城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2011/10

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2011年10月26日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい






新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい


大阪城天守閣蔵の屏風絵(部分)とその推定復元/ともに<西面>!


当サイトでは、豊臣秀吉が創建した大坂城天守について、上記の『大坂城図屏風』が伝えるおびただしい紋章群こそ、この天守に込められた深刻な政治的思惑を示すもの… と申し上げて来ました。

それは、まさに宣教師の「地の太陽は殆ど天の太陽を暗くする」(『日本西教史』)という評伝どおりの破天荒な外観であり、当サイトはそうした屏風絵の描写に忠実にイラスト化を行ったつもりです。

ただしそれ以来、長らくこの<西面>イラストばかりをお見せして来たため、この度、新たに<南面>(厳密には南西の詰ノ丸奥御殿の南部付近)から見上げた様子を推定して、イラスト化してみました。



(※クリックすると壁紙サイズでもご覧いただけます!)


こうしてご覧になれば、『天正記(柴田退治記)』が伝えたとおりの「四方八角」の建築であったことが、如実にお判りになるでしょう。

で、この新イラストで申し上げたいことは多々あるのですが、まず今回は「紋章群」の実際についてお話してみたいと存じます。



<紋章群は大型の木彫なのか?それとも錺(かざり)金具か?>



その紋章群とは、具体的にはどのような材質だったのでしょう。

同時代の事例で似たものを挙げますと、まずは醍醐寺三宝院の国宝・唐門にある木彫の紋が連想され、この門が勅使門であることを示した「菊紋」「桐紋」には、かつて金箔が張られていたそうです。


醍醐寺三宝院 唐門


一方、『信長記』『信長公記』類によりますと、織田信長の安土城天主には、京の装飾金工・後藤平四郎が腕を振るったという金銅製の錺金具が施されていました。
おそらくは釘隠し(くぎかくし)の類かと思われ、その仕事で平四郎は信長から小袖を賜ったと記されています。


ならば大坂城天守の巨大紋章群の場合、果たして木彫なのか? 錺金具の応用なのか? と問われますと、それを判断できる直接的な史料は無いようですが、ただし紋は「壁」そのものに取り付けられた例はあまり一般的でないようで、その点では注意が必要でしょう。

つまり建物に「紋」がつくのは大抵、門扉、破風、瓦、幕、提灯といった箇所になりがちで、醍醐寺三宝院も門扉であり、その例に漏れません。

例えば年代を問わずに色々挙げてみますと…


北野天満宮の門扉         宇和島城天守の唐破風下


靖国神社の白幕             高山陣屋の提灯



―――ですから巨大紋章群の位置も「壁」ではない、と考えた場合、ここで大きなヒントになるのが、ルイス・フロイスの見聞録にある“秀吉が大坂城天守の戸や窓を自分の手で開いて行った”という記述だと思われるのです。


(※『完訳フロイス日本史4』中公文庫版より)

その後関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔の門と窓を急ぎ開くように命じた。
(中略)
彼は城内で登り降りする際には、低い桁がある数箇所を通過するにあたって足を留め、おのおのが上の桁で頭を打たぬよう注意して通るようにと警告した。
そして途中では閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いていった
このようにして我らを第八階まで伴った。



これはフロイスら宣教師など三十人余りが大坂城を訪問したおりのことで、城内で“頭を打ちそうな桁(けた)”と言えば、まさに天守や櫓の階段部分であることは、お城ファンならすぐに思い当たるでしょう。

そして秀吉と一行がわざわざ天守に登閣するのですから、いきなり真っ暗な天守内にゾロゾロ上がっていったとは思えず、事前に窓を開け放つなどの準備は、当然、ぬかりなく行われていたはずです。


にも関わらず、秀吉が自ら開ける箇所を“残していた”というのは、そこに一行の話題となる何か(つまり興味の対象…)があったとも想像できます。

なおかつ、その箇所が秀吉一人では作業が危ういほど重いもの(例えば巨大な木彫が外側に取り付けられた戸など)であったはずはありません。


このように考えた時、ふと想起されるのが、国宝・犬山城天守にある両開きの窓です。
左右の戸は止め金等でフックするだけの構造であり、秀吉一人でも自在に開け閉めできる程度のものです。


