城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2012/04

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2012年04月24日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらにもう一基あった?大坂城天守 〜1596年度年報補筆の不思議〜






さらにもう一基あった?大坂城天守 〜1596年度年報補筆の不思議〜


前回に申し上げた、慶長伏見地震で被災した豊臣秀吉の大坂城天守は、その後、どうなったのでしょうか。
この点については、以前の記事(仮説:大坂城には「五代」におよぶ天守建造の歴史があった)でも申し上げたとおり、有名な西ノ丸の天守が重要なカギを握っているように思われます。




       1.豊臣秀吉による創建天守(天正13年1585年完成)
       2.西ノ丸天守(慶長5年1600年頃完成)
       3.豊臣秀頼による再建天守(慶長8年1603年以降の完成か)
       4.徳川幕府による再建天守(寛永4年1627年完成)
       5.現在の復興天守閣(昭和6年1931年竣工)



通説では大坂城天守は「三代」にわたるものであり、ご覧の当サイトの仮説で申しますと、1〜3が通説では1基の天守としてカウントされていて、すなわち豊臣時代の天守はあくまでも1基であり、慶長伏見地震による被災や倒壊は無かったとされています。

また通説では、関ヶ原合戦の前に、豊臣政権の三奉行が徳川家康の罪状を書き連ねた弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」に登場する“西ノ丸の天守”についても、それを「大坂城天守」の1基としてカウントするようなことはありません。

しかし、これも以前の記事で申し上げたとおり、西ノ丸天守の位置は下図でご覧のように、秀吉が晩年に設けた「惣構(そうがまえ)」の中心点に築かれた、と考えることが出来そうなのです。




つまり西ノ丸天守とは、慶長伏見地震による被災を踏まえて計画された“震災復興天守”だったのではないか―――
そしてそのことを百も承知だったはずの豊臣三奉行(および石田三成)は、弾劾状ではあえて、家康が勝手に西ノ丸に天守を建てたと、事情を知らぬ諸大名にハッタリをかましたのではないか―――
というふうにも思われてならないのです。

現に、文献上では、西ノ丸天守は豊臣三奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)の手配で築かれた、と書いたものがあって、その辺の疑いはかなり濃厚です。

そこで当サイトでは、西ノ丸天守を「大坂城天守」の1基(一代)としてカウントすべきではないか、と申し上げて来たわけです。






<さらにもう1基あった!? 〜1596年度年報補筆の不思議〜>



ところが、前回ご覧いただいたルイス・フロイスの報告書には、取り上げた文章の前の方にちょっと気になる“妙な記述”があって、今回は是非その件を申し上げたいと思います。

早速、問題の箇所をご覧いただきますが、これは、フロイスが慶長伏見地震による都や大坂の被災状況を伝えるうえで、(おそらくは都や大坂の予備知識が無いイエズス会士のために)年報の1596年よりもずっと以前の大坂築城について、改めて書き添えた部分になります。



(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第2巻/1596年度年報補筆「大坂と都での造営のこと」より)

堺から三里(レーグア)隔たり、都に向かう街道に造られた大坂の市(まち)には、民衆がその造営を見て驚嘆に駆られるように、太閤の宮殿と邸に巨大な装置ができた。
(中略)
このように種々の豪壮な諸建築が非常に迅速にしかも入念に完成されるためには、すべての大工、鍛治工、金工、絵師、その他動員される限りの職人たちを、(太閤)は都とその近郊だけでなく、近くのあらゆる領国から召集した。
また(太閤)は大坂の市の第一の塔(天守閣)を改修するように、そしてもっと高く、すなわち七層にまでするように命じた




!!… 最後の二行で「あれ?」とお感じになったのではないでしょうか。

築城を始めたばかりの秀吉が、なんと「大坂の市の第一の塔(天守閣)を改修」して「七層にまでするように命じた」と言うのです。


こんなことを書いた文献は他に無いと思うのですが、ちなみにこれ以降の文面では、大坂城天守は「七層」だと何度も書かれているため、まさにこの築城の時に七層に改められ、秀吉以前はそれよりも低い天守が存在していたかのような書きぶりなのです。

しかも、やや細かいことを申しますと、フロイスはこれ以降の文中で「私が言ったように、七層にまで積まれ」云々というふうに、天守が七層に改められた件をくり返していて、問題の箇所は単なる書き間違いとも思われません。


