城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2012

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2012年12月25日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!北ノ庄城「九重」天守や会津若松城「七重」天守は幻ではない






北ノ庄城「九重」天守や会津若松城「七重」天守は幻ではない


ふたたび私的な極論/天守のいちばん原初的なイメージ


このところ、私的な極論として、もっとも原初的な天守のイメージを手前勝手に申し上げて来たわけですが、その中では「天守としての条件が整うならば平屋建ても」などと極端な仮定の話まで申し上げてしまいました。

そうした天守誕生の契機についての考え方は微動だにしないものの、それならば「天守はいつ高層化を始めたのか?」という疑問は残るわけで、そうした観点から今回は、2012年度リポートの当初の予告内容(「層塔型天守はどこで生まれたか 朝鮮出兵−藤堂高虎の遠征路をゆく」)について、翌年度への先送りと若干の軌道修正をせねばならないと思い立った事情を含めまして、お話を申し上げたいと思います。




<天守高層化への「実験」が北ノ庄城で行われたと仮定しますと…>






ご覧の図は以前の記事の中で、本能寺の変の頃にあったと思われる天守を積極的に挙げてみたもので、この中で「三重天守」を上回る規模が確実と言えるのは、じつに安土城と北ノ庄城だけであり、その他では松ヶ島城や神戸城、坂本城が微妙… といったところではないでしょうか。

そして時系列的に見ますと、その中でもかなり早い時期(安土築城開始の前年の天正3年とも)に、頭抜けて高層化されたのが、柴田勝家の守る北ノ庄城の天守だということになります。


(『柴田合戦記』より)

(信長亡き後、羽柴秀吉軍は)終に甲ノ丸に攻め詰める。丸の内には大石を以て磊(らい)を積み上ぐ、其の墻(かき)数仭(じん)なり。晋の平公造るところの九層台に比して、天守九重に上げ、石の柱を鉄の扉重々に構へ、精兵三百余楯(たて)籠り、これを防ぐ。城内閑地なく、五歩に一楼、十歩に一閣、廊下斜に連なり、天守高く聳(そび)ゆ。


ここには「五歩に一楼」等とお決まりの形容詞があるものの、天守が「九重」だったと伝える書状等は他にも複数あるようで、この天守が相当な規模であったことは間違いなく、おそらく「九重」は文字どおりの階数だったのではないかと感じております。

と申しますのも、何故、北ノ庄城天守がいきなり高層化されたのか? という建築の位置づけや時期的なタイミング(信長のねらい)を推し測りますと、それは安土城天主に取り掛かる直前の「実験台」であったと思わざるをえないからです。

ですから、もし全てが信長のねらいどおりに運んでいたなら、安土城天主もまた「九重」天守として完成していたのかも… とさえ思われて来るのです。


福井平野(右下の白っぽい市街地の中央に福井城址/北ノ庄城の後身)

(出典:IPA「教育用画像素材集サイト」


かなり以前の記事でも申し上げたことですが、信長が小牧山城、岐阜城と、あえて山城に居城を構え、その山頂に「主城(フロイス日本史)」と呼ばれた事実上の天守を築いたねらいは、中国古来の易姓革命にちなんで天高く築く政治的モニュメントの創造であったはずです。
そして越前… 一向一揆の拠点であり、北の上杉と対峙する、福井平野というまっ平らな土地のど真ん中に、北ノ庄城とその天守を築くことになった時、やはり「天高く」あるために、信長はかつてない規模の高層化を命じたのだろうと思われます。

信長はみずから北ノ庄城の縄張りも行ったそうで、近年、現地で出土した石瓦には金箔を張ったかのような漆塗りの痕跡があるとかで、北ノ庄城天守もまた豪華な「立体的御殿」だったのかどうか、そしてどのような外観をしていたのか、多くの人々の興味を誘っています。


北ノ庄城天守の推定復元模型(柴田神社/ウィキペディアより)


ご覧の模型は、柴田勝豊ゆかりの質朴な丸岡城天守を参考にしたそうですが、幻の「九重」天守の姿を推定する場合は、色々なアプローチがありうるでしょう。

そこで冒頭から申し上げているように、もしも北ノ庄城天守が安土城天主の「実験台」であったのならば、それは<安土城天主に瓜二つの建築だった>という考え方も、当然ありうるはずです。

つまり、設計の流用(先行試用)という可能性も、十分にありえたのではないかと申し上げたいのです。


例えば、例えばの仮説… 設計が流用されていた場合の一つの推定

※冒頭の文献どおりの「九重」で、なおかつ外観はまさに「実験台」で瓜二つ


前言のとおり、文献史料にいくつも残る「九重」は案外、本当の事ではないかと思う理由がこれでして、こういう風に、あくまでも安土城天主の「実験台」として想定するのならば、「九重」もそう不思議なケタはずれの数字ではないように感じられます。

しかも、こうした事情(信長の肝いり)で「九重」が実現されたのなら、その情報が織田家中のかなりの範囲に広がっても不思議ではありません。


そこで、もう一言だけ付け加えますと、信長亡き後、柴田勝家が秀吉との覇権争いのさなかで、あそこまで北ノ庄城にこだわった理由も、案外、こんなところにあったのではないかと想像するのですが…。




<もう一つの超高層天守、会津若松城「七重」天守は、
 文人大名としての「踏襲」をふまえた創意(本歌取り)の産物か>





会津若松城の天守は、信長の旧臣で豊臣大名の蒲生氏郷(がもう うじさと)が創建した当時(文禄年間〜)は、七重の天守だったのではないか、という話がありますが、それについて建築史の大御所・平井聖先生は…


(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」/『歴史群像 名城シリーズ 会津若松城』より)

氏郷の建てた七重の天守は、元和二年(一六一六)に幕府に提出した「領国絵図(控)」に描かれている。
元和二年はまだ加藤明成が天守を改築する前である上に、幕府に提出する図面であるからことさら誇張して描くわけはなく、また小さく嘘を描くということも考えにくい。
従って、七重の天守が実際に存在していたと考えるべきだろう。



この件に関しては、私なんぞは長い間、西ヶ谷恭弘先生が『戦国の城』シリーズで主張された、大入母屋屋根をもつ黒壁の復元案の方に賛意を感じて来たのですが、ふと前掲書の次の部分を読み直した時、「アレッ…」と自身の手ぬかりに気づいてしまったのです。


(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」より)

七重の天守について、氏郷が豊臣秀吉の肥前名護屋城の天守を模したとのいい伝えもあるが、ほぼ同時期に建てられただけに、どの程度まねることができたか疑わしい。
その上、板倉家に伝えられた屏風の模本(佐賀県立博物館蔵)に描かれた名護屋城天守は、五重である上に屋根の形式なども全く似ていない。



では氏郷の注目点は? 肥前名護屋城天守…下三重が同大で建ち上がっていた、という仮定のイラスト



(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」より)

一つの仮定として、七重を五重に改める時に、下の二重を除いて、上部の五重を利用し、もとの天守の張出を新しい建物につけるなどして形をととのえたということも考えられる。(中略)
慶長の地震でいたんだとしても、天守の重みや構造から、破損したのは下部の一・二重と考えられ、上の五重を再利用することは十分に現実的なことなのである。


!!!… 何という手ぬかり。自分が一年前にリポートで描いたイラストに、会津若松城の答えをちゃんと描き込んでいた、ということに気づいたのは、つい最近の事です。

すでにお分かりのように「肥前名護屋城の天守を模した」というのが、下三重が同大で建ち上がっていたことであれば、「七重を五重に改める時に、下の二重を除いて、上部の五重を利用し、もとの天守の張出を新しい建物につけるなど」した場合、それはまさに、現在の五重天守そのままの姿なのです。


会津若松城天守(昭和40年に外観復元)

試しに、上記の考え方で「七重」天守を逆算してみると…


このようにして見ますと、蒲生氏郷が七重の天守を構想したのは、やはり数寄や和歌に通じた文人大名らしく、旧主・信長の安土城の七重天主を「本歌取り」しながらも、秀吉の肥前名護屋城天守にも目配りし、なおかつ自らの創意も盛り込む、という多芸さのなせる業だったのでしょう。

そして前述の平井先生の解釈に従いますと、ご覧のとおり、会津若松城天守はすでに「層塔型天守」の要素を備えていたことになってしまうのです。   


自分は最近まで、層塔型天守が意識的に造型されたのは、藤堂高虎が朝鮮出兵で感得したものを丹波亀山城で具体化したものであり、それを受けて、細川忠興や小堀遠州が「層塔型」に磨きをかけて行ったのだ、という大まかな見立てを持っていました。

ところが、今回申し上げたように、そんな登場人物らに先駆けた人物として「蒲生氏郷」を考慮に入れねばならない事態になり、リポートの軌道修正を考える必要が出て来てしまった、というわけなのです。…


(※次回に続く/会津若松城「七重」天守のイラスト化など)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年12月04日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・世界で初めて「台」に載った城砦建築とは






続・世界で初めて「台」に載った城砦建築とは


前回に申し上げた安土城天主と「台」との関係については、全国各地で安土以前からあったはずの土塁造りの「櫓台」といったいどう違うのか!?… と憤慨された方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私が申し上げたかったのは、あくまでも<宮殿や本堂の基壇に由来する「台」>というところに一番の力点がありまして、そのように天守「台」を見直してみますと、むしろ天守の木造部分と天守台とがきれいに一体化した豊臣期〜徳川期の(層塔型などの)天守の方が、かえって進化し過ぎた“変異形”ではないのか、とさえ感じられて来るのです。…


みごとに木造部と石垣が一体化した二条城天守(寛永度)の復元イラスト例


ちょっと分かりにくい事を申し上げているのかもしれませんが、要するに、ご覧のように一体化した天守というのは、当初の「台」(基壇)に載った天守と、それまでの防御的な櫓(櫓台)とをまぜこぜにした、いわゆる「天守櫓」とも呼ばれた亜流の発展形だったのではないか…

言葉を換えてみますと、一体化とは、誕生当初の天守が、やがて櫓の類に短絡的な先祖がえりを始めた契機だったのではないか… という、やや手前勝手な推測を申し上げてみたいのです。



【私的な極論…】天守のいちばん原初的なイメージ 〜それは求心的な曲輪配置の頂点に〜

(※このような建築は当然、天守台石垣に荷重をかけてはいない)


必ずしもご覧のような総石垣造りである必要は無いのですが、申し上げたい一番のポイントは、<天守とは織豊期城郭の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に誕生した、政治的なモニュメント(施設)であったはず> という何度も申し上げて来てしまった事柄でして、これは千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭」論や、そういう城を革新した織田信長の城づくりにつながるもの、という見立てがあります。

ですから、天守にとって形態的に最も大切なことは、三重とか五重とかの重数(階数)ではなくて、「城内における位置」や「台上でひときわ高くあること」ではないのか、という思いが近年、ますます強く感じられるようになって来ました。

そこで極端なことを申しますと、そうした条件が整うのなら、たとえ木造部分が平屋建てであっても、それは天守たりえたのではないか、とも感じられて来るのです。


もしこれが原初的な形であれば、次のいずれもが派生しやすかったのでは…

 
天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説)  / 本丸石垣の一隅に建つ、天守台の無い高知城天守(現存)


これまで「天守台上の空地」や「天守台の無い天守」はどこから派生した形態なのか、その由来について特段の指摘もなかったように思いますが、私なんぞの印象では、それらは決して変り種ではなく、むしろ原初的な形態をひきずった要素であって、逆に、整然と一体化したスタイルの方がやや“進化の行き過ぎ”であったように感じられてなりません。

このことは、安土城天主が、おびただしい曲輪群の頂点に建つ「立体的御殿」として出現したこととも、決して、無縁ではない事柄のように思われ、やはり「台」上の象徴的な君主の館、というものが、天守誕生の原点にあったのだと想像できてしまうのです。


駿府城天守の復元案(模型)の一つ


ですから、進化の最終形態である(寛永度の)二条城天守や江戸城天守のようにスマートな形態ではなくて、ご覧の駿府城天守の「何故??」と言われかねないミスマッチ感の方が、じつは正統的な“天下人の天守”にふさわしい遺伝子のあらわれだと思っているのですが…





【突然ながら 2012年度リポートの内容変更について】

諸般の事情により、予告しておりました内容を、翌年度のものと入れ替えることを検討中です。その場合、新たな内容は以下のようになります。

新リポートの仮題(再び大胆仮説!…)
東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
〜「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ〜





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年11月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!世界で初めて「台」に載った城砦建築か 安土城天主






世界で初めて「台」に載った城砦建築か 安土城天主


張芸謀(チャン・イーモウ)の過剰演出? 映画『王妃の紋章』の王宮の台

※主人公の王族一家が中央の丸い台上で会食するのが一見、奇異に見えたものの…


当サイトはスタート時から、天守を建てることを漢字二文字で言う場合は、「造営」などという言葉は絶対に使わずに、極力、「建造」という言葉を使うように努めて参りました。

それは本来、天守にとって「天守台」がかなり重要な部分を占めていて、その原点は「台」と木造の建物を合わせて構想されたのであり、天守は強いて言えば、建物と言うよりも、ピラミッドやジッグラトと同類の「建造物」に近いのではないか、という印象が強かったからです。


で、前々回の記事あたりから、安土城天主の最上階が「三皇五帝」など古代中国の事物との関わりが深いことをお伝えしましたが、一番下の天主台もまた、古代中国との関連性がたいへんに深そうなのです。

そしてそれは「立体的御殿」の成立にも、「権威」と「防備」という、二重の意味で貢献していたのかもしれない… というお話を、今回は申し上げてみたいと思います。




(蕭紅顔「台の解釈」/玉井哲雄編『日中比較建築文化史の構築』2008年より)

(『穆天子伝』巻5に)「天子は台に居り、以って天下に之を聴く」とある。天子が台を作ってそこに居て、天下の政治を執ったということである。
(中略)
台を築くことは戦国時代になって隆盛を迎え、その後衰退したことによって、漢代以後では伝承はあるものの、二度と重要な位置をしめることはなく、曹魏の鄴都の三台はすでに追いやられて城郭の隅に位置したことは言うまでもないことであろう。
(中略)
宮が台という字で名づけられたことは偶然では全くなく、宮殿の基壇として築台という方法を採用したことと一緒に脈々と続いてきたことなのであり、台という名称はその造営方法と密接にして不可分なものなのである。



私なんぞは「台」と言えば、思わず曹操の「銅雀台」や、呂布が董卓を討った未央宮の台榭建築などを連想してしまうわけですが、この南京大学建築研究所の蕭先生の論考によりますと、有名な曹操の三台…銅雀台・金虎台・氷井台が、実際には鄴(ぎょう)の北西の城壁付近に「追いやられて」設けられた経緯が、ぼんやりと分かって来ます。

蕭先生の指摘によれば、「台」とは最も古い時代にはまさに台だけであって、そこが帝王の居所であり、そこに飾りや建物・楼閣が載ったのは後の時代のことで、歴史的には「台」が最も重要だった、という意外な内実を教えてくれます。


そういう意味では、冒頭の映画の異様な「台」は、いやはや、古代中国の王宮における、帝王の居所としての本来の姿を踏まえた独創的演出…(?)と申し上げるべきだったのかもしれません。



安土城天主台跡/南東側の「いしくら」入口


さて、そうなりますと、我が国の天守の「天守台」はいつ頃、どこで、何のために出現したのでしょうか?

このような疑問も、天守じたいの発祥が定説化されない現状では、かなり漠然と、城の総石垣づくりの普及がもたらした一現象、という風にしか語られにくく(厳密には土塁のみの織豊期の天守台遺構もあるようですが)、ましてや宮殿や本堂の「基壇」と天守台とを結びつけるような議論は殆ど無いようです。


ですが、ここであえて、あえて設問させていただくと…

<我らの安土城天主は、実は、アジアで初めて、ひょっとすると世界で初めて、専用の立派な「台」に載った城砦建築だったのではないか??>

という、ちょっと意外な定義が成り立つのかどうか、ずっと気になって来たのです。



ちなみにここで「専用の立派な」と申し上げたのは、例えば城壁の一部とか、城門との共用とかを除いて、まさに宮殿の基壇に由来するような専用の「台」を築いたもの、という意味になります。

また「城砦建築」としたのは、もし城郭建築の「郭」という文字を使いますと、中国の漢字文化の中では城壁都市も含まれてしまうそうで、前述の銅雀台などと区別がつかなくなるからです。


つまり、城や砦の軍事施設として建設されながらも、宮殿の基壇に由来する「台」に載った世界初の建造物は、もしかすると安土城天主であり、そんな例は中国大陸にもどこにも例がなかったのではないかと…


そしてこのことは、我が国固有の建造物「天守」の定義にも関わる問題であり、しかも天下布武を掲げた織田信長ならではの“創意”であった可能性も秘めているように思われ、ずっと、ずっと気になって来た事柄なのです。


小牧山城/山頂部西側の石垣

※※なおこの件については、信長時代の岐阜城の山頂天主(フロイス日本史「主城」)や、同じく山頂に大ぶりな石垣(よもや天主台?)がのこる小牧山城、はたまた柴田勝家の北ノ庄城なども可能性がありそうですが、いずれも天主台の様子がよく分からないため、今回の話題からは除外しております。



<安土城の天主「台」は、権威と防備の一挙両得をねらっていた…>



先程の「世界初か」という疑問は、正直申しまして、私なんぞが正確な答えを出せる状態ではありませんので、ここは無責任な言いっぱなしのまま話題を次に進めさせていただきますと、この件に関連して、天主「台」を導入した信長の工夫が垣間見えるようです。


『天守指図』新解釈による天主台の形状(赤ライン)※以前の記事より


ご覧の図は滋賀県の調査資料をもとに、天主台跡を東西方向に切って見た状態でして、断面は天主台上の“一箇所だけ礎石の無い”中心地点を通るラインで切ったものです。

そしてこの図を、前回記事でご覧に入れた『天守指図』の各重色分け図に差し替えてみます。


天主の木造部分を色分け図に差し替えたもの



そして当サイト仮説の七重分の各階高を、分かりやすく7色の縦ライン(計16間半)で表示してみますと…



(※7色の縦ラインは七重目屋根の棟の中心点から垂直に下ろしたもの)
(※その位置は『天守指図』の北側「本柱」から東に半間、北に半間ずれている)


これらの図を勘案して合体させますと、当サイト仮説の復元案を、北側から眺めた立面の模式図にすることが出来ます。




で、この図をもっと広い範囲で眺めますと、天主「台」が思いのほか、防備にも役立っていた節が見えて来るのです。


天主「台」による二重目カサ上げの効果


ご覧のとおり、敵方の鉄砲隊は、伝二ノ丸の敷地内をどんなに移動しても、天主二重目(天主台上の初層)に銃弾を撃ち込むことは出来なかったことになります。

したがって天主「台」の導入は、建物の基壇としての権威づけとともに、天主二重目を(当ブログ仮説のような)開放的な御殿とするためにも不可欠な措置だった、と言うことが出来そうです。


以上の結論としまして、天主台とは、一見、地味な存在でありながら、実は権威と防備、二重の意味で「立体的御殿」の具体化に貢献した、信長会心のアイデアであったように思われてならないのですが…。




(※追記 / ちょっとマニアックな視点から申し添えますと、この場合、天主木造部は天主台の石垣に“荷重をかけていない”点にもご留意いただきたく、今回申し上げた「台」は、あくまでも宮殿等の基壇に由来するものです。 ご参考→石垣への荷重に関する過去の記事 …話題になった鎌刃城の大櫓に穴倉があっても、それは「台」ではないはず、という意味です)



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年11月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か






障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か


(岡山大学蔵『信長記』より)
五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也


(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)
五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。


このところ <安土城天主内部の薄暗さと障壁画との矛盾> をテーマに申し上げてまいりましたが、その観点では、ちょっと素通りしがちな「五重目」が、実はかなり重要な意味を持っていたのではないか… という気がしております。

と申しますのは、冒頭の引用のとおり、この階は“障壁画が無い”と『信長公記』類にアッサリと書かれていて、それは天主の構造面から見れば、おそらく屋根裏階になるのだから当然でしょう、という解釈が目白押しでした。


ですが『天守指図』とその新解釈に基づく場合は、ちょっと別の理由から、五重目に絵が無いのは当たり前でして、その最大かつ当然の理由は“ほぼ真っ暗闇だったから”です。

したがって当時、必ずしも“屋根裏階だから粗略でいい”という判断が下されたとは言い切れないのではないでしょうか。


ここも極端に薄暗い松江城天守の四階(望楼部分の直下の階!)


