城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2013

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2013年12月22日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!コンクリート天守を追認してきた文化財保護法に対する“そもそも論”を少々





コンクリート天守を追認してきた文化財保護法に対する“そもそも論”を少々


初めに、今回の話題はあくまでも「コンクリート天守の寿命とその後をどうするのか」という件に関してだけ申し上げたいのであって、決して、文化財保護法そのものについて、何か口をはさむほどの能力や資格は、私なんぞには微塵(みじん)もありません。

ただ、この先、よもや文化財保護法が、凍結保存(現状維持を貫く規制)という建て前から、結局、コンクリート天守を“守る側”につくのではあるまいか? という重大な危機感を、日本人の一人として、ひたひたと感じているがゆえの心配事と申し上げておきましょう。




<必要なら何でもあり、を許した岐路が「コンクリート化」だった>




コンクリート天守のある、国指定史跡(特別史跡を含む)を挙げてみると…


いやはや、これだけのビッグネームが日本列島に並んでしまうことに、改めて愕然(がくぜん)としますが、ご覧の城跡の中には、国の史跡としての指定が、コンクリート天守を建設しようという地元の気運を高めたケースもあったようです。

つまり史跡の指定が先だったか、コンクリート天守の建設が先だったかは両方のケースがあり、そのどちらにしても「国指定の史跡である」ことと「コンクリート天守がある」ことの間には、大した問題点は指摘されなかったわけです。


そもそも「史跡」の指定というのは、私の地元の八王子城がかつて虫食いのような開発行為で荒らされた一件のごとく、一般的には、貴重な遺跡を開発行為から守るためになされるそうで、史跡の意味を分かりやすく示す役目もあるものの、文部科学省が公表した「史跡」の指定基準には、ちゃんと次の一文があるそうです。


「我が国の歴史の正しい理解のために欠くことができず、かつ、その遺跡の規模、遺構、出土遺物等において、学術上価値あるもの」

(特別史跡名勝天然記念物 及び史跡名勝天然記念物指定基準 より)


御存じ! 特別史跡・名古屋城の天守の、吹き抜けらせん階段、最上階の土産物店、来館者用エレベーター


同じく特別史跡・大阪城の、「近代建築」として延命改修された天守閣

→コンクリート天守は歴史遺産の一部として着々と固定化しつつある



一方、2004年に木造再建された大洲城天守の内部

いかに需要や要望があっても、この中にエレベーターや土産物店まで置こうという話にはならない



史跡の「正しい理解」とは何なのか、天守(天守閣)に関して、暗澹(あんたん)たる気分になることが多いのは、私だけでしょうか。

申し上げたいのは、ここはもうコンクリート天守なんだから、エレベーターが必要なだけあっていいし、最上階に土産物店でも何でもあっていいじゃないか、という風にハードルがどんどん下がり、開き直りに近い状態まで「正しい理解」がすり替わって来た側面があるのではないか、という点です。

もしも本物の天守の中に、土産物店をつくれば、それは間違いなく「開発行為」でしょう。


そして今後、上記の地図上のコンクリート天守が続々と寿命を迎えても、大阪城の「近代建築」という妙案に習えば、現状そのままの姿で、延命化の新しい技術でどんどん“凍結保存”が出来てしまうのかもしれません。

これはもう、言わば、終わりのない悪夢です。

それもこれも、必要なら何でもあり、を許した重大な岐路(=あやまち)が「コンクリート化」だったのではないでしょうか。




<そもそも「天守」に対する国民的な無理解が、同じ伝統建築の中でも

 大きな「あつかいの差」を生んで来たのでは…>





ここで少し観点を変えて、例えば名古屋城天守の木造化に反対される意見の中に、「戦災に合った市民感情として二度と燃えないコンクリート天守を望んだのだ」というものがあります。

これについても、私に言わせていただけるなら、被災した市民感情という発端は理解できますし、焼け落ちる天守の姿も痛ましかったことと察しますが、それでも「コンクリート天守」という結論に至るまでには、無意識のうちに、余計なフィルターが何枚もはさまっていたのではないでしょうか??


端的に申せば、もしも戦災で焼けたのが法隆寺や東大寺、金閣や銀閣であっても、それらを「二度と燃えないように」鉄筋コンクリート製で外観だけ復元しよう、内部は大阪城天守閣みたいに資料館にしよう、などという結論になったでしょうか。

そうはならなかったはず、という確信に近い想像ができる一方で、天守については同じ条件での議論は不可能だったと感じます。

「天守閣なんて、お大名の見栄っ張りだったんでしょ」

「昔のものでも軍事的な建物や支配の象徴に血税を使って欲しくない」

「どうせ観光目的の客寄せなんだから」

「敗戦国は経済優先でいいんだよ」 等々 等々


この問題の底辺には、天守というものに対する、世間の圧倒的な無理解や打算(経済的・政治的な思惑)が根強く介在していて、その結果、耐火性が真に追求される住宅・オフィス・娯楽施設とは異なるはずの「天守」が、伝統建築の中でも、極めて大きな「あつかいの差」を受けて来たと感じられてならないのです。



さて、文句ばかり申し上げてもしょうがないので、希望的な談話として一つ、ご覧になった方も多いとは思いますが、『文化庁月報 平成24年7月号(No.526)』の一文を振り返ってみます。



史跡の現地保存,凍結保存,及び復元について
文化財部記念物課長 矢野和彦
「3. 史跡の復元について」より部分引用


復元建造物は,遺構を損壊したり,史跡自体のオーセンティシー(真正性)を害することが明らかではない限り,ただでさえ表現力の弱い史跡を分かりやすくして,国民,市民の理解を得て,保存やマネージメントをもっとやりやすくしようという,文化財保護の一つの積極的な試みに他なりません。

もちろん,元々天守閣がなかったのに天守閣を創建する,というようなことは論外ですが,地下遺構が残され,瓦,礎石,柱の一部などが残存するなどの発掘調査結果やこれまでの学術成果の結果を踏まえたり,近世以降の城郭であれば,絵図面,写真,工事記録等に基づいて,史跡を復元するのは,もちろん「慎重に」という形容詞付きですが,「あり」だと考えています。




ならば「コンクリート化」という禁断の領域に手をそめてしまった城は、現状をどうして行けばいいのでしょう。


よもや天下の文化財保護法が、今後の「コンクリート天守の木造化」をはばむ役回りに、結果的になってしまう、などという事態は、本末転倒以外の何ものでもありません。


ですから、仮に百歩譲って申し上げるなら、国指定史跡のコンクリート天守が「昭和遺産」等々の名目で保全改修がきく間は見逃したとしても、その後は、それこそ文化財保護法の名にかけて、最低限、「コンクリート等による再々建は断じて許さない」!! という強力な枠組みが不可欠なのでしょう。


 
せめて今世紀の前半までには、こんな状態は根絶すべきと思うのですが…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年12月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!推定イラスト/将軍上洛時の小田原城天守の廻縁は、安土城・駿府城とならぶ壮観さか





将軍上洛時の小田原城天守の廻縁は、安土城・駿府城とならぶ壮観さか


11月30日「天守の森」命名記念の伐採イベントより


先日、小田原城天守の木造化をめざすNPO「みんなでお城をつくる会」が行った伐採イベントや、翌日のシンポジウムで、またまたハッとする気付きがありまして、思わず新規のイラスト制作となりました。

と申しますのも、第一に、NPOでは、旧小田原藩の所有林(現在は辻村農園の所有)を「天守の森」と名づけて、今後の木材供給のベースとしていく構想を打ち出しました。

この注目の「天守の森」構想は、木材の地産地消をかかげた小田原モデルらしいやり方ですし、昨今、各地で天守木造化の声があがる中で、木材の争奪戦による価格高騰や資源の枯渇というような、いらざる騒動を防ぐためにも、是非とも全国的に広がるムーブメントに化けて欲しいものです。




<明治維新で解体された「宝永天守」もいいが、どうせなら

 近世城郭として最盛期の「三代将軍・家光の上洛時の天守」を木造化できないのか、

 という市民・NPO関係者のストレートな願望にも一理ある…>





さて、翌日のシンポジウムでは、東海道の五つの城(江戸・小田原・掛川・駿府・名古屋)の木造再建を担う方々がパネリストになりました。

この場で、私なんぞには思いもよらぬ発言が聞かれ、逆に、それまでの自分のうかつさを思い知ったのです。


《ある発言》

… いまの鉄筋コンクリート造の小田原城天守は、江戸中期に再建された通称「宝永天守」をベースに外観を設計したため、それ以前のものに比べて、頭でっかちな設計になっていて、かつてはもっと頭が小さく、朱塗りの欄干が美しい、徳川三代将軍・家光が登ったという天守も、小田原城にはあったのです。…



!! 私はてっきり、小田原で木造再建するのは、明治維新まで存続した「頭でっかちな」宝永天守だとばかり勝手に思い込んでいて、疑いもしませんでした。

発言はとりたてて宝永天守を否定する意図はなさそうでしたが、それでも大変に意外だったのは、礎石など、当時の遺構が一切ない小田原城天守にとって、復元の(ある程度)確実なよりどころになるのは、有名な解体途中の古写真(=宝永天守)だけと言っても過言ではないからです。

そのため文化庁の許可を得る観点からも、また古くから藤岡通夫先生の研究などが既にある宝永天守しか、再建の可能性は無いはず、と頭から決めてかかっていたわけです。


ですが、「出来るなら最盛期の小田原城を…」と言われてみれば、確かに、もしも遠い将来の話として、将軍家光が宿泊した本丸御殿の復元も、という話を視野に入れるなら、宝永天守で木造化してしまうと、本丸御殿は時代が合わずに後の祭り、ということにもなりかねません。





この点では、我が事として「木造化」を考えている市民やNPO関係者の方々と、私なんぞとの間には、ある種の真剣さにおいて差があったのではないかと、シンポジウム会場の一角で密かに反省した次第なのです。




<そこで試しに、将軍家光の上洛時の天守を推定イラストにしてみる>




(『小田原資料覚書』貞享3年1686年より)

御天主、上段四間に六間、二段三段八間十間、穴倉、四段目拾間拾弐間


ということで、家光が登った天守を、試しにイラストにしてみようと思い立ったわけですが、推定のもとになる史料はほんのわずかです。

それでも、上記の短い文章にもちゃんと注目点はあり、例えば「穴倉」が「四段目(=初重)」とまったく同じ10間×12間と読み取れるのは、すなわち半地下式の穴倉構造(上半分が初重と同規模)だった可能性を示しているのでしょうし、とりわけこの点は、かつて豊臣秀吉の石垣山城天守がほんの目と鼻の先にあったことを思えば、大注目と言わざるをえません。

(※→小田原城と秀吉の城の「天守台の酷似」についてはこちらの記事を)


また、最上階「上段」だけが急に小さくなっている物理的な関係から、最上階の直下には、かなり大ぶりな二層目の屋根がかかり、その内部に“屋根裏階”を考えざるをえないのではないでしょうか。

この形は、やはり当サイトが注目してきた、層塔型天守への過渡期にも見られた <最上階の直下の屋根裏階> の一例(他に姫路城など)であろうと思われ、以上のような形態的な特徴は、この天守が豊臣期の手法を部分的にひきずっていた可能性を物語っています。


内閣文庫蔵の相模国小田原城絵図(正保図)の本丸周辺

家光が箱根の山々や相模湾を眺めたという天守が描かれている



さらに、この天守の外観を知る手がかりは、ご覧の城絵図のほかに殆ど無く、地元で長年、小田原城の研究をされた田代道彌先生は、絵の描写について「最上層と第二層に勾欄をめぐらせた美しい姿で、屋根には破風をのせず、全体に桃山風の典雅さに満ちている」(『歴史群像 名城シリーズ8』)と評しておられます。

となると、問題は、文献に伝わる各階の規模と、上下二つの高欄廻縁はどういう風に配置されたのか、という点が検討課題になるわけで、とりわけ上記の城絵図の天守は、下の方の高欄廻縁が“やや厚みがある”かのように描かれているところが、推定のポイントかもしれません。


二つの考え方


ふつうに考えますと、左の図のように、文献の「二段」が前述の“屋根裏階”を兼ねていて、そのまま素直に「三段」「四段目」「穴倉」と重なる形が思い当たります。


その一方で、上下二つの高欄廻縁、というゴージャスな意匠(家光の江戸城天守にも無い!)はいったい何を思って造型したのか、と考えますと、これはもう、織田信長の安土城天主や、神君・徳川家康の駿府城天守を想起させるものでしょう。

安土城天主にも、上下二つの高欄廻縁があったとする復元

宮上茂隆案             西ヶ谷恭弘案


当サイト案

そもそも近世城郭としての小田原城は、寛永11年、将軍家光の上洛に合わせるため急ピッチで整備されたわけで、その年の正月まで城主として工事を督励しつつ急死した稲葉正勝(春日の局の子)が、家光のために、あえて天守に格別の意匠を施したものと考えても、さほど不自然ではありません。

(※また小田原城は「公儀の城」でもあったと言われ、格別の意匠は、すでに完成した天守への「後補」であった可能性も含まれるでしょう)

そこで気になるのが、城絵図に描かれた“やや厚みがある”下の方の高欄廻縁でありまして、そういう形状(…安土城天主を模した?)を実現するため、イラストは図の「右のプラン」で作ってみました。






現在の復興天守 / 天守の西側の八幡山古郭東曲輪から眺めた状態 / 本丸は天守の向こう側になる


同じ位置から眺めた、家光上洛時の天守の推定イラスト


さてさて、実際の家光上洛時は、本丸の周囲にこんなに木々が生い茂っていたとも思えず、その辺りは何とぞご容赦のほどを…。

ですがまぁ、ご覧のとおり、復興天守(≒宝永天守)と寛永の天守は、これほど印象が違うのか!! ということには我ながら驚きがあり、細部の推定については色々とご意見はありましょうが、建物のプロポーション自体が違うという点は間違いのないところです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年11月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!【緊急提言】日本の千年の計として、大嘗祭を現存天守台の上で行われんことを提言申し上げます





日本の千年の計として、大嘗祭を現存天守台の上で行われんことを提言申し上げます


偶然か、誰かの作為か、旧本丸に並び立った大嘗(だいじょう)宮と現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)


前回の記事をアップしてから、今上天皇の即位の礼では、どうして写真のような状況が出来(しゅったい)したのだろうか? という疑問がむくむくと頭の中にわき上がりまして、その後、「即位の礼」関連の本を何冊か読むことになりました。


と申しますのも、「天守台」と言えば、当サイトが注目して来たとおり、中国古来の「台」の慣習を踏まえながら、16世紀、我が国が事実上の分裂国家に陥りかけた時、その再統一をねらう織田信長が、易姓革命の考え方(封禅や岐山の故事)にならって創始した「天守」の基壇として採用したものと申せましょう。

一方、「大嘗宮」の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿と言えば、我が国で古代から、新天皇が即位の際に行う一世一度の収穫祭(新嘗祭)である「大嘗祭」で、天照大神にささげた神饌(しんせん)を自らも食し、霊力をさずかる場として、その都度、建てられて来たものです。


ですから「天守台」と「大嘗宮」は、唐様か和様か、王朝の交代(下克上)を意図したか否か、という大きな対立軸は抱えているものの、ともに両者は、新帝が天と祖先に五穀豊穣をいのる、最も重要な祭祀の場としての歴史をふまえた存在どうしである、とも言えそうだからです。



皇居(旧江戸城)の旧本丸は、いまなお重層的な歴史の現場であり続けている


ご覧のように旧本丸を見直しますと、この場所は図らずも、我が国の歴史の重層性を語れる貴重なエリアの一つになっているのでは… という思いを強く抱きます。

果たして偶然なのか、誰かの作為があったのか分かりませんが、このせっかくの状況に対して、現代人はこれをただの“歴史の寄り合い所帯”で終わらせてしまうのか、逆に、何かしらの歴史的な解釈を真剣に加えてもよいのではないか、という感慨にとらわれるのです。


北京の天壇(圜丘壇)と、皇居の現存天守台




さて、急きょ読んでみました「即位の礼」関連の本というのは、思ったとおり、右派と左派の学者先生がそれぞれの政治的立場を巧妙に織り交ぜながら解説文を書いておられ、読むのに難渋してしまうのですが、そこからなんとか読み取った範囲で申しますと…


『大嘗宮悠紀主基敷設図』に描かれた江戸中期の悠紀殿と主基殿(元文3年の儀式)


まず「大嘗宮」というのは基本的に、ご覧のとおり、悠紀殿・主基殿とそれらを取り巻く柴垣や鳥居だけ、という形が古代から明治維新までずっと続いたそうで、その設置場所は、古代には大極殿の真ん前に、ご覧の仮設の建物と、その手前に参列者用の幄(あく/とばり)などが並んだそうです。

ちなみに悠紀殿・主基殿には、それぞれ東国と西国の米などが神饌とされたことから、大嘗祭は新天皇による日本全国の統治と、地方の服属を意味した、という指摘もありました。


上記文献には、悠紀殿・主基殿の、屋根や壁を取り去った状態の図解もある



そして大極殿が失われて以降の時代は、上図のように紫宸殿の前となり、この状態が明治天皇の時まで(断続的に)続きました。

ところが1909年の「登極令」以後は、即位の礼と大嘗祭が数日の間しか空けずに行われることになったため、仮設の建物とは言え、造営に日数がかかる関係で、大嘗宮は別の場所に設けざるをえなくなったようなのです。!

そこで大正天皇・昭和天皇の時は大嘗宮だけが仙洞御所などに設けられ、そして今上天皇の時には即位の礼も含めて初めて東京(皇居)で行われることになり、前二代と同様に、皇居正殿の前ではない“別の場所”として、旧本丸に設けられた、という経緯だったようです。


かくして、即位の礼が東京に移った理由も、海外からの参列者(VIP)対応のため、と言われているように、大嘗祭の開催地がめまぐるしく変わったのは、要するに、近・現代の日本の対外関係において、天皇の代替わりの儀式が、もはや御所やその周辺だけでは済まされない、国際的なお披露目の場を兼ねていくための“代償”であった… と言うことが出来るのかもしれません。


ですから平成2年(1990年)に、大嘗宮が現存天守台と並び立ったのは、本当に、意図せざる事柄だったようなのです。


軍服姿の明治天皇(写真:ウィキペディアより)


そもそも明治維新の結果、ご承知のとおり、江戸城は和洋折衷の明治宮殿を中心とした宮城(皇居)に変貌し、明治天皇は陸海軍を統帥し、近代の“武家の棟梁”を兼ねるような形にもなりました。

そうした様子はとりも直さず、朝廷と幕府が社会の両輪として成り立ってきた我が国において、ようやくその両輪が皇居で一元化したのかもしれず、このことをマイナス思考ばかりでとらえずに、いっそ我が国の千年の計として、未来に向けて果敢に踏み出してもいいのではないでしょうか。


そこで、現存天守台の上に、悠紀殿と主基殿を… と申し上げてみたいわけなのです。


ただ、冒頭でもご覧いただいた下図のとおり、大嘗宮は、古代から大極殿や紫宸殿の前(南側)に建てられた理由などから、建物全体が真北を向いていて、その点では、決して真北を向いているわけではない現存天守台との取り合わせは難しいのかもしれません。


※当図は左が真北


ですが、だからと言って、このまま旧本丸を“歴史の寄り合い所帯”のようにしておくのは、現代に生きる日本人として、ちょっと能が無いのではないか、という気もしてならないのです。…



と、ここまで申し上げて来て、最後に一つ付け加えたいのが、大嘗祭は、応仁の乱から江戸初期まで200年以上の中断があった、という一件でしょう。

室町時代、大嘗祭の費用は幕府が負担する形になっていたため、寛正7年1466年の開催を最後に、応仁の乱で幕府財政が窮乏すると中断してしまい、それから江戸初期の1687年まで、221年間、9代にわたる天皇が、即位の儀は行えても大嘗祭(大嘗会/だいじょうえ)は全く行えなかったというのです。

この件に関して、左派の先生方がまとめた本の中で(特に冒頭の“大嘗宮と現存天守台”の写真を思うと)冷や水を浴びせられたように、ハッとする指摘がありました。



(近藤成一「中世における即位儀礼の変容」/『「即位の礼」と大嘗祭 歴史家はこう考える』1990年所収より)

秀吉や家康が大嘗会を必要であると考えれば、これをおこなうことはたやすかったはずです。しかし彼らは即位の儀をおこなうことには熱心でしたが、大嘗会をおこなおうとはしなかった。
秀吉や家康は天皇の権威を確立するために大嘗会が不可欠であるとは考えなかったのです。




この本の(大嘗祭に国民の税金が使われることに批判的な)文脈とは別に、指摘された事実は事実として、ひょっとすると、新天皇が東国や西国の収穫物を天照大神とともに食すという大嘗祭の「秘儀」について、天下人の豊臣秀吉や徳川家康が、それを政治的にきらった、という可能性は無きにしもあらずでしょう。


そしてようやく大嘗祭が復活したのは、時の霊元上皇が徳川幕府に強く働きかけた結果だったそうで、それは上記のとおり1687年(貞享4年/五代将軍綱吉の時代)のことで、ちょうど、明暦の大火で江戸城天守が失われて30年めの年に当たりました。


!… やはり、日本再統一の記念碑とおぼしき「天守」と、「大嘗宮」の間には、何かしらの、見えない力学が働いているのかもしれません。

という風に考えたとき、現存天守台の上で大嘗祭を、という私なんぞの破天荒な妄言に対して、先人達も、最終的には「否」と言わないのではないか? と思えてならないのですが。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年11月10日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!層塔型よもやま話 その1・その2





層塔型よもやま話


このところ申し上げて来た「層塔型天守」に関わる複数の記事で、その行きがかり上、補足しておくべき話題が溜まって来てしまったため、今回はそれらをまとめて「層塔型よもやま話」とさせていただこうかと思います。



<話題その1 丹波亀山城天守もまた「過渡的」層塔型プロポーションであったということ>





ご覧のイラストと写真は、今年正月の記事でお見せした会津若松城の幻の七重天守を推定してみたイラストと、それがやや変則的な形の層塔型であるため、まるで古代エジプトの屈折ピラミッドのようだと申し上げた時の写真です。

両者の似た点は、ご覧のとおりの「見た目の勾配(こうばい)の屈折」でして、その後の最盛期の層塔型天守はこういう明らかな「屈折」は無くなる傾向になり、より一貫した逓減(ていげん)率で整ったプロポーションに変化しました。

そういう点で言えば、「屈折」というのは層塔型天守の過渡的な現象と言えそうですが、実は話題の丹波亀山城天守もまた、イラストの会津若松城に似た(…むしろ屈折ピラミッドの方に近い?)形状だったのです。



城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図

(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写


この件はかつて、我が国の城郭研究のパイオニア・城戸久先生が、論文の中で強調されていた事柄(ご参考→論文PDF/現在は有料)でありまして、近年よく諸書で見られる三浦正幸先生監修の復元立面図も同じ考え方であるものの、その解説文などでは殆ど触れられていない特徴なのです。


城戸先生は、『高山公実録』に採録された馬渕八十兵衛蔵書の中の数値に基づいて、上の略図を書かれ、「その各重の規模が明瞭である。しかして蓬佐文庫所蔵古図の11間とあるは天守石塁下方の寸尺とすれば妥当であり」という風に、初重の規模についても馬渕八十兵衛蔵書の「九間四尺四方」が正しいとされました。

となれば当然、この天守は層塔型でありながらも、ずいぶんと特異なプロポーションになるわけです。


【 推定 】見た目の角度の印象を補助線で強調してみれば…


城戸先生は同論文の中でさらに、「江戸期天守に至る過渡的形態を如実に示すものと言わねばならず、天守平面漸減の方法の発展を知る上に最も重視すべきものである」とまでおっしゃっていて、まさに、これを言わずして丹波亀山城天守は語れないだろうと感じる次第なのです。




<話題その2 猪瀬直樹(いのせ なおき)東京都知事の「まったくナンセンス」発言に触発されて作った合成写真をご覧下さい>



さて先日、猪瀬知事が都庁での記者会見で、話題の江戸城天守の再建問題について記者に問われて、「まったくナンセンス」とばっさり切り捨てたところは、私もたまたまTOKYO MXの放送で見かけました。

知事の考え方は「超高層ビルが林立する現在の東京で、高さではるかに及ばない江戸城天守を再建したら、おごそかな皇居の雰囲気を壊してしまう」というもので、知事はこの会見で明暦の大火の年号までスラスラと答えていて、発言は熟慮の上の結論という印象でした。

かく申す私なんぞも、当ブログで申し上げたとおり、結論は知事とほとんど同じであるものの、「高さではるかに及ばない」という部分はそうでもないだろうと思い立ちまして、こんな合成写真を作ってみました。



江戸城の寛永度天守は、現代の都市でも、そうとうに目立つ大建築だった!!

