城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (249)



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2014年12月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・豊臣秀長の遺産…“オール礎石”の石垣へ!? 城郭の「切石」普及のきっかけをめぐる夢想





“オール礎石”の石垣へ!? 城郭の「切石」普及のきっかけをめぐる夢想


産経フォト「郡山城天守は高さ20m 豊臣ゆかり、構造判明」2014年9月13日よりの引用


天下人・豊臣秀吉の弟で名補佐役と言われる豊臣秀長(とよとみのひでなが)が総石垣造りで大改修した大和郡山城において、天守台の上の発掘調査が行われ、そこから「天守」の歴史に関わる大きな発見があったことを、当ブログも話題にして参りました。

で、この天守台ですが、今回の調査報告では豊臣期(秀長→秀保→増田長盛の在城期)に築かれたものと結論づけていて、そうした中で当ブログは、天守も天守台も、初代の秀長が築いたのでなければ、その後の二度にわたる天守の(まるで改変の無い!)移築の理由が分からないため、そうした理由をさぐるシミュレーションのイラストなどをご覧いただいた次第です。


思えば、発掘調査の以前には、この天守台は豊臣期よりずっと後の時代に築かれたものではないか… 例えば元和・寛永の頃に、徳川家康の長女(亀姫)の子・松平忠明が城主だった時期(秀長の築城から約30〜50年後)などに、天守台がまるごと築き直された(もしくは石垣が張り直された)のではなかったか? という見方もありました。


もとは羅城門の礎石という言い伝えの「転用石」(天守台の北東の隅角部/下の三つ)


と申しますのも、ご覧のような切石の転用石や角の稜線を整形した石が、天守台のとりわけ北東の隅角部に集中的に積まれていて(※他の方角の隅角部は必ずしも転用石ではありませんが)その印象が、他の豊臣大名らの城の石垣よりずっと新しく見えるからでしょうか。

しかし今回の調査の結果、もしもこの天守台が松平忠明の時代にまるごと築き直されたのなら、発掘された天守の礎石の状況から、忠明はここに淀城天守にそっくりの(しかも天下人の規格と言われる柱間2.2m!の)天守を自ら再建したことになるのでしょうから、そんなことはありえたのか!?…と、これまた驚きの結論になってしまいます。

そこで、問題の隅角部の写真を、もう一度、別の観点からご覧になっていただきたいのですが…


算木積みを目指した感のある上部の石と、とても算木積みにはなりえない下部の転用石


【ご参考/切石による算木積みの例】駿府城の本丸堀で発掘された石垣

その発掘当時の写真 →隅角上部の三〜四石の完璧な「切石」に対して、

下方の矢穴のある二〜三石は慶長の天下普請とも…(=秀長の築城の約20年後)



このように「算木積み」と「切石」という観点から、問題の大和郡山城の天守台を見直してみますと、結局、新しいとも古いとも言えないと申しますか、少なくとも、ご覧の駿府城の石垣に比べれば、駿府城の上部の隅角部のような「完璧な切石による算木積み」には到達していない、新旧が混在した、まことに過渡的な状態である、と申し上げてよいのでしょう。


では、転用石ではない「自前の切石」を初めて使用した城はどこだったのか? と考えてみますと、おそらくは(上の駿府城の写真のように)石垣の隅角部だけに「切石」が入った、部分的な切込ハギが最初であろうとは思うものの、先生方の解説書等を読んでみても、どの城が最初だったかは、今ひとつハッキリしません。

例えば加藤理文先生は「文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い後の大名の配置替え、徳川・豊臣の対立により、石垣構築技術は格段に進歩するが、「より高く、より強く」という基本的志向が変化することはなかった。このころ、規格加工石材が使用されるようになり、さらに隅だけに完全加工を施した切込ハギも登場する」(『よみがえる日本の城25』)といった説明をされています。

またつい先日も、「太閤なにわの夢募金 豊臣石垣公開プロジェクト」が共催した歴史講座「地下に眠る豊臣大坂城の石垣を探る」において、玉野富雄先生(地盤工学)が「豊臣期石垣と徳川期石垣の構造論」というお話をされたようで、大阪城は徳川期の石垣が、算木積みが切込ハギで平石部が打込ハギという形になり、徳川期に最高技術レベルに達したことを強調されたそうです。


徳川幕府が修築させた大阪城の高石垣 / 算木積みだけが「切石」で統一されている

同じことは徳川の二条城天守台(寛永度)などのほか…

幕府の本拠地・江戸城では「そこだけ御影石の切石」でコントラストが強調された


ご覧のような状態は、現代人の我々にとって、どこか“当たり前の風景”になっていて、算木積みに「切石」が入っていることは、強度的にも、美観上の費用対効果からも、十分に納得できる、まったく違和感の無い手法として感じています。


ですが、ですが、慶長後期から寛永期のその当時、自然石や割り石の算木積みが「切石」の算木積みに比べて強度的に(明らかに)劣っているという人々の認識や、「切石」の普及をうながす具体的な事故などがあったかと言えば、そういう話は、なかなか聞いたことが無いのではないでしょうか。…

つまり、何を申し上げたいかと言うと、おそらくはその頃、誰かが率先して「切石」を算木積みに使って見せたことから、全ては始まったのであって、どこかの(大名家や石垣職人らの)研究や検証の末に「自前の切石」が城の算木積みに試験採用された、などという懇切丁寧なプロセスでは無かったはず… という、ちょっと強引な見立てをしてみたいのです。





<大和郡山城天守台の隅角部も、徳川家康が自らの城に“継承”したのか??

 我が国の城に「切石」が普及したきっかけをめぐる 夢想その2>






【ご参考】大和郡山城の築城から約千年前、岩屋山古墳(明日香村)に積まれた精緻な切石!

(※ご覧の写真はサイト「Panchoの新・飛鳥路巡り」様からの引用です)


大和の国と言えば古墳の多い地域でもあり、大和郡山城は石垣に、礎石、墓石、供養塔、石仏、臼、燈籠、石棺など、数多くの「転用石」が使われていることでも有名です。

ちなみに「転用石」というのは、侍たちの生死を分けた城郭において、どうして墓石のような“縁起でもない物”を使ったのだろうか? という素朴な疑問が付きまとうわけですが、その動機としては「まじない」「霊力」といった指摘もされたものの、近年では「寺社勢力に対する徴発」という意味合いの説明が強調されているようです。

そして豊臣秀長は大改修の際に、領内の家々に石の供出を命じたため、人々が争って石をかき集め、騒動になったことが知られています。




そんな中で、この問題の隅角部も築かれたのなら、ここはひょっとすると「伝羅城門礎石」だけでなく、その上の石についても、石質は違うものの、いくつかは「転用石」ではないのでしょうか!? (しかも矢穴による割り石の技術は鎌倉時代からあるそうですし…)

その辺がもしもはっきりすれば、この天守台をまるごと秀長時代の築造と考えても不都合は無いことになるのでしょうし、現状と同じ姿を、徳川家康も目撃していた可能性は高まるでしょう。

さらに、豊臣秀長に仕え、大和郡山城に関連した人物としては、当ブログに何度も登場した籐堂高虎や中井正清、そして小堀遠州の父・正次もいて、そのため遠州自身は、父の正次が秀長・秀保・増田長盛の三代の城主に仕えたことから、幼少期を大和で過ごし、なんと10歳!で大和郡山城に登城した記録もあるのだそうです。


小堀遠州


その遠州のデザインとして、世界的に有名な孤篷庵(こほうあん)の延段(のべだん)

切石の直線(直角)と自然石の丸みとのダイナミックな組み合わせ




これも遠州の発案、天授庵の方丈前庭(東庭)/写真はウィキペディアより



【小堀遠州の略年譜】

天正7年(1579)/近江国坂田郡小堀村(現:長浜市)に生まれる。

天正13年(1585)7歳/大和郡山城主となった豊臣秀長に従って、父・正次とともに大和に移住する。

天正16年(1588)10歳/大和郡山城に登城し、秀長の屋敷ではじめて千利休に会い、翌日は豊臣秀吉の茶の給仕に出る。

文禄2年(1593)15歳/新城主の豊臣秀保が、600石を父・正次の知行から遠州に割譲するよう命ずる。

慶長元年(1596)18歳/伏見六地蔵に設けた自邸に洞水門(水琴窟)を工夫し、師匠の古田織部を驚かす。

慶長2年(1597)19歳/籐堂高虎の養女(豊臣秀次家臣・籐堂嘉清の娘)を正室として迎える。

慶長5年(1600)22歳/父・正次、徳川家康に従い小山へ出陣、続いて関ヶ原合戦に参戦。12月、正次が1万5千石を拝領し、備中国奉行として備中松山へ赴任。遠州も同道する。



ということで、遠州は7歳から22歳まで、大和郡山城とは付かず離れずの状態で生活していたわけでして、とりわけ10歳で登城した時に、城内のいたる所に「切石」の転用石が埋まっている石垣を見ただろうことは、まず、間違いないのではないでしょうか。


遠州の代表的な作庭、切石で池泉を囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※この庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)


遠州が庭を完成させた当時の絵図 …直線・直角と自然の山水の風景とのコラボレーション


……ご覧の世界的に有名なデザインについて、これも実は“秀長の遺産”だったのでは? などという戯言を口にしてしまうのは、本当にマズイことなのかもしれませんが、正直申しまして、今回のような夢想をあえて申し上げてみたいと思った動機はここにあります。


以上のように、今回の“夢想その2”で申し上げたかったのは、大和郡山城の「転用石」は人々に色んなインスピレーションを起させたのかもしれず、とりわけ問題の天守台の隅角部は、これまた家康に強い印象を残したのではなかったか? という点なのです。


宮上茂隆先生による二条城天守の復元案


そこで私なんぞは、(もはや幻ではない)家康の二条城天守の天守台には、きっと家康の記憶の中の「あの転用石」に似せた!!!「自前の切石」が、我が国の城で初めて、算木積みに使われたのではなかろうか…… などと、まことに手前勝手な夢想をふくらませているわけです。


二条城二ノ丸の北部 / 家康の天守跡と思われる周辺の微妙な地面の盛り上がり

冒頭から問題の隅角部分(下の三石が「伝羅城門礎石」)

例えば、その約70年後に築かれた江戸城の現存天守台…


ですから、全国の城に「切石」が普及した最初のきっかけが、本当に、秀長の大和郡山城の“問題の隅角部分”にあったのだとしたら、ご覧の江戸城の状態には“これは、オール礎石の天守台か!?” なんていう冗談も飛ばしたくなるのです。…

要は、物事は、何がきっかけになるか分からない、ということで。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年11月28日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣秀長の遺産…雄大な「帯曲輪」や「切石」も継承されたのか





豊臣秀長の遺産…雄大な「帯曲輪」や「切石」も継承されたのか


大和郡山城天守のシミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)

ご覧の雄大な印象の帯曲輪(石垣)も含めて、徳川家康は気に入ったのか…


巨大な天守台をもつ、家康の駿府城天守(当サイト仮説のイラスト)

ちなみに両天守を同縮尺の略図で並べてみると…

やはりどこか似た印象を感じさせる天守周辺 / ともに右下(南東)が本丸



前回の記事まで2回にわたり、大和郡山城の天守台の発掘成果をめぐって、とりわけ豊臣秀長と徳川家康の関係性を中心にいろいろ申し上げ、家康の心象風景をさぐるイラストなどをお見せしましたが、その結果、上記の両天守台の印象は、どこか似かよっていることにも気づきました。

ここで特に確認しておきたいのは、比較の図でお判りのとおり、両天守の平面規模は、ザックリ申し上げて、各辺ともに帯曲輪(駿府城は天守台)の半分くらいの長さでありまして、この程度の比率でなければ、ご覧の天守と帯曲輪(天守台)のようなプロポーションにはなりえない、という点です。

で、もしもこの「秀長の天守」が、もっと色んな面で他の城に継承されたのであったなら… という想像力を働かせますと、とたんに、アレもコレもと頭に思い浮かぶものがあります。

そこで今回の記事では、そんな秀長の遺産?をめぐる夢想を、いくつか申し上げてみたいと思うのです。




<大和郡山城天守を囲っていた雄大な帯曲輪(≒巨大な天守台)は、

 豊臣秀長の家臣でもあった籐堂高虎の「今治城」にも波及していた!?

 ナゾの今治城天守をめぐる 夢想その1>





今治城の本丸(写真中央)と昭和55年に竣工した模擬天守


ご覧の貴重な角度からの写真は、本丸がちょうど手前によく見渡せるもので、サイト「RenoStyle 不動産のブログ」様からの引用です。

ご承知のとおり、この今治城の本丸には初の層塔型天守があったのではないか、という主張を三浦正幸先生がなさっていて、その天守が後に、城主・籐堂高虎の発意で解体されて徳川家康に献上され、それが天下普請の丹波亀山城の天守として移築されたのだと言います。


城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図

(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写


ご覧の丹波亀山城天守の移築説は、申すまでもなく『寛政重修諸家譜』に「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」という記述があるためで、これについては過去の当ブログ記事でも引用したのですが、以前は三浦先生ご自身が…


(三浦正幸 監修・編集・執筆『よみがえる天守』2001年より)

高虎は今治城主であったが、慶長十三年に伊賀、伊勢の城主として転封しており、(丹波)亀山城普請を命じられた時は転封の直後であった。
大名の転封の際に居城の天守を持ち去ることは異例であるので、今治城天守を移建したとする点は信じ難い。
しかし、今治城天守新築の用材を準備中に転封となり、その材を新しい持ち城である伊賀上野城天守に利用する予定にしたところ、(丹波)亀山城天守に急に転用したと解すれば合理的であろう。



とおっしゃっていて、この本の時点では、従来からある今治城天守の否定論(第一の理由=遺構が見つからない!!)に目配せした考え方も示しておられ、私なんぞは、この頃のお考えの方に説得力を感じてしまうのです。

そしてこれもまた過去のブログ記事の繰り返しで恐縮ですが、この時の三浦先生の想定を時系列で整理しつつ、そこに徳川家康の慶長度江戸城「天守台」の件を合わせて考えますと、まるで違った状況も見えて来ます。


慶長5年  籐堂高虎、関ヶ原の戦功により伊予国で20万石に加増される
慶長7年  高虎、今治で居城の築城を開始し、慶長9年に一応の完成をみる
      (※注:三浦先生はこの後の慶長9〜13年に今治城天守が新築
          されたという形に、現在では自説を改めておられます)
慶長11年 高虎が縄張りした江戸城本丸改修の天下普請が始まる
慶長12年 『当代記』に「二十間四方」と伝わる江戸城天守台が築かれる
慶長13年 高虎、伊勢・伊賀に加増転封され、居城の津城を改修し始める。
      その一方で今治城天守の用材を大坂屋敷に保管する
慶長14年 高虎、その天守用材を家康に献上する
慶長15年 丹波亀山城が竣工する
慶長16年 高虎、支城の伊賀上野城を改修し、13間×11間の天守台を築く



といった一連の出来事において、文中の天守用材と、江戸城「二十間四方」天守台との、時系列的なカンケイを思い切って邪推してみた場合、問題の今治城天守が建てられたか 建てられなかったか 分からない時期に、ちょうど、江戸城の「二十間四方」天守台が築かれたことになります。



ちなみに今治城の本丸は約100m四方(≒約50間四方)の曲輪

(※石垣の状態は現状に基づいた作図です)


さて、ここから今回の「夢想」を順次申し上げてみたいのですが、図のように今治城の本丸は隅櫓や多聞櫓に囲まれた約100m四方の曲輪であり、もしここに三浦先生の(以前の)お考えどおりに、本丸内の地面に直接、丹波亀山城天守の前身の天守の木造部分が建てられようとした事を想像しますと、ちょっとバランス(比率)が悪かったのでは? と思えて来るのです。


前出の城戸久先生の略図どおりの丹波亀山城天守を建て込んだ場合、

これで「天守」として存在感を出せたのか?と、周囲からの埋没がやや心配な状態に…



さらにバランスの悪さは天守の高さについても言えそうでして、現状の模擬天守は北隅櫓の櫓台上に建てられていて、コンクリート造の建物部分の高さが約30mだそうですから、丹波亀山城天守の木造部分の高さは(古写真のプロポーションから考えますと)模擬天守の8割強といった辺りになるのでしょう。

しかも三浦先生のおっしゃるように、その木造部分だけが本丸内の地面に直接、建っていたとしますと、櫓台の分の高さが失われるわけで、結果的に、合計の高さは模擬天守よりもかなり低かったはずです。


で、まことに勝手ながら、先に引用させていただいた写真の上に

丹波亀山城天守の写真(模写)をダブらせてみますと…



おそらくはこんな感じになるのではないかと思われ、現在、本丸にある吹揚神社の木々にも埋もれてしまいそうであり、当時は周囲に隅櫓や多聞櫓があった状況を想像しますと、いかにもバランスが悪いというか、わざわざ「天守」として建てるだけの存在感を出せたのだろうかと心配になります。


ちなみに、三浦先生のお考えのキモは、慶長前期までの技術ではゆがみのない天守台を建てることが出来なかったため、初の層塔型天守を実現したのは、どこかの天守台の上ではなく、今治城の本丸内のような平らな地面の上であったはず、というものでしょう。

であるなら、そうした考え方の中にも、先ほど申し上げた「同時期の江戸城の20間四方の天守台」という一件を加味して考えて行きますと、例えば、こんな可能性はないのでしょうか。


江戸城天守のプロトタイプ用としての「材木」が準備されていた、という想定ですと…


「なんだこれはッ!」「そんな法外な話があるか」というお怒りは御もっともでしょうが、これが今回申し上げたかった【夢想その1】でして、今治城の本丸というのは、全体が「巨大天守台」の一種だったと想定しますと、それは高虎が豊臣秀長・秀保に仕えた頃に見慣れた大和郡山城天守の印象とも、大きさのバランスが合致するように見えます。


それと言うのも、慶長前期の伏見城の18間×16間とも伝わる天守台や、実際に江戸城に築かれた「二十間四方」天守台といった、徳川家康の巨大天守をめぐる動きがあったからこそであり、高虎はそうした動向をいちはやく察知し、先行して構想をねり、居城の今治城に「巨大天守台」を築き上げていたのではなかったでしょうか。

そしてそれに合わせて高虎が準備し、大坂屋敷に保管したのは、やはり建物としては一度も組み上げられたことの無かった(=三浦先生の以前のお考えどおりの)天守用の「材木」であったように感じるのです。




とんでもない夢想を申し上げてしまったのかもしれませんが、ご覧のように今治城の本丸で意図されたのは、高虎お得意の真四角な平面形で、なおかつ史上最大の、究極の層塔型天守をめざした実験場!!…だったのではないか、という風に、私なんぞには思えてしまうわけです。



徳川家康と籐堂高虎


さて、以前のブログ記事でも申し上げたとおり、高虎は家康のブレーンの一人として、家康時代の「天守」のあり方について少なからぬ貢献をしたはずでしょう。

そんな高虎にしてみれば、てっきり、徳川の世の天守はすべて、究極の「四方正面」である、真四角な平面形のオベリスクのような層塔型天守になるものと確信していたのかもしれず、それが現実には、江戸城や駿府城に長方形の平面の天守が建てられたわけで、高虎の思惑ははずれたことになるのでしょう。


で、それもこれも、実は、豊臣秀長の大和郡山城天守が、そっくりそのまま二条城に「継承」されてしまったという、高虎の予想以上の出来事の結果だったのかもしれません。

そして慶長16年、高虎が伊賀上野城で13間×11間の天守台を築いたのは、そんな高虎がめざとく状況を悟り、算盤をはじいた行動だったのでしょうか?