思えば、大型の現存天守のうち、松江城天守などでは中層階に極端に薄暗い階がありまして、そこから階段を登ると一気に見晴らしのよい最上階に出られる、というスタイルが共通しています。

従来、このことには特段の注目も無かったわけですが、これもまた、安土城天主に由来する一種の作法!…だったのではないか、という気がしてなりません。


何故かと申しますと、後々の層塔型天守(すなわち徳川幕府の治世下)では、中層階の暗闇というものが、構造的に巧妙に“打ち消されていた”ようにも感じるからです。

(※復元された層塔型の大洲城天守などがその最たるもので、下から上まで明るさに殆ど変化が無く、姫路城天守もそんな感じがあって、それは移行期の天守ならではの要素かもしれません)

(※追記/ただし姫路城天守はこの度の大修理で、創建時の最上階は四周にフルに窓があった可能性が判明しましたので、初代藩主の池田輝政はまだ織豊期の天守がイメージに残っていたのかもしれません!)


で、こうした層塔型の構造的な条件(しばり)を逃れるためには、例えば幕末再建の松山城天守のように、最上階にあえて復古調の高欄廻縁を設けなければ、あれほどの明暗のコントラストは再現できなかったと思われるからです。


以上の事柄を踏まえますと、望楼部分とその直下の暗闇という配置は、取りも直さず、(前回も申し上げた)天主最上階の政治的かつ建築的な意味合いの強調、という問題に深く関わっていたのではないでしょうか。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』五重目より/ご覧のとおり自然光は殆ど入らない!


先程“ほぼ真っ暗闇”と申し上げたのも、ご覧の図で納得いただけるように思われますが、この五重目の中心部について言えば、図の上下(南北)端にある一段高い茶室の華頭窓から差し込む光の他に、自然光は無かったことになります。

しかもここは(特に初めて入った者には)かなりの迷路でもあった、と言えそうです。

図の左上(南東)の階段は四重目から、中央の階段は例の「高サ十二間余の蔵」を上がってくる最後の階段であり、例えばこれらが交わるルートを、こんな暗闇の中で見つけるのはチョット難しかったのではないでしょうか。

(※そこはひょっとすると、六重目への階段の下で、隠し戸か何かが間をはばんでいたのかもしれません)


したがって『天守指図』に基づく限り、これらの状態は、信長が意図的に造ったもの! と言わざるを得ないでしょう。

そして、このような場所に障壁画を並べるはずもなく、ならば、天主七重の途中にこういう階をあえてはさんだ信長の意図は何だったのでしょうか?


冒頭の木戸雅寿先生の「無」という考え方はたいへんに興味深く、私なんぞはもう一歩踏み込んで、この階は「闇夜」「混乱」「乱世」を表現していたのではなかろうか… などと空想してしまうわけなのです。



ぐるりと階段を登って、まばゆい外光が差し込む六重目へ


当サイトの『天守指図』新解釈では、ご覧のような階段を登った先に、面積4坪の回廊のごとき「六重目」があり、そこからさらに七重目に上がれる構造になっていた、と想定しております。

この六重目のすぐ外側には幅広の縁がめぐっていたはずで、間の板戸などを開けば、一気に外光が差し込む、という強烈なコントラストが生まれ、これがひょっとすると、他の織豊期の天守の“ある種の原型”になったのではないでしょうか。


ちなみに、上図の南北(上下)の張出し部分の戸を開けば、そこから階下の五重目にも光がもれて、吹き抜けの格天井や階段部分を多少、明るくした可能性もあったのではないかと想像しております。


いずれにしましても、天主七重の中層階に真っ暗闇の「無」の空間を設けたことは、<この暗闇を突き抜けた先に光が見えるはず> という覚悟や決意を造型化したかのようでもあり、ここに信長の心意気のようなものを感じてしまうのは、私の買いかぶりの考え過ぎでしょうか??








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年10月23日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の本心…障壁画は見栄えよりも「文字化伝達」が最大の目的だったか






信長の本心…障壁画は見栄えよりも「文字化伝達」が最大の目的だったか


このところ申し上げてきた安土城天主の内部の薄暗さと、その各階が狩野永徳らの障壁画で埋め尽くされたことの「矛盾」は、安土城の未解決の研究課題の一つです。

前々回、当サイトの仮説では、各階の薄暗さ(明るさ)はかなり違っていて、「そういう各階を埋め尽くした障壁画は、じつは実際の鑑賞(見栄え)は二の次であって、別の主たる目的が先行した結果ではないのか」と申し上げました。


今回はこの「別の主たる目的」のお話でして、思えば、織田信長が命じた襖絵の記録のおかげで、21世紀の我々までそれらの画題を(天主全体の復元案は諸説あるのに…)正確に把握できるというのは、チョット不思議な感じがします。

そこで強く思うのは、信長はじつは(後世への記念などではなく)同時代の人物に向けて画題の「文字化」を行ったのではあるまいか!?… という疑惑でして、つまり各部屋の襖絵が詳しく記録されたのは、その記録が<特定の人物らに読まれることを大前提にしていた>のではないのか?

ひいては、それこそが、信長の天主建造の目的の一つでもあったのではあるまいか? という、「立体的御殿」誕生の深層に関わるお話なのです。



大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』1995年


安土城天主の障壁画と言えば、今なおこの本が多くの示唆を与えてくれるようで、今回のブログ記事の主旨をインスパイアしてくれたのも、この本です。

で、A氏とB氏の対話形式で書かれた本文から、興味深い部分を何箇所か、順に抜き書きさせていただきますと…



A「ぼくが感じるいちばん大きなジレンマは、肝腎の襖絵は何も残っていないにもかかわらず、一方の文字史料の方、とくに太田牛一の書き残した『信長公記』の記述からは、地上六階の各階のすべての主題が、じつに細々と、部屋ごとの一々の画題から、全体構成のシステムにいたるまで、驚くほどはっきりとつかめるということなんだ」
(中略)
B「私はここでも、「書き手の眼」ということが大事だと思う。面白いのは、『信長公記』諸本のうちでも、テキストがいちばんオリジナルに近いとされる『安土日記』では(中略)記述の順番がまったく逆になっていることね。天守の最上階からはじめて、段々と下に降りてゆくという順になっている。上から下へというのは、これ、どう考えても案内コースとは思えない」



と最初に挙げましたように、やはり襖絵の画題(つまり部屋の格式)が一々正確に把握できて、しかもそれらが元々は最上階から記録された、という点が検討の出発点にもなっています。


ご承知のように『安土日記』の問題の部分は、描写の仕方が相阿弥(そうあみ)の座敷飾りの秘伝書『御飾書』(おかざりしょ)にならったもの、という指摘がかつて宮上茂隆先生からありました。

でもそれらが何故、最上階から始まっていたかについては、「信長の安土城天主の構想の中心が最上階にあったことを反映したものだろう」(『安土城天主の復原とその史料に就いて』)といった言及にとどまっています。


確かにその『安土日記』によれば、狩野永徳が独力で障壁画を描いたのは最上階だけであって、(それ以外は子の光信らとの分業で)最上階が極めて重要だったことがうかがえます。

その辺りを再び、前掲書『安土城の中の「天下」』から抜き書きしますと…



B「日本における権力中枢のイメージ環境の歴史を振り返ってみると、意外にもというか、案の定というべきか、安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないかという気がしてくる」

A「確かに、安土城最上層の、三皇五帝をはじめとする、神話時代の聖天子や、孔子および孔門十哲の図など、ぼくのいうチャイニーズ・ロアの図像は、内裏の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)にそのままつながるものを持っている」






ご存知、賢聖障子は、紫宸殿の天皇御座の後ろに立てられた、中国古代の名臣ら32名の立像!の肖像画(→ご参考:京都御所紫宸殿賢聖障子絵画綴/東京都立図書館)等を描いた9枚の幅広の襖で、漢の成帝が行った同様の事績に基いているそうです。

で、それが安土城天主の最上階の画題につながる… のだとしたら、信長のねらいは明々白々ということにもなるでしょう。


問題の村井貞勝らの天主拝見は「天正七年正月二十五日すなわち天主作事完了直後にしていまだ信長正式移徒(いし)のおこなわれない時期の間隙をぬって特別に許可された」(内藤昌『復元・安土城』)そうですから、画題の文字化は、天主の建造と一連の、重要プロジェクトであったのかもしれません。

そして何が何でも最上階の七重目(『安土日記』では「上一重」)を真っ先に語らせたい、一階から始める普通の見聞録のような書き方は許さない、という信長の強い意思が、貞勝の筆に作用したことも間違いなさそうです。

そこで気になるのが前掲書『安土城の中の「天下」』の次の部分でして…



B「それにしても、内裏のイメージ環境については、これまで問われるべくして問われたことのない、重大な問題が一つある。日本の政治中枢でありながら、なぜ日本の神話が描かれなかったのかということ」
(中略)
B「世の始まりは、アマテラスではなく、三皇五帝であるということよね。いかにも神話よろしく、人びとは、その三皇五帝を、二重、三重のイメージをもって捉えていた。まさに禅僧らの漢詩を通して、あるいは『太平記』を通して。そして謡曲では、「三皇五帝の昔より……」などというのが、決まり文句にさえなっていたのよね」

A「戦国武将たちが、『太平記』を通して、三皇五帝を語るときには、しかし、さらにもう一つの側面があったのではないだろうか。謡曲の決まり文句のように、太平の世の枕詞として出てくるのとは裏腹に、『太平記』の中では、今の世の、乱世に対する批判として、三皇五帝の世を称揚するといった感が強い」




ああやはり… という感想でして、信長もまた「乱世に対する批判として、三皇五帝の世を称揚」していた、となれば、信長の天主の創造をめぐる様々な事柄が一気に焦点を結ぶような思いがいたします。

近年よく言われるとおり、戦国大名の中で信長たった一人だけが、戦国の世の統一(分裂国家の再統一)という遠大な目標をスローガンに掲げた(「天下布武」)わけで、そうした覚悟と「立体的御殿」も深く結びついていた可能性があったことになるからです。


すなわち皇帝の館に見立てた安土城天主の障壁画、とりわけ最上階に掲げた三皇五帝らの絵とその「文字化」は、それらを伝達されてもなお織田の軍門に降ろうとしない戦国大名(特に足利義昭を担ぐ地域勢力)は、いずれ「朝敵」として討ち果たす、首を洗って待っていろ、という恫喝を(絵画と建築という芸術を通じて!)行ったものではなかったのでしょうか。


信長という人の特異性をつくづく感じるのはこんな所でして、現に信長最後の武田勝頼の討伐戦は「朝敵」として行ったとも言われますし、信長は本当に大事なことは全部言わずじまいで死んだ武将、という思いがしてなりません。

そこで以上の結論として、たとえ安土城天主に「彩色豊かな障壁画」があったとしても、それらは「文字」で画題の上下関係(体制転換の指針)を伝えることが第一の役割であり、そのための「立体的御殿」でもあり、実際の各部屋は防備優先のままで、書院造のような明るさは求められていなかった! という結論になりそうなのです。



豊臣秀吉の場合は…/大阪城天守閣蔵『大坂城図屏風』と当サイトのイラストより


さて、そうなりますと、信長の後継者・秀吉は、<そんな安土城天主の内と外をひっくり返せば「見せる天守」を造れるではないか>という、これまた大変に分かり易いアイデアを思いつき、それを大坂築城で実行した、という言い方も、ひょっとすると出来るのかもしれません。


当サイトでは、上写真の屏風に描かれた天守の紋章群はおそらく八幡神の神紋であり、神功皇后の三韓征伐伝説を世情に喚起したい秀吉政権の思惑が込められたもの、という仮説を申し上げて来ました。

信長と秀吉、二人の天主建造に対するスタンスの違いは、安土城と豊臣大坂城それぞれの歴史的な立場も影響したはずで、大坂の築城では盛時に5万人にも達したという大動員がかなり影響を及ぼしたのではないでしょうか。


と申しますのは、ともに政治的モニュメントとして効果の極大化をねらったものの、当面「文字化伝達」をねらうしかなかった安土城天主と、建造前から「見せる天守」をねらえた豊臣大坂城天守、という条件の違いが、天守の造型にもろに表れたことは大変に面白く感じられるからです。








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2012年10月09日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続イラスト解説 なんと三重目に「開かずの祭壇」が?…






続イラスト解説 なんと三重目に「開かずの祭壇」が?…


前回、当サイト仮説の安土城天主においては、各階ごとに薄暗さ(明るさ)がまったく異なり、「そういう各階を埋め尽くした彩色豊かな障壁画とは、じつは実際の鑑賞(見栄え)は二の次であって、別の主たる目的が先行した結果ではないのか」などと申し上げました。

本来ならば、今回はこの話のケリをつけるべきなのでしょうが、その前にもう一つ、この機会に是非ともお伝えしたい、ちょっと不思議な事柄がありまして、今回はそちらの方をご紹介させていただくことにします。



天主の三重目を色づけ/二重目「北之方御土蔵」の真上に部屋がある(左の張出し部分)


かねてから気になっていたのが『天守指図』で三重目(天主台上の二層目)の北端、すなわち二重目「北之方御土蔵(『安土日記』より)」の真上にある部屋でして、これをイラストで見ますと、グリーンに色付けしたうちの左端の張出し部分になります。

何故、ここが気になるかと申しますと…


『天守指図』三重目より/ここだけ『信長公記』等に該当する部屋の記録が無い



よく見ますと、北(下)壁の中央に幅2間の段? その壁外に破風


拡大して見ますと、ご覧のとおり下階の土蔵とは内部で連絡していたようにも見えず、したがってここは“土蔵の二階部分”ということではなさそうです。

そして(※当サイトは池上右平の文字の書き込みをすべて疑問視しておりますが…)部屋の真ん中に「御くらノ上さしき」と書かれ、北壁に張り付いた幅2間の段(階段付き)には「たん」「さか」と書き込まれています。


この段らしきものは、思わず姫路城天守にある「石打棚」という、高い窓と床の高低差をおぎなう狙撃手用の段を連想させますが、安土城『天守指図』の場合、どうしてこの位置にそういうものが必要なのか、まったく分かりません。


それは内藤昌先生の復元案においても、この部分の張出しの壁面には(仕方なく)窓を設けず、わざわざすぐ上の(高い位置の)破風内に小窓を設ける、というチョット苦しい復元にならざるをえなくなったほどです。

そして内藤先生はこの部屋について、著書ではごく簡単にしか触れておられません。



(内藤昌『復元・安土城』1994年より)

「御くらノ上さしき」(東西四間×南北三間)がある。T・U・V類本にまったく記述がないのは、祖本の記録者貞勝が、特殊な場所ゆえ拝見しなかった結果と思われる。



「特殊な」というのは、この文章に特段の補足説明がないことから「御殿のうちに入らない別種の」という意味のようですが、その一方で、『信長記』『信長公記』類の分類(「T・U・V類本」)の中に「まったく記述がない」こと、また天主を拝見した村井「貞勝」が「拝見しなかった結果と思われる」と指摘された辺りは、さすがだと思われます。

何故なら、織田信長は村井貞勝らに<この部屋も意図的に見せなかった>(!!)という可能性が生まれるわけで、このことに私なんぞはビンビンと過剰反応してしまうからです。


当イラストでは問題の「段」の下に小窓、上に華頭窓を想定して描いてみた


はからずも『天守指図』が示唆する、信長が秘して見せなかった部屋… しかもその部屋の北壁(つまり部屋に入って正面に見える壁)に謎の段が設けられている…



左:サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会の祭壇(ローマ/ウィキペディアより)
右:大天后宮・媽祖廟の祭壇(台湾/台湾旅行クチコミガイド様より引用)


ひょっとして、問題の2間幅の段は「祭壇」ではなかったのか… などと申し上げれば、まーたトンデモない事を! とおしかりを受けそうで心配ですが、現に安土城内にハ見寺を建立したり、天主内に盆山を置いたりした信長のことですから、まんざらでもなかったように感じられてなりません。


まさか内側にステンドグラス!?信長が秘した「開かずの祭壇」か


よもや、かの「第六天魔王」の祭壇ということでもないでしょうが、これはずっと私の好奇心を誘って来た事柄です。

と申しますのも、当サイトの仮説ではこの階だけが<極端に薄暗かった>三重目において、その最も奥まったところに“開かずの祭壇が隠されていた”などというふうに想像しますと、矢も楯もたまらず、かく申し上げてしまった次第なのです。







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2012年09月24日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!イラスト解説…「安土城天主の内部は薄暗かった?」の重大な意味






イラスト解説…「安土城天主の内部は薄暗かった?」の重大な意味



※画面クリックで壁紙サイズ1280×800(横長8:5用)もご覧になれます!


ご覧のとおり、当サイト仮説の安土城天主は、かつて内藤昌(ないとう あきら)先生が復元に用いられた静嘉堂文庫蔵『天守指図』のうち、じつは二重目・三重目・五重目だけが本来の指図(原資料)に由来するものではないか、という仮定に基づいて復元イラストを描きました。(→詳細は2009緊急リポート他)

しかも二重目(天主台上の初層)は、江戸時代に池上右平による原資料の線の読み違えがあったと仮定しますと、なんと豊臣大坂城天守との相似形が浮き彫りになるため、実際は、下図の左側のような平面形(グリーンの色づけ部分)ではなかったか… と考えております。




この結果、安土城天主の「窓」の配置については、『天守指図』で特徴的な華頭窓(かとうまど)は、二重目の壁面には一つも無く、その外側の天主台南側の塀にだけ設けられていた〔…つまりここは透塀(すきべい)の類か?〕という考え方も出来そうなのです。




透塀の実例(日光 大猷院)


これらのことは、従来から指摘されて来た<安土城天主の内部の暗さ>問題に関して、思わぬ実相を示唆しているようにも感じられ、今回は是非ともこの件について申し上げたく思います。





さて、歴代の諸先生方による安土城天主の復元案はいずれも、『信長公記』等に狭間戸が「数六十余」とあるため、基本的に櫓と同様の防御的な壁面と考えられ、その内部は寝殿造や書院造などの御殿に比べれば、そうとうに薄暗かったとされました。

しかしそれでは、同じく『信長公記』等にある金壁や墨絵の障壁画による“立体的御殿”が台無しではないか? という指摘も度々なされ、例えば、当ブログで引用させていただいた『信長革命』でも…


(藤田達生『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

天主の内部空間に描かれた彩色豊かな障壁画は、効果的な採光によってこそ映えるものである。
なによりも暑さ寒さともに厳しい近江の気候を考慮すれば、窓や戸を大きく採らねば居住は不可能だ。

(中略)
安土城天主の主殿部分にあたる一階から三階までは、窓や戸を多用したかなりオープンな外観だったのではなかろうか。
あえて平易に表現するならば、書院造りの御殿を三層重ねたような構造だったと想定する。
中国の宮殿ときわめて類似した相貌を想定したほうがよいのである。



この藤田先生の文章は典型的でして、確かに天主内部の薄暗さと障壁画との矛盾に対する疑問は当然でしょうが、この文章ほどに開放的な構造では、一方で、明らかに銃撃戦を意識したはずの「鉄」の「狭間戸」が「数六十余」もあったと『信長公記』等に記されたことと、これまた完全に矛盾してしまうのです。


現存天守の内部の様子(犬山城天守では昼間も絶えず補助の照明が…)


そこで、当サイト仮説の安土城天主の「薄暗さ」を、二重目から四重目まで、階ごとに確認してみますと…




【二重目】拍子抜けするほど開放的? 実務や日常生活に適したのはこの階だけだった!?


冒頭から申し上げているように、当サイトの『天守指図』新解釈に基づきますと、二重目の南側(上)や西側(右)には「縁」がめぐらされ、板戸や障子、場合によっては蔀戸(しとみど)が入るなど、かなり開放的な造りであった可能性が出て来ます。

そして図の南東端(左上)や北西端(右下)には実線の無い部分が含まれますが、この位置まで二重目があったことは三重目との兼ね合いで妥当でしょうから、この場所はひょっとすると「素抜け」のような構造だったのではないか… とさえ想像することも可能です。


かくして、二重目は拍子抜けするほど開放的だった(!)という意外な見方も出来るわけでして、これは例えば、後の駿府城天守の独特な下層階の構造を連想させるもので、そうしたスタイルの先駆けだったのかもしれません。


そんな二重目に「薄暗い」という心配は無用で、結局、日中の実務や日常生活に適していた階はここだけだった?…という大胆な推測も許されるのではないでしょうか。
  
先生方の解釈では、この階は信長の政庁とも、生活空間とも言われましたが、いずれにしてもこれ以上ないほど最適な「明るさ」があった、というのが当サイトの復元案です。



【三重目】一転してこの階では薄暗い中での「対面」が演出された??


