城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2011/08

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2011年08月25日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!「殿守(てんしゅ)を上げる」若き秀吉のやり方






「殿守(てんしゅ)を上げる」若き秀吉のやり方


(※今回は画像用レンタルサーバーにメンテナンスと仕様変更があり、やむなく記事のアップが遅れ、失礼しました)


さて、当サイト「天守が建てられた本当の理由」は名称の中に「建てる」という一般的な言葉を使って参りましたが、この間にも、諸先生方の著書では「当時は天守を“上げる”と言った」との指摘が度々ありました。

私があえて「建てる」という言葉を選びましたのは、やはり番組制作でのトラウマがあって、一般の方々により広くアピールするためには、いきなり専門用語を使ってはならないという、やや四角四面な強迫観念も働いてのことでした。


ですが、今回、<秀吉流天守台>のお話を再開するうえで、この天守/殿守(てんしゅ)を「上げる」という言い方の語源的なイメージが、たいへん重要なカギを握っているようでして、この機会に是非、そうした一連の懸案をまとめてお話してみたいと思います。

(※なお、ご承知のように天守は「天主」「殿守」「殿主」と様々な漢字が当てられて来ました)



<秀吉流天守台と「方丈建築」(ほうじょうけんちく)との深い縁… その1>



姫路城天守台の土中で発見された羽柴秀吉時代の礎石と石垣

(※加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の図をもとに作成)


朝鮮出兵の本拠地・肥前名護屋城の天守台跡で発見された礎石

(※佐賀県立名護屋城博物館『名護屋城跡』1998年に掲載の図をもとに作成)


当サイトが申し上げている<秀吉流天守台>の特徴の一つが、ご覧のような礎石の配置、つまり独特な天守の柱割り(はしらわり)にあると申せましょう。

秀吉は織田家の家臣のころ(姫路城天守の築造は天正9年頃)から、天下人になってからも(肥前名護屋の築城開始は天正18〜19年)この手法を踏襲し続けたようで、その間の、豊臣大坂城もまったく同じだったと言えそうです。




かの中井家蔵『本丸図』の書き込み(図の黒字「十一間」「十二間」)によって、豊臣大坂城天守の初層のサイズは明確です。

で、その数字(黒字)は京間(六尺五寸間)での測量値と言われ、しかも当サイトが申し上げている「天下人・秀吉の天守は十尺間で建てられた」という仮説に沿って柱割りをしますと、まことに綺麗に、中央の柱間だけ基準柱間の1間半(天守本体は桁行7間半、梁間6間+張出1間)で割り付けることが可能なのです。(!)


このように中央の柱間だけを幅広にして初層を築いた天守は、おそらく秀吉の居城だけでしか見られない特異な現象でしょう。





では、これら<秀吉流天守台>に一貫した手法は何に由来したのだろうか? と想像しますと、真っ先に思い当たるのは、やはり「方丈建築」ではないかと思われるのです。

方丈建築の一例:大仙院本堂/永正10年(1513年)造営


(※平面図は『日本建築史基礎資料集成 十六』に掲載の図をもとに作成)


方丈建築と言いますのは、禅宗の寺院建築群のなかで僧侶(長老や住持)の住居として建てられたものです。

縁で囲われた室内は六室に分かれ、正面中央には儀式のための広い部屋「室中(しっちゅう)」があるものの、その他はおおむね居住用の部屋になっていました。

そしてこの「室中」に入る正面中央の柱間だけが幅広で、ご覧の大仙院本堂は「1間半」になっているのです。


(※しかも方丈建築は、正面の向かって右側に、細長い「玄関」が手前側に突き出していて、これは豊臣大坂城をはじめとする天守群の正面右側の付櫓―― 例えば彦根城や犬山城などの例を想わせ、いっそう縁浅からぬものを感じさせます)


では、この仮説のとおりならば、いったいなぜ秀吉は自らの天守に、禅宗の方丈建築の手法を採り入れることになったのでしょうか?

その経緯や人物の関与等はなかなか把握できませんが、ひょっとして、主君・織田信長の安土城天主に触発されて、秀吉もまた、姫路城天守を“住居”として築こうとした(!?)可能性は無かったのでしょうか。



<じつは戦国期から代々、姫路城天守の台上には礎石建物が載っていた…>



現存の姫路城天守


いま姫路城天守は平成の大修理の真っ只中ですが、55年前の昭和31年(1956年)にも「昭和の大修理」が行われていて、大小天守の全面的な解体修理の過程で、前出の羽柴秀吉時代の天守台跡が発見されました。

工事を主導した加藤得二技官(当時)が、発見の様子を詳しく著書に記しています。

出土した秀吉時代の天守台石垣の上端(北西から見た様子)

(※加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の写真をもとに作成)


加藤技官の著書によれば、ご覧の秀吉時代の石垣や礎石は、現天守の礎石上端から地下に0.396m〜1.965mの範囲で(深さ約5尺の浅い穴倉を伴いながら)埋まっていたそうです。