(※今回もすでに長文になってしまい、【夢想その2】は、改めて次回に申し上げることにいたします)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年11月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!あえてイラスト化する「初めて見た四方正面の天守…」徳川家康の心象風景





あえてイラスト化する「初めて見た四方正面の天守…」徳川家康の心象風景


徳川家康と、家康を大和郡山城に招いた豊臣秀長


左写真は徳川家康の側室・西郷の局ゆかりの宝台院(静岡市)に伝わる家康像だそうで、右写真は豊臣秀長の菩提寺・春岳院(大和郡山市)に伝わる秀長像です。

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみのひでなが)は豊臣政権の前半期を支えた名補佐役として有名ですが、天正16年、秀吉に対して臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

この時、秀長はわざわざ木津まで家康一行を出迎えたという話も有名で、この二人の関係を思えば、その後、もしも秀長が秀吉より長生きしていたなら、日本の歴史はどう変わっていたか(…果たして関ヶ原合戦は起きたかどうか)分からない、などと言う人が多かった二人です。


で、前回のブログ記事では、大和郡山城の天守(台)をめぐる宮上茂隆先生の“世紀の大予言”=二度の移築説が、この度の発掘調査によって、そうとうに証明されたような感があることを申し上げました。

しかもその「移築」はほとんど改変の無いもの(そのまま継承?)であった可能性が濃厚のようで、なぜ徳川家康や幕府が、豊臣政権の中枢にあった人物(豊臣秀長→秀保→増田長盛)の居城の天守を、そこまで丁重に扱ったのかは、大変に大きな謎だと言わざるをえません。


赤い図は松岡利郎先生による淀城天守の復原案 / 背景のカラー画は発掘調査報告より


改めてご覧のとおり、少なくとも天守の主要な構造には大きな改変は無かったらしく、もし細部についてもそっくりそのままであったのなら、そんな異例の措置の動機としては、それこそ冒頭の二人の関係性の他には、ちょっと考えようが無いのではないでしょうか?


ただしそれには、大和郡山城の天守がいつ建造されたかが問題になるわけでして、調査報告では、天守台の礎石等に修復のあとが無いため、おのずと天守は豊臣秀長か、その後継者の秀保(ひでやす)か、もしくは豊臣五奉行の一人・増田長盛のいずれかの時代に一度しか建てられなかったはずであり、それ以上の細かい時期は特定できなかった、としています。

ということは、天正16年、徳川家康が郡山を訪問した時、そこにはまだ「秀長の天守」が完成していなかった可能性(天正14年に完成直前の地震で崩れたとの記録あり)も若干は残っているわけですが、もしそんなことであれば、天守の「二度の継承」は、どこにも理由が見つけられられなくなってしまうことでしょう。

で、やや観点を変えて申し上げたいのは…




【新たな注意点 その2】

 大和郡山城天守が大きな付櫓台を介した「妻入り」天守ならば、

 それは豊臣大名らの望楼型天守群に含めるよりも、その後の、

 徳川将軍の「妻入り」層塔型天守につながる「祖形」と位置づけるべきか






この度の調査報告においても、現存の天守台の上に北東側から登る「石段」は、後の時代に付け加えられたものであり、創建時の登閣口は、大きな付櫓台の南面の石垣に痕跡がある「地階入口跡」であったことが確認されました。

そうなりますと俄然、気になって来るのが「大きな付櫓台」の由来でして、何故なら、天守台そのものに匹敵する広さをもち、かつ南側から「雁行」するように取り付き、その南面に登閣口があった「付櫓台」と言えば…






という風に、当ブログが仮説で申し上げて来た「立体的御殿」が「天守」として形を整えたプロセス(※上の3図は時系列とは逆の並び)の中でも、大和郡山城天守は、古い方と新しい方の形態を、両方そなえているように感じるからです。

どういうことかと申しますと、上記の天守群は初重の長辺・短辺の向きで言えば、福山城・豊臣大坂城は「平入り」の建物だったのに対し、大和郡山城のは明らかに「妻入り」であって別の要素を含む一方で、付櫓台の広さで言えば、福山城・豊臣大坂城と、最初期の小牧山城との中間に位置していることになりそうだからです。


ちなみに、この付櫓台に関しては、産経新聞(「郡山城の主は天下人クラス!?〜」ほか)の記事において、おなじみの千田嘉博先生が「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」とのコメントをされたそうです。

まさに付櫓台の地中から発見された「地階」は、安土城天主の天主取付台の南面!の石段に似たものであったのかもしれません。

そこで、イラスト化を行うための、当サイトなりの「付櫓」の規模や位置についての想定ですが、一説に、付櫓台はその西端に石塁があった可能性も言われていますので、下図のような想定でイラスト化を進めました。





さて、もう一方の「妻入り」の件で申しますと、天守の「平入り」「妻入り」の違いと、時系列とをからめて考えた場合、例えば…


豊臣大坂城と小田原城の天守台の、意外な類似性


以前のブログ記事で比較した天守台ですが、実は、この両者は「平入り」「妻入り」の違いを抱えていて、時系列的には、大和郡山城天守はこの二つの間の時期に建てられたことになります。ですから…




ご覧のように、間に大和郡山城天守をはさんで考えますと(三代将軍・徳川家光の上洛の時に建造された小田原城天守を含めて)徳川将軍のための「妻入り」層塔型天守につながる過渡的な形として、大和郡山城天守をとらえることも出来そうなのです。!…


で、以上をもう一度、整理しますと、大和郡山城天守は「大きな付櫓台」という観点では小牧山城につながる古い形を残し、安土城天主を思わせる壮大な構造をもっていた可能性がありながらも、「妻入り」という観点では、同時期の豊臣大名らの望楼型天守群を飛び越えて、ずっと後の徳川将軍の妻入り層塔型天守につながる「祖形」になったように思えてならず、この意味では、たいへんにユニークな存在だったのではないでしょうか。


このように考えて来ますと、やはり冒頭で申し上げた「家康と秀長」という関係を抜きにしては、とても大和郡山城天守を解釈できないように思われます。

おそらくは、家康の側が、この天守をことのほか、気に入ったのではなかったでしょうか。…


そこで今回は、そんな家康の「心象風景」がどういうものだったかをシミュレーションするため、以上の考え方に基づいて、大和郡山城天守をあえてイラスト化してみました。


付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現!!


ご覧の天守の本体は、宮上茂隆先生の二条城天守の復元案に基づき、細部の意匠は豊臣秀吉の弟・秀長の天守として違和感の無い状態としつつ、それを北東側から眺めた様子を、現在、本丸にある柳澤神社の本殿とともにイラスト化したものです。


こんなシミュレーションにおいて、まず申し上げたいのは、破風の印象によって、これが「四方正面」の天守に見えた、ということではないでしょうか。

このことは宮上先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)にあった三重目の東西南北面の大入母屋と千鳥破風が、細部の意匠を「秀長の天守」と割り切って想定したことで、その印象がいっそう際立った結果だと言えるでしょう。


しかもそれは家康にとって「初めて見た四方正面の天守…」であっただろうことは、時期的に見てまず間違いないでしょうから、これが家康をして「この建物をそのまま移築したい」という欲求に駆り立てた原因のように思えます。

きっちりとした四方正面の天守は、徳川が幕藩体制を確立しようという時期から流行したものであり、それが「天守」の本質的な意味の転換に沿ったデザイン(織豊権力の版図を示した革命記念碑 → 幕藩体制下の分権統治の中心的な象徴)ではなかったか、という点は当サイトが再三再四、申し上げて来たことです。

そうしたダイナミックな転換の折り返し点が、実は、大和郡山城天守と、それを見た家康の心象風景だったのかもしれません。!…



(※画面クリックで1280×960pixの拡大サイズでもご覧いただけます)


そして家康の心理には、ダブルイメージとして、「豊臣秀長」という人物に対する記憶が、強く影響を及ぼした可能性もありそうです。

例えば秀長の言葉として「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」という言葉があまりにも有名ですが…


(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」/『織豊期の政治構造』2000年所収より)

秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている。
豊臣政権が全国統一を進める中では、臣従した大名が大坂・京都へ出仕して豊臣大名として編成がなされるが、その出仕においては秀長が積極的に関わり、大名と秀吉を円滑に結びつける役割を果たしたのであった。

(中略)
秀長は秀吉の弟として、血族で一族大名として最高の位置にあり、統一戦争の先頭にたって活躍した。そのため、戦時や交渉には秀吉の権限を代行する「名代」の役割を担った。大友氏の書状にみえる「公儀之事」は、まさに秀長の「名代」の役割を示すものであった。
(中略)
しかし、一方では大名との交渉には大名の後見として内々に折衝する「取次」も存在した。九州大名に対し「内々之儀」を扱う千利休に代わって登場した石田三成や安国寺恵瓊は、秀吉と直接結びつき「公儀」を代行する秀長をも押さえるようになったのであった。
(中略)
その後、秀長は病気となり、奥羽仕置では血族中次に位置する秀次が「名代」として参加するのであった。
そして朝鮮の役では、出兵に専念しようとする秀吉に対して、国内統治を「名代」としての秀次が関白に就任して担当する。これは第一章で述べたフロイス書簡にいうように、本来は秀長の役割であった。



ここからは私の勝手な想像ですが、有力大名を豊臣政権下にまとめることに心をくだいた「公儀の人」秀長は、最大の外様大名であった徳川にとっては、まさに命綱であり、そんな心理が、秀長の四方正面の天守を、言わば「公儀の天守」として、強く記憶の中に刻み込んだのではなかったでしょうか。……




望楼型天守と初期の層塔型天守 …「唐破風」が示した天守の正面性(当サイト仮説)


さて、当サイトでは、望楼型から層塔型に移り変わる時期に、その正面性を保つための代用物として「唐破風」が導入された可能性を申し上げて来ましたが、その原点でもある大和郡山城天守の段階では、言わば <どちらも正面である=四方正面> という工夫のために採用されていたのではないでしょうか。


なおシミュレーションのイラストは、大小の連立天守(複合式)として描きましたが、これは秀長の支城の和歌山城がすでに連立天守だったという伝もあり、なおかつ移築先の家康の二条城にも小天守があったように洛中洛外図屏風に描かれているため、おのずと大和郡山城も、付櫓の上に望楼部分があった可能性はかなり高い、と見てそのように描きました。

またこの天守の影響が濃いと感じられる天守(江戸城・小田原城・岡崎城など)との共通項で言えば、やはり宮上先生の主張どおりに、最上階には高欄廻縁がすでに無かったのかもしれません。

さらにシミュレーションの結果としては、ご覧の帯曲輪の雄大な印象の石垣も含めて、家康は気に入ったのかもしれない… と思えて来るのです。




(※これはさながら駿府城天守のようであり、次回は駿府城の話題に戻ります)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年10月21日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!世紀の大予言 的中。話題の大和郡山城の発掘成果では「新たな注意点」も





世紀の大予言 的中。話題の大和郡山城の発掘成果では「新たな注意点」も


先々週ようやくお届けできた年度リポートは、まだ色々と補足して申し上げるべき事柄や画像が残っているものの、リポートの追い込み作業の頃に発表された「郡山城天守台発掘調査」の方がどうにも気になって仕方なく、こちらの話題を先にさせていただこうかと思うのです。…




(※上記の写真や図は「郡山城天守台発掘調査現地説明会資料」のPDFをもとに作成しました)


もうとっくにご存知の事とは思いますが、一応、ネット上の報道の文面をなぞっておきますと…


(毎日新聞 2014年09月12日)

豊臣秀吉の弟、秀長が城主だった郡山城(奈良県大和郡山市)の跡で、天守を支えた礎石群(16世紀末)が見つかり、同市教委が12日に発表した。
天守は礎石の配置などから1階は南北約18メートル、東西約15メートルの5階建て程度に復元できるという。金箔(きんぱく)が一部に残る瓦も、城内から初めて出土した。豊臣政権期の築城で様相が明らかな城は少なく、十文字健・市文化財係副主任は「城郭構造や築城技術の発展を考える上で重要」としている。

郡山城の天守に関する史料はほとんどなく、築造年代も不明で天守の存在を疑う説もあった。今回、出土した瓦の形や製作技法、天守台上面に再建や修復の痕が無いことから、秀長らが居城とした16世紀末の築造と判断した。

石川県金沢城調査研究所の北垣聡一郎名誉所長は「発掘により築造時期が分かる城は珍しい。全国の天守を比較して研究する際の基準になる」と評価している。





ということで、発掘された天守台上には、上図のように「井桁」状に並んだ礎石列(縦の南北方向に二列、横の東西方向に三列)の痕跡があり、その列の数はあたかも、約20年前、かの宮上茂隆先生が提起して賛否両論を巻き起こした「大和郡山城天守の二度の移築説」を後押しするような状態でありまして、私なんぞはこれを見て思わず、ブルッと身が震えたのです。

ご承知のとおり「二度の移築説」というのは、この大和郡山城天守が、徳川家康の二条城天守として移築され、それがさらに松平定綱の淀城天守として二度目の移築が行われたはず、というものでした。

しかし『愚子見記』等に基づいた宮上先生の主張は、なかなか最後の決め手を欠いたまま今日に至っており、それが今回の発掘調査で、ようやく決着がついたようなのです。

その驚きの結末を、図解でご覧いただきますと…


宮上先生が「二度の移築説」において参照した、松岡利郎先生の淀城天守復原案

(『探訪日本の城 別巻』1978年より)


同復原案の「二階」(一階と同大) →これが宮上説では二度目の移築後の状態に当たる

当の松岡先生は、二度の移築説にやや問題点をお感じのようでしたが…

赤く表示した「二階」と、調査報告の図を同縮尺!でダブらせると、なんと!!


上図の拡大 !!! 世紀の大予言 ほぼ的中。

天守台上の周縁部に、南側を中心に、数十cm平均の控えがあるだけ


礎石列の合致の具合など、もう何も、何も言葉が出ません…


ご覧のように、故・宮上茂隆先生(1940−1998)の指摘(世紀の大予言!)をめぐって大変なことが起きているようで、とても心おだやかでいられません。

これで、大和郡山城→二条城→淀城という天守の移築が、ほぼ証明されたかのような印象ではありますが、それにしても「移築」と言えば、旧天守の古材を使いながらも、建物はもっと改変された事例(彦根城天守など)しか知らなかったわけで、今回のは移築と言うより、そっくりそのまま「継承」されたかのように、殆ど改変が無かったことになりそうです。!

しかもそれが“二度にわたって”行われた可能性があるわけで、これには本当に、驚きを禁じえません。


で、その理由(→徳川幕府が何故この天守だけを丁重に扱ったのか?)については今後、色々と研究がなされるのでしょうが、今回のブログ記事で是非、申し上げておきたいのは、大和郡山城→二条城→淀城と、天守がそっくりそのまま「継承」されたのなら、そのことによって逆に、宮上説に対する【新たな注意点】も浮き彫りになったのではないでしょうか?






【新たな注意点 その1】

 大和郡山城天守もやはり、最上層屋根の「唐破風」の向きは、

 淀城天守や二条城天守の復元とまったく同じに、

 建物の「平側」であったはず

 



前出の松岡先生の淀城天守の復原案より(平側!の立面図に唐破風)

そして宮上先生ご自身による二条城天守の復元案(平側!の立面図に唐破風)


ご覧のように、一度目の移築の二条城天守、二度目の淀城天守と、宮上・松岡両先生の復元では、どちらも天守の建物の平側(長辺の側)の最上層屋根に「唐破風」が想定されていて、これは国宝の彦根城天守や姫路城天守と共通した手法になります。

そして今回の発掘調査で、建物の礎石の配置までが、大和郡山城−二条城−淀城の天守は事細かに共通(継承)していた可能性が濃厚となった以上は、当然のごとく、原点の大和郡山城天守もまた「平側」に唐破風があったと考えてしかるべきでしょう。

ところが、かつて宮上先生が提起した大和郡山城天守の復元案だけは、何故か(…ある“思惑”のためか?)「妻側」に唐破風を想定するなど、すべての破風が90度、方角をずらして配置されたのでした。


宮上先生の大和郡山城天守の復元案(『復元大系 日本の城』1992年より)

ご覧のイラストは北東から見た状態なので…


いったい何故?という印象でしょうが、宮上先生がこのような復元をあえて行ったことの背景を推理しますと、ちょっと複雑な話になるわけでして、結論から先に申せば、下記の豊臣大坂城天守の「宮上復元案」との“整合性”を持たせたかった、ということに他ならないのでしょう。


先ごろ新装版が出た名著(文句なく名著です!)の表紙を引用させていただきますと…



現に宮上先生は、ご覧の本のあとがきで「私は、安土城天主や、大坂城と兄弟関係の大和郡山城天守を、信頼できる史料によって復元設計しています」と書いておられ、豊臣大坂城と大和郡山城の天守を「兄弟関係」とまで想定していました。

しかし、上の表紙のような破風の配置の復元方法は、かの「大坂夏の陣図屏風」の、豊臣大坂城の西側と南側を混在して描いてあったことの影響(まことに残念な結果)によるものだろう、という一件は、当サイトの「リポートの前説」で詳しく申し上げたとおりです。

すなわち、そもそも豊臣大坂城天守の唐破風(徳川幕府の監視下での秀頼再建時)も、彦根城や姫路城と同じく「平側」スタイルのはずでありまして、この件には今なお強い確信を抱いております。




世紀の大予言を的中させた宮上先生について、これ以上、アレコレ申し上げるのは本当に心苦しいのですが、今回の発掘成果の発表があって以来、大和郡山城天守に対する世間(地元?)の注目もあり、事あるごとに引き合いに出される推定復元の画像などが、すべて宮上説か、宮上説を参照したCG等ばかりで、どうにも見逃せない状況になって来ています。


で、あえて心を鬼にして申し上げますと、ご承知のとおり、前出の松岡先生の復元図のもとになった原史料には、ある「欠陥」が存在していたのですが、宮上説の肝は、その欠陥をあえて逆手にとることで成立した、と申し上げても宜しいのではないでしょうか。


原史料の「山州淀御城天守木口指図」二階(欠陥=桁行と梁間の長さがあべこべ)と

松岡先生によるその欠陥の修正(復原)図(これが発掘調査とピッタリ合致しました!!)



一方、宮上先生は、原史料の桁行と梁間の長さ(長辺・短辺)をそのまま大和郡山城の天守台に当てはめれば、ちょうど最上階の唐破風が「大坂夏の陣図屏風」と同じ向きになる、という点にも着目したようで…



ですが、これは今回の発掘調査の成果によって、出土した礎石の配置とまるで噛み合わないことが証明されたわけです。

これは言うなれば、宮上先生の大予言は的中したものの、天守の具体像は“思惑がはずれた”と申し上げてもいいのかもしれません。


この度のニュース解説用に出回った略図も、宮上説の影響で、南の妻側に唐破風が…



以上の結論としまして、例えばご覧の略図や、同じく宮上説を参照された奈良産業大学の「郡山城CG再現プロジェクト」につきましても、天守の破風の配置は90度、方角がずれていると申し上げざるをえないのです。…




【新たな注意点 その2】

 大和郡山城天守が大きな付櫓台を介した「妻入り」天守ならば、

 それは豊臣大名らの望楼型天守群に含めるよりも、その後の、

 徳川将軍の「妻入り」層塔型天守につながる「祖形」と位置づけるべきか




(※突然で恐縮ですが、すでにかなりの長文になってしまったため、

  ここから先の内容は、次回のブログ記事で、改めて申し上げることに致します)






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2014年10月04日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!ついに2013−2014年度リポートをアップしました!!





