城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2013/05

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2013年05月26日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説






大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説


“天皇の行幸道”に疑義が投げかけられた安土城「大手道」

(※画面左側が伝羽柴秀吉邸跡の入口、右側が伝前田利家邸跡の入口)


前回末に予告しました「駿府城天守」などの話題に、出来るだけ早く戻りたいとは思うものの、この機会に申し上げないとチャンスを逸してしまう「大手道」の独自仮説を、この際、紹介させていただくことにします。


上写真でご覧のとおり、千田嘉博著『信長の城』が巻き起こしたホットな論争として、安土城「大手道」の直線部分は、これまでどおりに城内と考えていいのか? いやそうではなく、織田信長自身の城は、厳密には「大手道」が屈曲し始める地点から上の山腹以上であり、直線部分はいわば側近屋敷群をつらぬく城道(≒城下の大手道)なのだ、という大きな見解の相違があります。

確かに千田先生の「戦国期拠点城郭」論や、同じく直線的な城道をもつ近江八幡城などの例を踏まえますと、後者の、重臣屋敷をつらぬく中心街路の一種と考えた方が合理的と言えそうでして、そうした類似例をもとに、千田先生は「天皇の行幸道」説に強く反対されているわけです。


ですが、この論争については、そのどちらとも言えない中間説といいますか、ある特殊な考え方も可能なのではないでしょうか。


と申しますのも、当サイトは千田先生の「天主の意味」等には最大級の賛辞をおくる立場ですが、その反面、おそらく『信長の城』読者の多くの方々と同様に、 <アレ? では何故、岐阜城だけは「大手道」を造らずじまいなのか…> という率直な疑問を感じております。

ひょっとすると岐阜城にも、どっこい岐阜公園の平場や市街地の地中に「大手道」がまだ埋まっているのかもしれませんが、改めて類似例の城と比べますと、こんなことも言えそうです。


直線的城道( 小牧山城 / 近江八幡城 / 犬山城 )は、どれもおおむね南向き

しかし岐阜城は、千畳敷や城下が大きな金華山の西側のふもとで…


というように「大手道」にはまだ何か、不確定の要素が隠れていそうな気もしますし、岐阜城じたいの位置づけにも懸念(…案外、小牧山城の方が信長の意中の城であり、岐阜城は予想外に早く手に入ってしまった城、という千田先生の指摘)が生じるのかもしれません。

で、今回の記事は、ホットな論争の真っ只中に、またまた妄言?を差しはさむことになるのか、戦々恐々の思いで独自仮説を申し上げます。




<大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説。
 それはやはり、城主より上位の人物を、曲輪群をスルーパスして迎えるための
 御成(おなり)道ではなかったか>





犬山城の天守内に展示された版画


類似例として挙げた三つの城のうち、小牧山城と近江八幡城は織豊期に廃城になってしまったため、もはや「直線的城道」の具体的な使われ方を確認する手立てはありません。

ところが、幕末まで現役の城であった犬山城ですと、「直線的城道」に関する史実を、多少、ひろうことが可能なのです。


上写真の版画で申しますと、画面中央の「岩坂」と呼ばれた直線的な城道が、天守のある本丸に向かっていて、それを「杉の丸」「桐の丸」「樅(もみ)の丸」という三つの曲輪が、直進する敵を左右から挟み撃ちにするかのように並んでいます。

こうした曲輪の配置は、安土城や近江八幡城ともよく似ていますが、ご覧の構造が出来上がったのは、天文6年の織田信康(織田信長の叔父)の築城時とも考えられるでしょうから、類似例の中ではいちばん古い事例になりそうです。


そして重要なポイントは、築城者・織田信康という武将の人物像だと思われ、ご承知のとおり信康は、信長の父・織田信秀のすぐ下の弟であり、弾正忠家の家中での役回りも兄信秀に従って軍功をあげるなど、補佐の役回りに徹した人であったようです。