この階は『天守指図』によれば華頭窓が計十四あり、ご覧の図はそれらから入る光を模擬的に描いてみたものですが、南側(上)の武者走だけは多少、明るくなっていたことが想像できます。

しかしご承知のとおり『信長公記』等には、座敷の内外の柱はすべて「黒漆」が塗られたとあり、室内はそれだけ光を反射するものが無く、余計に暗く沈んだ雰囲気になっていたのではないでしょうか。


そんな三重目に進み出た訪問者はおそらく「十二畳」で信長の出御を待ち、やがて階下や階上から、もしくは奥の「口に八畳」から(つまりは階段橋から)信長が姿を現して、対面が行われたのでしょう。

この階では薄暗さ(暗さ)が、かえって信長の威厳を示すことに一役買ったのではないかと思うのです。



【四重目】先生方の解釈が分かれるこの階は「薄暗さ」も不明


当サイトの『天守指図』新解釈では、指図中の「四重目」はまるごと池上右平の加筆(創作)ではなかったかと疑問視しております。

そのため、実際の四重目は、五重目との兼ね合いから、三重目から一間ずつ逓減(ていげん)した形ではないかと考えておりまして、部屋や窓・階段等の詳細はハッキリしないものの、図のとおり『信長公記』等の各部屋はほぼ問題なく納まることが分かります。


ただ一点、この階は武者走(廊下)が無かったことになるため、部屋から部屋へと渡り歩くしかなく、したがってこの階は一連の「広間」として使うか、もしくは「納戸」が連なった空間として奥向き専用で使うしかなかったのではないかと思われます。


で、もしもこれで階全体が薄暗かったとなると、ちょっと何をするための空間か分からなくなりそうで、その場合は強いて言うなら、夜間の灯明のもとで何か(松の間=次十二間で幸若舞を舞うとか)するなど、信長一人の特殊な空間だったということにもなりかねません。


そこで、問題の多い『天守指図』四重目ですが…


申し上げたようにご覧の四重目は右平の加筆(創作)に他ならないと思うものの、ただし、東西の壁外に描かれた破風と特大の華頭窓(?)はあまりにも特徴的で、こんなものまで創作したのかと、やや気がかりです。

しかも、西側のは太い墨線で黒々と書かれているのに対して、東側のは極細の墨線で、さも自信が無さそうに書いているあたり、ひょっとして何か事情を含んでいるのでは… と好奇心が誘われます。


で例えば、これは実際の天主西面の「目撃談」か何かの別情報をもとに、右平が加筆した部分ではなかったか? と想像力をふくらませますと、先ほどの四重目の“問題点”をきっぱりと解消できる道が開けて来るのではないでしょうか。


そう仮定した場合、少なくとも西側の部屋はかなり明るかったことに?


以上のような仮定は、先生方の間で解釈が分かれて来た「四重目」について、一つ補足できる要素をもたらすのかもしれません。


今回の結論として、当サイトの『天守指図』新解釈のもとでは、安土城天主の内部は、信長が命じたのか否か、薄暗さ(明るさ)が階によってバラバラだった? という思わぬ方向性が示されることになります。

ということは、そういう各階を埋め尽くした「彩色豊かな障壁画」とは、じつは実際の鑑賞(見栄え)は二の次であって、別の主たる目的が先行した結果ではないのか、という邪推が芽生えるのです。


(※次回に続く)



(※イラストの訂正について : 一昨年の「上層部分のみ」のイラストでは、ご覧の切妻破風の真下には何も窓が無かったかのように描いており、今回、ここには五重目屋根裏階の採光用の小窓があったはず、と考えを改めて、描き加えております)








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城の再発見!速報!全景の安土城天主イラストが完成






速報!全景の安土城天主イラストが完成




2009緊急リポートから本当に長い間、積み残し課題のままだった<白壁の天主イラスト全景>を、ようやくお見せ出来る事になりました。


イラストは下図右下(北西)山麓の湖上からの視点で描画


冒頭のイラストは、ご覧のように天主西側の伝二ノ丸の地面をカットした状態であり、こんな風にしませんと、角度的に、伝二ノ丸に想定される建物群で天主周辺がかなり隠れてしまうためです。

で、この全景イラストの補足説明や、“どのくらい隠れてしまうのか?”という実演イラスト、そして壁紙サイズの同イラストなど、まことに申し訳ありませんが次回の記事でご紹介… ということで、今日のところは疲労困ぱいで何卒ご容赦下さい。!!








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2012年08月29日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?






だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?




ご覧の図はかなり以前の記事でお見せした、当サイトの仮説による、織田信長の安土城天主の内部に組み込まれた「高サ十二間余の蔵」部分(右側)と、正倉院宝庫(左側)の断面図を並べてみたものです。

(→該当記事「正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき」及び「2009緊急リポート」ほか)


想像しますに、上の記事をご覧になった当時は「えええ?嘘だろ…」という印象しか持たれなかったことでしょうが、当方はいたって真面目に申し上げたわけで、現在ではいっそう、この仮説(推理)が確信に近いものに深まって来ております。

と申しますのは、前回までにご覧いただいたとおり、安土城天主が「立体的御殿」として構想されて完成したのに、その直後に建造された豊臣秀吉の大坂城天守が、どうしていきなり「宝物蔵」に物理的機能を限定(削減)されてしまったのか? という謎解きの道筋が見えて来たように感じるからです。



<前回までの記事の仮説> 織田信長は当初、七重天主という立体的御殿で
安土城の「奥御殿」機能を集約したかったのではないか…



一方、天主の「高サ十二間余の蔵」にはやがて正倉院宝物の唐櫃(からびつ)が…?


ならば信長の天主構想には、最初から「宝物蔵」機能が含まれていた!?


ところが、このせっかくの天主構想は(信長自身の判断で)形骸化することになったようで、正倉院宝物が根こそぎ収奪されて運び込まれることも無く、一方、天主には「奥御殿」機能が集約されたものの、周囲の曲輪にも重複した御殿群が建てられて行き、結果的に、安土城主郭部や七重天主(立体的御殿)はちょっと理解しにくい部分を含んで完成したのではなかったか…

そしてその直後、それらをスッキリと仕分けてみせたのが豊臣秀吉の大坂城であり、以後、豊臣の天守は「奥御殿(立体的御殿)」機能を順次切り離し、物理的機能は「宝物蔵」により特化していくことになった…

というストーリーがあぶり出されて来るのではないでしょうか。



豊臣大阪城天守の外観/大阪城天守閣蔵『大坂城図屏風』より



ではここで、宝物蔵(金蔵)としての天守とはどんなものだったのか、少々エピソードを拾ってみることにします。

まずは秀吉時代の姫路城天守ですが、かの有名なエピソードが『川角太閤記』等にあります。すなわち本能寺の変の後、毛利方との和睦をまとめて、遠征軍の本拠地・姫路城に急ぎ戻った秀吉は…


(『川角太閤記』より)

秀吉は風呂に入りながらも、光秀誅伐の戦略を考へてゐたが(中略)金奉行、蔵預米奉行等を召寄せ、先づ金奉行に向ひ「天守に金銀何程あるか」と問ひ、金奉行から「銀子は七百五十貫目程ござりませう、金子は千枚まではござりませぬ、八百枚の少し外ござりませう」と答へると、秀吉は「金銀一分一厘跡に残すことならぬ(中略)と言つて、その日から蔵を開き、金銀や米を残らず分配させた。


という風に「天守に金銀何程あるか」というセリフが登場していて、原書が成立した江戸初期に、これにある程度の説得力があったとしますと、なかなか見過ごせない文言でしょうし、しかも前後のニュアンスからは、天守内部に「金蔵」が建て込まれていたようでもあり、これは安土城天主の「蔵」を想起させるものです。

しかも姫路城は、次の池田輝政(いけだ てるまさ)改築の現存天守にも、軍資金として金銀が貯えられたことが知られています。大著『姫路城史』の輝政死去のくだりには…


(橋本政次『姫路城史』1952年より)

その居城姫路城には、天守附として、常に金子四百枚、銀子百十六貫百目を貯へ、一朝有事の場合に備へた。池田分限帳、履歴略記。(中略)姫路城天守附として貯へてゐた金銀も、家康からの借用金を始め、各方面の負債償却のため残らず処分した。分限帳。


とあって、まさに織田信長や豊臣秀吉と同時代に生きた輝政一代に限って、現存天守に金銀が保管されたようなのです。

ちなみに輝政の死去は慶長十八年、つまり豊臣家の滅亡や元和偃武(げんなえんぶ/…長い戦乱の終結宣言)の二年前のことでした。


今回はわずかな事例ですが、これらのエピソードから感じることは、信長が密かに安土城天主に設けたはずの「高サ十二間余の蔵」の真相を、じつは秀吉も、輝政も、しっかりと察知していたのかもしれない… という類推でしょう。

結局のところ、「天守とは何か」という事柄について、当時の大名らの側近は何もまとめて書き遺しておらず、各大名家がどう使うべきだとしていたかは、ある種の秘伝の奥義として、属人的に伝承されたり伝承されなかったりという危うい状態にあったのかもしれません。


そしてその後、徳川の天守は(意図したのか否か…)残りの「宝物蔵」機能さえも切り離し、別途、金蔵を設ける形に変わり、天守自体はいよいよ外形だけを継承するガランドウと化して、急速に<意味の脱落>の度を深めて行ったように見えるのです。


大阪城本丸にのこる金蔵と復興天守

(※天守の前の土手は明治時代に建設された貯水池をおおう土手)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年08月14日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!本丸に馬場??織田信長の天主構想の解明に向けて






本丸に馬場??織田信長の天主構想の解明に向けて


【8月20日 緊急追記】
昨日まで2日間、尖閣問題で予定外の文面を掲示しておりましたが、事実は小説より奇なり、ということなのでしょうか。
驚きました。
→尖閣諸島上陸の中国人活動家が中国国旗を燃やしていたことが判明/中国人「えっ?」




仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/前々回の記事より


さてさて、前々回の仮説のイラストで、ご覧の伝本丸に「馬場など」と書き込みました点について、若干の疑問をお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

城の本丸に「馬場」などあったのか、と。

ですが、この「馬場など」はそれなりの根拠もあって書き込んだものでして、今回はこの点のご説明を手始めに、このところ進めて来ました“信長の安土城主郭部や天主をめぐる当初の構想”について、さらに探ってみたいと思います。



会津若松城の本丸周辺


「馬場など」と書きました第一の動機(根拠)は、ご覧の会津若松城の本丸に「御馬場」があったと『会津鶴ヶ城御本丸之図』に記されていることです。

「御馬場」=図の赤いエリアは、本丸御殿のうちでも最も公的な建物群である「表御殿」(大書院や小書院など→赤エリアのすぐ左側の建物)の庭先にあたる場所で、こんな場所で馬に乗れる人物は城主以外にはありえない、という位置になります。


これが果たしてどこまで日常的に使われたかは、歴代の城主(蒲生、上杉、加藤、保科・松平)によっても色々だったでしょうから、「御馬場」は単なる伝承地に過ぎなくなっていた時期もあるかと思われます。

しかし、この城の本丸御殿が南(上図の右側)から「表御殿」「中御殿」「奥御殿」と並んでいて、各々の御殿の配置や平面形をつぶさに見ますと、どこか豊臣大坂城の表御殿と奥御殿をギュッとこの場所に詰め込んだような印象があるために、なかなか興味深いのです。


秀吉の築城当初の豊臣大坂城/2010年度リポートの仮説より


どういうことかと申しますと、例えばご覧のイラストの表御殿を、まるごと向きを90度(時計方向に)変えて、奥御殿の西側(図では右側)にギュギュッと強引に押し込みつつ、その全体を奥御殿のスペースに納まるように縮小・削減したかのような印象があるのです。

これは当サイトでかねがね申し上げてきた“豊臣大坂城と会津若松城の類似性”をいっそう補強するものでして、この観点から前述の「御馬場」を考えた場合、またひとつ疑問がわいて来ます。




この「馬屋?」と記した長屋は、これまでの諸先生方の著書ではただ「長屋」とだけ記されて来たもので、かの中井家蔵『本丸図』や『城塞繹史』『諸国古城図』の図中には何も書き込みが無く、詳しい使い方が特定できていない長屋です。

ですから、もしこの長屋を秀吉自身の愛馬を入れた馬屋だと仮定しますと、上記の会津若松城の「御馬場」ともつながる可能性が浮上して来て、なおかつこの長屋の手前の「御上台所」との間の細長いスペースは、面積的に「御馬場」とほぼ同じであり、秀吉一人がちょっと馬をせめる程度のことなら、じゅうぶんな広さだとも言えそうなのです。



<天主=立体的御殿の、最初の動機はいったい何だったのか>




仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/「馬場など」は後世の城に受け継がれていた?


さて、以上のように冒頭イラストの「馬場など」は、安土城と後世の城…すなわち蒲生氏郷(がもう うじさと/信長旧臣)ゆかりの会津若松城や、秀吉の豊臣大坂城との関連性から、あえて想像力をふくらませて書き込んだものでして、こうしてみますと、安土城天主とその周囲の曲輪の構想がいくぶんハッキリして来るのではないでしょうか。


つまり豊臣大坂城では、この「馬屋など」の場所におびただしい規模の「奥御殿」が入ってきて、曲輪の面積が大幅に拡張された、とも言えるでしょう。

で、それと同時に、秀吉の天守は物理的機能が“宝物蔵”に限定(削減)されたわけなのです。


このような天守の変遷(諸機能の移転)を、ここで試しに逆算して、より原初的な姿を想像してみますと、信長が安土城天主にこめた最初の構想をボンヤリと思い描くことが出来るのではないでしょうか。



<以上の逆算による仮説> 信長は当初、七重天主という立体的御殿で
 安土城の「奥御殿」機能を集約したかったのではないか…




…当サイトは4年前のスタート時から、天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)ではなかったかという仮説を申し上げ、その天守が高層化したのも、中国古来の易姓革命にもとづく天命(天道)を聞くためには(→参考記事)当然の成り行きであったろうという考え方で一貫してまいりました。

ただ、そうだとはしても、天守が単なる「塔」ではなく、また詰ノ丸御殿の屋根上の単なる「物見櫓」でもなく、その内部を「立体的御殿」としたことには、何らかの契機や意図があったはずだという感があります。

その意味で、上図のような安土城天主と周囲の曲輪との、機能上の関係性(代替や集約)に注目してみるのも面白いのではないかと思うのです。


で、歴史的に見ますと、信長の後継者の秀吉は、大坂築城で早くもその信長の天主構想をねじ曲げていたわけで、そこにも何らかの経緯(いきさつ)があったはずだと思われてならないのです。



安土城の完成までに、自らの天主構想をあえて崩したのは、信長その人だった!?

(次回に続く)







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2012年07月31日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「階段橋」から安土城天主の階ごとの性格は推理できるか






「階段橋」から安土城天主の階ごとの性格は推理できるか




前回イラストにもちょっと描き込みましたように、安土城天主と伝本丸や伝二ノ丸などの間には、廊下橋の類がタコ足のように伸びていただろうと、かねてから当ブログで申し上げて来ました。

ただ、その「仮称」については、記事の中で色々と混乱がありました。

と申しますのも、ずっと以前の記事では、伝二ノ丸を「表御殿」跡地とする先生方の指摘に準じておりまして、その後、伝二ノ丸はむしろ「奥」にあたる後宮や庭園があった曲輪ではないのか… と考えを改めて、記事づくりや作図を行って来た経緯があるからです。


図右側の伝二ノ丸を「表御殿」跡地としていた頃の作図

(※当図は上が南/→該当記事1 記事2 記事3

織田信長が銭を投げた話から推理した、主郭部の使い分け/伝二ノ丸は「奥」にあたる

※当図は上が北/御殿の配置は当時の諸説を勘案したもの/→該当記事


このような試行錯誤を経て来たため、このあたりで、「廊下橋」の混乱した仮称だけでも整理して訂正させていただこうと思うのです。



先ほどご覧いただいた図

↓    ↓    ↓
今回の訂正版



まず用語についてですが、ご覧のような廊下橋の類は、一般に渡廊(わたろう)とか登廊(のぼりろう)、登渡廊、廊橋、また名古屋城では引橋、盛岡城では百足橋(むかでばし)、御所では長橋廊など、細かな違いや場所によって様々な呼び方があるようです。

以前の作図ではそれらの違いが整理されておらず、例えば冒頭の伝二ノ丸「表御殿」説を取り入れながらも、その一方で、伝本丸との廊下橋を「長橋廊」としていて、こちらは滋賀県安土城郭調査研究所が発表した「伝本丸の建物≒清涼殿」説に寄りかかっている、という調子でした。

そこで今回、これらの矛盾点を猛反省しまして、上の2図のごとく、ごく単純に「階段橋」(または屋根付き階段橋)という呼び方で統一させていただくことに致します。



<階段橋から推理する安土城天主――二重目は「政庁」か「常御所」か>



この仮説の階段橋には、それぞれに役割があったはずで、それらは天主の階ごとの性格に大きく関わっていたことにもなるでしょう。

ところが現在、「天主は信長が創案した立体的御殿」(三浦正幸監修『すぐわかる日本の城』2009年)と言われるものの、それを安土城天主について1975年の時点で「居住空間の垂直構成」(『国華』)と書いた内藤昌先生と、その翌々年に猛烈な反論を行った宮上茂隆先生の間で、すでに階ごとの解釈がそうとうに違っていて、以来、結論めいた解釈はいまだに現れていない様子です。


内藤vs宮上 両先生の解釈(階ごとの主な使用目的)


このような状況ですと、例えば当ブログ仮説の「階段橋」が設けられた階と、各々につながる先(曲輪)との関係を追究して行きますと、ひょっとして新たな参考点が見えて来るのかもしれません。

で、早速、二重目からご覧いただきますと…


以前の作図(静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目をもとに作成)

(※白字は『安土日記』にある部屋の記述から/→以前の記事
↓    ↓    ↓
階段橋を描き加えた今回の訂正版



ご覧の両図の違い(訂正点)はかなり見づらくて恐縮ですので、「階段橋」以外の訂正を箇条書きしますと…

【訂正点1】
六畳敷の「食器部屋」が中二階の形で二部屋、八畳敷の「御膳をこしらえ申す所」二部屋の真上に設けられていて、そこには二部屋の中間の階段で廊下側から上がる形であったと考えた点です。
これは以前の作図で八畳敷二部屋の納まりが悪かった欠点を解消しつつ、天主東階段橋の意味(図左下/台所との接続)を重視したものです。

【訂正点2】
その天主東階段橋は「台所との接続」「馬屋との接続」「石蔵入口から北の土蔵への搬入路の確保」という三つの機能を、立体的にこなす巧みな構造だったと考えた点です。

これはより広い図でご覧いただきますと…




このように天主二重目には、『天守指図』の描線から考えて、伝本丸の建物とつなぐ南階段橋(言わば正面口)と、天主取付台とつなぐ東階段橋(台所口もしくは馬屋口)の二つが設けられたのではないでしょうか?


そして「台所」の位置は、前々回の「内玄関」仮説と、前回の「主郭部の時期差」仮説を踏まえますと、主郭部の完成時期には(伝承の場所ではなくて)新たに伝三ノ丸の北半分、つまり「内玄関」の奥の遠侍等の北側に移されたと考えるのが、<雁行する城郭御殿>の他の事例から見て、ごくごく順当な配置だろうという想定に基づいています。

この場合、台所でつくられた料理は、伝三ノ丸と天主取付台の間の廊下橋(櫓門)を渡り、天主取付台を行く廊下が馬屋の上に階段状に上がって、やがて天主側に直角に向きを変えて天主二重目に入ると、前述の八畳二間「御膳を拵え申す所」で最終的に膳をととのえ、毒見をした上で、奥の信長らの前に並んだのでしょう。


台所の位置は? 前々回の図との合成で見ますと…(※当図は上が南になっています!)

