城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2013/09

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2013年09月29日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論。家康と高虎が決めた「真四角な」初代天守台を踏まえて考える






またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論


現存天守台の“破壊”無くして正確な復元は無理。なにしろ「石」が違うのだから

江戸城天守台


(※明暦大火で天守焼失後に、御影石の切石で修築。表面の焦げは幕末の火災時のもの。修築以来355年存続)



まず、石なんかどうでもいいだろ… などと言う方は、我が国の城郭やサムライの伝統文化を愛する方々には、一人として、いらっしゃらないはず、と信じて今回の記事を始めさせていただきます。


もしも、はなから<正確さは二の次でいい>というなら、出来上がった建物は紛れもない時代錯誤のハリボテであって、たとえ木造で、伝統的工法で築かれても、それはハリボテの変形に過ぎないでしょう。

ところが、それでも構わないからこのチャンスに造ってしまえ!! というごく少数の“確信犯”が、今回の東京オリンピック決定に呼応した、江戸城天守の再建運動の活発化の中にはひそんでいる気配が感じられて、その辺が実に、心穏やかでないのです。…




(『週刊朝日』2013年9月27日号より)

再建費用は、総木造で忠実に復元すると400億〜500億円かかる。12年に約500億円をかけて復元された東京駅と同じ規模だ。費用は協賛企業や個人から寄付金を募る。

巨費を投じることに批判もある。だが、年間151万人が訪れる観光スポットとなった大阪城も、1931年に復元されたもの。年間来場者147万人の名古屋城も戦後に復元されている。江戸城は、これをはるかに上回る効果が期待される。

作家で『江戸城を歩く』などの著書のある黒田涼さんはこう語る。
「経済面だけではなく、精神面での効果もあります。各地のお城は、全国で郷土の誇りになっています。首都・東京の江戸城天守は、日本人の誇りと精神性のシンボルとなりえます」
江戸城で外国人をおもてなし。2020年、それは現実になるかもしれない。




当ブログで申し上げて来たとおり、私は小田原城や名古屋城などのコンクリート天守の「木造化」には大賛成!!の立場ですが、それは戦後の日本人がうっかり犯してしまった間違いをもう見たくない、という思いが基本にあります。

しかも、ただ木造であればいい、という話でもなくて、歴史的に脱落して来た「天守という建築の意味」を、どうにか日本人の意識の上に取り戻すことは出来ないものか、という願望を含んでおります。しかし…



(認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 のHP/小竹直隆理事長の挨拶文より)

首都と言われる世界の大都市には、ロンドンの時計台、バッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神など、悉くその国の歴史と伝統、文化の象徴ともいうべき偉大なモニュメントがあります。

しかし、日本の首都・東京には、何があるのでしょう。スカイツリー? 浅草寺?・・そうですね。それは、数少ない東京の目玉であることは事実ですが、この国の長い歴史が育んだ香り豊かな伝統と文化の、日本を代表とする“シンボル”とは、云えないのではないでしょうか。




かつてJTBの経営陣であったという理事長さんは、日経ビジネスオンラインでは「城マニアでも何でもありません。もともと皇居に残された江戸城の天守台のことは知っていましたが、それほど関心はありませんでした」ともおっしゃっています。

その発言からして、とにかく、国際的に見映えのする巨大モニュメントが東京に欲しい、という動機から出発しておられることは間違いなさそうで、雷門や仲見世通りがダメというのは「凱旋門より小粒…」だからなのか、スカイツリーがダメというのは「エッフェル塔に劣る」と考えておられるからなのか、その価値観の物差しが、さすがにJTB仕込みと感じられてなりません。


ですから、現状の悪い予感としては、「国際的に見映えのする巨大モニュメント」という動機から再建された天守は、その先、またたく間に、大阪万博跡地の太陽の塔(それだけポツンと!)になりかねないことが予想され、そんなことのために、現存天守台がどうにかされてしまうのは、日本の歴史ファンとして、まことに慙愧(ざんき)に耐えないのです。


(※追記/これには、天守台のある旧本丸等が宮内庁の管轄である、という要素が大きく作用するでしょう。

  つまり、もし一旦出来てしまったら、もうほとんど誰も手を出せない存在になる、ということを意味しています。

  また皇居側の窓は開けさせない、という案も「テロリスト対策」で未来永劫、完璧に遂行されるのでしょう…)


