城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2013/07

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2013年07月21日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について






続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について


破風(はふ)の見本市のような彦根城天守


そもそも天守と言えば、何故これほどまでに「破風」だらけの建物になったのでしょうか…… この素朴な疑問に対する明快な答えは、思えば過去にも殆ど無かったような気がいたします。


で、このことは、当ブログがスタートしたばかりの頃の記事「破風は重要なシグナルを担った」でも一度、扱った問題です。

そして不覚にも、その記事の中であっさりと触れておきながら、今日まで4年以上もほったらかしにしておいた、破風の配置方法に関する「小堀遠州が介在した作意と画期」について、今回、ようやく有態に申し上げられることになりそうです。

それは前回も申し上げた「駿府城天守は実用上の機能が三重目までで完結していた」のならば、四重目以上は何だったのか? という話題が、その説明になりそうだからです。




名古屋市博物館蔵「築城図屏風」より


ご覧の絵はひょっとすると、絵師が駿府城天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに、「四方正面」の天守を無理やり描いたものではないのか… という以前に申し上げた“仮説”を、改めて分かりやすくご覧いただくために色を加減してみたものです。

右側のカラーの部分が、立面図などにあった部分ではないかと思われ、こうして見直しますと、一見、複雑きわまりなかった破風の状態も、さほど不自然な配置ではないことが分かって来ます。


破風の配置はまったく同じ手法か/駿府城天守?と名古屋城大天守


ご覧のとおり、左右の天守は、屏風絵の初重の大ぶりな千鳥破風を除けば、まったく同じ手法のもとに配置されたと申し上げてもいいのではないでしょうか。

ちなみに、屏風絵の方がもし駿府城天守だとしますと、左右の城はともに、小堀遠州(こぼり えんしゅう)が作事奉行として築城に関与した城です。


そして何より肝心なのは、これらは、建造の時期から言えば、徳川特有の破風配置の第一号であった可能性でしょう。


これ以前にも破風を多用した天守としては、当サイトが仮に「唐破風天守」と申し上げて来た、加納城天守や姫路城天守(および2012年度リポートの江戸城天守)などもあったわけですが、それらは決して「四方正面」を強調するためのデザインであったとは言えません。

ところが慶長後期に入ると、名古屋城など、徳川幕府が直轄で建造した巨大天守において、平側と妻側にほぼ同数の破風を配置しつつ、二連と単独の高さを互い違いにして美観を高め、それらの効果で「四方正面」をいっそう際立たせた、画期的なデザインが登場しました。


「四方正面」を際立たせた破風の配置/名古屋城大天守(1959年外観復元)


厳密に申せば、この名古屋の築城以前にも、例えば福井城天守や冒頭写真の彦根城天守など、最上重に「唐破風」を設けつつ、それ以下の各重で<似たような配置>を行った例もあったわけですが、写真のような、後の寛永度江戸城天守にもつながる<最も整然とした配置方法>は、ひょっとすると、駿府城天守に始まっていたのではあるまいか… と申し上げたいのです。

そう申し上げる最大の動機は、この件はおのずと、時代が徳川幕藩体制に向かう中で、天守の質的な転換(分権統治の象徴にふさわしい四方正面)をみごとに表現して見せた画期的デザインは、いったい誰の発案だったのか… という一点に集約されると思うからです。


「遠州好み」と言われる桂離宮・松琴亭の市松模様(画面左側)

小堀遠州の作庭 切石の直線・直角で囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)


小堀遠州と言えば、直線的・幾何学的なデザインも大胆に採り入れつつ、江戸初期の建築・庭園・茶道をリードして、いわゆる「綺麗さび」の美を生み出した巨匠として知られています。

そういう小堀遠州が公儀作事奉行として、将軍の居館から内裏や寺社の造営を取り仕切った時代、作事の現場を担った最大のパートナーが、幕府御大工の中井正清と正純の父子であったと言われます。


ならば、駿府城天守の設計者はどちらであったか?と言えば、そこは諸先生方もはっきりとは明言しにくい様子ですが、亡くなった内藤昌先生は「そのデザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」(『城の日本史』)とまで言い切っておられました。

かく言う私も、ここまで申し上げた内容から、かつて森蘊(もり おさむ)先生が「時のアイデアマン」と評された小堀遠州の方に、かなり大きなアドバンテージがあると感じられてならないのです。




