城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2013/03

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2013年03月31日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する






続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する


これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…


大雑把に描いたものと思われた「黒い墨塗り」が、発掘調査等に基づく天守台に当てはめてみると、天守の部分が「10間×12間」に測ったようにジャストフィットしてしまう!!
この意外な現象は、大日本報徳社の城絵図に対する、これまでの見方を改める必要性を問いかけているのではないでしょうか。

とりわけ「四隅に独立した隅櫓」とされて来た墨塗り部分が、原資料の城絵図では天守にしっかりと接続していることは、これまで全く省みられなかった点です。

少なくともこの点だけは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じます。
ということは、これらは最低限、「隅櫓」ではなく「付櫓(つけやぐら)」か何かと考えるべきであって……



<閑話休題>



まことに恐縮ながら、このように前回から続く構造的なアプローチのお話はここで一旦、次回に先送りさせていただきまして、今回は是非とも、当ブログが「究極の立体的御殿」として駿府城天守にこだわる理由について、ちょっとだけ、念押しさせていただけないかと思います。

と申しますのは、この件ではどうも筆者だけが勝手に興奮しているようで、こうまでしてお話を続けている心理的な背景が、今ひとつ、伝わっていないような気がしてならないからです。


諸書に「朱茶色の柱」と解説される築城図屏風(名古屋市博物館蔵)の天守


前回も申し上げたとおり、駿府城天守を描いた絵画史料としては、ご覧の「築城図屏風」がたいへん有意義な点を含んでいると思われ、この描写を一方の「東照社縁起絵巻」と比べた場合、いくつもある相違点のうち、最も特徴的なのは「朱茶色の柱」でしょう。

この「朱茶色」は屏風の経年変化でどれだけ退色した状態か分かりませんが、赤系統の一色で塗られた柱や長押、妻飾りなどの描き方は、全国の丹塗りの神社仏閣でよく見かける手法になっています。


例えば、筑波山の日枝神社・春日神社の拝殿(写真はサイト「Thanking Nature」様からの引用)

築城図屏風の描き方も、破風の豕扠首(いのこさす)などソックリ


破風内で斜め材と束を組み合わせた「豕扠首」は、神社仏閣や官衙(かんが)建築でポピュラーな妻飾りであり、写真の拝殿は江戸初期・寛永10年の造営です。

一方、このように赤い柱や長押を建物全体に見せた天守は、現在、屏風絵など美術品の表現でしか見られませんが、しかし天守の歴史において“赤い部材”は皆無だったか、と言えば、そんなことは無いわけです。


徳川家康は安土城で何に心ひかれたのか? と想像すると…


前々回も申しましたが、天正10年、家康主従は本能寺の変の半月ほど前に安土に招かれ、その様子は『当代記』の「五月十五日、家康安土へ着給」で始まるくだりに紹介されていて、安土滞在の最終日、一行は山頂主郭部の御殿や天主を一日かけて見物することが出来たようです。


(『当代記』より)

廿日家康を高雲寺の御殿(※江雲寺御殿か)へ被稱(あげられ)、酒井左衛門尉を始家老之衆、并武田陸奥守穴山事(※穴山梅雪)被召寄、殿守見物仕、さて元の殿へ帰 膳を被下、夜半迄色々被盡美


この約二ヶ月前に“朝敵”武田勝頼を共に討ち果たし、今度はその家康に安土城の天主をじっくり見せた織田信長の底意を推し量りますと、改めて「天下布武」の体制転換の構想を、同盟者の家康にも理解させたい、という願望があったように感じられてなりません。

例えば以前のブログ記事でもご紹介した、『朝日百科 安土城の中の「天下」』の解説文の「安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないか」というほどのニュアンスが、この時、家康らに伝わったのかどうか分かりませんが、その後の家康の生涯を見ますと、慶長20年の禁中並公家諸法度(きんちゅう ならびに くげしょはっと)によって、徳川幕府が天皇から日本国の大政をあずかる「大政委任」という形に持ち込んだことは重要でしょう。