ついに2013−2014年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせ致しました。
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2014年09月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・世界の中での「天守」…西欧の美しい城館は決して領民に見せるための建築ではなかったということ





西欧の美しい城館は決して領民に見せるための建築ではなかったということ


小和田哲男『城と秀吉』1996年 / いわゆる「見せる城」論の原点


年度リポートの完成はまだちょっとだけ時間をいただきたく、前回の<世界の中でのニッポンの「天守」>というテーマについては、是非とも付け加えたき事柄もありまして、それはおなじみの小和田哲男先生の「見せる城」論との関係です。


(上記書「あとがき」より)

秀吉の築城史と豊臣覇業史という視点で注目されるのが、「戦う城」から「見せる城」へという変化である。
少なくとも、大坂城までは「戦う城」という位置付けが可能である。事実、大坂冬の陣・夏の陣での大坂方の戦いぶりをみても、そのことは明らかである。
しかし、関白の政庁として築かれた聚楽第からは、もっぱら、豪華さを前面に出して相手を威圧する方向へと転換している。
見せる城、すなわち「見栄の城郭」の出現が“桃山文化”の極地ともいわれる豪壮華麗な城郭建築を生み出したのである。



この小和田先生の著書では、普請狂とも言われる豊臣秀吉の築城手法(戦略)について考察がなされましたが、この本で打ち出された「見せる城」論は、その後も様々な場で話題となり、日本の城に関する考え方の一つのベースとなった感があります。

一方、直近では、いわゆる「土の城」をめぐる長年の諸研究を経て、西股総生先生の「城の本質は悪あがきである」という名言も飛び出して来ていて、さながら「土の城 vs 見せる城」の相克(確執)こそ、戦国時代から安土桃山時代にかけての、我が国の城の最重要テーマであったことが浮き彫りになって来たようです。

となりますと、天守そのものを「見せる城」の重要アイテムと考える場合、それは必ずしも豊臣秀吉に始まったというより、その前の織田信長の城を含めて考えてもよいのではないでしょうか。…



姫路城大天守の修理後の真っ白い姿を、驚きをもって伝えたニュース


さて、今年は、平成の大修理を行っている姫路城大天守が姿を現し始め、そのあまりの白さから「白鷺城ならぬ白すぎ城」などと報道されました。

で、来年3月のグランドオープンを告知するポスターには「世界に見せたい白がある」というキャッチコピーがありまして、私なんぞの勝手な印象では、やや中途半端なアピールにとどまっているようにも感じられ、その理由としては <何故こんなに白かったのか> という肝心要の哲学(造形の主旨)についての言及が、少々抜け落ちているからではないでしょうか。…


思うに、そうした言及を行うには、いわゆる「西欧の美しい城館」との徹底的な比較検討(とりわけ美しさの理由や目的)が不可欠だろうと思えてなりません。



シャンボール城(フランス)


と申しますのも、「西欧の美しい城館」の代表格と言ってもいいシャンボール城やシュノンソー城などがどのように世間から見えていたかと言えば、いずれも広大な森林の中の道を延々と、延々と行った末に、ようやくご覧の城館が姿を現す形でした。

これらは全体が国王の余暇(狩猟)や国賓の接遇等のために設けられた専用の場所で、基本的に地域の領民は一帯からシャットアウトされ、城館は遠くから人々が眺められるような状態ではありませんでした。


アンボワーズ城 / ロワール川沿いの城館は町から眺めやすい位置になるが…

城と館の来歴をうかがわせる空撮写真(ウィキペディアより)



そして先のシャンボール城を含めて、絶対王政下のフランス国内では、戦略的な役目を失った城において、王侯貴族らが優雅な城館を建てることが流行し、ご覧のアンボワーズ城のごとく、新たな城館が町から眺めやすい格好の位置に建て込まれたものの、それらは言わば“超豪華な別荘”であって、領民の統治とはほぼ無関係の存在だったと言っていいようです。


さらには、有名なノイシュヴァンシュタイン城がたいへん眺めやすい“絵に描いたような城”であるのは、ご承知のとおり、近代人のバイエルン国王ルートヴィヒ2世が舞台美術家にデザインさせたロマンティック趣味の「作品」だったからで、これなどは(同様のリヒテンシュタイン城やホーエンツォレルン城等々も含めて)本来ならば、除外して考えるべきものでしょう。(!!…)

ですから、そうしますと、あとは「西欧の美しい城館」といっても、殆どがいわゆる「廃墟としての趣きや塁壁の古色が美しい」といった類いの城になってしまうのです。



先ほどのニュース画像より


その点、我が国の城の「天守」は、白壁や金箔瓦などで鮮やかに天空や城下に向けて雄姿を示すのが建築としての使命であり、同じ“美しい城”であっても、西欧の城館とは本質的に異なる存在だと言えそうでして、このことは解説書やガイドブック等でも案外、触れられていない事柄ではないでしょうか。

例えば「一度は行きたい世界の名城」といったランキング等でも、ご覧の姫路城天守と、シャンボール城と、ノイシュヴァンシュタイン城とが、仲良くトップ10に並んでいたりもしますが、「何のための美しさだったのか」という観点で申せば、実に三者三様であり、それぞれに美しさの「目的」が違っていたことを忘れるわけにはまいりません。



そこでもう一度、整理しますと、我が国の「天守」のある大名の居城は、まずは領内最大の軍事拠点であり、ときに苛烈な徴税や使役・徴兵などを強いた行政府の本庁舎でもあり、その目印たる「天守」は領民にとって、本来なら畏怖の対象であったはずです。

なのに、すべての「天守」は美しさ・華やかさ・雄渾さを競うように建造され、その高さ(山頂の立地や高層化)と色彩、破風の多用などで、ひたすら <視覚的な存在感> を極めることに努めたのです。

これはいったい、何故なのか??


今回、申し上げたいのは、このことこそ、日本の城だけに起きた「見せる城」という、世界でも稀有な出来事の賜物(たまもの)だろうという点でありまして、強力な攻城砲が出現する直前の、まことに幸運な一時期に、ちょうど織田信長や豊臣秀吉によって一気に「天守」というものが創始され、多くの日本人の目の前にズラリと出現した、という日本史のラッキーなめぐり合わせについての再確認なのです。


そしてそれほどの「天守」の急激な普及は、まったく新しい建築様式の浸透のスピードとしては、人類史上でも例の無かったもののはずでしょう。

それはおそらく、戦国時代という事実上の分裂国家を再統一するため、信長や秀吉が、奈良時代の一国一寺の国分寺や、足利兄弟による一国一寺の安国寺・利生塔の建立といった国家プロジェクトになぞらえた節も感じられ、彼らの政治手法に立脚して始まったものと考えなければ到底、理解できません。


… ひたすらに <人心をつかむ> ということ。

織豊大名という「下克上」出身の新興勢力が、日本の旧体制のあらゆる勢力や制度を押さえ込んで行くためには、戦闘や移封で得た領国支配のダメ押し的な一手として、そこの地侍や領民の目線から見て「これは仮設の陣地ではない」「恒久的かつ安定的な支配・統治のための新城である」という天守の絶大な視覚的効果が、大いに威力をふるったのかもしれません。





ということで、小和田先生の「見せる城」論は、日本が世界に向けて、是非とも力強く発信すべき理論であろうと申し上げたいのでありまして、姫路城大天守が何故あんなに白かったのかについても、もっと積極的な説明とアピールを行ってよいのではないでしょうか。


そんなこんなを考えたとき、「天守閣なんてお大名のただの見栄っ張りでしょ…」といった一般の方々の間違った認識は、一刻も早く正さなくてはならないと思いますし、また天守を「ドンジョン」donjon と翻訳する間違いも明らかでありまして、最低でも「テンシュ・タワー」tenshu tower などと訳さなくては、余計な、誤った認識を外国人に与えてしまう危険があると思います。


昨今、世界では19世紀や20世紀以来の国境が怪しくなる事態が続発しておりますが、我が国の「天守」は少なくとも、日本という国を戦国時代から中央集権を経て近世社会まで転換させる、という荒業(あらわざ)を押し進める上で、かなり重要な役目を果たした、巧みな <政治的アイデア> であったはずなのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年09月01日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!世界の中でのニッポンの「天守」





世界の中でのニッポンの「天守」


いよいよ昨年度から持ち越しの年度リポート(仮題:最後の「立体的御殿」としての駿府城天守)が追い込みに入っておりまして、このところは時間があると「立体的御殿」というキーワードをアレコレと考えるばかりの毎日です。

この数ヶ月のブログ記事でも、織田信長時代の小牧山城の主郭について、スペース的な制約から「御殿の立体化」が始まったのではないかと申し上げてみたり…




また岐阜城の山麓居館に四階建て楼閣を想定して、山頂天守と一体的にとらえて「七重の立体的御殿」の構想があったのでは… 等々と申し上げて来ました。




とりわけ岐阜城の構想は、足利義政の東山殿「銀閣」とその背後の山頂にあった「義政公遠見の櫓」とのセットが、直接的な参考事例のようでもあり、信長は義政ゆかりの地を思いつつ、“立体的城郭”とでも“階層城郭”とでも言うべき独自のスタイルを編み出していたのでしょうか。…




<垂直の落差を「軍事的な防御壁」とするか 「政治的な階層の表現」とするか…>




おなじみの世界遺産「万里の長城」「シーギリヤ」「開平の楼閣村」

(※写真はいずれもウィキペディアより)


さて、ご承知のとおり、アジアでは有史以来、連なる山の稜線上に「万里の長城」のような塁壁を連ねて城郭化した例や、険しい山や断崖の頂上部分を「シーギリヤ」のように城砦化(空中都市化)した例、さらには商人が自宅を高層化した「開平の楼閣村」といった例もあり、これらはいずれも、垂直の落差を軍事的な防御壁として活かしたものでした。



小牧山城 / 一つの山塊を下から上まで要塞化した“階層城郭”??

(※築城450年記念のパンフレットに使われたイメージ画より)


一方、垂直の落差を政治的な階層の表現として活用した節があるのは、小牧山城から以降の、織田信長の城だと言えるでしょう。


ご覧のように一つの山塊を下から上までカンペキに要塞化したのは、例えばフランスのモン・サン・ミシェルなど、宗教施設(山岳寺院)が真っ先に頭に思い浮かぶわけですが、それが日本の信長の手にかかると“階層城郭”とでも言うべき代物に変わってしまう…

この仮称“階層城郭”は、果たしてアジアや世界の視点から見るとどうなるのかが、たいへんに興味のあるところです。

何故かと申せば、この“階層城郭”の延長線上に「天守」が出現したとも思われるため、そうしますと天守はまさに、公家と武家が並び立って来たニッポンという国柄を踏まえて、権威(統治)と軍事の両面にまたがる「象徴」として生み出されたのかもしれない… などとも感じ取れてしまうからです。


そんな中で、世界の中でのニッポンの城(天守)を非常に考えさせる画像がありまして、今回はそれらを是非ご紹介したく存じます。



それは、おーぷん2ちゃんねるの「さよなら旧速記念」様のスレッド <世界の日本に対するイメージ画像・韓国だけがこんなにひどい件> というものでして、すでにご覧になった方も多いのかもしれません。
世界の国々の人が「日本」を画像検索した時に、どんな画像が上位にランクインしているのか?というもので、今回は特に、注目の画像にグリーンの枠を付けつつ、その他をやや暗くして見やすくさせていただきました。



アメリカ(→弘前城1画像)

タイ(→姫路城2画像、大阪城1画像、松本城1画像、弘前城1画像)

台湾(→姫路城1画像、芸者と松本城1画像)

中国(→姫路城と桜1画像)

ロシア(→姫路城2画像、大阪城1画像、名古屋城1画像、松本城1画像)

フランス(→姫路城1画像)

サウジアラビア(→姫路城1画像)

南アフリカ(→大阪城1画像、姫路城1画像)

【番外】韓国(→誰がこんな事態を招いたのか!?…この際立った異常さ)


(※検索の方法は、上記スレッドによれば「世界で大きなシェアを誇る検索エンジンGoogle、それを使いGoogle UK、Google France等々、世界の国々のGoogle検索サイトへ飛び、そこで各々の原語で「日本」という言葉を検索してみたところ、微妙に異なるそれぞれの「日本像」が生々しく浮かび上がって来た。Google Franceではフランス語で「Japon」、Google Brasilではポルトガル語で「Japao」と検索するなど、各国の公用語で「日本」を検索し、日本のイメージ画像をキャプチャ」というもの)


お察しのとおり、ご覧の画像のスレッドは、最後の韓国のひどい検索結果を伝えることを主題としたものですが、それはそれとして、私なんぞが思わず注目したのは、他の国々での「日本の城」とりわけ「天守」の画像の予想以上の多さなのです。!


そこで実際に、私も上記の方法で検索してみますと、日によって画像が変わるためか、各国ともに「日本の城」の画像はさらに多かったように感じました。

(※また意外と言っては恐縮ですが、世界では「弘前城」がずいぶんと健闘していることにも気付かされました)


この現象はもちろん、事の正確性を担保できるような話ではありませんが、例えば際立って「日本の城」が多いタイやロシアのように、もし本当に彼等にとって、日本のイメージの「数分の一」を「城」が担っているのだとしたら、これはやはり要注意の事柄であり、我々としてもそれなりの心構えが、改めて必要になるのではないでしょうか。…


タイ(→35画像のうち5画像)

ロシア(→35画像のうち5画像)


もちろんここでは、ニッポンの城の初心者である外国人の皆さんに「天守=城そのものではない」という基本情報を、まずはお伝えすべきなのでしょうが、彼等にしてみれば、とにかく検索画像に出て来た現物(→天守)を見てみたい、と思うのが人情でしょう。

それが日本の城そのものではなくて、一部分であるのなら、それはそれで、ちゃんとそうした説明(→ならば「天守」は城の何なのか?)が無ければ、まるで不親切と申しますか、最低限、日本人もまだ解明できないミステリーはミステリーとして、そのまま丁寧に伝えていくべきだと思われてならないのです。


そして出来るなら、世界の城の中での「ニッポンの天守」はどういう位置にあるのか、積極的にアピールできれば最良でしょうし、それに関しては、今年4月から奈良大学の学長!の千田嘉博先生の文章が勇気を与えてくれるようです。



(千田嘉博「“ガラパゴス”ではなかった日本の城」/『歴史発見 vol.3』2014年所収より)

日本では織田信長や豊臣秀吉の居城を手本にした織豊系城郭が、天下統一の過程にあわせて各地に広がった。そして一七世紀初めにきわめて共通性の高い近世城郭が、列島の広い範囲にわたって一斉に出現した。
日本の城がもつ鮮やかな政治史的な特徴も、世界史的に見て特筆される。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年08月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々「金頂」の御座としての最上階 …正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?





正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?


是非もう一回だけ、織田信長の「立体的御殿」の最上階に関する事柄を申し上げてみたいと存じます。

すなわち、安土城の天主には「最頂上に一の鐘あり」(『耶蘇会士日本通信』1577年の書簡より)という珍しい記録があるものの、これは『信長公記』など他の文献にまったく登場しないため、<正体不明の鐘>とされている点です。

この宣教師の書簡について内藤昌先生は…


(内藤昌『復元 安土城』1994年より)

この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので、工事中の時鐘かもしれず、正確の意味を理解しかねる。
慶長十五年十一月上棟の小倉城天守などには、最上階に鐘がつられていた(細川家文書『豊前小倉御天守記』)ので、あるいはそうした類とも思える。



という風に、内藤先生もややサジを投げた状態のまま今日に至っているわけですが、例えば朝廷に「尾張暦」の採用を求めた一件など、言わば“時の支配者”をめざした感のある信長にとって、天主の最上階に「鐘」というのは、どこかピッタリ過ぎるシチュエーションのように思えて、気になって仕方がなかったのです。

しかも上記の文章で釣鐘があったという小倉城天守は、一階が御殿風の造りになっていたあたりが「立体的御殿」との関連性を感じさせますし、また寛永四年に焼失した初代の弘前城天守では、釣鐘は四重目にあったとも云います。

しかし安土城天主の最上階というと…


(尊経閣文庫蔵『安土日記』の記述より)

上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ



当サイト仮説の最上階(七重目)



手前味噌のイラストまでお見せして恐縮ですが、諸先生方による復元を参照しましても、最上階は決して鐘突き堂のごとき構造にはなっておりませんし、天井には格天井などがあって、部屋の内外にそれらしき「一の鐘」をつり下げる余裕はどこにも無い、という状態です。

ちなみに、福山城に現存の鐘櫓(かねやぐら)は時の鐘を鳴らしたものですが、天守の鐘というのはいったい何を目的としたのか…

 神社の鐘は、願いごとをする神様への挨拶として。

 寺院の鐘は、時報の役割やその音色による功徳。

 教会の鐘は、主に礼拝の開始を知らせる時報として。


ということで、もちろん「鐘」には純然たる時報以外の役割もありますし、当時、安土城下で日常的に城や天主から鐘の音が聞こえた、という記録は特に無いようですから、ひょっとすると信長の「鐘」もまったく別の目的があったのかもしれません。

そこで考え方を少々変えまして、仮に安土城天主に「鐘」があったとしても、それは一度も鳴らなかった(=鳴らすべき時がついに来なかった)と想定してみますと、それはそれで、一つのありようが浮き彫りになるのではないでしょうか。



アメリカ独立宣言の時に鳴らされた「自由の鐘」(写真:ウィキペディアより)


これなどはご承知のように、独立宣言にちなんだ銘文が刻まれていて、それは旧約聖書の「全地上とそこに住む者すべてに自由を宣言せよ」という一文で、それを鳴らした、ということであって、鐘そのものに意味があるのではなくて、銘文の文言の方に重要な意味があったという特別なケースの鐘です。


沖縄・首里城の正殿に掲げられていた万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘


これも銘文の中身が重要でして、そこには「偉大な尚泰久王は仏法を盛んにして仏のめぐみに報いるため、この鐘を首里城の正殿前にかけた」という意味の由来が刻まれているそうです。

ところが一般には、文頭の方の「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫(しゅうしゅう=舟運)をもって万国の津梁(しんりょう=橋渡し)となし…」という部分がクローズアップされ、そのためこれは琉球の“交易立国”を宣言した鐘なのだとされていて、その微妙な政治的立場も含んだ特別なケースの鐘だと言えるでしょう。


かくして、日常的に突いた鐘ではなく、何か特別な願文を刻みつけ、念願がかなった時にそれを打ち鳴らす、という目的で造られた「鐘」もありえたのではないでしょうか。

そして信長の安土城天主の場合、そうした鐘がついに一度も鳴らなかった、となれば、それはもう言わば「天下布武の鐘」とでも言うべき代物(しろもの)が、いやおうなく想像されてならないのです。




<よもや正体不明の鐘は、天主最上階の天井裏に!?…>




そこで例えば…

スロベニアの聖マリア教会では、天井から下がる紐をつよく引くと鐘楼の鐘が鳴る


(※写真は「Yahoo!Japanトラベル」の「にゃにお」様の記事からの引用です)


「最頂上に一の鐘あり」

ご覧の写真のように、高い鐘楼の上の鐘が(下から見えないものの)ロープで鳴らせる、という形は世界各地のキリスト教会に普及したようですし、そんなものを当時、信長も日本において見聞き出来たのかもしれません。

また日本古来のものでも、四天王寺の北鐘堂(現状は昭和の再建)は天井裏に鐘をつっている例として知られます。


となれば、冒頭の内藤先生の「この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので…」という指摘は、まさに、取り付け工事中でなければ目撃できなかった鐘!…といった可能性も含むわけです。

天主が完成すればその鐘は見えず、もしも屋根裏に仕込まれたなら、説明されないかぎり存在に気付きもしないでしょうから、『安土日記』(『信長公記』)の村井貞勝らの拝見記にまったく登場しないのも無理からぬところでしょう。


そのうえ注目すべきは、問題の宣教師の書簡が「最上階」ではなく、あえて「最頂上」という訳文が当てられた報告文であったことで、そこに並々ならぬ目撃者の感慨を読み取ってしまうのは、私の行き過ぎでしょうか。




かすかに記録された「鐘」の正体は、金頂の御座の天井裏に仕込まれた「天下布武の鐘」…。

その銘文に何と書いてあったかが分かれば、生涯、説明なき言動ばかりの織田信長の本意について、いくらかでも知ることが出来ただろうに、と想像が勝手にふくらんでしまうのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年08月04日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から





続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から


往年の超大作パニック映画「タワーリング・インフェルノ」(1974年)より



こんな写真をご覧になると、やおら「タワーリング・インフェルノ」の映画音楽が口ずさめてしまう方は、私と同じ中高年世代とお見受けしますが、映画のストーリーは、実業家ジェームズ・ダンカンが世界一の超高層ビルを建てたものの、腹心の部下の手抜き工事によって、開業日に大火災をおこすというものでした。

世界一高い建物… といった話題は、どうしても“バベルの塔”的な教訓話が着いてまわるようで、映画でも消防隊長役のスティーブ・マックィーンが「今にこんなビルで1万人の死者が出るぞ」と意味深なセリフを吐きました。


ですが、そもそも旧約聖書に描かれたバベルの塔の話というのは、要するに「新しい技術で天まで届く塔を造れば、その名は上がり、そこに全人類が集住するはず」という仮定の姿であり、現実にはそうならずに、世界中にバラバラの言語を話す人々が散らばっているのは「神がそういうバベルの塔を否定したからだ」という説話(説教)になっているそうで、ちょっと驚きです。

