城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2012/03

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・熊本城天守は徳川系か 「四方正面」の最先端に変身していた!?






続・熊本城天守は徳川系か 「四方正面」の最先端に変身していた!?


前回に引き続き、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について申し上げたいのですが、今回はガラリと雰囲気を変えて、純然たる“天守の構造面”のお話をさせていただこうと思います。

その本題の前に、前回に写真をお見せした「唐破風」の件にチョットだけ触れておきますと、当サイトはスタート時から、天守の最上重屋根の唐破風は徳川が覇権をにぎる時期にそのトレードマークとして盛んに設けた可能性があり、例えば下写真の三天守はどれも「徳川将軍の娘婿(むすめむこ)」の天守であった可能性を申し上げました。


加納城御三階 / 姫路城天守 / 大坂城の豊臣秀頼再建天守(当サイト仮説)


そして前回写真の三天守も同様であり、加藤清正もまた、結果的に徳川将軍の娘婿(むすめむこ)になっていたことを忘れるわけにいきません。


徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守


清正の正室(継室)は清浄院(しょうじょういん)という女性で、この人は家康の叔父・水野忠重の娘であって、豊臣秀吉の死去の翌年に、家康の養女として清正と結婚しました。

そして彼女は関ヶ原合戦の直前に熊本城に入ったと言いますから、ちょうどその頃、大天守が完成しようとしていたわけで、どうにも問題の唐破風とは浅からぬ縁があったように思われてなりません。


ただしこの唐破風は、熊本城の大手が歴史的に東か西であったと言われる点では、大天守の南北面に据えられていて、大手を向いていない点がやや不審です。

―――この点では、同じく軒唐破風ではなく「据唐破風(すえからはふ)」だった福井城天守(写真中央)も同様の位置関係であり、これには何か理由があったのかもしれません。

―――さらには、今日に伝わる熊本城を描いた屏風絵の多くが、南か、北から描かれていて、したがって熊本城の絵の描写は城の大手とは関係なく、結果的に大天守の唐破風を正面にして描かれ続けたことも、また何か理由がありそうで、気になる点です。



<今回の本題――
 北野隆先生が紹介した“小天守なき城絵図”が物語る、大天守の重大な転機>







さて、熊本城の大小天守は、天守台の築き方も含めて、大天守と小天守の建造の手法がまったく違うことでも知られています。

そして小天守台の石垣が大天守台に覆い被さる構造が確認されてからは、現状の小天守はあとから付設されたものであり、その後、宮上茂隆先生や北野隆先生の指摘によって、関ヶ原合戦後の慶長年間に「宇土城」の天守を移築したものと考えられるようになりました。

ですが前回も申し上げたとおり、これもまた北野先生が紹介されたように、はるか以前の文禄年間に“小殿守の広間が完成”云々と記した清正の書状があり、これが「古城(ふるしろ)」ではなく熊本城(新城)のことならば、大小天守はそうとうに入り組んだ経緯を経て出来上がったことになります。

そのあたりの出来事を箇条書きにしますと…



文禄3年(1594)  清正書状「小殿守ノひろま出来」次第に2階3階の工事を命ず

            【小天守の完成時期 第1案】

慶長4年(1599)  ※熊本城内で「慶長四年」銘の瓦が出土
            清正書状「おうへ(御上)の小殿守のなおし所」の工事を命ず

慶長5年(1600)  9月、清正らの軍勢、宇土城を攻めて開城させる
            10月、清正書状「天守之作事」を急がせ、畳を敷くよう命ず

慶長6年(1601)  【この年か前年の末に大小天守ともに完成か 第2案】

慶長12年(1607) 清正書状「天守之井出」(小天守の井戸か)の出来具合を問う

            【小天守の完成時期 第3案】

慶長13年(1608) ※宇土城跡で「慶長十三年」銘の瓦が出土/清正隠居所に改修か

慶長16年(1611) 清正、熊本で死去

慶長17年(1612) 幕府が宇土城など三支城の破却を命ずる

慶長18年(1613) 宇土城の破却が始まる(この時、天守を熊本城に移築か)

