城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2012/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2012年11月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!世界で初めて「台」に載った城砦建築か 安土城天主






世界で初めて「台」に載った城砦建築か 安土城天主


張芸謀(チャン・イーモウ)の過剰演出? 映画『王妃の紋章』の王宮の台

※主人公の王族一家が中央の丸い台上で会食するのが一見、奇異に見えたものの…


当サイトはスタート時から、天守を建てることを漢字二文字で言う場合は、「造営」などという言葉は絶対に使わずに、極力、「建造」という言葉を使うように努めて参りました。

それは本来、天守にとって「天守台」がかなり重要な部分を占めていて、その原点は「台」と木造の建物を合わせて構想されたのであり、天守は強いて言えば、建物と言うよりも、ピラミッドやジッグラトと同類の「建造物」に近いのではないか、という印象が強かったからです。


で、前々回の記事あたりから、安土城天主の最上階が「三皇五帝」など古代中国の事物との関わりが深いことをお伝えしましたが、一番下の天主台もまた、古代中国との関連性がたいへんに深そうなのです。

そしてそれは「立体的御殿」の成立にも、「権威」と「防備」という、二重の意味で貢献していたのかもしれない… というお話を、今回は申し上げてみたいと思います。




(蕭紅顔「台の解釈」/玉井哲雄編『日中比較建築文化史の構築』2008年より)

(『穆天子伝』巻5に)「天子は台に居り、以って天下に之を聴く」とある。天子が台を作ってそこに居て、天下の政治を執ったということである。
(中略)
台を築くことは戦国時代になって隆盛を迎え、その後衰退したことによって、漢代以後では伝承はあるものの、二度と重要な位置をしめることはなく、曹魏の鄴都の三台はすでに追いやられて城郭の隅に位置したことは言うまでもないことであろう。
(中略)
宮が台という字で名づけられたことは偶然では全くなく、宮殿の基壇として築台という方法を採用したことと一緒に脈々と続いてきたことなのであり、台という名称はその造営方法と密接にして不可分なものなのである。



私なんぞは「台」と言えば、思わず曹操の「銅雀台」や、呂布が董卓を討った未央宮の台榭建築などを連想してしまうわけですが、この南京大学建築研究所の蕭先生の論考によりますと、有名な曹操の三台…銅雀台・金虎台・氷井台が、実際には鄴(ぎょう)の北西の城壁付近に「追いやられて」設けられた経緯が、ぼんやりと分かって来ます。

蕭先生の指摘によれば、「台」とは最も古い時代にはまさに台だけであって、そこが帝王の居所であり、そこに飾りや建物・楼閣が載ったのは後の時代のことで、歴史的には「台」が最も重要だった、という意外な内実を教えてくれます。


そういう意味では、冒頭の映画の異様な「台」は、いやはや、古代中国の王宮における、帝王の居所としての本来の姿を踏まえた独創的演出…(?)と申し上げるべきだったのかもしれません。



安土城天主台跡/南東側の「いしくら」入口


さて、そうなりますと、我が国の天守の「天守台」はいつ頃、どこで、何のために出現したのでしょうか?

このような疑問も、天守じたいの発祥が定説化されない現状では、かなり漠然と、城の総石垣づくりの普及がもたらした一現象、という風にしか語られにくく(厳密には土塁のみの織豊期の天守台遺構もあるようですが)、ましてや宮殿や本堂の「基壇」と天守台とを結びつけるような議論は殆ど無いようです。


ですが、ここであえて、あえて設問させていただくと…

<我らの安土城天主は、実は、アジアで初めて、ひょっとすると世界で初めて、専用の立派な「台」に載った城砦建築だったのではないか??>

という、ちょっと意外な定義が成り立つのかどうか、ずっと気になって来たのです。



ちなみにここで「専用の立派な」と申し上げたのは、例えば城壁の一部とか、城門との共用とかを除いて、まさに宮殿の基壇に由来するような専用の「台」を築いたもの、という意味になります。

また「城砦建築」としたのは、もし城郭建築の「郭」という文字を使いますと、中国の漢字文化の中では城壁都市も含まれてしまうそうで、前述の銅雀台などと区別がつかなくなるからです。