そして留意すべき点は、さらにその下からも、いっそう古い時代の礎石や瓦片が発見されたことです。


(加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年より/文中「三層閣」は天守のこと)

【赤松氏時代の礎石?の出土と貝塚跡】
秀吉の三層閣の礎石を配列する地盤から、さらに〇.七五メートル(二.五尺)、現在天守の地盤から二.六四メートル(八.八尺)下方に秀吉以前の城?の礎石三個が出土した。

(中略)
礎石はちょうど建物の東南隅石にあたるもので、これより西北方に連続するであろうとする礎石の配列は憶測の域を出ないことをお断りしておく。

姫路城の沿革によると、応仁二年(一四六八)赤松政則(則村より五代の孫)が父祖の旧領を回復した際、城地を拡張して東峰に城を築いたと伝え、くだって永禄四年(一五六一)小寺重隆(黒田姓)が旧城の近くに新城を築いた(『姫路城史』)と伝えるなどのことから考察して、この新城の東南隅に擬せられるものとされた。

(中略)
東辺に出土した旧石垣から黒田新城?の出土礎石までの距離は一九メートルある。
このことは天正八〜九年の秀吉の築城にあたって、在来構居の敷地が東へ一九メートル、南へ七〜八メートル拡張されたことを示すものであった。




つまりは姫路城天守台の土中を透視すると、こんな状態かと…


したがって、秀吉が姫路で我が天守を建てようと意気込んだ時、その場所にはすでに、別の礎石建物(黒田新城の詰ノ丸御殿?)が建っていた、という点がたいへん重要なポイントのように思われるのです。


そこで秀吉は自らの天守の初層に、僧侶の住居である「方丈建築」の手法を採り入れつつ、その上に望楼を載せて「殿守(てんしゅ)を上げた」――

という風に想像をめぐらせますと、「殿守を上げる」という言い方の最初のニュアンスはおそらく、既存の御殿の上に、さらに望楼が天高く現れた驚き(屋上屋を重ねる執拗さへの恐れ)に、最大の力点を置いた表現だったように思われるのです。

しかもご承知のとおり、近年の城郭研究では、戦国期の後半にはもう、高い山城の山頂本丸にも礎石建物(御殿)のあったことが明確になって来ています。


加藤技官の考証に基づいて描かれた秀吉時代の天守(裏表紙イラスト)

(学研『歴史群像 名城シリーズI 姫路城』1996年より)


結局のところ、「天守を上げる」という語源的イメージの背景には、中井均先生らの織豊期城郭論や千田嘉博先生の戦国期拠点城郭論に見られるような、当時の最先端の城の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に、あえて必要以上の望楼を上げることから、天守は誕生した… というストーリーが見えて来るようです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年08月08日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!では駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか






では駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか




「穴倉」の有無をめぐる前回の表です。

このうち赤ラインで囲った駿府城(すんぷじょう)は、おそらく天守自体は五重天守に含まれ、かつ穴倉(石蔵)は無かったとハッキリ申し上げられるでしょうが、しかしその天守台の方にも「無かった」と断言できるのかどうか、チョット難しい事情を抱えています。

これは城郭ファンの方々が少なからず感じている点でもあり、そしてそこから導かれる驚愕の可能性について(今回もまた秀吉流天守台の話には戻らずに)是非この機会に触れておきたいと思います。


駿府城天守の復元模型の一例(巽櫓での展示/1994年!撮影)

(※これは様々な変遷を経てきた駿府城天守の復元案の一つで、
以下の説明には一番適当なので、あえて挙げてみました…)


さて、慶長12年から13年(1608年)にかけて、徳川家康が自らの隠居城として再築した駿府城(静岡市)には、じつに特異な形の天守がありました。

それはご覧のとおり、史上最大の天守台に“穴倉のごとき窪み”(深さ2間少々)があって、その中にスッポリ収まるように天守が建っていた、と考えられているのです。

(※ただしご覧の模型は、天守の向きが以降の復元案とは90度異なり、また天守台周縁部の石塁上にあった多聞櫓や隅櫓等々の復元がされていません)



で、前回の記事では、大型天守が「石垣に大きな荷重をかけない」ように築かれたことを申し上げましたが、この天守はそんな心配とは無縁のスタイルです。

――天守は石垣にいっさい荷重をかけず、その直下に穴倉が隠れているわけでもなく、逆に自分より広大な穴倉(?)の中に収まっているのです。

このような復元は『当代記』等の天守各階の平面規模や、大日本報徳社蔵の城絵図の描写から、まず間違いないものと言われています。


そしてこの天守台、形だけに注目しますと、なんと、前回記事の三浦正幸先生の講演にも登場した「名古屋城天守」にソックリ(!)なのです。



あの巨大な名古屋城天守が、まるで縮小コピーのよう…

(※両者は同縮尺/静岡県立中央図書館蔵『駿府城御本丸御天守之図』
および名古屋城管理事務所蔵の天守建築図をもとに作成)