名古屋城天守・大阪城天守閣と本丸の地表面でそろえて並べると…



真ん中の江戸城天守は、江戸中期の再建計画用とも言われる都立中央図書館蔵の立面図を仮に使って、寛永度の規模のまま、見慣れた左右の天守と縮尺をそろえて合成してみたものです。


まあ、そもそも大阪城天守閣を「小せえ」とおっしゃる方々には何も申し上げられないのですが、この合成写真を作ってみて感じますのは、猪瀬知事の心配とは裏腹に、こんな大建築が皇居のド真ん中に出現すれば、むしろ <徳川が皇居を奪還したのか!?> と人々に感じさせるほどのインパクト(=まるで皇居を占拠したかのような感じ?)が出て来るのかもしれません。


しかもこれが「木造である」という点に日本人自身や外国人が驚嘆する可能性は大でありまして、老婆心ながら再建運動の方々に申し上げたいのは、少なくとも、この建物のアピールポイントは「江戸文化」などとおっしゃらずに、主眼を「木造技術の到達点」に変えるべきではなかったのかと。

と申しますのは、当時も中はガランドウであって、また地震国・日本が歴史的に生み出した大建築のあり方を示すものとしては、格好の事例かもしれないと思うからです。

(※ということでは、結局のところ、天守とはなんぞや、という命題も最後に強く問われるのかもしれません…)


そして完成予想CGについては、見せ方として、やはり大多数の日本人にとって見慣れた大阪城や名古屋城などと比べなければ、大きさがよく伝わらず、そうした点でさすがの猪瀬知事も多少の誤解をされたのではないでしょうか。




……でありますが、この意外に大きな視覚的インパクトを考えた場合は、なおさらのこと再建問題で気がかりになるのが、今上天皇の即位の礼において、もっとも重要な祭儀(神事)が旧本丸で行われたという経緯でしょう。


旧本丸に設けられた大嘗祭(だいじょうさい)の祭宮 / その上が現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)



いわゆる大嘗祭のハイライトは、ご承知のとおり、即位した天皇が深夜、一人で宮にこもり、神々と一体化するための秘儀と言われます。

その大嘗祭が今上天皇から東京(皇居内)で行われ始め、この先の開催地もまた旧本丸になっていく可能性があるわけで、それと再建天守との調和をいったいどう図れるのか、またそういう場所に大集団の見学者(外国人観光客)がズカズカとやって来る事態を許せるのか、という件は、これまた重大きわまりない問題でしょう。

ですから今後、日本の企業や皆様方に再建の寄付をつのる際は、そういう事情の説明が、絶対に欠かせないはずだと思うのです。…








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2013年10月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらに深かった?籐堂高虎の超秘策 …その重大さに徳川家康も思わず気付かぬふりを?





さらに深かった? 籐堂高虎の超秘策


前回は、天下普請の江戸城で「二十間四方」天守台を築いた家康と高虎の深意について、色々と想像をめぐらせてみましたが、実はその時、高虎が仕掛けた企(くわだ)ては、それだけではなかったようです。

この件をお話するためには、その企ての前提となる天守曲輪(天守丸/天守構え)の状態について、『当代記』にもとづく独自の解釈案をご覧いただきましょう。



【 独自解釈 】「殿守台は二十間四方也」の文脈をあえて図示すると…


(『当代記』巻四より)

去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、
此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、
惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、
殿守台は二十間四方也



上の図と『当代記』の記述を合わせてご説明しますと、記述の一、二行目については、これまでの諸先生方の見解では、「去年之石垣」を改築して合計の高さが10間の天守台(「十間殿守」)になった、という解釈でほぼ一致して来ました。

しかし三行目の「惣土井も二間あけられ」がどこの土居の話なのかは諸説があって、それについては例えば西ヶ谷恭弘先生は、高さ10間の天守台と読むか、土居のかさ上げの影響で「二間の土壇上に八間の天守台石垣が築かれたと読むか」は不明であると解説しておられます。(『江戸城』2009年)

つまり「土井(土居)」がどこにあたるかで、最終的な天守台の高さが変わってしまう可能性が残るわけで、そのために当サイトは、ご覧のような独自解釈を申し上げてみたいのです。




このように「土井(土居)」を天守曲輪の内部の敷地と解釈するのは、たいへんに異例な考え方だとは思うものの、これならば、問題の三行目が文中のそこにある意味がはっきりして来ますし、記述全体の“足し算・引き算”をきれいに納めることも出来ます。

すなわち、天守台の本丸側(図の上側)は石垣高が10間に達したものの、天守曲輪の内部を2間かさ上げしたため、内側の石垣高は8間になった… という経緯を『当代記』は伝えていたのだと解釈できるわけです。


ではいったい何故、ここを2間かさ上げする必要があったのか?? と考えますと、築城名人・高虎の「本丸を意図的に狭くして多聞櫓で囲む」という築城テクニックがそこに関わっていたのかもしれません。

現に、他の文献では、江戸城本丸の「狭さ」をめぐる高虎と家康のやりとりが伝わっています。


(『慶長日記』より)

(家康)高虎に本丸狭ければ広げられんと仰ければ、高虎云(いう)、本城は狭きに利多し、広きに小勢籠りたるは利少しと、申し上る…


【 参考図 】高虎が改修した江戸時代の津城 / 本丸の狭さ、内堀の広さが特長的!!


上の『慶長日記』の部分は、一般的には、家康が高虎に対して「江戸城の本丸が狭くないか」と問いかけたところ、高虎が「本城は狭い方が守るに好都合」と答えた話として扱われますが、文中の「本丸」「本城」がそれぞれどこを意味したかは諸説あり、それによって話の結論は様々です。


ですが、そもそも慶長の江戸城「本丸」は、結果的に狭くもなんともなく、すでに広大な敷地を占めていたのは確実のようですから、それが狭いか、狭くないかと、押し問答をしたこと自体が不自然でなりません。

したがって、私なんぞは文句無く「天守曲輪」のことだろうと思うのですが、もしそうだとしますと、この話には、もっと別の、驚愕の真相が隠されているかもしれないと疑っているのです。




<築城名人がくわだてた超秘策…

 そこの本来の目的は天守曲輪(詰ノ丸)などではなく、あろうことか、

 天皇の「江戸行幸」のための行幸御殿が意識されていた!?>







これは2011年度リポートでお見せした図ですが、その説明文も是非もう一度、目を通していただけますでしょうか。


(2011年度リポートより)

遊撃丸伝本丸は、敷地の形やおおよその広さ、天守との位置関係、全体が石塁や石垣で厳重に囲まれていること、しかし石塁上に上がれば良い眺めが得られること、そして第一の門が南から入る形であることなど、あらゆる点が、驚くほど似ているのです。
(中略)
冒頭で申し上げた秀吉の大陸経略構想では、計画の目玉として、後陽成天皇の北京行幸が掲げられています。
一方、安土城の伝本丸も、正親町天皇(もしくは誠仁親王)の安土行幸に備えた「御幸の御間」があったのではないかと論争になった場所です。

この状況が示す可能性を直裁に申し上げるなら、遊撃丸も、元来は「天皇の行幸殿」として築かれた場所だったのではないか……
あの城内でもひときわ堅牢な石塁の囲みは、そのためだったかと思えば、じつに納得のいくものです。




そしてなんと、慶長の江戸城も!!?(ご覧の3図はもちろん同縮尺。方角は方位記号のとおり)


ご覧のように、敷地の形や広さ、天守との位置関係が、またまた良く似ているわけでして、その他の要素も、南から入る表口と搦手口(からめてぐち)というように、それぞれに三つ巴の関係で踏襲し合っているようです。






例えば最後の「主な眺望」では、いずれも天守の反対側から、安土城下や玄界灘や富士山が眺められる形になっていて、これらは一つのスタイルとして、高虎が再び江戸城で採り入れたものと感じられてなりません。

すなわち、ここに、問題の「土居」をわざわざ2間かさ上げした深意が隠されていて、はっきりと申し上げるなら、高虎は「いずれ天皇の江戸行幸あるべし」と密かに考え、それを改修の絵図に盛り込み、家康に提示したのではなかったのかと。

それだけ高虎は、新しい天下の覇城・江戸の築城に、強い思い入れを込めて縄張りを行ったとも考えられ、たとえ実際に江戸行幸が無くとも、“そういう備え”を施してあることが、幕府の「本城」として肝要なのであると考えたのではないでしょうか。




ところが、家康は、『慶長日記』の一般的な解釈のままでは、絵図の深意などにはまったく気付かなかったことになります。

ですが、ひょっとすると、家康はうすうす気付いたものの、事のあまりの重大さのために、わざと気付かぬふりで「本丸(!)が狭くないか」とカマをかけて高虎の顔色を見た… ということであったのかもしれません。

そうだとすれば、家康の「本丸」というカマかけに対して、とっさに持論の戦術云々の話で答えた高虎もまた、そうとうな“タヌキ親父”だったのではないでしょうか。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年10月13日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「人」が登らない天守への画策か 〜徳川家康と藤堂高虎の密議〜





「人」が登らない天守への画策か 〜徳川家康と藤堂高虎の密議〜


徳川家康と藤堂高虎



家康時代の江戸城を推定してみますと、天守台は『当代記』に「殿守台は二十間四方也」とあるうえに、意外にも、ご覧のように20間四方がピタリと伝来の城絵図に当てはまる、という現象があることを前回お知らせしました。


したがって文献の「二十間四方」というのは、天守台の“台上の広さ”を伝えた文言であろうことは、もうさほど異論の出ない状況なのではないでしょうか。

となれば、家康時代はかなり複雑な形状の天守曲輪(天守構え)があったにも関わらず、天守台そのものは、実に整然とした「真四角」の広大な台が築かれたことになります。


築城名人・籐堂高虎の伝記『高山公実録』では、高虎が仕上げて差し出した江戸城本丸改修の絵図を見た家康は、「此所はかく、其所はかやうにと、御手づから度々御朱引御墨引遊ばし」たそうで、そのように二人で決めた絵図に二代将軍秀忠も異論なく、そのまま「隍(ほり)池 石崖 悉(ことごとく)成就しぬ」とあります。

この文中に「石崖」=石垣と書かれている点から、天守曲輪や天守台も当然、家康と高虎の合作であったのでしょう。


ということは、おそらく徳川氏の居城としては初めての、そして高虎の居城では経験のある「真四角な」天守(台)を、二人はあえて選択した可能性があるわけでして、今回はその狙いについてちょっと考えてみたいのです。




丹波亀山城天守(各階の平面が真四角 / 初の層塔型天守とも言われる)

窓の配置はやや不規則で、最上階はおそらく見せかけの欄干であり、内部はかなり暗かった??


(※写真:ウィキペディアより)


籐堂高虎と言いますと、近年は三浦正幸先生が、ご覧の丹波亀山城天守の前身(移築前の天守)と伝わる高虎の今治城天守の方を「初の層塔型天守」と主張されていますが、ただし、この移築については三浦先生ご自身が…


(三浦正幸 監修・編集・執筆『よみがえる天守』2001年より)

高虎は今治城主であったが、慶長十三年に伊賀、伊勢の城主として転封しており、(丹波)亀山城普請を命じられた時は転封の直後であった。
大名の転封の際に居城の天守を持ち去ることは異例であるので、今治城天守を移建したとする点は信じ難い。
しかし、今治城天守新築の用材を準備中に転封となり、その材を新しい持ち城である伊賀上野城天守に利用する予定にしたところ、(丹波)亀山城天守に急に転用したと解すれば合理的であろう。



という風に、この本では、従来の今治城天守の否定論(遺構が見つからない)に目配せした考え方も示しておられて、かなり複雑な経緯も考えられたわけですが、この時の三浦先生の想定を時系列で整理しつつ、そこに江戸城「天守台」の件を加えますと、まるで違った状況も見えて来るのです。



慶長5年  籐堂高虎、関ヶ原の戦功により伊予国で20万石に加増される

慶長6年  高虎、伏見城(再建)や膳所城の天下普請で普請奉行を務める

慶長7年  高虎、今治で居城の築城を開始し、慶長9年に一応の完成をみる

      (※注:三浦先生はこの後の慶長9〜13年に今治城天守が新築
          されたという形に、現在では自説を改めておられます)

慶長11年 (前述の)高虎が縄張りした江戸城本丸改修の天下普請が始まる

慶長12年 「二十間四方」の江戸城天守台が築かれる

慶長13年 高虎、伊勢・伊賀に加増転封され、居城の津城を改修し始める。

      今治城天守の用材は大坂屋敷に保管する

慶長14年 高虎、篠山城や丹波亀山城の天下普請で縄張りを担当し、

      天守用材を家康に献上する

慶長15年 高虎、名古屋城の天下普請で縄張りを担当。丹波亀山城が竣工

慶長16年 高虎、支城の伊賀上野城を改修し、13間×11間の天守台を築く




こういう経緯の中で丹波亀山城天守が完成したとなりますと、ここには高虎の「石高の加増」と「縄張り担当」「普請助役の免除」「重要地・伊勢への転封」そして「天守用材の献上」とが、まことに巧妙にカラミ合っていることに気付かざるをえません。


その上で、問題の天守用材と、江戸城「二十間四方」天守台との、時系列的なカンケイを思い切って邪推してみた場合は、ちょうど、今治城天守が建てられたか 建てられなかったか 分からない時期に、話題の「二十間四方」天守台が築かれているわけなのです。!!


……もちろん私は、ここでいきなり、今治城天守と、江戸城「天守台」との間に直接的なカンケイがあった、などという暴論を申し上げるつもりはありません。

ただし、両者ともに「真四角」を大前提にしていた節があり、そして完成した丹波亀山城天守の窓がやや不規則な配置(=建物の規模縮小?)になった点を考慮しますと、ある種の、疑念が頭に浮かんで来ます。




つまり、問題の天守用材というのは、本当に所伝どおりの、今治城や伊賀上野城などの“高虎の天守”として利用が可能な「用材」だったのでしょうか??


と申しますのは、高虎は、豊臣時代の宇和島城は別として、関ヶ原後の今治城や津城では、ハッキリと天守を建造したことが確認できない一方で、問題の天守用材を家康に献上したあとの伊賀上野城では、堂々と、五重天守(13間×11間)を新規に建て始めたことが判っているからです。


つまり問題の天守用材とは、実は、高虎にとって“家康に対する遠慮のため、処置に困り、手に余ってしまった天守用材”だったのではないか、という観点が必要になっているように感じられてなりません。(→なぜ大坂屋敷に保管?)

言葉を変えますと、問題の用材のことは、すでに家康に知られていて、「二十間四方」天守台とも、まったく無関係とは言えない存在ではなかったのか…と。


宇和島城天守

藤堂高虎の創建時(大竹正芳先生の復元案に基く)と、伊達宗利が再建した現存天守



さて、そういう「真四角」な天守(台)と高虎との関係は、豊臣時代の宇和島城に始まったことが知られています。

その頃から山頂の本丸内にポツンと建つ独立式(創建時は複合式)の天守であり、創建天守はそこにあった岩盤の台上に建てられたようです。


この天守の位置は、高虎の旧主・豊臣秀長の大和郡山城に似ている感じがあるもの、所詮、その位置と標高からして、すでに城の防御機能への貢献は完全に放棄されていた、という点に着目すべきではないでしょうか。

そして創建天守が各階とも真四角を基本にしていた点を合わせて考えますと、高虎はすでに、櫓とは別個の建築物として「天守」を造型していた節があります。




<家康と高虎の 真四角な天守台は「立体的御殿」との決別宣言だったか>





真四角な平面の建築と言えば… 大雁塔(中国) / 興福寺五重塔 / 法住寺捌相殿(韓国)


そして意外なことに、日本の代表的な「楼閣」の一階は真四角ではなかった

金閣は5間半×4間 / 銀閣は4間×3間 / しかし両者とも最上階は真四角



以前の記事で「金閣」を取り上げた際に、宮上茂隆先生の著書から「釣殿(つりどの)である住宅建築の上に、仏堂(二階は和様、三階は唐様)を載せる構成になっている」(『金閣寺・銀閣寺』1992年)という解説文を引用いたしました。


私のごとき古建築の素人があまり勝手なことは申せませんが、こうして見ますと、真四角(正方形)の建物というのは、同じく幾何学的な「六角堂」や「八角円堂」と同じ部類に含まれた、祭祀的な色合いを帯びた、人々の住宅とは別次元の建物を意味していた、ということはなかったのでしょうか。


不勉強を棚に上げてさらに申し上げるなら、そうした事柄の延長線上には、初期の望楼型天守の望楼に「三間四方」がポピュラーだったのは何故なのか、果たして「九間」との関連だけで説明しきれるのか、という問題もあるのかもしれません。

であるなら、天守の一階や、天守台そのものから「真四角」を強いる行為は、日本建築の伝統に照らして、明確な意図やメッセージを含んでいたようにも思えます。





そこで今回、あえて申し上げたいのは、家康と高虎の密議の中では、幕藩体制の中心・江戸の天下普請では、天守はもう <下克上を起こす「人」が登れる建築ではないものにしてしまおう> というような、大変に大きな歴史的判断が下されていたのかもしれない… と想像できてしまうことです。


そのような判断は、言わば、織田信長が創始した天主(「立体的御殿」)との決別宣言であったのかもしれません。

この時、徳川幕府がすでに歩みを始めた慶長12年には、荒々しい天守の時代にいかに幕引きするかが、築城名人としての懸案であったのかもしれず、高虎はそのアイデアを江戸城改修の絵図に描き込み、家康に言上したのではなかったでしょうか。


ところがその後、現実の江戸城では、やはり家康や秀忠の天守への登閣が求められるなどして、工事の過程で計画変更が行われてしまい、(※同時に高虎が計画していた今治城天守も足をすくわれてしまい!!)結果的に、江戸では2012年度リポートのような特注の四重天守が出現したのではあるまいか、と思っているのですが…。


その時の、家康と高虎の密議とは



天守における真四角な平面の選択


最上階から廻縁高欄を無くすこと


織田信長流の「立体的御殿」との決別


「人」が登らない天守への画策・誘導


天守(天主)本来の凶暴なる本質の換骨奪胎


徳川幕藩体制の要諦(ようてい)

<領国統治の中心は「人」であってはならない>

<公儀と忠義が両立した社会体制へ>


???