そういう政治動向の影響なのか、江戸初期、徳川親藩をはじめ大名らの間では「王朝風」の美術品や庭園・建築等が盛んにもてはやされ、また家康自身は外国人から「皇帝」と呼ばれたことなどは、当時の公武関係の(逆転した)空気を物語っているのかもしれません。


安土城天主の「赤」の復元方法 … 宮上茂隆案 / 内藤昌案 / 兵頭与一郎案


そうした時流の推移を踏まえて、家康の安土訪問を振り返りますと、安土城天主は中層部分に「赤い漆を塗った木柱」(フロイス『日本史』柳谷武夫訳)があり、ひょっとすると家康は、まばゆい金箔瓦や金具よりも、むしろその“王朝風の赤い柱”の方に心ひかれたのではあるまいか… などという妄想に、私なんぞは捕らわれてしまうのです。

そうであったとすれば、色んな事柄に一本、筋が通るような気がしてならないからです。


平安京の赤色の再現 / 近代以降では平安神宮の蒼龍楼(1894年造営)など





<駿府城の普請奉行・小堀遠州(こぼり えんしゅう)
 王朝的古典建築に通じた遠州は、天守の設計には関与しなかったのか??
 ならば、あの初重・二重目の御殿風の造りは、いったい誰の発意だったのか…>





小堀遠州(頼久寺蔵の肖像画/ウィキペディアより)


さて、ここで是非とも申し上げたいのが、下記の森蘊(もり おさむ)先生の古典的著作で「時のアイデアマン」と評された、小堀遠州の存在なのです。(※当ブログはようやく遠州について触れられる段階に来ました…)


(森蘊『小堀遠州の作事』1966年より)

将軍家が作介(=小堀遠州)の実力を認めはじめたのは、慶長十一年(一六〇六)後陽成院御所の作事奉行に任じ、同十三年(一六〇八)駿府城奉行をつとめさせた時以来であって、その機会に従五位下遠江守として諸大夫の一人に取立てられたのである。
更に慶長十六年(一六一一)からは禁裏の造営、十七年(一六一二)名古屋城天守の修復にと、遠州の活動範囲が急にひろがっている。

(中略)
遠州は前述の如く諸大名が単に賦役的に名を連ねた作事奉行と同列ではない。
また中井大和守正清、五郎介正純親子のような家系による大工頭や棟梁というような職人的技術家でもない。
幼少の頃から作事奉行としての父新介の現場指導振りを見聞し、物心ついてからは南都一乗院はじめ王朝的古典建築の意匠を理解し、それを時代とともに移り変る宮廷生活に適合させるよう便化すべきを提案した。



小堀遠州の頭抜けた才能を示した、仙洞御所の切石で囲んだ池庭(復元)

(※お茶の郷博物館より/写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用)


この遠州こそ、天守の歴史にもただならぬ影響を与えた人物だと思うのですが、駿府城の普請奉行をつとめた慶長の頃はまだ「細部意匠に口ばしをはさむ余地はなかった(上記書)」とも言われ、そのせいか、遠州と駿府城天守の造型との関係はほとんど言われて来ておりません。

しかしそうだとすれば、あの初重・二重目の御殿風の造り(開放的な落縁や高欄)はまったくもって突然変異のようで、いったい誰があんな構想を言い出したのでしょう。

よもや大工棟梁の中井正清の進言とも思えませんし、やはりこうして考えた場合、発案者として最も相応しいのは「小堀遠州」であり、もしも遠州ではないとしたら、それこそ「家康その人か」という結論にもなって来るわけで、この事柄の意味合いに、もっと議論がなされるべきだと思うのですが、どうでしょうか。




