城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2013/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2013年11月
         

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2013年11月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!【緊急提言】日本の千年の計として、大嘗祭を現存天守台の上で行われんことを提言申し上げます





日本の千年の計として、大嘗祭を現存天守台の上で行われんことを提言申し上げます


偶然か、誰かの作為か、旧本丸に並び立った大嘗(だいじょう)宮と現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)


前回の記事をアップしてから、今上天皇の即位の礼では、どうして写真のような状況が出来(しゅったい)したのだろうか? という疑問がむくむくと頭の中にわき上がりまして、その後、「即位の礼」関連の本を何冊か読むことになりました。


と申しますのも、「天守台」と言えば、当サイトが注目して来たとおり、中国古来の「台」の慣習を踏まえながら、16世紀、我が国が事実上の分裂国家に陥りかけた時、その再統一をねらう織田信長が、易姓革命の考え方(封禅や岐山の故事)にならって創始した「天守」の基壇として採用したものと申せましょう。

一方、「大嘗宮」の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿と言えば、我が国で古代から、新天皇が即位の際に行う一世一度の収穫祭(新嘗祭)である「大嘗祭」で、天照大神にささげた神饌(しんせん)を自らも食し、霊力をさずかる場として、その都度、建てられて来たものです。


ですから「天守台」と「大嘗宮」は、唐様か和様か、王朝の交代(下克上)を意図したか否か、という大きな対立軸は抱えているものの、ともに両者は、新帝が天と祖先に五穀豊穣をいのる、最も重要な祭祀の場としての歴史をふまえた存在どうしである、とも言えそうだからです。



皇居(旧江戸城)の旧本丸は、いまなお重層的な歴史の現場であり続けている


ご覧のように旧本丸を見直しますと、この場所は図らずも、我が国の歴史の重層性を語れる貴重なエリアの一つになっているのでは… という思いを強く抱きます。

果たして偶然なのか、誰かの作為があったのか分かりませんが、このせっかくの状況に対して、現代人はこれをただの“歴史の寄り合い所帯”で終わらせてしまうのか、逆に、何かしらの歴史的な解釈を真剣に加えてもよいのではないか、という感慨にとらわれるのです。


北京の天壇(圜丘壇)と、皇居の現存天守台




さて、急きょ読んでみました「即位の礼」関連の本というのは、思ったとおり、右派と左派の学者先生がそれぞれの政治的立場を巧妙に織り交ぜながら解説文を書いておられ、読むのに難渋してしまうのですが、そこからなんとか読み取った範囲で申しますと…


『大嘗宮悠紀主基敷設図』に描かれた江戸中期の悠紀殿と主基殿(元文3年の儀式)


まず「大嘗宮」というのは基本的に、ご覧のとおり、悠紀殿・主基殿とそれらを取り巻く柴垣や鳥居だけ、という形が古代から明治維新までずっと続いたそうで、その設置場所は、古代には大極殿の真ん前に、ご覧の仮設の建物と、その手前に参列者用の幄(あく/とばり)などが並んだそうです。

ちなみに悠紀殿・主基殿には、それぞれ東国と西国の米などが神饌とされたことから、大嘗祭は新天皇による日本全国の統治と、地方の服属を意味した、という指摘もありました。


上記文献には、悠紀殿・主基殿の、屋根や壁を取り去った状態の図解もある



そして大極殿が失われて以降の時代は、上図のように紫宸殿の前となり、この状態が明治天皇の時まで(断続的に)続きました。

ところが1909年の「登極令」以後は、即位の礼と大嘗祭が数日の間しか空けずに行われることになったため、仮設の建物とは言え、造営に日数がかかる関係で、大嘗宮は別の場所に設けざるをえなくなったようなのです。!

そこで大正天皇・昭和天皇の時は大嘗宮だけが仙洞御所などに設けられ、そして今上天皇の時には即位の礼も含めて初めて東京(皇居)で行われることになり、前二代と同様に、皇居正殿の前ではない“別の場所”として、旧本丸に設けられた、という経緯だったようです。


かくして、即位の礼が東京に移った理由も、海外からの参列者(VIP)対応のため、と言われているように、大嘗祭の開催地がめまぐるしく変わったのは、要するに、近・現代の日本の対外関係において、天皇の代替わりの儀式が、もはや御所やその周辺だけでは済まされない、国際的なお披露目の場を兼ねていくための“代償”であった… と言うことが出来るのかもしれません。


ですから平成2年(1990年)に、大嘗宮が現存天守台と並び立ったのは、本当に、意図せざる事柄だったようなのです。


軍服姿の明治天皇(写真:ウィキペディアより)