            【小天守の完成時期 第4案】




考えられる小天守の完成時期を【第1案〜第4案】で示してみましたが、結局、どこまでを「古城」の話と考えるかで結論は違って来ますし、また慶長4年に熊本城(新城)のすべての築城が始まったとする「慶長4年説」に立つ場合も、これまた様相が違って見えるでしょう。

ですが、仮に【第1案】の小天守が「古城」のものとするなら、それはそれで、古城にもすでに「大天守」が(少なくとも4階か5階の規模で)存在していた可能性が生じてしまい、古城の意外な完成度や、その大天守はどこへ行ったのか? ひょっとして… という、またやっかいな話にも発展しかねません。


この複雑怪奇なパズルを解く“道しるべ”の一つとして、ある城絵図が、北野先生によって紹介されています。



谷川健一編『加藤清正 築城と治水』2006年

※左ページの城絵図は「肥後熊本城略図」(山口県文書館蔵)とそのトレース画


(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収より)

萩藩では慶長一六年(一六一一)一二月二六日の毛利秀就(ひでなり)の初入国と藩内巡視にあたり、九州諸藩の動向を探る内偵が行われた。
内偵が行われたのは、肥後藩を中心にして北であり、
(中略)
小倉藩、佐賀藩、熊本城では縄張図、各建物の姿図が描かれており、「肥後熊本城略図」は肥後藩の本城である熊本城の縄張図と各建物の姿図を描いたものである。


ということで、まさに清正が死去した慶長16年当時の熊本城について、驚くべき状況が萩藩の内偵で報告されていた、というのです。



トレース画の中心部分(上記書の掲載画より/当図は上が東)


なんと、ご覧のように本丸には大天守しか描かれておらず、当時は、小天守があるはずの大天守左側(北側)は通路(帯曲輪?)が通っていたようなのです。

しかも逆の本丸右側(南側)はかなり曲輪の配置や形が現状と異なり、ちょうど東竹ノ丸のあたりを突き抜けるようにして、通路が屈曲しながら本丸の東部分に達していた、と示されているのです。

この城絵図の解釈について、北野先生は同書のなかでこう結論づけておられます。


(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収)

本丸には独立式天守(現在の大天守)がそびえ、本丸へは東竹ノ丸の南から東に廻って入れるようになっていた。本丸は東向きであった。
独立式天守の北側は、不開門(あかずのもん)から西へ伸びる通路になっていた。現在の小天守の位置である。
清正代には小天守はなかったことになる。



と、同書では、北野先生は清正の時代を通して「小天守はなかった」と結論づけておられ、つまり「築城400年」の築城年(完成年)にも小天守はまだ無く、その年に清正が書状でわざわざ出来具合を問うた「井戸」も古城のもの(…?)ということになりますが、そうした点について同書はそれ以上の特段の言及はありません。

現れては消える“神出鬼没の”小天守の話はこの辺でいったん止めにして、それよりも今回の記事で是非 申し上げたいのは、一方の「大天守」はその間、どうなっていたのか? という観点なのです。


―――で、北野先生が紹介された城絵図が真実の報告だとしますと、その時点の大天守を画像化すれば、おそらくこうなるわけです。(!)



これぞ「四方正面」の最先端にして究極形!? 独立式の頃の大天守を推定

(※北西側から見上げた様子/この左側に小天守が付設されたことになる)


どうでしょうか――― このようにして見直しますと、この大天守が東西南北の四面にほぼ同大で(しかも上下二段に重ねて)設けた「千鳥破風」の意図が、いっそう明確になって来るのではないでしょうか。

しかも初重の特徴的な「石落し」は、グルッと四面にわたって周囲を威圧していたことになりそうです。

これらの点は明らかに、この天守が「四方正面」の意匠を極めようという意図をもって建てられたこと、またそれは時期的に見て、徳川の天守に特徴的だった「四方正面」を先取りしたか、または追い抜こうとした意気込みを物語っているのではないでしょうか??