(※ちなみにこの話は「時期差」の当初の状態では、「馬屋」は図の位置ではなく、逆に「台所」は伝承どおりの場所にあって、東階段橋は料理の運搬専用だった可能性も含んでおります)


さて、こうした天主二重目の性格については、先程の表のとおり「(遠侍・式台など)内・外臣の控えの間および政庁であった」(内藤)という政庁説と、「南西部の六間×七間の区画は明らかに信長の常御所に当たる」(宮上)という常御所(居住空間)説が真っ向から対立して、結論の出ない状況がずっと続いて来ています。


そこで、この階段橋の仮説から申し上げられそうなことは、少なくとも「台所」は天主の外にアウトソーシングされていたはずだろうという点でして、その結果、宮上説の地階(一重目)の「台所と蔵」という考え方には、ちょっと賛同できそうにないのです。

なお二重目については、まだどちらとも申し上げにくい印象です。





<性格がガラリと変わる、三重目と伝二ノ丸をつなぐ西階段橋>



今回の訂正版(『天守指図』三重目をもとに作成/訂正は階段橋の仮称のみ

(※白字は『信長記』『信長公記』類の部屋の記述から/→以前の記事


もう一つの階段橋、西階段橋があったと思われる三重目は、運良く(?)内藤先生や宮上先生をはじめ、諸先生方がほぼ一致して「対面所」の機能と考えて来られた階です。


そして西階段橋のつながる伝二ノ丸が、冒頭で申し上げたように「表御殿」ではなく、「奥」の後宮や庭園であったとしますと、この階段橋はちょうど、後の江戸城の中奥御座所から(御休息の間を経て)大奥に向かう「御鈴廊下(おすずろうか)」のようにも感じられます。

(※ちなみに「中奥御座所」は将軍の謁見所としては最高位の部屋だそうで、狩野探幽の描いた聖賢の図などがあり、天主三重目の機能を「対面所」とする見方とも合致しそうです…)


したがって以前の記事(仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か)では、この階段橋を、信長が居住空間の天主から伝二ノ丸「表御殿」に姿をあらわす“花道?”と想像したのに対して、まるで逆の方向になってしまうわけで、信長はこれを使って「対面所」と「奥」を行き来していたことになります。





こうなりますと俄然、その上の四重目を「信長常住の部屋」と見るか「会所」と見るかが、最大の難所になって来るのでしょう。

例えば、あの『朝日百科 安土城の中の「天下」 襖絵を読む』(執筆:大西廣 太田昌子)は「会所」説に軍配を上げておられ、その一方で、千田嘉博先生は「山上御殿での会所機能は、岐阜城ではいちじるしく低下して」(『戦国の城を歩く』)いたと指摘されていて、そういう意味では、むしろ「会所」機能の否定こそが、安土城天主にとっては必須の条件だったようにも思われてなりません。

(=安土城天主で貴賎同座の宴会など、もってのほか、という意味で…)


やはり四重目は超難解、という印象でして、それにしても、このようにして階段橋を考えることで、いきおい天主と周囲の曲輪との“関係性”に関心が向くわけです。

―――で、ここで見逃せない重大なポイントは、前述の内藤先生も宮上先生も、建築史家としての領分のせいか、天主以外の主郭部の曲輪の使われ方については、ほとんど何も発言して来られなかった、という意外な側面でしょう。




これは特に当サイトの立場としましては、天守の発祥について <天守は織豊系城郭の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に誕生したはず> と何度も申し上げて来た基本的な考え方からしますと、本当に見逃せないポイントです。


ですから、今後さらに安土城天主の階ごとの解釈を進めるためには、天主と周囲との連動や齟齬(そご)に目を向けていく必要があるのではないか―――

いえ、もっとストレートに申し上げるならば、天主に込めた信長の構想と、実際の安土城天主の使われ方の間にも、例の「時期差」問題が影を落としていたのではあるまいか… という疑念がここで生じるのです。


構想段階と完成後で、もし天主の側が不変のままだったら、そこには当然「齟齬」が…








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2012年07月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城の「時期差」問題!それは主郭部にもあった?






安土城の「時期差」問題!それは主郭部にもあった?


白丸内が話題の中心「本丸西虎口」の位置


前回、安土城の主郭部の南東端に「内玄関」を想定してみますと、意外な発見があることをお知らせしました。

ただ、その中では図の虎口2「本丸西虎口」の位置づけ(役割)について、ちょっと疑問をお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか?

と申しますのも、この状態で本丸西虎口から伝本丸に入りますと、いきなり儲(もうけ)の御所(=御幸の御間か)の真ん前に出てしまうことになるからです。


そこで当ブログがもう一点、是非とも付け加えて申し上げたいのは、この主郭部もまた、部分部分で「完成に時期差があった」のではないか―――

という、多少ズウズウしい印象の仮説なのです。

それは決して本能寺の変の後の、信長廟の建立などを申し上げているのではありませんで、果たして信ずるに足るものか否か、どうぞ厳しい目でご一読いただきたくお願い申し上げます。



<前提1.まことに奇妙な状態の「本丸西虎口」が示唆する経緯>





ご覧の本丸西虎口のすぐ奥には、四角い桝形(ますがた)のようなスペースがありますが、これはいわゆる「桝形虎口(ますがたこぐち)」でしょうか? 答えはNOでしょう。

桝形虎口とは、ご承知のように外側により簡便な高麗門など、内側に頑強な櫓門を建てて、その間の枡形内に敵勢を囲い込んで弓矢・鉄砲を打ち掛けるためのもので、そういう形でなくては効果を発揮しないとされています。

たとえ初期の、高麗門などが無いケースであっても、とにかく桝形の内側に櫓門を建てるのが鉄則ですが、この本丸西虎口は、発掘調査でなんと、桝形らしきスペースの外側に櫓門があった(!)という可能性が報告されています。


つまり(上右イラストの)石段を登りきった所に櫓門があったわけで、この一帯はまるで桝形虎口としての機能を“放棄してしまった”ような、妙な状態で遺されているわけです。

果たしてそこにどういう経緯があったのか、ひとつの謎になっています。


桝形虎口の例(丸亀城/小田原城)




<前提2.「安土城の設計変更」…初めは西の城下町を向いて築かれた可能性>



かつて加藤理文先生が「『信長公記』の記載では百々橋口が正面なのである」とおっしゃったように、安土城は初め、城下町のある西を正面にして、山の西側斜面から築城が始められた可能性も言われています。

そこでひとつ指摘させていただきたいのは…
<同じ西向きの岐阜城では、山頂の天主は背後の東側から建物に入る形式だった>
という点なのです。


で、いつ岐阜城の山頂に天主が存在したか、その時期については諸説があるものの、当サイトは一貫して、例えば『フロイス日本史』に「その山頂に彼(織田信長)の主城があり」と伝えられた「主城」こそ、本来の天主なのだと申し上げて来ました。

それがたとえ二重〜三重ほどの規模であったとしても、その立地点(古代中国の故事「岐山」に見立てた山の頂)がもたらす視覚効果から言って、信長の「天主」であったことは微動だにしないはず、と確信しております。


南から眺めた岐阜城/山頂に復興天守


そして岐阜城は西側(写真左の稜線の向こう側)のふもとに当時の城下町があり、城は西向きで、山の西側斜面を主体に曲輪や城道が築かれました。

そうした中でも、天主は城下からの見栄えを考えてか、いったん城下町と反対の東側に回り込んでから建物に入る形だったという点が、安土城との関連で重要であったように思われるのです。



以上の<前提1><前提2>を踏まえて、以下のイラストのように安土城の主郭部にも、完成までの変遷や「時期差」があったのではないか、と申し上げてみたいのです。

(※イラストは標高170mの等高線から上だけを画像化しました)



仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/この時点では本丸西虎口が第一の門だった

仮説:完成した安土城の主郭部/本丸西虎口はその役割が不明確に!








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2012年07月04日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!「内玄関」が安土城主郭部の復元のカギを握っている?






「内玄関」が安土城主郭部の復元のカギを握っている?


前々回から藤田達夫先生の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』から多くを引用させていただきましたが、この本には、その「安土幕府」の舞台である安土城についても、かなり大胆な持論が展開されています。

その辺りの内容は、当サイトの仮説とは必ずしも一致するものではありませんので、誤解の無いよう申し上げておきたいのですが、ただ、藤田先生がこの本の中で「安土城の設計変更」とおっしゃった点はそのとおりだと思われ、今ある安土城跡は部分部分で <完成にかなり時期差がある> ように感じられてなりません。
(※改築や再建ではなく時期差)

その時期差は場所によっては、本能寺の変さえも跨いでしまうのではないか(!?)という観点から、以前の記事で「城として異様な南側山麓の三つの(四つの)門は信長廟の門構えではないのか」( →記事1 記事2)などと申し上げたわけです。

(※ちなみにこの件では、小牧山城にもいわゆる「大手道」はあったのですから、そちらの登り口付近を発掘調査してみれば何か参考になりそうですが、ただ、現地は幹線道路のアスファルトの下で、まだ調査はされていないかと…)




さて、そうしますと、2011年度リポートで、ご覧の安土城の伝本丸と肥前名護屋城の遊撃丸がたいへん良く似ていることから、遊撃丸は本来、後陽成天皇の“北京行幸”のための行幸殿として築かれた場所かもしれない、と申し上げた仮説が気がかりになって来ます。


遊撃丸に「儲(もうけ)の御所」を想定して描いたイラスト




リポート後のブログ記事(→記事3)では、遊撃丸の具体的な建物として、聚楽第と同様の「儲の御所」を想定した場合、面積的にじつに納まりがいいことを申し上げました。

で、その勝手ついでに、試しに「儲の御所」を安土城の伝本丸に当てはめてみますと、かの「御幸の御間」問題に関わる、ちょっと面白いシミュレーションが出来ることをご紹介したいと思います。



<安土城主郭部の御殿群はどこまで一体化していたか? 木戸雅寿先生の指摘から>






(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

(「天主取付台」と「伝二の丸跡」「伝三の丸跡」)これらの敷地は天主に次いで高い同一平面上にある。
これらをひとつの面的空間として考えるなら、ここに天主を取り巻くような付属施設としてかなり大規模な建物群があったと想定できる。

このうち、天主の東側にある長いL字の郭が天主取付台である。発掘調査では多聞櫓(たもんやぐら)と考えられる長い建物の存在が確認されている。
さらに伝三の丸跡にも大きな建物の存在が確認されている。天主取付台と伝三の丸跡とは本丸東門である櫓門を廊下橋として繋げる櫓門も発見されている。これらは廊下で行き来できる一体型の建物だったようである。

取付台の建物と伝本丸御殿とは建物軸を違えているが、伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったりと一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。



この木戸先生の指摘を踏まえて、安土城主郭部の調査報告書の平面図を使って、シミュレーションというか、遊びのような作業を行ってみます。それは…


かなり思い切って“乱暴に”図上の礎石どおしを直線で結んでみる


平面図に示された礎石群を、とりあえず石の大小や状態に構わず、2、3個以上が「直線」で結べるものをドンドン結んでみるのです。

こんなことは調査の専門家でも何でもない自分がやっても、まったく意味が無い… などと躊躇(ちゅうちょ)せずに、やってしまいます。

すると、意外なほど、あれもこれも直線で結べてしまうことが分かります。




やはり木戸先生の指摘のとおりだ、ということが実感できる遊び、否、ある種のシミュレーションでして、安土城主郭部の秘密をのぞいたような気分になれます。


で、こんな考え方はありえないでしょうか?? 図の「内玄関」を起点にすれば――


平面図の右下、主郭部の南東端は、これまでの諸先生方の復元では「江雲寺御殿の一部」や「厩(うまや)」などとされていた場所ですが、ここにあえて「内玄関」を想定してみます。

これは本丸南虎口(図の虎口1)がいわゆる「くらがり御門」であったようにも思われますので、それを一度くぐって到達するため、「内玄関」と仮称したのですが、こうしてみますと、御殿は雁行(がんこう)して連なっていた、という想像も出来そうなのです。

そしてそれらの南西側、伝本丸には「儲の御所」(室町時代の行幸では桁行7間!)が南面して、面積的にもすんなり納まる形になります。


突拍子も無いことを言い出すようで恐縮ですが、このような遊び(シミュレーション)の結果は、何故か、駿府城や二条城など、のちの徳川の城の御殿配置に良く似ているのです。



復元工事中の名古屋城本丸御殿がまさにそっくり!!

(※ホログラム展示の完成予想図から作成)


ご覧のように、名古屋城の本丸から御深井丸(おふけまる)にかけての御殿や天守の配置は、シミュレーションと同じく「雁行」しています。

しかも名古屋城の当初の計画では、大天守と御深井丸は付櫓を介して通り抜けられる可能性があった点や、御深井丸は本丸同様に多聞櫓でがっちり囲む計画があった点(つまり御深井丸とは本来、何だったのか?)を考えますと、さらに似て来るようです。


そして、いわゆる「上洛殿」(将軍家光の上洛時の宿所「御成書院」)がシミュレーションの「儲の御所」とまったく同じ位置で南面していることもあり、決して偶然とは思えない一致点が揃うのです。


―――ということは、なぜ安土城と徳川の城が直接に似ているのか、詳しい経緯は分からないものの、やはり安土城の伝本丸の御殿は、<上位の人物>を迎えるための建物(=御幸の御間?)だったのではないか、という疑念がムクムクと頭をもたげて来ます。

これらはひとえに、安土城の「内玄関」の想定位置がカギを握っているわけなのです。



(※調査の専門家の皆さんから見れば、まことに乱暴な話で、失礼しました。)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年06月19日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「商人兵」…地中海ローマ帝国も常備軍で維持されていた






続「商人兵」…地中海ローマ帝国も常備軍で維持されていた


まずは冒頭にて、お陰様で累計50万アクセスを超えましたことを厚く御礼申し上げます。


(※当図は藤田達生『信長革命』2010年に掲載の図を参考に作成)

さて、前回ご覧いただいたこの地図に、その後の織田信長のすべての天守の位置をダブらせてみたら、どうなるのだろうか??…という興味は勿論あって、早速やってみたのが次の図です。



(※「内陸部」「海寄り」「海辺・湖畔」の定義は2011年度リポートの図と同様)


ただ、ここでお断りしておきますと、この類の地図(信長時代の天守を網羅した地図)は世上に殆ど存在しないようで、それは当然の如く「最初の天守はどれか?」という難題中の難題に迫らざるをえない、という事情があるからでしょう。

―――で、当ブログは、そんなデンジャラスな地雷原に足を踏み込む自信はありませんので、ご覧の地図はあくまでも、天正10年「本能寺の変」当時の様子として、少しでも可能性のある天守を(かなり積極的に)挙げてみたものです。

(※したがって当図はすでに石山本願寺が退去した後の状態で、大坂城には丹羽長秀が入り、当ブログの仮説の長秀在番天守 →記事 があったという想定です)

当図は仮説の仮説であることをご了解のうえでご覧いただきますと、天守の位置だけで申し上げれば、みごとに藤田達夫先生の持論(…信長政権は「黎明期の海洋国家」等々)のとおりに配置されて行ったように見えます。


(藤田達夫『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

信長が意識した海洋国家とは、港湾都市の流通と平和を保障することで租税を集積し、その卓越した資本力で兵農分離を遂げた強力な軍隊を組織して商圏をさらに広げてゆくことに本質をもった。まさに父祖譲りの発想なのだ。
やがては、琵琶湖に面する安土に本拠を移し、伊勢海に加えて日本海と瀬戸内海という三つの海を支配し、東アジアの外交秩序の再編を意識した本格的な改革を推進してゆくのである。いうまでもないが、この延長に秀吉の対外出兵は位置づけられる。





そしてご覧のように、細かく配置を見ますと、内陸部の天守の多くが大坂城(旧・石山本願寺)を包囲するため、東側からグルリと並べられたことも明白のようです。

つまりそれだけ、大阪湾(瀬戸内海)に出ることは信長の悲願だったことがうかがわれ、どうやら信長は日本海側の天守の建造をそっちのけにして、石山本願寺の包囲に血道をあげていたらしく、これが完成し大坂を獲得してしまうと、「もはや畿内に敵はいない」と思わず慢心したのもうなずけるような配置なのです。



お馴染みの「ラストサムライ」ならぬ「The Last Legion」のローマ兵

※コリン・ファース(左)主演/日本未公開作/時代設定は以下の話よりずっと後の時代


さて、唐突にこんな写真をお見せしたのは、前回から海辺の天守群と「兵商」の関係について申し上げて来ましたが、<版図の拡大と兵農分離>という問題は、そうとうに古い歴史のあるテーマだと言えそうだからです。

例えば地中海の一都市国家だった古代ローマは、拡大と内乱を経て、皇帝アウグストゥスの時代に約30万の「常備軍」を備えることになったそうです。


地中海を介して拡大した古代ローマ帝国/紀元前27年までの版図



(ゴールズワーシー『古代ローマ軍団大百科』池田裕ほか訳より)

領土の拡張が進むにつれ、戦闘はますますイタリアから遠く離れた地で行われるようになり、被征服地に大規模な駐屯軍を置く必要が生じた。市民軍体制ではこうした新しい状況に対応しきれなかった。


(阪本浩『ローマ帝国一五〇〇年史』2011年より)

長期的にみて大きな問題は、一都市国家の体制から、地中海世界を支配するにふさわしい体制への転換である。
第一に、遠方の海外属州を支配し防衛するためには常備軍が必要であった。市民軍、すなわち、農地に戻らなければならない中小農民の徴兵制では、これは無理だった。
第二に、新しい社会層が形成されていた。何よりも属州支配は、資本家のチャンスを拡大していた。
(中略)ローマの富裕層のなかでも、元老院議員とならずに経済活動に専念した資本家たちは「騎士」と呼ばれるようになる。


古代ローマの軍制の変化についての一節ですが、特に二番目の阪本先生の文章は、どこか織豊政権の武将らのことを言っているかのようなニュアンスを帯びていて、ちょっと驚いてしまいます。

例えば滝川一益や羽柴秀吉、蜂須賀正勝や小西行長といった武将らを思うと、彼らの出現と織豊政権の版図の急拡大(その結果の天下再統一)は、言わば“同じエネルギー”が働いていたように感じられてなりません。

―――彼らのような「常備軍」の自律的なダイナミズムを野放しにすることが、即、版図の拡大につながっていて、それを信長は(表面は高圧的でいながら)密かに欲したのだと…。


ではその起点になった、信長自身の「海洋国家」への関心はどこから来たのだろうか、という点については、前出の藤田先生は「父祖譲りの発想」なのだとおっしゃっています。


(前出『信長革命 「安土幕府」の衝撃』より)

かつて父信秀が、山科家などの京都の公家との交流をもち、朝廷や伊勢神宮へ何千貫文もの大金を献金しえたのは、津島や熱田といった有力港湾都市を掌握したことに求めることができるからである。
商人たちの保護への反対給付として、租税を銭貨で徴収したと考えられる。したがって信長の経済力も、父譲りの銭貨蓄積によるものだったとみてよい。



確かに時系列的に考えますと、この指摘のように、信長の海洋国家への関心は父・信秀の代からの織田家の環境が育んだとするのが妥当のようで、文献史料からたどれる「答え」はそれ以外に無いのかもしれません。





でも、誠に、まことに勝手な空想で恐縮なのですが、例えばルイス・フロイスら宣教師は、信長との長時間にわたる会見の中で<地中海ローマ帝国>の話はしなかったのでしょうか。

と申しますのも、古代ローマ帝国こそ、キリスト教が世界宗教に飛躍できた踏み台でもあったことはご承知のとおりで、フロイスがバチカンの法皇云々、イエズス会の発足云々の話をしていくうえで、ローマ帝国の説明は避けて通れなかったように感じるからです。

つまりフロイスらの口から出た<地中海ローマ帝国>の話が、海洋国家への熱情、そして常備軍(兵商の活用と兵農分離)や方面軍の編成という織田軍の核心部分について、信長の意を深めた「ダメ押し」になっていたのではないか…

などという空想中の空想に、私なぞは心がザワついてしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年06月06日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか






版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか



※左図は中井均先生の論考(『城と湖と近江』等)を参考に作成

2011年度リポートでは豊臣時代の<海辺の天守>群について、それらは織田信長が琵琶湖に築いた「城郭ネットワーク」を踏まえながら、広く東アジアの制海権をにぎるため、豊臣秀吉の構想に沿って諸大名が築き始めたものではなかったか… という仮説を申し上げました。

で、そうした“秀吉の構想”を育んだ舞台が、じつは琵琶湖のはるか以前の、まだ信長が尾張を統一したばかりの頃(…秀吉が織田家に仕え始めた前後)に、すでに尾張の港湾都市「津島」で芽生えていた可能性が、何人かの先生方の指摘から推測できそうなのです。

そこで今回は「兵商」(商人兵)というキーワードを軸に、信長や秀吉の版図(制海権)拡大の力学について、少々補足させていただこうと思います。



<尾張随一の河口湊をもつ、尾張第二の商工街・津島>





(小島廣次「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」/上記書1997年刊所収より)

勝幡(しょばた)系織田氏は、信長の祖父、信定の時代から津島を領土化し、同織田氏にとって津島はいわばホームグラウンドそのものだった。
(中略)
『信長公記』巻首には、永禄四年(一五六一)の西美濃墨俣(すのまた)・森部(もりべ)合戦の功績者として四人の名前があげられているが、このうち三人が津島衆で占められていた。これは偶然ではなく、信長の戦力の中核が津島衆で占められていたとみるほうが自然だろう。
(中略)
彼らは信長の家臣には違いないが、必ずしも武家というわけではなかった。津島にあっては商人であり、それでいて信長の家臣として実際にあちこちの戦場へ行っている。(中略)津島衆はこの兵農ならぬ「兵商」だったことになる。



(※上記書に掲載の図を参考に作成)


上の表紙の本をご覧になった方も多いかと思いますが、その中でも、私なぞは小島先生の論考がいちばん興味深く、と申しますのは、それまで織田兵の強さの源泉は「兵農分離(専業兵士)だ」と盛んに言われて来たことと、ちょっと話が違って来た印象があったからです。

小島先生の文章からは、津島とは、信長にとって後の「堺」にも劣らぬ存在だったように感じられて来て、その「兵商」と秀吉の関わりについては、こうも指摘されています。


(前出「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」より)