そもそも明治維新の結果、ご承知のとおり、江戸城は和洋折衷の明治宮殿を中心とした宮城(皇居)に変貌し、明治天皇は陸海軍を統帥し、近代の“武家の棟梁”を兼ねるような形にもなりました。

そうした様子はとりも直さず、朝廷と幕府が社会の両輪として成り立ってきた我が国において、ようやくその両輪が皇居で一元化したのかもしれず、このことをマイナス思考ばかりでとらえずに、いっそ我が国の千年の計として、未来に向けて果敢に踏み出してもいいのではないでしょうか。


そこで、現存天守台の上に、悠紀殿と主基殿を… と申し上げてみたいわけなのです。


ただ、冒頭でもご覧いただいた下図のとおり、大嘗宮は、古代から大極殿や紫宸殿の前(南側)に建てられた理由などから、建物全体が真北を向いていて、その点では、決して真北を向いているわけではない現存天守台との取り合わせは難しいのかもしれません。


※当図は左が真北


ですが、だからと言って、このまま旧本丸を“歴史の寄り合い所帯”のようにしておくのは、現代に生きる日本人として、ちょっと能が無いのではないか、という気もしてならないのです。…



と、ここまで申し上げて来て、最後に一つ付け加えたいのが、大嘗祭は、応仁の乱から江戸初期まで200年以上の中断があった、という一件でしょう。

室町時代、大嘗祭の費用は幕府が負担する形になっていたため、寛正7年1466年の開催を最後に、応仁の乱で幕府財政が窮乏すると中断してしまい、それから江戸初期の1687年まで、221年間、9代にわたる天皇が、即位の儀は行えても大嘗祭(大嘗会/だいじょうえ)は全く行えなかったというのです。

この件に関して、左派の先生方がまとめた本の中で(特に冒頭の“大嘗宮と現存天守台”の写真を思うと)冷や水を浴びせられたように、ハッとする指摘がありました。



(近藤成一「中世における即位儀礼の変容」/『「即位の礼」と大嘗祭 歴史家はこう考える』1990年所収より)

秀吉や家康が大嘗会を必要であると考えれば、これをおこなうことはたやすかったはずです。しかし彼らは即位の儀をおこなうことには熱心でしたが、大嘗会をおこなおうとはしなかった。
秀吉や家康は天皇の権威を確立するために大嘗会が不可欠であるとは考えなかったのです。




この本の(大嘗祭に国民の税金が使われることに批判的な)文脈とは別に、指摘された事実は事実として、ひょっとすると、新天皇が東国や西国の収穫物を天照大神とともに食すという大嘗祭の「秘儀」について、天下人の豊臣秀吉や徳川家康が、それを政治的にきらった、という可能性は無きにしもあらずでしょう。


そしてようやく大嘗祭が復活したのは、時の霊元上皇が徳川幕府に強く働きかけた結果だったそうで、それは上記のとおり1687年(貞享4年/五代将軍綱吉の時代)のことで、ちょうど、明暦の大火で江戸城天守が失われて30年めの年に当たりました。


!… やはり、日本再統一の記念碑とおぼしき「天守」と、「大嘗宮」の間には、何かしらの、見えない力学が働いているのかもしれません。

という風に考えたとき、現存天守台の上で大嘗祭を、という私なんぞの破天荒な妄言に対して、先人達も、最終的には「否」と言わないのではないか? と思えてならないのですが。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年11月10日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!層塔型よもやま話 その1・その2





層塔型よもやま話


このところ申し上げて来た「層塔型天守」に関わる複数の記事で、その行きがかり上、補足しておくべき話題が溜まって来てしまったため、今回はそれらをまとめて「層塔型よもやま話」とさせていただこうかと思います。



<話題その1 丹波亀山城天守もまた「過渡的」層塔型プロポーションであったということ>





ご覧のイラストと写真は、今年正月の記事でお見せした会津若松城の幻の七重天守を推定してみたイラストと、それがやや変則的な形の層塔型であるため、まるで古代エジプトの屈折ピラミッドのようだと申し上げた時の写真です。

両者の似た点は、ご覧のとおりの「見た目の勾配(こうばい)の屈折」でして、その後の最盛期の層塔型天守はこういう明らかな「屈折」は無くなる傾向になり、より一貫した逓減(ていげん)率で整ったプロポーションに変化しました。

そういう点で言えば、「屈折」というのは層塔型天守の過渡的な現象と言えそうですが、実は話題の丹波亀山城天守もまた、イラストの会津若松城に似た(…むしろ屈折ピラミッドの方に近い?)形状だったのです。