思えば西欧の伝統ある都市の中心にも大聖堂や市庁舎があり、現在も世界各地でそういう“集客効果”をねらった高層建築が続々と出来ているわけですから、天まで届くほど階を重ねることは、単なる虚栄心とか、神への挑戦、といった観点だけでは語れない何かを、きっと含んでいるのでしょう。


前回の記事より 織田信長の岐阜城の山頂天守(最上階)についての仮説

道教の聖地・武当山(湖北省)/ その天柱峰の頂上「金頂」にある金殿


さて、前回の記事でご覧に入れた武当山については、どうしても申し添えておくべき事柄が残っていまして、それはご覧の武当山の建築群はほとんどが、かの永楽帝が特別な意図をもって大規模に修築したものだという点です。


ご存じ、先帝との闘争の末に帝位についた、明朝の第三代皇帝・永楽帝

一方、長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)




永楽帝と言えば、信長とは切っても切れない関係にあると感じられてならない人物であり、その心は過去のブログ記事でも申し上げたとおり、貴種の生まれでない武人が新機軸・新兵器で天下人(皇帝)に躍り出ると、あえて壮大な土木事業で人々を動員する古代的なパワーに熱を上げてしまうのではないか… といった共通点です。

で、まことに残念ながら、いまだに私自身は話題の武当山を訪れた経験がないため、現地の写真などはすべて中国の観光サイトから引用せざるをえませんが、とりわけ興味を引くのは、天柱峰の中腹以上の(高さ10mの城壁と四隅の天の門に囲まれた)エリアが「紫禁城」!と呼ばれていることではないでしょうか。




この武当山の「紫禁城」については、フロイスらが千畳敷から登った山中にもいつかの城門があったと記録した「岐阜城」や、そして近年、千田嘉博先生が安土山の中腹以上が厳密な意味での信長の城ではなかったかと指摘したばかりの「安土城」を、是非とも意識したうえで、次の紹介文をお読みいただけませんでしょうか。


(二階堂善弘『明清期における武神と神仙の発展』2009年より)

現在の武当山の大規模な宮観群は、明の永楽帝の命によって建てられたものである。明王朝では玄天上帝を異様とも言えるほど特別視し、そのために膨大な国費を投じて武当山の殿宇を修築した。永楽十年(1412年)に始まった工事は、ほぼ十年近く続いた。
(中略)
武当山の麓から太和宮・金殿などのある天柱峰まで登るルートは二つ存在する。一つは南岩宮から一天門・二天門・三天門から朝天宮を経て徒歩で登るルート、もう一つは、自動車などで中観まで行き、そこからロープウェイに乗って山頂まで出るルートである。
(中略)
三天門を経てさらに登ると、武当山の頂点に天柱峰があり、そこには金殿・太和宮・皇経堂・古銅殿・霊官殿などがある。
金殿は建物自体が銅で出来ているという特異な殿宇である。このような建築は、五台山などにも見られるが、膨大な費用が必要なためか、それほど多く存在するわけではない。
金殿は天柱峰の頂上に設置され、明永楽十四年(1416年)の建である。中には披髪跣足の玄天上帝像が祀られている。



これはもう私なんぞには、永楽帝のタワーリング・パレス(立体的宮殿)だろうと想像されてなりませんでして、では何故、これほど永楽帝は「玄天上帝」を特別視したのかと言えば…




上記書によれば「玄天上帝は、関帝と並んで、中国の武神を代表する神と言ってよい」「この神は四神のひとつ玄武をその源流とし」「髪はざんばら髪であり、また靴を履かずに裸足である。足の下に玄武の本体であった亀と蛇を踏みしめる場合もある」そうです。

そして永楽帝の特別な信奉については「玄天上帝の「神助」を強調することにより、自己の帝位簒奪とその挙兵を正当化すること」が重要だったろうと指摘しています。


つまり、帝位を戦で勝ち取った永楽帝にとっても、また漢民族が元朝(北の異民族)から国を奪回して築いた帝国・明にとっても、北の守護神「玄武」は特別な存在であり、それが人格神となった玄天上帝が、修行を行い昇天したという聖地「武当山」は、膨大な国費をつぎ込んでも宮観を復興すべき場所であったわけです。




さて、それはそうだとして、今回の記事で是非とも申し上げたいポイントは別にあり、それはご覧の武当山の様子と、岐阜城や安土城のグランドデザインが似ている可能性もさりながら、そのうえさらに興味深いのは <玄天上帝は六天魔王と闘った神である> という基本中の基本の伝説があることです。


第六天魔王。


!! ご承知のとおり、信長は一向宗徒らから仏敵「第六天魔王」と憎しみをもって呼ばれたものの、意外にも本人はそれを気に入っていたそうで、それは武田信玄の書状の「天台座主」という肩書きに対抗したものと解説されますが、その自虐性は信長らしからぬものです。

その点で、ひょっとしてひょっとすると信長は、自らの旗にも名を掲げた「永楽帝」が信奉した玄天上帝は「六天魔王と闘った神である」という事柄に、めざとく気づいたのではなかったでしょうか。…


いわゆる六天(欲界)の魔鬼というのは、漢民族にとっては「異民族」を意味したであろうことは間違いないでしょうから(二階堂善弘「東北の方角に出現した毒気」)、当時、衰退しつつあった明朝を突き崩しかねない実在の脅威として、六天の魔鬼はまたもや、漢民族の深層心理を寒からしめていたのかもしれません。


だとするならば、信長の「我は第六天魔王なり」(=我は異民族の大王なり?)という思い切った物言いは、武田信玄の「天台座主」に対抗したドメスティックな意味合いだけではなくて、それこそ大陸の明朝(永楽帝とその末裔)に対する挑戦状にも等しい覚悟が込められた自称であったのかもしれない… などとも思われて来るのです。

おそらく、これも信長お得意の、誰もその真意に気づかぬ“説明なき言動”であって、それは本来、信長の天主(立体的御殿)の最上階には何があったのか? という大問題ともつながるような気がして来て、なんとも落ち着きません。





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2014年07月19日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「金頂」の御座としての最上階を想像する





「金頂」の御座としての最上階を想像する


(木戸雅寿「天主から天守へ」/『信長の城・秀吉の城』2007年より)

天守とはいったいどう言う意味で作られ、それが何なのかということを、理解できている人はなかなかいない。天守がどういう成立過程を踏んでできてきたものなのかということを、お話いただけませんかというような話になりますと、これをなかなかうまく説明できる人は少ない。
実は今の城郭研究の分野の中でも、天守の研究はある意味、混とんとしている部分があり、そのような状況が続いております。



安土城発掘の木戸雅寿先生がシンポジウムでこう発言されたのは、当ブログがスタートした前々年でしたが、その「混とん」を打破する突破口の一つは、かつて内藤昌先生が安土城天主を評した言葉であり、かつ三浦正幸先生も改めて指摘された「立体的御殿」というキーワードに他ならないでしょう。




で、当ブログはご覧のように、織田信長が構想した「立体的御殿」の各階のねらい(性格づけ)について、あえて岐阜城の四階建て楼閣と山頂天守を一体化して、安土城天主につながる「七重」として考えることから、アレコレと申し上げて来ました。

その山頂天守は、宣教師の記録に「欧州の塔の如し。此より眺望すれば美濃の過半を見る」(日本西教史)と書かれた以上は、複数階の建物であったことは間違いないのでしょうが、二階以上(最上階)の具体的な様子に関しては文献上にヒントも残されておらず、関ヶ原合戦の頃の二重天守らしき絵図や、加納城に移築された御三階櫓の図などを除くと、あとはもう信長当時のこと(特に内部について)は想像でしか語ることが出来ません。


これはおそらく、山頂天守の二階は、日常的に出入りできた信長の家族しか目撃のチャンスも無く、それ以外の者は、断じて信長が立ち入らせなかったからではないかと感じています。

余談ながら、その観点で申しますと、フロイスとロレンソに茶を運んだ信長の「次男」「十一歳くらい」の「お茶箋(ちゃせん)」は申すまでもなく後の織田信雄であり、彼が本能寺の変の直後に、安土城主郭部に火を放ったとされているわけですから、やはり彼は、信長の天主の中で何かを見ていたのかもしれません。

(※なにしろ、前回の記事のごとく、もしも六重目がアマテラスとスサノオにちなんだ階だとすれば、その上の七重目は、これはもう「天地開闢(かいびゃく)」か何かの、この世の始まりを示した階か、それとも全く別の角度からのアプローチによる階だったのか…)


いずれにしましても、岐阜城の方の最上階は想像で語るしかない、となりますと、残る有効な手立ては「逆算」ということにならざるをえないでしょう。



当サイト仮説の安土城天主の六重目・七重目(最上階)


ご覧の金づくしの七重目は、松岡利郎先生の復元模型(→関連記事)に勇気をいただいてイラスト化したものですが、思えば何故、天主(立体的御殿)の最上階だけ金でおおわれたのか? その目的や由来は? という、当たり前のようで誰も真剣に問うたことの無い疑問に、こうなるとブチ当たらざるをえないようです。

そういう中で想起されるのは、かつて宮上茂隆先生が指摘された、かの「金閣」の本来の姿でしょう。


宮上先生の考察による本来の金閣(『週刊 朝日百科』日本の歴史1986年より引用)


同じ宮上先生の著書『金閣寺・銀閣寺』1992年によれば、応永4年の創建時から昭和25年の有名な放火焼失事件まで、金閣の二階は、内外ともに黒漆塗りの状態がずっと続いたのであり、総金箔張りは常に三階の最上階だけであったはず、としています。


しかし現実には、事件後の再建のおりに、寺外に流出して花生けに加工された一木片が金箔張りのような色をしていたことを根拠として(!!…)、それは二階の隅木の古材であり、かつては二階も金箔張りであったと村田治郎博士らが考証して、そんな“過去の姿”を取りもどす名目で現状のように再建されました。

ですから、その再建方法に異論を唱えた宮上先生の指摘どおりならば、金閣もまた、本来は <金でおおわれたのは最上階だけ> であったことになります。


左写真:再建された現状の金閣                  



中国大陸の各地にある「金頂」

道教の総本山・武当山の金頂の金殿 / 峨眉山の金頂の金殿(近年の修築)


雲南省・鶏足山の金頂寺(近年の修築) / チベットのトゥルナン寺の金頂


そこで、ここでちょっと視点を変えまして、中国大陸の各地には、道教の山岳寺院を中心として、山頂の小堂だけを金でおおった銅製の建物(具体的には真武大帝の廟や観音堂など)にした「金頂」が、様々に設けられて来ました。


「金頂」というのは、厳密には山頂にある特定の場所を示す言葉のようで、本来は金色の建物や屋根だけを示す言葉ではなかったみたいですが、現実の漢字世界では例えばエルサレムの岩のドームなども「金頂」と言ってしまっていて、厳格ではありません。

またご覧の写真のうち、右下のトゥルナン寺は山頂に位置しているわけではありませんが、チベットのラサ(海抜は富士山頂とほぼ同じ)という立地を考慮すれば、どれも“極めて高い場所”であるのは間違いのないところです。


そして今回の記事の注目ポイントとしては、そうした山岳寺院の中で「金頂」が設けられた最高峰の山は、どれも「天柱峰」と呼ばれていることでしょう。


天柱峰の「天柱」には「この世を支える道義」という意味があるそうです。

ということは、言い直しますと、山岳寺院の中心に「この世」や「天」を支える「道義」のごとき「柱」である最高峰がそびえていて、その頂点に「金頂」が輝いていた、という関係になるわけです。


「金頂」と「天柱峰」はセットのような関係か…(写真は武当山の場合)


!! これはお気付きのとおり、我々の「天守」という名称とも、一脈、通じているかのような現象であって、たいへんに興味深いことだと感じます。


冒頭の文章の木戸先生によれば、我が国で当初「殿主」「殿守」「天主」と様々に表記されていた「てんしゅ」が、「天守」という表記に統一されたのは豊臣政権の時だそうです。

ですから、日本国内の再統一を成し遂げた豊臣政権にとって、「天守」という表記が、もしも天柱峰と金頂の関係にヒントを得たものだったとするなら、それは取りも直さず、豊臣政権の安泰と永続性をねがう意図が込められた表記であったのでしょう。


天柱峰と、金頂と、我々の「天守」と…

このような関係に注目して想像力を働かせますと、その結果、どうしても申し上げておくべき核心部分の仮説に行き当たりまして、それはすなわち…

<織田信長が構想した天主(立体的御殿)は基本的に最頂部を金でおおうものであった>

ということです。!!?…


ふりかえって前述の「金閣」ですが、本来、金でおおわれたのは最上階だけ、という宮上先生の指摘に寄り添えば、放火事件後の再建された姿は一見、華やかで印象がいいようでいて、その実、「なぜ金で階をおおうのか?」という、そもそもの「意味」を解らなくしてしまったのではないか… その姿を見続ける現代人に、今後どれほどの(悪)影響を残すのだろうか… という思いもしてまいります。

そこで、そんな状況に一矢を報いるため、今回の記事の最後には、こんな想像を付け加えてみても構わないのではないでしょうか。



小牧山城や、岐阜城の山頂天守も、最上階はすでに金色に輝いていたはずである

何故なら、それが信長の「立体的御殿」の構想なのだから…


(次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!六重目(五階)の「千本の矢」…スサノオを天で待ち受ける軍装のアマテラス





六重目(五階)の「千本の矢」…スサノオを天で待ち受ける軍装のアマテラス


岐阜城の山頂天守の一階(五階/六重目?)はどんな階だったのか


(『完訳フロイス日本史』より)

上の城に登ると、入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいたでありましょうか
(中略)
私たちが到着しますと、信長はただちに私たちを呼ばせ、私たち、ロレンソ修道士と私は中に入りました
彼は次男に茶を持参するように命じました。彼は私に最初の茶碗をとらせ、彼は二番目のをとり、第三のを修道士に与えさせました。
同所の前廊から彼は私たちに美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で、山と城から展望することができました。
この前廊に面し内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました。



岐阜城の山頂付近から眺めた南の濃尾平野(地平線の高層ビルが名古屋駅前)


上記の訳文は、山頂天守の一階、すなわち織田信長が岐阜城に設けた「立体的御殿」の五階についての描写と思われますが、まず「上の城」の中でも「最初の三つの広間」と、山頂天守とは、別の建物であった可能性があるのでしょう。

そしてフロイスとロレンソが呼ばれて「中に入り」茶を飲んだ座敷?があって、「同所の前廊から」南の濃尾平野が見渡せ、しかも二人がそれまで通らなかった奥の「内部に」「きわめて豪華な部屋」があったと書かれています。

したがって、おそらく二人は、山頂天守の付櫓から入ってそこで茶を飲んだのであり、付櫓は南側に高欄が走っていて濃尾平野を見渡せたのでしょうし、「内部」というのが西の城下側、つまり天守そのものの一階=立体的御殿の五階(六重目)だったのではないでしょうか。

で、今回申し上げたい話題の中心は「千本の矢」でして、訳文の中で金屏風の豪華な部屋に置いてあったという「千本あるいはそれ以上の矢」に焦点を当てますと、そこから驚くほど色々な連想が出来るのです。




まず「千本の矢」というのは防御用の実用の弓矢ではなく、神前に供えた「千入(ちのり)の靫(ゆぎ)」ではなかったかと思うのですが、どうでしょう。

もしそうだとしますと、ダイナミックな岐阜城の「立体的御殿」の五階にふさわしい仕立てであり、すなわち天(高天原/タカマガハラ)のアマテラス(天照大御神)が「背には千入の靫を負い、脇にも五百入の靭をつけ」て、眼下のスサノオ(須佐之男命)に対して何故あがってきたかと雄々しく叫んだ、という『古事記』のスサノオ伝説を想起させるからです。

ちょっと唐突に聞えるかもしれませんが、岐阜城の山頂というロケーションと、後ほど申し上げる様々な関連性から、そう思えてならないのです。



(下左:「須佐之男命」津島神社の看板より / 下右:「武装した天照大御神像」東逸子画)


【ご参考】靫型埴輪(東北歴史博物館ホームページのアーカイブスより引用)

古代の靫(ゆぎ)は矢尻を上にして背負うための入れ物/埴輪の上4分の3がそれ



古代の靫(ゆぎ)は、信長の時代にはとっくに存在しなかったでしょうから、おそらくは千本の矢と、五百本の矢を、それぞれ神前(天照大御神)に供えるような形にしてあったものと想像しているわけでして、ここではまず『古事記』のスサノオの昇天伝説をザザザッとご紹介しますと…


(※以下の口語訳は「月刊 京都史跡散策会」様の第23号「冥府の神、荒ぶる神、須佐之男命」のほぼ丸写しであることを、何とぞ、何とぞお許し下さい)

黄泉国から逃げ帰った伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、私はなんともいやな穢(けが)れた国へ行っていたものだ、ここはなんとしても、この身の禊(みそぎ)をしなければなるまい、として筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いをした際、左の目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミカミ)が生まれ、右の目を洗ったときに月読命(ツクヨミノミコト)が生まれ、鼻を洗ったときに生まれた神が建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)でした。
伊邪那岐命は三貴子(みはしらのうずのこ)を得たと歓喜して、天照大御神には「高天原を治めなさい」と、次に月読命には「夜の食国オスクニを治めなさい」と、建速須佐之男命には「海原を治めなさい」と統治を分担させました。

ところが須佐之男命は委任された国を治めず、髭が胸前に垂れるまでの大人になっても、啼きわめいているばかりです。
その様子は青々と茂る山を泣き枯らし、河海まで泣き乾らしてしまいました。そこから邪悪な神の声が、五月の蠅さながらに満ちあふれ、万物はいっせいに災いに見舞われました。
伊邪那岐命は須佐之男命に、「どうしてお前は任された国を治めずに泣き喚いているのか」と糾(ただ)すと、「私は亡き母の国、根の堅洲国カタスクニに行きたいと思って泣くのです」と。伊邪那岐命は大いに怒って、「ならばお前はこの国には住んではならない」と須佐之男命を天上界から追放してしまいます。

追い払われた須佐之男命が天照大御神に暇乞いをしようと天に上るとき、山川ことごとく鳴動して国土が揺れ動きました。
この有様に天照大御神は驚いて、須佐之男命には善心がなく国を奪おうとしていると思い込んで、男性のように髪を美豆羅ミズラに結い、千入りの靭(ゆぎ)を背負い、脇にも五百入の靭をつけ、雄々しく叫んで「なぜ上がってきたのか」と問いただしました。

すると須佐之男命は、「邪きたなき心なく、妣母の国に行きたくて泣いていたところ追放された」と事情を説明しますが、天照大御神は、清廉潔白の証を求めます。いったい須佐之男命の言い分が真実かどうかを確かめるべく宇気比ウケイ(誓約)の方法をとりました。「自分の心が清明であることを証明するために、双方で子供を作りましょう」と答えました。
その結果は、天照大御神が須佐之男命の剣をもとに3女神を得、須佐之男命が天照大御神の珠によって5男神を得ました。5男3女神の誕生により、清き心が証明されました。

しかし、須佐之男命は宇気比(誓約)に勝ったおごりから、天照大御神の営田みつくだの畦(あぜ)を壊し、溝を埋め、稲の初穂(大嘗)を召し上がる神殿を糞尿で汚します。
しかし、天照大御神は、咎(とが)めようとするどころか、逆に弁護しています。「糞のようなのは私の弟が酔って吐き散らしたもの、田を壊し溝を埋めたのは私の弟が地面が惜しいとしてやったこと」と言葉でつくろいますが、そのとりなしにも反省せず、なおも悪しき行動は止むことがありません。

さらに天照大御神が機織り屋で神に供える衣服を織っていたところの天井に穴を開け 逆剥ぎにした天斑馬アメノフチコマを投げ込んで、天衣織女アメノミソオリメは仰天して機(はた)の杼(ひ)で ほとを突いて死にいたらしめました。
須佐之男命の所業は、高天原の神聖への侵犯・冒涜であるので、おそれをなした天照大御神は、ついに大磐屋の戸を閉じて、中に籠ってしまいます。


(以下はよく知られた天岩戸の話が続く)