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年09月29日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論。家康と高虎が決めた「真四角な」初代天守台を踏まえて考える






またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論


現存天守台の“破壊”無くして正確な復元は無理。なにしろ「石」が違うのだから

江戸城天守台


(※明暦大火で天守焼失後に、御影石の切石で修築。表面の焦げは幕末の火災時のもの。修築以来355年存続)



まず、石なんかどうでもいいだろ… などと言う方は、我が国の城郭やサムライの伝統文化を愛する方々には、一人として、いらっしゃらないはず、と信じて今回の記事を始めさせていただきます。


もしも、はなから<正確さは二の次でいい>というなら、出来上がった建物は紛れもない時代錯誤のハリボテであって、たとえ木造で、伝統的工法で築かれても、それはハリボテの変形に過ぎないでしょう。

ところが、それでも構わないからこのチャンスに造ってしまえ!! というごく少数の“確信犯”が、今回の東京オリンピック決定に呼応した、江戸城天守の再建運動の活発化の中にはひそんでいる気配が感じられて、その辺が実に、心穏やかでないのです。…




(『週刊朝日』2013年9月27日号より)

再建費用は、総木造で忠実に復元すると400億〜500億円かかる。12年に約500億円をかけて復元された東京駅と同じ規模だ。費用は協賛企業や個人から寄付金を募る。

巨費を投じることに批判もある。だが、年間151万人が訪れる観光スポットとなった大阪城も、1931年に復元されたもの。年間来場者147万人の名古屋城も戦後に復元されている。江戸城は、これをはるかに上回る効果が期待される。

作家で『江戸城を歩く』などの著書のある黒田涼さんはこう語る。
「経済面だけではなく、精神面での効果もあります。各地のお城は、全国で郷土の誇りになっています。首都・東京の江戸城天守は、日本人の誇りと精神性のシンボルとなりえます」
江戸城で外国人をおもてなし。2020年、それは現実になるかもしれない。




当ブログで申し上げて来たとおり、私は小田原城や名古屋城などのコンクリート天守の「木造化」には大賛成!!の立場ですが、それは戦後の日本人がうっかり犯してしまった間違いをもう見たくない、という思いが基本にあります。

しかも、ただ木造であればいい、という話でもなくて、歴史的に脱落して来た「天守という建築の意味」を、どうにか日本人の意識の上に取り戻すことは出来ないものか、という願望を含んでおります。しかし…



(認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 のHP/小竹直隆理事長の挨拶文より)

首都と言われる世界の大都市には、ロンドンの時計台、バッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神など、悉くその国の歴史と伝統、文化の象徴ともいうべき偉大なモニュメントがあります。

しかし、日本の首都・東京には、何があるのでしょう。スカイツリー? 浅草寺?・・そうですね。それは、数少ない東京の目玉であることは事実ですが、この国の長い歴史が育んだ香り豊かな伝統と文化の、日本を代表とする“シンボル”とは、云えないのではないでしょうか。




かつてJTBの経営陣であったという理事長さんは、日経ビジネスオンラインでは「城マニアでも何でもありません。もともと皇居に残された江戸城の天守台のことは知っていましたが、それほど関心はありませんでした」ともおっしゃっています。

その発言からして、とにかく、国際的に見映えのする巨大モニュメントが東京に欲しい、という動機から出発しておられることは間違いなさそうで、雷門や仲見世通りがダメというのは「凱旋門より小粒…」だからなのか、スカイツリーがダメというのは「エッフェル塔に劣る」と考えておられるからなのか、その価値観の物差しが、さすがにJTB仕込みと感じられてなりません。


ですから、現状の悪い予感としては、「国際的に見映えのする巨大モニュメント」という動機から再建された天守は、その先、またたく間に、大阪万博跡地の太陽の塔(それだけポツンと!)になりかねないことが予想され、そんなことのために、現存天守台がどうにかされてしまうのは、日本の歴史ファンとして、まことに慙愧(ざんき)に耐えないのです。


(※追記/これには、天守台のある旧本丸等が宮内庁の管轄である、という要素が大きく作用するでしょう。

  つまり、もし一旦出来てしまったら、もうほとんど誰も手を出せない存在になる、ということを意味しています。

  また皇居側の窓は開けさせない、という案も「テロリスト対策」で未来永劫、完璧に遂行されるのでしょう…)


(※そして宮内庁の管轄である以上、完成した天守を宮内庁=政府に寄付する形になるのか、それとも協賛企業などの

  100億単位の寄付金が、上記のNPO法人を通じた節税対策として消化されるのか分かりませんが、いずれにしても、

  完成後は入場料の徴収もままならないのではないでしょうか。ご参考:皇居東御苑公開要領




(前出の挨拶文より)

この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ、日本一の壮大で、美しい城であり、且つ、栄華を極めた江戸時代文化のヴィンテージ(最高傑作)一つと言われています。



ここではもう詳しく申しませんが、言わば荒々しい「天守の時代」が終わった時から、「江戸文化」の熟成は始まったはずだと思うわけでして、両者は本来、別次元の物、ということだけは自信を持って申し上げておきたいと思います。

事ここに至っては、再建する会の3200名の会員の皆様には、<江戸城寛永度天守とは何だったのか><何を再建することになるのか> をさらにもう一歩、突き詰めて考えていただきたいと、ただ、ただ願うばかりです。


強烈なヘゲモニー(覇権)の表現としての、NY摩天楼や人民大会堂

〜私なんぞが思う、江戸城寛永度天守にいちばん似たもの〜



さて、話はガラリと変わりまして…




<真四角は「立体的御殿」との決別宣言だったか …徳川家康と藤堂高虎の選択>




前回の記事では「層塔型天守はどこで生まれたか?」という私自身の近年の探求テーマに関連して、真四角な平面形の「御三階」が、その解明の突破口の一つになるのではなかろうか… などという手前勝手な印象を申し上げました。

で、仮にその方向性のまま、御三階からさらに、天守の全般と「真四角」との関わりをもう一度点検してみますと、そこにはちょっと意外な存在として、江戸城の初代(慶長度)の天守台が含まれて来るのです。



2012年度リポートでもご覧いただいた家康時代の江戸城の推定



ご覧の「20間四方」はご推察のとおり、『当代記』の慶長度天守の天守台を築いた時の記録の「殿守台は二十間四方也」を踏まえたものですが、この数値はこれまで殆ど注視されて来ませんでした。


ところが、図のように伝来の城絵図を現在の地図上に重ねてみた場合、20間四方はほぼピタリと当てはまることが分かり、測量図とは異なる城絵図ではあるものの、『当代記』の文言はあながち嘘ではなかったのかもしれません。

となると、徳川家康と、築城名人・藤堂高虎が、顔を突き合わせて図面に手を入れたと伝わる、慶長の江戸城においても、天守台は「真四角」が選択されたのかもしれず、そこには二人の密かな構想が盛り込まれたようにも感じられるのです。


……ということで、今回の記事は前置きがやや長くなってしまったため、やはりこの続きは、次回にじっくりと申し上げたく存じます。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年09月16日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!真四角な「御三階」と「層塔型天守」誕生の因果関係






真四角な「御三階」と「層塔型天守」誕生の因果関係


前回の妄想的仮説を受けて… 「本能寺の変」後の安土城


ご覧のイラストは様々な仮定を含んだものになりますが、ここで申し上げたいのは、現状の安土城は思った以上に「時期差」を多く含んでいる遺跡…それは勿論、織田信長が生きた時期の中でも変遷があり、死後にもかなりの拡充があった場所ではないのか、という疑いです。

その点で私なんぞが密かに注目しているのは、イラストの青白い輪で囲んだ部分でして、現状では「伝江藤邸跡」「江藤(えふじ)の丘」と呼ばれますが、もしも安土城が一貫して「南」を大手としていたならば、ここはその突端の出丸(防御陣地)と言うべき位置になります。

ところが何故か、ご覧のように、肝心の南側部分が「土塁」のまま!! 遺されているようなのです。

(※県の石垣調査はあったものの、発掘は行われていない模様)


決して私はここで土塁の防御力を軽んじるつもりはありませんが、この状況には、前回記事の「三法師邸」の新設を含めた、安土城南側の大きな拡充工事の進め方が絡んでいるように感じられてなりません。

すなわち「三法師邸」を核とする山の凹部が、その中心部から整備されたか何かの影響で、この部分だけが最後に取り残されてしまったのでは… という疑いが頭をよぎるのです。




思えば4年前の当ブログ記事(異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?)において、安土城の南山麓の四つの門跡を、都の内裏の三門に見立てようとする説に違和感を感じて、むしろ「それらは信長廟の門構えではないのか」などと申し上げ、安土城の「時期差」問題に触れて来たことが、ようやくご覧のイラストに集約されたような感もあります。

で、今回の記事は、イラストの真ん中あたりに書き込んだ「御三階(ごさんがい)か」という、これまたとんでもない仮説について、その詳細と、それが示唆する重大なテーマ… 私のかねてからの疑問「層塔型天守はどこで生まれたか」について、少々申し上げたく思うのです。



伝羽柴秀吉邸/発表された建物の推定図に色付けして作成/上が真北


ご覧の図は、伝羽柴秀吉邸の推定図を冒頭イラストと同じ色で塗ってみたものですが、このうちあえて「御三階か」とした建物は、「主殿」の敷地よりも一段下がった所にあり、これを旧滋賀県安土城郭調査研究所は「隅櫓」と推定し、三浦正幸先生は「台所」と推定しておられます。(※三浦先生は主殿の玄関を反対側の南西側と想定)


その位置は「伝豊臣秀吉邸址」(!…)の古い標柱のすぐ奥のスペース


(※発掘調査報告Tに掲載の測量図をもとに作成)


(発掘調査報告Tより)

「不整形の敷地いっぱいに建つ、一辺5間の方形の建物である。」

「礎石は建物1(主殿)同様で、一辺50cm前後の自然石を整地土上に直接据え、基本的に1間=6尺3寸の格子目上に配している。その礎石配列および立地状況等から隅櫓等の防御機能を持つ建物と推定される。」


と報告書にあって、建物の平面形は「真四角」とされています。

また、この建物の位置については、「山腹の主要な曲輪の左端付近」という意味では鳥取城の三階櫓(下写真)などを連想させ、「御殿から一段下がった場所」という意味では徳島城の三階櫓(山之古てんしゅ)などを、そして「御殿近くの石垣上の見晴らしのよい所」という意味では、先の鳥取城のほか、肥前名護屋城の上山里丸の二重櫓なども連想させるでしょう。




<なんと「御三階」の半数が真四角の平面形だった

 本当に天守の「代用」か!? 本来は「別用途」の建物ではなかったのか…>





鳥取城の古写真/二ノ丸の向かって左端に「三階櫓(さんかいやぐら)」

(※7月に行われた鳥取城フォーラム2013 シンポジウム「史跡整備の現状と課題
〜近世城郭を中心に」の告知で、ネット上に盛んに登場した古写真)


ご覧の三階櫓は、史料によれば一階が8間四方、二階が6間四方、三階が4間四方だったそうで、江戸中期に山頂の天守が失われると、その後は焼失や再建を経て「天守の代用」と見なされたそうです。

そして、そして、周囲の曲輪の構成を見ますと、これが私なんぞには、どう見ても冒頭で申し上げた「本能寺の変」後の安土城に酷似しているように見えてなりません。(※左図の鳥取城は上が真北)



!! 「本能寺の変」後の安土城が、ある種のスタンダードを生んでいた可能性はないのか…


鳥取城をご覧の近世城郭の姿に大改修したのは池田長吉(いけだ ながよし/輝政の弟)と言われ、古写真の三階櫓はその江戸中期の再建ではありますが、これも典型的な「御三階」の一つでしょう。


そもそも「御三階」と言いますと、この鳥取城のように、江戸時代に天守の代用とされた三重櫓という認識が支配的である一方で、中には会津若松城のように天守と並存し続けた御三階もあって、やや不審な点があります。

また「御三階」は建物の種類としても、鳥取城のような石垣上の「櫓」と、会津若松城や水戸城のように御殿と同じ敷地に建つ「楼閣」とがあったのに、いずれもが「御三階」のうちに数えられて来たのは、やはりどこか不審です。

そういう大きな振れ幅を含みつつ、どういうわけか、建物自体は真四角の平面形のものが多かった… という点に、私なんぞは思わず“歴史の口裏合わせ”のような臭いを嗅ぎ取ってしまうのです。


【真四角な平面形の御三階】 鳥取城/(会津若松城)/白河小峰城/金沢城/徳島城/盛岡城/(新発田城)/水戸城/岡城

【その他の平面形の御三階】 加納城/高崎城/佐倉城/古河城/丸亀城/米沢城/忍城/弘前城/白石城/松前城



この他には平面形が不明のものなど、若干の事例があっただけですから、まさに半数が真四角だったわけで、何故これほど多くの「真四角」が長期にわたって踏襲されたのでしょうか。

この事の裏側には、ひょっとすると「御三階」本来の“出自”が隠されていたりするのかもしれません。



【謎解きのための着眼点】一部の御三階は「外見」を度外視していたような印象がある

会津若松城と水戸城の御三階(楼閣の部類)


(※左CGは会津若松市による復元計画のイメージ図を引用しました)


さて、ご覧の二つのうち、左の会津若松城のものは、有名な阿弥陀寺に移築された建物を参考にした復元のためか、実にアッサリとした外観になっています。

また右の水戸城も、江戸時代に「以前ハ至極廉相なりしを新らたに造り営み」という記録があるとおり、初めは写真よりもさらに素朴な外観だったことが知られています。

ということは、二つはともに楼閣の部類に入る「御三階」ですが、御殿のより近くにあったにも関わらず、どこか「外見」を度外視していたような印象があるのです。


これはいったい何故なのか?… と想像力を働かせますと、特に会津若松城の方が天守と共存し続けたこと、そして江戸時代にはご承知のとおり、城主といえども天守にめったに登れなかったこと等々を踏まえれば、その裏側の事情を推測できるのではないでしょうか。


すなわち、これらの御三階は、元々は、城主がてっとりばやく城外を見晴らすため、御殿の屋根を上回る「三階の高さ」に上がることのみを唯一の目的とした建物であって、したがってその建物が、家臣や領民から「見られる」可能性は皆無だったのではないか…… 

だからこそ、そういう建物(本来の御三階)は外見を度外視しても、まったく構わなかったのではないか……

といった裏側の事情が思い浮かぶのです。




【超!大胆仮説】

 外見を度外視することから「層塔型」は誕生したのではないのか





ここで是非とも、想像してみていただきたいのですが、山頂の領主の館に望楼を載せたスタイルが「天守の原形」であったとしたら、そういう支配の象徴は、新たな領地の家臣や領民からの視線に耐えるためにも、破風やら何やらの装飾は欠かせなかったことでしょう。




しかし、そうした天守とは別途に、城主一人がてっとりばやく城外を見渡す設備として、御殿のすぐ脇などに「御三階」を新開発していたとすれば、「見られる」可能性のある最上階の屋根や欄干さえそれらしくあれば、あとの一階や二階の構造体は、至極、単純で良かったのではないでしょうか。


しかも、そういう最上階ありきの建物には「真四角」が好都合であったのかもしれません。

何故なら、仮に最上階を天守と同様の「三間四方」とした場合は、そのまま可能な限り単純 かつ最小のスペースで階を重ねれば、おのずと逓減(ていげん)率は少なめで、二階や一階も真四角にならざるをえないからです。


つまり今回の記事で申し上げたいのは <層塔型の誕生の発端だけはそういうことだったのかもしれない> という可能性でして、層塔型の誕生と、御三階やその本来の目的、真四角という平面形は、すべてリンクした事柄だったのではないでしょうか。


で、それはいつ発生したのか? と申しますと、冒頭イラストの安土城「三法師邸」の建物が5間四方であり、主殿のすぐ脇にあって、山麓を見渡すに絶好の位置に建ち、なおかつ、失われた七重天守の「代用」と人々に見られかねない歴史的立場を兼ね備えていたことに、どうにも注目せざるをえないのです。…


かくして、まったく意図せざる過程の中から誕生した「層塔型」が、江戸時代になると逆に、いくつかの政治的な理由から、天守の形態として積極的に好まれるようになった、という可能性については今更申し上げるまでもないでしょう。

そこにはおそらく、徳川家康の好みも反映したでしょうし、また諸大名の側の政治的な都合もあったことでしょう。

そこであえて一つだけ申し上げるなら、大名らは、平面を真四角にして「御三階」と名付けておけば“政治的に角が立たない”という半ば確信犯的な意図のもとに、本来は別用途のはずの「御三階」という名称を、実質的な天守に援用(悪用?)し始めたのではなかったか… という疑いさえ、私なんぞは感じております。



本来の御三階が外見を度外視したものなら、これは「半分正直」ということか…

弘前城の御三階櫓(明治以後に「天守」と呼ばれる)


(※南西側から見たところ/左が本丸内部を向いた壁面、右が二ノ丸側の壁面)





【では最後に、内容が未定だった2013年度リポートのお知らせ】

さて、今回の記事で申し上げた超!大胆仮説をさらに発展させまして、現在、以下のような内容を2013年度リポートの候補として検討中です。

《仮題》 領国統治の城(聚楽第チルドレン)と層塔型天守の完成へ

     〜聚楽第「御三階」を考える〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年09月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「本能寺の変」後の安土城には初の「御三階」が?






「本能寺の変」後の安土城には初の「御三階」が?


劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日(8月31日公開/配給:ギャガ)

「本能寺の変」後も2年以上存続した安土城の仮想イラスト


前々回の記事で「駿府城天守」の話題がやや一段落したところで、この隙間のチャンスに、これまで掲載できなかった話題を是非ともご紹介したく存じます。

上の仮想イラストは、安土城の大手道をめぐる5月の記事でご覧いただいたものですが、これは「本能寺の変」後に、もしも安土山麓に“羅城門級”の巨大な大手門があったらどういう風に見えたか… という仮定の様子を描いたものでした。




<大手道の左右の曲輪は、「本能寺の変」後には
 三法師(さんぼうし)邸になったのかもしれない、という千田嘉博先生の指摘>







さて、ご存じのとおり安土城は「本能寺の変」後も、山頂の主郭部がナゾの炎上をとげたものの、それから2年以上、織田家の本城として使われたことが判っています。

その間には、かの清須会議で織田家の家督を継いだ三法師(さんぼうし/織田秀信)の屋敷が、城内に新設されたということが文献にあるものの、それがいったいどこに当たるのか、滋賀県の発掘調査報告では全く特定されませんでした。

しかしこれは「灯台もと暗し」と申しますか、あまりにも近く、目の前にあり過ぎて見えなかった… ということではないのか、という指摘もあります。


(千田嘉博『信長の城』2013年より)

ところで山腹−山麓武家屋敷は、信長の安土城時代の重臣屋敷とだけ捉えてよいのでしょうか。
わたくしは「伝羽柴秀吉邸」「伝前田利家邸」などは、一五八二年(天正一〇)の安土城落城から同年一二月までに整備した三法師(織田秀信)と織田信雄の御殿の一部となって、信長時代の重臣屋敷とは異なった使い方をしていたと考えています。
(中略)
たとえば「伝羽柴秀吉邸」下段曲輪の豪壮な櫓門は、発掘の結果、下層の建物を埋めたのちに新たに建てた門と判明しています。
突出して立派な門は、三法師・信雄御殿造営にともなって改修新築されたものとすれば、上段と下段曲輪をひとつの武家屋敷と無理につなげて考える必要もないのです。



よく見れば三者三様… 伝羽柴秀吉邸の復元図とその「豪壮な櫓門」(一番下やや左)

(左図:現地の説明板イラストから / 中央:旧滋賀県安土城郭調査研究所のCG /
 右図:三浦正幸復元・株式会社エス制作のCG をそれぞれ引用しました)


千田先生がおっしゃった「豪壮な櫓門」の新設のことや、これまで「伝羽柴秀吉邸」と一括りに言われていた場所が、実は直接に行き来できない二つの別個の曲輪であったこと、さらには、この一帯が「三法師(織田秀信)と織田信雄の御殿の一部」になったのかもしれない、という千田先生の指摘はたいへん興味深く、多くのイマジネーションを生むものです。

(※ですからご覧の「豪壮な櫓門」は、織田信長の存命中は、違う状態であった可能性もあるわけです)

そこで私なんぞが何か申し上げますと、“まーた余計なことを”と舌打ちされそうですが、やはりどうしても気になって仕方のない大手道の“ある構造”と、そこから導かれる「三法師邸」の驚くべき可能性について、今回もまた、あえて申し上げてみたいのです。



なぜか「大手道」両側の門(赤丸)は、左右が対になって、ピタリと向き合っている…

(※オレンジ色=発掘調査で想定された主な建物、ただし一番右上は現ハ見寺の建物をとりあえず描画)


このように左右の門が決まって必ず向き合う、という曲輪の造り方は、他の城郭や山岳寺院でもポピュラーな手法だったのかどうか、たいへん気になって来ました。

そこで例えば、安土城と同じく、直線的な城道の左右に曲輪が並ぶ犬山城はどうだったか?と確認してみますと、下図の曲輪群のうち、「桐の丸」と「樅の丸」は向き合う入口が近かったものの、伝来の城絵図では門の位置ははっきりとズレて描かれていて、安土城ほどにピタリと向き合う手法ではなかったようです。




そして遺構が崩れている小牧山城や近江八幡城では、左右の曲輪の門がピタリと向き合う可能性は、ひょっとすると一、二箇所はあるのかもしれませんが、とても断定はできない状態ですから、安土城大手道の門の位置は、そうとうに意図的であるように感じられてなりません。



【妄想的仮説】もしも、赤丸の位置に前代未聞の「コの字形 渡櫓門」があったならば…




「まさか…」というご感想はもっともでしょうが、ご覧のように左右の櫓門を、幅1〜2間・長さ5間ほどの渡り廊下(もしくは太鼓橋)で空中をつないで、「伝羽柴秀吉邸」と「伝前田利家邸」を自由に行き来できる形になっていたとすれば、この一帯の使い方には、劇的な変化があったのではないでしょうか。

つまり <大手道左右の曲輪は一体化して使われた> という可能性を、ピタリと向き合った門の位置が、物語っているのではないか… と申し上げてみたいのです。

そしてこれは、「豪壮な櫓門」の向かい側の、「伝前田利家邸」の門の遺構が完全に失われていて、復元は不可能、という悪条件にも支えられた仮説であることを白状しますが、この仮説を推し進めた場合、一帯は、全体がひな壇状に下段(表)〜上段(奥)になっていたようにも思えて来ます。


【妄想的仮説その2】大手道左右の曲輪は一体化されて<下段・中段・上段>に??