犬山城天守の窓(昭和の解体修理時の復原)


そして「一行の興味を引いた何か」がここにあったとしますと、黄金の紋章群とは、大型の扉金具ではなかったか? と考えられるように思うのです。

―――つまり個々の紋章は、止め金と一体化して左右の戸に打たれた錺金具であり、その窓をあける動作を外から見ますと、巨大な紋章が真っ二つに割れて開き、閉めるとぴったり元の紋章に一体化する、といった面白い(やや不敬な印象もあって大胆不敵、かつ破天荒な)仕掛けだったとしますと、前述の秀吉のエピソードはまことに痛快です。




細工としてこれに類似のものは、例えばこちらは全く時代の異なる錺金具ですが、成田山新勝寺の開山堂などにも同類のものが見られます。


と、今回は、かなり手前勝手な「空想」を申し上げてしまったのかもしれませんが、私が想像するに、そんな仕掛けを宣教師らの前で得意げに開け閉めしてみせる秀吉の表情が、ありありと思い浮かぶのは何故なのでしょう。……

(※次回に続く)


(※ちなみに今回のイラストは、下記の三浦正幸先生による復元CGと、ほぼ同じアングルから作画したことになります)

(※そして両者ともに、実際は手前に奥御殿が建ち並んでいたため、このようなアングルから天守の全身をスッキリ見通せなかったことは言うまでもありません)



別冊歴史読本『CG復元 よみがえる天守』2001年







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年10月06日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる






坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる




このところ、ご覧の付櫓(つけやぐら/続櫓)に特徴のある「秀吉流天守台」の話題を続けておりますが、この辺で一旦、中締めをさせて戴くため、今回は、その形状の由来について、(以前に触れた「中央櫓」よりも)ずっと直接的な原形が、琵琶湖畔のいわゆる「浮城」群に出現していたのではないか… というお話を申し上げたいと思います。


大津城天守の移築とされる、彦根城天守

同天守の初重平面

(『国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書』1960年に掲載の図より作成)


ご承知のとおり彦根城天守は、かつては琵琶湖対岸の大津城にあった天守を移築(部材転用)したものとされ、図の「多聞櫓」はやや後世の増築らしいものの、天守本体と「附櫓(つけやぐら)」は築城後まもなく揃って完成(慶長11年頃)したことが判っています。

何より興味深いのは、その天守と附櫓に転用された部材から、前身の建物(大津城天守)の概要が推定されていることで、その初重の平面は、下図のように、四角形と台形が組み合わさった形をしていたそうです。

何故そのように言えるのか、工事の報告書によれば…


前掲報告書に掲載の図(「前身建物推定平面図」)


(報告書の説明文より)

幸い各部材には旧の位置を示す番付や符合が陰刻されていて、この番付や部材寸法等により前身建物の規模を推定することが出来た。
(中略)
「一ノ一」の隅柱を調査してみると、柱への貫穴が矩の手にあけられているわけであるが之が直交せず片方の穴は斜にあけられていた。これはこの隅で建物が直角に組まれていなかったことを示す。
更に「一ノ四」の柱を見た所、貫穴はまともであったが、梁の仕口が直角でなく、斜に穴をあけられていることが認められた。
なお同種の柱が外に二丁あり、挿図の右端の柱通りである「一通り」が、桁行とは直角でなく斜になっていたものと考えざるを得なかった。
この傾きの角度は柱間六間につき一間だけ傾いているとの結果が得られた。


(※報告書には工事関係者として「滋賀県文化財係長(工事監督)大森健二、同技師(工事主任)清水栄四郎…」等とあります)


このようにして判明した傾きのため、大津城天守の一隅は約100度という鈍角(どんかく)であったとされるのですが、この角度、他の天守や天守台(例えば豊臣大坂城や犬山城)にも似たような角度がついていたことは、城郭ファンに良く知られています。


豊臣大坂城天守            犬山城天守


  大津城天守            (彦根城天守)


各天守の平面図を並べてみますと、ご覧のように「付櫓」と「鈍角」の位置関係もまた、秀吉流天守台の成り立ちに関係しているように感じられます。

―――で、ここで最も肝心なことは、<では何故、その一隅だけが鈍角なのか?>という素朴な疑問でしょう。

報告書はそうした疑問に答えていませんが、ごく常識的な連想として、少なくとも彦根城(大津城)の場合は、前身の天守が本丸石垣の鈍角の一隅に建っていたことを示唆しているのではないでしょうか?