<文献上にのこる駿府城天守の「四基の隅櫓」
 それは大久保長安が進言した、天守台上?の四つの御金蔵が原点だった>





長安所用の頭巾(南蛮帽子)城上神社蔵/島根県庁ホームページより


さて、大久保長安(おおくぼ ながやす)という人は、東京の八王子に在住の私にとっても、けっこう身近なはず(※市の中心部に長安の陣屋跡あり)なのに、なかなか地元民も話題にしない、黒い大きな影を引きずった人物だという印象があります。

猿楽師の家に生まれながら、金山経営の手腕を買われ、幕府草創期の勘定奉行にまで登りつめ、巨額の財政を取り仕切った長安…。

そんな長安が、駿府城天守の「四基の隅櫓」増築の言い出しっぺだった、という話が『古老夜話』にあり、隅櫓・多聞櫓説を支える重要な文献とされています。

それは慶長13年(火災の翌年)の記述でして、徳川家康が天守を再建したいとの意向を示したところ、「石見(大久保石見守長安)」がすかさず、ある進言をしたという話です。


(『古老夜話』より)

駿河御天守御たて被成度思召候へとも、金銀御不足ゆえ御立不被成、此儀を石見承り、金子差上可申よしにて、三十万枚差上候、御天守と四方に御金くら御建なさる、益なき事と御意なされ候、そこにて石見金子の儀は何程にても差上可申候間、御建可被成よし申上る、殊の外御満足なされ、四方に三かゐの矢倉御たて被成候


この文面によれば、天守再建の財源を案じていた家康に対して、長安が、金子(きんす)「三十万枚」を献上しますので、どうぞ天守と四方の御金蔵をお建て下さい、と進言したところ、家康はそれを「益なき事」と断じたらしいのです。

しかしそこで引き下がっては面目丸つぶれと感じたのか、長安は“何を建てても結構ですから”金子三十万枚は献上します、と再度、進言したところ、家康はとたんに満足して「四方に三かゐの矢倉」を建てた、という経緯だったようなのです。


で、この文面の焦点は、二つあると思われ、一つは「四方に御金くら」が本当に天守台上のことだったのか? という問題であり、もう一つは、この話は最終的に天守の話が消えていて、ただ「四方に三かゐの矢倉」が建つまでの裏話になっている点でしょう。

つまりこの話は、肝心かなめの「御金蔵」や「四方の三階櫓」がどの場所の話なのか、という大切なポイントが、ぼやけているのではないでしょうか。


大阪城にのこる金蔵と復興天守


例えば、当ブログの記事「だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?」でも申し上げたとおり、天守台上に御金蔵を建てる、というのは、そう突飛な話でもなくて、大久保長安の頃までは、天守が御金蔵を兼ねるというのは、ごく自然な姿であったようなのです。

ですが、上記の文面の、御金蔵を「四つ」に分けて、天守のまわりに配置するというのは、いったいどういう意味があったのでしょう。

これはなかなか理解できず、強いて申せば、本丸御殿の火災の直後でしたから、御殿から離れた天守台上に“四つに分散配置”して、天守からの延焼のリスクも軽減するつもりだったのでしょうか。


それにしても(前回の記事のとおり)天守の一階二階は「住宅」建築であったわけですから、どうも話がチグハグというか… 
いえ、そういう点を、まさに家康が「益なき事」として却下したのかもしれませんが、いずれにしても、長安の進言を「天守台上の四つの御金蔵」と考えるのは、チョット無理があるように思われてなりません。


むしろ、長安の真意は「金子三十万枚で、天守の再建と、城内の四方に御金蔵を分散して配置されてはいかが…」という意味の提案だったと解釈する方が、現代人の我々にはずっと自然に感じられます。

で、それをまた「益なき事」と断じた家康の考え方も、まぁ分からないではありません。



復元される二ノ丸「坤櫓(ひつじさるやぐら)」完成予想図/静岡市ホームページより

ちなみに二ノ丸の巽櫓・坤櫓・清水隅櫓はいずれも内部三階!だった


以上の結論として、やはり四基の三階櫓というのは、天守台に関わるものではなかったのではないでしょうか。


さらに『古老夜話』を隅櫓・多聞櫓説を支える文献として見た場合には、文章のニュアンスからして、おそらく四基の隅櫓は(完成までに2年は要したはずの)天守よりも、ずっと早くに完成したことになりそうです。