(※これならば「伝羽柴秀吉邸」が二つに分離されていた積極的な理由にもなるのではないか)

妄想的仮説の「コの字形 渡櫓門」の位置は、現在の拝観料受付処のすぐ目の前になる…

(※この写真はサイト「Yahoo!トラベル」様からの引用です)





<で、最後にもう一言…
 各復元図で隅櫓とか台所とされている建物の位置は、当サイトが申し上げた来た
 「詰ノ丸(奥)の左手前隅角」という、天守の位置に当たるのかもしれない>








(※位置が「左手前隅角」じゃない! とのご批判は承知の上でご覧いただいております)

(※「御三階」以外の建物は旧安土城郭調査研究所の推定などを参照しました。その中でも
特に、中段と上段の間に「懸造り」があった点は要注意ではないでしょうか?)


(次回に続く)




劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日(8月31日公開/配給:ギャガ)


余談)さて、映画の『タイムスクープハンター』ですが、封切り日に映画を観るなど生涯初ではないかと思いつつ、誘惑にあらがえませんでした。

簡単にネタばらしになるような論評は避けまして、観終わった瞬間にヒラメいたのは、問題のナゾの炎上は、山頂の主郭部が“すべて”焼け落ちた点にこそ、本当の、事の真相が隠されているのではないかと、改めて感じた次第です。

と申しますのも、伏見城にしても、大坂城にしても、城内に寝返る者などが出て「落城」という形に陥ると、本丸周辺がまるごと全焼したりしたわけですが、一方では寛永度の二条城天守のように、落雷で焼失しても本丸御殿が延焼しなかったケースもあったわけで、両者のメカニズムの違いがもっと解明されるといいのではないでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年08月18日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!戦国ショットガン!?「石落し」をめぐる空想中の空想






戦国ショットガン!?「石落し」をめぐる空想中の空想


以前から気になっていた事柄として、果たして弓矢は、上に放つとどのくらいの高さまで殺傷能力があるのか? そしてそれは <櫓や天守の高欄の高さと関係があるのか無いのか?> という関心事があって、いつか究明したいと思っていたのですが、今回はその真逆の、下方向の話題(「石落し」)について、前回記事とのつながりでチョットだけ申し上げたく存じます。


前回記事の作図から / 築城図屏風に描かれた「石落し」

実例:金沢城の石落し(出窓の下面に設けられたもの)


ご覧のような「石落し」については、近年、三浦正幸先生が“下向きの鉄砲狭間なのだ”と力説されて、大方のコンセンサスを得つつあります。


(三浦正幸『城のつくり方図典』2005年より)

石落は、本当は鉄砲を下方に向けて撃つ狭間であった。
石落が真上にないところを登ってくる敵兵に対して、石落から斜めに射撃を加える仕掛けで、一つの石落で左右数十mを守備できた。



……しかし、しかし、この三浦先生の解説文の文言のままですと、その重大な帰結点として、櫓などの「石落し」は、種子島(たねがしま)への鉄砲伝来の以前には存在しなかった(!?)ということにもなるわけでして、本当にそれでいいのか… と、ちょっと不安になったりもします。

と申しますのは、皆様ご承知のとおり、我が国の鉄砲の始まりは天文12年(1543年)の種子島だという「定説」じたいが、怪しくなって来ているからに他なりません。




例えば、三眼銃(靖国神社蔵/写真は所荘吉『図解古銃事典』より引用)

三眼銃発射の図(『神器譜』所載/写真は上記書より引用)


ご覧の古銃は、14〜15世紀に中国で製造された種々雑多な「前装滑腔銃」のうちの一種だそうですが、かの鈴木眞哉(すずき まさや)先生の『鉄砲と日本人』の方では、これと同類の古銃が文正元年(1466年)に京都で使われたことが紹介されています。

そこをやや長文のまま引用させていただきますと…


(鈴木眞哉『鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと』1997年より)

かなり早い時点から手砲の類いなどがわが国に伝来していたことを示唆する材料はいくつかあるし、当時の海外交流の状況などからみても不思議ではない。

文献史料では、文正元年(一四六六)足利将軍を訪れた琉球の官人が退出の際に「鉄放」を放って京の人を驚かせたと、季瓊真蘂(きけいしんずい)という相国寺の坊さんが記している。おそらく礼砲か祝砲の意味で空砲を放ったということだろう。

また太極(たいきょく)という五山派の僧は、応仁の乱の最中の応仁二年(一四六八)に東軍の陣営で「飛砲火槍」を見たと記している。この火槍というのは、手砲の一種ではなかったかと考えられる。

これらの「鉄放」「火槍」については、物的証拠がないということで、これまでは爆竹の類いだろうとか、単なる言葉のアヤにすぎないだろうとか解釈されてきた。

ところがヨーロッパの三銃身手砲、中国でいう三眼銃などに該当する「火矢」四点が沖縄県下に伝世されていることが最近 沖縄県立博物館の當眞嗣一(とうま しいち)氏によって報告された。
これで少なくとも一四六六年に琉球の官人が手砲を携えていてもおかしくないことがほぼ証明された。





このように「火矢」とか「石銃」と呼ばれた手砲(ハンドガン)が、種子島以前の日本でも使われた記録は色々とあるそうで、長年の「定説」が揺らいで来ています。

であるなら当然、城郭の分野においても、そうした動きに呼応する研究があっても良いはずだと思うものの、私のようなマニアの身では到底、太刀打ちできず、何を言っても野犬の遠吠えにしかなりません。

ということで、また遠吠えの一声と知りつつ…




<私なんぞの空想中の空想

 もしも「石落し」が「石火矢(いしびや) 落し」であったなら>





前述の三浦先生の「石落し」解説がもたらす、種子島以前に「石落し」は存在しなかったのか??という問題について、もしも「石落し」が実際には「石火矢 落し」であったのなら、どうなるでしょうか。

つまり「石落し」の穴から落ちて来たのは、拳大の自然石とか熱い油とか糞尿とかのモッサリした物ではなくて、最初から強烈な石弾の撃ち下ろしであり、しかもショットガンのような三眼銃の類が二、三丁まとめて放たれたら!!? という空想に、ずーっと私はとらわれ続けているのです。


ただその場合、世間でよく言われる「石火矢」という言葉は、私はてっきり種子島以前の古銃を一般的に示す用語だと思っていたところ、どうやら厳密には「石を弾丸とする旧式の大砲」という定義なのだそうです。

そうなると先程申し上げた「火矢」「石銃」と「石火矢」とはやや別物になってしまうわけで、この点、ちょっと具合が悪いのですが、こういうダジャレのような連想が私の頭の中にこびりついて離れません。




もちろん「石落し」の実態は文字どおりではなかったとして、さらに三浦先生がおっしゃる以上に、強力な武装としての「石火矢 落し」であったなら、出現の時期の問題とともに、戦闘の様相(想定)も一変し、いっそう緊迫した状況になっていたのではないでしょうか。

まことに勝手な空想ではありますが、石落しが“戦国ショットガン”のごとく機能していたら、戦国の城攻めは、そこだけは殺伐とした近代戦のようであったのかもしれず、またそのために櫓や天守だけが孤立して最後まで残存する、などという局面もあったのかもしれず、なかなか興味が尽きないのです。…





(※追記 / ご存じの方も多いかと思いますが、三眼銃を試射する動画が ブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」様 にあります)



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2013年08月04日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々「最後の立体的御殿」…屋根と破風の全貌を推定する






続々「最後の立体的御殿」…屋根と破風の全貌を推定する


破風の配置はまったく同じ手法か/駿府城天守?と名古屋城大天守


いよいよ、当サイト仮説の駿府城天守について、前回までに申し上げて来た「小さなコロンブスの卵」や小堀遠州の関与、そして「築城図屏風は駿府城天守の平側の立面図をもとに無理やり描いたものでは?」といった推理をすべて突き合せた場合、どういう屋根や破風の構成になりうるのか、その推定図をご覧いただくことにしましょう。


その際に注意すべきは、やはり諸文献の駿府城天守の記録のうち、「唐破風」の位置ではないでしょうか。

何故なら、ご承知のとおり「唐破風」は、文献によって四重目にあったとする記録と、五重目にあったとする記録があって、その原因を想像しますに、おそらくは「どちらともつかない」配置であった疑いもありうるからです。


例えば、据唐破風(すえからはふ)…/中井家蔵「二条城天守指図」をもとに作成


ご覧の据唐破風(向唐破風や置唐破風ともいう)の場合、この寛永度の二条城天守ほどに破風の規模が大きいと、上の屋根にも接してしまい、遠目にはどちらの屋根の破風なのか、判断を誤る危険性もあったのではないでしょうか。

まさにこれと同じ事が、駿府城でも発生していたのではないか… と申し上げたいのでして、より具体的に申せば、冒頭の仮説で平側には六重目に大きな唐破風があったと考えておりますので、諸文献の「唐破風」は妻側、つまり大手門の側から見えた四重目と五重目の屋根の間にあったものと想定しました。


全ての仮説を突き合わせた、駿府城天守の屋根と破風の推定図


ご覧のうち妻側(図では左側の面)の唐破風は、とりあえず平側のものと同じ規模としましたが、このように全体の印象は、唐破風が据唐破風であること以外は、たとえ六重目に入母屋の屋根がかかっていても、名古屋城大天守と極めて似ていたのではないでしょうか。




と申しますのも、前回記事の「四方正面」の画期的デザインが本当に小堀遠州によるものなら、おそらくはもっと細部のデザインに至るまで、駿府城から名古屋城へと踏襲されたはずだと思うからです。

ご承知のように名古屋城大天守の印象を決めているのは、破風の配置方法だけでなく、他の天守よりも少し強めの屋根の反りだとか、破風が軒先近くまでせり出している点などにもあって、こうした細かなニュアンスの出し方は、元々の設計者が「小堀遠州」だと思えば、実に合点のいくところでしょう。

ですから、そういう手法がすでに駿府城天守で試されていた場合、屋根の印象はずいぶんと似ていたように思われるのです。


小堀遠州(ウィキペディアより)


また何度も申し上げたことで恐縮ですが、やはり織豊期の天守は、政権の版図を示す記念碑として明らかにベクトル(攻略の方向性)を持っていたように感じられてならず、一方、徳川幕藩体制下の天守は、そうしたベクトルを捨てて、あくまでも領地や城下町の中心(分権統治の象徴)として「四方正面」を強調した層塔型天守が好まれたのでしょう。

そうした中で、小堀遠州のずば抜けた才気は、織田信長が創始した天主(天守)に対して、その根本的な変質をいとも軽々と具体化して、すんなりと世間を納得させてしまった感があり、誰がその依頼者(発注者)かという興味は別として、遠州こそが“世紀の妙案”をひねり出した張本人であろうと申し上げたいのです。


ちなみに上記のイラストでは、築城図屏風にならって最上階にも高欄を描きましたが、これは前々回記事の「実用上の機能は三重目までで完結か」の仮説にしたがえば、彦根城天守などと同様の、見せかけの欄干であったのかもしれません。




<ならば、屏風絵の初重の大ぶりな千鳥破風の正体は??>






さて、一連の仮説の最初から懸案になっているのが、ご覧の千鳥破風(入母屋破風?)の正体であり、今回は、これについても一つの解釈(解決法)を申し上げておきたいと思います。


そのための第一の着眼点は、ご覧の破風が <すぐ上の屋根の下に収まっている> かのように描かれた点でして、普通、これだけの幅(桁行と同じ)であれば、それは上の屋根を突き抜け、さらに上の屋根に接するほどの高さであってもおかしくありません。

しかし屏風絵は、そうではない… という点を最大限に解釈しますと、これはひょっとすると、天守一階に小規模な平屋の「付櫓」があり、その付櫓の入母屋屋根が立面図に一緒に記載されていて、それが絵師の混乱を誘発したのではあるまいか… という推理も出来そうなのです。


当ブログ仮説の図でその「付櫓」の範囲を想像すると

天守一階の南東角から東側へ、張り出し分がおおよそ4間×4間の付櫓か



ここでお願いしたいのは、ご覧のような付櫓の状態と、その一方で、問題の立面図には平側(図では右側)から見た建物(天守と付櫓)だけが描かれていたら… という、ちょっと複雑なシチュエーションを思い描いていただきたいのです。

つまり、その場合、絵師が見たであろう立面図は、おそらく文献の記録どおりの駿府城天守と、その一階の左端に入母屋屋根の小屋が一緒に張り付いたような図であったでしょう。


そして、もしもそういう状態で、絵師に「これで四方正面の天守を描け」という注文が来たら、どうなるでしょうか。

…仮説の、仮説の話ではありますが、絵師が大変な混乱をきたすのは間違いありません。


勿論、そのままの状態では「四方正面」になりえず、また駿府城の特異な天守台の状況も知りえない絵師は、かなりヤケッパチな(「とにかく四方正面であればいいのだ…」といった)気持ちで、問題の描画にたどり着いたのではないか、というのが私の想像力の結論なのです。



しかも立面図にあったのは「石落し」ではなく「唐破風の玄関」だった??


そこでもう一つ気になるのが屏風絵の「石落し」でして、これもまた同じ原因から、絵師が立面図を見誤って描いた箇所ではないかと思われます。


ご参考)名古屋城の本丸御殿に復元された唐破風屋根の玄関

(※名古屋市ホームページに掲載の完成予想イラストをもとに作成)




ご覧の推定図でお察しのとおり、付櫓には当然のごとく玄関が設けられていたはずですが、そこに名古屋城の本丸御殿などと同じ唐破風屋根があった可能性も十分にありうるでしょう。

それが、問題の立面図の上ですと、ちょうど付櫓の左側に飛び出すような形で描かれることになり、しかもそこに地面の表記がたまたま無かった場合、それを絵師が「石落しか」と誤解しても無理はなかったように感じられるからです。


これまでの「立面図」仮説等を全て突き合せた、謎解きの結論


ご覧の玄関は、仮説で申し上げて来た「露台」の下を通って入る形になりますが、天守(御殿)の右手前という位置関係から、駿府城天守はやはり「最後の立体的御殿」として、名古屋城の本丸御殿などと同じ「雁行」スタイルを踏まえていたことにもなりそうです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年07月21日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について






続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について


破風(はふ)の見本市のような彦根城天守


そもそも天守と言えば、何故これほどまでに「破風」だらけの建物になったのでしょうか…… この素朴な疑問に対する明快な答えは、思えば過去にも殆ど無かったような気がいたします。


で、このことは、当ブログがスタートしたばかりの頃の記事「破風は重要なシグナルを担った」でも一度、扱った問題です。

そして不覚にも、その記事の中であっさりと触れておきながら、今日まで4年以上もほったらかしにしておいた、破風の配置方法に関する「小堀遠州が介在した作意と画期」について、今回、ようやく有態に申し上げられることになりそうです。

それは前回も申し上げた「駿府城天守は実用上の機能が三重目までで完結していた」のならば、四重目以上は何だったのか? という話題が、その説明になりそうだからです。




名古屋市博物館蔵「築城図屏風」より


ご覧の絵はひょっとすると、絵師が駿府城天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに、「四方正面」の天守を無理やり描いたものではないのか… という以前に申し上げた“仮説”を、改めて分かりやすくご覧いただくために色を加減してみたものです。

右側のカラーの部分が、立面図などにあった部分ではないかと思われ、こうして見直しますと、一見、複雑きわまりなかった破風の状態も、さほど不自然な配置ではないことが分かって来ます。


破風の配置はまったく同じ手法か/駿府城天守?と名古屋城大天守


ご覧のとおり、左右の天守は、屏風絵の初重の大ぶりな千鳥破風を除けば、まったく同じ手法のもとに配置されたと申し上げてもいいのではないでしょうか。

ちなみに、屏風絵の方がもし駿府城天守だとしますと、左右の城はともに、小堀遠州(こぼり えんしゅう)が作事奉行として築城に関与した城です。


そして何より肝心なのは、これらは、建造の時期から言えば、徳川特有の破風配置の第一号であった可能性でしょう。


これ以前にも破風を多用した天守としては、当サイトが仮に「唐破風天守」と申し上げて来た、加納城天守や姫路城天守(および2012年度リポートの江戸城天守)などもあったわけですが、それらは決して「四方正面」を強調するためのデザインであったとは言えません。

ところが慶長後期に入ると、名古屋城など、徳川幕府が直轄で建造した巨大天守において、平側と妻側にほぼ同数の破風を配置しつつ、二連と単独の高さを互い違いにして美観を高め、それらの効果で「四方正面」をいっそう際立たせた、画期的なデザインが登場しました。


「四方正面」を際立たせた破風の配置/名古屋城大天守(1959年外観復元)


厳密に申せば、この名古屋の築城以前にも、例えば福井城天守や冒頭写真の彦根城天守など、最上重に「唐破風」を設けつつ、それ以下の各重で<似たような配置>を行った例もあったわけですが、写真のような、後の寛永度江戸城天守にもつながる<最も整然とした配置方法>は、ひょっとすると、駿府城天守に始まっていたのではあるまいか… と申し上げたいのです。

そう申し上げる最大の動機は、この件はおのずと、時代が徳川幕藩体制に向かう中で、天守の質的な転換(分権統治の象徴にふさわしい四方正面)をみごとに表現して見せた画期的デザインは、いったい誰の発案だったのか… という一点に集約されると思うからです。


「遠州好み」と言われる桂離宮・松琴亭の市松模様(画面左側)

小堀遠州の作庭 切石の直線・直角で囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)


小堀遠州と言えば、直線的・幾何学的なデザインも大胆に採り入れつつ、江戸初期の建築・庭園・茶道をリードして、いわゆる「綺麗さび」の美を生み出した巨匠として知られています。

そういう小堀遠州が公儀作事奉行として、将軍の居館から内裏や寺社の造営を取り仕切った時代、作事の現場を担った最大のパートナーが、幕府御大工の中井正清と正純の父子であったと言われます。


ならば、駿府城天守の設計者はどちらであったか?と言えば、そこは諸先生方もはっきりとは明言しにくい様子ですが、亡くなった内藤昌先生は「そのデザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」(『城の日本史』)とまで言い切っておられました。

かく言う私も、ここまで申し上げた内容から、かつて森蘊(もり おさむ)先生が「時のアイデアマン」と評された小堀遠州の方に、かなり大きなアドバンテージがあると感じられてならないのです。




<文献上にのこる駿府城天守の「四基の隅櫓」
 それは大久保長安が進言した、天守台上?の四つの御金蔵が原点だった>





長安所用の頭巾(南蛮帽子)城上神社蔵/島根県庁ホームページより


さて、大久保長安(おおくぼ ながやす)という人は、東京の八王子に在住の私にとっても、けっこう身近なはず(※市の中心部に長安の陣屋跡あり)なのに、なかなか地元民も話題にしない、黒い大きな影を引きずった人物だという印象があります。

猿楽師の家に生まれながら、金山経営の手腕を買われ、幕府草創期の勘定奉行にまで登りつめ、巨額の財政を取り仕切った長安…。

そんな長安が、駿府城天守の「四基の隅櫓」増築の言い出しっぺだった、という話が『古老夜話』にあり、隅櫓・多聞櫓説を支える重要な文献とされています。

それは慶長13年(火災の翌年)の記述でして、徳川家康が天守を再建したいとの意向を示したところ、「石見(大久保石見守長安)」がすかさず、ある進言をしたという話です。


(『古老夜話』より)

駿河御天守御たて被成度思召候へとも、金銀御不足ゆえ御立不被成、此儀を石見承り、金子差上可申よしにて、三十万枚差上候、御天守と四方に御金くら御建なさる、益なき事と御意なされ候、そこにて石見金子の儀は何程にても差上可申候間、御建可被成よし申上る、殊の外御満足なされ、四方に三かゐの矢倉御たて被成候


この文面によれば、天守再建の財源を案じていた家康に対して、長安が、金子(きんす)「三十万枚」を献上しますので、どうぞ天守と四方の御金蔵をお建て下さい、と進言したところ、家康はそれを「益なき事」と断じたらしいのです。

しかしそこで引き下がっては面目丸つぶれと感じたのか、長安は“何を建てても結構ですから”金子三十万枚は献上します、と再度、進言したところ、家康はとたんに満足して「四方に三かゐの矢倉」を建てた、という経緯だったようなのです。


で、この文面の焦点は、二つあると思われ、一つは「四方に御金くら」が本当に天守台上のことだったのか? という問題であり、もう一つは、この話は最終的に天守の話が消えていて、ただ「四方に三かゐの矢倉」が建つまでの裏話になっている点でしょう。

つまりこの話は、肝心かなめの「御金蔵」や「四方の三階櫓」がどの場所の話なのか、という大切なポイントが、ぼやけているのではないでしょうか。


大阪城にのこる金蔵と復興天守


例えば、当ブログの記事「だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?」でも申し上げたとおり、天守台上に御金蔵を建てる、というのは、そう突飛な話でもなくて、大久保長安の頃までは、天守が御金蔵を兼ねるというのは、ごく自然な姿であったようなのです。

ですが、上記の文面の、御金蔵を「四つ」に分けて、天守のまわりに配置するというのは、いったいどういう意味があったのでしょう。

これはなかなか理解できず、強いて申せば、本丸御殿の火災の直後でしたから、御殿から離れた天守台上に“四つに分散配置”して、天守からの延焼のリスクも軽減するつもりだったのでしょうか。


それにしても(前回の記事のとおり)天守の一階二階は「住宅」建築であったわけですから、どうも話がチグハグというか… 
いえ、そういう点を、まさに家康が「益なき事」として却下したのかもしれませんが、いずれにしても、長安の進言を「天守台上の四つの御金蔵」と考えるのは、チョット無理があるように思われてなりません。


むしろ、長安の真意は「金子三十万枚で、天守の再建と、城内の四方に御金蔵を分散して配置されてはいかが…」という意味の提案だったと解釈する方が、現代人の我々にはずっと自然に感じられます。

で、それをまた「益なき事」と断じた家康の考え方も、まぁ分からないではありません。



復元される二ノ丸「坤櫓(ひつじさるやぐら)」完成予想図/静岡市ホームページより

ちなみに二ノ丸の巽櫓・坤櫓・清水隅櫓はいずれも内部三階!だった


以上の結論として、やはり四基の三階櫓というのは、天守台に関わるものではなかったのではないでしょうか。


さらに『古老夜話』を隅櫓・多聞櫓説を支える文献として見た場合には、文章のニュアンスからして、おそらく四基の隅櫓は(完成までに2年は要したはずの)天守よりも、ずっと早くに完成したことになりそうです。

となると、話題の「天守二重目の高欄」は、そういう最中に、もう目の前に櫓群が立ちはだかる状況下で、施工や仕上げ作業が進められたことになるでしょう。

全体の計画がチグハグなのに、管轄の壁が越えられず、個々の作業はそのまま進んでしまう… なんていう話は今でもよくありますが、そんなワビシイ状態のなかで「最後の立体的御殿」は誕生したのでしょうか。







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2013年07月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?