(※そして宮内庁の管轄である以上、完成した天守を宮内庁=政府に寄付する形になるのか、それとも協賛企業などの

  100億単位の寄付金が、上記のNPO法人を通じた節税対策として消化されるのか分かりませんが、いずれにしても、

  完成後は入場料の徴収もままならないのではないでしょうか。ご参考:皇居東御苑公開要領




(前出の挨拶文より)

この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ、日本一の壮大で、美しい城であり、且つ、栄華を極めた江戸時代文化のヴィンテージ(最高傑作)一つと言われています。



ここではもう詳しく申しませんが、言わば荒々しい「天守の時代」が終わった時から、「江戸文化」の熟成は始まったはずだと思うわけでして、両者は本来、別次元の物、ということだけは自信を持って申し上げておきたいと思います。

事ここに至っては、再建する会の3200名の会員の皆様には、<江戸城寛永度天守とは何だったのか><何を再建することになるのか> をさらにもう一歩、突き詰めて考えていただきたいと、ただ、ただ願うばかりです。


強烈なヘゲモニー(覇権)の表現としての、NY摩天楼や人民大会堂

〜私なんぞが思う、江戸城寛永度天守にいちばん似たもの〜



さて、話はガラリと変わりまして…




<真四角は「立体的御殿」との決別宣言だったか …徳川家康と藤堂高虎の選択>




前回の記事では「層塔型天守はどこで生まれたか?」という私自身の近年の探求テーマに関連して、真四角な平面形の「御三階」が、その解明の突破口の一つになるのではなかろうか… などという手前勝手な印象を申し上げました。

で、仮にその方向性のまま、御三階からさらに、天守の全般と「真四角」との関わりをもう一度点検してみますと、そこにはちょっと意外な存在として、江戸城の初代(慶長度)の天守台が含まれて来るのです。



2012年度リポートでもご覧いただいた家康時代の江戸城の推定



ご覧の「20間四方」はご推察のとおり、『当代記』の慶長度天守の天守台を築いた時の記録の「殿守台は二十間四方也」を踏まえたものですが、この数値はこれまで殆ど注視されて来ませんでした。


ところが、図のように伝来の城絵図を現在の地図上に重ねてみた場合、20間四方はほぼピタリと当てはまることが分かり、測量図とは異なる城絵図ではあるものの、『当代記』の文言はあながち嘘ではなかったのかもしれません。

となると、徳川家康と、築城名人・藤堂高虎が、顔を突き合わせて図面に手を入れたと伝わる、慶長の江戸城においても、天守台は「真四角」が選択されたのかもしれず、そこには二人の密かな構想が盛り込まれたようにも感じられるのです。


……ということで、今回の記事は前置きがやや長くなってしまったため、やはりこの続きは、次回にじっくりと申し上げたく存じます。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年09月16日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!真四角な「御三階」と「層塔型天守」誕生の因果関係






真四角な「御三階」と「層塔型天守」誕生の因果関係


前回の妄想的仮説を受けて… 「本能寺の変」後の安土城


ご覧のイラストは様々な仮定を含んだものになりますが、ここで申し上げたいのは、現状の安土城は思った以上に「時期差」を多く含んでいる遺跡…それは勿論、織田信長が生きた時期の中でも変遷があり、死後にもかなりの拡充があった場所ではないのか、という疑いです。

その点で私なんぞが密かに注目しているのは、イラストの青白い輪で囲んだ部分でして、現状では「伝江藤邸跡」「江藤(えふじ)の丘」と呼ばれますが、もしも安土城が一貫して「南」を大手としていたならば、ここはその突端の出丸(防御陣地)と言うべき位置になります。

ところが何故か、ご覧のように、肝心の南側部分が「土塁」のまま!! 遺されているようなのです。

(※県の石垣調査はあったものの、発掘は行われていない模様)


決して私はここで土塁の防御力を軽んじるつもりはありませんが、この状況には、前回記事の「三法師邸」の新設を含めた、安土城南側の大きな拡充工事の進め方が絡んでいるように感じられてなりません。