<大津城と同じ琵琶湖“浮城”群の一つ、膳所城(ぜぜじょう)の場合は…>



本丸の左手前「隅角」に天守!/滋賀県立図書館蔵の膳所城絵図より作成


話題の大津城が関ヶ原合戦時の砲撃戦の惨状で廃城となり、その後継として至近に天下普請されたのが膳所城(現在も同じ大津市内)でしたが、以前の記事(→ご参考)で申し上げたとおり、その天守は「本丸の左手前隅角」という織田信長の天守位置を踏襲していたように思われます。

その詳しい位置や規模は発掘調査で判明していて、鈍角というよりも、やや鋭角の隅角に建っていたそうです。

そこで試しに、冒頭の彦根城天守をその位置に重ねてみますと…


膳所城天守(図の赤い天守)の位置に


彦根城天守(青い天守)を重ねてみると…

(※『膳所城本丸跡発掘調査報告書』1990年に掲載の測量図より作成)


決して二つの天守に直接の関係はないものの、ご覧のとおり、ともに直角でない隅角に対応できる形をしていて、例えば何か別の天守(言わばミッシングリンク…)を介した関連性が感じられるようです。

また、このようにして初めて合点がいくことは、彦根城天守とは、まず附櫓で「鈍角」にも対応でき、次いで多聞櫓とその石垣で「鋭角」に切り返すデザインになっていた、ということでしょう。


一方、膳所城天守にはいっそう長大な多聞櫓がめぐっていて、その石垣の屈曲の具合を見ますと、それらはなんと、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿の石塁にたいへん良く似た形状になっているのです。

膳所城の石垣             豊臣大坂城の石塁



このように一連の城郭群(豊臣大坂城…大津城…彦根城…膳所城…)は、天守周辺のデザインに関して、それぞれに影響を及ぼし合った痕跡を残しているようです。



<ならば秀吉自身の居城・長浜城や、明智光秀の坂本城はどうなのか?>



やはり大津城の天守も、本丸の左手前隅角の「鈍角」にあった!?

(※『新修大津市史』1980年に掲載の図より作成)


ここまで申し上げた内容から、諸書に掲載中の大津城の推定復元図を踏まえて、その本丸の南西隅の「鈍角」部分(現状はマンションのパークシティ大津)に天守はあったのではないか、と想定してみました。


なお、諸書の推定復元図の中には、この隅角に「橋」を復元したものもありますが、やはりこの位置が最有力だと思われます。

反面、ここから特段の発掘報告が無かったのは、廃城後の変転で天守台が失われたか、または(チョット矛盾するように聞こえるかもしれませんが…)むしろここは初めから「台」そのものが無い形式であり、あくまでも石垣の隅角の形に合わせて天守や附櫓・多聞櫓が配置されたことを、まさに「鈍角」が物語っているように思うのです。


さて、それならば「秀吉流天守台」の源流はどこまでさかのぼれるのか? という興味については、羽柴秀吉時代の長浜城や、琵琶湖“浮城”群の祖形とも言うべき明智光秀の坂本城も、当然、その射程内に入るでしょう。

おそらくは膳所城と同様に、それらの天守は「本丸の左手前隅角」が有力だと思われ、その場合、坂本城には大・小天守があった、という伝承は興味深く、きっと本丸の左手前に大天守、右手前に小天守(月見櫓?)という、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿とそっくりの形だったのではないでしょうか。


―――したがって「秀吉流天守台」は、ひょっとするとライバル・明智光秀の坂本城に産声をあげ、秀吉自身の長浜城、大津城、膳所城と続いた、琵琶湖中に突出した「浮城」群に共通の手法で築かれたのかもしれません。


そう思いますと、面白いことに、冒頭の彦根城天守は、彦根山の山頂に移築されているものの、その「附櫓」はやはり湖の方角に張り出して設けられている(!)ことに気付かされ、これも歴史に埋もれた伝承形態なのかと、ハッとさせられるのです。……



しかも「附櫓」の反対側、つまり写真の手前側が、ちゃんと城の「表」大手方面になっています。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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