒頭の裏表紙イラストほどの段差があったとしたら、そんな土盛りを行ったうえに、石垣面をぴったり延長して嵩上げ(かさあげ)することなど、簡単に出来るものでしょうか?

それも豊臣秀頼らの主従が城内で生活を続けていた中で…


それよりは、もともと、一つの曲輪に造成しやすい高さがあって、秀頼時代に、その間にあった長い石塁をたんに撤去しただけ、と考えた方がずっと合理的ではないでしょうか。

中ノ段帯曲輪(本丸西側)と詰ノ丸の一体化を示した『大坂築城地口坪割図』


結論として、やはり中ノ段帯曲輪の高さは、必ずしも通説どおりではなかったのではないか…

そして実際の豊臣大坂城は、(秀頼時代の化粧直しの青写真である)『本丸図』のとおりに、すべてがそのまま施工されたとは限らないのでは…

二つの絵図を突き合わせると、そんな疑いも、無くは無いのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2011年04月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!窮民を収容した「本願寺城」の都におとらぬ富貴さ!






窮民を収容した「本願寺城」の都におとらぬ富貴さ!


前回から、豊臣大坂城の極楽橋は「慶長元年に新設された」とする《慶長元年説》に対する疑いを申し上げています。

その理由(論点)を挙げ始めると本当にキリがないのですが、とりあえず羅列した上で、最後に「極楽橋」という名称の由来(寺内町「本願寺城」の実像!)についてお話したいと思います。



理由2.極楽橋周辺の水堀は「十ブラザ前後」の廊下橋ではとても渡れない…



中井家蔵『本丸図』の極楽橋周辺


《慶長元年説》が根拠とする『イエズス会日本報告集』の「十ブラザ前後」という長さの廊下橋では、そもそも極楽橋周辺の水掘は、途中までしか渡れない(!)という物理的な“無理”が伴います。

何故なら、「このブラザは往時のポルトガルの長さの単位で、二.二メートルにあたるから」(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』1992年)であって、つまり「十ブラザ前後」は22m前後=11間前後であり、この水掘の中ほどまでしか届かないのです。


したがって「十ブラザ前後」の廊下橋は、前回、櫻井成廣先生の模型でもお見せした、千畳敷御殿の南の空堀に架かる廊下橋、と考えるのがせいぜい合理的な範囲の長さでしか無いのです。



理由3.かの宮上茂隆先生も、千畳敷に付設された廊下橋と舞台を想定した



宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』(1984年)

※表紙は「極楽橋」を中井家蔵『本丸図』どおりに木橋で描いている


ご覧の宮上茂隆先生の著書『大坂城 天下一の名城』は、ある年代の城郭ファンにとっては懐かしい一冊ですが、この中でも千畳敷と舞台をつなぐ廊下橋が紹介されています。


対面のさい使節に能を見せるための能舞台は、空堀の向かい側に設けられ、千畳敷との間には橋がかけられました。舞台と橋はいずれも彩色され、彫り物などでみごとに飾られていました。

(宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年)


ここで宮上先生が「舞台と橋はいずれも彩色され、彫り物などでみごとに飾られて」と書いたあたりは、やはり『イエズス会日本報告集』の「鳥や樹木の種々の彫刻」等々の表現を意識した結果と思われ、先生がこれらを慶長元年に千畳敷と共に造営されたもの、と考えたことは明らかです。


ただし、ご覧のイラストレーションからは、千畳敷を(櫻井先生とは異なり)「大坂夏の陣図屏風」のままに南北棟の殿舎と想定したためか、懸造りがより大きく南に張り出し、その分、約十間(十ブラザ)の廊下橋は、能舞台の脇(向こう側)を通り越して楽屋につながる形になったことが分かりますし、しかも廊下橋には「小櫓」の類が見られないなど、興味深い点がいくつか盛り込まれています。




そして表紙においては、極楽橋が中井家蔵『本丸図』のとおりに木橋で描かれていて、これは従来の通説に従って、『本丸図』は築城後まもない時期の城絵図である、という考え方に沿ったものでしょう。


で、これに引き比べますと、《慶長元年説》の場合、極楽橋は“まだ当分は存在しない”ことになるわけですから、下の絵のように極楽橋は消えてしまいます。


これは『イエズス会日本報告集』の問題のくだりが「太閤はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし」と始まっている以上、新規の架橋なのでしょう。

――しかし、そうしますと《慶長元年説》では、中井家蔵『本丸図』は、どの時期を描いた絵図だということになるのでしょうか?

