城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014/01

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (265)



全エントリ記事の一覧はこちら

2014年1月
     
 

新着エントリ
城の再発見!続『モンタヌス日本誌』→大坂城天守の記録はまさに「駿府城天守」のことか (11/17)
城の再発見!今回は『江戸始図』の補強になるか?『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的 (11/5)
城の再発見!さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング (10/18)
城の再発見!『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか?? (10/13)
城の再発見!家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点 (9/29)
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (25)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)


アクセスカウンタ
今日:3,104
昨日:2,766
累計:2,269,714


RSS/Powered by 「のブログ

2014年01月19日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!ひと目でわかる、江戸城の寛永度天守台と現存天守台はまったくの別物





ひと目でわかる、江戸城の寛永度天守台と現存天守台はまったくの別物




前回記事の「宝くじ」計画やその前の「家光上洛時の天守」と同じく、今回もまたまた昨年12月の小田原城シンポジウムで痛感した事から申し上げてみたく、何点かの図解付きでご紹介しましょう。



<NPO「江戸城天守を再建する会」の事実無根の説明に

 なぜ城郭専門家は口をつぐむのか? これはいつか来た道??>




シンポジウムの会場には、その4日前に行われた認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」の発足記念集会に参加された方々もいて、会場内では「皇居には天守閣の石垣が残っているんだと」「だからその上に木造で再建しよう、ていう江戸城のデカいこと!」といった談笑がちらほらと聞えてきて、江戸城NPOの説明やCG映像の効果がかなり浸透していました。


私は会場のいちばん後ろの席に座ったのですが、その直後に、なんと、当日のパネリストの一人で「江戸城天守を再建する会」の小竹直隆(おだけ なおたか)理事長が偶然、私のとなりの席に座ったのです。!!

(※お顔を私が勝手に存じ上げていただけで、いわゆる「面識」はありませんでした)

が即座に、小田原NPOの古川理事が小竹理事長を最前列のパネリスト席に招いたため、事なきを得たのですが、もしもあのままいくばくかの時間があれば、おそらく私は我慢しきれずに、あの場でご挨拶を申し上げ、二言三言、私の疑問をぶつけて、いきなり険悪な空気を作り出していたのかもしれません。


そんなニアミスの後に始まったシンポジウムでは、小竹理事長は「命がけで」「何が何でも」「石にかじりついても」と繰り返すばかりの、まったくもって、昭和のモーレツ企業戦士がそのまま今日に至っているような方だとお見受けしましたが、それだけにかえって、私の危機感が深まりました。

これはまさに、いつか来た道、ではないかと。



皇居(旧江戸城)の現存天守台

明暦の大火で焼けた寛永度天守台とは、石の色や大きさ、全体の高さや形状も異なる「別物」



問題の根本は、当ブログで再三再四、申し上げて来たとおり、江戸城の寛永度天守台と現存天守台は <まったくの別物である> という歴史上の基本的な事実を「再建する会」が無視(軽視)し続けている、という一点に起因します。

しかも、その真逆に、さも同一物であるかのような <事実無根の説明> を続けていて、そうした説明の上にプロジェクト全体が立脚している、という重大な欠陥を、一般向けには隠し続けているのです。例えば…



(「江戸城天守を再建する会」ホームページ/小竹理事長の「ご挨拶」より引用)

「江戸城寛永度天守」は、徳川3代将軍家光公が1638年につくった城ですが、その僅か19年後、1657年の明暦の大火で焼失し、その後今日まで350年余り、遂に再建されることなく、台座だけが皇居東御苑に遺されています
しかし、この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ…




ご覧の挨拶文が典型的でして、一般の人々にとっては、まるで寛永度天守の天守台(文中では「台座」)がそのまま遺されて現存しているかのような説明になっていますが、これがとんでもない間違い(よもや意図的…)であることは、城郭専門家や城郭ファンの方ならすぐにお判りでしょう。

すなわち、明暦の大火の翌々年、焼け残った寛永度天守台は、加賀藩前田家の手伝い普請によって「色も」「高さも」「形状も」異なる新規の天守台(現存天守台)として築き直されたことは、城郭研究の世界では常識の類いだからです。