「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?


3月の記事でご覧いただいた「小さなコロンブスの卵」


ご覧の図のように、文献史料にある駿府城天守の各重の規模(桁行・梁間)は、実は六重目だけ、桁行と梁間がひっくり返った形で記述されたのでないか… そう考えた場合は、きれいに文献どおりの「五重七階」で復元できることを申し上げました。

そしてもう一点、是非ともご注目いただきたいのが、文献によって数値が二種類 伝わっている、三重目なのです。


ここは雨戸で閉じ切ることも出来る、半間幅の内縁がめぐっていたのではないか…


これまでにも、この三重目の規模のあいまいさについては、例えば大竹正芳先生をはじめとして、「三階は内側に幅半間の回縁がめぐり、外壁は雨具仕立で高欄が付けられていたとする説もある」(大竹/1994)といった考え方が示されていて、私なんぞもこれに説得力を感じてまいりました。

雨戸というのは、当時、豊臣秀吉などが最新式の建具として使い始めたものとも言われますし、聚楽第大広間の平面図に「雨戸」と書き込まれたり、大坂城二ノ丸の秀長屋敷にもあって、訪れた徳川家康らが雨戸を一斉に閉める音に驚いた、などという伝承もあったりします。


そうした最新式の「雨戸」は、さっそく天守にも、とりわけ風雨がきつい最上階の望楼で重宝されたようで、ご承知のとおり熊本城では、大小天守ともに、最上階はいちばん外側に幅半間ほどの狭い内縁(落縁)がめぐっていて、そこに欄干があり、さらに雨戸を閉められる構造になっていました。


最上階に雨戸の戸袋 / 独立式時代の大天守を推定した当ブログ作画より


これは小倉城天守も同じ形式を(八代城や柳川城も?)採用したようで、やはり半間幅の廻縁高欄の外側を、雨戸がおおう形であったと言います。

しかも小倉城ではこの階を「黒段」と呼び、それは雨戸や戸袋がすべて黒塗りだったため、全部を閉じ切ると、階がまるごと真っ黒に見えたからだそうです。


ひょっとすると、最後の立体的御殿も、真っ黒な三重目??


【雨戸の高さの確認】駿府城天守の真ん中で東西方向に縦切りにしてみる


すると駿府城は天守台があまりに巨大なので…(堀の水底からの高さが11間と伝わる)



ちょっと強引かもしれませんが、このように見て来ますと、当時、天守の最上階で重宝された雨戸が、駿府城天守では三重目にあった可能性があるとなれば、それは取りも直さず、三重目が実質的な望楼(物見)だったのではないか… という想像も働くわけなのです。

そして上図のように、その高さ(位置)は、巨大な天守台のおかげで、他の有力大名の天守の最上階に匹敵していたのですから、あながち暴論とも言えないのではないでしょうか。


3月の記事から「二重目の高欄の目的」を話題にして来ましたが、実は、そのすぐ上に、実質的な望楼(最上階!)があったというならば、駿府城天守においては <実用上の機能は三重目までで完結していた> という可能性も出て来ることでしょう。

じゃあ、その上の階はいったい何なんだ!?… という疑問は次回の検討課題とさせていただいて、ここはやはり、天守台上の周縁を取り囲んでいたとも言われる「四基の隅櫓と多聞櫓」は、二重目の高欄からの眺望をさえぎり、なおかつ実質的な望楼(三重目)にとっても視界の邪魔だったかもしれない、となれば、ますます居場所が無いように思われて来るのです。




<メカニズムの源流… 宮上重隆「金閣」復元図との突き合わせ>






さて、ここでちょっと話が飛ぶようで恐縮ですが、京都・鹿苑寺の「金閣」は、一・二階が同一の規模であり、一階に落縁、二階に高欄がめぐっている点で、駿府城天守と様式が同じであると言われます。

そしてさらに、室町幕府の三代将軍・足利義満による創建時から、ちょうど徳川家康が生まれる数年前まで、金閣は、形や色がそうとうに現状(昭和の再建)とは違うものであった可能性が、宮上茂隆先生によって指摘されました。


宮上茂隆「金閣」復元図 / 引用:『週刊朝日百科 通巻558号』1986年より

宮上先生の下記の解説文に沿って、着色を当ブログが修正してみたもの


ご覧の図は、1950年(昭和25年)の放火で焼失した金閣は、明治時代の解体修理の際に、個々の部材に至るまで詳細な実測図が作られていて、それらをもとに、宮上先生が創建時の様子を復元した図です。


(宮上茂隆解説『金閣寺・銀閣寺』1992年より)

1.当初、三階は内外金箔押しであったが、三階床と縁の床・高欄・腰組はすべて黒漆塗りであった。
(中略)
2.当初、二階は、高欄を除いて内外ともすべて黒漆塗りだった。現在は三階と同じように、床以外すべて金箔押しになっている。
(中略)
3.当初、三階の中心は、一・二階の西側主室の中心と一致していた。二階屋根の東部は入母屋屋根であった。屋根は檜皮葺きであったとみられる。現在の三階中心は、一・二階の全体の中心と一致している。屋根は腰屋根で、柿葺きである。


現状の金閣に比べますと、三階の位置がまるで違うこと、そして二階がほぼ真っ黒であったことに驚いてしまいますが、こういう結論に至った、宮上先生の分析(解説文)には説得力が感じられます。

そして特に、次の部分が重要であるように、私なんぞには感じられてなりません。


(宮上先生の前掲書より)

(八代将軍の足利)義政が発した質問に対する僧 亀泉集証(きせん しゅうしょう)の答えから、金閣は舎利殿であること、二階の観音像は、当初の観音が乱中に失われ、乱後に替わりのものを安置したこと、三階は阿弥陀三尊と二十五菩薩来迎像を安置していたが、いまは来迎像の白雲だけしか残っていないことがわかる。

舎利殿は、義満が敬愛した夢窓疎石(むそう そせき)が作庭した西芳寺の、庭園内中心建物であった。一階は座禅の床となる住宅建築、二階は舎利を安置した禅宗様(唐様)仏堂だったとみられる。

金閣が、釣殿(つりどの)である住宅建築の上に、仏堂(二階は和様、三階は唐様)を載せる構成になっているのは、それを模したものということになる。





つまり金閣は庭園の楼閣ではあるものの、西芳寺の舎利殿にならって、一階を住宅建築とし、二階・三階を本来の目的である仏堂(舎利殿)という形で、立体的に構成した建物だというのです。

しかもその構成に忠実な色彩として、一階は素木(しらき)造り、二階・三階は「黒塗り」「金箔押し」という風に、内外の仕上げも使い分けていたことになります。

ちなみに宮上先生の解説文によれば、金閣がこうした創建時の状態から、現状に近い姿に改築されたのは、天文6年(1537年)の修理の際ではないかとされています。




そこでもう一度、駿府城の三重目に注目しますと、あくまでも「三重目が黒塗りの雨戸であったら」という仮定の上の話ではありますが、慶長12年末の火災ののち、この天守が巨大な天守台穴倉?の底面の上に再建されることになった時、いったい誰がそこに「金閣に似た」構造や色彩を提案したのか…

三重目が「黒塗り」という、様々な意味を踏まえた意匠であったのなら、それこそ、発案者としての「小堀遠州」の影が、(私なんぞの頭の中には)チラついてならないのです。





追記)ちなみに宮上先生の復元図には、当サイト仮説の安土城天主の「天守指図」新解釈が、大きな影響を受けておりますことを、この際、白状いたします。このことには、実は「天守指図」五重目と、金閣の創建時の二階・三階の内部構造が似ている、という思わぬ事情が反映されています。


そしてこれは、構造面だけでなく、階下の住宅と、高層階の別目的、という建物の使用形態にも話が及ぶものです。…





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2013年06月24日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「居館」という呼称に対する戸惑い… 冷静に見れば、岐阜城千畳敷は「山里丸」ではなかったのか





※この何日間か、「のブログ」がまた閲覧しにくい状態に陥り、ご心配をおかけしましたが、現在、運営会社の方に善処を依頼しているところです。


「居館」という呼称に対する戸惑い… 冷静に見れば、岐阜城千畳敷は「山里丸」ではなかったのか


二重目に高欄を設けた駿府城天守の模型 / 犬山城二重天守の推定復元イラスト


今回は、前回に申し上げた「二重同規模 望楼型」の話題から、このところの宿題であった駿府城天守の二重目の「高欄」問題へと、大きく論点を展開させてみようと思っていたのですが、そんな矢先に、またまた気になる歴史雑誌と出会いました。

それは、せっかくの上質な仕上がりの中で、たった一語だけ、どうしても気になる用語が使われていて、こういう事は機会を逃してしまうと、なかなか言い出しにくいものですので、今回もあえて変則的な記事にさせていただきます。



『週刊 新発見!日本の歴史』創刊号/朝日新聞出版


ご覧の創刊誌は、かの『週刊朝日百科』の流れをくむ本だそうで、それにしてはずいぶんと表紙の雰囲気が違うため、思わず書店でもパスしてしまいそうでしたが、中身を拝見しますと、さすがに神経の行き届いた誌面づくりがされていると感じました。

で、この本においても、最近「金箔飾り瓦」が話題の岐阜城について紹介されていて、その書き出し部分はこうです。


(高橋方紀「考古学コラム 岐阜城を掘る」/前掲書より)

宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、岐阜城の山麓居館の庭を次のように記述している。
「庭(ニワ)と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。



決してこのコラム自体について、どうこう申し上げようというのではなくて、これはもう岐阜城の関係者の方々には慣例化した事柄なのでしょうが、文中の「山麓居館」という呼称(用語)に、私なんぞは、ずっと違和感を感じて来たのです。

と申しますのは、「信長公居館」とか「山麓居館」という呼び方に対して、おそらく一般の方々が受け取るだろうイメージは、そこにあたかも“織田信長と家族が居住していた”かのような誤解を生みかねない、危うい要素をはらんでいると思われたからです。


ご承知のとおり、<信長と家族は金華山山頂の主郭に居住していた> というのが長年の城郭研究の成果であるのに、どこか、我々は、山麓の千畳敷で出土した巨石群の強い印象に惑わされているのではないでしょうか。

それはひょっとすると、信長の思う壺に、現代人までがハマっているのかもしれず、ここは一度、冷静になって見直してみた場合、岐阜城千畳敷(巨石列から奥の曲輪群)は基本的に「山里丸」の、重要人物の接遇用の御殿と庭ではなかったか、と思われて来るのです。

と申しますのも…


防御上の必要性を超えた、“威圧感”を目的とした過大な石積み

A.肥前名護屋城の上山里丸の虎口(慶長期)


B.岐阜城千畳敷で発掘された巨石列



余人には困難な、多大な労力を費やして現出させた数寄の空間

A.肥前名護屋城の上山里丸の青竹ばかりの茶屋(引用:五島昌也復元画)


B.巨石の石組みで護岸した岐阜城千畳敷の渓流

(引用:岐阜城跡 信長公居館発掘調査デジタルアーカイブの掲載写真より)



天守(主郭)のひざ元で、周囲から半ば隔離されて築かれた曲輪の位置

A.肥前名護屋城図屏風(県立名護屋城博物館蔵)の上山里丸


B.金華山ロープウェー駅に展示された杉山祥司画「岐阜城図」


ご覧のうち、一番下の「岐阜城図」は地元の日本画家の方の創作による絵画ですから、このように並列に扱うのは問題があるかもしれませんし、これらはすべて豊臣秀吉の肥前名護屋城との比較だけですので、片手落ちと言われかねない部分もあるのかもしれません。

ただ、写真ABの両者を、全国の城にいくつもあった根小屋式の山麓居館… 例えば私の地元・八王子城の御主殿とか、備中松山城の御根小屋とか、そしてそもそも斉藤氏時代の岐阜城千畳敷!? 等と比べますと、後者はいずれも城主の主たる居館であり政庁でもあった、という点に歴然とした違いがありそうです。

その点、ABの両者は、むしろ「山里丸」としての特徴をしっかりと備えているように思えてならず、それは上記写真の他にも…


1.千畳敷一帯で、池・洲浜・石組みなど数多くの庭園遺構が確認されたこと

2.秀吉ゆかりの城も「上山里」「下山里」とヒナ壇式に山里丸が築かれたこと

3.肥前名護屋城の記録では、山里丸にも華麗な御殿群が造営されたこと

4.肥前名護屋城図屏風にも楼閣風の櫓があり、城下の遠望は重視されたこと





といった点は、ABともに共通し、なおかつ岐阜城を訪問した宣教師の記録とも合致する要素として揃っていて、これらの理由から、岐阜城の千畳敷は、曲輪の分類や用途としては「山里丸」と考えるべきではないのか、と申し上げたかったのです。




<ならば、関係者の期待を集める「階段状居館」説は??>




当ブログの過去の一連の記事をご覧になった方は、私がいまだに四段の「階段状居館」説に納得できず、むしろ岐阜公園(「千畳敷下」)の池の周辺に、将軍・足利義政の別荘・東山殿の「銀閣」にならって、四階建ての楼閣が東向きに建てられたはず、と申し上げて来たことはご存知でしょう。

この点は、話題の「金箔飾り瓦」が確認された中でも、一向に変わることはありませんで、またいつか反論をまとめて記事にしたいと思うのですが、その論点は例えば…


論点1

信長の岐阜城時代のあと、織田家の一門衆や重臣らは、誰一人として、居城に「階段状居館」を建てることは無かったようであるが、これは信長が重臣(柴田勝家ら)にも千畳敷の御殿をほとんど見せなかったことの影響なのか、それとも、彼らの側がまるで無関心だったのか。


論点2

発掘された千畳敷の地形から見て、“増築を重ねた温泉宿のような構造”とされる「階段状居館」では、いちばん下段の建物以外は、どの建物も、すぐ下段側の建物の屋根や接続部分が邪魔になって、その向こうにある城下町を、十分に見渡せる状態にならなかったのではないか。(宣教師の記録との矛盾)



等々ですが、特に論点2では、城主(領主)が櫓の高欄などから城下を見渡すのは、言わば「政治的行為」の一環であって、ちょっと覗き見えさえすればいい、などという事ではなかったはずだと思うのです。







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城の再発見!イラスト犬山城二重天守に見る、原初的な姿は「天守≠高層建築」






イラスト犬山城二重天守に見る、原初的な姿は「天守≠高層建築」


犬山城の直線的城道「岩坂」


前回の犬山城からたどった独自仮説は、一つの拠り所として、針綱神社の遷座(現本丸にあった針綱神社が築城のために遷座した年)が天文6年であると、神社側が由緒を表明している点を重視したものです。

と申しますのは、織田信康時代の犬山城は三光寺山(後の三ノ丸)にあったという考え方も強いのですが、仮にその場合であっても、幕末まで「直線的城道」の史実をたどれる城としては、犬山城の他には検討材料が無く、この観点からの犬山城の貴重さに変わりはないはず、という点をまず申し添えたいと思います。


さて、その犬山城の天守と申しますと、例の「金山越え」の件など、現存十二天守の中でもいちばん謎の多い天守ではないでしょうか。


ご承知のとおり、様々な古文書に、美濃金山城(兼山城)から天守などが犬山城に移築されたという話(金山越え)が記されていますが、現にブツがのこる天守については、昭和の解体修理のおりの調査で、その話は否定されました。

ですが、それにしても、現在見られる天守の三重目(3階4階)が無かった状態(最短でも慶長期の約20年間)というのは、いったいどんな姿をしていたのか… これは城郭ファンの興味の的の一つと申し上げていいでしょう。


現状の犬山城天守


この件について、先の調査報告書は、二重目の屋根上に「果して望楼の如きものがあったかどうかも判明しない」としていて、より小さな望楼が載っていた場合の柱位置(小屋束穴)を検討してはいるものの、結局、それらは単に屋根を支える小屋束であった(つまり二重目の屋根上には何も無かった)可能性もあって、確たることは言えないと結論づけています。

ところが今回、こうして犬山城の資料をいくつか見直しているうちに、ふと、アレレッ…と思い当たる事柄がありまして、しだいに作画意欲が沸いて来て、またまた妄想的なイラストを描いてしまったのです。




<文献にある「天守上一重は…御再興」という文言に対するインスピレーション>




(『視聴随筆』1848年より)

天守上一重は宗心公御再興、欄干と御好にて成就す、夫れ故に二重目より下は皆鑓かんな削りにて兼山より移所なり、尤も御風呂、下水堀も宗心公御再興となり


これは幕末に書かれた『視聴随筆』の注目される部分の文言でして、これによって犬山城天守は、「宗心公」成瀬家の初代城主・正成が、江戸初期の元和4年から寛永2年の間に「天守上一重」すなわち望楼を増築したとされています。

で、ご覧のように文中では「御再興」と表現されていて、この「御再興」という言葉は、普通に考えますと、かつても望楼があったという意味になるでしょう。

しかし今回、ふと気づいたのは、昭和の解体修理で判明した、天守の旧観に関する知見を改めて突き合わせますと、「御再興」とは、通常の意味ではなくて、ちょっと特殊な使い方であった可能性もあるように感じられたのです。



旧観1)破風内は木連格子だった / 現状は三重目が木連格子、二重目が漆喰塗込


二重目の屋根の破風は、現状は白漆喰の塗込めになっていますが、この漆喰を解体修理の時にはがしたところ、中から墨塗りの黒い木連格子(きづれごうし)が姿を現したそうです。

ということは、現状では黒い木連格子の破風は三重目の屋根にありますので、要するに、かつての二重目の破風の様式が、望楼の増築とともに三重目に移され、その代償であるかのように、二重目はわざと漆喰で塗込められて隠された、という風にも言えそうなのです。



旧観2)軒裏は素木(しらき)だった / 現状は三重目が素木、初重・二重目が漆喰塗込


また屋根の軒裏についても、同じような事が起きていて、現状の軒裏は三重目が写真のとおり素木であり、一方、初重と二重目は漆喰塗込になっています。

ところがこれも、漆喰をはがしたところ、当初は素木であったことが判明し、つまり軒裏についても、望楼の増築に合わせて、かつての様式を望楼の方に移して、その代償のごとく初重・二重目の素木は塗込めて隠してしまった、とも言えそうなのです。



旧観3)黒い下見板の無い時代があった! / 現状は三重目だけ柱を見せた真壁


そして驚くべきことに、この天守の特徴の一つでもある「黒い下見板」が、無かった時代もあるというのです。


(『国宝犬山城天守修理報告書』1965年より)

外部の腰下見張りも後世修理の際施されたものであり、当初は縁切目長押上まで壁であったことが判明した。
何時頃下見張りに変更されたか判明しないが柱の風蝕状況その他からみて江戸末期の附加とするのが妥当と考えられる。

(中略)
修理前のものは明治震災の復旧になるもので、今回修理の際それ以前の下見板が発見されたが、それが当初のものであるかどうかは判明しない。


この結果は城郭ファンにとってまことに意外で、文中の「縁切目長押」とは、壁面のいちばん下の、縁などとの間に入れる長押ですから、かつては初重が全面「壁であった」時代があると判ったのです。

そして報告文のとおり「それ以前の下見板」も見つかったものの、「柱の風蝕状況」がある以上は、下見板は長い間、それが無い時代が続いたことの証拠であり、その間、初重や二重目はどうなっていたかと言えば、またもや三重目と同様の(否、三重目だけに遺された?)柱を見せた「真壁」であった可能性があるわけです。



以上のとおり、調査の知見を改めて突き合わせますと、文献の「御再興」という文言は、例えば <二重目の主な意匠を三重目に移して再現した> という意味で「御再興」としたのではないのか… という風にも思えて来たのです。

すなわち、それまでの状態は、二重目屋根の上にはやはり何も無かったのであり、逆を申しますと、当初の二重目は、それだけですでに特殊な位置づけ(※初重と同規模でありながら立派に望楼!?)だったのではないのか、と。


もしこの見方が正しいならば、かつての犬山城天守は、絵画史料にある越前大野城の二重天守と似たようなプロポーションであり、報告書の他の知見によりますと、屋根は柿(こけら)葺きなど板張りであった可能性が強く、また東西の妻破風はそれぞれ半間ずつ中央に寄っていた、等とありますので、それらを踏まえてイラスト化してみました。


慶長期の、三重目が無かった「犬山城二重天守」を推定復元!!