すなわち「三法師邸」を核とする山の凹部が、その中心部から整備されたか何かの影響で、この部分だけが最後に取り残されてしまったのでは… という疑いが頭をよぎるのです。




思えば4年前の当ブログ記事(異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?)において、安土城の南山麓の四つの門跡を、都の内裏の三門に見立てようとする説に違和感を感じて、むしろ「それらは信長廟の門構えではないのか」などと申し上げ、安土城の「時期差」問題に触れて来たことが、ようやくご覧のイラストに集約されたような感もあります。

で、今回の記事は、イラストの真ん中あたりに書き込んだ「御三階(ごさんがい)か」という、これまたとんでもない仮説について、その詳細と、それが示唆する重大なテーマ… 私のかねてからの疑問「層塔型天守はどこで生まれたか」について、少々申し上げたく思うのです。



伝羽柴秀吉邸/発表された建物の推定図に色付けして作成/上が真北


ご覧の図は、伝羽柴秀吉邸の推定図を冒頭イラストと同じ色で塗ってみたものですが、このうちあえて「御三階か」とした建物は、「主殿」の敷地よりも一段下がった所にあり、これを旧滋賀県安土城郭調査研究所は「隅櫓」と推定し、三浦正幸先生は「台所」と推定しておられます。(※三浦先生は主殿の玄関を反対側の南西側と想定)


その位置は「伝豊臣秀吉邸址」(!…)の古い標柱のすぐ奥のスペース


(※発掘調査報告Tに掲載の測量図をもとに作成)


(発掘調査報告Tより)

「不整形の敷地いっぱいに建つ、一辺5間の方形の建物である。」

「礎石は建物1(主殿)同様で、一辺50cm前後の自然石を整地土上に直接据え、基本的に1間=6尺3寸の格子目上に配している。その礎石配列および立地状況等から隅櫓等の防御機能を持つ建物と推定される。」


と報告書にあって、建物の平面形は「真四角」とされています。

また、この建物の位置については、「山腹の主要な曲輪の左端付近」という意味では鳥取城の三階櫓(下写真)などを連想させ、「御殿から一段下がった場所」という意味では徳島城の三階櫓(山之古てんしゅ)などを、そして「御殿近くの石垣上の見晴らしのよい所」という意味では、先の鳥取城のほか、肥前名護屋城の上山里丸の二重櫓なども連想させるでしょう。




<なんと「御三階」の半数が真四角の平面形だった

 本当に天守の「代用」か!? 本来は「別用途」の建物ではなかったのか…>





鳥取城の古写真/二ノ丸の向かって左端に「三階櫓(さんかいやぐら)」

(※7月に行われた鳥取城フォーラム2013 シンポジウム「史跡整備の現状と課題
〜近世城郭を中心に」の告知で、ネット上に盛んに登場した古写真)


ご覧の三階櫓は、史料によれば一階が8間四方、二階が6間四方、三階が4間四方だったそうで、江戸中期に山頂の天守が失われると、その後は焼失や再建を経て「天守の代用」と見なされたそうです。

そして、そして、周囲の曲輪の構成を見ますと、これが私なんぞには、どう見ても冒頭で申し上げた「本能寺の変」後の安土城に酷似しているように見えてなりません。(※左図の鳥取城は上が真北)



!! 「本能寺の変」後の安土城が、ある種のスタンダードを生んでいた可能性はないのか…


鳥取城をご覧の近世城郭の姿に大改修したのは池田長吉(いけだ ながよし/輝政の弟)と言われ、古写真の三階櫓はその江戸中期の再建ではありますが、これも典型的な「御三階」の一つでしょう。


そもそも「御三階」と言いますと、この鳥取城のように、江戸時代に天守の代用とされた三重櫓という認識が支配的である一方で、中には会津若松城のように天守と並存し続けた御三階もあって、やや不審な点があります。

また「御三階」は建物の種類としても、鳥取城のような石垣上の「櫓」と、会津若松城や水戸城のように御殿と同じ敷地に建つ「楼閣」とがあったのに、いずれもが「御三階」のうちに数えられて来たのは、やはりどこか不審です。