結局、小天守がいつ存在したかで話は変わるものの、最大限に見積もれば清正晩年の10年余り、少なく見積もっても数年間は、こうした当時最先端の姿を見せていた可能性があるのです。



<この時期に「天守」の意味が変わった?―――
 天下布武の版図を示す革命記念碑から、各領国の中心を成すモニュメントへ>




当サイトは一貫して、同じ天守建築であっても、織豊期と徳川期の天守は質的に(建造の目的が)別物ではないかと申し上げて来ました。

そのことは3年ほど前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)でも詳しく触れたとおり、織豊期と徳川期の天守を見分ける外観上の目安の一つが「四方正面」であったように思われます。


どういうことかと申しますと、織豊期の天守には明確に「正面」が存在していて、それに対して天守の「四方正面」とは、徳川幕藩体制に移行すると共に、天守が各藩の分権統治の象徴として“城下町の中心に”屹立するようになって、初めて意識的に導入された手法ではなかったか、という考え方に基づくものです。


その点では、ご覧の清正の独立式天守は、まさに時代の最先端を突っ走っていたわけで、そうした措置の背景には、もちろん清正の情勢判断や政治的志向が働いたはずでしょう。

秀吉の死後、清正が家康に急接近したのは、よく言われる豊臣内部の吏僚派との確執もあったでしょうが、そもそも清正の農本主義的な統治手法から言えば、政治的路線としては秀吉よりも、むしろ家康の方にシンパシーを感じていたのではないでしょうか。


そして冒頭の「唐破風」の件でも、清正の対応はすばやく、関ヶ原合戦の前にそれを行っていたことになります。

―――この点では、いずれ年度リポートでも取り上げたい重要なテーマとして「徳川はなぜ唐破風を重視したか」という問題があるのですが、そうした意匠の深意(新政権の哲学)についても、するどく清正は見抜いていたようで、それならば「四方正面」を先取りすることも十分に可能であったように思われるのです。


そんな究極の「四方正面」を実現したにも関わらず、清正の死後、わざわざ小天守を付設(再付設)して、せっかくの形を崩してしまったのは、二代目の加藤忠広とその重臣らだったということになりそうです。


で、私なんぞには、おそらく清正は、実際はどこかの時点で最初の小天守をあえて壊し、その上で急遽、大天守を新時代(分権統治の世)にふさわしく、破風の改装などを進めたのではないか… と想像されてなりません。

ですから、そうした清正の意図的な独立式天守(とその後の増築建物)を、なおも“豊臣の天守”と解釈することには、どうにも強い抵抗を感じざるをえないわけなのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える






熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える


豊臣秀吉の存命中には無かった!熊本城天守(大天守の上層部分/外観復元)


2011年度リポートの中の「豊臣大名の天守マップ」において、これは一言、別途申し添えなければと強く感じたのが、熊本城天守です。

加藤清正による天守の完成は慶長5年か6年(つまり関ヶ原合戦の年か翌年)と言われ、秀吉の存命中はずっと未完成であったため、マップ(慶長3年当時)にも表示しておりません。



―――ところが熊本城天守は、その黒い壁面のためか“豊臣の天守”の代表格として挙げられることが大変に多く、完成の時期から言えば、徳川家康の二条城天守や結城(松平)秀康の福井城天守などと同じく、徳川の覇権が確立される最中に登場した天守だという、重要なポイントがないがしろにされている感があります。


二条城天守/福井城天守/熊本城天守 …これらは唐破風を高く掲げた 同期の桜?


そこで今回から、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について、近年の熊本城の状況も含めて申し上げてみたいと思います。



<熊本城は築城400年か、完成400年か、熊本市長の政治的手腕の妙…>



加藤清正による築城は、ご承知のように天正16年(1588年)に城地の一角「古城(ふるしろ)」に入城したものの、全面的な築城工事は「慶長六年(1601)に起こされ同十二年に完成した」(『日本城郭辞典』)等とされて来ました。

しかし天守については、例えば北野隆先生の指摘で、文禄3年(1594年)に小天守の広間が完成したり、慶長5年(1600年)に大天守の畳を敷くなど、着々と完成に向かっていたことが判ります。