となると、話題の「天守二重目の高欄」は、そういう最中に、もう目の前に櫓群が立ちはだかる状況下で、施工や仕上げ作業が進められたことになるでしょう。

全体の計画がチグハグなのに、管轄の壁が越えられず、個々の作業はそのまま進んでしまう… なんていう話は今でもよくありますが、そんなワビシイ状態のなかで「最後の立体的御殿」は誕生したのでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年07月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?






「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?


3月の記事でご覧いただいた「小さなコロンブスの卵」


ご覧の図のように、文献史料にある駿府城天守の各重の規模(桁行・梁間)は、実は六重目だけ、桁行と梁間がひっくり返った形で記述されたのでないか… そう考えた場合は、きれいに文献どおりの「五重七階」で復元できることを申し上げました。

そしてもう一点、是非ともご注目いただきたいのが、文献によって数値が二種類 伝わっている、三重目なのです。


ここは雨戸で閉じ切ることも出来る、半間幅の内縁がめぐっていたのではないか…


これまでにも、この三重目の規模のあいまいさについては、例えば大竹正芳先生をはじめとして、「三階は内側に幅半間の回縁がめぐり、外壁は雨具仕立で高欄が付けられていたとする説もある」(大竹/1994)といった考え方が示されていて、私なんぞもこれに説得力を感じてまいりました。

雨戸というのは、当時、豊臣秀吉などが最新式の建具として使い始めたものとも言われますし、聚楽第大広間の平面図に「雨戸」と書き込まれたり、大坂城二ノ丸の秀長屋敷にもあって、訪れた徳川家康らが雨戸を一斉に閉める音に驚いた、などという伝承もあったりします。


そうした最新式の「雨戸」は、さっそく天守にも、とりわけ風雨がきつい最上階の望楼で重宝されたようで、ご承知のとおり熊本城では、大小天守ともに、最上階はいちばん外側に幅半間ほどの狭い内縁(落縁)がめぐっていて、そこに欄干があり、さらに雨戸を閉められる構造になっていました。


最上階に雨戸の戸袋 / 独立式時代の大天守を推定した当ブログ作画より


これは小倉城天守も同じ形式を(八代城や柳川城も?)採用したようで、やはり半間幅の廻縁高欄の外側を、雨戸がおおう形であったと言います。

しかも小倉城ではこの階を「黒段」と呼び、それは雨戸や戸袋がすべて黒塗りだったため、全部を閉じ切ると、階がまるごと真っ黒に見えたからだそうです。


ひょっとすると、最後の立体的御殿も、真っ黒な三重目??


【雨戸の高さの確認】駿府城天守の真ん中で東西方向に縦切りにしてみる


すると駿府城は天守台があまりに巨大なので…(堀の水底からの高さが11間と伝わる)



ちょっと強引かもしれませんが、このように見て来ますと、当時、天守の最上階で重宝された雨戸が、駿府城天守では三重目にあった可能性があるとなれば、それは取りも直さず、三重目が実質的な望楼(物見)だったのではないか… という想像も働くわけなのです。

そして上図のように、その高さ(位置)は、巨大な天守台のおかげで、他の有力大名の天守の最上階に匹敵していたのですから、あながち暴論とも言えないのではないでしょうか。


3月の記事から「二重目の高欄の目的」を話題にして来ましたが、実は、そのすぐ上に、実質的な望楼(最上階!)があったというならば、駿府城天守においては <実用上の機能は三重目までで完結していた> という可能性も出て来ることでしょう。

じゃあ、その上の階はいったい何なんだ!?… という疑問は次回の検討課題とさせていただいて、ここはやはり、天守台上の周縁を取り囲んでいたとも言われる「四基の隅櫓と多聞櫓」は、二重目の高欄からの眺望をさえぎり、なおかつ実質的な望楼(三重目)にとっても視界の邪魔だったかもしれない、となれば、ますます居場所が無いように思われて来るのです。