(※木曽川の対岸、北西側から見上げた状態)


現状とまったく印象が違うので驚かれたことでしょう。

でも、犬山城の別名「白帝城」は、元来は地形的な連想から云われたのでしょうが、外壁の色としてはこの方がずっと相応しいのかもしれません。


で、おそらく、ここで申し上げるべき事は、天守の要件とは何だったのか、という問題ではないでしょうか。


これまで当サイトは、天守の「形」の要件は「重数」では全くなく、つまり規模や床面積に関わらず、ひとえに、織豊系城郭の求心的な曲輪配置の頂点に位置し、基壇にちなむ台などを伴い、織豊権力の出現を領内(新領地)に視覚的に示すため、どこからも見えるように天高く、山頂などの「しかるべき位置」に築かれた、主君の館の表現(政治的モニュメント)だったのだろうと申し上げて来ました。

ですから、とりわけ原初的な姿は「天守≠(ノットイコール)高層建築」と思われ、ご覧のような二重天守はもちろん、場合によっては平屋建ての天守も充分にありえたのではないでしょうか。



(※注/手前の小さな櫓台上の千貫櫓は、描写を省略しております)


しかしそうなりますと、よく言われる <望楼型天守が天守の「型」の始まり> ということでもなかったことになってしまい、このままですと、望楼型に先行した型、例えば「二重同規模 望楼型」とでも言うべき型があった… などという超過激な話になりかねず、まったくもって冷汗モノです。


でも、よくよく考えますと、「二重同規模 望楼型」というのは、その後の天守の二重目までの構造(例えば岡山城天守〜広島城天守〜名古屋城天守など)を見た場合、それらの原型としては、案外、ひょっとすると…



ご覧の松江城天守も、(手前の付櫓を除く)本体の初重と二重目が同規模

これらの形の由来は未解明のまま









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説






大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説


“天皇の行幸道”に疑義が投げかけられた安土城「大手道」

(※画面左側が伝羽柴秀吉邸跡の入口、右側が伝前田利家邸跡の入口)


前回末に予告しました「駿府城天守」などの話題に、出来るだけ早く戻りたいとは思うものの、この機会に申し上げないとチャンスを逸してしまう「大手道」の独自仮説を、この際、紹介させていただくことにします。


上写真でご覧のとおり、千田嘉博著『信長の城』が巻き起こしたホットな論争として、安土城「大手道」の直線部分は、これまでどおりに城内と考えていいのか? いやそうではなく、織田信長自身の城は、厳密には「大手道」が屈曲し始める地点から上の山腹以上であり、直線部分はいわば側近屋敷群をつらぬく城道(≒城下の大手道)なのだ、という大きな見解の相違があります。

確かに千田先生の「戦国期拠点城郭」論や、同じく直線的な城道をもつ近江八幡城などの例を踏まえますと、後者の、重臣屋敷をつらぬく中心街路の一種と考えた方が合理的と言えそうでして、そうした類似例をもとに、千田先生は「天皇の行幸道」説に強く反対されているわけです。


ですが、この論争については、そのどちらとも言えない中間説といいますか、ある特殊な考え方も可能なのではないでしょうか。


と申しますのも、当サイトは千田先生の「天主の意味」等には最大級の賛辞をおくる立場ですが、その反面、おそらく『信長の城』読者の多くの方々と同様に、 <アレ? では何故、岐阜城だけは「大手道」を造らずじまいなのか…> という率直な疑問を感じております。

ひょっとすると岐阜城にも、どっこい岐阜公園の平場や市街地の地中に「大手道」がまだ埋まっているのかもしれませんが、改めて類似例の城と比べますと、こんなことも言えそうです。


直線的城道( 小牧山城 / 近江八幡城 / 犬山城 )は、どれもおおむね南向き

しかし岐阜城は、千畳敷や城下が大きな金華山の西側のふもとで…


というように「大手道」にはまだ何か、不確定の要素が隠れていそうな気もしますし、岐阜城じたいの位置づけにも懸念(…案外、小牧山城の方が信長の意中の城であり、岐阜城は予想外に早く手に入ってしまった城、という千田先生の指摘)が生じるのかもしれません。

で、今回の記事は、ホットな論争の真っ只中に、またまた妄言?を差しはさむことになるのか、戦々恐々の思いで独自仮説を申し上げます。




<大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説。
 それはやはり、城主より上位の人物を、曲輪群をスルーパスして迎えるための
 御成(おなり)道ではなかったか>





犬山城の天守内に展示された版画


類似例として挙げた三つの城のうち、小牧山城と近江八幡城は織豊期に廃城になってしまったため、もはや「直線的城道」の具体的な使われ方を確認する手立てはありません。

ところが、幕末まで現役の城であった犬山城ですと、「直線的城道」に関する史実を、多少、ひろうことが可能なのです。


上写真の版画で申しますと、画面中央の「岩坂」と呼ばれた直線的な城道が、天守のある本丸に向かっていて、それを「杉の丸」「桐の丸」「樅(もみ)の丸」という三つの曲輪が、直進する敵を左右から挟み撃ちにするかのように並んでいます。

こうした曲輪の配置は、安土城や近江八幡城ともよく似ていますが、ご覧の構造が出来上がったのは、天文6年の織田信康(織田信長の叔父)の築城時とも考えられるでしょうから、類似例の中ではいちばん古い事例になりそうです。


そして重要なポイントは、築城者・織田信康という武将の人物像だと思われ、ご承知のとおり信康は、信長の父・織田信秀のすぐ下の弟であり、弾正忠家の家中での役回りも兄信秀に従って軍功をあげるなど、補佐の役回りに徹した人であったようです。

しかも犬山城は、その後も、めまぐるしく替わった城主のほとんどが“そんな立場の”武将たちであり、江戸時代においても、9代続いた城主の成瀬家が、明治維新の直前まで尾張徳川家の付家老であったことはよく知られています。




そして上の版画でもう一点、是非ともご注目いただきたいのは、直線的城道「岩坂」の本丸のちょうど反対側になる曲輪「松ノ丸」の御殿なのです。

この御殿の由来について、例えば柴田貞一著『犬山城物語』では…


(柴田貞一『犬山城物語』より/『犬山市資料』第三集1987年所収)

雑話旧事記に依ると、天守閣前の広場、現成瀬正肥記念碑のある辺に、「秀吉が大阪政所を引移し、其の御殿の荘厳古今無双なり」とある。
僅か三里を隔つ小牧山の強敵家康を前にして、超栄華な生活に秀吉の余裕綽々
(しゃくしゃく)たることが偲ばれる。
この御殿は後世成瀬三代正親の時に、下段の現針綱神社参道のある広場へ移され、松之丸御成之御殿と称せられた。
(おし)い哉(かな)、天保十三年余坂町よりの出火に焼失した。


とあるように、幕末まで松ノ丸にあった御殿は、じつは小牧長久手戦で羽柴(豊臣)秀吉が犬山城を本陣とした時の建物で、その頃は本丸にあったものを、江戸初期に城主の成瀬正親が松ノ丸に移築したと言うのです。

その様子を別の城絵図(上記書掲載)で確認しますと…




念のため繰り返しますが、小牧長久手戦の緒戦で羽柴勢の池田恒興が犬山城を攻略したのち、そこに入城した秀吉が御座所とした建物が(直線的城道「岩坂」の突き当たりの)本丸に長らくあったものの、それを江戸時代に、岩坂より手前の松ノ丸に移築したというのです。

ただ、この移築には色々と意味があったようで、何故なら江戸時代には「松ノ丸御殿」をはじめとする御殿群が、あたかもビリヤードの玉突きのごとく、外側の曲輪へと移築されたからです。その経緯について上記書では…


(上記書より)

天守閣前にあった、豊公由緒(記述)の松之丸御殿を下段に移し、下段に在りし居館を毀(こぼ)ちて三光寺地域内に移した(現犬山神社、公民館等の在る所)。これを西御殿と称した。
松之丸御殿は尾張公を迎える時の専用御殿となり、西御殿は藩主が、家臣を接見したり公式行事を行わるる所となる。
別に此の西(三光寺山下)に三光寺御殿を造って居館とせられた。



どういうことかを先程の城絵図で改めて図示しますと、文中の「西御殿」になった建物(「下段に在りし居館」)は、成瀬家の前の城主・平岩親吉(毒まんじゅう伝説のあの家康近臣)の屋敷でもあったと伝わりますので…




これをご覧になりますと、お察しのとおり、要するに、直線的城道「岩坂」の周囲の御殿群が、ビリヤードの玉突きのように移動しただけだということが想像できるでしょう。

ということは、これらを逆算しますと、御殿群の元々の配置や、その全体の構想を知ることも出来るはずです。


以上から推測できる結論


ご覧のように、史実がつかめる犬山城の場合、直線的城道の突き当たりの曲輪にあった建物は、その後もずっと、城主よりも上位の主君を迎える「御成(おなり)御殿」であり続けたわけです。

一方、城主の居館や藩の政庁は、直線的城道の手前の曲輪にあるのが本来の姿だったわけです。


したがって、今回申し上げたい独自仮説というのは、「直線的城道(大手道)」は元来、城主よりも上位の人物を、本丸の御成御殿に最短距離で迎え入れるための御成道ではなかったか、ということなのです。


言うなれば、織豊系城郭の「求心性」「階層性」をつきぬける(飛び越える)アクセス手段として「直線的城道」という作法が(山岳寺院などを参考に)編み出された、と考えることは出来ないでしょうか。

そしてそれが織田家の築城に始まったとすれば、まことに興味深いことでしょう。


安土城での信長の動機としては、自分よりも上位の人物(天皇)に、いちいち側近屋敷の曲輪の門をくぐらせたくない、という心理が働いたことが想像できるでしょうし、つまり信長は自身が造り出した城の「求心的構造」のデメリットに気づき、そこで織田家伝来の作法によって、安土山南面で対策を講じた、ということではなかったかと思われるのです。




<この独自仮説は、いま話題の小牧山城の「大手道」にも当てはまるのか!?
 もしそうだとするなら、そこを通るはずだった「上位の人物」とは…>





主郭を囲む巨石の石垣が確認されて以来、鼻息が荒い小牧市のホームページより


小牧山城は、信長が一からデザインできた城と城下町として、<小牧山城−安土城> という二つを同列にとらえる考え方が、千田先生の著書などで提起され、あたかも、信長は小牧山から天下に覇をとなえる可能性もあったかのような論調が誌上をにぎわせています。

では両城に共通の「大手道」はどうなるのか、と言えば、当ブログは過去に中嶋隆先生の「南麓の城下から見上げたときの印象」や視覚効果という解釈を引用させていただいたものの、今回申し上げた仮説では、小牧山城もまた、誰かを迎えるための大手道であったことになります。


それは誰なのか… と想像をめぐらせますと、信長は築城の4年前(永禄2年)、尾張をほぼ統一したことの報告のために上洛し、時の将軍・足利義輝(あしかが よしてる)への謁見を果たしました。

そして翌年、桶狭間の戦いに勝った信長は、永禄6年の小牧山築城へと歩を進めたことになります。


室町幕府十三代将軍・足利義輝

永禄6年頃は将軍権威を高めて絶頂期に。が、永禄8年に二条御所で戦死


(※画像はウィキペディアより/国立歴史民俗博物館蔵)


信長がその後、新たに攻略した岐阜城で「天下布武」印を使い始めたのは、この義輝の戦死からわずか2年、永禄10年のことと言われます。

ならば冒頭で申し上げたように、何故、岐阜城だけ大手道が無いのか… そこには信長の巨大な失意と、怒りが、無言のうちに隠されているのではないでしょうか。








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2013年05月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!気になる懸造(かけづく)りの意図、「羅城門」級の大手門の景観






気になる懸造(かけづく)りの意図、「羅城門」級の大手門の景観


さてさて、北京の方からまた突飛な「歴史認識」が出ましたが、そんなことを言うなら、100年前の中国大陸には中国共産党なんぞ影も形も無かったわけで、いよいよ実験国家の悲鳴が聞えて来たと受けとめるべきでしょうか。…

で、そんなことはともかく、前回は城郭史学会の大会セミナーを中心に 安土城天主について書きましたが、その中では、やはり書きっぱなしのままでは済まされない部分もあり、今回はそちらを、ちょっとだけ補足させて下さい。


「京間」で計測された場合の、20間×17間の範囲(グリーン)


上図は、千田嘉博先生が著書『信長の城』で示された安土城天主の新復元案について、前回のブログで申し上げた感想の、補足図です。

先生の著書によりますと、新復元案では、天主台石蔵内の七尺間の礎石群と、天主台下で発見された七尺間の礎石列を、一体のものとして扱っておられます。

しかし著書の文面には、『信長公記』類にある天主二重目の20間×17間という数値もまた「七尺間」であったかどうかは明記してなく、この数値が「京間」などで計測された可能性も含んでいるようです。


そこで上の補足図なのですが、京間(六尺五寸間)で計測されていた場合は、若干、規模が小さくなります。(グリーンの範囲に)


その結果、懸造りの天主二重目は、図の程度に天主台北側(図の下側)に張り出していたなら、もう南側には張り出す余地が無く、逆に、南側に全体が3間ズレて張り出していたなら、もう北側には張り出す部分がほとんど無い、という微妙なサイズになりそうです。

それならば何故、わざわざそんな懸造り構造にしたのか…

京間の20間×17間が不可欠な“部屋の条件”でもあったのか…

しかもそれは、後の江戸城天守の初重にも匹敵する規模(!!)なのに…

といった点が気がかりなものの、先生が著書で懸念したとおり、南側にズレるのは技術的にちょっと複雑(天主台南西角での寄せ掛け柱の処理)になるため、やはり天主台北側において <懸造りの礎石が見つかるかどうか> が新復元案の評価を左右していくのではないでしょうか。


史上最大の江戸城天守の初重(天守台)と並べてみる

そんな新復元案から思わず連想してしまう、笠森寺の観音堂(千葉県)


(※ご覧の四方懸造りの中心は岩 / 昔、この岩上に観音菩薩像が安置された由来あり)

(→ということは、当然ながら「懸造り」自体が建築の目的ではない)





<大手門がもしも「羅城門」級であったなら、どんな景観になるのか>






さて、もう一つ補足すべき話題は、通称「大手門」が幅約30mの「羅城門」級であったかもしれない、というお話でしょう。

これはもちろん、左右の石塁の真ん中が30mほど空いているというだけで、門の礎石などの物証は一切無いわけですから、ひょっとすると計画だけで(石塁が完成した時点で)沙汰やみになった可能性もあろうかと感じております。

でも、そこは城郭マニアの悲しさで、もしそんな巨大な門が建ったなら、いったいどういう景観になっていたのだろうか… という興味本位の空想をめぐらせずにはいられません。


徳川家の菩提寺・増上寺の三解脱門が、ほぼ同じ規模(幅29m/元和8年建立)


!! 例えば、こんな門があの場所にあった場合を想像しますと、もう第一印象からして「城」ではなく、かと言って「都城」という連想も(背後が山だけに)難しく、いちばん順当なのは、安土山が「聖地」のように祭られた形と申しますか、近づく者(参拝者?)に威厳を示す効果が際立っていたのではないでしょうか。

かくして、たとえそれが「羅城門」級であっても、私なんぞは、ますます <信長廟の門構え> に見えてしまって仕方が無いのでして、仮にそうした場合、写真のような規模の二重門が建つと、安土山の南面はどういう姿になっていたのか、思い切ってイラスト化してみました。


本能寺の変(織田信長の死)後の安土山の仮想イラスト

これは城や都城でしょうか? こうなると私には陵墓や神宮(寺)にしか見えません…


ご覧の仮想イラストは、「大手門」前の広場や水堀については、かつて木戸雅寿先生が書かれた論考「安土城の大手道は無かった」(PDF/滋賀県文化財保護協会『紀要 第20号』2007年所収)の掲載図を参考にしながら描いたものです。

論考の「大手道は無かった」という刺激的なタイトルは、安土において「大手道」という名称が現れたのは江戸時代からであり、しかも城郭用語として実態に合わない(城内にある!)ため、もはや大手道という名称は使うべきでなく、「行幸道」か「御成道」に変えるべきだ、という木戸先生のお考えによります。


で、木戸先生は、通称「大手門」前の広場は、天皇行幸の際の儀式空間として造成されたのだろうとしていますが、上の仮想イラストを見れば、私なんぞは、なおさらのこと、これらは <建設途上で放棄された信長廟の表門と神橋(しんきょう)> ではなかったか、という疑いを深めてしまうのです。

しかも、民衆にとってこれらは「下街道」から眺めるだけの廟所として、さながら天皇陵が水濠に囲まれて、近づきがたい雰囲気を漂わせる様子にもソックリではないでしょうか。

ですから、ひょっとして名称の件では、大手道はいっそのこと表参道(!?) にでもすべきかと思ってしまうわけで、かく申し上げる私の念頭にあるのは、山頂に信長廟が建立された安土山と、のちに徳川家康の遺骸が葬られた久能山東照宮との、地形的な類似性なのです。


久能山東照宮の地形

鳥居を過ぎて石畳のあたりから見上げた様子



(※次回に続く/未解明の三法師(織田秀信)邸、駿府城天守との関係など)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!まことに興味が尽きなかった城郭史学会の大会から






まことに興味が尽きなかった城郭史学会の大会から


駿府城天守の周囲を前代未聞の「露台」がめぐっていた可能性についてのお話の続きは、申し訳ございませんが、また一回先送りしまして、先週末のセミナーの感想を是非ともお伝えしたく思います。

4月20日開催の、西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)先生の日本城郭史学会の大会は、テーマが「安土城天主」でした。

私は以前、まったく個人的な理由から史学会に迷惑をおかけしてしまい、以来、カンペキに敷居が高くなっていたものの、テーマがテーマだけに、矢も盾もたまらず参加させていただいたという次第です。


会場の江戸東京博物館にて

(※西ヶ谷先生が内藤昌先生から寄贈されたというイラスト)


大会テーマの発端になったのは…

千田嘉博著『信長の城』(岩波新書) / 池上裕子著『織田信長』(吉川弘文館 人物叢書)

  


大会の冒頭、司会の伊藤一美先生が言われるには、昨年に出た「衝撃的な二冊」、ご覧の千田嘉博先生と池上裕子先生の本が企画の発端だったそうです。

不覚にも自分は『織田信長』の方をまるでフォローしてなかったため、セミナー終了後に本屋に飛んで行ったのですが、二冊の安土城のとらえ方は、織田信長の城の「求心性」では一致するものの、「階層性」という概念をめぐっては、異なる見解が対立しているように見えました。


千田先生の著書はご承知のとおり(前年末に出た『天下人の城』と共に)安土城等について、かなり思い切った論調で自説を展開された注目作でした。

私なんぞは『天下人の城』の段階で、例の『信長公記』類にある天主台の広さについて「文字史料の誤り?」と書かれていたのを見つけた時、ついに来るか、と大きな期待を感じました。

そして次作『信長の城』での「天守」の解釈、天守と織豊系城郭(求心性)との関係などは最大級の賛辞を心中で発したものの、具体的な安土城天主の復元案には「あ…」と複雑な感想を抱いてしまいました。(※今回の文末にその感想を図解付きで申し上げています)


一方、池上先生の著書は、信長が奉行人制や評定衆などの政治機構を設けず、また百姓と向き合う農政や民政も無く、絶対服従する家臣への直接的な命令だけで“すべて”を動かそうとした点(=ワンマン独裁者?)に注目されました。

ですから、そうであるなら織豊系城郭の「求心性」とは何だったのか、「階層性」の実態はどういうものだったのか、という疑問が大会企画の発端になったのかもしれません。


で、セミナーの講師には、千田先生の著書で痛烈な批判をあびた(!!)滋賀県文化財保護課の松下浩(まつした ひろし)先生や、宮上茂隆復元案の生き証人・竹林舎建築研究所長の木岡敬雄(きおか たけお)先生をお迎えするなど、意欲的なラインナップでした。


とりわけ自分にとっては、当サイトで申し上げて来た「大胆仮説」に関連しうる発言がいくつも、発表や質疑応答の中にちりばめられていて、まったく興味の尽きない1日だったのです。

ということで、今回お伝えしますのは、決して当大会の公平かつ妥当な報告文ではなくて、あくまでも私の勝手な我田引水ばかりの印象記であることをお断りしたうえで、順次申し上げて参りましょう。





<山が動いた!! / 私にとって最大の福音になった西ヶ谷恭弘先生の「八角」発言>






西ヶ谷先生の発表「安土城天主復元諸説をめぐって」は、話題になった天主崩壊説(大雨で一度倒壊した)を含む復元諸説の紹介があったわけですが、その最後の <十、「六重目八角四間程」をめぐって> での発言は、これまでの安土城天主の復元の歩みを転換させる契機になって行くのではないでしょうか。

先生は大村由己の『秀吉事記』(『天正記』)が豊臣秀吉の大坂城天守について「四方八角」と表現したことを踏まえて、安土城天主の六重目も「本当に八角形だったのだろうか」と発言されたのです。


その直前には先生ご自身の(もちろん八角円堂による)復元案の紹介もあったので、よもやそんな展開になるとは思っていなかったため、私は会場の最後列に座ったまま感極まり、思わず目頭が熱くなったことを白状いたします。


八角円堂ではない「十字型八角平面」による六重目/当サイト仮説イラスト


で、決して他意は無いのですが、かつて八角円堂による六重目を含む斬新(ざんしん)な復元案で一世を風靡した内藤昌先生が、昨年の秋に亡くなられたことも含めますと、なにか時代がまた動き始めているような気がいたします。

そして何より、八角円堂による自説の復元案もあるのに、ああいう発言をされた西ヶ谷先生の深意は何だったのか… 非常に重いものを受け取ったように、私なんぞは勝手な感慨にふけってしまうのです。





<宮上茂隆案はいまも変化し続けていた / 木岡敬雄先生の「二段目の石垣」発言>






木岡先生は宮上茂隆先生のもとで宮上案の図面を引いたという方で、まさに宮上復元の生き証人と申し上げてよいのでしょうが、そんな木岡先生の発言の中にも、ハッとさせられる事柄がありました。

と申しますのは、宮上案に対する三浦正幸先生の批判のホコ先になっているのが、天主台上に復元された複雑な形状の「二段目の石垣」であり、宮上先生は生前にこれの高さを五尺として図面化するように指示したそうです。


以前のブログ記事の作図より/二段目(濃いグリーン)は外観上はすっきり見えても…


木岡先生は指示どおりにこれを高さ五尺で図面化し、それをもとに何枚かのイラストが描かれ、世間に認知されて来たのですが、その一方で、宮上先生は『国華』で次のようにも書いておられました。


(宮上茂隆『国華』第998号/1977年より)

不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。


つまり宮上先生は、二段目が無かったケースにも、ちゃんと目配りしていたのです。

そんな遺志を継いでか、いま竹林舎建築研究所から発表する図面は、木岡先生の新たな復元図として、二段目石垣を高さ1〜2尺の低いものにしているそうで、言わば、宮上案はいまも生き続けていた(変化し続けていた)わけです。

私なんぞは、これは素晴らしいことだと思いますし、今後は宮上案の復元図などを見かけた時、それが「宮上図」なのか「木岡図」なのか、見極める楽しみが増えたように感じています。





<『信長の城』への反論の機会がありがたいと… / 松下浩先生の「大手門のズレ」発言>






ご承知のとおり、20年に及ぶ発掘調査の中で(旧)安土城郭調査研究所が発表した「清涼殿に酷似した本丸御殿」説は、三浦正幸先生や川本重雄先生から強い批判を受け、それに続いて千田先生は、小牧山城にも大手道があることから、安土城「大手道」を天皇の行幸道とした先の発表を、重ねて批判しました。

そんな渦中にある松下先生は、セミナー冒頭で「岩波新書(『信長の城』)の力は恐ろしい」とボヤきながらも、話題の伝信忠邸跡の石垣跡の正しい読み方を力説して、千田説に反論するなど、けっこう涙ぐましい様子に(私には)見えました。


かく申し上げる当ブログも、これまでに「清涼殿〜」説への対案(→記事)をアップしたり、「大手道」や大手門の四つの門は、ひょっとすると信長廟の門構えなのでは?(→記事)などという勝手な推論を申し上げて、批判の後追いをして来た立場にあります。


対案(雁行する御殿群と「儲(もうけ)の御所」説)のイラスト

「大手道」の直線部分は信長廟に向かっている!?