両者の手法の一致は、これまでも度々指摘されて来た点です。


(駿府城の)天守台の形は名古屋城とほぼ同じ構成である。
まず大天守台の南辺に沿って石段をのぼり、左折して小天守台に入る。小天守台の中で二度右折し橋台に出る。
さらに大天守台の入口には喰い違い虎口(くいちがいこぐち)が設けられていた。

(中略)
また、天守は本丸石垣の角に位置する塁上式で大天守東側に桝形虎口(ますがたこぐち)があり、地階には井戸が設けられていた。

(解説文:大竹正芳/西ヶ谷恭弘監修『名城の「天守」総覧』1994年より)


というように駿府城の天守台は、三浦先生が「穴倉」の代表として例に挙げた名古屋城天守とソックリの手法でありながら、そのあまりの巨大さのためか、「穴倉」としての使用が完全に封殺されたような状態だったのです。




そして、この特異な天守が登場するまでには、なかなか複雑な経緯をたどったことが知られています。概略を申しますと…


慶長11年 3月 家康、旧城主の内藤信成を長浜へ移し、城の内外を巡視
慶長12年 2月 城の修築工事が始まる
      5月 天守(台)の根石を置き始める
      7月 天守台石垣と殿閣が完成し、家康が本丸の殿閣に入る
      12月 城中失火で殿舎を焼失。家康は二ノ丸に避難
慶長13年 正月 再建工事(堀と塁と殿閣)を急がせる
      2月 殿舎が上棟。大天守・小天守いっせいに作事開始
      3月 殿舎落成し、家康が新殿に移る
      8月 天守が上棟
慶長15年 半ば頃 天守落成



このように諸書の記録では、慶長12年の天守台や殿閣が完成して、わずか5ヶ月後に殿舎が焼失したとあるのですが、この時、果たして<天守木造部の工事は始まっていたのか><その工事中の天守も焼けたのか><天守台に損傷があったのか>については、意外なことに、何も記録が無い(!)ようなのです。

そして火事の2ヶ月半後には大天守・小天守の作事が開始(再開?)されていますので、天守台の焼けた(?)石垣を全面的に積み直せたかどうかも、微妙なタイミングです。


これら諸々の状況から考えられる可能性としては、火事の前に<天守木造部は実際には未着工のままで何も無かった>か、もしくは<着工の記録を何らかの理由で伏せてしまった>という別種の疑惑もありうるように思われるのです。




幻の超巨大天守!の仮想模型(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981年より)


ここで今回の記事のメインイベンター、櫻井成廣(さくらい なりひろ)先生の「超巨大天守」の登場です。

ご覧の模型は、櫻井先生が、あくまでも「駿府城大天守台の上にその広さどおりの大天守閣ができたら、どんな姿になったであろう」(写真の著書より)という、仮定の興味に基づいて自作したものです。

ですから勿論、天守台の中には“例の穴倉”が入っている想定であり、天守台上の初層の広さは24間半×21間とし、「各層の壁面の高さは大体定まっているから、自然(と)外観は七層、内部は九重に」(写真の著書)という、超巨大サイズになっています。


この模型製作の当時は、まだ大日本報徳社蔵の城絵図が知られていなかったようで、それでこんな大胆な模型を作れたのかもしれませんが、その後、城絵図が認知されますと、しだいに「超巨大天守」は半ば荒唐無稽な試みとして忘れ去られて来ました。

ところが今日、三浦先生の「穴倉」存在理由の再定義という事態が、その典型例として挙げた名古屋城天守台と、駿府城天守台との間にある“手法の一致”をどう解釈したらいいのか、新たな興味を喚起しているように思えるのです。


時期的には、よりコンパクトな方が後になって築かれた… これは何故なのか?


そして私が一番気になるのは、両者の出現の時期なのです。

すなわち、よりコンパクトな方(より着実な方?)が後になってから出現している…

この順序が物語るものは、想像力を膨らませますと、やはり問題の「超巨大天守」はいったんは計画されて、それに合わせて天守台が築かれ、もしくは天守木造部の着工もあって、それらの続行を徳川幕府が早々と「断念」していた(!)ということではないのでしょうか。

そしてその不名誉な技術的「断念」を、火事のドサクサの中に隠蔽(いんぺい)しつつ、その2年後に、名古屋城の大天守で雪辱を果たしていたのではないか――

といった勝手な空想が頭の中を飛び交うのです。


天守の技術的失敗と申しますと、例えば豊臣時代の丹波亀山城天守にはややかんばしくない評判が残っていたり、徳川将軍の江戸城でも完成したはずの天守台を削ったり積み増したりしていました。

そのように天守にも当然、試行錯誤や失敗作の類はあったはずで、駿府城の天守台はそうした秘史の存在を臭わせているように感じるのです。


歴史の裏側に、超巨大天守の「断念」と名古屋での再チャレンジが!?


(※ちなみに今回の仮説は、慶長度の江戸城天守は五重天守ではない!
という想定に基づいています。つまり当時、名古屋城天守は
あらゆる面で史上最大だったことになります)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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