そういう大きな振れ幅を含みつつ、どういうわけか、建物自体は真四角の平面形のものが多かった… という点に、私なんぞは思わず“歴史の口裏合わせ”のような臭いを嗅ぎ取ってしまうのです。


【真四角な平面形の御三階】 鳥取城/(会津若松城)/白河小峰城/金沢城/徳島城/盛岡城/(新発田城)/水戸城/岡城

【その他の平面形の御三階】 加納城/高崎城/佐倉城/古河城/丸亀城/米沢城/忍城/弘前城/白石城/松前城



この他には平面形が不明のものなど、若干の事例があっただけですから、まさに半数が真四角だったわけで、何故これほど多くの「真四角」が長期にわたって踏襲されたのでしょうか。

この事の裏側には、ひょっとすると「御三階」本来の“出自”が隠されていたりするのかもしれません。



【謎解きのための着眼点】一部の御三階は「外見」を度外視していたような印象がある

会津若松城と水戸城の御三階(楼閣の部類)


(※左CGは会津若松市による復元計画のイメージ図を引用しました)


さて、ご覧の二つのうち、左の会津若松城のものは、有名な阿弥陀寺に移築された建物を参考にした復元のためか、実にアッサリとした外観になっています。

また右の水戸城も、江戸時代に「以前ハ至極廉相なりしを新らたに造り営み」という記録があるとおり、初めは写真よりもさらに素朴な外観だったことが知られています。

ということは、二つはともに楼閣の部類に入る「御三階」ですが、御殿のより近くにあったにも関わらず、どこか「外見」を度外視していたような印象があるのです。


これはいったい何故なのか?… と想像力を働かせますと、特に会津若松城の方が天守と共存し続けたこと、そして江戸時代にはご承知のとおり、城主といえども天守にめったに登れなかったこと等々を踏まえれば、その裏側の事情を推測できるのではないでしょうか。


すなわち、これらの御三階は、元々は、城主がてっとりばやく城外を見晴らすため、御殿の屋根を上回る「三階の高さ」に上がることのみを唯一の目的とした建物であって、したがってその建物が、家臣や領民から「見られる」可能性は皆無だったのではないか…… 

だからこそ、そういう建物(本来の御三階)は外見を度外視しても、まったく構わなかったのではないか……

といった裏側の事情が思い浮かぶのです。




【超!大胆仮説】

 外見を度外視することから「層塔型」は誕生したのではないのか





ここで是非とも、想像してみていただきたいのですが、山頂の領主の館に望楼を載せたスタイルが「天守の原形」であったとしたら、そういう支配の象徴は、新たな領地の家臣や領民からの視線に耐えるためにも、破風やら何やらの装飾は欠かせなかったことでしょう。




しかし、そうした天守とは別途に、城主一人がてっとりばやく城外を見渡す設備として、御殿のすぐ脇などに「御三階」を新開発していたとすれば、「見られる」可能性のある最上階の屋根や欄干さえそれらしくあれば、あとの一階や二階の構造体は、至極、単純で良かったのではないでしょうか。


しかも、そういう最上階ありきの建物には「真四角」が好都合であったのかもしれません。

何故なら、仮に最上階を天守と同様の「三間四方」とした場合は、そのまま可能な限り単純 かつ最小のスペースで階を重ねれば、おのずと逓減(ていげん)率は少なめで、二階や一階も真四角にならざるをえないからです。


つまり今回の記事で申し上げたいのは <層塔型の誕生の発端だけはそういうことだったのかもしれない> という可能性でして、層塔型の誕生と、御三階やその本来の目的、真四角という平面形は、すべてリンクした事柄だったのではないでしょうか。


で、それはいつ発生したのか? と申しますと、冒頭イラストの安土城「三法師邸」の建物が5間四方であり、主殿のすぐ脇にあって、山麓を見渡すに絶好の位置に建ち、なおかつ、失われた七重天守の「代用」と人々に見られかねない歴史的立場を兼ね備えていたことに、どうにも注目せざるをえないのです。…


かくして、まったく意図せざる過程の中から誕生した「層塔型」が、江戸時代になると逆に、いくつかの政治的な理由から、天守の形態として積極的に好まれるようになった、という可能性については今更申し上げるまでもないでしょう。