つまり、城や砦の軍事施設として建設されながらも、宮殿の基壇に由来する「台」に載った世界初の建造物は、もしかすると安土城天主であり、そんな例は中国大陸にもどこにも例がなかったのではないかと…


そしてこのことは、我が国固有の建造物「天守」の定義にも関わる問題であり、しかも天下布武を掲げた織田信長ならではの“創意”であった可能性も秘めているように思われ、ずっと、ずっと気になって来た事柄なのです。


小牧山城/山頂部西側の石垣

※※なおこの件については、信長時代の岐阜城の山頂天主(フロイス日本史「主城」)や、同じく山頂に大ぶりな石垣(よもや天主台?)がのこる小牧山城、はたまた柴田勝家の北ノ庄城なども可能性がありそうですが、いずれも天主台の様子がよく分からないため、今回の話題からは除外しております。



<安土城の天主「台」は、権威と防備の一挙両得をねらっていた…>



先程の「世界初か」という疑問は、正直申しまして、私なんぞが正確な答えを出せる状態ではありませんので、ここは無責任な言いっぱなしのまま話題を次に進めさせていただきますと、この件に関連して、天主「台」を導入した信長の工夫が垣間見えるようです。


『天守指図』新解釈による天主台の形状(赤ライン)※以前の記事より


ご覧の図は滋賀県の調査資料をもとに、天主台跡を東西方向に切って見た状態でして、断面は天主台上の“一箇所だけ礎石の無い”中心地点を通るラインで切ったものです。

そしてこの図を、前回記事でご覧に入れた『天守指図』の各重色分け図に差し替えてみます。


天主の木造部分を色分け図に差し替えたもの



そして当サイト仮説の七重分の各階高を、分かりやすく7色の縦ライン(計16間半)で表示してみますと…



(※7色の縦ラインは七重目屋根の棟の中心点から垂直に下ろしたもの)
(※その位置は『天守指図』の北側「本柱」から東に半間、北に半間ずれている)


これらの図を勘案して合体させますと、当サイト仮説の復元案を、北側から眺めた立面の模式図にすることが出来ます。




で、この図をもっと広い範囲で眺めますと、天主「台」が思いのほか、防備にも役立っていた節が見えて来るのです。


天主「台」による二重目カサ上げの効果


ご覧のとおり、敵方の鉄砲隊は、伝二ノ丸の敷地内をどんなに移動しても、天主二重目(天主台上の初層)に銃弾を撃ち込むことは出来なかったことになります。

したがって天主「台」の導入は、建物の基壇としての権威づけとともに、天主二重目を(当ブログ仮説のような)開放的な御殿とするためにも不可欠な措置だった、と言うことが出来そうです。


以上の結論としまして、天主台とは、一見、地味な存在でありながら、実は権威と防備、二重の意味で「立体的御殿」の具体化に貢献した、信長会心のアイデアであったように思われてならないのですが…。




(※追記 / ちょっとマニアックな視点から申し添えますと、この場合、天主木造部は天主台の石垣に“荷重をかけていない”点にもご留意いただきたく、今回申し上げた「台」は、あくまでも宮殿等の基壇に由来するものです。 ご参考→石垣への荷重に関する過去の記事 …話題になった鎌刃城の大櫓に穴倉があっても、それは「台」ではないはず、という意味です)



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年11月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か






障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か


(岡山大学蔵『信長記』より)
五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也


(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)
五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。


このところ <安土城天主内部の薄暗さと障壁画との矛盾> をテーマに申し上げてまいりましたが、その観点では、ちょっと素通りしがちな「五重目」が、実はかなり重要な意味を持っていたのではないか… という気がしております。

と申しますのは、冒頭の引用のとおり、この階は“障壁画が無い”と『信長公記』類にアッサリと書かれていて、それは天主の構造面から見れば、おそらく屋根裏階になるのだから当然でしょう、という解釈が目白押しでした。


ですが『天守指図』とその新解釈に基づく場合は、ちょっと別の理由から、五重目に絵が無いのは当たり前でして、その最大かつ当然の理由は“ほぼ真っ暗闇だったから”です。

したがって当時、必ずしも“屋根裏階だから粗略でいい”という判断が下されたとは言い切れないのではないでしょうか。


ここも極端に薄暗い松江城天守の四階(望楼部分の直下の階!)