ただし、この場合、「改修」とは言っても、秀吉の大坂築城が天守台石垣の構築から始まったことは別の文献で明確のようですので、仮にこの報告書のとおりだとしても、厳密には、建物を直に改修したのではなく、それを「七層で建て直した」ということなのかもしれません。

―――で、事の真偽はともかく、秀吉以前の状況はどうだったかを再確認しておきますと、大坂城の前身・石山本願寺が織田信長との戦いの末に開城・退去したあと、すぐに信長の家臣団が入って、退去時に炎上した城内の修築を始めたらしいことが判っています。



(松岡利郎『大坂城の歴史と構造』1988年より)

信長は本願寺を攻めている間に安土に豪壮華麗な天守を築いて「天下布武」をめざしていたが、大坂石山を手中にすると、本丸は丹羽長秀に、千貫矢倉は織田信澄に預けて在番させた(『細川忠興軍功記』)。
また信長は天正八年九月、明智光秀に城の縄張りを命じたという(『大坂濫觴書一件』)。
いずれ大坂を居城とする考えであったらしいが、天正十年(一五八二)六月二日、信長は光秀の謀反により急襲され、京都本能寺で自害してしまう。




丹羽長秀と明智光秀の肖像(ともにウィキペディアより)


さてさて、秀吉以前のこの城には丹羽長秀(にわ ながひで)、明智光秀(あけち みつひで)という、城づくりを語るうえで欠かせない二人の重要人物が登場して来ます。

ご存知、丹羽長秀と言えば、安土城の普請奉行も務めた織田家の重臣で、一方の明智光秀は築城名人としても知られ、この二人のあとで(一時、池田恒興の預かりを経て)同じ「秀」の字つながりの秀吉が、大坂を大城郭に築き直したことになります。


そして松岡先生の指摘のように明智光秀が縄張りを行っていたとしますと、“問題の天守”は、例えば光秀ゆかりの福知山城や亀岡城などの例から類推して、本丸の中央付近にあったと想像できるのかもしれません。

そこで本丸にいた丹羽長秀の名をとって、これを仮に<長秀在番天守>と呼ぶことにしますと、冒頭の「五代」云々の話を踏まえるなら、それらの前にもう一代さかのぼって、合計「六代」になってしまうのです。




もう、いいかげんにしろ!…というお叱(しか)りの声が聞こえるようで、たいへんに恐縮です。

ですが、当時は大坂周辺でも高槻城や有岡城にも天守があったようですし、それらが<天下布武の版図をしめす革命記念碑>であったのなら、信長が長年かかって攻略した石山本願寺の地にも、すぐさま、天主を築け、と命じたとしても、それほど不自然ではなかったように思われるのですが…。



<安土城天主の縮小版? それとも“信長の大坂城天主”のプロトタイプ??>



丹羽長秀の子の天守という伝来の小松城「本丸御櫓」復元アイソメ図

明智光秀ゆかりの福知山城大天守(外観復元)…初重と二重目が同大


ご覧のいずれの天守も初重と二重目が同大で建ち上がり、その上に小さな望楼が載っている、という点では、まさに1596年度年報補筆の「もっと高く、すなわち七層にまで」改修したという話に、ピタリと合致しそうで、どうも胸騒ぎが治まりません。

と申しますのは、ご承知のとおり秀吉の大坂城天守も、天守台上の初重と二重目が同大で建ち上がっていたことは、ほぼ確実のようだからです。


で、妄想ついでにもう一言だけ申し上げるならば、もしも、もしも明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に勝っていたなら、いずれは光秀も、自らが縄張りした大坂城に入城して、この<長秀在番天守>に登って天下に号令していたのではないか―――

などという、二重三重の妄想が頭の中を駆けめぐってしまうのです。……









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城天守は「倒壊」したのか イエズス会士の意味深(いみしん)な報告文






大坂城天守は「倒壊」したのか イエズス会士の意味深(いみしん)な報告文




すでにご承知のとおり、当サイトの出発点になった発想は、ご覧の豊臣大坂城の天守には、豊臣秀吉が創建した十尺間の望楼型天守と、二代目の秀頼(ひでより)が再建した層塔型の唐破風屋根の天守があり、それらは屏風絵に描かれ、それぞれに「天守」の時代的な変遷(変質)を体現していたのではないか――― というものです。