ということは、一般的に言われた慶長6年の「全面的な築城工事」の直前には、すでに大小天守は完成していたばかりか、そうであるなら、少なくとも本丸の石垣普請は“完全に”出来上がっていたはずでしょう。

となると、なおさら気になって仕方が無いのが、近年の城ブームにも多大な貢献を果たした「熊本城築城400年」の築城年のとらえ方なのです。


華やかに復元された大広間 …復元整備計画の目玉の一つ


思えば番組「司馬遼太郎と城を歩く」の制作当時、熊本城を担当した高橋ディレクターから、熊本城の“築城年”をめぐる市側の説明を又聞きして驚いた記憶があり、それは申し上げたとおりに、清正の熊本(隈本)入城や天守の件が頭にあったからです。

しかし「築城400年」の起算年について、熊本市はまったく違うやり方をしていたわけで、これは三角保之(みすみ やすゆき)前市長、幸山政史(こうやま せいし)現市長(2002年就任/現在3期目)の二代にわたる政治的手腕の結果と言うべきでしょう。

では熊本市政が“築城年”の設定にいかに関わって来たのか、下の表をご覧下さい。




ご覧のとおり、“築城年”が市政の都合で設定されて来た経緯が、再確認いただけるのではないでしょうか。

すなわち「築城400年」とは、清正の入城400年目ではなく、全面的な築城再開400年目でもなく、もっとあとの城の完成400年目(2007年/平成19年)に合わせたものであり、一見、正当性があるようでいて、復元整備計画が1997年に出来たことから考えますと、もはやこれしか選択肢は無かった――― と言えるのかもしれません。


ただし、ここで見逃せない(もはや言わずにいられない)重要なポイントは、市の主張する築城年と、いま韓国で公然と言われている「俗説」との、妙な因果関係なのです。



<「熊本城は韓国人が築いた」という俗説の蔓延と、それを許した築城年の解釈>



ご存知の城郭ファンはすでに多いこととは思いますが、改めて「俗説」の概略を申しますと、それは、熊本城は加藤清正が朝鮮の蔚山城(うるさんじょう)から連れ去った1000人の朝鮮人技術者が築いた城で、だから熊本城の見事さは朝鮮の技術によるものなのだ、という内容です。

で、これが韓国では学校教育の場にも採り入れられ、それを学んだ生徒達が、修学旅行で熊本に大挙してやって来る、という流れも出来ているそうです。


この「俗説」が間違いであることは、ご承知のように蔚山城の戦いは、新築の城に篭城した日本勢が、押し寄せた明・朝鮮連合軍を最終的には撃退して終わっていることから明らかで、そこから朝鮮の技術者を1000人も連れ帰るなど、シチュエーションとしてありえなかったことです。

おそらくは、膨大な数の捕虜や陶工などを日本国内に連行した件と、有名な蔚山城の激戦とがごっちゃになって出来上がった「俗説」と思われますが、それにしても、最低限、<熊本城は韓国人が築いた>という誤りは正さなければなりません。

ところが、そこで問題になるのが、例の「築城年」の一件なのです。


つまり、城が完成した慶長12年(1607年)をあくまでも「築城年」にしたい熊本市と、蔚山城の戦い(慶長2年末/1597年)という朝鮮出兵の最終局面で連れ去られた朝鮮人技術者が… という「俗説」を言いたい韓国側とが、妙な符合を見せているのです。

どういうことかと言いますと、ここでもしも(前述の天守の完成時期など)朝鮮出兵が終わる前後には、もう熊本城の中核部分は出来上がっていた(!)という話が社会的にオーソライズされてしまったら、熊本市も、韓国側も、両者とも<都合の悪い立場>に陥ってしまうわけなのです。




(※上写真はブログ「日本全国ビッグマックの旅」様より引用)


現職の幸山政史市長は「選ばれる都市へ」というキャッチフレーズをご自身のホームページに掲げておられますが、そうした姿勢の甲斐あってかどうか、韓国からの観光客もかなり増えたと言われます。