信長の多くの家臣のなかで、早い時期から津島と密接な結びつきをもっていた人物が秀吉以外に見当たらないことなどからすると、秀吉は信長家臣団のなかで、「津島担当」だったと考えられる。


なんと、秀吉はここで「兵商」(言わば「商人兵」)と深く結託できたことになり、そういう立場からは、例えば川並衆を率いていた蜂須賀小六との関係性もふくらみそうで、秀吉の躍進の原動力はここにあったか!という印象でした。

一方、信長の大戦略における津島(伊勢湾)の位置づけについては、近年、藤田達生先生がさらに広い視野から見た持論を展開しておられます。


(藤田達生『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

信長は、上洛戦の前提として永禄十一年(一五六八)二月に北伊勢に侵攻し、三男信考を河曲(かわわ)郡の神戸氏の、実弟信包を安濃郡の長野氏の養子とし、さらに一族津田一安を伊勢を代表する港湾都市・安濃津(三重県津市)に置いた。(中略)
信長にとって伊勢の掌握は、東海道をはじめとする東国と京都を結ぶ大動脈としてばかりか、関東への足がかりとなる太平洋海運を押さえることを意味した。
同国には、桑名(三重県桑名市)・安濃津・大湊(三重県伊勢市)に代表される東海−関東を結ぶ太平洋流通上の有力港湾都市があったからだ。




(※同書掲載の「環伊勢海政権ネットワーク概念図(天正3年)」を参考に作成)


藤田先生はこの本の中で、岐阜からやがて安土に居城を移す信長は、すでに天正3年頃には、上図のような広域の流通網を構想していたのだと強調されています。


(前出『信長革命 「安土幕府」の衝撃』より)

この時期に地域支配拠点となった神戸城・安濃津城・田丸城は、いずれも伊勢海を意識した沿岸部に立地した。
これは、のちに信長が安土城を中心として琵琶湖沿岸に大溝城・坂本城・佐和山城・長浜城などの城郭を配置したことの直接的な前提とみなすことができる。
(中略)
そしてこの政権は、萌芽的ではあるが、舟運に依拠した重商主義政策を中核とする海洋国家としての本質をもつものであった。筆者は、他の戦国大名との最大の相違はここにあるとにらんでいる。


以上のように、津島の「兵商」を手ごまに躍進を始めた信長と秀吉らが、同じメカニズムをフル稼働させて版図を拡大した様子が見えて来そうですが、そう言えば、あの教団も、「兵商」で隆盛を極めたのではなかったか――― という不思議なめぐり合わせ(衝突)もあったのです。



<凄惨な殺戮戦、一向一揆攻めは「商人兵」どうしの生き残り戦??>



以前の記事(→ご参考)でも申し上げたとおり、一向宗(本願寺)はたいへん富貴な教団であり、その勢力の実態も「兵商」の類だったようで、となると、信長軍と一向宗門徒の戦いは“兵商どうしのサバイバル戦”だったのかもしれない、と思われて来るのです。


(武田鏡村『本願寺と天下人の50年戦争』2011年より)

一向宗徒による一揆を一向一揆というが、その主体はこれまでいわれてきたような土地に定着する農民ではなく、交易を行う馬借(ばしゃく)や船乗り、さらに各種の職人、商人、そして本願寺につながる坊主などであった。(中略)
極端にいえば本願寺は一坪の土地も所有していないにもかかわらず、莫大な資産を持っていたが、それは門徒からの献金があったからである。


そして天正2年に迎えた長島一向一揆攻めの最終決着は、冒頭の「津島」からは目と鼻の先の、わずか10kmほどの地点で起きた惨劇でした。





(前出『本願寺と天下人の50年戦争』より)

伊勢長島の門徒は、顕如の曾祖父の蓮淳(れんじゅん)が長島御坊といわれる願証寺(がんしょうじ)を開いて以来、木曽川・長良川・揖斐(いび)川の各流域で生活する人々の信仰を集めて、一大勢力になっていた。
河川に囲まれ、伊勢湾に面する長島は、領主の介入と物品の徴発を拒み続けた「河内(かわち)」といわれた寺内町である。当然、伊勢にも勢力を伸ばそうとする信長の介入も拒絶していた。



こうした一向宗の教団としての性格と、ここまでご覧いただいた信長の大戦略とを(下図のように)突き合わせてみますと、信長は「敵対する兵商」が自らの流通網の要所要所(長島と越前!)にしっかり根をはっていることに我慢ならなかったのではないか… とも思えて来るのです。

(※一方、法主らの本拠地・石山本願寺は“和議による退去”で決着している)






<その頃、セブ島に上陸したコンキスタドール(征服者)の正体も…>




(※右写真はレガスピの銅像/ウィキペディアより)


さて、最後に余談ですが、信長が伊勢方面に進出していた永禄8年1565年に、スペイン人のコンキスタドールの一隊が、太平洋を渡ってフィリピン諸島(セブ島)に上陸しました。

わずか数百人の部隊を率いたのは、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ。

彼は広大な植民地領「ヌエバ・エスパーニャ」の首都メキシコシティの市長(!)だった人物であり、香辛料の新たな交易路を開拓するため、まもなく騙(だま)し討ちでマニラを陥落させました。

これも言うなれば「兵商」の私兵部隊が世界地図を塗り変えてしまったわけで、こうした投機的で(利潤のリターンを急ぐ)性急な勢力の拡大は、兵商の得意技だったのではないでしょうか。


そして我が国でも、徳川幕府が改めてその恐ろしさに気づいたのか、自ら兵商分離を進める形になりました。

ということで、江戸時代の有名な身分制度「士・農・工・」という序列に込められた、武家政権の“本音”がなんとも気になって仕方がないのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年05月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!黄鶴楼(こうかくろう)を笑えない!天守の意味の脱落






黄鶴楼(こうかくろう)を笑えない!天守の意味の脱落


――すでに築50年を越えた大型のコンクリート天守――

大阪城天守閣(築81年)       和歌山城天守(築54年)


広島城天守(築54年)        名古屋城天守(築53年)

小倉城天守(築53年)        熊本城天守(築53年)


この2〜3週間、どういう訳か、前回も申し上げた「コンクリート天守の木造再建」のことが頭から離れず、やや大仰に申しますと、これは今の世代に託された命題ではないのか? とも感じられてなりません。

で、いっそのこと、当ブログ独自に「木造再建の優先度ランキング」でも作ってご覧に入れようかと思ったものの、考えれば考えるほど、これは難解だ、ということが分かって七転八倒しております。


その最大の理由は、明治維新のとき天守の“大量絶滅”(封建主義の象徴の一掃)があったわけですが、それも言わば「我が国の歴史の声だ」と考えて尊重すべきなのか、またそれとは正反対に、現在の日本が再び(明治以来の中央集権から)分権社会に向かっている中で、改めて木造天守を“地域分権のモニュメント”として見直すのもいいのではないか、という二つの考え方に、まったく折り合いがつかないからです。


―――例えば前者の考え方ですと、明治に取り壊された天守(小田原城ほか)を確たる理由もなく再興することは歴史のねじ曲げになりかねず、むしろその後の昭和にアメリカ軍の空爆や原爆投下(という天守の歴史とは無関係な理由)で失われた七基の天守こそ、まずは最優先で木造再建すべきだということになります。

※七基の天守(被災順)=名古屋城、岡山城、和歌山城、大垣城、水戸城御三階、広島城、福山城


―――ところが後者の考え方ですと、破竹の勢いの官軍(明治新政府)に恭順し、いちはやく廃城願いを出して取り壊された、大久保家の小田原城天守など、合わせて三十数基にのぼる天守や御三階が、逆に、中央集権化に走った政治の犠牲者(スケープゴート)として見直されることにもなるでしょう。

―――そして奇妙なことに、この二つの考え方では、冒頭の写真の大阪城天守閣や小倉城天守、そして一昨年に話題になった江戸城天守などは、どちらにも含まれず、ランキングはずっとずっと下の方に位置づけられてしまうのです。


そこで今回は(収拾のつかないランキングは断念しまして)天守の焼失・再建・破却・復興をめぐる不可思議な歴史をザッと振り返り、何故そんなことになったのか、外国の事例とも比べながら申し上げてみたいと思います。



<保科正之(ほしな まさゆき)の腹芸?がもたらした、天守の意味の脱落>



江戸初期には天守が失われていた福岡城と江戸城


幕末にも天守があった会津若松城と松山城


上の2枚の写真のように、福岡城と江戸城はともに江戸初期に天守が失われましたが、その原因は大きく違うものでした。

元和6年(1620年)、ご承知のとおり黒田長政(くろだ ながまさ)が将軍・徳川秀忠に「徳川の世は城もいらないので天守を崩しました」という意味の言上をし、居城・福岡城の天守を進んで取り壊したと言われます。

これは、当サイトの第一弾リポートの最後でも申し上げたように、天守は本来、徳川幕府の治世とは水と油の関係にあるという本質を、長政が熟知していたからこそ行えたスタンドプレーではないでしょうか。

と申しますのは、徳川幕府は、各藩が天守を統治の象徴として代々受け継ぐことは許すものの、例えば、藩主の代替わりや国替えの度に新しい天守(=革命記念碑!)がボコボコと新造(造替)されるような事態は、断じて許さない、という基本姿勢があって、そういう“幕府の意”を長政が大仰に解釈してへりくだってみせたのではないかと…。


そして一方の江戸城天守は、明暦(めいれき)の大火で焼けると三代将軍・家光の弟・保科正之が「軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり」と進言して、以後、再建されることはありませんでした。

正之の進言がじつに意味深長だと思うのは、天守は確かに「軍用に益なく」かもしれませんが、政治的な効果はたっぷりと含んだままであり、その証拠には、正之自身の居城・会津若松城の天守はしっかりと幕末まで存続し、親藩や譜代が封建体制の中で 徳川将軍を支える姿勢を示し続けたことからも間違いないように思われるのです。

つまり正之は「徳川将軍はもはや巨大な天守で諸大名を威嚇する必要はない」と進言しただけであって、それ以後、徳川将軍家の大坂城や二条城の天守が焼失すると再建されなかったのに対し、再建されたのは徳川御三家や松平家・大久保家・池田家・中川家の天守と御三階(松山城ほか)だったのです。


高取城へ登る道/山中の石垣


ところが保科正之の進言と幕府の治世は予想以上の効果をもたらし、やがて日本人すべてに「天守とは何だったか」をボンヤリ分からなくさせてしまったようです。

例えば明治時代の“大量絶滅”で最後に取り壊された天守は高取城の御三階で、明治6年の廃城令で「廃城」と決まりながらも明治24年(1891年)まで残り、それはただ標高580mの山頂にあったために取り壊しが面倒だったらしく、したがって当時、天守は政治的にはとうに“捨て置いて構わないもの”に成り下がっていたようです。

ということは、保科正之の進言から高取城の破却まで、二百三十年あまりの時をかけて、天守はゆっくりと「その意味が脱落していった」のだと思えてならないのです。



<いわゆる歴史主義建築とも違う、分類不能?のコンクリート天守が登場>



さて、その後、世界では19世紀から20世紀初めにかけて「歴史主義建築」の建設が流行し、これにはパリのオペラ座やベルリンの国会議事堂、日本の初代の歌舞伎座などが含まれるそうです。

これらは劇場や議事堂などを建てるとき、それに似合った時代の様式を施主や建築家がチョイスして建てた、ということらしく、今回の話題のコンクリート天守のように(あえてストレートに表現するなら)特定の××城天守にそっくりな外観の展望台や資料館を、その故地に建ててしまった、というケースとは訳が違うようなのです。

となると、コンクリート天守というのは、なかなか世界的にも類似の有名建築が見当らない特殊な存在みたいで、あえて一番よく似た建物を探すと、今は中国の「黄鶴楼」あたりになるのではないでしょうか?


世界で一番よく似た建物? 湖北省武漢市のコンクリート造「黄鶴楼」


有名な黄鶴楼は有史以来、1700年あまりの間に何度も焼けて建て直され、先代の清の時代のものも1884年に火災で焼けたことを踏まえて、ちょうど百年後(1983年)に現在の建物がコンクリート造(エレベータ付)で登場しました。

正直に申しまして、何度も建て直したこと自体が“かの国の誇るべき歴史”なのに、現代中国人の「燃えないからいい」という感覚はやはり何かに毒されている証拠であり、異様だと思うものの、少し見慣れて来ると、つい最初の違和感を忘れてしまうのがなんとも恐ろしい限りです。


―――で、これとほぼ同じことが、昭和から平成にかけて、我が国の主要都市の中心部で繰り広げられたわけで、当時の復興天守の位置づけを市史で確認しますと、明らかに「地域振興のための観光開発」であり、文化行政とはお門(かど)違いであったことが分かります。


和歌山市史より→「昭和二十五年頃から話題になっていた和歌山城の再建が実現」「和歌浦・加太友ケ島地区と合わせて」「紀勢本線の全通を契機に一層の観光客誘致を」

広島新史より→「産業博を大々的に行い、郷土産業の振興を」「広島城あとに天守閣の復原が決定、第3会場に追加された」

名古屋市史より→「この年の名古屋まつりは名古屋開府三五〇年、市制施行七〇周年に加え、名古屋城再建完成といった三重の意味で、名古屋の発展を祝う盛り沢山の行事が企画されていた」



という状態ですから、役所内の建設発注の担当部署も、おそらくは産業振興とか観光とか土木・公園というセクションであったことは疑いようもありません。

要するに、歴史的に意味が脱落していた「天守」は、もう外見さえそれらしく造ればOKな、公共の施設(建築基準法に基づくビル建築)でもよかったのでしょう。


外観復元した和歌山城天守の開館を待つ人々(昭和33年1958年/和歌山市史より)


そして当時、全国のコンクリート天守が参考にしたのは大阪城天守閣だったという点は、かなり重要なポイントを占めているのかもしれません。

いまや築81年、現役最長老のコンクリート天守・大阪城天守閣は、渡辺武・元館長の著書『大阪城話』によれば、役所内の所管部署がグルグル移り変わったそうで、その理由は、開業したては「展望台効果」で観光客を吸引したものの、その後、高度成長期に歴史資料の収集に力を入れて、約8000点を所蔵する「歴史博物館」として路線転換したことが大きかったそうです。

じつに先見の明というか、罪つくりというか(失礼)、大阪城天守閣はひじょうに特殊な成功事例だったわけで、それを後から追いかけた全国のコンクリート天守は(各県に専門の歴史博物館が出来たため)ハシゴを外された格好になり、そのままゆっくりと今日まで老朽化が進んで来ているのです。



<地産地消の木造化をめざす「小田原モデル」とは>



そこで「小田原 城普請会議」の皆さんの手法が俄然、注目されそうです。

小田原の木造化のポイントは「地産地消」だそうで、今後もし計画が進むなら、近隣地域の木材を使いながら、具体的には現存の松江城天守のように複数の材を束ねて太い柱にするそうですが、それでも天守の脱落した“意味”を何か取り戻せるのかもしれません。

と言うのも、伊勢神宮の式年遷宮ではありませんが、そうした地元の長い持続的な裏づけこそ、意味不明の「天守閣もどき」を脱する、歴史的な第三の道かもしれないと感じるからです。








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2012年05月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・西ノ丸天守――詰ノ丸に天守を上げないスタイルの原型か






続・西ノ丸天守――詰ノ丸に天守を上げないスタイルの原型か


小田原城天守閣(鉄筋コンクリート造/昭和35年竣工)


じつは先月7日、小田原で行われた「小田原城 木造化を考えるシンポジウム」に私も出掛けまして、思いのほか、単なる復元以上の、大きな問題提起を感じました。

シンポジウムのフィナーレ、地元職人による木遣り唄(きやりうた)の様子


シンポジウムは小田原の老舗のカマボコ屋・まんじゅう屋・魚屋の三人の若主人が立ち上げた「小田原 城普請会議」の主催だそうで、平成27年度までに耐震改修を迫られた小田原城天守閣にかなりの費用(7億〜15億円とも)を使うのなら、いっそ木造化の可能性を探ってみよう、という趣旨でした。

会場には小田原市長も挨拶に駆けつけ、主たる眼目は「木造化」ということで木造建築業者もチラホラ参集し、その他大勢の城郭ファンが集まった中で、ゲストの有名棟梁らがスピーチをしたわけですが、主催者側の背景にあったのは <コンクリート天守を抱えた市民のジレンマ> とでも言うべきものだったように感じました。

で、今回は本題の前に、このコンクリート天守の件について一点だけ述べさせて下さい。



<話題の名古屋城天守の木造再建「342億円」は本当に高いのか?>



東京駅丸の内駅舎/言わば“屋根の改修”なのに総事業費500億円!!

(画像:JR東日本より)


天守の木造化と言えば、最近、名古屋城天守は「342億円かかる」「工事に12年かかる」というニュースが流れて、(掛川城11億、大洲城16億、小田原城48億円予想などに比べても)さすがに高い、という世間の反応がありましたが、報道のポイントは「それに対して現状のコンクリート天守は6億4000万円だった」と、さも河村たかし市長の暴走ぶりを訴えるような論調でした。

ですが私なんぞは、どうもそこに、原子力発電は安いのか高いのか、という情報操作にも似たニュアンスを感じた口です。

と申しますのは、今年いよいよ完成する東京駅丸の内駅舎は、もちろん現代の工法による復元改修ですが、免震工法やら三階増築やらで費用がかさみ、JR東日本はその500億円をいわゆる「空中権」の売買で調達したと言います。


名古屋城天守の場合、そんな妙案があるのかどうか分かりませんが、この先、築53年の建物がいよいよ限界を迎える30〜40年後に、やむなくコンクリートで建て替えるはめに陥った時、一体いくらかかるのか?(=ゼネコンがいくらフッかけて来るのか?)という、ちょっと空恐ろしいシミュレーションも、公平な判断を下すためには、今のうちに下調べしておくべきではないでしょうか。

このままでは、建て替えの場合でも、免震工法とかハイブリッド木造とか色々な施策が求められ、結局は342億円どころではない、超豪華なコンクリート天守に「イエスかノーか」という選択(情報操作)に追い込まれやしないかと気がかりです。


詰まるところ、戦後日本の映し鏡のような、地域振興と費用対効果の申し子「コンクリート天守」の見えざる壁を打ち破るには、単なる復元以上の工夫が必要なのかもしれません。

「小田原 城普請会議」の皆さんには是非ともその突破口を開いていただきたいのですが、シンポジウムの印象としては、私はあの「木遣り唄」が良かったように思われ、こういう「木の文化」に関わる問題では、どんなに理詰めで話をするより、ああいう唄が日本人の魂を揺さぶるのだと感じ入りました。

―――で、そもそも小田原という地は、関東における“古城観光都市”に変貌できる潜在力(歴史的な三つの城…北条氏の戦国小田原城、豊臣秀吉の石垣山城、徳川による近世小田原城)を秘めたラッキーな街だと思うのですが。



<続・西ノ丸天守――詰ノ丸に天守を上げないスタイルの原型ではなかったか?>





さて、話はガラリと変わって、前回も登場した豊臣大坂城の西ノ丸天守に関してです。

この建物の詳細は一切不明である(小規模だという証拠も無い)ものの、独特な立地の手法だけは、のちの天守に若干の影響を残したように見えます。




と申しますのは、時期的にそれ以降になって、天守をあえて詰ノ丸(最高所)よりも一段低い曲輪に設けた例が、いくつか登場したことになりそうだからです。

(※これは当サイトが申し上げて来た仮説に照らしますと、天守の発祥には、織豊城郭の求心的な曲輪配置の頂点にそれが誕生した、というストーリーが欠かせず、その点では「一段低い曲輪」はゆゆしき?重大事件なのです)



伊賀上野城の絵図(ウィキペディアより/当図は上が北)


ご存知、藤堂高虎が改築した伊賀上野城は、図の中央の本丸左側(西側)の高石垣が印象的です。


(高田徹「上野城」/『戦国の城 近世の城』1995年所収より)

上野城の最大の見所は、本丸西面に構えられた高さ二〇m余の石垣である。ところで、この石垣は本丸西面にしか築かれておらず、他の本丸周囲はいずれも切岸(きりぎし)のみで防御されている。
天守台は本丸の西寄りに築かれ、小天守台を備えたものであるが、城内中の最高所は本丸東端の城代屋敷の曲輪である。城代屋敷は、筒井氏時代の本丸といわれるが、その最高所を外してわざわざ西面の高石垣寄りに天守台が構えられている
これは、西の大坂方面に防御を周到にしたというより、むしろ視覚的に威圧度を高めようとした面が大きかったと思われる。



高石垣ごしに見た復興模擬天守(現存の天守台の上に建設)


高虎が何故この位置に天守を移したかについては、特段の理由も伝わっていないようで、そこで高田先生の指摘のように、高石垣との関連で理由を推測するしか手がないようです。

ただしここで、問題の西ノ丸天守を含めて考えた場合は、そういう発想のそもそもの原点… 天守は必ずしも最高所でなくても良いのだ、という前例の打破(新機軸)を西ノ丸天守が果たしていた、と考えることも出来るのではないでしょうか。

(※この伊賀上野城の場合は、何故か「西」も共通していますが…)


その他の類似のスタイルとしては、徳島城や鳥取城は山頂の本丸から山腹の曲輪に天守が移る形になりましたし、萩城は初めから山頂の詰ノ丸ではなく山麓の本丸に天守を築き、そして加納城や水戸城の「御三階」は本丸を避けて二ノ丸に設けられましたが、これらのうち、西ノ丸天守より以前にさかのぼる事例はありません。

そして何より、これらの中では、他の参考例になるような強烈な存在は「西ノ丸天守」の外に無さそうです。

それを豊臣の旧臣・徳川の譜代を問わず、様々な大名が参考にしたのは、ひょっとすると <徳川家康の天下獲りにちなんだ天守の位置> だという暗黙の了解が、諸大名の間に広まっていたからではないのでしょうか??