で、この発想の支えになっている史料は、有名な文禄5年(慶長元年)閏7月の「慶長伏見地震」によって、伏見城だけでなく、大坂城の天守も「倒れた」「全部倒壊」云々という被災状況が記された宣教師(イエズス会士)の報告書です。


かつて黒田慶一先生は、そうした一連の報告書をもとに欧州で出版されたJ・クラッセの『日本教会史』(邦題『日本西教史』)に触れつつ、大坂城天守の“改修”の可能性について言及されました。

そして当サイトも、やはり慶長伏見地震で秀吉の大坂城天守は大きく被災し、そのことが秀頼の再建につながったのだろうと想定しています。

この基本的な考え方は微動だにしないものの、ただし例の「豊臣大名の天守マップ」(慶長3年当時)には、クッキリと「豊臣大坂城」を記入しておりまして、この一見矛盾するような表示について、今回は若干のご説明(釈明?)を申し上げたいと思います。






(ジアン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より)

太閤殿下の宮殿は大廈高楼盡く壊れ、彼の千畳座敷竝(ならび)に城櫓二箇所倒れたり。此(この)櫓は七八層にして各譙楼(しょうろう)あり。



これは『日本西教史』の大坂城天守の被災についての短い文章で、これだけの文面ですと、「倒れた」のが天守だと解釈されても仕方がないような書き方です。

と申しますのも、原書の『日本教会史』が出版されたのは1689年、慶長伏見地震からは90年ほど後のことでして、そこでよりオリジナルな報告文をたどりますと、まさに地震の年に、ルイス・フロイスが書き送った「1596年度年報補筆」というものがあります。

これは大坂にいた司祭や、京の都にいた別の司祭(フランチェスコ・ペレス)が地震の2週間後にまとめた報告文をもとに、豊臣政権下の出来事をフロイスが長崎から書き送った報告書(グレゴリオ暦の9月18日都発信、12月28日長崎発信)であり、大坂城天守の被災状況がより詳細に語られています。



(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第2巻/1596年度年報補筆より)

私はその地震によって生じた破壊を一部分は自ら目撃したし、また一部分はそこに居住しているキリシタンたちの口から知った。
(中略)
天守(閣)と呼ばれる七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭(propugnaculum)は倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復できない。
同様のことは城郭の他のほとんどすべての諸建築物に及んだが、太閤はそれらの中にいて、それらの建築物の美麗さと絢爛さと輝かしい装飾を楽しんでいたのであった。

(中略)
最後に、すべての中で一番高く、私が言ったように、七層にまで積まれ、その修復のために最終的な手が加えられ、すべてを金箔でめぐらした居間〔そこから(太閤)は非常に絢爛たる装備と隊伍を組んで凱旋行列する十五万の歩兵と騎馬を、シナ使節たちに見せるために展開させるように決めていた〕を有するあの塔(turris)は、半時してから全部倒壊した



というように、こちらの報告文ですと、被災当時の様子をある程度つかむことができ、大坂城天守は初め「倒壊はしなかった」ものの、「半時してから全部倒壊した」と述べられています。

しかしこれをあえて厳しい目で見た場合、詳細でありながらチョットおかしな所があって、それは中段部分で「誰もそこに住まおうとせず」「取り壊さぬ限り修復できない」「太閤はそれらの中にいて…楽しんでいた」などと、多少“日数のかかる事柄”を述べておきながら、最後の部分で、唐突に「半時してから全部倒壊した」としている点です。


これは何故なのか?と邪推をめぐらせますと、この慶長伏見地震を含む一連の長い文章が、第1から第4の「不思議な兆候」という話(体裁)でくくられていて、その第4の「兆候」が慶長伏見地震になっているのです。

第1の兆候……7月、都に大量の灰が降り、大坂に赤みがかった砂が降った

第2の兆候……その後、都と北陸に大量の白い毛髪が降った

第3の兆候……8月、長い光芒を放つ彗星が約2週間、北西の空に現れた

第4の兆候……9月、大地震が秀吉のいる伏見を最も激しく破壊した

この体裁は『日本西教史』にも若干反映されていて、さながらソドムとゴモラ… 神の裁きで滅びた都市のように、高慢華美な秀吉の伏見城や都の大寺院がついに打ち砕かれた、というトーンで一連の文章がまとめられている感があります。


描かれたソドムとゴモラの物語(ジョン・マーティン作/1854年/部分)