そんな私が思わず身をのり出したのは、発表後の質疑応答で、史学会評議員の坂井尚登さんが問いかけた「大手門の位置」に関する質問でした。

それは上図(やブログ記事)にも小さく描きましたように、大手道の登り口である「大手門」が、安土城郭研究所の発表では右側に微妙にズレているのは何故なのか、という疑問点であり、これに対する松下先生の答え(答え方)がたいへんに興味深かったのです。


ご承知のように研究所の発表では、四つの門は、内裏や中国の周王城などにならった都城の形式だとしていて、それは松下先生自身が「思いついた」ものだそうですが、先生は先の質問を受けると、ちょっと困ったようなニガ笑いをされて、発表内容に至った経緯について説明されたのです。


ひょっとすると、大手門は幅30m超の「羅城門」級の巨大な門だった!?

(※滋賀県安土城郭研究所『図説 安土城を掘る』掲載の図をもとに作成)


松下先生のお答えによれば、図のように「推定大手門」の左側の石塁もまた推定のものであって、出土した石塁跡のままであれば、その門幅は約30mもあり、「これでは羅城門のようになってしまう」と先生自身が懸念して、一、二の出土礎石をもとに左側の石塁を“推定した”のだそうです。!!

この回答に対して、質問者の坂井さんが「羅城門でもいいんじゃないですか」と応じていたのは、これもまた城郭研究の一つの転機になりうる質疑応答だったのではないでしょうか。







<では最後に、千田復元案に対する当サイトの感想を申し上げますと…>



まずは当サイト仮説の図から/『信長公記』類の数値は、南北と東西が逆だったのではないか


当サイトでは、天主台上(二重目)の空地を含む広さは、『信長公記』類に書かれた「二重 石くらの上 廣さ北南へ廿間 東西へ十七間」という数値が逆であったと考えますと、現地の遺構にスンナリ当てはまることを申し上げて来ました。

しかし千田先生が『信長の城』で提起された新復元案は、文献どおりの数値を実現すべく、天主二重目の木造部が天主台から大きくはみ出して建つように、大規模な懸造り(かけづくり)を想定したものです。


千田復元案の根幹を成すのは、ご覧のような「20間×17間」の想定方法



(千田嘉博『信長の城』2013年より)

別言すると懸け造りで天主台から天主が張り出したと考えないと、『安土日記』や『信長公記』の記述と遺跡でわかる実際の天主の規模を合致させることはできないのです。
同様に北側もしくは南側でも天主が懸け造りになっていたと考えれば、南北二〇間の記述とも合致します。
(中略)
天主台石垣の高さによって石垣天端まで伸びた柱がどこまでだったかには解釈の余地がありますが、石垣直下の東列礎石では北から七石目、西側礎石では北から四石目までが、少なくとも天主の懸け造りに関わった礎石と推定しておきたいと思います。


このように千田復元案とは、天主台の南西側の「二の丸東溜り」で発見された礎石列に立脚したもので、そこを南西端として天主台を取り巻くように懸造りが築かれ、それで文献の「20間×17間」が建物二重目として建てられたとするものです。

(※ただし礎石列は、間隔は2.1mと天主台石蔵のものと同じですが、その軸線・石列の向きは上図のようにずいぶん異なっています…)


ということは、今後、天主台跡の北側において、限定的な発掘調査を行いさえすれば、この千田復元案の評価はかなりハッキリするのではないでしょうか。

仮に先生の著書にあるように、懸造りや天主の全体が南へ(図では上へ)3間ズレていたとしても何かしら「出る」はずでしょうし、出なかった時は、それはそれで興味深い状況になると思われるのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年04月14日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!駿府城天守のまわりは付櫓か? それとも広大な「露台」か!?






駿府城天守のまわりは付櫓か? それとも広大な「露台」か!?


天守から何が見えたのか/…反対の南側には太平洋の水平線も

北東に見える富士山(この写真はサイト「BLUE STYLE 第二事業部」様からの引用です)

(※静岡県庁別館21階からの撮影/写真左下が駿府城公園の一部)


お話は前々回からの続きになりますが、大日本報徳社蔵の城絵図によって、これまで「天守台四隅の隅櫓」と思われた墨塗り部分が、よくよく見れば天守にしっかりと接続していることは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じています。

では、天守台上の幅広い墨塗りをどう解釈すべきか?と申しますと、天守と接続していることから該当するのは、まずは下写真のような「付櫓(つけやぐら)」ではないでしょうか。


福山城天守に接続した付櫓(園尾裕先生所蔵の古写真より)



もしも古写真のような付櫓の類であったなら、図の駿府城天守に登閣した者は、そのまま二階から水平移動で、天守のまわりの付櫓に入ることが出来たでしょうし、さらに歩を進めて天守台周囲の風景を眺めることも出来たでしょう。

ですから、こうした構造であれば、前々回に引用させていただいた八木清勝先生の懸念(天守二階からの眺望の問題)は、もしかすると、取り越し苦労になるのかもしれません。

で、多少、前々回とダブりますが、もう一度だけ、八木先生の文章を確認しておきますと…


(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守の二階に高欄を設けたのは、二階からの眺望を得るためと思われる。
天守台上の地面と外側石垣との差は十二尺五寸(約三・八メートル)で、二階床面がわずかに外側石垣の天端より高い程度である。
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでの建物である。
少なくとも富士山や臨済(りんざい)寺、浅間(せんげん)神社を見渡せる西北から東にかけての方角には、二階からの眺望を妨げる、多聞櫓のような高さ二十尺(約六メートル)を超える桁行の長い建物は建てられなかったと思われる。



ご覧の文面でお気づきのとおり、八木先生の指摘で肝心かなめの部分は、懸念の発端が「二階に高欄を設けた」のは何故か? という、高欄の目的にある点です。

ですから「付櫓」であってもダメ…… と言いますか、とにかく天守二階の高欄からの眺望をさえぎるものは、それが何であれ、天守の設計と矛盾してしまうだろう、という考え方なのです。

(※この観点は、前々回も申し上げた「隅櫓や多聞櫓は文献史料に一言も書かれていない」という件も深く関係して来るでしょう)

まぁ細かい事をつつくようですが、この部分が一番大事なキモになるわけですから、それにしたがって第二の可能性を探ることにしますと、次に浮上して来るのが、ちょっと意外な「露台(ろだい)」なのではないでしょうか。!!


露台造りの実例:手前の板張り部分が厳島神社の平舞台(国宝)

(※この写真はサイト「日本の遺産〜日本で出会う遺産」様からの引用です)


露台とは、ご覧のように屋根の無い、御殿から張り出した広い縁側のような構造物でして、一般にはその上で池庭を鑑賞したり、宴席を設けたり、という目的で造られて来たものです。
ただし写真の厳島神社「平舞台」の場合は、これそのものが本殿の前の「庭」という位置づけだそうです。

そういう言わば遊興施設?の一部ですから、天守のまわりに露台、というのは前代未聞のことで、またまた私の妄想癖が始まった(…)とお感じになるかもしれません。


ですが、天守のまわりの天守台上に(どういう目的なのか)空地を設けた事例が歴史的にいくつかあったことも、ご承知のとおりです。

例えば以下の各天守で、その空地の目的が判明しているものは一つも無く、これらはおそらく、過去の何らかの形態のなごりではなかったのかと、私なんぞには感じられてなりません。

・会津若松城天守
・小松城本丸御櫓
・金沢城御三階櫓
・安土城天主(当サイト仮説)等々


一方、これらと駿府城天守との違いは、駿府の方には大きな「穴倉」状のくぼみがあることで、言葉を換えれば、天守台上が大きな矩形の石塁で囲われている点でしょう。

ですから、露台でその上を覆ってしまうのなら、何故、わざわざ天守台を石塁で囲んだのか… この場所は防御的なのか開放的なのか、方向性がはっきりせず、設計に矛盾が生じるではないか… といった疑問は当然のことです。


この件に関しては、以前のブログ記事でも申し上げた、駿府城天守の完成までの特異な経緯(駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか)や、下図の名古屋城との相似形の裏に、疑問に対する答えや真相が隠れているのではないかと勝手に想像しております。




これについてはすぐに答えが得られるわけでもありませんので、ここは、今回のお話を最後まで申し上げてしまいますと、天守のまわりに「露台」という前代未聞の形でスペースが設けられたとしても、正直申しまして、私はさほど違和感を感じません。

何故かと申しますと、以前にもご覧いただいたイラストですが…


天守のいちばん原初的なイメージ 〜織豊期城郭の求心的な曲輪配置の頂点に〜

 
ともに派生形か… 天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説) / 本丸石垣の一隅に建つ高知城天守(現存)


ご覧のように、そもそも最初の天守は、おそらく敷地の台上にタップリと空地があったのだろうと想像しているからです。

ですから駿府城天守のまわりに広大な「露台」がめぐっていたとしても、それは全く奇異なことではなくて、むしろ天守の発祥に関わる、原初的な形態を踏まえた(才気あふれる)デザインなのだと感じられてなりません。

そこには中国古来の「台」の伝統も垣間見えるようで、駿府城天守の造型に小堀遠州が関与した可能性は低いとも言われますが、もしも今回申し上げたような構造が天守の周囲に施されていたなら、そこはまさしく、大王の「国見(くにみ)」の場にもふさわしい気配が漂っていたのではないか… などと思わず空想してしまうのです。


広大な露台に囲まれた、新「王朝」府の天守か






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年03月31日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する






続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する


これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…


大雑把に描いたものと思われた「黒い墨塗り」が、発掘調査等に基づく天守台に当てはめてみると、天守の部分が「10間×12間」に測ったようにジャストフィットしてしまう!!
この意外な現象は、大日本報徳社の城絵図に対する、これまでの見方を改める必要性を問いかけているのではないでしょうか。

とりわけ「四隅に独立した隅櫓」とされて来た墨塗り部分が、原資料の城絵図では天守にしっかりと接続していることは、これまで全く省みられなかった点です。

少なくともこの点だけは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じます。
ということは、これらは最低限、「隅櫓」ではなく「付櫓(つけやぐら)」か何かと考えるべきであって……



<閑話休題>



まことに恐縮ながら、このように前回から続く構造的なアプローチのお話はここで一旦、次回に先送りさせていただきまして、今回は是非とも、当ブログが「究極の立体的御殿」として駿府城天守にこだわる理由について、ちょっとだけ、念押しさせていただけないかと思います。

と申しますのは、この件ではどうも筆者だけが勝手に興奮しているようで、こうまでしてお話を続けている心理的な背景が、今ひとつ、伝わっていないような気がしてならないからです。


諸書に「朱茶色の柱」と解説される築城図屏風(名古屋市博物館蔵)の天守


前回も申し上げたとおり、駿府城天守を描いた絵画史料としては、ご覧の「築城図屏風」がたいへん有意義な点を含んでいると思われ、この描写を一方の「東照社縁起絵巻」と比べた場合、いくつもある相違点のうち、最も特徴的なのは「朱茶色の柱」でしょう。

この「朱茶色」は屏風の経年変化でどれだけ退色した状態か分かりませんが、赤系統の一色で塗られた柱や長押、妻飾りなどの描き方は、全国の丹塗りの神社仏閣でよく見かける手法になっています。


例えば、筑波山の日枝神社・春日神社の拝殿(写真はサイト「Thanking Nature」様からの引用)

築城図屏風の描き方も、破風の豕扠首(いのこさす)などソックリ


破風内で斜め材と束を組み合わせた「豕扠首」は、神社仏閣や官衙(かんが)建築でポピュラーな妻飾りであり、写真の拝殿は江戸初期・寛永10年の造営です。

一方、このように赤い柱や長押を建物全体に見せた天守は、現在、屏風絵など美術品の表現でしか見られませんが、しかし天守の歴史において“赤い部材”は皆無だったか、と言えば、そんなことは無いわけです。


徳川家康は安土城で何に心ひかれたのか? と想像すると…


前々回も申しましたが、天正10年、家康主従は本能寺の変の半月ほど前に安土に招かれ、その様子は『当代記』の「五月十五日、家康安土へ着給」で始まるくだりに紹介されていて、安土滞在の最終日、一行は山頂主郭部の御殿や天主を一日かけて見物することが出来たようです。


(『当代記』より)

廿日家康を高雲寺の御殿(※江雲寺御殿か)へ被稱(あげられ)、酒井左衛門尉を始家老之衆、并武田陸奥守穴山事(※穴山梅雪)被召寄、殿守見物仕、さて元の殿へ帰 膳を被下、夜半迄色々被盡美


この約二ヶ月前に“朝敵”武田勝頼を共に討ち果たし、今度はその家康に安土城の天主をじっくり見せた織田信長の底意を推し量りますと、改めて「天下布武」の体制転換の構想を、同盟者の家康にも理解させたい、という願望があったように感じられてなりません。

例えば以前のブログ記事でもご紹介した、『朝日百科 安土城の中の「天下」』の解説文の「安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないか」というほどのニュアンスが、この時、家康らに伝わったのかどうか分かりませんが、その後の家康の生涯を見ますと、慶長20年の禁中並公家諸法度(きんちゅう ならびに くげしょはっと)によって、徳川幕府が天皇から日本国の大政をあずかる「大政委任」という形に持ち込んだことは重要でしょう。

そういう政治動向の影響なのか、江戸初期、徳川親藩をはじめ大名らの間では「王朝風」の美術品や庭園・建築等が盛んにもてはやされ、また家康自身は外国人から「皇帝」と呼ばれたことなどは、当時の公武関係の(逆転した)空気を物語っているのかもしれません。


安土城天主の「赤」の復元方法 … 宮上茂隆案 / 内藤昌案 / 兵頭与一郎案


そうした時流の推移を踏まえて、家康の安土訪問を振り返りますと、安土城天主は中層部分に「赤い漆を塗った木柱」(フロイス『日本史』柳谷武夫訳)があり、ひょっとすると家康は、まばゆい金箔瓦や金具よりも、むしろその“王朝風の赤い柱”の方に心ひかれたのではあるまいか… などという妄想に、私なんぞは捕らわれてしまうのです。

そうであったとすれば、色んな事柄に一本、筋が通るような気がしてならないからです。


平安京の赤色の再現 / 近代以降では平安神宮の蒼龍楼(1894年造営)など





<駿府城の普請奉行・小堀遠州(こぼり えんしゅう)
 王朝的古典建築に通じた遠州は、天守の設計には関与しなかったのか??
 ならば、あの初重・二重目の御殿風の造りは、いったい誰の発意だったのか…>





小堀遠州(頼久寺蔵の肖像画/ウィキペディアより)


さて、ここで是非とも申し上げたいのが、下記の森蘊(もり おさむ)先生の古典的著作で「時のアイデアマン」と評された、小堀遠州の存在なのです。(※当ブログはようやく遠州について触れられる段階に来ました…)


(森蘊『小堀遠州の作事』1966年より)

将軍家が作介(=小堀遠州)の実力を認めはじめたのは、慶長十一年(一六〇六)後陽成院御所の作事奉行に任じ、同十三年(一六〇八)駿府城奉行をつとめさせた時以来であって、その機会に従五位下遠江守として諸大夫の一人に取立てられたのである。
更に慶長十六年(一六一一)からは禁裏の造営、十七年(一六一二)名古屋城天守の修復にと、遠州の活動範囲が急にひろがっている。

(中略)
遠州は前述の如く諸大名が単に賦役的に名を連ねた作事奉行と同列ではない。
また中井大和守正清、五郎介正純親子のような家系による大工頭や棟梁というような職人的技術家でもない。
幼少の頃から作事奉行としての父新介の現場指導振りを見聞し、物心ついてからは南都一乗院はじめ王朝的古典建築の意匠を理解し、それを時代とともに移り変る宮廷生活に適合させるよう便化すべきを提案した。



小堀遠州の頭抜けた才能を示した、仙洞御所の切石で囲んだ池庭(復元)

(※お茶の郷博物館より/写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用)


この遠州こそ、天守の歴史にもただならぬ影響を与えた人物だと思うのですが、駿府城の普請奉行をつとめた慶長の頃はまだ「細部意匠に口ばしをはさむ余地はなかった(上記書)」とも言われ、そのせいか、遠州と駿府城天守の造型との関係はほとんど言われて来ておりません。

しかしそうだとすれば、あの初重・二重目の御殿風の造り(開放的な落縁や高欄)はまったくもって突然変異のようで、いったい誰があんな構想を言い出したのでしょう。

よもや大工棟梁の中井正清の進言とも思えませんし、やはりこうして考えた場合、発案者として最も相応しいのは「小堀遠州」であり、もしも遠州ではないとしたら、それこそ「家康その人か」という結論にもなって来るわけで、この事柄の意味合いに、もっと議論がなされるべきだと思うのですが、どうでしょうか。




それぞれの天守に込められたモチーフは…

安土城→皇帝の館か / 豊臣大坂城→八幡神の塔か / 駿府城→ 新「王朝」府か


そろそろ今回の結論を申し上げるなら、慶長13年頃の段階で、駿府城天守が全身に赤い柱や長押を見せていた場合を想像しますと、それは必ずや近いうちに豊臣関白家を討滅して、天皇から日本国の大政をあずかるに相応しい新「王朝」府を、先取りして築いたかのように見えてなりません。

それは伝統に対する巨大な欺瞞(ぎまん)と申しますか、軍略家としてのハッタリと申しますか、新たな関東武家政権として、いよいよ図に乗る風を、上方にあてつけがましく見せていたようにも感じられます。

そこには戦場の勝利者ならではの身勝手さが横溢(おういつ)していて、政権簒奪(さんだつ)の象徴として打ち立てられた「朱柱」の「最後の立体的御殿」、というところに、私なんぞは思わず興奮してしまうのです。







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2013年03月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える






「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える




前回に「小さなコロンブスの卵」としてお目にかけた図では、天守の上層部分にうっすらと唐破風を描きましたが、おそらくこれをご覧になって、「唐破風」は文献史料では四重目か五重目と書いてあるじゃないか… という疑問をお持ちになったのではないでしょうか。

実はこの点が、またもう一つ、ここで是非とも申し上げておきたいポイントだと思っておりまして、何故かと申しますと…


徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守


ご覧の三つの天守は、以前の熊本城天守のブログ記事(徳川系の天守か?)でご覧いただいたものですが、このように同じ唐破風でも、右側の福井城天守や熊本城大天守は独特の設置の仕方をしていました。




そしてご覧の位置に「唐破風」を想定しますと、福井城や熊本城のケースとたいへんに良く似た状態になるわけでして、このことが決して酔狂で済まされないのは、以前は“駿府城を描いた屏風絵”として盛んに誌上等で取り上げられた絵が、これらとまた良く似た要素を持っているからです。


お馴染み!! 名古屋市博物館蔵「築城図屏風」(謎の天守が描かれた部分)


(内藤昌編著『城の日本史』1995年より)

この屏風絵は、慶長12年前田家の御手伝普請を描いたもので、第6扇下に描かれた白地に赤丸(日の丸)は本多家、三巴が篠原家の家紋で、両家が助役した天下普請は慶長12年の駿府城築城に限られるから、9月利家が駿府に出仕した頃の図と断定できる。


という風に、以前は「築城図屏風」はこういう言われ方をされていて、徳川幕府による駿府城二ノ丸の天下普請(石垣工事)を描いた絵と見られていたものの、昨今では、むしろ前田家の居城・金沢城の石垣普請を描いたものではないか、とも言われています。

そうであるなら、ここにあるのは金沢城天守ですが…


そぐわない点は多々あるものの、どこか捨て切れない両者の類似性


ご覧のとおり、前回の「小さなコロンブスの卵」で読み直した文献史料の記録と、以前は駿府城天守とも見られていた描写との間に「どこか捨て切れない類似性」が見て取れるわけなのです。!…