<毛利家の萩城天守も似たような位置にあるが…>



毛利輝元(もうり てるもと)の肖像(毛利博物館蔵/ウィキペディアより)


さて、そうは申しましても、関ヶ原戦の西軍総大将にかつがれ、戦後に所領の六ヶ国を失った毛利輝元が、新たな居城・萩城でまさか <家康の天下獲りにちなんだ天守の位置> を採用したと早合点するわけにも行きません。

輝元にとって西ノ丸天守は、まったく別の意味で、忘れることの出来ない天守だったのではないでしょうか。


萩城の現存天守台(右側背後の指月山の頂上が詰ノ丸)


関ヶ原合戦の三ヶ月前、家康が東軍を率いて上杉討伐に向かうと、豊臣三奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)が、大坂入りした輝元をさっそく豊臣秀頼に会わせ、家康のいない西ノ丸の守備を要請した(『一斎留書』)と言います。

そんな長盛の底意には、この頃、「西ノ丸」という曲輪が、前年に北の政所が家康に明け渡したあたりから、豊臣政権の事実上の「政庁」と化していた事情がありそうです。


例えば一味の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は、輝元と毛利勢の大坂入りは「大坂城西ノ丸の留将よりの要求である」と、反対する吉川広家(きっかわ ひろいえ)と激論を交わしたと記され(『吉川家文書』)、したがって西ノ丸はそうした指令の発信地であったことになります。

またその広家の起請文においても「輝元が豊臣奉行衆の申し出に任せて西ノ丸に罷り上がったのは秀頼に対する忠義と考えたからだ」という意味の文面があるそうで、輝元が(家康に代って)西ノ丸に入ることは、言わば豊臣政権の「執権」職に新任されたかのようなニュアンスを帯びていたようです。


そしてご承知のとおり、輝元は御輿(みこし)にかつがれやすいタチなのか、西ノ丸にいた三ヶ月間、関ヶ原戦に向けて様々な指示(瀬田の防御陣地、津城攻略の督励、四国の藤堂家・加藤家領地の撹乱など)を精力的に発しながらも、自ら出陣することはなく、結局、関ヶ原の敗戦や毛利家の所領安堵、秀頼と自らの地位の保証を知らされると、あっけなく西ノ丸を退去してしまいました。

で、昭和の戦時中に毛利家の三卿伝編纂所がまとめた『毛利輝元卿伝』には、西ノ丸を退去した輝元と家康について、こんなふうに書かれています。(文中の「卿」は輝元のこと)


(渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』1957年刊より)

卿に代って新に大坂城西丸に拠った家康は俄然 強硬態度を以て卿に臨み、且つ毛利氏分国安堵の誓約を反故にするに至った。
これ家康が今や秀頼を擁して大坂の金城湯池に拠り、卿とその地位を代へたゝめに最早 卿を憚(はばか)る必要なきに至ったため、俄(にわ)かに従来の温和なる態度を一変したのである。



どっちもどっち、という感じはしますが、毛利家の史料を総覧して書かれたこの本の言いようには、毛利家の先祖たちが見た豊臣大坂城や西ノ丸の印象(魔力?)が浮き彫りになっているのではないでしょうか。

そしてそこには、どこかしら輝元の心象も含まれていて、歴史の厚いフィルターの向こう側に、西ノ丸天守の残像を探し出せるのではないか… などという余計な想像力が働いてしまうわけなのです。

ご覧の風景には、ある原型があったのではないかと。











作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年04月24日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらにもう一基あった?大坂城天守 〜1596年度年報補筆の不思議〜






さらにもう一基あった?大坂城天守 〜1596年度年報補筆の不思議〜


前回に申し上げた、慶長伏見地震で被災した豊臣秀吉の大坂城天守は、その後、どうなったのでしょうか。
この点については、以前の記事(仮説:大坂城には「五代」におよぶ天守建造の歴史があった)でも申し上げたとおり、有名な西ノ丸の天守が重要なカギを握っているように思われます。




       1.豊臣秀吉による創建天守(天正13年1585年完成)
       2.西ノ丸天守(慶長5年1600年頃完成)
       3.豊臣秀頼による再建天守(慶長8年1603年以降の完成か)
       4.徳川幕府による再建天守(寛永4年1627年完成)
       5.現在の復興天守閣(昭和6年1931年竣工)



通説では大坂城天守は「三代」にわたるものであり、ご覧の当サイトの仮説で申しますと、1〜3が通説では1基の天守としてカウントされていて、すなわち豊臣時代の天守はあくまでも1基であり、慶長伏見地震による被災や倒壊は無かったとされています。

また通説では、関ヶ原合戦の前に、豊臣政権の三奉行が徳川家康の罪状を書き連ねた弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」に登場する“西ノ丸の天守”についても、それを「大坂城天守」の1基としてカウントするようなことはありません。

しかし、これも以前の記事で申し上げたとおり、西ノ丸天守の位置は下図でご覧のように、秀吉が晩年に設けた「惣構(そうがまえ)」の中心点に築かれた、と考えることが出来そうなのです。




つまり西ノ丸天守とは、慶長伏見地震による被災を踏まえて計画された“震災復興天守”だったのではないか―――
そしてそのことを百も承知だったはずの豊臣三奉行(および石田三成)は、弾劾状ではあえて、家康が勝手に西ノ丸に天守を建てたと、事情を知らぬ諸大名にハッタリをかましたのではないか―――
というふうにも思われてならないのです。

現に、文献上では、西ノ丸天守は豊臣三奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)の手配で築かれた、と書いたものがあって、その辺の疑いはかなり濃厚です。

そこで当サイトでは、西ノ丸天守を「大坂城天守」の1基(一代)としてカウントすべきではないか、と申し上げて来たわけです。






<さらにもう1基あった!? 〜1596年度年報補筆の不思議〜>



ところが、前回ご覧いただいたルイス・フロイスの報告書には、取り上げた文章の前の方にちょっと気になる“妙な記述”があって、今回は是非その件を申し上げたいと思います。

早速、問題の箇所をご覧いただきますが、これは、フロイスが慶長伏見地震による都や大坂の被災状況を伝えるうえで、(おそらくは都や大坂の予備知識が無いイエズス会士のために)年報の1596年よりもずっと以前の大坂築城について、改めて書き添えた部分になります。



(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第2巻/1596年度年報補筆「大坂と都での造営のこと」より)

堺から三里(レーグア)隔たり、都に向かう街道に造られた大坂の市(まち)には、民衆がその造営を見て驚嘆に駆られるように、太閤の宮殿と邸に巨大な装置ができた。
(中略)
このように種々の豪壮な諸建築が非常に迅速にしかも入念に完成されるためには、すべての大工、鍛治工、金工、絵師、その他動員される限りの職人たちを、(太閤)は都とその近郊だけでなく、近くのあらゆる領国から召集した。
また(太閤)は大坂の市の第一の塔(天守閣)を改修するように、そしてもっと高く、すなわち七層にまでするように命じた




!!… 最後の二行で「あれ?」とお感じになったのではないでしょうか。

築城を始めたばかりの秀吉が、なんと「大坂の市の第一の塔(天守閣)を改修」して「七層にまでするように命じた」と言うのです。


こんなことを書いた文献は他に無いと思うのですが、ちなみにこれ以降の文面では、大坂城天守は「七層」だと何度も書かれているため、まさにこの築城の時に七層に改められ、秀吉以前はそれよりも低い天守が存在していたかのような書きぶりなのです。

しかも、やや細かいことを申しますと、フロイスはこれ以降の文中で「私が言ったように、七層にまで積まれ」云々というふうに、天守が七層に改められた件をくり返していて、問題の箇所は単なる書き間違いとも思われません。


ただし、この場合、「改修」とは言っても、秀吉の大坂築城が天守台石垣の構築から始まったことは別の文献で明確のようですので、仮にこの報告書のとおりだとしても、厳密には、建物を直に改修したのではなく、それを「七層で建て直した」ということなのかもしれません。

―――で、事の真偽はともかく、秀吉以前の状況はどうだったかを再確認しておきますと、大坂城の前身・石山本願寺が織田信長との戦いの末に開城・退去したあと、すぐに信長の家臣団が入って、退去時に炎上した城内の修築を始めたらしいことが判っています。



(松岡利郎『大坂城の歴史と構造』1988年より)

信長は本願寺を攻めている間に安土に豪壮華麗な天守を築いて「天下布武」をめざしていたが、大坂石山を手中にすると、本丸は丹羽長秀に、千貫矢倉は織田信澄に預けて在番させた(『細川忠興軍功記』)。
また信長は天正八年九月、明智光秀に城の縄張りを命じたという(『大坂濫觴書一件』)。
いずれ大坂を居城とする考えであったらしいが、天正十年(一五八二)六月二日、信長は光秀の謀反により急襲され、京都本能寺で自害してしまう。




丹羽長秀と明智光秀の肖像(ともにウィキペディアより)


さてさて、秀吉以前のこの城には丹羽長秀(にわ ながひで)、明智光秀(あけち みつひで)という、城づくりを語るうえで欠かせない二人の重要人物が登場して来ます。

ご存知、丹羽長秀と言えば、安土城の普請奉行も務めた織田家の重臣で、一方の明智光秀は築城名人としても知られ、この二人のあとで(一時、池田恒興の預かりを経て)同じ「秀」の字つながりの秀吉が、大坂を大城郭に築き直したことになります。


そして松岡先生の指摘のように明智光秀が縄張りを行っていたとしますと、“問題の天守”は、例えば光秀ゆかりの福知山城や亀岡城などの例から類推して、本丸の中央付近にあったと想像できるのかもしれません。

そこで本丸にいた丹羽長秀の名をとって、これを仮に<長秀在番天守>と呼ぶことにしますと、冒頭の「五代」云々の話を踏まえるなら、それらの前にもう一代さかのぼって、合計「六代」になってしまうのです。




もう、いいかげんにしろ!…というお叱(しか)りの声が聞こえるようで、たいへんに恐縮です。

ですが、当時は大坂周辺でも高槻城や有岡城にも天守があったようですし、それらが<天下布武の版図をしめす革命記念碑>であったのなら、信長が長年かかって攻略した石山本願寺の地にも、すぐさま、天主を築け、と命じたとしても、それほど不自然ではなかったように思われるのですが…。



<安土城天主の縮小版? それとも“信長の大坂城天主”のプロトタイプ??>



丹羽長秀の子の天守という伝来の小松城「本丸御櫓」復元アイソメ図

明智光秀ゆかりの福知山城大天守(外観復元)…初重と二重目が同大


ご覧のいずれの天守も初重と二重目が同大で建ち上がり、その上に小さな望楼が載っている、という点では、まさに1596年度年報補筆の「もっと高く、すなわち七層にまで」改修したという話に、ピタリと合致しそうで、どうも胸騒ぎが治まりません。

と申しますのは、ご承知のとおり秀吉の大坂城天守も、天守台上の初重と二重目が同大で建ち上がっていたことは、ほぼ確実のようだからです。


で、妄想ついでにもう一言だけ申し上げるならば、もしも、もしも明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に勝っていたなら、いずれは光秀も、自らが縄張りした大坂城に入城して、この<長秀在番天守>に登って天下に号令していたのではないか―――

などという、二重三重の妄想が頭の中を駆けめぐってしまうのです。……









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2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城天守は「倒壊」したのか イエズス会士の意味深(いみしん)な報告文






大坂城天守は「倒壊」したのか イエズス会士の意味深(いみしん)な報告文




すでにご承知のとおり、当サイトの出発点になった発想は、ご覧の豊臣大坂城の天守には、豊臣秀吉が創建した十尺間の望楼型天守と、二代目の秀頼(ひでより)が再建した層塔型の唐破風屋根の天守があり、それらは屏風絵に描かれ、それぞれに「天守」の時代的な変遷(変質)を体現していたのではないか――― というものです。

で、この発想の支えになっている史料は、有名な文禄5年(慶長元年)閏7月の「慶長伏見地震」によって、伏見城だけでなく、大坂城の天守も「倒れた」「全部倒壊」云々という被災状況が記された宣教師(イエズス会士)の報告書です。


かつて黒田慶一先生は、そうした一連の報告書をもとに欧州で出版されたJ・クラッセの『日本教会史』(邦題『日本西教史』)に触れつつ、大坂城天守の“改修”の可能性について言及されました。

そして当サイトも、やはり慶長伏見地震で秀吉の大坂城天守は大きく被災し、そのことが秀頼の再建につながったのだろうと想定しています。

この基本的な考え方は微動だにしないものの、ただし例の「豊臣大名の天守マップ」(慶長3年当時)には、クッキリと「豊臣大坂城」を記入しておりまして、この一見矛盾するような表示について、今回は若干のご説明(釈明?)を申し上げたいと思います。






(ジアン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より)

太閤殿下の宮殿は大廈高楼盡く壊れ、彼の千畳座敷竝(ならび)に城櫓二箇所倒れたり。此(この)櫓は七八層にして各譙楼(しょうろう)あり。



これは『日本西教史』の大坂城天守の被災についての短い文章で、これだけの文面ですと、「倒れた」のが天守だと解釈されても仕方がないような書き方です。

と申しますのも、原書の『日本教会史』が出版されたのは1689年、慶長伏見地震からは90年ほど後のことでして、そこでよりオリジナルな報告文をたどりますと、まさに地震の年に、ルイス・フロイスが書き送った「1596年度年報補筆」というものがあります。

これは大坂にいた司祭や、京の都にいた別の司祭(フランチェスコ・ペレス)が地震の2週間後にまとめた報告文をもとに、豊臣政権下の出来事をフロイスが長崎から書き送った報告書(グレゴリオ暦の9月18日都発信、12月28日長崎発信)であり、大坂城天守の被災状況がより詳細に語られています。



(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第2巻/1596年度年報補筆より)

私はその地震によって生じた破壊を一部分は自ら目撃したし、また一部分はそこに居住しているキリシタンたちの口から知った。
(中略)
天守(閣)と呼ばれる七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭(propugnaculum)は倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復できない。
同様のことは城郭の他のほとんどすべての諸建築物に及んだが、太閤はそれらの中にいて、それらの建築物の美麗さと絢爛さと輝かしい装飾を楽しんでいたのであった。

(中略)
最後に、すべての中で一番高く、私が言ったように、七層にまで積まれ、その修復のために最終的な手が加えられ、すべてを金箔でめぐらした居間〔そこから(太閤)は非常に絢爛たる装備と隊伍を組んで凱旋行列する十五万の歩兵と騎馬を、シナ使節たちに見せるために展開させるように決めていた〕を有するあの塔(turris)は、半時してから全部倒壊した



というように、こちらの報告文ですと、被災当時の様子をある程度つかむことができ、大坂城天守は初め「倒壊はしなかった」ものの、「半時してから全部倒壊した」と述べられています。

しかしこれをあえて厳しい目で見た場合、詳細でありながらチョットおかしな所があって、それは中段部分で「誰もそこに住まおうとせず」「取り壊さぬ限り修復できない」「太閤はそれらの中にいて…楽しんでいた」などと、多少“日数のかかる事柄”を述べておきながら、最後の部分で、唐突に「半時してから全部倒壊した」としている点です。


これは何故なのか?と邪推をめぐらせますと、この慶長伏見地震を含む一連の長い文章が、第1から第4の「不思議な兆候」という話(体裁)でくくられていて、その第4の「兆候」が慶長伏見地震になっているのです。

第1の兆候……7月、都に大量の灰が降り、大坂に赤みがかった砂が降った

第2の兆候……その後、都と北陸に大量の白い毛髪が降った

第3の兆候……8月、長い光芒を放つ彗星が約2週間、北西の空に現れた

第4の兆候……9月、大地震が秀吉のいる伏見を最も激しく破壊した

この体裁は『日本西教史』にも若干反映されていて、さながらソドムとゴモラ… 神の裁きで滅びた都市のように、高慢華美な秀吉の伏見城や都の大寺院がついに打ち砕かれた、というトーンで一連の文章がまとめられている感があります。


描かれたソドムとゴモラの物語(ジョン・マーティン作/1854年/部分)


 同 (アルブレヒト・デューラー作/1498年/部分)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah



(上記書/1596年度年報補筆より)

願わくは、我らの主なるデウスがこれらの不思議な兆候によって、人々の心にデウスの御威光に対するより大いなる畏怖と愛とが、またデウスの諸律法のよりいっそう熱心な遵守が励まされるよう、その御恩恵を分かち与え給うように、と希求する次第である。



フロイスはこのように「兆候」の成果が得られるよう願っていて、やはりこの年に再び禁教令を出した秀吉に対して、より明確に、神の裁きが下ったことを伝えたい、という心理が働いたことは間違いないでしょう。

そしてフロイス(もしくは大坂や都の司祭)は、いわゆる修辞法(しゅうじほう/言葉を巧みに用いて効果的に表現すること)に最大限の努力をはらったのではないでしょうか。


描かれたソドムとゴモラの物語(ベンジャミン・ウエスト作/1810年/部分)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah


そしてこの年報補筆には、一方の秀吉が、地震国日本の立場を説いたエピソードも紹介されています。

それは、宣教師を敵視していた仏僧が「地震の災禍はキリシタンのせいだ」と秀吉に訴えたとき、秀吉はその仏僧にこう答えたと、フロイスが年報補筆に書き加えた部分でして、これがなかなか興味深いので、やや長文ですが是非ご一読いただけますでしょうか。



(上記書/1596年度年報補筆より)

太閤は本性が賢明で判断力において鋭敏な人間であり、あらゆる風説によって各種の人々の勧めによって己れを欺瞞に導くことを少しも許さず、たとえ我らに対しての愛情または同情によって決して動かされることはなかったとはいえ、彼は次のように答えた。

「汝らは何を言っているのか、判っていない。なぜならもしこれらのこと(地震の災禍)が我らの先祖の時代に決して起こったことのない、日本国前代未聞のことならば、汝らが主張していることは全き真実であると予は思うであろう。しかし歴史上の諸々の古記録によれば、当諸国においては大きな恐るべき地震と震動は何度も何度も生じたことが明白であり、その時にはかの連中(宣教師たち)はまだ日本へは来ていなかったし、かの(デウスの)律法については何も考えられていなかったのであるから、汝らはこうした理由で今回の事件(地震)の原因をかれら(キリシタンたち)に帰することができると思うのか」と。




地震国日本の宿命を説いて、豊臣政権のダメージをやわらげたい、という下心を持った秀吉に対して、ちょっと同情を寄せたような報告文ですが、ただしこの文面においても、なおも、フロイスは「修辞法」の類を駆使した節があります。

と申しますのは、例えば新約聖書「ペトロの手紙第2」にもこれと似たようなフレーズがあるからです。



(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ペトロの手紙第2より)

まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」




これは不信心な者の典型的な“言い草”を挙げたエピソードですが、宣教師の間であれば、ご覧の二つのフレーズが似ていることは、即座に思い当たるでしょう。

つまり地震国日本の宿命を語った秀吉と、「あざける者」とが、ともに「何も変わりはしない」と言い張る未教化の輩(やから)として、同一視できるような形で書かれているわけです。


描かれたソドムとゴモラの物語(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作/1857年)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah


今回ご紹介した「1596年度年報補筆」は、地震の直後に書かれた報告文でありながら(否、その時代の利害関係者が直接に関わっていたからか)前述の第1〜第4の兆候といい、秀吉の発言の取り上げられ方といい、巧みな修辞法によって、神の裁きが下ったことが浮き彫りになっています。

そうした傾向を注視するなら、問題の、年報補筆の最後の唐突なくだり(「全部倒壊した」)もまた、フロイスらの修辞法(付け足し)だったのではないか… という疑惑が感じられて来ます。


となれば、秀吉の大坂城天守は、実際には、年報補筆の中段の「倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復できない」という状態が、地震の日から、ひょっとすると秀吉の死まで、約2年間(!)誰も口出しできずに、そのまま放置されていたのではないか―― とも思われて来るのです。

以上のような疑惑から、例の天守マップにあえて「豊臣大坂城」を表示することにした次第です。



で、最後にもう一つだけ付け加えますと、下の中井家蔵『本丸図』は、そうした満身創痍(まんしんそうい)の豊臣大坂城を、二代目・秀頼のために大改修する青写真だったようにも思えるのです。

(ご参考→2010年度リポート)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・熊本城天守は徳川系か 「四方正面」の最先端に変身していた!?