城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図

(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写


この件はかつて、我が国の城郭研究のパイオニア・城戸久先生が、論文の中で強調されていた事柄(ご参考→論文PDF/現在は有料)でありまして、近年よく諸書で見られる三浦正幸先生監修の復元立面図も同じ考え方であるものの、その解説文などでは殆ど触れられていない特徴なのです。


城戸先生は、『高山公実録』に採録された馬渕八十兵衛蔵書の中の数値に基づいて、上の略図を書かれ、「その各重の規模が明瞭である。しかして蓬佐文庫所蔵古図の11間とあるは天守石塁下方の寸尺とすれば妥当であり」という風に、初重の規模についても馬渕八十兵衛蔵書の「九間四尺四方」が正しいとされました。

となれば当然、この天守は層塔型でありながらも、ずいぶんと特異なプロポーションになるわけです。


【 推定 】見た目の角度の印象を補助線で強調してみれば…


城戸先生は同論文の中でさらに、「江戸期天守に至る過渡的形態を如実に示すものと言わねばならず、天守平面漸減の方法の発展を知る上に最も重視すべきものである」とまでおっしゃっていて、まさに、これを言わずして丹波亀山城天守は語れないだろうと感じる次第なのです。




<話題その2 猪瀬直樹(いのせ なおき)東京都知事の「まったくナンセンス」発言に触発されて作った合成写真をご覧下さい>



さて先日、猪瀬知事が都庁での記者会見で、話題の江戸城天守の再建問題について記者に問われて、「まったくナンセンス」とばっさり切り捨てたところは、私もたまたまTOKYO MXの放送で見かけました。

知事の考え方は「超高層ビルが林立する現在の東京で、高さではるかに及ばない江戸城天守を再建したら、おごそかな皇居の雰囲気を壊してしまう」というもので、知事はこの会見で明暦の大火の年号までスラスラと答えていて、発言は熟慮の上の結論という印象でした。

かく申す私なんぞも、当ブログで申し上げたとおり、結論は知事とほとんど同じであるものの、「高さではるかに及ばない」という部分はそうでもないだろうと思い立ちまして、こんな合成写真を作ってみました。



江戸城の寛永度天守は、現代の都市でも、そうとうに目立つ大建築だった!!

名古屋城天守・大阪城天守閣と本丸の地表面でそろえて並べると…



真ん中の江戸城天守は、江戸中期の再建計画用とも言われる都立中央図書館蔵の立面図を仮に使って、寛永度の規模のまま、見慣れた左右の天守と縮尺をそろえて合成してみたものです。


まあ、そもそも大阪城天守閣を「小せえ」とおっしゃる方々には何も申し上げられないのですが、この合成写真を作ってみて感じますのは、猪瀬知事の心配とは裏腹に、こんな大建築が皇居のド真ん中に出現すれば、むしろ <徳川が皇居を奪還したのか!?> と人々に感じさせるほどのインパクト(=まるで皇居を占拠したかのような感じ?)が出て来るのかもしれません。


しかもこれが「木造である」という点に日本人自身や外国人が驚嘆する可能性は大でありまして、老婆心ながら再建運動の方々に申し上げたいのは、少なくとも、この建物のアピールポイントは「江戸文化」などとおっしゃらずに、主眼を「木造技術の到達点」に変えるべきではなかったのかと。

と申しますのは、当時も中はガランドウであって、また地震国・日本が歴史的に生み出した大建築のあり方を示すものとしては、格好の事例かもしれないと思うからです。

(※ということでは、結局のところ、天守とはなんぞや、という命題も最後に強く問われるのかもしれません…)


そして完成予想CGについては、見せ方として、やはり大多数の日本人にとって見慣れた大阪城や名古屋城などと比べなければ、大きさがよく伝わらず、そうした点でさすがの猪瀬知事も多少の誤解をされたのではないでしょうか。




……でありますが、この意外に大きな視覚的インパクトを考えた場合は、なおさらのこと再建問題で気がかりになるのが、今上天皇の即位の礼において、もっとも重要な祭儀(神事)が旧本丸で行われたという経緯でしょう。


旧本丸に設けられた大嘗祭(だいじょうさい)の祭宮 / その上が現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)



いわゆる大嘗祭のハイライトは、ご承知のとおり、即位した天皇が深夜、一人で宮にこもり、神々と一体化するための秘儀と言われます。

その大嘗祭が今上天皇から東京(皇居内)で行われ始め、この先の開催地もまた旧本丸になっていく可能性があるわけで、それと再建天守との調和をいったいどう図れるのか、またそういう場所に大集団の見学者(外国人観光客)がズカズカとやって来る事態を許せるのか、という件は、これまた重大きわまりない問題でしょう。

ですから今後、日本の企業や皆様方に再建の寄付をつのる際は、そういう事情の説明が、絶対に欠かせないはずだと思うのです。…








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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