しかも犬山城は、その後も、めまぐるしく替わった城主のほとんどが“そんな立場の”武将たちであり、江戸時代においても、9代続いた城主の成瀬家が、明治維新の直前まで尾張徳川家の付家老であったことはよく知られています。




そして上の版画でもう一点、是非ともご注目いただきたいのは、直線的城道「岩坂」の本丸のちょうど反対側になる曲輪「松ノ丸」の御殿なのです。

この御殿の由来について、例えば柴田貞一著『犬山城物語』では…


(柴田貞一『犬山城物語』より/『犬山市資料』第三集1987年所収)

雑話旧事記に依ると、天守閣前の広場、現成瀬正肥記念碑のある辺に、「秀吉が大阪政所を引移し、其の御殿の荘厳古今無双なり」とある。
僅か三里を隔つ小牧山の強敵家康を前にして、超栄華な生活に秀吉の余裕綽々
(しゃくしゃく)たることが偲ばれる。
この御殿は後世成瀬三代正親の時に、下段の現針綱神社参道のある広場へ移され、松之丸御成之御殿と称せられた。
(おし)い哉(かな)、天保十三年余坂町よりの出火に焼失した。


とあるように、幕末まで松ノ丸にあった御殿は、じつは小牧長久手戦で羽柴(豊臣)秀吉が犬山城を本陣とした時の建物で、その頃は本丸にあったものを、江戸初期に城主の成瀬正親が松ノ丸に移築したと言うのです。

その様子を別の城絵図(上記書掲載)で確認しますと…




念のため繰り返しますが、小牧長久手戦の緒戦で羽柴勢の池田恒興が犬山城を攻略したのち、そこに入城した秀吉が御座所とした建物が(直線的城道「岩坂」の突き当たりの)本丸に長らくあったものの、それを江戸時代に、岩坂より手前の松ノ丸に移築したというのです。

ただ、この移築には色々と意味があったようで、何故なら江戸時代には「松ノ丸御殿」をはじめとする御殿群が、あたかもビリヤードの玉突きのごとく、外側の曲輪へと移築されたからです。その経緯について上記書では…


(上記書より)

天守閣前にあった、豊公由緒(記述)の松之丸御殿を下段に移し、下段に在りし居館を毀(こぼ)ちて三光寺地域内に移した(現犬山神社、公民館等の在る所)。これを西御殿と称した。
松之丸御殿は尾張公を迎える時の専用御殿となり、西御殿は藩主が、家臣を接見したり公式行事を行わるる所となる。
別に此の西(三光寺山下)に三光寺御殿を造って居館とせられた。



どういうことかを先程の城絵図で改めて図示しますと、文中の「西御殿」になった建物(「下段に在りし居館」)は、成瀬家の前の城主・平岩親吉(毒まんじゅう伝説のあの家康近臣)の屋敷でもあったと伝わりますので…




これをご覧になりますと、お察しのとおり、要するに、直線的城道「岩坂」の周囲の御殿群が、ビリヤードの玉突きのように移動しただけだということが想像できるでしょう。

ということは、これらを逆算しますと、御殿群の元々の配置や、その全体の構想を知ることも出来るはずです。


以上から推測できる結論


ご覧のように、史実がつかめる犬山城の場合、直線的城道の突き当たりの曲輪にあった建物は、その後もずっと、城主よりも上位の主君を迎える「御成(おなり)御殿」であり続けたわけです。

一方、城主の居館や藩の政庁は、直線的城道の手前の曲輪にあるのが本来の姿だったわけです。


したがって、今回申し上げたい独自仮説というのは、「直線的城道(大手道)」は元来、城主よりも上位の人物を、本丸の御成御殿に最短距離で迎え入れるための御成道ではなかったか、ということなのです。


言うなれば、織豊系城郭の「求心性」「階層性」をつきぬける(飛び越える)アクセス手段として「直線的城道」という作法が(山岳寺院などを参考に)編み出された、と考えることは出来ないでしょうか。