このように、亡き母の国に行きたいとグレていたスサノオが、登って行った先の天(アマテラスの高天原)が、岐阜の山頂天守に見立てられていた!! とするならば、信長の想像力には本当に舌を巻かざるをえません。

何故なら、織田家と縁の深かった津島神社の祭神がスサノオ「建速須佐之男命」なのですから、ひょっとして信長は岐阜築城にあたり、自らをスサノオに見立てていたのではあるまいか… などという壮大な話にもなって来るのです。

スサノオとは、子孫の大国主之神による国譲りや、その後の天皇の神器の誕生に関わったこと(ヤマタノオロチの退治)で“キングメーカーの象徴”とも解釈される存在だと言われています。






津島神社の祭文殿にかかる社紋「木瓜紋」
(※ご覧の写真はサイト「それでも明日はくる」様からの引用です)


このうえさらに、伝説の舞台が「高天原」(たかまがはら)だという点で申しますと、当ブログで再三再四、引用させていただいた『朝日百科』の、安土城天主の襖絵の画題には「日本神話がない」という重要な指摘にも、新たな要素がからんで来ることになるでしょう。


大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』1995年


(同書より)

B「日本における権力中枢のイメージ環境の歴史を振り返ってみると、意外にもというか、案の定というべきか、安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないかという気がしてくる」
A「確かに、安土城最上層の、三皇五帝をはじめとする、神話時代の聖天子や、孔子および孔門十哲の図など、ぼくのいうチャイニーズ・ロアの図像は、内裏の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)にそのままつながるものを持っている」

(中略)
B「それにしても、内裏のイメージ環境については、これまで問われるべくして問われたことのない、重大な問題が一つある。日本の政治中枢でありながら、なぜ日本の神話が描かれなかったのかということ」
(中略)
B「世の始まりは、アマテラスではなく、三皇五帝であるということよね」


このところ当ブログでは <銀閣−岐阜の四階建て楼閣−安土城天主> という連関を軸にして、信長が構想した「立体的御殿」の成り立ちを追っていますが、最終形態の安土城天主の構想(画題)に日本神話が欠落しているのは、内裏にならっただけと考えればそうでしょうが、やはりちょっと解(げ)せません。

そこで今回申し上げたように、岐阜城の山頂天守の「千本の矢」こそ、その謎を解くカギであったのかもしれず、「立体的御殿」の六重目(五階)は、岐阜城の段階までは、まさに日本神話の階(スサノオの昇天の階)であったと申し上げることが出来るのかもしれません。





軍装の大天使ミカエル(聖ミカエル)


さて、5年前の当ブログ記事で、安土城天主の外壁には、銅版包みの柱に「ばてれんの絵」が彫刻されていた可能性がある、という櫻井成廣先生の指摘をご紹介しました。

この「ばてれんの絵」とは何か?と考えた場合、まさか宣教師や聖人・聖母子像などではないでしょうし、安土山頂の天主に刻むキリスト教のモチーフとして最もふさわしいのは「大天使ミカエル(日本の守護聖人)」ではなかったか、と申し上げました。

これなども今回の話題で「軍装のアマテラス」が岐阜城の段階で登場していたとしますと、それに大いに触発された結果とも考えられ、それもこれも、信長がめざした「天下布武」の理論武装の一環として、「立体的御殿」の成り立ちに深く関わった神々なのだと言えそうです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年06月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!再吟味!「五重め(四階) 御絵ハなし」の実相





再吟味!「五重め(四階) 御絵ハなし」の実相


銀閣の二階「潮音閣」(ちょうおんかく)は、観音像を囲む壁が一面の漆黒!

これを例えば「御絵ハなし」と伝えても、不都合は無いはず!?…




ならば織田信長の「立体的御殿」の四階はいかに…


このところ、岐阜城に四階建ての楼閣があったとする当サイトの仮説を前提にしまして、信長の「立体的御殿」(萌芽期の天守)の発想のあり方を色々と申し上げてまいりました。

で、いよいよ最上階の四階はどうなのだ? となりますと、これがチョット不思議なことに(皆様よくご承知でしょうが)大した記述が無いのです。…!!


(フロイス『日本史』柳谷武夫訳より)

山と同じ高さの三階には、いくつかの茶室がある一つの回廊があります。茶室はことさらに選ばれた閑静な所で、何の物音も聞えず、人のさまたげもなく、静粛優雅です。三階と四階とからは町全体が見渡されます。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第三階及び第四階の望台及び縁より町を望見すべく、高貴なる武士及び重立ちたる人々は皆新に其家を建築したれば、宮殿を去って甚だ長き街に出づれば王の宮廷に仕ふる者以外の人の家なし。


つまり四階については、外の眺望に関する記録しか無く、四階の内部がどうなっていたかは一切、記述が無いわけでして、せっかく「立体的御殿」を重ねた上の最上階であるのに、こういう状況というのは、私なんぞには、逆に気がかりで仕方がありません。

四階内部は本当に何も記すべきことが無かったのか… いや、そもそも「無い」とはどういう部屋の状態なのか… とりわけ記録者が宣教師という特殊事情を踏まえれば、と考えた時、ふと思い当たるのが冒頭の写真です。




この銀閣の二階(潮音閣)は、実際に現場をご覧になった方の言葉を借りれば「室内を見た時の衝撃・感動が忘れられない」「漆黒の世界に、障子越しの淡い光を、にぶく金色に放つ仏像。足利義政の心をみたり」(建築家・西方里見様のブログ「家づくり西方設計」より)という感じだそうで、かなり異様な真っ黒い空間が、逆に日本人の心をつかむのかもしれません。

ちなみに、足利将軍・義政が自ら命名したという「潮音閣」は、観音像を安置した禅宗様の仏堂であり、義政の造営のときから壁は黒漆塗りであったことが判っています。


そこで、もし、フロイスらが何も記録しなかった四階とは、こういう状態のことだった、と仮定した場合、話はまるで別の方向に大きく展開せざるをえないでしょう。


と申しますのは、かの金閣の二階もまた、ご承知のとおり「潮音洞」(ちょうおんどう)と呼ばれる和様の仏堂であり、しかも内壁は同じ黒漆塗りであるため、この両者に共通した「潮音」(ちょうおん)という名称はいったい何から来たものなのか、たいへん気になるところで…

1 海の波の音。潮声。海潮音。

2 仏・菩薩(ぼさつ)の広大な慈悲を大海の波音にたとえていう語。海潮音。


などと辞書には書かれていて、したがって四階は「何も無い」どころか、宗教的な背景をもつ、一つの世界観を与えられた階であった可能性が浮上して来るからです。




ひるがえって、これまで安土城天主の五重目(四階)は単なる「屋根裏階」とも…


(岡山大学蔵『信長記』より)

五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也



(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

こうしてみると天主じたいが後の本丸御殿に見られる書院の部屋の数々を階上に配列を変えて作られたものであることがわかるであろう。なぜ信長は、平面ではなく塔にしたのか。問題は各階各部屋の画題である。
(中略)
五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。


さて、木戸先生の貴重な「無」発言を見ましても、安土城天主については『信長公記』類の「安土山御天主之次第」に各階各部屋の襖絵の画題が一々記録されているため、五重目だけが「御絵ハなし」とあっさり書かれていると、さも(評価に値しない)取るに足らない階であったかのような錯覚に、我々はいつの間にか、陥っていたのではないでしょうか。


かく申し上げる当ブログも、過去の記事(暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か)では、五重目が静嘉堂文庫蔵『天守指図』によると、ほぼ真っ暗闇になることから、それは暗闇の上方の最上階の「光」を際立たせる演出ではなかったか、などと申し上げるのが精一杯でした。


しかし今回、岐阜城の状況を踏まえて <銀閣−四階建て楼閣−安土城天主> という連関を想定してみますと、天主五重目は建物の構造として屋根裏であったとしても、ただの素朴な屋根裏階ではなくて、れっきとした性格(世界観)を与えられた階であったのかもしれません。

すなわち、一面の漆黒の階は、天下布武のあかつきの安寧(あんねい)と静謐(せいひつ)の受け皿となるべき、広大な空間の広がり(=制圧と版図)を表現していたようにも感じるのですが、いかがでしょうか。


天主(立体的御殿)の四階は、言わば潮音の階?


ということは、信長が岐阜城の段階で仕掛けた「立体的御殿」の全体構想とは…


この際、さらに申し上げておきますと、この前後の織豊政権のありようを思えば、天下布武の構想には「海の波音」が重低音のように低く鳴っていたのかもしれず、信長の「天下」観念のなかに「大海」がしっかりと組み込まれていた節も感じられて、改めて刮目(かつもく)する思いがするのです。






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2014年06月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ならば立体的御殿の三階は「茶の湯御政道」の本拠地か





ならば立体的御殿の三階は「茶の湯御政道」の本拠地か


当サイトが考える岐阜城の四階建て楼閣

二階が「王妃」の階(御上方)ならば、三階は茶の湯の階??



(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第三階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり、其巧妙完備せることは少くとも予が能力を以て之を述ぶること能はず、又之を過賞すること能はず。予は嘗て此の如き物を観たることなし。


安土城天主も二階(三重目)が実は「御台の対面所」であったなら、

三階(四重目)は「茶の湯御政道」の階だったのでは…



前回、織田信長の「立体的御殿」をめぐる発想の仕方に話題が及んだわけですが、その二階が実は「御上方」の御殿を意識していたとしますと、三階は上の二つの図のように茶の湯… 信長の有名な「茶の湯御政道」の本拠地、とでも言うべき空間(ある種の聖域)に発展していたのかもしれません。

仮にそうだとしますと、「茶の湯」は信長軍団の支配原理に関わる重要な存在でもあったわけですから、安土城天主の七重は、下層階が蔵や政庁、御上方といった実生活に使うエリアだったのに対し、四重目から上が早くも政治的モニュメントの色合いを濃くするという、みごとなグラデーションが出来上がることになります。


金閣・銀閣などの各階構成にもつながるグラデーション


しかし私なんぞは、どうも、羽柴秀吉や丹羽長秀ら信長の家臣たちが、何故あそこまで信長下げ渡しの名物茶器を有り難がったのか、感覚的に解らない部分があるのですが、もし現代風に、ゴッホの絵が一枚何十億円という中で、信長の「名物狩り」のごとく、世界中のゴッホの絵を収奪・管理したうえで、一枚ずつ、家臣に恩賞として渡したというのなら、解らないでもないでしょう。

という理解のレベルで申しますと、仮に三階が「茶の湯御政道」の階だとしても、それは必ずしも信長自身が茶の湯三昧にひたる場所ではなく、ただ“名物茶器が集中的に納めてある階”というだけでもいいのかもしれません。

とすれば、私なんぞの一番の関心事は、二階の「御上方」にしても、それらは本当に実用(=実際に奥方らの専用)を第一目的として作られた階だったのか、という観点なのです。


と申しますのも、以前、当ブログでは <安土城天主の障壁画は見栄えよりも「文字化伝達」が最大の目的だったのでは> などと申し上げたり、<天主内部は薄暗さ・明るさが階によってバラバラだったのでは> とも申し上げたりしていて、岐阜城の四階建て楼閣ならまだしも、安土城天主の場合、二階(三重目)は「御上方」の実用にはちょっと不向きな面もあったように感じるからです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』三重目の内部はかなり暗そう

逆に四重目の内部はかなり明るかったのかもしれない



大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』1995年


(同書より)

(安土城天主は)何といっても、上下七階に襖絵を配するという、ほとんど空前絶後といっていいプロジェクトであったことが、まず問題になる。
外観の壮大なスペクタクルが人の眼を奪ったであろうけれども、内部の各層に描かれていた襖絵が、またそれ自体で、さまざまなメッセージを階層的に組み立てた、一個のスペクタクルになっていたにちがいない。



といった見方を踏まえますと、結局、二階に「御上方」を配したのも、真のねらいは、あくまでも奥向きの御殿群を縦に重ねた「立体的御殿」、という建築構想の“身の証(あかし)”にあったのではないでしょうか。…

つまり個々の階に性格づけがなされていても、それぞれの階の実用性よりも、何故そういう風に積み重ねたのか?という、全体のメッセージの組み立ての方が、優先していたように感じられてならないのです。

そしてその立案者の信長にとっては、言わば“天主の情報管理”(天守とは何かという伝達情報のチェック)が、世間や家臣団の評価がそれで左右されかねないだけに、けっこうシビアであったはずだと思うのです。




<余談 / 駿府城天守の『当代記』の記録に、最上階の4間×5間の
 
 情報が無い(伏せてある?)のも、天守の情報管理の影響か…>





さて、そういう話題に関わる「余談」としまして、現在、まだまだリポートの制作途上ではありますが、駿府城天守の記録に関しても、申し上げたような“情報管理”の影を感じております。

と申しますのも、下記の重要なくだりに、最上階「物見之段」の4間×5間という規模の情報が欠けている点が、やや気になるのです。


(『当代記』此殿守模様之事)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落 椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
            懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
          懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
          懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
     破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
     鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金
  


この件については、諸書の解説などで『慶長政事録』の方に「七重目 四間に五間 物見の殿という」と書かれていて、こちらの記録で最上階の規模はちゃんと分かるのだとされています。

でも私なんぞは長いこと、『当代記』にそれが無いのは何か意味があるのでは? という勘ぐりを捨て切れませんで、悶々として来たのですが、その背景には…


最上階は伝統的な「三間四方」が当然、となれば、こういう考え方も無くはない


これは天守最上階の物見之段が「三間四方」であるのは“言わなくても判るはずだ”という姿勢を『当代記』がとっていた場合、ありうるケースだという気がして、私の悩みのタネになって来たものです。

ご覧のように六重目を完全な屋根裏階として大屋根をかけ、その上に三間四方の小さな望楼をあげれば、全体では立派に「五重七階建て」で考えることが出来ます。


そして何故「4間×5間」だけ欠けているのか、もう一つの原因として考えられる候補が、申し上げた「天守の情報管理」の影響ではなかったでしょうか。


すなわち <大御所の天守の最上階が、伝統的な三間四方=九間(ここのま)ではない> ということに、記録者がある種の“引け目”を感じてしまい、そのため4間×5間の『当代記』への記述をはばかり、遠慮してしまった、という可能性もあったのではないか… と申し上げてみたいのです。


ですが実際のところは、以前の記事で申し上げた「小さなコロンブスの卵」に気づいてからは、私もやはり最上階は「4間×5間」で正しかったのだと得心できましたし、制作中のリポートやビジュアルもこれに沿っています。


小さなコロンブスの卵


かくして、天守が「天守」として(立体的御殿が「立体的御殿」として)見られるための“身の証”には、思いのほか、当時の人々は慎重だったように感じるのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年05月25日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!立体的御殿における「御上」(おうえ)の存在感





立体的御殿における「御上」(おうえ)の存在感

【お知らせ】

完成がとてつもなく遅れています2013年度リポート(最後の「立体的御殿」駿府城天守 〜朱柱と漆黒の御殿空間をビジュアル化する〜)は依然として難工事を続行中です。
この際、全体の体裁を2013−14年度リポートとしまして、この夏頃には是非ともお目にかけたいと決意しております。



ということで、今回の記事は「立体的御殿」の話題に戻って、『匠明』当代屋敷の図などに見られる「御上」の御殿が、萌芽期の天守(立体的御殿)において、かなり大きな存在感を持っていたのでは… というお話を申し上げてみたいと思います。


※ご参考 『岩波 古語辞典』より

おうへ【御上】
1 畳の上。座敷。また、居間あるいは客間
2 良家の主婦の敬称。「いかなれば−にはかくあぢなき御顔のみにて候ふぞや」<是楽物語>

※『三省堂 大辞林』より

おうへさま【御上様】
主人や目上の人の妻の敬称。おえさま。おいえさま。おうえ




発掘された滝の庭園が話題の、岐阜城・千畳敷(NHK番組の一コマより)

(※この画像はサイト「手づくりアイスの店 マルコポーロ」様からの引用です)


さて、当サイトは織田信長の岐阜城の千畳敷に関して、「全体がいわゆる山里ではないのか」「別の場所に四階建ての楼閣があったはず」等々と、発掘調査関係者の方々の神経を逆なでするようなことばかり申し上げて来ましたが、いま話題の“二本の滝の庭園”はさすがに、一日も早く現地で拝見したいという願望をかき立てられております。


一方、発掘調査のホームページや上記の番組CG等を見るかぎり、この20年近く可能性が強調されて来た「階段状居館説」はずいぶんとトーンダウンして来たようです。

すなわち、階段状に建物が接続した「増築を重ねた温泉宿のような構造」ではなくて、言わば「階段状」の曲輪群にそれぞれ配置された複数の建物、といった解釈に落ち着いたように見受けられます。

ですが、それでもまだ、私なんぞの疑問としては、例えば松田毅一『完訳フロイス日本史』の訳文では「予の邸」は「大きい広間」とは別の建物であって、その第一階に「約二十の部屋」があり、その「前廊の外に」「四つ五つの庭園」が位置していて「三、四階の前廊からは全市を展望」できたというのですから、上記のCGでも、まだまだ苦しい解釈だと思えてなりません。

(※またご承知のとおり、それ相応の礎石類は未発見のままですし…)




発掘調査地とは別の場所にあったと考える、当サイトの「四階建て楼閣」説

『耶蘇会士日本通信』の訳文を当てはめれば日本史上最大の楼閣に…



これは4年前の記事でご覧いただいた図に若干の加筆を行ったもので、何べんも申し上げて恐縮ですが、やはり山麓の「宮殿」(「予の邸」)は四階建て楼閣であり、足利義政造営の「銀閣」とまったく同じように、現在の岐阜公園の平地部分(昔御殿跡)において山側を向いて! 建っていたと考えた図です。


これを何故またご覧いただくのか(こだわるのか)と申せば、この楼閣こそ、「立体的御殿」の進化にとって、かの小牧山城の大発見と並ぶほどの、重要で欠くべからざるマイルストーン(一里塚/節目)だと感じるからです。

それは図のごとき「地階」があったなら、実質的に五重規模の史上最大の楼閣となりますし、また各階にそれぞれ性格を持たせていた節があるなど、まさに「立体的御殿」のプロトタイプと申し上げて良いのではないでしょうか。

そうした観点から、とりわけ留意すべきは二階の描写だと思われ…



(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』より)

二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。



一階よりも美麗な二階には「王妃」=正室の濃姫(帰蝶)??の休憩室が…


ご覧の四階建て楼閣は、基本的には、建物の主目的が「銀閣」と同様の“月見のための楼閣”だったと考えるべきでしょうから、そこに「休憩室」という訳語が出て来てもなんら不思議は無いはずで、その最も美麗に仕立てられた二階は「王妃」の階だったというのです。


これは特筆すべき事柄だと思われまして、何故なら、その後の安土城天主でも、各階の障壁画の画題等は詳しく判っていても、ここまではっきりと「誰」のための階(部屋)と書かれた記録は他に無いわけで、信長の「立体的御殿」に対する発想を知るうえで、たいへんに貴重な証言だと言えるのではないでしょうか。

で、そうした発想は突然、信長の発意だけで生じたものかと言えば、そうでもないらしい… という点が、今回、強調させていただきたいポイントなのです。



『匠明』当代屋敷の図では、北西のいちばん奥に描かれた「御上方」

(その右下には「局」「台所」、左下には「御寝間」が描かれている)



皆様ご存じの平内政信の『匠明』は慶長年間の成立ですから、ご覧の図は織田信長よりやや時代が下るものの、ここにある「御上方」の御殿の位置は、どう見ても「天守」のあるべき位置と同じ?であるように見えて仕方がありません。例えば…


 左:聚楽第図屏風   右:洛中洛外図の二条城(慶長度天守か)

ともに本丸の東南に大手門、北西の奥に「天守」を配置したらしい



このように聚楽第や徳川家康の二条城、駿府城など、本丸御殿の敷地が四角い近世城郭と比べた場合、「天守」と「御上方」はほぼ同じ位置にあったと言えそうでして、これがさきほど申し上げた信長の「立体的御殿」の発想ともピタリと合致しそうで、ずっと気になって来た事柄なのです。

とりわけ気になるのが、従来、安土城天主の各階の「解釈」をめぐっては、諸先生方の間でいくつか相違があったものの、おおむね天主台上の「二階」については「対面所」という解釈で一致して来たのに、それが実は「王妃」の階=すなわち江戸城にもあった御台様の大奥対面所の先例だった… などという話は、諸書ではまったく見かけたことがありません。




ですが、ですが、今回お話し申し上げているように、信長の「立体的御殿」の進化のプロセスを推定する上では、<二階は「王妃」の階>であり、<二階の対面所は大奥対面所の先例だった> という見方は、けっこう理にかなった配置手法であると思えて来るのが、なんとも興味深いのです。


いずれにしても、ここでいちばん大事なことは、岐阜城千畳敷の場合、もはや小牧山城の山頂のようなスペース的な制約はまったく無かったわけで、それでもなお、信長が「立体的御殿」に執着したことが、次の安土城での天主誕生!! につながったのだという見立てが、当サイトの筋立ての屋台骨になっているわけなのです。



今回の話からの推論) 銀閣や金閣にもあった空中の橋廊下、史上最大の四階建て楼閣の場合は?