続・熊本城天守は徳川系か 「四方正面」の最先端に変身していた!?


前回に引き続き、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について申し上げたいのですが、今回はガラリと雰囲気を変えて、純然たる“天守の構造面”のお話をさせていただこうと思います。

その本題の前に、前回に写真をお見せした「唐破風」の件にチョットだけ触れておきますと、当サイトはスタート時から、天守の最上重屋根の唐破風は徳川が覇権をにぎる時期にそのトレードマークとして盛んに設けた可能性があり、例えば下写真の三天守はどれも「徳川将軍の娘婿(むすめむこ)」の天守であった可能性を申し上げました。


加納城御三階 / 姫路城天守 / 大坂城の豊臣秀頼再建天守(当サイト仮説)


そして前回写真の三天守も同様であり、加藤清正もまた、結果的に徳川将軍の娘婿(むすめむこ)になっていたことを忘れるわけにいきません。


徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守


清正の正室(継室)は清浄院(しょうじょういん)という女性で、この人は家康の叔父・水野忠重の娘であって、豊臣秀吉の死去の翌年に、家康の養女として清正と結婚しました。

そして彼女は関ヶ原合戦の直前に熊本城に入ったと言いますから、ちょうどその頃、大天守が完成しようとしていたわけで、どうにも問題の唐破風とは浅からぬ縁があったように思われてなりません。


ただしこの唐破風は、熊本城の大手が歴史的に東か西であったと言われる点では、大天守の南北面に据えられていて、大手を向いていない点がやや不審です。

―――この点では、同じく軒唐破風ではなく「据唐破風(すえからはふ)」だった福井城天守(写真中央)も同様の位置関係であり、これには何か理由があったのかもしれません。

―――さらには、今日に伝わる熊本城を描いた屏風絵の多くが、南か、北から描かれていて、したがって熊本城の絵の描写は城の大手とは関係なく、結果的に大天守の唐破風を正面にして描かれ続けたことも、また何か理由がありそうで、気になる点です。



<今回の本題――
 北野隆先生が紹介した“小天守なき城絵図”が物語る、大天守の重大な転機>







さて、熊本城の大小天守は、天守台の築き方も含めて、大天守と小天守の建造の手法がまったく違うことでも知られています。

そして小天守台の石垣が大天守台に覆い被さる構造が確認されてからは、現状の小天守はあとから付設されたものであり、その後、宮上茂隆先生や北野隆先生の指摘によって、関ヶ原合戦後の慶長年間に「宇土城」の天守を移築したものと考えられるようになりました。

ですが前回も申し上げたとおり、これもまた北野先生が紹介されたように、はるか以前の文禄年間に“小殿守の広間が完成”云々と記した清正の書状があり、これが「古城(ふるしろ)」ではなく熊本城(新城)のことならば、大小天守はそうとうに入り組んだ経緯を経て出来上がったことになります。

そのあたりの出来事を箇条書きにしますと…



文禄3年(1594)  清正書状「小殿守ノひろま出来」次第に2階3階の工事を命ず

            【小天守の完成時期 第1案】

慶長4年(1599)  ※熊本城内で「慶長四年」銘の瓦が出土
            清正書状「おうへ(御上)の小殿守のなおし所」の工事を命ず

慶長5年(1600)  9月、清正らの軍勢、宇土城を攻めて開城させる
            10月、清正書状「天守之作事」を急がせ、畳を敷くよう命ず

慶長6年(1601)  【この年か前年の末に大小天守ともに完成か 第2案】

慶長12年(1607) 清正書状「天守之井出」(小天守の井戸か)の出来具合を問う

            【小天守の完成時期 第3案】

慶長13年(1608) ※宇土城跡で「慶長十三年」銘の瓦が出土/清正隠居所に改修か

慶長16年(1611) 清正、熊本で死去

慶長17年(1612) 幕府が宇土城など三支城の破却を命ずる

慶長18年(1613) 宇土城の破却が始まる(この時、天守を熊本城に移築か)

            【小天守の完成時期 第4案】




考えられる小天守の完成時期を【第1案〜第4案】で示してみましたが、結局、どこまでを「古城」の話と考えるかで結論は違って来ますし、また慶長4年に熊本城(新城)のすべての築城が始まったとする「慶長4年説」に立つ場合も、これまた様相が違って見えるでしょう。

ですが、仮に【第1案】の小天守が「古城」のものとするなら、それはそれで、古城にもすでに「大天守」が(少なくとも4階か5階の規模で)存在していた可能性が生じてしまい、古城の意外な完成度や、その大天守はどこへ行ったのか? ひょっとして… という、またやっかいな話にも発展しかねません。


この複雑怪奇なパズルを解く“道しるべ”の一つとして、ある城絵図が、北野先生によって紹介されています。



谷川健一編『加藤清正 築城と治水』2006年

※左ページの城絵図は「肥後熊本城略図」(山口県文書館蔵)とそのトレース画


(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収より)

萩藩では慶長一六年(一六一一)一二月二六日の毛利秀就(ひでなり)の初入国と藩内巡視にあたり、九州諸藩の動向を探る内偵が行われた。
内偵が行われたのは、肥後藩を中心にして北であり、
(中略)
小倉藩、佐賀藩、熊本城では縄張図、各建物の姿図が描かれており、「肥後熊本城略図」は肥後藩の本城である熊本城の縄張図と各建物の姿図を描いたものである。


ということで、まさに清正が死去した慶長16年当時の熊本城について、驚くべき状況が萩藩の内偵で報告されていた、というのです。



トレース画の中心部分(上記書の掲載画より/当図は上が東)


なんと、ご覧のように本丸には大天守しか描かれておらず、当時は、小天守があるはずの大天守左側(北側)は通路(帯曲輪?)が通っていたようなのです。

しかも逆の本丸右側(南側)はかなり曲輪の配置や形が現状と異なり、ちょうど東竹ノ丸のあたりを突き抜けるようにして、通路が屈曲しながら本丸の東部分に達していた、と示されているのです。

この城絵図の解釈について、北野先生は同書のなかでこう結論づけておられます。


(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収)

本丸には独立式天守(現在の大天守)がそびえ、本丸へは東竹ノ丸の南から東に廻って入れるようになっていた。本丸は東向きであった。
独立式天守の北側は、不開門(あかずのもん)から西へ伸びる通路になっていた。現在の小天守の位置である。
清正代には小天守はなかったことになる。



と、同書では、北野先生は清正の時代を通して「小天守はなかった」と結論づけておられ、つまり「築城400年」の築城年(完成年)にも小天守はまだ無く、その年に清正が書状でわざわざ出来具合を問うた「井戸」も古城のもの(…?)ということになりますが、そうした点について同書はそれ以上の特段の言及はありません。

現れては消える“神出鬼没の”小天守の話はこの辺でいったん止めにして、それよりも今回の記事で是非 申し上げたいのは、一方の「大天守」はその間、どうなっていたのか? という観点なのです。


―――で、北野先生が紹介された城絵図が真実の報告だとしますと、その時点の大天守を画像化すれば、おそらくこうなるわけです。(!)



これぞ「四方正面」の最先端にして究極形!? 独立式の頃の大天守を推定

(※北西側から見上げた様子/この左側に小天守が付設されたことになる)


どうでしょうか――― このようにして見直しますと、この大天守が東西南北の四面にほぼ同大で(しかも上下二段に重ねて)設けた「千鳥破風」の意図が、いっそう明確になって来るのではないでしょうか。

しかも初重の特徴的な「石落し」は、グルッと四面にわたって周囲を威圧していたことになりそうです。

これらの点は明らかに、この天守が「四方正面」の意匠を極めようという意図をもって建てられたこと、またそれは時期的に見て、徳川の天守に特徴的だった「四方正面」を先取りしたか、または追い抜こうとした意気込みを物語っているのではないでしょうか??


結局、小天守がいつ存在したかで話は変わるものの、最大限に見積もれば清正晩年の10年余り、少なく見積もっても数年間は、こうした当時最先端の姿を見せていた可能性があるのです。



<この時期に「天守」の意味が変わった?―――
 天下布武の版図を示す革命記念碑から、各領国の中心を成すモニュメントへ>




当サイトは一貫して、同じ天守建築であっても、織豊期と徳川期の天守は質的に(建造の目的が)別物ではないかと申し上げて来ました。

そのことは3年ほど前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)でも詳しく触れたとおり、織豊期と徳川期の天守を見分ける外観上の目安の一つが「四方正面」であったように思われます。


どういうことかと申しますと、織豊期の天守には明確に「正面」が存在していて、それに対して天守の「四方正面」とは、徳川幕藩体制に移行すると共に、天守が各藩の分権統治の象徴として“城下町の中心に”屹立するようになって、初めて意識的に導入された手法ではなかったか、という考え方に基づくものです。


その点では、ご覧の清正の独立式天守は、まさに時代の最先端を突っ走っていたわけで、そうした措置の背景には、もちろん清正の情勢判断や政治的志向が働いたはずでしょう。

秀吉の死後、清正が家康に急接近したのは、よく言われる豊臣内部の吏僚派との確執もあったでしょうが、そもそも清正の農本主義的な統治手法から言えば、政治的路線としては秀吉よりも、むしろ家康の方にシンパシーを感じていたのではないでしょうか。


そして冒頭の「唐破風」の件でも、清正の対応はすばやく、関ヶ原合戦の前にそれを行っていたことになります。

―――この点では、いずれ年度リポートでも取り上げたい重要なテーマとして「徳川はなぜ唐破風を重視したか」という問題があるのですが、そうした意匠の深意(新政権の哲学)についても、するどく清正は見抜いていたようで、それならば「四方正面」を先取りすることも十分に可能であったように思われるのです。


そんな究極の「四方正面」を実現したにも関わらず、清正の死後、わざわざ小天守を付設(再付設)して、せっかくの形を崩してしまったのは、二代目の加藤忠広とその重臣らだったということになりそうです。


で、私なんぞには、おそらく清正は、実際はどこかの時点で最初の小天守をあえて壊し、その上で急遽、大天守を新時代(分権統治の世)にふさわしく、破風の改装などを進めたのではないか… と想像されてなりません。

ですから、そうした清正の意図的な独立式天守(とその後の増築建物)を、なおも“豊臣の天守”と解釈することには、どうにも強い抵抗を感じざるをえないわけなのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える






熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える


豊臣秀吉の存命中には無かった!熊本城天守(大天守の上層部分/外観復元)


2011年度リポートの中の「豊臣大名の天守マップ」において、これは一言、別途申し添えなければと強く感じたのが、熊本城天守です。

加藤清正による天守の完成は慶長5年か6年(つまり関ヶ原合戦の年か翌年)と言われ、秀吉の存命中はずっと未完成であったため、マップ(慶長3年当時)にも表示しておりません。



―――ところが熊本城天守は、その黒い壁面のためか“豊臣の天守”の代表格として挙げられることが大変に多く、完成の時期から言えば、徳川家康の二条城天守や結城(松平)秀康の福井城天守などと同じく、徳川の覇権が確立される最中に登場した天守だという、重要なポイントがないがしろにされている感があります。


二条城天守/福井城天守/熊本城天守 …これらは唐破風を高く掲げた 同期の桜?


そこで今回から、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について、近年の熊本城の状況も含めて申し上げてみたいと思います。



<熊本城は築城400年か、完成400年か、熊本市長の政治的手腕の妙…>



加藤清正による築城は、ご承知のように天正16年(1588年)に城地の一角「古城(ふるしろ)」に入城したものの、全面的な築城工事は「慶長六年(1601)に起こされ同十二年に完成した」(『日本城郭辞典』)等とされて来ました。

しかし天守については、例えば北野隆先生の指摘で、文禄3年(1594年)に小天守の広間が完成したり、慶長5年(1600年)に大天守の畳を敷くなど、着々と完成に向かっていたことが判ります。


ということは、一般的に言われた慶長6年の「全面的な築城工事」の直前には、すでに大小天守は完成していたばかりか、そうであるなら、少なくとも本丸の石垣普請は“完全に”出来上がっていたはずでしょう。

となると、なおさら気になって仕方が無いのが、近年の城ブームにも多大な貢献を果たした「熊本城築城400年」の築城年のとらえ方なのです。


華やかに復元された大広間 …復元整備計画の目玉の一つ


思えば番組「司馬遼太郎と城を歩く」の制作当時、熊本城を担当した高橋ディレクターから、熊本城の“築城年”をめぐる市側の説明を又聞きして驚いた記憶があり、それは申し上げたとおりに、清正の熊本(隈本)入城や天守の件が頭にあったからです。

しかし「築城400年」の起算年について、熊本市はまったく違うやり方をしていたわけで、これは三角保之(みすみ やすゆき)前市長、幸山政史(こうやま せいし)現市長(2002年就任/現在3期目)の二代にわたる政治的手腕の結果と言うべきでしょう。

では熊本市政が“築城年”の設定にいかに関わって来たのか、下の表をご覧下さい。




ご覧のとおり、“築城年”が市政の都合で設定されて来た経緯が、再確認いただけるのではないでしょうか。

すなわち「築城400年」とは、清正の入城400年目ではなく、全面的な築城再開400年目でもなく、もっとあとの城の完成400年目(2007年/平成19年)に合わせたものであり、一見、正当性があるようでいて、復元整備計画が1997年に出来たことから考えますと、もはやこれしか選択肢は無かった――― と言えるのかもしれません。


ただし、ここで見逃せない(もはや言わずにいられない)重要なポイントは、市の主張する築城年と、いま韓国で公然と言われている「俗説」との、妙な因果関係なのです。



<「熊本城は韓国人が築いた」という俗説の蔓延と、それを許した築城年の解釈>



ご存知の城郭ファンはすでに多いこととは思いますが、改めて「俗説」の概略を申しますと、それは、熊本城は加藤清正が朝鮮の蔚山城(うるさんじょう)から連れ去った1000人の朝鮮人技術者が築いた城で、だから熊本城の見事さは朝鮮の技術によるものなのだ、という内容です。

で、これが韓国では学校教育の場にも採り入れられ、それを学んだ生徒達が、修学旅行で熊本に大挙してやって来る、という流れも出来ているそうです。


この「俗説」が間違いであることは、ご承知のように蔚山城の戦いは、新築の城に篭城した日本勢が、押し寄せた明・朝鮮連合軍を最終的には撃退して終わっていることから明らかで、そこから朝鮮の技術者を1000人も連れ帰るなど、シチュエーションとしてありえなかったことです。

おそらくは、膨大な数の捕虜や陶工などを日本国内に連行した件と、有名な蔚山城の激戦とがごっちゃになって出来上がった「俗説」と思われますが、それにしても、最低限、<熊本城は韓国人が築いた>という誤りは正さなければなりません。

ところが、そこで問題になるのが、例の「築城年」の一件なのです。


つまり、城が完成した慶長12年(1607年)をあくまでも「築城年」にしたい熊本市と、蔚山城の戦い(慶長2年末/1597年)という朝鮮出兵の最終局面で連れ去られた朝鮮人技術者が… という「俗説」を言いたい韓国側とが、妙な符合を見せているのです。

どういうことかと言いますと、ここでもしも(前述の天守の完成時期など)朝鮮出兵が終わる前後には、もう熊本城の中核部分は出来上がっていた(!)という話が社会的にオーソライズされてしまったら、熊本市も、韓国側も、両者とも<都合の悪い立場>に陥ってしまうわけなのです。




(※上写真はブログ「日本全国ビッグマックの旅」様より引用)


現職の幸山政史市長は「選ばれる都市へ」というキャッチフレーズをご自身のホームページに掲げておられますが、そうした姿勢の甲斐あってかどうか、韓国からの観光客もかなり増えたと言われます。

そしてそれに呼応するように、「熊本城は韓国人が築いた」説の火の粉は市長にも降りかかったようで、その中身は朝鮮日報の電子版(「魚拓」云々の画面をもう一度クリック)をご覧いただくとして、ネット情報によれば、熊本市は「市長はそんな発言をしていない」と朝鮮日報の報道を打ち消すコメントを出したとも言います。


そうであるならば、幸山市長は韓国の親善団体と会った時、熊本城の築城過程について、どういう説明をしたのか、たいへん気になるのですが、なんと同時期には、幸山市長の朝鮮総連の関連施設に対する温情的な政策をめぐって、訴訟が起き、こちらは最高裁で市長側敗訴の判決が確定したそうです。

これはひょっとすると、先々、熊本城もあらぬ運命を背負わされ、タダゴトで済まないのかもしれない、という危惧を抱くのは私だけでしょうか。

(※幸山市長は圧倒的な票差で3期目の当選を果たしています)


熊本市民の皆さん、どうなのでしょう。儲かるなら、こんなことは構わないのでしょうか?


(※次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年03月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか






全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか


前回、中心部分をお見せした肥前名護屋城の遠景イラストの全貌を、今回は是非ご覧いただきたいと思うのですが、その前に、遊撃丸の「舞台」についてチョットだけ申し添えておきます。

何故なら、そこでは、ある戦慄すべき舞楽が行われようとした可能性がありうるからです。


<まさに左に唐、右に高麗、倒錯の雅楽舞いが…>


儲の御所は檜皮葺なり。御はしの間に御輿よせあり。庭上に舞台、左右の楽屋をたてらる。(大村由己『聚楽行幸記』より)




前回、遊撃丸の殿舎としては、聚楽第行幸と同様の、儲の御所(もうけのごしょ)が建てられたのではないか、と申し上げたわけですが、上記の文中の「庭上に舞台、左右の楽屋」というのは、近世の大城郭に付き物の「能舞台」ではなくて、明らかに「雅楽」のための舞台だったと言えそうです。

それは行幸の演出として「雅楽」が必須であったことに加え、「左右の楽屋」という文言が雅楽用であったことを示唆しているからです。


左舞(唐楽)の蘭陵王(らんりょうおう) / 右舞(高麗楽)の納曽利(なそり)

(※左写真はウィキペディア、右写真は「奈良かんさつブログ」様より引用)


正直、私もこの件を調べるまでは知らなかったのですが、雅楽とは、すべての楽曲が左楽(さがく)と右楽(うがく)に分かれていて、左楽は中国伝来(という伝承・想定)の楽曲で「唐楽」(からがく)といい、これは赤い装束で舞うそうです。

一方の右楽は、朝鮮半島伝来(という伝承・想定)の楽曲で「高麗楽」(こまがく)といい、こちらは緑の装束で舞い、楽器の編成もやや違うとのこと。

例えば上の写真で、左の赤い装束はメディア上でもよく見かける蘭陵王(らんりょうおう)で、これに対応する右舞が、右写真の納曽利(なそり)になります。

つまり雅楽というのは、古代からの変遷を経て、中国大陸と朝鮮半島から伝来した楽曲を、両建てで上演する、というスタイルにまとめられた舞楽なんだそうです。


で、そうした雅楽の舞台が遊撃丸にあった場合、その配置は「天子は南面す」という原則にのっとって、儲の御所の南側に舞台が造られたはずです。

―――ですが、この城の特殊なロケーションと、戦略上の目的を思いますと、ひょっとすると、これらの殿舎の配置は、真逆(北)を向いていた可能性はないのか… という妙な想像にとらわれてしまうのです。




(※当図は右が南)

こんなことは「天子は南面す」という原則から言えば、ありえないことですが、仮にこのようにしてみますと、儲の御所にいる天皇の視点からは、舞台の背景の向こう側、つまり玄海灘の海の彼方に <左に中国大陸、右に朝鮮半島> という構図がダブることになります。

したがってこの舞台は、実際上も、左に「唐」、右に「高麗」となり、これから征服しようとする「明」と「朝鮮」をダブらせながら、雅楽を両建てで愉しむ、という倒錯の舞楽会を挙行することも出来たわけで、このように狡猾なアイデアを豊臣秀吉ほどの策略家が気付かぬはずはなかったようにも思うのですが…。






<金色白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか>


さて、肝心の遠景イラストの話に戻りまして、ご覧の前回イラストの下のはるか枠外に、上山里丸の奥(西)で発見された「茶室」が位置する形になります。

茶室そのものの復元に関しては、名護屋城博物館の研究紀要や高瀬哲郎『名護屋城跡』(2008年)にイラストが載ったり、博物館に実物大の茶室が展示されたりと、いくつか参考事例がありました。