<メカニズムの源流… 宮上重隆「金閣」復元図との突き合わせ>






さて、ここでちょっと話が飛ぶようで恐縮ですが、京都・鹿苑寺の「金閣」は、一・二階が同一の規模であり、一階に落縁、二階に高欄がめぐっている点で、駿府城天守と様式が同じであると言われます。

そしてさらに、室町幕府の三代将軍・足利義満による創建時から、ちょうど徳川家康が生まれる数年前まで、金閣は、形や色がそうとうに現状(昭和の再建)とは違うものであった可能性が、宮上茂隆先生によって指摘されました。


宮上茂隆「金閣」復元図 / 引用:『週刊朝日百科 通巻558号』1986年より

宮上先生の下記の解説文に沿って、着色を当ブログが修正してみたもの


ご覧の図は、1950年(昭和25年)の放火で焼失した金閣は、明治時代の解体修理の際に、個々の部材に至るまで詳細な実測図が作られていて、それらをもとに、宮上先生が創建時の様子を復元した図です。


(宮上茂隆解説『金閣寺・銀閣寺』1992年より)

1.当初、三階は内外金箔押しであったが、三階床と縁の床・高欄・腰組はすべて黒漆塗りであった。
(中略)
2.当初、二階は、高欄を除いて内外ともすべて黒漆塗りだった。現在は三階と同じように、床以外すべて金箔押しになっている。
(中略)
3.当初、三階の中心は、一・二階の西側主室の中心と一致していた。二階屋根の東部は入母屋屋根であった。屋根は檜皮葺きであったとみられる。現在の三階中心は、一・二階の全体の中心と一致している。屋根は腰屋根で、柿葺きである。


現状の金閣に比べますと、三階の位置がまるで違うこと、そして二階がほぼ真っ黒であったことに驚いてしまいますが、こういう結論に至った、宮上先生の分析(解説文)には説得力が感じられます。

そして特に、次の部分が重要であるように、私なんぞには感じられてなりません。


(宮上先生の前掲書より)

(八代将軍の足利)義政が発した質問に対する僧 亀泉集証(きせん しゅうしょう)の答えから、金閣は舎利殿であること、二階の観音像は、当初の観音が乱中に失われ、乱後に替わりのものを安置したこと、三階は阿弥陀三尊と二十五菩薩来迎像を安置していたが、いまは来迎像の白雲だけしか残っていないことがわかる。

舎利殿は、義満が敬愛した夢窓疎石(むそう そせき)が作庭した西芳寺の、庭園内中心建物であった。一階は座禅の床となる住宅建築、二階は舎利を安置した禅宗様(唐様)仏堂だったとみられる。

金閣が、釣殿(つりどの)である住宅建築の上に、仏堂(二階は和様、三階は唐様)を載せる構成になっているのは、それを模したものということになる。





つまり金閣は庭園の楼閣ではあるものの、西芳寺の舎利殿にならって、一階を住宅建築とし、二階・三階を本来の目的である仏堂(舎利殿)という形で、立体的に構成した建物だというのです。

しかもその構成に忠実な色彩として、一階は素木(しらき)造り、二階・三階は「黒塗り」「金箔押し」という風に、内外の仕上げも使い分けていたことになります。

ちなみに宮上先生の解説文によれば、金閣がこうした創建時の状態から、現状に近い姿に改築されたのは、天文6年(1537年)の修理の際ではないかとされています。




そこでもう一度、駿府城の三重目に注目しますと、あくまでも「三重目が黒塗りの雨戸であったら」という仮定の上の話ではありますが、慶長12年末の火災ののち、この天守が巨大な天守台穴倉?の底面の上に再建されることになった時、いったい誰がそこに「金閣に似た」構造や色彩を提案したのか…

三重目が「黒塗り」という、様々な意味を踏まえた意匠であったのなら、それこそ、発案者としての「小堀遠州」の影が、(私なんぞの頭の中には)チラついてならないのです。





追記)ちなみに宮上先生の復元図には、当サイト仮説の安土城天主の「天守指図」新解釈が、大きな影響を受けておりますことを、この際、白状いたします。このことには、実は「天守指図」五重目と、金閣の創建時の二階・三階の内部構造が似ている、という思わぬ事情が反映されています。


そしてこれは、構造面だけでなく、階下の住宅と、高層階の別目的、という建物の使用形態にも話が及ぶものです。…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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