城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2012/01

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2012年01月31日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!2011年度リポートをアップしました!!






2011年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
− 豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか −


どうぞ、すぐ上のバナーからご覧下さい。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年01月04日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>






お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>


まず初めに、昨年と同様、2011年度リポートの完成も年をまたぐことになりまして、現在も鋭意、作業を続行中ですので、何とぞご容赦のほどをお願い申し上げます。

安土城 伝二ノ丸の信長廟


さて、前回の記事では、ご覧の伝二ノ丸が、織田信長の時代はどんな使われ方をしていたのか? という件をお話しましたが、そこで出た「後宮や空中庭園」という仮説と、有名な“信長廟の謎の石”は何か関連があるのか… という点について、少々補足させていただきたく思います。


信長廟を西側(上写真の左側)から接近して見ると…/奥に見えるのは天主台跡


墓所の最上部にある丸い石が、ひょっとすると、信長が自らの化身とした「盆山(ぼんさん)」かもしれない… と歴史ファンの間で噂されて来た謎の石です。

ただしご覧のとおり、見た印象は(こう横から見ると尚更のこと)ありふれた自然石でしかないため、どの研究者の方々も判断を留保されて来たものです。

その点では、伝二ノ丸に「空中庭園」があったという前回の仮説ならば、この石はもしかすると、庭園のポイントになった“信長遺愛の庭石”だったのでは? などという考え方も成り立つのかもしれません。……


例えば、豊臣秀吉遺愛の藤戸石(ふじといし/醍醐寺三宝院)


しかし事はそう簡単ではないようでして、その辺りの事情を『織田信長と安土城』の秋田裕毅先生はこう紹介しておられます。



(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

信長の廟所の築造について、『蒲生郡志』は、これを秀吉の築造であるとしている。

 天正十一年二月、信長の骨片並に佩用(はいよう)の太刀烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)等を安土山中に護送し、二の丸城跡に之を埋蔵し 一個の石を表とし信長の霊を鎮め宮を造り 六月二日正當一周年祭を修す。

しかし、この記述のように、安土城二の丸の信長廟が秀吉によって築造されたとする史料は、管見の知る限りどこにも見当らず、どこからこのような結論を導き出してきたのかは、現時点では明らかでない。




つまり秋田先生は、信長廟じたいが謎に覆われた存在であり、しかも墓所の形は「当時の一般的な武将の墓である五輪石塔(ごりんせきとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)とはまったく様相の異なるきわめて特異な形態」だとおっしゃったのです。

確かに墓所の形は異様にも見えますが、ああいう基壇がヤケに大きい墓と言えば、私などの記憶では、例えば平戸城の近くにある松浦鎮信(まつら しげのぶ)の墓も似たような印象がありました。


松浦鎮信の墓(最教寺)

(※自前の写真が見当らず「平戸・生月島旅行クチコミガイド」様より引用)


このように基壇(一段目)のサイズは信長廟と殆ど変わらないもので、要するに問題は、信長廟の二段目から上の違いにあることが判ります。

そこで大変に興味深いのは、江戸時代の安土山ハ見寺(そうけんじ)を描いた「近江名所図会」では、「信長公墓」がなんと、ごく普通の五輪石塔のように描かれていることなのです。


近江名所図会 「信長公墓」の部分


そして特にご注目いただきたいのは、基壇(一段目)だけは現状と同じ形かもしれない… という点です。

これは一体どういうことなのか、と申しますと、また秋田先生の著書が答えのヒントを与えてくれるようで、やや長文ですがご一読下さい。



(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

現在の廟所は、二の丸入口に建てられている「護国駄都塔(ごこくだととう)」の裏面に記されている天保十三年四月一日の銘文から、天保年間に改修されたものと考えられる。
それは、石塀や墓石に切石が使用され、その切石を隙間なく合わせるといった構築法からも推測される。
この改修が、どの程度の規模で行われたのかは明らかでないが、この改修より百年ほど前の享保十八年(一七三三)四月十六日に、織田下野守信方が、安土山に登山し信長廟に参拝した折の『織田下野守殿登山記』には、

 御廟前(おんびょうのまえ)花花 水鉢前机香炉(みずばちのまえにつくえとこうろ) 拝席
 石橋之際(きわ) 手水桶(てみずおけ) 手拭(てぬぐい)手拭ハ箱ニ入(いれ)手水桶蓋ノ上ニ置

と、現在と同じく廟の前に花筒が左右に二本しつらえられ、その前に水鉢が置かれ、さらに入口の空堀には石橋がかけられていたことが知られるので、石塀や石塁・墓石などの石を積み替えただけで、基本的な形態までは変えなかったと考えてもよいであろう。





秋田先生の結論は「基本的な形態までは変えなかった」というものですが、文中の史料でも、その百年後の天保年間の改修において、二段目から上だけその時に造り変えた(!)可能性は残されているのではないでしょうか?

そして、もしこの異様な墓所が、幕末に改変された結果だ、ということになりますと、改めて最上部の「石」は何なのか、新たな視点から謎解きできるようにも思われるのです。




高千穂神社の「鎮石(しずめいし)」…御神霊を鎮め祭った石

(※写真は「高千穂周辺旅行クチコミガイド」様より引用)


写真は宮崎県の高千穂神社にある「鎮め石」で、これは神社の説明によりますと、第十一代 垂仁天皇の勅命で伊勢神宮と高千穂宮が創建された際に、御神霊をこの地に鎮めるために用いられたそうです。

一方、信長廟の石は“盆山”か否かと世情にぎやかですが、その丸い形からして、私などはこうした「鎮め石」の類に違いないと感じて来ました。


つまり信長廟の石は、ひょっとすると二段目の石櫃(いしびつ)状の部分に、何か相当に重要なものが納められ、それを鎮め祭るために“据え直された”石のようにも思われるのです。

―――その様子は奇しくも、秋田先生の「神になった信長」がここに鎮められたかのように。




そして今回の記事のとおり、このように石が据え直されたのは幕末だ、と仮定した場合、そこには新たな問題も浮上して来そうです。


すなわち、信長を神として奉る社会風潮、という現代的な問題であり、今さら申すまでもなく、明治・大正・昭和(戦前)にかけて信長は勤皇家(天皇中心主義者)とも見られて来ました。

それは戦後の自由闊達な“体制破壊者”としての信長観とはまるで別人で、(そのことに司馬遼太郎の『国盗り物語』が少なからず影響を与えたそうですが…)いずれにしても、この石は、たとえ盆山ではなかったとしても、すでに相当な秘史を背負っているように思われてならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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