そしてそれに呼応するように、「熊本城は韓国人が築いた」説の火の粉は市長にも降りかかったようで、その中身は朝鮮日報の電子版(「魚拓」云々の画面をもう一度クリック)をご覧いただくとして、ネット情報によれば、熊本市は「市長はそんな発言をしていない」と朝鮮日報の報道を打ち消すコメントを出したとも言います。


そうであるならば、幸山市長は韓国の親善団体と会った時、熊本城の築城過程について、どういう説明をしたのか、たいへん気になるのですが、なんと同時期には、幸山市長の朝鮮総連の関連施設に対する温情的な政策をめぐって、訴訟が起き、こちらは最高裁で市長側敗訴の判決が確定したそうです。

これはひょっとすると、先々、熊本城もあらぬ運命を背負わされ、タダゴトで済まないのかもしれない、という危惧を抱くのは私だけでしょうか。

(※幸山市長は圧倒的な票差で3期目の当選を果たしています)


熊本市民の皆さん、どうなのでしょう。儲かるなら、こんなことは構わないのでしょうか?


(※次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年03月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか






全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか


前回、中心部分をお見せした肥前名護屋城の遠景イラストの全貌を、今回は是非ご覧いただきたいと思うのですが、その前に、遊撃丸の「舞台」についてチョットだけ申し添えておきます。

何故なら、そこでは、ある戦慄すべき舞楽が行われようとした可能性がありうるからです。


<まさに左に唐、右に高麗、倒錯の雅楽舞いが…>


儲の御所は檜皮葺なり。御はしの間に御輿よせあり。庭上に舞台、左右の楽屋をたてらる。(大村由己『聚楽行幸記』より)




前回、遊撃丸の殿舎としては、聚楽第行幸と同様の、儲の御所(もうけのごしょ)が建てられたのではないか、と申し上げたわけですが、上記の文中の「庭上に舞台、左右の楽屋」というのは、近世の大城郭に付き物の「能舞台」ではなくて、明らかに「雅楽」のための舞台だったと言えそうです。

それは行幸の演出として「雅楽」が必須であったことに加え、「左右の楽屋」という文言が雅楽用であったことを示唆しているからです。


左舞(唐楽)の蘭陵王(らんりょうおう) / 右舞(高麗楽)の納曽利(なそり)

(※左写真はウィキペディア、右写真は「奈良かんさつブログ」様より引用)


正直、私もこの件を調べるまでは知らなかったのですが、雅楽とは、すべての楽曲が左楽(さがく)と右楽(うがく)に分かれていて、左楽は中国伝来(という伝承・想定)の楽曲で「唐楽」(からがく)といい、これは赤い装束で舞うそうです。

一方の右楽は、朝鮮半島伝来(という伝承・想定)の楽曲で「高麗楽」(こまがく)といい、こちらは緑の装束で舞い、楽器の編成もやや違うとのこと。

例えば上の写真で、左の赤い装束はメディア上でもよく見かける蘭陵王(らんりょうおう)で、これに対応する右舞が、右写真の納曽利(なそり)になります。

つまり雅楽というのは、古代からの変遷を経て、中国大陸と朝鮮半島から伝来した楽曲を、両建てで上演する、というスタイルにまとめられた舞楽なんだそうです。


で、そうした雅楽の舞台が遊撃丸にあった場合、その配置は「天子は南面す」という原則にのっとって、儲の御所の南側に舞台が造られたはずです。

―――ですが、この城の特殊なロケーションと、戦略上の目的を思いますと、ひょっとすると、これらの殿舎の配置は、真逆(北)を向いていた可能性はないのか… という妙な想像にとらわれてしまうのです。




(※当図は右が南)

こんなことは「天子は南面す」という原則から言えば、ありえないことですが、仮にこのようにしてみますと、儲の御所にいる天皇の視点からは、舞台の背景の向こう側、つまり玄海灘の海の彼方に <左に中国大陸、右に朝鮮半島> という構図がダブることになります。

したがってこの舞台は、実際上も、左に「唐」、右に「高麗」となり、これから征服しようとする「明」と「朝鮮」をダブらせながら、雅楽を両建てで愉しむ、という倒錯の舞楽会を挙行することも出来たわけで、このように狡猾なアイデアを豊臣秀吉ほどの策略家が気付かぬはずはなかったようにも思うのですが…。