それは話題の滝の庭園へ…??







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年05月11日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか





続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか


歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」


前回に申し上げた“戯れ言”(=この浮世絵こそ福岡城天守の実像なのでは?…)は、どうやら言いっぱなしのままでは済まない状態のようで、弁明のための補足説明をいくつか申し上げたいと思うのです。

まず、背景の海は「実は博多湾ではないか」という件ですが、逆を申せば、表題どおりの姫路城と播磨灘だとしますと、現実には、とてもこの浮世絵のような景観がありえないことは明らかでしょう。


姫路城天守の最上階からの眺め(南の播磨灘方面 / 外港の飾万津は約4km先)


(※上写真2枚はサイト「神戸観光壁紙写真集」様からの引用です)


こうして見直してみますと、冒頭の浮世絵が「本来は姫路城の描写でない…」という私の勝手な疑念も、決してまとはずれではないようですし、さらに石橋を叩いて、姫路の外港だった飾万津(しかまづ)の景観を確認しておきますと…


播州名所巡覧図に描かれた飾磨津(飾万津)


(拡大)

ご参考1)冒頭の浮世絵の拡大  飾万津にこれだけ多数の蔵が建ち並んでいたか…


江戸時代、飾万津の港には、姫路藩の米蔵「飾磨御蔵」や水軍「御船手組」の奉行所などが置かれ、河岸には回船問屋が軒をならべて繁盛したと伝わるものの、そこに「博多」と肩を並べるほどの数の蔵があったかと言えば、そうとは言えないようです。しかも…


ご参考2)同じ浮世絵の左下部分  城の北々西の海岸沿いに小さく「橋」が見える


(拡大)

(※ちなみに「貞秀画」の右下の「通油町 藤慶版」はこの浮世絵の版元の情報)


前回はご覧に入れなかった浮世絵の左下部分ですが、小さいながらも目を引く橋が描かれていて、これを仮に、福岡の波戸港に入る手前の橋だったと考えますと、描写の「正確さ」「緻密さ」という点で、歌川貞秀ならではの特異な世界(→後述)が顔をのぞかせるのです。


ご参考3)「福博古図」にも福岡城の北々西の海ぎわに、ちゃんと「橋」がある


(拡大)現在の福岡市中央区荒戸と西公園の境界あたり


!!! ご覧のとおり、問題の浮世絵は一見、羽柴秀吉(真柴久吉=絵本太功記の役名)が鳶職の親方のように描かれるなど、太閤記の人気にあやかったオチャラけた要素がありながらも、実は、背景の町並みはそうとうに「正確」かつ「緻密」に描かれた可能性があるのです。




<「空とぶ絵師」歌川貞秀とは、何を描いた人物なのか

 「絵画と地図のあいだ」と言われるマニアックな筆致と遠近法>





歌川貞秀が、富士山の火口部分だけをパノラマ風に描いた「大日本富士山絶頂之図」


どうでしょうか。浮世絵でこんな絵!を描いたのが歌川貞秀(五雲亭貞秀、玉蘭斎貞秀とも)です。

神奈川県立歴史博物館が平成9年に行った「横浜浮世絵と空とぶ絵師 五雲亭貞秀」展の図録によれば、貞秀自身がある版本の序文で「親しく実地を踏みて見ざれば其真景ハ写しかたし」と自らの作風を記したそうで、この驚きの作画は、実際に本人が、富士山に何度も登頂して描いたものと考えられています。

そして貞秀は「横浜浮世絵」というジャンルでも精緻さを突き詰めていて、あまりの細密さから、貞秀が活躍した幕末から明治初期、浮世絵の業界では「彫り師泣かせ」の絵師と言われたそうです。

例えば以下の絵は、それぞれ画面クリックで拡大サイズ版にもリンクしておりますので、是非ご参照下さい。


歌川貞秀「再改横浜風景」(拡大版:3481×856 pix 横浜市立大学蔵)

歌川貞秀「東都両国橋夏景色」(拡大版:1602×785 pix 江戸東京博物館蔵か)


前述の図録によれば、貞秀の絵は「絵画と地図のあいだ」と評されているそうで、遠近法の採用も手伝って、観る者に“そこに行ったかのような体験”をさせようという、まるで現代のハイビジョンや4K画像(8K、IMAX…)等々と同じねらいを持っていることに、私なんぞは舌を巻いてしまうのです。

晩年になって貞秀は「凡そ浮世絵の上乗は。その時の風俗をありのまゝに写して。偽り飾らず。後の世にのこして。考証を備えしむるに在り」と語ったそうで、浮世絵というものに対して、一般の人々が抱いているイメージとは、かなり違う世界を追い求めていたのかもしれません。


歌川貞秀「楠正成 河内国千早城 鎌倉勢惣責寄手破軍大合戦」(拡大版:2000×991 pix)


一方、ご覧の千早城の絵など、貞秀は多くの合戦図の類いも描いていて、特にこの絵は、有名な楠木勢の奇策を(大胆に翻案して)櫓をガラガラと敵兵の頭の上に崩す形で描いた面白さで知られています。

ただ、これら何点かの「城」がらみの絵を見ますと、千早城や堺の籠城戦、北条執権の館などに「高石垣」を描いてしまうなど、どれも厳密な城の考証から申せば、貞秀の「正確さ」が急に怪しくなっているのは事実です。

これは、さすがの貞秀も、鎌倉から室町時代の城がどういうものか、もはや現地でも確認できなかった影響なのか、それでも依頼主の注文に応えるため、やむなく自らの画法を捨てて、世間一般が容易に「城」だと認識できるような確信犯的な手法に堕してしまったのかもしれません。



歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(拡大版:2000×956 pix)


さて、以上のような歌川貞秀の人物像を踏まえて、改めて問題の浮世絵をながめますと、上記の合戦図などと明らかに違うのは、なにより「姫路城は現存する城」であって、貞秀は西国への旅のおりに、池田家築造の現存天守なら何べんでも見られたはず、という一点に尽きるでしょう。

そういう中で、貞秀は現存天守とは似ても似つかぬ天守を描いた一方で、背景の海については「博多湾」をはっきりと意識して、正確に、細密に、描き込んだ可能性があるわけです。

!?…


この矛盾の背景を推理してみますと、作画に色々と策をろうした貞秀のことですから、もしかすると、羽柴秀吉時代の天守が現存天守とは異なることを百も承知のうえで、「ならば…」と、まったく別の城の原画を下敷きにして“真柴久吉の天守”を(はるかに精密に)仕立て上げた、という彼一流の芸当をやってのけたのではないでしょうか。


であるならば、そこに描かれた「博多湾」と「切妻破風」という共通項は、とりもなおさず、幻の福岡城天守につながるものでしょうし、前述の「後の世にのこして、考証を備えしむるに在り」という貞秀の言葉が、にわかに、意味深な謎かけに聞えて来るのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ





幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ


4月19日 日本城郭史学会の大会「黒田官兵衛の戦略・築城」

講師の西ヶ谷恭弘先生  /  小和田哲男先生  /  丸山雍成先生



先週は城郭史学会の大会がありましたが、今年は各地で黒田官兵衛の城をテーマにしたシンポジウムが行われていて、西ヶ谷先生は2月の福岡の市民フォーラム『黒田如水と福岡城天守閣』にもパネリストで出席された関係から、話題になった天守復元の件についても一言、印象を述べておられました。


おなじみの福岡城天守の復元CG(佐藤正彦先生の著書より)


西ヶ谷先生の印象としては、ご覧の復元案は「広島城天守などを参考にしたためか、福岡城で多用された切妻の屋根や破風が一つも無く、その点がやはり気になる」というもので、この発言には私も思わず(心の内で)ポン!と膝を叩いたのです。


ご承知のとおり、現実の福岡城は… 例:南の丸多聞櫓の切妻屋根


ということで、今回の記事は、西ヶ谷先生の「切妻」発言にたいへん意を強くしまして、またまた立体的御殿の話題を先送りさせていただきつつ、この際、私なんぞが以前から「幻の福岡城天守」に感じて来ました、ある“戯れ言”をひとつ、申し上げてみたいと思うのです。


(※ちなみに私は天守の存在肯定派でありまして、思いますに、否定派の方々の反論は、黒田家に対する先入観や若い市長への反感が先走りしているように見えてならず、文献上に「天主」「天守」の文字がいくつも散見されるのに、天守そのものは全く無かったという理由を、当時の史料等でちゃんと示せていないのではないでしょうか。

とりわけ否定派の「代用天守説」では、黒田家はなんと、代用天守で徳川将軍を言いくるめようとしたことになりかねません。!!!…)




四重天守? と二基の三重櫓が見える


さて、ご覧の絵は、大会講師の丸山先生の発表用資料にもあったもので、キャプションは <『吉田家傳録』福岡城軒唐破風四層櫓(中央)> であり、荻野忠行著『福岡城天守と金箔鯱瓦・南三階櫓』や『福岡城天守は四層(四重)か』でもそのように表記されています。

ですが、見たところ「軒唐破風」?というよりも「切妻破風の張り出し(出窓)」ではないのかと思えてなりませんが、そんな点を踏まえて、是非とも、この見なれた浮世絵をご覧いただきたいのです。!!



歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(江戸末期/兵庫県立歴史博物館蔵)


おなじみの姫路城の浮世絵で、「えええ!? 浮世絵など当てになるのか」と即座に思われたことでしょうが、今回、是非とも申し上げたいのは、もし仮に、この絵に“浮世絵でないバージョンの絵”が存在したなら、話はかなり違って来るはずだということでして、もうしばらく我慢してお読みいただけますでしょうか。


まず、歌川貞秀(うたがわ さだひで)は江戸後期から明治時代(文化4年〜明治11年頃)に生きた浮世絵師で、美人画、武者絵、風景画(特に精密な鳥瞰図)を得意としたため、「空とぶ絵師」とも呼ばれる人物です。

そしてご覧の浮世絵は表題のとおり、姫路城の築城を題材にした江戸末期の作で、この浮世絵と福岡城とをつなぐような事柄は、何ら存在しておりません。

しかしこの絵は…



1.羽柴(豊臣)秀吉ゆかりの姫路城として描かれたものの、実際の姫路城天守とは似ても似つかない

2.「切妻破風」を最も多用した天守として描かれている

3.城外からは「四重天守」に見えた可能性がある

  (※浮世絵の下端にかすかに描かれた初重の屋根は、切妻破風の張り出しを伴わない腰屋根 )

4.左右に二基の三重櫓を従えていて、黒田官兵衛を思わせる「天守曲輪」か

5.全体の「築城図」風の描き方が“築城名人”の関与を感じさせる



といった辺りが、気がかりな現象が重複しているところでして、そのため「これは本来、幻の福岡城天守の描画だったのでは…」という勝手な疑念が、私の頭の中でだんだん大きくなって来たのです。

そしてもちろん、この浮世絵の見所は、鳶(とび)職らの作業風景のようでいながら、それらの人物が「真柴久吉(羽柴秀吉)」など、豊臣家ゆかりの武将らに見立てられた(=差し替えられた)面白さにあります。


貼り札は左上から「真柴久吉」「麻野長正」「畑切且元」「佐藤清正」「滝坂塵内」等々

(※また最上階の屋根は、平側だけでなく、妻側にも「切妻破風」!)


で、ご覧のとおり、この絵は天守築造の作業風景を大雑把に描いたものとも言えましょうから、これには築城図としての「原画」が別途、存在していたのでは?… といった想像も出来るのかもしれません。

現に歌川貞秀は、江戸末期に全国を旅しながら各地の鳥瞰図構図の風景画も描いた人だそうで、どこかの地でそんな「原画」を見い出したのかもしれない、などという都合のいい空想が私の頭の中を飛びかうようになりました。

そう思って手がかりは何か無いのかと浮世絵を見ますと、背景の「海」の描き方が、ひょっとして福岡や博多湾の様子に似ていたりはしないのかと……


背景に広がるのは瀬戸内の海ではなく、「博多湾」だとしたら??

この絵の右下部分 / 港や、ぎっしりと並んだ蔵、水平線上の起伏の連なり



ご参考1)城と港の位置関係  金子常光画「福岡市及附近案内図」昭和7年


(拡大)

(※上図1はサイト「博多湾大図鑑/博多湾古地図ギャラリー」様からの引用です)



ご参考2)博多の蔵や港  林圓策画「福岡・博多鳥瞰図」明治20年(※上半分が福岡と中洲、下半分が博多)


(拡大)



ご参考3)水平線上の様子 「福岡城下町・博多・近隣古図」(※いわゆる「福博古図」文久9年写し)


(拡大)





という風に、ご覧いただいた図は少しずつ時代が違うものですし、まぁ、このような景色であれば、偶然の一致ということもあるのかもしれません。

それにしても、幻の福岡城天守から眼下に広がっていた博多湾は、右手の方に港や蔵の町並み、その向こうの水平線上には立花山から名島の丘、海ノ中道の砂州、そして左手の島々までと、ずうっと、この浮世絵のように起伏が連なって見えたことでしょう。


この一件の調べは(歌川貞秀についても)まだまだ不充分であり、やはり私なんぞには、史上最多の「切妻破風」を積み重ねた天守の描写が、どうにも気がかりで仕方がないわけです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年04月12日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!高精度VR安土城“コンペ落ち企画書”より もう時効でしょうから記事にいたしますと…





高精度VR安土城“コンペ落ち企画書”より もう時効でしょうから記事にいたしますと…


3月30日 VR安土城プロジェクト「高精度シアター型」完成報告会

(※これらの写真は 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)様よりの引用で、他にも多数あり)





かねてから話題のVR安土城(近江八幡市制作)は「高精度シアター型」が完成したそうで、ご覧の内藤昌先生の復元に基づく天主をはじめ、安土城下の高精度の再現映像が、先月末に公開試写されました。


実を申せば、かく申す私なんぞも、滋賀県のITコンサル企業・株式会社ナユタの北居様からお声をかけていただきまして、微力ながら、この映像制作のコンペに参画した経緯があったものの、結局は大手の凸版印刷さんが受注されました。

私はまだ完成映像そのものを観てはおりませんが、上記ブログの写真を拝見しますと、これまでにない角度からの迫力映像があるようで、出来栄えが期待できそうです。


で、完全に負け犬の遠吠えですが、コンペ落ちした企画書の私の元原稿には、完成映像には無い観点(アイデア)もあって、それがこのまま埋もれてしまうのはどうにももったいなく、そこで今回の記事は「立体的御殿」の話題を中断して、ちょっとだけ申し上げてみたいと思うのです。

例えば…


有名な盂蘭盆会(うらぼんえ)のシーン / 完成映像は「軒先に」提灯をつっているようですが…


さて、私がナユタ版の企画書のために送付した元原稿でも、当然、織田信長が安土で行った盂蘭盆会はラストシーンとして盛り込みましたが、では、いったいどういう風にして、強風吹きすさぶ可能性のある(琵琶湖畔の安土山頂の)天主外側に提灯(ちょうちん)を固定できたのか?… という点に、かなりの疑問を感じました。

(※私の乏しい経験の中でも、佐和山城の山頂でけっこうな「突風」を浴びた記憶があります…)

完成映像は『信長公記』のごく短い文言を優先させた結果と思われますが、一方、当日の現場を目撃した宣教師らの『フロイス日本史』を読みますと、私の疑問を解くヒントがちゃんと書かれていて、その記述に基づいて、私の元原稿はこんな書き方で、もっともっと派手に光り輝いたのではないかと考えたのです。




【元原稿からの抜粋】

そしてVR映像のラスト、幻想的な盂蘭盆会のシーンですが、実はここにもちょっとした安土城の謎があります。

記録では色とりどりの豪華な提灯で天主を飾った、とあるのですが、天主の窓は堅格子が入った武者窓であり、いったいどこに提灯をつったのか?
フロイスは「七階層を取り巻く縁側」に飾ったと記しています。

しかも信長はこの日のために10日間以上も一行を足止めして待たせました。

ということは、この時、天主は臨時の縁側(足場)でぐるりと取り巻かれていたのかもしれません。





ご参考) 内藤先生の復元による安土城天主の模型 / 各階層の外側に(通常は)縁側の類いは無い


ご参考) 織田信長も楽しんだという尾張の津島天王祭 / 現在の様子と歌川広重の浮世絵(ウィキペディアより)



※各々の船に半円形に飾り付ける提灯は365個!!(1年をあらわす)




【松田毅一『完訳フロイス日本史』の該当部分】

例年ならば家臣たちはすべて各自の家の前で火を焚き、信長の城では何も焚かない習わしであったが、同夜はまったく反対のことが行われた。

すなわち信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提燈で上の天守閣を飾らせた。

七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。





この「七階層を取り巻く縁側」というのは、安土城天主の全階層に「縁側」があったとはどうにも思えませんので、やはり“臨時の足場”を、十日間で組み付けたと考えるのが自然ではないでしょうか。


そこに提灯を設置したならば、強風の件も、また当日の点火の件も、すんなりと解決の目途がつくはずです。

(※完成映像の場合、点火はどうなるのか?? 電灯スイッチの提灯ではないし、窓には堅格子も!)


そしていっそう重要なポイントとして、盂蘭盆会(お盆)に提灯となれば、それらは当然のこと、年に一度、先祖の霊を迎え入れるために焚く「迎え火」を意味したのでしょう。

ですから、ご承知のとおり「暦(こよみ)」の問題と信長は、色々と取りざたされている関係にありますので、ひょっとしてひょっとすると、安土城天主は太陽暦(=グレゴリオ暦)の日数 365個の提灯で! 完ぺきに取り巻かれていたのではあるまいか…


こんな仮説の部分は自治体制作の映像には盛り込めませんが、こういう妄想をたくましくしますと、安土のこの年の盂蘭盆会が、はるかヨーロッパのキリスト教国に(※グレゴリオ暦の普及が進むさなかに)伝えられたことは、これまた信長の、説明なき快挙であったようにも感じられてしまうわけなのです。



安土城天主が夜空にまばゆく光り輝いた姿は、信長が、地球の裏側に打ち返したシグナルだったのか







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月30日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方





階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方


雁行する二条城の二ノ丸御殿

内部の廊下も鉤(かぎ)折れしながら進む

(※この写真はサイト『紙ヤンの写真メモ』様からの引用です)


これは釈迦に説法と思いますが、ご覧のとおり、雁行した「書院造」建築のなかを歩く場合は、各建物の周縁部をめぐる廊下をつたって、奥へ、奥へと鉤折れしながら進むことになります。

そうすることで、それぞれに役割の異なる建物を、例えば遠侍→式台→大広間→黒書院→白書院という風に、公的な表向きの格式空間から、私的で内向きの日常的空間へと順々に入っていくことが出来ます。


二ノ丸御殿の平面図(抜粋)


これが雁行する御殿のメリットだと言われますが、ただ奥の深部へ入っていくだけなら「縦列構造」でもいいわけでして、そうではない「雁行」ならではのメリットが、書院造の「鉤(かぎ)座敷」との関係だそうです。




(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)

このL字形あるいはコの字形に屈折した座敷配列は、鉤の手に折れた部屋ないしは鉤の手につながっている部屋という意味で「鉤座敷」と呼ばれる。
(中略)
左奥に上段の間である「一の間」があって、そこから「二の間」、「三の間」、さらに「四の間」と続いて、部屋が左回りにまわっている。
これを逆にたどれば、「四の間」の下段の間から始まって、左奥にある上段の間へと右回りに段々と部屋の格式や奥行性が高まっていくことになる。

この部屋の折れ曲るつながり方は、右手前から始まって左奥へと、段階的に格式や奥行性を高めて、各棟がつながっている建物全体の雁行形のつながり方と相似である。




鉤座敷の作法と、雁行(御殿のつながり方)には密接な関係があった


ということだそうで、ご覧の二条城と、織田信長の「立体的御殿(天守)」との間には若干の時期差があるものの、(※またその時期には鉤座敷の成立が厳密にいつだったかという不確定要因もあるものの)この件はまったく無視するわけにも行かないようです。


と申しますのは、もしも「立体的御殿」で鉤座敷などを上下に重ねることになった場合、いったいどうつなげば当時の作法にかなったのか… つまり「階段」の付け方に、新たな法則を設けなければ、必ずや、とんでもない混乱が起きたことでしょう。

(例えば、招かれた者が不用意に階段を登ったら信長本人の寝間に出てしまった、とか…)


そんな刃傷沙汰になりかねない危険な構造ではダメなわけで、信長主従はきっと <御殿群をどう縦につなぐのか?> という大命題に直面したはずだと思うのです。



【ご参考】かの楼閣「銀閣」の二階の縁に見える階段口 / この異様な登り方は「金閣」もまったく同様

(※この写真はサイト「トリップアドバイザー」様よりの引用です)


【ご参考】まるで対照的な弘前城天守の階段 / 二階から三階へは建物空間の真ん中近くを占拠している


→ 江戸後期の再建で、とっくの昔に「立体的御殿」ではなくなっていた結果か…




さて、信長の「立体的御殿」は、階段の位置をさぐる手がかりも(※静嘉堂文庫の『天守指図』以外は…)まったく現存していないため、その他の天守の状態から、あれこれと逆算してみるしかありません。

そう考えた場合に、私なんぞがたいへん気になっているのは、天守内部に二系統の階段群を併用していた例です。

何故なら、そこにはちょっと意外な現象が見られるからです。


二系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか?