それぞれの天守に込められたモチーフは…

安土城→皇帝の館か / 豊臣大坂城→八幡神の塔か / 駿府城→ 新「王朝」府か


そろそろ今回の結論を申し上げるなら、慶長13年頃の段階で、駿府城天守が全身に赤い柱や長押を見せていた場合を想像しますと、それは必ずや近いうちに豊臣関白家を討滅して、天皇から日本国の大政をあずかるに相応しい新「王朝」府を、先取りして築いたかのように見えてなりません。

それは伝統に対する巨大な欺瞞(ぎまん)と申しますか、軍略家としてのハッタリと申しますか、新たな関東武家政権として、いよいよ図に乗る風を、上方にあてつけがましく見せていたようにも感じられます。

そこには戦場の勝利者ならではの身勝手さが横溢(おういつ)していて、政権簒奪(さんだつ)の象徴として打ち立てられた「朱柱」の「最後の立体的御殿」、というところに、私なんぞは思わず興奮してしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年03月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える






「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える




前回に「小さなコロンブスの卵」としてお目にかけた図では、天守の上層部分にうっすらと唐破風を描きましたが、おそらくこれをご覧になって、「唐破風」は文献史料では四重目か五重目と書いてあるじゃないか… という疑問をお持ちになったのではないでしょうか。

実はこの点が、またもう一つ、ここで是非とも申し上げておきたいポイントだと思っておりまして、何故かと申しますと…


徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守


ご覧の三つの天守は、以前の熊本城天守のブログ記事(徳川系の天守か?)でご覧いただいたものですが、このように同じ唐破風でも、右側の福井城天守や熊本城大天守は独特の設置の仕方をしていました。




そしてご覧の位置に「唐破風」を想定しますと、福井城や熊本城のケースとたいへんに良く似た状態になるわけでして、このことが決して酔狂で済まされないのは、以前は“駿府城を描いた屏風絵”として盛んに誌上等で取り上げられた絵が、これらとまた良く似た要素を持っているからです。


お馴染み!! 名古屋市博物館蔵「築城図屏風」(謎の天守が描かれた部分)


(内藤昌編著『城の日本史』1995年より)

この屏風絵は、慶長12年前田家の御手伝普請を描いたもので、第6扇下に描かれた白地に赤丸(日の丸)は本多家、三巴が篠原家の家紋で、両家が助役した天下普請は慶長12年の駿府城築城に限られるから、9月利家が駿府に出仕した頃の図と断定できる。


という風に、以前は「築城図屏風」はこういう言われ方をされていて、徳川幕府による駿府城二ノ丸の天下普請(石垣工事)を描いた絵と見られていたものの、昨今では、むしろ前田家の居城・金沢城の石垣普請を描いたものではないか、とも言われています。

そうであるなら、ここにあるのは金沢城天守ですが…


そぐわない点は多々あるものの、どこか捨て切れない両者の類似性


ご覧のとおり、前回の「小さなコロンブスの卵」で読み直した文献史料の記録と、以前は駿府城天守とも見られていた描写との間に「どこか捨て切れない類似性」が見て取れるわけなのです。!…


そしてもし仮に、左側の絵の描き方に“多少の”間違いが含まれていた場合は、類似性はますます見過ごせないものになるでしょう。

現に、絵の天守は盛り沢山の破風が描かれていますが、それらは平側と妻側が細かい破風まで完璧に同じ(!!)という、他に類例の無い、妙な姿で描かれていて、この部分を絵師の“筆の誤り”として割り引いて見た場合はどうでしょうか。


まことに勝手な推理として、この絵は、天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに絵師が「四方正面の天守」を強引に描いてしまった結果なのでは? といった邪推をしますと、破風の配置としては、他にも幾つか類例のあるスタイルに近づくように思われます。

(※ちなみに当ブログは、決して四重目か五重目の「唐破風」を否定するものではありませんので、おそらく妻側の中層部分の屋根にも唐破風があったものと考えます…)




右写真:日光東照宮蔵「東照社縁起絵巻」より引用


と、ここまで申し上げて来た事柄は、2012年度リポートの「東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか」という内容と密接に関係していることは、ご推察のとおりです。