<金色白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか>


さて、肝心の遠景イラストの話に戻りまして、ご覧の前回イラストの下のはるか枠外に、上山里丸の奥(西)で発見された「茶室」が位置する形になります。

茶室そのものの復元に関しては、名護屋城博物館の研究紀要や高瀬哲郎『名護屋城跡』(2008年)にイラストが載ったり、博物館に実物大の茶室が展示されたりと、いくつか参考事例がありました。


ただし、その周りの「庭園」がどうなっていたのかについては、色々と解釈の難しいハードル(発掘結果)が横たわっているようです。

例えば「山里の風景のなかにひっそりと佇む茶室」(前出『名護屋城跡』)と言っても、周辺から「庭石」の類はひとつも発見されなかったようですし、逆に「池」はどうかと言えば、茶室の東側でS字状の妙な形の堀跡が見つかり、しかもその堀は垣根で囲われていたらしい… などという不思議な調査結果が出ています。


その辺を当イラストは大胆に解釈し、茶室の周辺は、山里と言っても典型的な数寄の庭ではなくて、むしろ「菜園」というか、「百姓家の畑や棚田」が再現されていて、それは秀吉個人の“心の風景”“尾張中村の故郷の断片”だったのではないか――― というアイデアで描いてみたのが下のイラストです。




ご覧のとおり、茶室の山側には「麦畑」を描き、茶室の東側(左側)のS字状の堀は「ワサビ田」として描いてみました。

(※ワサビはちょうどこの頃、栽培が始まったようで、徳川家康に栽培ワサビを献上した記録があるそうです)




そして茶室の壁をすべて「青竹」にして、屋根をカヤの苫葺き(とまぶき)の切妻屋根にしたのは、名護屋城博物館の研究紀要に基づいたものです。

執筆者の五島昌也さんは、山里の御座敷開きに列席した神谷宗湛の日記に「柱も其他みな竹なり」とある点に注目したそうです。


(五島昌也「名護屋城跡上山里丸検出茶室空間の遺構状況と復元根拠について」/名護屋城博物館「研究紀要 第4集」1998年所収)

秀吉が大坂から名護屋に至る折々に建築した同様の茶室は、「青カヤ」「青松葉」「杉の青葉」「青柴」で壁を作り、屋根を葺いたとされている。
彼は、積極的に「青」を意識しているのであり、植物の生命力あふれた青々とした材料を使うことに主眼をおいていたと推定される。
このことは、この茶室の利用形態にも影響を与えそうである。つまり、材料がその青さを保っている間の極めて短期間の利用を前提とした建物であったことも考えられる。



私はこの研究紀要の指摘に強いインスピレーションを感じておりまして、これがひいては、肥前名護屋城という「城」の本質までも言い当てているように感じます。

例えば「その青さを保っている間の極めて短期間の利用」というのは、秀吉の意識(もくろみ)として、城にも“賞味期限”があるかのような姿勢が透けて見えていて、そうならば、もしも朝鮮出兵が成功裏に進み、秀吉がまだ存命していたら、まもなく肥前名護屋城は廃城されるか、もしくは石垣山城と同様に、大名の誰かに下げ渡されたのではないでしょうか。


思えば、織田信長が次々と居城を移したり、秀吉がさっさと聚楽第を破却してしまうなど、織豊政権にとっての「城」とは、後の徳川幕藩体制の城に比べて、フットワークの感覚(?)がそうとうに違っていたのかもしれません。

ひょっとすると秀吉あたりは“城は道具に過ぎん”とでも言い放ったかもしれず、ご覧の青竹の茶室と白亜の大城塞とのコントラストは、規模のギャップがありながらどちらも“仮の宿”であったという意味で、いわゆる「見せる城」の本質を露呈しているかのようです。

その好き嫌いの評価はいずれにしましても、このようなことを独断で実行できたのは、日本史上、秀吉ただ一人であったことだけは間違いありません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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