左の岡山城天守は付櫓(塩蔵)から入る形でしたので、まずは「手前の階段群」を登り、続いて天守本体を登る「奥の階段群」に向かうというのは、言わば順当なスタイルと申せましょう。

しかし意外なのは名古屋城天守でして、ご覧のとおり「手前の階段群」が建物の中央付近にあったにも関わらず、何故かそれらは三階までしか続いておらず、逆に、最上階まで達していたのは(地階の奥隅の井戸周辺に始まる)「奥の階段群」だったのです。!!

この意外な事実には、これといった特段の理由も思い当たりませんし、やはり何か、過去に消えてしまった手法のなごりではないのか… と思わざるをえません。


結局のところ、「手前(表)の階段」と「奥の階段」という二系統の階段群をもつことが、かつての天守(立体的御殿?)にとって有意義な形式であり、しかも「奥の階段」を使わなければ最深部(=最上階)には到達できない、といった決め事があったのではないでしょうか。


【模式図】「立体的御殿」は階段にも「表」と「奥」があったのか


これならば、不測の鉢合わせも起こらずに済みそう…


乏しい事例をもとに、これ以上、アレコレ申し上げるのは不謹慎でしょうが、こうした仮定の延長線上においては、例えばこんなことも付言できるのかもしれません。



【最後の付言】「階段室」は両刃の剣(もろはのつるぎ)だったのでは??

表紙に描かれた宮上茂隆案と佐藤大規案 / ともに「階段室」を採用した復元


宮上案の天主台上の一階 / 階段室があまりに便利すぎて…


ご覧のように宮上先生も鉤座敷を想定しておられたわけですが、同時に「階段室」を採用していたため、その効果がちょっと効きすぎると申しますか、天主に入った訪問者は、約50歩で信長本人の寝間にも到達できてしまうのです。

その後の大洲城天守など江戸初期の天守ならまだしも、黎明期の天守「立体的御殿」にとって、「階段室」は両刃の剣ではなかったかと、やや心配になるのですが。

(次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し





「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し


 【前回記事の大胆仮説】

  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、

  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。

  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか!?



前回記事の最後にまたまた妄言を申し上げてしまいましたが、この件についてもう少し、妄言の心理的な背景をご説明させていただきたいと思います。


一乗谷・朝倉館の建物群

(※養父市ホームページ掲載の「越前朝倉氏 朝倉館 配置図」を使って作成)


御殿が雁行していた一乗谷の朝倉館は、研究者によって個々の建物の想定が少しずつ異なるため、ご覧の書き込みは引用の配置図どおりとし、一部、「会所」に平井聖先生などがおっしゃる(楼閣か)という一言を加えさせていただいたものです。

あえて色分けしたとおり、接客や対面に使われた「主殿」など、手前の西寄りの建物群が表向きのもので、新たに日常生活の場として設けられた「常御殿」から向こうが、奥向きの建物ではないかと言われています。

で、冒頭の“妄言”は、これらのひとそろいの御殿を、山城の山頂の「台」上に建て込めるだろうか?という仮定の話ですので、試しに、小牧山城の主郭石垣を同縮尺でダブらせてみますと…


やはり、かなり手狭な印象!! →「立体的御殿」化への直接の動機か


ご覧のように、山城の主郭としては充分な広さがあるはずの小牧山城でも、その山頂部を巨石を積んだ別格扱いの「台」と考えた場合は、そこにどれだけの御殿を建て込めるかという <スペース的な制約> が生じて、その時、初めて「立体的御殿」が現実の課題になったのではないかと申し上げたいのです。

そしてその中では、例えば朝倉館の「遠侍」から一番奥の「数寄屋」等々まで、すべてを立体化して縦に重ねたのか? と言いますと、必ずしもそうではない節もありまして、それは「天主取付台」に関してちょっと気になる点があるからです。…




織田信長の奇妙な行為から推理した、安土城主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域案


ご覧の下の方の図は、4年前のブログ記事でお目にかけた図の抜粋でして、これは天正10年、織田信長が家臣らを安土城に招いたおりに、家臣らが差し出した礼銭を信長がみずから受け取り、後ろに投げた、という有名な逸話をもとに、その隠れた意図を推理してみた図になります。

すなわち、信長はその時、ハレ(表)とケ(奥)の境界線上に当たる場所に立っていて、銭を背後に投げるという行為そのもので「銭は受け取った!」という意思表示をおおげさに家臣に見せた、ということではなかったかと思うのです。

もしそうだとしますと、「天主取付台」はケ(奥)の領域のいちばん手前に位置づけられていたことになるため、どうも私なんぞには、天主取付台は“常御殿の一部”として機能していたと感じられてなりません。

ですから、立体的御殿(萌芽期の天守)はどこから奥の御殿を立体化したのか?という先程の疑問については、結局、<常御殿から奥が台上で立体化された> と申し上げざるをえないように思うのです。…



発掘当時の小牧山城の主郭石垣 / 左上が小牧市歴史館のある主郭内

台上に誕生したのは「殿守」か「天主」か「殿主」か


おなじみの木戸雅寿先生は、当時、様々な文献に書かれた天守の文字は「殿守」「殿主」「天主」「天守」と色々であり、それらのうち「殿守」「天主」がいくつもの城で使われた一方、「殿主」は安土城天主を示した別称でもあり、豊臣政権の成立後はすべて「天守」に統一されたと指摘しておられます。(『信長の城・秀吉の城』2007年)

こうした書き方の問題からも、天守の起源について、色々とアプローチがなされて来ましたが、今は小牧山城の発掘成果(とりわけ主郭石垣の重大な意味)によって、新たな段階が見えてきたのではないでしょうか。

と申しますのは、機能を分化した「書院造」や望楼の立体化で誕生した「殿守〜天守」と、逆に一棟に機能を集約していた「主殿」建築も網羅して考えるなら、これまでにない建築史的な天守の解明が、いっそう系統的に進むのではないか… といった将来への希望的観測も感じられるようだからです。



ご参考) 天主取付台に大型の付櫓が続く可能性を主張されて来た、西ヶ谷恭弘先生の復原案

著書『復原図譜 日本の城』1992年の表紙より



このように、意外にも「天主取付台」は多くの可能性を秘めていると思えてならず、それは小牧山築城の4年後に早くも移転した居城・岐阜城においても、同じことが言えるのかもしれません。





<峻険な岐阜城の山頂の天守は、手前に「天守取付台」を考えれば…>





岐阜城 山頂の復興天守


さて、織田信長の時代、岐阜城の山頂(「主城」)に「天守」はあったのか無かったのか。

現状では「無かった」とおっしゃる研究者の方が、多数派を占めておられるようです。

その理由としては、現状の復興天守が載っている天守台石垣はもちろん明治以降に度々積み直されたもので、それ以前の、古図にある天守台も池田輝政時代のものである可能性があり、信長の時代は、険しい山頂部分に大規模な石垣を築けず、「天守」に充分なスペースは無かった、と考える方々が多いからのようです。


復興天守に入る天守台石段の周辺 / 当記事ラストの図の「写真A」の角度から

前掲書の岐阜城のページ(古図に基づく復原 / イラストレーション:香川元太郎)


しかし私なんぞは、そもそも、城内での建てられた「位置」(曲輪群の求心性の頂点)と「台」こそが天守の物理的な必要条件であって、三重から五重の階層が無ければ「天守でない」等とはツユほども感じませんので、多くの方々のような心配はまったく気になりません。

しかもその上、この度の小牧山城の大発見によって、岐阜城にも、ほぼ同じプランの萌芽期の天守(二〜三重程度の望楼と御殿の複合立体化)が、しっかりと建っていた可能性が見えたように感じております。


(※香川元太郎先生のイラストレーションをそのまま使わせていただきながら図示してみました。

  前出の小牧山城の図とは、ちょうど反対側から見たような形になります)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月03日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!小牧山城でおぼろげに感知できる「立体的御殿(天守)」造型のDNA





小牧山城でおぼろげに感知できる「立体的御殿(天守)」造型のDNA


前回記事では「小牧山城の主郭石垣こそ、天守台の原型でもあるのではないか」!?などという突飛な考え方を申し上げましたが、試しに、その広さを安土城の天主台と比べてみますと…




ご覧のとおり、広さは格段の差があるものの、やや角ばった環状の平面形(※小牧山のは元々の地山とは無関係に造成されたもの!)が何故か似ているようです。

そして小牧山城にあった基壇状のスペース(オレンジ色)と、安土城天主の建物初重の広さがほぼ同じだということもあってか、さも両図は、望楼と御殿が合体して天守に変わる「以前」「以後」を見ているかのようでもあります。

しかし昨今、小牧山城では、望楼はすでに主郭の御殿の屋根上に載っていた、という形の復元方法も推定イラスト等でよく見かけるようになって来ておりまして、果たしてこの城から「立体的御殿(天守)」は始まっていたのかどうか、まことに興味は尽きません。


そういう中では、前回と同じく、千田嘉博先生の次の一言もたいへん気になるところで、それは話題の「櫓台」について「この櫓はほかの主郭内の建物と、ひとつづきにつながっていた可能性が高いと思います」(『信長の城』)という見方です。

何故これが気になるかと申しますと、もし本当にそうなら、私はアレコレと連想が止まらなくなり、その果てに、ある“共通項”が浮かび上がるからなのです。



小牧山城の基壇状スペースに対応する位置の、安土城の「天主取付台」に着目しますと…






!!… ご覧のとおり、小牧山城の基壇状のスペースに対応するかのような位置に、斜めに付櫓や本丸御殿が接続した天守が、この他にも色々と連想できまして、しかもそれらの位置関係については、これまでに(※小牧山城の大発見までに)何か指摘されたことは一度も無いだろう、という点がたいへん気になります。

そして「雁行(がんこう)」と言えば、私なんぞは城郭ファンとして、てっきり二条城の二ノ丸御殿で確立したスタイルとばかり思い込んでいたのですが、そうでもない、と言いますか、逆に、明らかな間違いなのだそうです。…





(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)

雁行形の建築は近世においてその完成を見る。しかし、その形態を持つものがそれ以前になかったわけではない。むしろ相当に古くからあり、それが時代とともに発展し、近世に洗練され完成に至ったと考えるべきである。
(中略)
寝殿造も中国伝来の左右対称形の配置を踏襲するものも残るが、その一方で割合早い時期から、その配置形式を崩していたことがわかる。


さらに、15世紀初頭の応永度内裏を描いた町田本の洛中洛外図(部分)にもハッキリと…

「せいりやうてん」貼り札の上半分が紫宸殿、下半分が清涼殿。この絵は左が北



(前出本より)

平安期の火災以後、紫宸殿と清涼殿は、規模や形あるいは周囲の建物を変えながらも、雁行状の配置関係を一貫して変えることはない。
この紫宸殿と清涼殿の雁行配置の一貫性は、それが日本の権威の中枢にある象徴的な建物だけに、影響力もあったはずで、注目すべき点であると思われる。




この本の著者・川道麟太郎先生によりますと、古代から平安時代にかけて、内裏や寝殿造の建物群は(中国古来の四合院住宅の影響で)左右対称形で建てられていたものの、いわゆる国風文化の広がりとともに左右対称は崩れ、早くも宇多天皇の離宮・朱雀院(9世紀)で非対称が始まり、白河上皇の仙洞御所・鳥羽殿(11世紀)で日本人好みの典型的な「雁行」は始まっていた、と指摘しておられます。

その後は、一棟に機能を集約する「主殿」がいっとき現れたものの、再び複数の棟で機能を分ける「書院造」の普及によって「雁行」はいっそう広がりを見せ、われわれ城郭ファンにもおなじみの一乗谷朝倉氏館など、武士階級のステイタスとしても「雁行」形はすでに認知されていたようなのです。


ということは… ここからは私の勝手な空想が混じりますが、小牧山城の歴史的発見から見えて来た、御殿と望楼の雁行(の可能性)というのは、あえて巨石を並べた主郭石垣上の建築を、さらに“別格の存在”として建て込みたい、という意志の現れではなかったでしょうか。







ここで再び大胆仮説

  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、

  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。

  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか!?>





「天守」はいかにして誕生したか、という大テーマは、当サイトにとってもこの上ない関心事です。

それが織田信長時代の小牧山城での発見を契機に、解明の糸口が見えて来るなら、まことに嬉しいかぎりですし、しかもその場合、山頂の「台」が不可欠の役割を演じていた可能性がありそうだということにも、思わず興奮してしまうのです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年02月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守は「台」の方が重要かもしれない、という観点から小牧山城の歴史的発見を見れば…





天守は「台」の方が重要かもしれない、という観点から小牧山城の歴史的発見を見れば…


小牧山城の航空写真(小牧市所蔵)


ご覧の山頂部分で発掘された総石垣づくりの主郭は、尾張の城としても、織田信長にとっても、初の大規模な石垣であったようですが、その意図は何か? 建物はどうなっていたのか? といった疑問は(主郭内部の改変もあって)完全には明らかになりそうもありません。


調査報告書の「主郭石垣概要平面図」を使って作成(上が真北)


小牧山城と言いますと、私なんぞは思わず、ここに原初的な天守(「御城には二層、屋上に楼を設けて三間四方、欄干より眺望雲煙十里…」武功夜話)があったかのような記録が頭に浮かぶ一方で、おなじみの千田嘉博先生は、北西に張り出した「櫓台」の発見に注目しておられます。



(千田嘉博『信長の城』2013年より抜粋)

小牧市歴史館建設前の図面や写真によると、主郭内には建物の存在をうかがわせる基壇状の高まりがあって、かなりの規模の建物が建っていたことは間違いありません。

発掘した櫓台石垣から規模を復元すると、櫓は東西方向に八メートルほど張り出し、南北方向も石垣塁線上ではおよそ八メートルでした。一間を六尺五寸(約一九七センチメートル)とすると、およそ四間となります。(中略)
天主の成立過程を考える上でも、小牧山城主郭の櫓は重要な意味をもつでしょう。



では、問題の「櫓台」はどうしてこの位置で北西側なのか? という点に関しては、千田先生は同書で「この櫓台が張り出した北西のはるか先には、信長が攻略目標にしていた稲葉山城(岐阜城)を今も望むことができ」るから、としておられます。

この重要な指摘は、私なんぞも5年前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)で申し上げたように、いわゆる「四方正面」以前の望楼型天守には、明らかに「正面」があり、しかもその正面には、攻略目標を意味した「外正面」と、真逆の自陣側を意味した「内正面」があったはず… などと申し上げた考え方ともピタリと合致します。


しかし、ここではもう一つ、<なぜ北西か?> に関して、それ以上に見逃せない理由があったように思えてならず、これが今回の記事の中心テーマなのです。




<なぜ北西側に?? もう一つの、見逃せない理由とは>




例えば、千田先生が以前に作成した縄張り図を使わせていただくと…

村田修三編『図説中世城郭事典 第二巻』所収/小牧城図(千田嘉博作図)のページ


同図の中心曲輪群の部分を使って作成(上が真北)


ご覧のように作成した中では、「山腹の横堀と土塁」はご承知のとおり、後の小牧長久手戦のおりに徳川が改修した部分らしい、と判って来ましたので、この部分は割り引いて考えなければなりません。

そして大手道から山頂主郭に至るルートとしては、蓬左文庫に伝わる江戸時代の古地図に、上図のようなクネクネと山腹を登るルートが描かれていて、それが調査報告書にも採り入れられています。


ところが、ところが! 例えば、おなじみの超有名サイト「余湖くんのお城のページ」の小牧山城の鳥瞰図などでは、まったく別のルートが印象づけられ(提起され)ていて、思わず、古地図に対する疑問がふつふつとわき上がって来るのです。…


「余湖くんのお城のページ/小牧山城の鳥瞰図」を引用させていただきました



ご覧のとおり、大手道の続きはさらに真っ直ぐ山を登っていて、小牧山の鞍部にまで登り、馬出し的な機能を果たしたと見られる曲輪(鳥瞰図の3、その下の図の5)を経たうえで、「土橋」を渡って中心曲輪群に入る、というルートが強調されているのです。

もちろん前述のように、山腹の横堀は徳川による改修箇所ですから注意が必要なものの、もしもこれを大手道から主郭に至る「メインルート」と考えた場合には、問題の「櫓台」の意図が、ずっと明確に見えて来るのではないでしょうか。


土橋を渡る先の真正面に! 原初的な天主(殿守)が? / 主郭石垣概要平面図の合成


いかがでしょうか。思えば、岐阜城の天守(山頂「主城」)や安土城天主もこんなレイアウトがされていたように感じられ、例えば安土城ですと、伝黒金門の手前の長い石段がちょうど「土橋」と同じ位置づけになり、それとは別のルートが南からも主郭に達する形になっています。





すでに報告書等で指摘されているとおり、小牧山城と安土城の築城方法の間にはかなりの類似性が見られ、それはまた、大手道から主郭や天主に至るルートの設け方についても、ほとんど同じ手法だと言えそうな感じです。


そして私なんぞが特に気になるのは、いずれも、土橋や伝黒金門の側から見れば、ルートは天主の背後に回り込んでから天主の建物に入る、という形をとっている点です。

これは、発祥まもない天守と主郭石垣(≒天守台)との関係を解き明かす糸口のように思われ、そういう観点に立ちますと、問題の櫓台の「真正面に見せつける」という意図がより明確になるのではないでしょうか。
と申しますのも…


私なんぞが思う、天守のいちばん原初的なイメージ 〜それは求心的な曲輪配置の頂点に〜

 
天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説)  / 本丸石垣の一隅に建つ、天守台の無い高知城天守(現存)


高知城天守(別の方角から見上げた、本丸石垣の一隅に建つ様子 / 大手門からの城道を威圧する)



ご覧のように高知城天守の建つ位置と、小牧山城での大発見とを並べて考えてみますと、問題の櫓台は千田先生のおっしゃる「のちの天主につづいていく象徴的な櫓」であるとともに、<話題の大規模な主郭石垣こそ、天守台の原型でもあるのではないか> !?という、突飛な考え方(可能性)にたどり着いてしまうのです。…