 同 (アルブレヒト・デューラー作/1498年/部分)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah



(上記書/1596年度年報補筆より)

願わくは、我らの主なるデウスがこれらの不思議な兆候によって、人々の心にデウスの御威光に対するより大いなる畏怖と愛とが、またデウスの諸律法のよりいっそう熱心な遵守が励まされるよう、その御恩恵を分かち与え給うように、と希求する次第である。



フロイスはこのように「兆候」の成果が得られるよう願っていて、やはりこの年に再び禁教令を出した秀吉に対して、より明確に、神の裁きが下ったことを伝えたい、という心理が働いたことは間違いないでしょう。

そしてフロイス(もしくは大坂や都の司祭)は、いわゆる修辞法(しゅうじほう/言葉を巧みに用いて効果的に表現すること)に最大限の努力をはらったのではないでしょうか。


描かれたソドムとゴモラの物語(ベンジャミン・ウエスト作/1810年/部分)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah


そしてこの年報補筆には、一方の秀吉が、地震国日本の立場を説いたエピソードも紹介されています。

それは、宣教師を敵視していた仏僧が「地震の災禍はキリシタンのせいだ」と秀吉に訴えたとき、秀吉はその仏僧にこう答えたと、フロイスが年報補筆に書き加えた部分でして、これがなかなか興味深いので、やや長文ですが是非ご一読いただけますでしょうか。



(上記書/1596年度年報補筆より)

太閤は本性が賢明で判断力において鋭敏な人間であり、あらゆる風説によって各種の人々の勧めによって己れを欺瞞に導くことを少しも許さず、たとえ我らに対しての愛情または同情によって決して動かされることはなかったとはいえ、彼は次のように答えた。

「汝らは何を言っているのか、判っていない。なぜならもしこれらのこと(地震の災禍)が我らの先祖の時代に決して起こったことのない、日本国前代未聞のことならば、汝らが主張していることは全き真実であると予は思うであろう。しかし歴史上の諸々の古記録によれば、当諸国においては大きな恐るべき地震と震動は何度も何度も生じたことが明白であり、その時にはかの連中(宣教師たち)はまだ日本へは来ていなかったし、かの(デウスの)律法については何も考えられていなかったのであるから、汝らはこうした理由で今回の事件(地震)の原因をかれら(キリシタンたち)に帰することができると思うのか」と。




地震国日本の宿命を説いて、豊臣政権のダメージをやわらげたい、という下心を持った秀吉に対して、ちょっと同情を寄せたような報告文ですが、ただしこの文面においても、なおも、フロイスは「修辞法」の類を駆使した節があります。

と申しますのは、例えば新約聖書「ペトロの手紙第2」にもこれと似たようなフレーズがあるからです。



(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ペトロの手紙第2より)

まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」




これは不信心な者の典型的な“言い草”を挙げたエピソードですが、宣教師の間であれば、ご覧の二つのフレーズが似ていることは、即座に思い当たるでしょう。

つまり地震国日本の宿命を語った秀吉と、「あざける者」とが、ともに「何も変わりはしない」と言い張る未教化の輩(やから)として、同一視できるような形で書かれているわけです。


描かれたソドムとゴモラの物語(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作/1857年)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah


今回ご紹介した「1596年度年報補筆」は、地震の直後に書かれた報告文でありながら(否、その時代の利害関係者が直接に関わっていたからか)前述の第1〜第4の兆候といい、秀吉の発言の取り上げられ方といい、巧みな修辞法によって、神の裁きが下ったことが浮き彫りになっています。

そうした傾向を注視するなら、問題の、年報補筆の最後の唐突なくだり(「全部倒壊した」)もまた、フロイスらの修辞法(付け足し)だったのではないか… という疑惑が感じられて来ます。


となれば、秀吉の大坂城天守は、実際には、年報補筆の中段の「倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復できない」という状態が、地震の日から、ひょっとすると秀吉の死まで、約2年間(!)誰も口出しできずに、そのまま放置されていたのではないか―― とも思われて来るのです。

以上のような疑惑から、例の天守マップにあえて「豊臣大坂城」を表示することにした次第です。



で、最後にもう一つだけ付け加えますと、下の中井家蔵『本丸図』は、そうした満身創痍(まんしんそうい)の豊臣大坂城を、二代目・秀頼のために大改修する青写真だったようにも思えるのです。

(ご参考→2010年度リポート)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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