もし仮に秀頼時代まで下るとしても、『本丸図』表御殿と千畳敷の時系列的な関係を考えますと、すでに解決策の無い袋小路に陥っているのかもしれません。


《慶長元年説》による極楽橋の未設状態




理由4.肝心要の文献が、極楽橋は「二十間」程度だったことを示唆している



豊国社の跡地から見た阿弥陀ケ峰


ここまでご覧のように、極楽橋の長さは、いずれの先生方の復元でも「二十間」程度ですが、これを裏付けるかのような数字が、日本側の肝心要の文献に記されています。


豊国明神の鳥居の西に 廿間ばかりの二階門建立す 大坂極楽橋を引かれおわんぬ

(『義演准后日記』慶長五年五月十二日条)


この文面は、最終的に廊下橋の「極楽橋」が慶長5年(1600年)、豊臣大坂城から移築され、豊国社の正門(楼門)になったことを伝えたものです。(※その後、再び竹生島に移築)


で、この肝心要の文献に「廿間(にじゅっけん)ばかり」とあるのが要注意点であって、これは言わば“縦使い”の廊下橋を、“横使い”にして、楼門と左右翼廊による約20間幅の門に仕立て直した、という意味になるのでしょう。

「廿間」は39m余ですから相応の構えになりますし、逆に、もしも極楽橋が半分の「10ブラザ前後」しか無かったなら、そこに他の何かを継ぎ足さなくてはなりません。



理由5.しかも『イエズス会日本報告集』の「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」形の廊下橋と言えば、あの有名な橋もたしか秀吉が…



京都の観光名所、東福寺の「通天橋」


ご覧の「通天橋」は歴史上、度々架け替えられて来たそうで、現在の橋は、以前の橋が昭和34年(1959年)8月の台風で倒壊したのを、翌々年に再建したもので、橋脚が鉄筋コンクリート造に変わっています。

で、歴代の通天橋をザッと振り返りますと、寺が発行した『東福寺誌』には…


慶長二年
三月 秀吉の命により、瑤甫恵瓊、東福の通天橋を改架す



という記述があって、なんと秀吉は大坂城に“問題の廊下橋”を架けた翌年(!)に、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)に命じて通天橋も架け替えさせていたのです。

この慶長2年の通天橋は、惜しくも江戸後期の文政12年(1829年)にまた架け替えられてしまい、詳しい形状等は不明のようです。

ただし文政12年の通天橋は、前述の昭和34年の台風で倒壊するまでは健在で、これが古写真等にも数多く残っていて、現状とほぼ同じデザインなのです。


ご参考/江戸時代の名所図会(上方文化研究センター蔵『澱川両岸一覧』文久3年)より

ご参考/通天橋の古写真 「京都東福寺通天橋(国立国会図書館所蔵写真帖)」より


橋の中央に平屋造りの小櫓?


で、慶長元年の問題の廊下橋について『イエズス会日本報告集』は「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」と伝えていて、早くもその翌年に、秀吉はこの通天橋も架け替えさせたわけですから、両者のデザインの“思わぬ符合”が示唆するものは一つでしょう。

大坂城の廊下橋が「此の如き結構は世に類なし」と宣教師が伝えたほどの出来栄えで、さも得意げな秀吉の表情が目に浮かぶようです。


ただし、現状の通天橋は張り出しが片側にしかなく、言わば「平屋造り」の「小櫓」が一基しか無い形ですが、もしも慶長年間には張り出しが橋の両側、もしくは片側に二つ並んでいたとするなら、それはまさしく『イエズス会日本報告集』の記述にピッタリであり、なおかつ、望楼のある極楽橋とはまったくの別物と言えるでしょう。