そしてもし仮に、左側の絵の描き方に“多少の”間違いが含まれていた場合は、類似性はますます見過ごせないものになるでしょう。

現に、絵の天守は盛り沢山の破風が描かれていますが、それらは平側と妻側が細かい破風まで完璧に同じ(!!)という、他に類例の無い、妙な姿で描かれていて、この部分を絵師の“筆の誤り”として割り引いて見た場合はどうでしょうか。


まことに勝手な推理として、この絵は、天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに絵師が「四方正面の天守」を強引に描いてしまった結果なのでは? といった邪推をしますと、破風の配置としては、他にも幾つか類例のあるスタイルに近づくように思われます。

(※ちなみに当ブログは、決して四重目か五重目の「唐破風」を否定するものではありませんので、おそらく妻側の中層部分の屋根にも唐破風があったものと考えます…)




右写真:日光東照宮蔵「東照社縁起絵巻」より引用


と、ここまで申し上げて来た事柄は、2012年度リポートの「東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか」という内容と密接に関係していることは、ご推察のとおりです。

かく申し上げる私の本音としましては、駿府城天守を描いた絵画史料としては、実は「東照社縁起絵巻」よりも「築城図屏風」の方が、ずっと有意義なのではあるまいか… という事に他なりません。

ただ一点、気がかりな問題は、上左写真の「築城図屏風」の初重の大ぶりな破風だけは、『当代記』等の記録と明らかにバッティングしてしまう点で、これについてはまた一つ、お伝えしたいポイントがあるのです。





<これまでの多くの復元案にある、天守台四隅の「隅櫓」や「多聞櫓」は、
 「立体的御殿」のねらいを台無しにしてしまう復元方法ではないのか??
 しかもそれらは何故、文献史料には、一言も書かれなかったのか…>








(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守曲輪の外周には多聞櫓が廻り、四隅には隅櫓があったという説もあるが、二階に高欄が廻っていることを考慮すると、この説にただちに賛成することには躊躇する。
(中略)
駿府で永年過ごした家康にとって、富士山に対する思い入れは相当なものであったと推察され、晩年、隠居城を造営するに当って富士山の眺望を無視することは考えられない。
(中略)
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでである。


これまでの多くの復元案が、天守台の四隅に隅櫓、石塁上に多聞櫓が廻っていたとするのに対して、上記の八木先生の指摘は異彩を放っています。

指摘の内容は、駿府城天守を最後の、究極の「立体的御殿」と考える当サイトの立場からしますと、まことに核心を突いた指摘であると申し上げざるをえません。


とりわけ慶長13年当時、すでに65歳の太った徳川家康が、これに登ることも大前提とした天守のまわりに、本当に、独立した隅櫓や多聞櫓をぐるりと廻らせたでしょうか。

その場合、家康が多聞櫓の向こうの景色を見るためには天守の三重目以上に、二重程度の隅櫓の向こうを見るには四重目以上に登らなくてはならなかったでしょう。


この疑問(少数派の疑問)を解いてくれるヒントが、実は「隅櫓・多聞櫓説」の根拠とされた絵図の中に、コッソリと隠れているのです。


大日本報徳社蔵『駿州府中御城図』の天守周辺


この絵図の黒い墨塗り部分が「隅櫓・多聞櫓説」の根拠となったものですが、ご覧のような墨塗りの様子と、実際に天守台四隅に隅櫓を付設した淀城天守(寛永度)の例を参考にしながら、「隅櫓・多聞櫓説」は出来上がったと申し上げていいでしょう。

ただしその時、墨塗り部分の「面積」や「形」については、かなり大雑把に描いたものだろう、という先入観がすでにあったはずです。……


駿府城公園の整備計画図(静岡市ホームページより引用)


では実際の天守台はどうだったか?と申しますと、発掘調査などの結果、ご覧のような、思った以上にひしゃげた平面形をしていたことが判って来ております。(画面中央の左上あたり)

そこで試しに、その平面形に合わせて、静岡県立中央図書館蔵の『駿府城御本丸御天主台跡之図』に書かれた寸法等を当てはめてみますと、次のようなイラストが描けるでしょう。




で、このイラストに合わせて、前出の大日本報徳社の絵図をダブらせつつ、さらにその上に、文献記録の初重の規模(10間×12間)を載せてみますと、究極の「立体的御殿」の実情をうかがわせる、大変に、大変に面白いことが分かるのです。


10間×12間が、天守の墨塗り部分にピッタリ!!

ところが隅櫓や多聞櫓の墨塗りは、石塁の内側に大きくハミ出て、天守と接続!!




これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…

むしろ参考にすべき天守は…


(※次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年03月03日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!駿府城天守の復元方法をめぐる「小さなコロンブスの卵」






駿府城天守の復元方法をめぐる「小さなコロンブスの卵」




天正10年5月、徳川家康一行は安土城におもむき、織田信長みずからの饗応を受けました。

その半月後には本能寺の変が起きたわけですが、この時、家康らが目撃した安土城天主の印象は、間違いなく後の駿府城天守の造型に反映されたはずだとも言われます。

ですから駿府城天守こそ、最後にして、究極の「立体的御殿」であったと申し上げるべきであり、奇しくも『信長公記』類の安土城天主の記録ほどではないにしても、建物の要点はしっかりと『当代記』等々の文献に記録されました。

その記述内容はもう良くご存知のことと思いますが…


(『当代記』此殿守模様之事)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落 椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
            懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
          懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
          懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
     破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
     鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金
           


この他に、例えば『慶長政事録』には「三重目 九間に十一間 各々四面に欄あり」とあって、三重目の造りが二重目までとはちょっと違っていた可能性がある点や、「七重目 四間に五間 物見の殿という」とも書かれていて、最上階の規模もちゃんと分かる点など、ご承知のとおりです。

で、これほど詳しい記録があるにも関わらず、それにしては諸先生方の復元案がかなり、かなり相違していて、こうまでも<専門家の足並みがそろわなかった>のは何故なのでしょうか?

そこには、そうなるだけの「落とし穴」が、文献の文字情報そのものの中に、コッソリと潜んでいるからではないのかと思われます。例えば…




<普通に読めば「五重天守」なのに、屋根が六層になってしまう… この怪現象は何なのか??>




文献に書かれた各重の規模を 単純に積み上げると…


前述の『当代記』に類似して、たいがいの関連文献にある「屋根」と「腰屋根」は合計5つであり、したがって駿府城天守は五重七階であったと、すなおに読み取れそうなのに、いざ立体的に検討を始めますと、屋根が6つ!必要になってしまうのです。

これこそ文字情報の中に潜んだ「落とし穴」のせいだと思われ、諸先生方の復元がバラついた最大の元凶のように思われます。


(大竹正芳「駿府城」/西ヶ谷恭弘監修『名城の「天守」総覧』1994年所収より)

駿府城天守の五階と六階の逓減(ていげん)率は平側が一間差、妻側が二間差と一定でない。これは望楼型天守によく見られるパターンである。


このように逓減率の不規則さを指摘されていた大竹先生は、ご自身の復元画では、幕府直轄の層塔型の名古屋城天守などに、望楼型に近い慶長度二条城天守などの要素(入母屋屋根を交互に重ねるスタイル)を兼ね備えた天守として描かれました。

しかし私なんぞは、いっそのこと、現存の松本城天守に見られる、逓減率の不規則な扱い方(層塔型の変則形)の方が、今回の謎解きのヒントになるような気がしてならないのです。


層塔型の松本城天守 / ただし最上階とその直下の階は この東西面では同じ幅になっている


同じ階の南北面の方はふつうに逓減しているため、この部分の屋根は上下階の不規則な変化になんとか対応していて、一般に松本城天守と言いますと、れっきとした層塔型天守とされるのに、部分的にはこういう“荒業”もやっているわけです。

しかもここで是非とも、ご注目いただきたいのは、最上階屋根の大棟は、この「変則形」の長短とは90度ちがう方角に向いている、という点なのです。(!!)


これは大変に重要なポイントではないかと、かねがね感じて来たのですが、その上、駿府城天守はこの松本城天守を参考にして築かれた、という所伝もあるそうでして、仮にこの「変則形」をそのまま駿府城天守の記録に当てはめてみますと、アッと驚く「コロンブスの卵」があらわれます。


すなわち、最上階の直下の六重目は、桁行と梁間の数値が、実際とはひっくり返った形で『当代記』等々の文献に記されて来たのではないか!?… ということなのです。


「小さなコロンブスの卵」


否、前言を小訂正。冒頭の引用文をもう一度ご確認下さい。そもそも『当代記』等には「桁行」と「梁間」の指定がありません!! …まさに「落とし穴」です。

(次回に続く)







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2013年02月18日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!2012年度リポートをアップしました!!






2012年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
〜「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ〜


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2013年02月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!先行派生記事…家康の江戸城天守の復元をめぐる紆余曲折(うよきょくせつ)を解く






家康の江戸城天守の復元をめぐる紆余曲折を解く


今回は、完成間近の2012年度リポートに関連した話題を、一部分、先行してお話してみたいと思います。

ご承知のとおり、江戸城では、三代にわたる天守(慶長度・元和度・寛永度)が順次建て替えられたわけですが、初代の慶長度天守=徳川家康の時代に建てられた天守と、二代目の元和度天守は、残された史料が乏しく、実像がよく判っておりません。

そのため、家康の江戸城天守については、これまでに諸先生方が様々な復元案を提示して来られた、という経緯があります。


その一例:表紙は大竹正芳先生の「慶長期江戸城天守復原図」


それらの復元の方向性を分けたポイントは、大工棟梁は誰なのか? 望楼型か層塔型なのか? 等々、いくつかあった中でも、とどのつまりは、下図の中井家蔵「江戸御城御天守絵図」をどのように扱うかで決まった、と申し上げても構わないのでしょう。


問題の絵図/中井家蔵「江戸御城御天守絵図」


そこで、この問題の絵図をめぐる、代表的な復元案のスタンスを表にしてみますと…




このように中井家蔵「江戸御城御天守絵図」を初代(慶長度天守)の復元用資料として採用したのは、宮上茂隆先生だけであり、その復元案(全身真っ白な層塔型天守!)が強いインパクトを放ったことから、その後の議論は宮上案への賛否に終始して来たような感があります。

そして現在は、どうも、新たな決め手を欠いたままの状態が続いているようで、これに対して何か手立てはないものか… と強く感じられてなりません。

で、誠に僭越(せんえつ)ながら、従来あまり言われて来なかった視点から、少々申し上げてみたいと思うのです。




<『当代記』が伝える天守台石垣の積み直しは何のためだったか>




(『当代記』より)

去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、殿守臺は二十間四方也


ご覧の文章は、初代(慶長度天守)が建造されるにあたって、天守台の工事がいったん完了していたにも関わらず、また石垣の工事(積み直しと積み増し)がなされたことを伝えています。

文面だけですと、その理由は定かでなく、ただ天守台の高さを2間かさ上げしたかっただけ、という風にも受け取れます。


しかし私なんぞの勝手な印象では、すでに高さ8間という規模がありながら、そこからわずか2間(!)のかさ上げのために大名衆を動員するとは、彼等の財力を少しでもそぐためのイヤガラセか、そうでなければ、やはり何らかの理由があったのだと思われてなりません。

―――そしてそれは、ひょっとすると <天守台の形式変更> だったのではないか、という気もするのです。


つまり、最初の工事で完成した天守台に対して、例えば大御所家康の周辺などから、何か特別な「注文」がついて、急遽、天守台の形式を変える必要に迫られてしまった… というようなことではなかったのでしょうか。

そしてそれは勿論、台上に建てる天守の設計変更(!!…)という事情も、大いにありえたように思われるのです。


天守と天守台の設計変更だったとすると、いったい何が起きたのか…


ここでもう一歩、手前勝手な推量をさせていただくならば、それは「穴倉の変更」ではなかったのかと。

例えば、例えばですが、当サイト仮説の豊臣大坂城天守のごとくに、最初は「半地下式の穴倉」で完成したものを、新たに半地下式では実行できない機能が「注文」されて、やむなく積み直し&積み増しで「地下一階分の穴倉」として改築・かさ上げされたのでは… といった経緯も想像しうるわけなのです。

ただしこの場合、新規工事分の高さは足して4間ですので、他の天守に比べれば、桁違いに巨大な穴倉(ほとんど体育館!?…)になってしまいますが、江戸城天守は他の階も桁違いに巨大ですし、また何よりも穴倉の構造的な不都合の解消が優先されたのだとすれば、可能性はあると思われるのです。



中井家は慶長度・元和度の両方の天守建造に関わっていた(『中井家支配棟梁由緒書』より)


と、ここまで申し上げたところで、再び冒頭の絵図をめぐる紆余曲折を振り返れば、一つ、新たな視点が加わったのではないでしょうか。

つまり問題の絵図と、天守台石垣の積み直し(設計変更)との間には“関連性”があったという視点に立ちますと、この絵図は慶長度天守にも、元和度天守にも、両方に関係した絵図と考えることが出来そうです。

その辺をいっそう無責任なあてずっぽうで申せば、この絵図は慶長度の設計変更によってキャンセルされた設計であり、その後、大御所家康の死後に、二代将軍秀忠によって再び取り出され、元和度天守としてリベンジを果たした絵図ではなかったのかと…。



※その他の詳細、特に家康の「注文」については2012年度リポートにて。

 東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
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2013年01月22日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・七重の層塔型「屈折」天守と「いちばん小さな天守」をめぐる異論






続・七重の層塔型「屈折」天守と「いちばん小さな天守」をめぐる異論




前回の会津若松城「七重」天守の推定イラストでは、窓の配置について、ちょっと違和感を感じた方もいらっしゃったのではないでしょうか。

と申しますのは、このように初重と二重目が同大で建ち上がった天守は、ほとんどが初重と二重目の窓の位置を、互い違いにずらして設けたものばかりで、イラストのように窓の位置を縦にそろえたケースは、ごく部分的にしか見られなかったからです。


しかし前々回に引用させていただいた平井聖先生の考察のように、層塔型の要素をもつ七重天守が実在した場合、そこには蒲生氏郷の「創意」が大きく関わっていたと思われてなりません。

その創意を斟酌するなら、「天守をもっと整然とした形で造型してみたい」というものであったはずでしょう。

そういう文人大名の発想のもとでは、従前の手法を捨てて、窓の配置まで「整然と並べてみたい」という渇望が勝ったのではあるまいか… などと勝手に推量しまして、イラストのように描いてみた次第です。





さて、こうなりますと問題は、<層塔型天守の誕生と普及>の経緯をどう考えればいいのか、ということになるわけですが、「普及」の方については、当サイトでは、徳川幕藩体制のもとで天守が城下町の中心に屹立するようになって、初めて四方正面が意識され、諸大名が(徳川将軍の天守にならって)採用したものだろうと申し上げて来ました。


一方、「誕生」の方に関しては、私なんぞが以前からずっと気になって来たのが、藤堂高虎(とうどう たかとら)時代の宇和島城天守です。(上図の右側/大竹正芳先生の復原図にもとづく略式イラスト)


この天守は諸先生方の復元研究によって、外観はかなり複雑かつ未整理な印象であったことが判っているものの、その実態として、天守本体の初重の平面形が真四角! 正方形になっていた点がたいへん興味深いのです。

と申しますのも、これを建造した高虎が、朝鮮出兵を経て、その後に丹波亀山城で「史上初」と言われる層塔型天守を築いたのですから、「誕生」の芽は、この辺りにあったのだと申し上げてもいいはずでしょう。



ところがこの度、それに先駆けた蒲生氏郷の会津若松城「七重」天守もあったとなりますと、実はこちらの天守も「平面形は正方形でありながらも外観が層塔型になりきれていない」という点では、ともに共通している(!)わけなのです。

つまり、ここに何か、層塔型天守の「誕生」をめぐる未解明のキーファクターがありそうな気がするものの、今のところは何なのか見当もつきません。



エジプトの通称「屈折ピラミッド」(写真:ウィキペディアより)


また冒頭の七重のイラストを見ていて、我ながら「屈折ピラミッドみたいだ」と感じまして、ちょっとウィキペディアを覗いてみますと、傾斜角度が途中で変わっていることの理由としては…

●勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した
●建造中に王が病気になったので、完成を急ぐため高さの目標を下げた
●これが完成形であり、下エジプトと上エジプトの合一を象徴している


などとバラバラで、こちらも理由がよく分からない様子です。

しかもこの屈折ピラミッドを経て、古代エジプトでは、より「整然とした」ギザの大ピラミッドの建造に至るわけですから、層塔型天守とピラミッド、けっこう浅からぬ縁があるのではないでしょうか。…


では最後に、このところ「七重」「九重」と景気のいい話が続きましたので、逆にグーンと小さな天守の話をさせていただきましょう。




<いちばん小さな天守〜雛形(ひながた)〜をめぐる異論をひとつ>




藤森照信 前橋重二『五重塔入門』2012年/「国宝五重塔の高さくらべ」のページ


最近、別の用件で「五重塔の心柱」に関する本を図書館であれこれと漁っていたところ、ふとご覧のページが目に入りまして、アリャっ…と我が身の不勉強を思い知ったところです。

と申しますのは、国宝指定の五重塔の中には、このように高さが4〜5mしかないものが含まれていて、しかもそれらは、いわゆる設計時の「雛形」とは言い切れない存在なのだ(!…)ということを、今の今まで把握していなかったからです。


海龍王寺五重小塔(国宝)/写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です


ご覧の海龍王寺(奈良市)の五重小塔は、奈良時代の建立で、内部が箱造りになっていて、そこに仏舎利か経典を納めたらしいと言われています。つまりこれも立派に五重塔であったわけです。(失礼)


元興寺極楽坊五重小塔(国宝)/こちらも写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用


一方、元興寺極楽坊(奈良市)の五重小塔は、反対に、内部まで精巧につくられていて、そのため中に通常サイズの舎利容器や経典を納めることは出来ないそうです。

となると設計時の雛形かと言えば、そうでもない事情を抱えているようで、そのあたりを本の著者、おなじみの建築史家で建築家の藤森照信先生は…


(藤森照信『五重塔入門』2012年より)

ではいったい造塔の目的は何なのか。これについては、従来ふたつの仮説が提示されてきた。

ひとつは、建築前につくられた「建築模型」であるとの説。
(中略)いかにもありそうだけど、残念ながらこの小塔とじっさいに建てられた大塔とはかなりちがっていた。
(中略)
致命的なのは大塔と小塔の側柱の位置が一致しないこと。大塔の礎石はいまも跡地に保存されていて、側柱の位置が正確に決定でき、それは安政の実測図ともよく一致する。ひるがえって小塔はどのように拡大しても、この礎石上にぴったりおさまるようには建てられない。
(中略)

第二の仮説は、小塔院に安置されていたとするもの。
小塔院は、大塔と伽藍中軸線をはさんで左右対称の位置にあり、この堂内に五重小塔が本尊として置かれていたと考える。
欠点は目撃証言がないことで
(…以下略)


という風に、「建築模型」説はかなり弱く、かつてこの五重小塔は本堂の一隅に安置されていて、「小塔院」という専用のお堂のような名前の建物にあった証拠はない、とのことです。ならばいったい何のための… という謎の国宝なのです。




小田原城天守の雛形(小田原城天守閣蔵/写真はサイト「地球の歩き方 旅スケ」様からの引用)

※こちらも、実在した天守とは合致しない部分を含んだ雛形


ということで、では「天守の雛形」はどうなのだ?と考えた時、自分なんぞはどうも昔から「雛形は着工前に城主に見せるため」とか「大工棟梁が修理の最善の方法を探るため」等々といった伝承や説明に、本当か… それだけのために… 絵図面ではダメだったのか… と引っかかってきた感覚が、一気にぶり返して来たのです。


ひょっとすると、五重小塔のごとく、天守の雛形にも、立派に天守に準ずる格や位置づけが与えられた可能性はないのか…

また製作時期で天守の創建や修理とおおよそ符合する伝承があったとしても、それは例えば、「工事期間中の天守の身代わり」というような意味が込められた可能性はなかったのだろうか…

等々と、あの人気の姫路城「天空の白鷺」を造れなかった時代の人々を案ずる、余計な心配やお節介が、あれこれと頭の中を駆け巡ってしまうのです。








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城の再発見!会津若松城「七重」天守の推定イラストをご覧下さい






会津若松城「七重」天守の推定イラストをご覧下さい


平井聖先生の指摘を中心に「七重」天守を現地に再建してみますと…


前回の予告で申し上げたイラストですが、いつもどおりに作ってみたところ、話題の「七重」はまったく現地の天守台等と違和感が無く、我ながらちょっと驚いております。


で、多少の説明を申し上げますと、現在の復興天守の位置は、江戸時代までと同じく天守台上の北西隅に寄せられていて、その建物中心に合わせて天守台の穴倉が、外側の石垣よりも明らかに新しい手法で築かれています。

そこで「七重」天守の頃の穴倉は、内部が違う形状であったと仮定して、その上の天守台上の様子は、おそらく帯曲輪側(北・西・南)の三方に、等間隔の空地が天守周囲をめぐる形であったろうと想定しました。

その結果、「七重」の壮大さが、本丸御殿(イラストのこちら側)からよく見える状態になりました。


また外観の意匠については、七重に描かれた『領国絵図』のとおり「白壁」であったのなら、それはやはり聚楽第天守にならったものだろう、と考えるのが自然なアプローチでしょう。

しかも『領国絵図』は七層の屋根のうち、最下層だけ違う描き方にしてあるため、これは現地で出土した金箔瓦が関係しているものと考えて、聚楽第天守の絵画史料と同様に、最下層だけ金箔押しの無い土瓦、その上の軒先はすべて金箔瓦、という使い分けがなされたと推定しました。


このように会津若松城の「七重」天守は、穴倉内を含めれば「九重」天守とも言えそうであり、これ一基だけで、東北地方全域に存在感を示そうという気概を感じさせる建造物であったと思われます。






さて余談ですが、前々回にお知らせしたとおり、2012年度リポートは以下の内容に変えて急ピッチで作業中です。ご覧いただけるのは2月に入ってからと思われます。

東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
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