そしてそれが織田家の築城に始まったとすれば、まことに興味深いことでしょう。


安土城での信長の動機としては、自分よりも上位の人物(天皇)に、いちいち側近屋敷の曲輪の門をくぐらせたくない、という心理が働いたことが想像できるでしょうし、つまり信長は自身が造り出した城の「求心的構造」のデメリットに気づき、そこで織田家伝来の作法によって、安土山南面で対策を講じた、ということではなかったかと思われるのです。




<この独自仮説は、いま話題の小牧山城の「大手道」にも当てはまるのか!?
 もしそうだとするなら、そこを通るはずだった「上位の人物」とは…>





主郭を囲む巨石の石垣が確認されて以来、鼻息が荒い小牧市のホームページより


小牧山城は、信長が一からデザインできた城と城下町として、<小牧山城−安土城> という二つを同列にとらえる考え方が、千田先生の著書などで提起され、あたかも、信長は小牧山から天下に覇をとなえる可能性もあったかのような論調が誌上をにぎわせています。

では両城に共通の「大手道」はどうなるのか、と言えば、当ブログは過去に中嶋隆先生の「南麓の城下から見上げたときの印象」や視覚効果という解釈を引用させていただいたものの、今回申し上げた仮説では、小牧山城もまた、誰かを迎えるための大手道であったことになります。


それは誰なのか… と想像をめぐらせますと、信長は築城の4年前(永禄2年)、尾張をほぼ統一したことの報告のために上洛し、時の将軍・足利義輝(あしかが よしてる)への謁見を果たしました。

そして翌年、桶狭間の戦いに勝った信長は、永禄6年の小牧山築城へと歩を進めたことになります。


室町幕府十三代将軍・足利義輝

永禄6年頃は将軍権威を高めて絶頂期に。が、永禄8年に二条御所で戦死


(※画像はウィキペディアより/国立歴史民俗博物館蔵)


信長がその後、新たに攻略した岐阜城で「天下布武」印を使い始めたのは、この義輝の戦死からわずか2年、永禄10年のことと言われます。

ならば冒頭で申し上げたように、何故、岐阜城だけ大手道が無いのか… そこには信長の巨大な失意と、怒りが、無言のうちに隠されているのではないでしょうか。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年05月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!気になる懸造(かけづく)りの意図、「羅城門」級の大手門の景観






気になる懸造(かけづく)りの意図、「羅城門」級の大手門の景観


さてさて、北京の方からまた突飛な「歴史認識」が出ましたが、そんなことを言うなら、100年前の中国大陸には中国共産党なんぞ影も形も無かったわけで、いよいよ実験国家の悲鳴が聞えて来たと受けとめるべきでしょうか。…

で、そんなことはともかく、前回は城郭史学会の大会セミナーを中心に 安土城天主について書きましたが、その中では、やはり書きっぱなしのままでは済まされない部分もあり、今回はそちらを、ちょっとだけ補足させて下さい。


「京間」で計測された場合の、20間×17間の範囲(グリーン)


上図は、千田嘉博先生が著書『信長の城』で示された安土城天主の新復元案について、前回のブログで申し上げた感想の、補足図です。

先生の著書によりますと、新復元案では、天主台石蔵内の七尺間の礎石群と、天主台下で発見された七尺間の礎石列を、一体のものとして扱っておられます。

しかし著書の文面には、『信長公記』類にある天主二重目の20間×17間という数値もまた「七尺間」であったかどうかは明記してなく、この数値が「京間」などで計測された可能性も含んでいるようです。


そこで上の補足図なのですが、京間(六尺五寸間)で計測されていた場合は、若干、規模が小さくなります。(グリーンの範囲に)


その結果、懸造りの天主二重目は、図の程度に天主台北側(図の下側)に張り出していたなら、もう南側には張り出す余地が無く、逆に、南側に全体が3間ズレて張り出していたなら、もう北側には張り出す部分がほとんど無い、という微妙なサイズになりそうです。