ただし、その周りの「庭園」がどうなっていたのかについては、色々と解釈の難しいハードル(発掘結果)が横たわっているようです。

例えば「山里の風景のなかにひっそりと佇む茶室」(前出『名護屋城跡』)と言っても、周辺から「庭石」の類はひとつも発見されなかったようですし、逆に「池」はどうかと言えば、茶室の東側でS字状の妙な形の堀跡が見つかり、しかもその堀は垣根で囲われていたらしい… などという不思議な調査結果が出ています。


その辺を当イラストは大胆に解釈し、茶室の周辺は、山里と言っても典型的な数寄の庭ではなくて、むしろ「菜園」というか、「百姓家の畑や棚田」が再現されていて、それは秀吉個人の“心の風景”“尾張中村の故郷の断片”だったのではないか――― というアイデアで描いてみたのが下のイラストです。




ご覧のとおり、茶室の山側には「麦畑」を描き、茶室の東側(左側)のS字状の堀は「ワサビ田」として描いてみました。

(※ワサビはちょうどこの頃、栽培が始まったようで、徳川家康に栽培ワサビを献上した記録があるそうです)




そして茶室の壁をすべて「青竹」にして、屋根をカヤの苫葺き(とまぶき)の切妻屋根にしたのは、名護屋城博物館の研究紀要に基づいたものです。

執筆者の五島昌也さんは、山里の御座敷開きに列席した神谷宗湛の日記に「柱も其他みな竹なり」とある点に注目したそうです。


(五島昌也「名護屋城跡上山里丸検出茶室空間の遺構状況と復元根拠について」/名護屋城博物館「研究紀要 第4集」1998年所収)

秀吉が大坂から名護屋に至る折々に建築した同様の茶室は、「青カヤ」「青松葉」「杉の青葉」「青柴」で壁を作り、屋根を葺いたとされている。
彼は、積極的に「青」を意識しているのであり、植物の生命力あふれた青々とした材料を使うことに主眼をおいていたと推定される。
このことは、この茶室の利用形態にも影響を与えそうである。つまり、材料がその青さを保っている間の極めて短期間の利用を前提とした建物であったことも考えられる。



私はこの研究紀要の指摘に強いインスピレーションを感じておりまして、これがひいては、肥前名護屋城という「城」の本質までも言い当てているように感じます。

例えば「その青さを保っている間の極めて短期間の利用」というのは、秀吉の意識(もくろみ)として、城にも“賞味期限”があるかのような姿勢が透けて見えていて、そうならば、もしも朝鮮出兵が成功裏に進み、秀吉がまだ存命していたら、まもなく肥前名護屋城は廃城されるか、もしくは石垣山城と同様に、大名の誰かに下げ渡されたのではないでしょうか。


思えば、織田信長が次々と居城を移したり、秀吉がさっさと聚楽第を破却してしまうなど、織豊政権にとっての「城」とは、後の徳川幕藩体制の城に比べて、フットワークの感覚(?)がそうとうに違っていたのかもしれません。

ひょっとすると秀吉あたりは“城は道具に過ぎん”とでも言い放ったかもしれず、ご覧の青竹の茶室と白亜の大城塞とのコントラストは、規模のギャップがありながらどちらも“仮の宿”であったという意味で、いわゆる「見せる城」の本質を露呈しているかのようです。

その好き嫌いの評価はいずれにしましても、このようなことを独断で実行できたのは、日本史上、秀吉ただ一人であったことだけは間違いありません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年02月22日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!遠景イラストで見る遊撃丸 屋根を這う「金龍」






遠景イラストで見る遊撃丸 屋根を這う「金龍」


じつは、肥前名護屋城の天守を山里丸の茶室あたりから見上げたら、どんな風に見えるかと思い、描き始めた広い画角のイラストがありまして、残念ながらリポートの完成には間に合わなかったものの、なんとかご覧いただける状態になりました。

で、今回はその遠景イラストの中心部分をお見せしながら、話題として<問題の遊撃丸の行幸御殿とは、どんな建物だった可能性があるのか?>という件を申し上げたいと思います。




ご覧の状態は、手前の竹林の下方(画の枠外)に上山里丸の奥の茶室が隠れている形でして、このような北東からの視点で眺めた場合、天守の左側に本丸、そして天守の右奥に遊撃丸の殿舎が見えたことになります。

どのように見えたかについての史料は、群馬本の肥前名護屋城図屏風では「遊撃曲輪」と表記された曲輪に、3〜4棟の殿舎が“コの字形”に並んで描かれていて、「名博本」の方も似たような描写になっています。

当サイトのリポートでは、その殿舎群こそ、秀吉の大陸経略構想にあった後陽成天皇の北京行幸に備えた“行幸御殿”ではないのか? と申し上げたわけですが、その具体像をさぐろうと、遊撃丸に酷似する曲輪(伝本丸)をもつ安土城を参考に考え始めますと、何故か、妙な迷路にはまってしまうのです…。


と申しますのは、安土城の「御幸の御間」を参考にしますと、私などは川本重雄先生の説に最も共鳴しておりますので、「御幸の御間」はあくまでも、形式上の行幸殿として殿舎内に設けられた「上々段」ということになります。

ところが「上々段」をもつ御殿は、どれも規模が大き過ぎるようなのです。


例えば有名な聚楽第の大広間ですと、伝世の絵図面を梁間10間と読んだ場合、それを同縮尺で遊撃丸に当てはめますと…


これ一棟で曲輪が満杯状態に!(当図は右が南)


ご覧のとおり、とても3〜4棟どころの状態ではありません。

そもそも聚楽第大広間は公式の対面用の御殿であって、本丸の中心を成すべき建物ですから、このような比較図はナンセンスと言えばナンセンスなのでしょう。

しかしこの他に「上々段」をもつ御殿と言えば、例えば建築書『匠明』の当代広間之図も同規模ですし、仙台城の大広間となれば、もはや遊撃丸には納まらない規模に達します。

逆に、規模の点では合格ラインに入る(上々段をもつ)寺院の書院建築のどれかを、この遊撃丸に想定するわけにも行かず、はたと思考が止まってしまうのです。




そこで、ひとまず「上々段」の件を忘れて、屏風絵の3〜4棟という描写に矛盾しない建物は何か? という風に方向を変えますと、まさに聚楽第の行幸において、後陽成天皇を迎えた「儲の御所(もうけのごしょ)」が思い当たるわけです。


儲の御所とは、儲け(設け)の御殿ということで、この時のためだけに造営された御成り御殿、という意味らしく、『聚楽行幸記』はこの建物について、

儲の御所は檜皮葺なり。御はしの間に御輿よせあり。庭上に舞台、左右の楽屋をたてらる。

という説明があって、正面中央で天皇が鳳輦(ほうれん)に直接乗り降りできた建物ということは分かるものの、規模を示した記述は特にありません。

―――ですが、かつて櫻井成廣先生が、聚楽第や伏見城にまつわる移築伝承のある正伝寺(京都西賀茂)の方丈を参考例に挙げて、こんな推定を行いました。


(櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』1971年より)

聚楽第行幸は凡てを北山、室町両第行幸の規式に拠ったのであるが、『北山殿行幸記』に「儲(もうけの)御所御装束ノ儀。寝殿南面七間」とある様に此の正伝寺方丈も身舎の桁行七間である。


正伝寺方丈は桁行7間、梁間6間という(奇しくも「主殿」建築なみの)手頃なサイズで、これと同等ならば他に2〜3棟の殿舎(左右の楽屋と舞台?)を併設しても、じゅうぶんに遊撃丸に納まるでしょう。


3〜4棟が“コの字形”に配置可能!


(※方丈の見やすい写真→サイト「百寺巡礼・名庭散策」様

そこでひょっとすると、遊撃丸には、儲の御所とそっくり同じものが造営された、という考え方もありうるのではないでしょうか。

その理由は、朝鮮出兵を開始した天正20年(文禄元年)の正月に、二度目の聚楽第行幸があったばかりで、一度目の行幸時に聚楽第で居並んだ(名護屋在陣の)諸大名にとっては、もしも遊撃丸に、儲の御所とそっくり同じものが建った――― となれば、これほど分かりやすい“目印”は無かったようにも思われるからです。

それは、殿舎内の上々段よりも、政治的ポーズの効果ははるかに大きかったかもしれません。



狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』2010年


さて、「儲の御所」と言えば、近年発見された屏風絵で、その屋根上に巨大な「金龍」の置物が据えられた描写が話題になりました。


(上記書の解説文より)

この屏風で最も注目すべき描写のひとつがこの場面で、これまでに確認されている聚楽第を描いた作品にまったく登場していなかったのが、「儲の御所」の屋根のてっぺんにまします龍の姿である。
『聚楽第行幸記』に「玉虎風にうそぶき、金龍雲に吟ず」とあるのは、「玉虎」がしゃちほこを意味するとは思えても、「金龍」に格別の意味があるとは思えず、いわゆる言葉の綾と考えられてきた。
「儲の御所」の屋根の上には龍の巨大な置物が這っていたのだ。



こうなると、ひょっとして、肥前名護屋城でも似たような金龍が屋根上を這い回っていたのかも… と思い立ち、ご覧のとおりに描き込んでみた次第です。ちょっと遠景のままで恐縮ですが…

(※次回に続く)








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年02月07日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守解説「しゆらく(聚楽)のにもまし申候」の真相






天守解説「しゆらく(聚楽)のにもまし申候」の真相


2011年度リポートはアップ直後の3日間ほど、色々とお見苦しい点があり、その後すぐに修正したものの、心理的ショックを引きずっておりまして、今回はとにかく、文中で予告した天守イラストの補足説明をさせていただこうと思います。

肥前名護屋城天守の推定復元イラスト


と申しますのは、佐竹義宣の家臣・平塚滝俊(たきとし)がこの天守について書き送った「てんしゆ(天守)なともしゆらく(聚楽)のにもまし申候」という表現には、聚楽第天守と比べたくなる特殊な事情があったようにも感じるからです。


この滝俊という人物、義宣に随行して肥前名護屋にいたる道中の様子を国元に書き送ったなかで、各地で見た城に関しても色々と記しています。

例えば広島城の普請は聚楽第に劣らないとか、各々の天守を「見事」「一段見事」と抽象的にほめ上げた一方で、肥前名護屋城天守については直接、聚楽第天守と比べて“上回っている”と断定したことが、どうも気になるのです。


左は三井記念美術館蔵「聚楽第図屏風」の天守の描写


ご覧の両者がともに白壁の天守であったことは(「群馬本」の発見もあり)ほぼ間違いないようですし、最上階の華頭窓などの意匠が共通することは度々指摘されて来ました。

―――で、それ以外にも、外観上の類似点があったらしく、具体的には「窓」と「金具」であったように思うのです。



<聚楽第天守の窓はすべて「突き上げ戸」であり、出格子窓(でごうしまど)は無かった!?>





近年、聚楽第を描いた新たな屏風の発見が相次いだ中でも、今なお三井記念美術館蔵の「聚楽第図屏風」は詳細な描写で他を凌駕しています。

その天守周辺の描写のうち、赤丸で囲った窓は、一見しますと、太い堅格子(たてごうし)を並べた出窓式の武者窓(出格子窓)のようにも受け取れます。


出格子窓(丸岡城天守/津山城の備中櫓)


このため誌上等では、聚楽第天守の復元イラストで初重に出格子窓を描いたり、その影響なのか、肥前名護屋城天守も初重に出格子窓を描く復元CGがあったりしましたが、ところが、この絵を解像度の高い写真で拡大して見ますと…


なんと、突き上げ用の“棒”が――

突き上げ戸(今治城の御金櫓/松山城の本壇内門の上部)


ご覧のとおりこの絵は、堅格子の描き方など、ちょっとまぎらわしい点はあるものの、はっきりと突き上げ用の棒が描かれています。

また、その上の白い小屋根のように見える部分も、うっすらと「白木の色」が残っていて、これも突き上げた戸板の可能性があります。

つまりこの屏風の天守周辺の窓は、最上階の華頭窓以外は、すべて「突き上げ戸」ということになりそうなのです。


試しに屏風全体を見渡しますと、他の櫓においても出格子窓は一箇所も無い、という事実に突き当たりますし、改めて新発見の屏風など、他の聚楽第天守の描写を点検してみますと、確認できる窓はどれも「突き上げ戸」と判るのです。

このように、聚楽第天守は“白壁に白木や黒塗りの突き上げ戸”という外観が基本であったらしく、現状で例えますと、今治城の櫓(上写真の左側)に最も印象が近かったのかもしれません。



<聚楽第天守の「金具」類は、姫路城の菱の門によく似たデザインが…>





一方、同様に最上階を拡大しますと、華頭窓などを飾った金具についても、細かく描写されていることが分かります。



金具類は二つ並んだ華頭窓の窓枠にも、長押の釘隠しとしても、さらに右側の開き戸の枠木(?)にも丁寧に施されています。

で、この金具の様子が、どうもあの門を連想させてならないのです。


姫路城 菱の門(華やかな格子窓と華頭窓、そして白い出格子窓も)


お馴染みの菱の門(重要文化財)ですが、これは創建が「桃山時代」とされていて、ご覧の華やかな意匠も当時からのものかどうか、詳しい史料を持ち合わせておりませんが、現状の金具類は“とにかく似ている”としか思えないのです。

ひょっとすると、個々の窓に散りばめられた小さな「桐紋」「菊紋」の配置やデザインまでも、聚楽第図屏風の描写とまったく同じなのでは、と見えるほどです。


―――と、このように見て来て、冒頭の平塚滝俊の「てんしゆ(天守)なともしゆらく(聚楽)のにもまし申候」という断定の、背後の事情がボンヤリと頭に浮かんで来て、それを反映させたのが冒頭からご覧のイラストなのです。




イラストの天守二重目にある「石落し用の張り出し」は、リポートの屋根の検討から導き出されたものです。

で、それに該当する部分を下の左右の屏風で確認しますと、二重目の中央部に横長の窓が描かれているため、これをイラストでは「菱の門」同様の格子窓として描きました。

肥前名護屋城図屏風/通称「名博本」と「群馬本」



で、改めて上下左右の4枚を見比べてみますと、外観上の個々の要素は同じなのに、組み合せ方が違う、といった感じではないでしょうか。


つまり聚楽第と肥前名護屋の天守の外観は、「白木と黒塗りの突き上げ戸」や「金具のデザイン」など、個々の意匠はパズルのような応用形になっていながら、肥前名護屋の方は下三重が同大という、大きさの印象だけが異なっていた―――

このことが平塚滝俊をして、両天守を直接に比較したうえで「まし申候」(上回っている)と言わせた原因だったのでは… と推理したわけです。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年01月31日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!2011年度リポートをアップしました!!






2011年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
− 豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか −


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2012年01月04日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>






お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>


まず初めに、昨年と同様、2011年度リポートの完成も年をまたぐことになりまして、現在も鋭意、作業を続行中ですので、何とぞご容赦のほどをお願い申し上げます。

安土城 伝二ノ丸の信長廟


さて、前回の記事では、ご覧の伝二ノ丸が、織田信長の時代はどんな使われ方をしていたのか? という件をお話しましたが、そこで出た「後宮や空中庭園」という仮説と、有名な“信長廟の謎の石”は何か関連があるのか… という点について、少々補足させていただきたく思います。


信長廟を西側(上写真の左側)から接近して見ると…/奥に見えるのは天主台跡


墓所の最上部にある丸い石が、ひょっとすると、信長が自らの化身とした「盆山(ぼんさん)」かもしれない… と歴史ファンの間で噂されて来た謎の石です。

ただしご覧のとおり、見た印象は(こう横から見ると尚更のこと)ありふれた自然石でしかないため、どの研究者の方々も判断を留保されて来たものです。

その点では、伝二ノ丸に「空中庭園」があったという前回の仮説ならば、この石はもしかすると、庭園のポイントになった“信長遺愛の庭石”だったのでは? などという考え方も成り立つのかもしれません。……


例えば、豊臣秀吉遺愛の藤戸石(ふじといし/醍醐寺三宝院)


しかし事はそう簡単ではないようでして、その辺りの事情を『織田信長と安土城』の秋田裕毅先生はこう紹介しておられます。



(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

信長の廟所の築造について、『蒲生郡志』は、これを秀吉の築造であるとしている。

 天正十一年二月、信長の骨片並に佩用(はいよう)の太刀烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)等を安土山中に護送し、二の丸城跡に之を埋蔵し 一個の石を表とし信長の霊を鎮め宮を造り 六月二日正當一周年祭を修す。

しかし、この記述のように、安土城二の丸の信長廟が秀吉によって築造されたとする史料は、管見の知る限りどこにも見当らず、どこからこのような結論を導き出してきたのかは、現時点では明らかでない。




つまり秋田先生は、信長廟じたいが謎に覆われた存在であり、しかも墓所の形は「当時の一般的な武将の墓である五輪石塔(ごりんせきとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)とはまったく様相の異なるきわめて特異な形態」だとおっしゃったのです。

確かに墓所の形は異様にも見えますが、ああいう基壇がヤケに大きい墓と言えば、私などの記憶では、例えば平戸城の近くにある松浦鎮信(まつら しげのぶ)の墓も似たような印象がありました。


松浦鎮信の墓(最教寺)

(※自前の写真が見当らず「平戸・生月島旅行クチコミガイド」様より引用)


このように基壇(一段目)のサイズは信長廟と殆ど変わらないもので、要するに問題は、信長廟の二段目から上の違いにあることが判ります。

そこで大変に興味深いのは、江戸時代の安土山ハ見寺(そうけんじ)を描いた「近江名所図会」では、「信長公墓」がなんと、ごく普通の五輪石塔のように描かれていることなのです。


近江名所図会 「信長公墓」の部分


そして特にご注目いただきたいのは、基壇(一段目)だけは現状と同じ形かもしれない… という点です。

これは一体どういうことなのか、と申しますと、また秋田先生の著書が答えのヒントを与えてくれるようで、やや長文ですがご一読下さい。



(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

現在の廟所は、二の丸入口に建てられている「護国駄都塔(ごこくだととう)」の裏面に記されている天保十三年四月一日の銘文から、天保年間に改修されたものと考えられる。
それは、石塀や墓石に切石が使用され、その切石を隙間なく合わせるといった構築法からも推測される。
この改修が、どの程度の規模で行われたのかは明らかでないが、この改修より百年ほど前の享保十八年(一七三三)四月十六日に、織田下野守信方が、安土山に登山し信長廟に参拝した折の『織田下野守殿登山記』には、

 御廟前(おんびょうのまえ)花花 水鉢前机香炉(みずばちのまえにつくえとこうろ) 拝席
 石橋之際(きわ) 手水桶(てみずおけ) 手拭(てぬぐい)手拭ハ箱ニ入(いれ)手水桶蓋ノ上ニ置

と、現在と同じく廟の前に花筒が左右に二本しつらえられ、その前に水鉢が置かれ、さらに入口の空堀には石橋がかけられていたことが知られるので、石塀や石塁・墓石などの石を積み替えただけで、基本的な形態までは変えなかったと考えてもよいであろう。





秋田先生の結論は「基本的な形態までは変えなかった」というものですが、文中の史料でも、その百年後の天保年間の改修において、二段目から上だけその時に造り変えた(!)可能性は残されているのではないでしょうか?

そして、もしこの異様な墓所が、幕末に改変された結果だ、ということになりますと、改めて最上部の「石」は何なのか、新たな視点から謎解きできるようにも思われるのです。




高千穂神社の「鎮石(しずめいし)」…御神霊を鎮め祭った石

(※写真は「高千穂周辺旅行クチコミガイド」様より引用)


写真は宮崎県の高千穂神社にある「鎮め石」で、これは神社の説明によりますと、第十一代 垂仁天皇の勅命で伊勢神宮と高千穂宮が創建された際に、御神霊をこの地に鎮めるために用いられたそうです。

一方、信長廟の石は“盆山”か否かと世情にぎやかですが、その丸い形からして、私などはこうした「鎮め石」の類に違いないと感じて来ました。


つまり信長廟の石は、ひょっとすると二段目の石櫃(いしびつ)状の部分に、何か相当に重要なものが納められ、それを鎮め祭るために“据え直された”石のようにも思われるのです。

―――その様子は奇しくも、秋田先生の「神になった信長」がここに鎮められたかのように。




そして今回の記事のとおり、このように石が据え直されたのは幕末だ、と仮定した場合、そこには新たな問題も浮上して来そうです。


すなわち、信長を神として奉る社会風潮、という現代的な問題であり、今さら申すまでもなく、明治・大正・昭和(戦前)にかけて信長は勤皇家(天皇中心主義者)とも見られて来ました。

それは戦後の自由闊達な“体制破壊者”としての信長観とはまるで別人で、(そのことに司馬遼太郎の『国盗り物語』が少なからず影響を与えたそうですが…)いずれにしても、この石は、たとえ盆山ではなかったとしても、すでに相当な秘史を背負っているように思われてならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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