結局のところ、豊臣大坂城で、望楼のある廊下橋は「極楽橋」だけで、一方の『イエズス会日本報告集』の廊下橋は「平屋造り」の張り出しだけだった、という可能性もありうるのです。



以上のような諸々の疑いから、大坂城「極楽橋」が慶長元年に架けられたとする《慶長元年説》は、幾重にも困難がつきまといます。

正直申しまして、『イエズス会日本報告集』という文献と「城郭論」にもう少し、折り合いがつけばいいのに…(否、櫻井先生や宮上先生の段階ではついていたはず!)と、古参の城郭マニアとしては、ただ、ただ、戸惑うばかりなのです。




補論:「極楽橋」という名は極楽浄土にちなんだものか? それとも全く別の由来のものか?



藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』2006年


さて、豊臣大坂城の前身は石山本願寺であったことから、「極楽橋」という名も、何か仏教に関連したもののように見えます。


しかし例えば「極楽浄土」にちなんだものとすると、極楽橋は本丸の北側に架けられた橋であって(しかも伏見城や金沢城の極楽橋も北側であり)「西方浄土」の西ではない点が矛盾してしまうのかもしれません。

この点に関しては、「村の城」等の研究で知られた藤木久志(ふじき ひさし)先生が、ご覧の表紙の著書で、そのヒントになるような指摘をされているので、是非ご紹介したいと思います。


藤木先生は、近江堅田の真宗本福寺の僧、明誓(みょうせい)が記した『本福寺跡書』によると、本願寺教団とは、商人や職人を本業とする幹部門徒を中核とした、経済的に豊かな教団であり、飢饉のときには窮民らを進んで寺内町に収容したのだと言います。



「御流(本願寺教団)ノ内ヘタチヨリ、身ヲ隠ス」というのは、飢餓や戦争の辛い世を生き残れない、数多くの難民や、世をはみ出した牢人たちを、本願寺教団は包容し匿(かくま)っていた、という。

真宗教団というのは、不遇な人々にとって、大切な生き残るための組織(生命維持装置)でもあった、というのである。

これは、真宗教団の本質についての、とても重要な証言であり、広く一向衆の寺の組織や、寺内町の門徒たちの職業構成についても、同じ視点から検討してみることが、今後の大きな課題になるであろう。


(藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』2006年より)



つまり一般に、当時の「本願寺」や「一向宗」に対して抱かれている“ムシロ旗を振りかざす貧農門徒の集団”といった先入観は、実態とは真逆に近い誤りだったわけで、この点は仁木宏先生も『二水記』の記述から、山科本願寺のたいへん富貴な実像を指摘しています。



筆者の鷲尾隆康(わしお たかやす)は「中流」の公家で、本願寺とは別に利害関係のない人です。その彼の日記の中に(中略)
「寺中」=本願寺は大変広く、その「荘厳」さは「仏国」のようだ。寺内町の「在家」=町屋もまた「洛中」の町屋と違わないぐらい立派だ。「居住の者」はみな「富貴」=富裕で、町人の「家々」の装飾も大変「美麗」である、というのです。

(仁木宏「山科寺内町の歴史と研究」/『戦国の寺・城・まち』1998年所収)



当ブログも以前の記事で、石山本願寺が何十基もの櫓を構えた可能性をお伝えしましたが、それほど「本願寺城」というのは、豊かな経済力や軍事力を備え、それを伝え聞いた人々がさらに集まるという、実在の“王城楽土”であったようなのです。


ですから、ひょっとすると織田信長は、戦場での門徒兵の捨て身の抵抗よりも、むしろ本願寺教団が果たした“社会制度的成功”とでも言うべきものに、いっそう大きな脅威を感じたのかもしれません。

そしてその後、秀吉が大坂城本丸の大手口とした「極楽橋」は、そんな“王城楽土”の輝きを、あえて積極的に継承するための命名だったのではないか――

などと思うわけなのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。