それならば何故、わざわざそんな懸造り構造にしたのか…

京間の20間×17間が不可欠な“部屋の条件”でもあったのか…

しかもそれは、後の江戸城天守の初重にも匹敵する規模(!!)なのに…

といった点が気がかりなものの、先生が著書で懸念したとおり、南側にズレるのは技術的にちょっと複雑(天主台南西角での寄せ掛け柱の処理)になるため、やはり天主台北側において <懸造りの礎石が見つかるかどうか> が新復元案の評価を左右していくのではないでしょうか。


史上最大の江戸城天守の初重(天守台)と並べてみる

そんな新復元案から思わず連想してしまう、笠森寺の観音堂(千葉県)


(※ご覧の四方懸造りの中心は岩 / 昔、この岩上に観音菩薩像が安置された由来あり)

(→ということは、当然ながら「懸造り」自体が建築の目的ではない)





<大手門がもしも「羅城門」級であったなら、どんな景観になるのか>






さて、もう一つ補足すべき話題は、通称「大手門」が幅約30mの「羅城門」級であったかもしれない、というお話でしょう。

これはもちろん、左右の石塁の真ん中が30mほど空いているというだけで、門の礎石などの物証は一切無いわけですから、ひょっとすると計画だけで(石塁が完成した時点で)沙汰やみになった可能性もあろうかと感じております。

でも、そこは城郭マニアの悲しさで、もしそんな巨大な門が建ったなら、いったいどういう景観になっていたのだろうか… という興味本位の空想をめぐらせずにはいられません。


徳川家の菩提寺・増上寺の三解脱門が、ほぼ同じ規模(幅29m/元和8年建立)


!! 例えば、こんな門があの場所にあった場合を想像しますと、もう第一印象からして「城」ではなく、かと言って「都城」という連想も(背後が山だけに)難しく、いちばん順当なのは、安土山が「聖地」のように祭られた形と申しますか、近づく者(参拝者?)に威厳を示す効果が際立っていたのではないでしょうか。

かくして、たとえそれが「羅城門」級であっても、私なんぞは、ますます <信長廟の門構え> に見えてしまって仕方が無いのでして、仮にそうした場合、写真のような規模の二重門が建つと、安土山の南面はどういう姿になっていたのか、思い切ってイラスト化してみました。


本能寺の変(織田信長の死)後の安土山の仮想イラスト

これは城や都城でしょうか? こうなると私には陵墓や神宮(寺)にしか見えません…


ご覧の仮想イラストは、「大手門」前の広場や水堀については、かつて木戸雅寿先生が書かれた論考「安土城の大手道は無かった」(PDF/滋賀県文化財保護協会『紀要 第20号』2007年所収)の掲載図を参考にしながら描いたものです。

論考の「大手道は無かった」という刺激的なタイトルは、安土において「大手道」という名称が現れたのは江戸時代からであり、しかも城郭用語として実態に合わない(城内にある!)ため、もはや大手道という名称は使うべきでなく、「行幸道」か「御成道」に変えるべきだ、という木戸先生のお考えによります。


で、木戸先生は、通称「大手門」前の広場は、天皇行幸の際の儀式空間として造成されたのだろうとしていますが、上の仮想イラストを見れば、私なんぞは、なおさらのこと、これらは <建設途上で放棄された信長廟の表門と神橋(しんきょう)> ではなかったか、という疑いを深めてしまうのです。

しかも、民衆にとってこれらは「下街道」から眺めるだけの廟所として、さながら天皇陵が水濠に囲まれて、近づきがたい雰囲気を漂わせる様子にもソックリではないでしょうか。

ですから、ひょっとして名称の件では、大手道はいっそのこと表参道(!?) にでもすべきかと思ってしまうわけで、かく申し上げる私の念頭にあるのは、山頂に信長廟が建立された安土山と、のちに徳川家康の遺骸が葬られた久能山東照宮との、地形的な類似性なのです。


久能山東照宮の地形

鳥居を過ぎて石畳のあたりから見上げた様子



(※次回に続く/未解明の三法師(織田秀信)邸、駿府城天守との関係など)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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