思えば、大型の現存天守のうち、松江城天守などでは中層階に極端に薄暗い階がありまして、そこから階段を登ると一気に見晴らしのよい最上階に出られる、というスタイルが共通しています。

従来、このことには特段の注目も無かったわけですが、これもまた、安土城天主に由来する一種の作法!…だったのではないか、という気がしてなりません。


何故かと申しますと、後々の層塔型天守(すなわち徳川幕府の治世下)では、中層階の暗闇というものが、構造的に巧妙に“打ち消されていた”ようにも感じるからです。

(※復元された層塔型の大洲城天守などがその最たるもので、下から上まで明るさに殆ど変化が無く、姫路城天守もそんな感じがあって、それは移行期の天守ならではの要素かもしれません)

(※追記/ただし姫路城天守はこの度の大修理で、創建時の最上階は四周にフルに窓があった可能性が判明しましたので、初代藩主の池田輝政はまだ織豊期の天守がイメージに残っていたのかもしれません!)


で、こうした層塔型の構造的な条件(しばり)を逃れるためには、例えば幕末再建の松山城天守のように、最上階にあえて復古調の高欄廻縁を設けなければ、あれほどの明暗のコントラストは再現できなかったと思われるからです。


以上の事柄を踏まえますと、望楼部分とその直下の暗闇という配置は、取りも直さず、(前回も申し上げた)天主最上階の政治的かつ建築的な意味合いの強調、という問題に深く関わっていたのではないでしょうか。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』五重目より/ご覧のとおり自然光は殆ど入らない!


先程“ほぼ真っ暗闇”と申し上げたのも、ご覧の図で納得いただけるように思われますが、この五重目の中心部について言えば、図の上下(南北)端にある一段高い茶室の華頭窓から差し込む光の他に、自然光は無かったことになります。

しかもここは(特に初めて入った者には)かなりの迷路でもあった、と言えそうです。

図の左上(南東)の階段は四重目から、中央の階段は例の「高サ十二間余の蔵」を上がってくる最後の階段であり、例えばこれらが交わるルートを、こんな暗闇の中で見つけるのはチョット難しかったのではないでしょうか。

(※そこはひょっとすると、六重目への階段の下で、隠し戸か何かが間をはばんでいたのかもしれません)


したがって『天守指図』に基づく限り、これらの状態は、信長が意図的に造ったもの! と言わざるを得ないでしょう。

そして、このような場所に障壁画を並べるはずもなく、ならば、天主七重の途中にこういう階をあえてはさんだ信長の意図は何だったのでしょうか?


冒頭の木戸雅寿先生の「無」という考え方はたいへんに興味深く、私なんぞはもう一歩踏み込んで、この階は「闇夜」「混乱」「乱世」を表現していたのではなかろうか… などと空想してしまうわけなのです。



ぐるりと階段を登って、まばゆい外光が差し込む六重目へ


当サイトの『天守指図』新解釈では、ご覧のような階段を登った先に、面積4坪の回廊のごとき「六重目」があり、そこからさらに七重目に上がれる構造になっていた、と想定しております。

この六重目のすぐ外側には幅広の縁がめぐっていたはずで、間の板戸などを開けば、一気に外光が差し込む、という強烈なコントラストが生まれ、これがひょっとすると、他の織豊期の天守の“ある種の原型”になったのではないでしょうか。


ちなみに、上図の南北(上下)の張出し部分の戸を開けば、そこから階下の五重目にも光がもれて、吹き抜けの格天井や階段部分を多少、明るくした可能性もあったのではないかと想像しております。


いずれにしましても、天主七重の中層階に真っ暗闇の「無」の空間を設けたことは、<この暗闇を突き抜けた先に光が見えるはず> という覚悟や決意を造型化したかのようでもあり、ここに信長の心意気のようなものを感じてしまうのは、私の買いかぶりの考え過ぎでしょうか??








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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