かく申し上げる私の本音としましては、駿府城天守を描いた絵画史料としては、実は「東照社縁起絵巻」よりも「築城図屏風」の方が、ずっと有意義なのではあるまいか… という事に他なりません。

ただ一点、気がかりな問題は、上左写真の「築城図屏風」の初重の大ぶりな破風だけは、『当代記』等の記録と明らかにバッティングしてしまう点で、これについてはまた一つ、お伝えしたいポイントがあるのです。





<これまでの多くの復元案にある、天守台四隅の「隅櫓」や「多聞櫓」は、
 「立体的御殿」のねらいを台無しにしてしまう復元方法ではないのか??
 しかもそれらは何故、文献史料には、一言も書かれなかったのか…>








(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守曲輪の外周には多聞櫓が廻り、四隅には隅櫓があったという説もあるが、二階に高欄が廻っていることを考慮すると、この説にただちに賛成することには躊躇する。
(中略)
駿府で永年過ごした家康にとって、富士山に対する思い入れは相当なものであったと推察され、晩年、隠居城を造営するに当って富士山の眺望を無視することは考えられない。
(中略)
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでである。


これまでの多くの復元案が、天守台の四隅に隅櫓、石塁上に多聞櫓が廻っていたとするのに対して、上記の八木先生の指摘は異彩を放っています。

指摘の内容は、駿府城天守を最後の、究極の「立体的御殿」と考える当サイトの立場からしますと、まことに核心を突いた指摘であると申し上げざるをえません。


とりわけ慶長13年当時、すでに65歳の太った徳川家康が、これに登ることも大前提とした天守のまわりに、本当に、独立した隅櫓や多聞櫓をぐるりと廻らせたでしょうか。

その場合、家康が多聞櫓の向こうの景色を見るためには天守の三重目以上に、二重程度の隅櫓の向こうを見るには四重目以上に登らなくてはならなかったでしょう。


この疑問(少数派の疑問)を解いてくれるヒントが、実は「隅櫓・多聞櫓説」の根拠とされた絵図の中に、コッソリと隠れているのです。


大日本報徳社蔵『駿州府中御城図』の天守周辺


この絵図の黒い墨塗り部分が「隅櫓・多聞櫓説」の根拠となったものですが、ご覧のような墨塗りの様子と、実際に天守台四隅に隅櫓を付設した淀城天守(寛永度)の例を参考にしながら、「隅櫓・多聞櫓説」は出来上がったと申し上げていいでしょう。

ただしその時、墨塗り部分の「面積」や「形」については、かなり大雑把に描いたものだろう、という先入観がすでにあったはずです。……


駿府城公園の整備計画図(静岡市ホームページより引用)


では実際の天守台はどうだったか?と申しますと、発掘調査などの結果、ご覧のような、思った以上にひしゃげた平面形をしていたことが判って来ております。(画面中央の左上あたり)

そこで試しに、その平面形に合わせて、静岡県立中央図書館蔵の『駿府城御本丸御天主台跡之図』に書かれた寸法等を当てはめてみますと、次のようなイラストが描けるでしょう。




で、このイラストに合わせて、前出の大日本報徳社の絵図をダブらせつつ、さらにその上に、文献記録の初重の規模(10間×12間)を載せてみますと、究極の「立体的御殿」の実情をうかがわせる、大変に、大変に面白いことが分かるのです。


10間×12間が、天守の墨塗り部分にピッタリ!!

ところが隅櫓や多聞櫓の墨塗りは、石塁の内側に大きくハミ出て、天守と接続!!




これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…

むしろ参考にすべき天守は…


(※次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年03月03日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!駿府城天守の復元方法をめぐる「小さなコロンブスの卵」






駿府城天守の復元方法をめぐる「小さなコロンブスの卵」




天正10年5月、徳川家康一行は安土城におもむき、織田信長みずからの饗応を受けました。

その半月後には本能寺の変が起きたわけですが、この時、家康らが目撃した安土城天主の印象は、間違いなく後の駿府城天守の造型に反映されたはずだとも言われます。

ですから駿府城天守こそ、最後にして、究極の「立体的御殿」であったと申し上げるべきであり、奇しくも『信長公記』類の安土城天主の記録ほどではないにしても、建物の要点はしっかりと『当代記』等々の文献に記録されました。

その記述内容はもう良くご存知のことと思いますが…


(『当代記』此殿守模様之事)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落 椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
            懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
          懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
          懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
     破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
     鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金
           


この他に、例えば『慶長政事録』には「三重目 九間に十一間 各々四面に欄あり」とあって、三重目の造りが二重目までとはちょっと違っていた可能性がある点や、「七重目 四間に五間 物見の殿という」とも書かれていて、最上階の規模もちゃんと分かる点など、ご承知のとおりです。

で、これほど詳しい記録があるにも関わらず、それにしては諸先生方の復元案がかなり、かなり相違していて、こうまでも<専門家の足並みがそろわなかった>のは何故なのでしょうか?

そこには、そうなるだけの「落とし穴」が、文献の文字情報そのものの中に、コッソリと潜んでいるからではないのかと思われます。例えば…




<普通に読めば「五重天守」なのに、屋根が六層になってしまう… この怪現象は何なのか??>




文献に書かれた各重の規模を 単純に積み上げると…


前述の『当代記』に類似して、たいがいの関連文献にある「屋根」と「腰屋根」は合計5つであり、したがって駿府城天守は五重七階であったと、すなおに読み取れそうなのに、いざ立体的に検討を始めますと、屋根が6つ!必要になってしまうのです。

これこそ文字情報の中に潜んだ「落とし穴」のせいだと思われ、諸先生方の復元がバラついた最大の元凶のように思われます。


(大竹正芳「駿府城」/西ヶ谷恭弘監修『名城の「天守」総覧』1994年所収より)

駿府城天守の五階と六階の逓減(ていげん)率は平側が一間差、妻側が二間差と一定でない。これは望楼型天守によく見られるパターンである。


このように逓減率の不規則さを指摘されていた大竹先生は、ご自身の復元画では、幕府直轄の層塔型の名古屋城天守などに、望楼型に近い慶長度二条城天守などの要素(入母屋屋根を交互に重ねるスタイル)を兼ね備えた天守として描かれました。

しかし私なんぞは、いっそのこと、現存の松本城天守に見られる、逓減率の不規則な扱い方(層塔型の変則形)の方が、今回の謎解きのヒントになるような気がしてならないのです。


層塔型の松本城天守 / ただし最上階とその直下の階は この東西面では同じ幅になっている


同じ階の南北面の方はふつうに逓減しているため、この部分の屋根は上下階の不規則な変化になんとか対応していて、一般に松本城天守と言いますと、れっきとした層塔型天守とされるのに、部分的にはこういう“荒業”もやっているわけです。

しかもここで是非とも、ご注目いただきたいのは、最上階屋根の大棟は、この「変則形」の長短とは90度ちがう方角に向いている、という点なのです。(!!)


これは大変に重要なポイントではないかと、かねがね感じて来たのですが、その上、駿府城天守はこの松本城天守を参考にして築かれた、という所伝もあるそうでして、仮にこの「変則形」をそのまま駿府城天守の記録に当てはめてみますと、アッと驚く「コロンブスの卵」があらわれます。


すなわち、最上階の直下の六重目は、桁行と梁間の数値が、実際とはひっくり返った形で『当代記』等々の文献に記されて来たのではないか!?… ということなのです。


「小さなコロンブスの卵」


否、前言を小訂正。冒頭の引用文をもう一度ご確認下さい。そもそも『当代記』等には「桁行」と「梁間」の指定がありません!! …まさに「落とし穴」です。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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