そこにはおそらく、徳川家康の好みも反映したでしょうし、また諸大名の側の政治的な都合もあったことでしょう。

そこであえて一つだけ申し上げるなら、大名らは、平面を真四角にして「御三階」と名付けておけば“政治的に角が立たない”という半ば確信犯的な意図のもとに、本来は別用途のはずの「御三階」という名称を、実質的な天守に援用(悪用?)し始めたのではなかったか… という疑いさえ、私なんぞは感じております。



本来の御三階が外見を度外視したものなら、これは「半分正直」ということか…

弘前城の御三階櫓(明治以後に「天守」と呼ばれる)


(※南西側から見たところ/左が本丸内部を向いた壁面、右が二ノ丸側の壁面)





【では最後に、内容が未定だった2013年度リポートのお知らせ】

さて、今回の記事で申し上げた超!大胆仮説をさらに発展させまして、現在、以下のような内容を2013年度リポートの候補として検討中です。

《仮題》 領国統治の城(聚楽第チルドレン)と層塔型天守の完成へ

     〜聚楽第「御三階」を考える〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年09月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「本能寺の変」後の安土城には初の「御三階」が?






「本能寺の変」後の安土城には初の「御三階」が?


劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日(8月31日公開/配給:ギャガ)

「本能寺の変」後も2年以上存続した安土城の仮想イラスト


前々回の記事で「駿府城天守」の話題がやや一段落したところで、この隙間のチャンスに、これまで掲載できなかった話題を是非ともご紹介したく存じます。

上の仮想イラストは、安土城の大手道をめぐる5月の記事でご覧いただいたものですが、これは「本能寺の変」後に、もしも安土山麓に“羅城門級”の巨大な大手門があったらどういう風に見えたか… という仮定の様子を描いたものでした。




<大手道の左右の曲輪は、「本能寺の変」後には
 三法師(さんぼうし)邸になったのかもしれない、という千田嘉博先生の指摘>







さて、ご存じのとおり安土城は「本能寺の変」後も、山頂の主郭部がナゾの炎上をとげたものの、それから2年以上、織田家の本城として使われたことが判っています。

その間には、かの清須会議で織田家の家督を継いだ三法師(さんぼうし/織田秀信)の屋敷が、城内に新設されたということが文献にあるものの、それがいったいどこに当たるのか、滋賀県の発掘調査報告では全く特定されませんでした。

しかしこれは「灯台もと暗し」と申しますか、あまりにも近く、目の前にあり過ぎて見えなかった… ということではないのか、という指摘もあります。


(千田嘉博『信長の城』2013年より)

ところで山腹−山麓武家屋敷は、信長の安土城時代の重臣屋敷とだけ捉えてよいのでしょうか。
わたくしは「伝羽柴秀吉邸」「伝前田利家邸」などは、一五八二年(天正一〇)の安土城落城から同年一二月までに整備した三法師(織田秀信)と織田信雄の御殿の一部となって、信長時代の重臣屋敷とは異なった使い方をしていたと考えています。
(中略)
たとえば「伝羽柴秀吉邸」下段曲輪の豪壮な櫓門は、発掘の結果、下層の建物を埋めたのちに新たに建てた門と判明しています。
突出して立派な門は、三法師・信雄御殿造営にともなって改修新築されたものとすれば、上段と下段曲輪をひとつの武家屋敷と無理につなげて考える必要もないのです。



よく見れば三者三様… 伝羽柴秀吉邸の復元図とその「豪壮な櫓門」(一番下やや左)

(左図:現地の説明板イラストから / 中央:旧滋賀県安土城郭調査研究所のCG /
 右図:三浦正幸復元・株式会社エス制作のCG をそれぞれ引用しました)


千田先生がおっしゃった「豪壮な櫓門」の新設のことや、これまで「伝羽柴秀吉邸」と一括りに言われていた場所が、実は直接に行き来できない二つの別個の曲輪であったこと、さらには、この一帯が「三法師(織田秀信)と織田信雄の御殿の一部」になったのかもしれない、という千田先生の指摘はたいへん興味深く、多くのイマジネーションを生むものです。

(※ですからご覧の「豪壮な櫓門」は、織田信長の存命中は、違う状態であった可能性もあるわけです)