今回の記事のタイトルに、天守は「台」の方が重要かもしれない、としたのは、例えばこのような事柄もあるからです。

念のため説明を付け加えますと、天守台の「台」というのは、天守建築の研究(特に「立体的御殿」としての発祥)と、近年の山城をめぐる様々な研究成果(とりわけ織豊系城郭の求心性)とをつなぐ、言わば近接的な学際研究のミッシングリンクとでも言うべき、見逃されて来た存在ではないのかと、改めて強く申し上げたいのです。


ですからこの際、何度でも申しますが、我が国の「城」の歴史から見れば、天守は「台」の方が重要かもしれないのだ、と。






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2014年02月02日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態





いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態


先日の日刊建設工業新聞オンライン(2014年1月28日号)にも載っていた「江戸城天守完成イメージモデル」


ご覧の写真は、おそらく認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」が、建設工業新聞の記者に推薦・提供したものと推察して引用させていただきますが、模型そのものは東京国際フォーラムの会場等にも展示された、1/100縮尺の岡本正之様制作の模型かと拝察いたします。



より複雑な構造をしていた寛永度天守台と、簡素化された現存天守台


上記の下の方の2図は前回の繰り返しですが、これらを合わせて見ますと、模型は石垣の色も含めて、明らかに、現存天守台の上に寛永度天守の木造部分を載せようとしているものだと解ります。

したがって「再建する会」がめざす建物は、なかなかに複雑な事情を抱えて(※模型の段階から問題化しそうな石垣の南端部はカットしつつ!…)完成をめざしていることが想像できるわけで、今回の記事は前回に続き、「再建する会」がどのような建物を建てようとしているのか、より具体的に検証してみたいと思います。




【検証点】

 「幕府はこの台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だった」

 という三浦正幸先生の主張が、「再建する会」の唯一の後ろ盾(だて)





前回に申し上げたとおり、寛永度天守台と現存天守台はまったくの「別物」

(※注:図の天守は石垣部分をデフォルメした描き方です)

さて、もれ伝わる情報によれば、おなじみの寛永度天守CGを監修された三浦正幸先生は、「再建する会」のシンポジウムにおいて、「現在のこっている天守閣の台座は寛永の天守の台座ではありません」と前置きしつつも、現存天守台の「面積は寛永天守と全く同じです」と強調されたそうです。

そして高さが低いのは「台座の石垣が外から見えるのは下品だ」という徳川三代将軍家光の生前の言葉にしたがって施工したものであり、「ですから幕府はこの台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だったのです。しかし当時、財政難がひどくなり再建ができなかったのです」という説明を行ったそうです。


ということは、すでにお察しのとおり、「この台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だった」というのは、何よりも現存天守台と将軍家光との関係性に重きをおいた、三浦先生の<見解・分析・主張>であるという点を、まず確認しておく必要があるでしょう。


さらに、そうしたお考えに影響を及ぼしたのは、江戸時代に浮上した再建計画ではないか…という辺りも、城郭ファンならすぐに思い当たる点ではないでしょうか。

と申しますのは、三浦先生は「再建する天守の台座は4階(のビルに相当する)12メートルです」ともおっしゃったそうで、12メートル=6間ですから、きっと現状の高さ5間半の石垣の上に「狭間石(さまいし)」を増設して6間にすることを意味していて、それは江戸時代の再建案とまったく同じ手法だからです。





再建案なのか、寛永度天守そのものか、諸先生方の見解が分かれて来た図面

(左:内閣文庫蔵 / 右:都立中央図書館蔵)



ご承知のとおり、江戸時代の再建計画というのは、例えば正徳年間、六代将軍家宣(いえのぶ)が関心を示して推進されたものの、家宣の死去とともにあっけなく沙汰止みになったというものがあります。

江戸時代の再建案をめぐっては、いくつかのそれらしき図面が伝わって来ていて、特に上の右側の図面は、斜めから見下ろした(「軸側投影図」という絵巻物の建物描写のような)珍しい描き方の図面として知られています。

で、私なんぞは前々から気になっていたのですが、これらをよくよく見ますと、破風(特に千鳥破風/ちどりはふ)や降り棟(くだりむね)の描き方において、どうも腑(ふ)に落ちない点があるのです。


ひょっとすると、再建計画では「破風」も簡略化された疑いがあるのでは…









1.千鳥破風の勾配がゆるい

2.降り棟が千鳥破風には描かれていない


この二点は、諸先生方の見解が分かれて来た二種類の図面で、何故か、共通している現象でして、昔の建物の立面図などで降り棟を省略してしまうのはよくある描法でしたが、前述の、斜めから見下ろした珍しい図面においても、それが共通しているのは、やはりただ事ではないと感じられてならなかったのです。…




やや勝手なことも申し上げましたが、いずれにしましても、「再建する会」がめざす建物というのは、ひとえに、三浦先生の<見解・分析・主張>を唯一の後ろ盾にしたものであり、本当に「寛永天守と全く同じものを造る予定だった」のかどうか、これから真剣な検証がなされるべきだと思うのです。



現段階では、これは「復元」ではなくて「仮想再建」と説明すべきもの






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年01月19日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!ひと目でわかる、江戸城の寛永度天守台と現存天守台はまったくの別物





ひと目でわかる、江戸城の寛永度天守台と現存天守台はまったくの別物




前回記事の「宝くじ」計画やその前の「家光上洛時の天守」と同じく、今回もまたまた昨年12月の小田原城シンポジウムで痛感した事から申し上げてみたく、何点かの図解付きでご紹介しましょう。



<NPO「江戸城天守を再建する会」の事実無根の説明に

 なぜ城郭専門家は口をつぐむのか? これはいつか来た道??>




シンポジウムの会場には、その4日前に行われた認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」の発足記念集会に参加された方々もいて、会場内では「皇居には天守閣の石垣が残っているんだと」「だからその上に木造で再建しよう、ていう江戸城のデカいこと!」といった談笑がちらほらと聞えてきて、江戸城NPOの説明やCG映像の効果がかなり浸透していました。


私は会場のいちばん後ろの席に座ったのですが、その直後に、なんと、当日のパネリストの一人で「江戸城天守を再建する会」の小竹直隆(おだけ なおたか)理事長が偶然、私のとなりの席に座ったのです。!!

(※お顔を私が勝手に存じ上げていただけで、いわゆる「面識」はありませんでした)

が即座に、小田原NPOの古川理事が小竹理事長を最前列のパネリスト席に招いたため、事なきを得たのですが、もしもあのままいくばくかの時間があれば、おそらく私は我慢しきれずに、あの場でご挨拶を申し上げ、二言三言、私の疑問をぶつけて、いきなり険悪な空気を作り出していたのかもしれません。


そんなニアミスの後に始まったシンポジウムでは、小竹理事長は「命がけで」「何が何でも」「石にかじりついても」と繰り返すばかりの、まったくもって、昭和のモーレツ企業戦士がそのまま今日に至っているような方だとお見受けしましたが、それだけにかえって、私の危機感が深まりました。

これはまさに、いつか来た道、ではないかと。



皇居(旧江戸城)の現存天守台

明暦の大火で焼けた寛永度天守台とは、石の色や大きさ、全体の高さや形状も異なる「別物」



問題の根本は、当ブログで再三再四、申し上げて来たとおり、江戸城の寛永度天守台と現存天守台は <まったくの別物である> という歴史上の基本的な事実を「再建する会」が無視(軽視)し続けている、という一点に起因します。

しかも、その真逆に、さも同一物であるかのような <事実無根の説明> を続けていて、そうした説明の上にプロジェクト全体が立脚している、という重大な欠陥を、一般向けには隠し続けているのです。例えば…



(「江戸城天守を再建する会」ホームページ/小竹理事長の「ご挨拶」より引用)

「江戸城寛永度天守」は、徳川3代将軍家光公が1638年につくった城ですが、その僅か19年後、1657年の明暦の大火で焼失し、その後今日まで350年余り、遂に再建されることなく、台座だけが皇居東御苑に遺されています
しかし、この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ…




ご覧の挨拶文が典型的でして、一般の人々にとっては、まるで寛永度天守の天守台(文中では「台座」)がそのまま遺されて現存しているかのような説明になっていますが、これがとんでもない間違い(よもや意図的…)であることは、城郭専門家や城郭ファンの方ならすぐにお判りでしょう。

すなわち、明暦の大火の翌々年、焼け残った寛永度天守台は、加賀藩前田家の手伝い普請によって「色も」「高さも」「形状も」異なる新規の天守台(現存天守台)として築き直されたことは、城郭研究の世界では常識の類いだからです。


しかも、その現存天守台は、かの保科正之(ほしな まさゆき/将軍家光の異母弟)の有名な「もはや天守の再建は無用」という歴史的な献言の結果、台のみで、その後の355年を経て今日に伝わる貴重な遺産である点に、小竹理事長はまったく無関心だということを露呈しているわけです。(よもや本人は歴史嫌い?…)





(平井聖監修『よみがえる江戸城』2005年より)

天守は再建されなかったものの、天守台は築き直されており、見学者は巨大な天守台に登って、東京の風景を一望することができる。


(西ヶ谷恭弘著『江戸城−その全容と歴史−』2009年より)

今日、天守台石垣の東南側に激しく炎が当たり焼き爛れた石積をみるが、この火災のあとは、明暦の大火ではなく、文久三年(一八六三)の大火によるものだ。
というのは、今日の天守台の表石垣は、明暦大火の二年後にぼろぼろになった天守台石垣を次に述べるように積み直したからである




それでは、西ヶ谷先生の「次に述べるように」の指摘を参照しつつ、寛永度天守台と現存天守台との違いを列挙してみますと…



1.石が異なるため石垣の「色」や印象がまるで違う


寛永度天守台の「伊豆石」(罹災後に城内で転用された様子) / 現存天守台の「御影石」


ご覧のとおり、寛永度天守台には暗い灰色の安山岩の「伊豆石」が使われたことは、明暦の大火の一部始終を伝えた文献『後見草』の記述から確実視されています。

一方、現存天守台は明るい肌色の大ぶりな「御影石(みかげいし)」で積まれているのですから、両者の印象は、小さな子供でもわかるほどの歴然たる違いがあったことになります。



2.全体の「高さ」には約3mの違いがある




寛永度天守の復元において最も重要とされる図面史料(都立中央図書館蔵『江府御天守図 百分之一』)には、天守台の部分に「石垣高 直立 京間七間」とはっきり書き込まれています。

そして一方、現存天守台の高さは5間半しかなく、もしもこの上に再建天守を載せるとしても、ご覧の約3mの落差をどうするというのでしょうか?


よもや宮内庁所管の皇居東御苑のなかで、テキトーな改築(かさ上げ!?)をするつもりなのか、それとも、知らぬふりでそのまま建ててしまうのか…

はたまた奥の手の“新学説”などで強行突破するのか… いずれにしても我が国の「城」の歴史をないがしろにする、言語道断の所業ではないでしょうか。



3.簡素化された現存天守台は「形状」もかなり違っている





両者は形状についても、ご覧のとおり、構造や機能の面で一目瞭然(りょうぜん)たる違いがあり、今日まで様々な変遷をへて現状に至っている現存天守台を、これからいったい、どうするというのでしょうか。

ハッキリ申しまして、今日現在での再建天守というのは、誰がどうやっても、チクハグさから完全に逃れることは不可能なのだと申し上げざるをえません。



4.そもそも歴史的な経緯が異なる「別物」である


言わば「天守の時代の終焉(しゅうえん)」を宣言した保科正之(会津松平家の初代藩主)

(※写真はサイト「西野神社 社務日誌」様からの引用です)


前述の保科正之の献言(「もはや天守の再建は無用」)は、まさに天守の歴史を画する代表的な文言の一つであり、その文言によって成り立ってきた現存天守台は、「天守」そのものを研究する上でも、まことに重要な遺産(歴史の証人)であるわけです。

ですから、こともあろうに、それを損壊しようという者は、そもそも「城」や「天守」を語る資格は塵(ちり)ほども無い!!… というのが私の本音です。


以上の論点を踏まえますと、小竹理事長の「台座が遺されているから」というアピールで、どれだけ多くの賛同者が集まったかという点を考えれば、小竹理事長の説明には、もはや素人(しろうと)の間違いでは済まされない、一種の“悪質さ”を感じます。


(※なお今回申し上げている問題は、例えば、徳川再築の天守台上に豊臣風のコンクリート天守を建てた「大阪城天守閣」よりマシだろう、とのご意見もあるかもしれません。しかし当時の設計者・古川重春先生の『日本城郭考』等を読みますと、乏しい史料の中で、手探り状態の設計を行っていたことが判ります。
 そのように間違いを知りえずに犯した間違いと、間違いを隠蔽(いんぺい)して強行突破する間違いとは、本質的に別次元の問題だと思われてなりません)



ですから、このような事実無根の説明のもとに、これから先、巨額の寄付金や公的な財政支援を引き出そうという「江戸城天守を再建する会」は、ひょっとすると、認定NPOとしての法人格に問題があるのではないか?…という疑義(金銭上の詐欺的行為の可能性)も感じられてしまいます。

もしも今後、このままいつまでも改善が見られない場合は、最終的には「告発」の必要性もあろうかと、本気で思ってしまうのですが、いかがでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年01月05日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!名案か!!【天守「木造化」宝くじ】の創設は





名案か!!【天守「木造化」宝くじ】の創設は


費用をどうするのか?…国指定史跡のコンクリート天守の木造化


前回の記事では、コンクリート天守群がこのまま歴史的に固定化してしまう危険性を申し上げましたが、これらを全て「木造化」していくには、木材や技術者の件はもちろん、それに先立つ「費用」の面が、もはや並大抵の努力では解決困難なレベルになりつつあるとも申せましょう。

中でも飛びぬけて大きく、高価なヒノキ材を使う名古屋城天守が342億円(再建中の本丸御殿の2倍以上)と試算されたのは記憶に新しく、その他の天守については、話題の小田原城もまだざっくりとした額しか言われておらず、その小田原を上回るはずの五重天守群はどの程度になるのか全く分かりません。

そんな段階でありますが、費用の捻出(ねんしゅつ)方法に関して、昨年12月の小田原城シンポジウムで、ちょっと耳寄りな話が出ましたので、今回の記事はそれをお伝えしてみたいと思います。



「平成の駿府城をつくる会」の宮城島弘正(みやぎじま ひろまさ)代表理事

(※清水市長時代の写真より)


当日のパネリストの一人、宮城島さんは、かの駿府城天守の再建運動のいきさつ(※地元で再建への気運が高まったものの、収集できた資料類を検討委員会が史実への忠実性は低いと評価し、現段階での再建はすべきでないとの結論に至った)を踏まえたお話をされました。

その中で、今なお運動は継続中として「費用については、宝くじがいいのかもしれない」と発言され、会場からホーッという反応を得ました。

まさに自治体首長の経験がある宮城島さんらしいアイデアであって、ご本人いわく「宝くじは率がいい」からなんだそうです。

宝くじと天守。一見、ほど遠い間柄であり、また市民運動がベースになる木造再建を話題にして来た中では、いささか“邪道”のように聞えますが、実は、我が国の歴史をふり返りますと、これに似た手法は、100年以上にわたって行われて来たという事実があります。


谷中感応寺 富くじ興行 の絵(江戸名所百人一首より)

(※ご覧の絵はサイト「江戸落語の舞台を歩く」様からの引用です)


ご存じのとおり、日本の宝くじのルーツは江戸時代の「富くじ」でして、それがどのように行われていたかと言えば、基本的に、寺や神社の修復費用を集める目的で発売されたのでした。


概略を申せば、江戸初期、徳川幕府は大阪で流行し始めた「富くじ」に一旦、禁令を発したものの、やがて寺社に対してのみ、建物の修復費用調達の手段として「富くじ」の発売を許したそうなのです。

それ以後、上記の絵に描かれた谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺(目黒不動)そして湯島天神の発売する富くじが「江戸の三富」として人気を博し、この手法が、幕末の天保の改革まで続きました。


ということですから、もしも今後、天守の木造化など、伝統建築を修復する「宝くじ」が登場したなら、それは邪道どころか、むしろ日本の歴史にならった、最も正統的な「宝くじ」とさえ言えそうなのです。



現在の全ての「宝くじ」は法律で地方自治体が発売元

なんと発売総額の41%が自治体の公共事業へ(平成23年度/宝くじ公式サイトのグラフを引用)



では現代はどうかと言えば、宮城島さんが「率がいい」とおっしゃったのは、ちゃんと法律のねらいに基づいた運営がされているからで、法律(当せん金付証票法)には「地方財政資金の調達」が目的だと明記されているそうです。

そのため、いわゆる払い戻し率(当せん金総額の割合)は五割を超えてはならない(!…)とも規定されているそうで、発売する側に「率がいい」のは当たり前のシステムになっています。


ちなみに、宝くじ公式サイトの収益金充当事業一覧(都道府県別)を見ますと、収益金が様々な事業に使われている姿は多少分かるものの、どの宝くじがどの事業に当てられたか?といった細かな追跡はできない状態です。

何故なら、例えば全国自治宝くじの収益金は、合算して各県に、ジャンボ売上げ成績に応じて!分配されるとかで…


使い道が明らかな変り種としては、一昨年に宮崎県など4県が共同発行した「口蹄疫復興宝くじ」

わずか10日間の全国発売で、23億7000万円を売上げた



果たして宮城島さんは、どういう規模や内容のものをイメージされているのか分かりませんが、もしもこの先、天守の木造化に決意を固めた各県や政令指定都市が、総務大臣の認可を経て、共同で、何十年もかけて、地道に発売をして行けたならば、それこそ思いのほかの満願成就(まんがんじょうじゅ)も夢ではないのかもしれません。


仮称【天守閣「木造化」宝くじ】で、大小様々の新しい木造天守が日本列島に並ぶのか





<「市民運動」と「宝くじ」という、まるで異質な二つの手法。

 宝くじ収益金で出来た天守に、市民からの深い愛着はわいて来ない!?>





さて、問題は、小田原の「みんなでお城をつくる会」がすでに寄付金の募集を始めているように、現状の基本は、コンクリート天守を抱えた市民が <自分達の手で全国にほこれる天守を造りたい> という意識や市民運動にあるのに対して、そういう動機と宝くじが合い入れるのだろうか、という心配でしょう。

世間ではふつう、宝くじの収益金で出来た道路や橋などに、特別な思い入れを感じる人は少ないでしょうし、むしろ心の底では「ラッキー…」という他力本願な感覚をおぼえる方です。


また、宝くじの発売元になれるのは、実際には都道府県か政令指定都市であるという点も、市民の動機がストレートに結びつかない(もう一段の政治判断がはさまる)のかもしれません。


このように宝くじにはいくつか欠点があるものの、この先、アベノミクスがどうなろうと、従前の地方財政のままでは、殆どのコンクリート天守は“無期限の凍結保存”“安全のための利用制限”しか将来の道がないようにも感じます。

そんな状況下では、宝くじの制度的なパワーは大きな魅力ですし、ここは江戸時代の先人達の知恵に学びつつ、一方で、小田原モデルの「地産地消」という幅広い業種の市民が関われるスタイル(林業・木造建築・観光業など)を加味すれば、宝くじの“無機質さ”をいくらかでも救えるのかもしれない、と私なんぞは思うのですが…。



駿府城公園の近くの神社境内にある看板の絵(画:渡辺重明)

天守の描き方は、内藤昌先生の復元を微妙にアレンジしているようで…




さてさて、最後に今回の発案者・宮城島さんが取り組んでおられる駿府城天守ですが、当サイトも厳しい見方をさせていただいたように、やはり復元のための具体的な根拠の問題が、依然として横たわっています。

ではありますが、何とかして早期にその問題をクリアして、駿府城(静岡県か静岡市)が共同発行などに加われるよう、是非とも、発案者の宮城島さんに力を発揮していただきたいものです。



【お知らせ/2013年度リポートは「駿府城天守」をテーマに作業中です】


年も明けてからこんなお知らせをするのは不格好と思いつつ、昨年中のブログ記事の流れも尊重しますと、やはりここで「駿府城天守」にケリをつけておくべきでは?という思いを強くしました。

そこで新リポートは、以下の内容に変更して鋭意、作業中です。


【仮題】
最後の「立体的御殿」としての駿府城天守

     二重目高欄からの眺望は全周360度!

     〜朱柱と漆黒の御殿空間をビジュアル化する〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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