そこで私なんぞが何か申し上げますと、“まーた余計なことを”と舌打ちされそうですが、やはりどうしても気になって仕方のない大手道の“ある構造”と、そこから導かれる「三法師邸」の驚くべき可能性について、今回もまた、あえて申し上げてみたいのです。



なぜか「大手道」両側の門(赤丸)は、左右が対になって、ピタリと向き合っている…

(※オレンジ色=発掘調査で想定された主な建物、ただし一番右上は現ハ見寺の建物をとりあえず描画)


このように左右の門が決まって必ず向き合う、という曲輪の造り方は、他の城郭や山岳寺院でもポピュラーな手法だったのかどうか、たいへん気になって来ました。

そこで例えば、安土城と同じく、直線的な城道の左右に曲輪が並ぶ犬山城はどうだったか?と確認してみますと、下図の曲輪群のうち、「桐の丸」と「樅の丸」は向き合う入口が近かったものの、伝来の城絵図では門の位置ははっきりとズレて描かれていて、安土城ほどにピタリと向き合う手法ではなかったようです。




そして遺構が崩れている小牧山城や近江八幡城では、左右の曲輪の門がピタリと向き合う可能性は、ひょっとすると一、二箇所はあるのかもしれませんが、とても断定はできない状態ですから、安土城大手道の門の位置は、そうとうに意図的であるように感じられてなりません。



【妄想的仮説】もしも、赤丸の位置に前代未聞の「コの字形 渡櫓門」があったならば…




「まさか…」というご感想はもっともでしょうが、ご覧のように左右の櫓門を、幅1〜2間・長さ5間ほどの渡り廊下(もしくは太鼓橋)で空中をつないで、「伝羽柴秀吉邸」と「伝前田利家邸」を自由に行き来できる形になっていたとすれば、この一帯の使い方には、劇的な変化があったのではないでしょうか。

つまり <大手道左右の曲輪は一体化して使われた> という可能性を、ピタリと向き合った門の位置が、物語っているのではないか… と申し上げてみたいのです。

そしてこれは、「豪壮な櫓門」の向かい側の、「伝前田利家邸」の門の遺構が完全に失われていて、復元は不可能、という悪条件にも支えられた仮説であることを白状しますが、この仮説を推し進めた場合、一帯は、全体がひな壇状に下段(表)〜上段(奥)になっていたようにも思えて来ます。


【妄想的仮説その2】大手道左右の曲輪は一体化されて<下段・中段・上段>に??

(※これならば「伝羽柴秀吉邸」が二つに分離されていた積極的な理由にもなるのではないか)

妄想的仮説の「コの字形 渡櫓門」の位置は、現在の拝観料受付処のすぐ目の前になる…

(※この写真はサイト「Yahoo!トラベル」様からの引用です)





<で、最後にもう一言…
 各復元図で隅櫓とか台所とされている建物の位置は、当サイトが申し上げた来た
 「詰ノ丸(奥)の左手前隅角」という、天守の位置に当たるのかもしれない>








(※位置が「左手前隅角」じゃない! とのご批判は承知の上でご覧いただいております)

(※「御三階」以外の建物は旧安土城郭調査研究所の推定などを参照しました。その中でも
特に、中段と上段の間に「懸造り」があった点は要注意ではないでしょうか?)


(次回に続く)




劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日(8月31日公開/配給:ギャガ)


余談)さて、映画の『タイムスクープハンター』ですが、封切り日に映画を観るなど生涯初ではないかと思いつつ、誘惑にあらがえませんでした。

簡単にネタばらしになるような論評は避けまして、観終わった瞬間にヒラメいたのは、問題のナゾの炎上は、山頂の主郭部が“すべて”焼け落ちた点にこそ、本当の、事の真相が隠されているのではないかと、改めて感じた次第です。

と申しますのも、伏見城にしても、大坂城にしても、城内に寝返る者などが出て「落城」という形に陥ると、本丸周辺がまるごと全焼したりしたわけですが、一方では寛永度の二条城天守のように、落雷で焼失しても本丸御殿が延焼しなかったケースもあったわけで、両者のメカニズムの違いがもっと解明されるといいのではないでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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