しかも、その現存天守台は、かの保科正之(ほしな まさゆき/将軍家光の異母弟)の有名な「もはや天守の再建は無用」という歴史的な献言の結果、台のみで、その後の355年を経て今日に伝わる貴重な遺産である点に、小竹理事長はまったく無関心だということを露呈しているわけです。(よもや本人は歴史嫌い?…)





(平井聖監修『よみがえる江戸城』2005年より)

天守は再建されなかったものの、天守台は築き直されており、見学者は巨大な天守台に登って、東京の風景を一望することができる。


(西ヶ谷恭弘著『江戸城−その全容と歴史−』2009年より)

今日、天守台石垣の東南側に激しく炎が当たり焼き爛れた石積をみるが、この火災のあとは、明暦の大火ではなく、文久三年(一八六三)の大火によるものだ。
というのは、今日の天守台の表石垣は、明暦大火の二年後にぼろぼろになった天守台石垣を次に述べるように積み直したからである




それでは、西ヶ谷先生の「次に述べるように」の指摘を参照しつつ、寛永度天守台と現存天守台との違いを列挙してみますと…



1.石が異なるため石垣の「色」や印象がまるで違う


寛永度天守台の「伊豆石」(罹災後に城内で転用された様子) / 現存天守台の「御影石」


ご覧のとおり、寛永度天守台には暗い灰色の安山岩の「伊豆石」が使われたことは、明暦の大火の一部始終を伝えた文献『後見草』の記述から確実視されています。

一方、現存天守台は明るい肌色の大ぶりな「御影石(みかげいし)」で積まれているのですから、両者の印象は、小さな子供でもわかるほどの歴然たる違いがあったことになります。



2.全体の「高さ」には約3mの違いがある




寛永度天守の復元において最も重要とされる図面史料(都立中央図書館蔵『江府御天守図 百分之一』)には、天守台の部分に「石垣高 直立 京間七間」とはっきり書き込まれています。

そして一方、現存天守台の高さは5間半しかなく、もしもこの上に再建天守を載せるとしても、ご覧の約3mの落差をどうするというのでしょうか?


よもや宮内庁所管の皇居東御苑のなかで、テキトーな改築(かさ上げ!?)をするつもりなのか、それとも、知らぬふりでそのまま建ててしまうのか…

はたまた奥の手の“新学説”などで強行突破するのか… いずれにしても我が国の「城」の歴史をないがしろにする、言語道断の所業ではないでしょうか。



3.簡素化された現存天守台は「形状」もかなり違っている





両者は形状についても、ご覧のとおり、構造や機能の面で一目瞭然(りょうぜん)たる違いがあり、今日まで様々な変遷をへて現状に至っている現存天守台を、これからいったい、どうするというのでしょうか。

ハッキリ申しまして、今日現在での再建天守というのは、誰がどうやっても、チクハグさから完全に逃れることは不可能なのだと申し上げざるをえません。



4.そもそも歴史的な経緯が異なる「別物」である


言わば「天守の時代の終焉(しゅうえん)」を宣言した保科正之(会津松平家の初代藩主)

(※写真はサイト「西野神社 社務日誌」様からの引用です)


前述の保科正之の献言(「もはや天守の再建は無用」)は、まさに天守の歴史を画する代表的な文言の一つであり、その文言によって成り立ってきた現存天守台は、「天守」そのものを研究する上でも、まことに重要な遺産(歴史の証人)であるわけです。

ですから、こともあろうに、それを損壊しようという者は、そもそも「城」や「天守」を語る資格は塵(ちり)ほども無い!!… というのが私の本音です。


以上の論点を踏まえますと、小竹理事長の「台座が遺されているから」というアピールで、どれだけ多くの賛同者が集まったかという点を考えれば、小竹理事長の説明には、もはや素人(しろうと)の間違いでは済まされない、一種の“悪質さ”を感じます。


(※なお今回申し上げている問題は、例えば、徳川再築の天守台上に豊臣風のコンクリート天守を建てた「大阪城天守閣」よりマシだろう、とのご意見もあるかもしれません。しかし当時の設計者・古川重春先生の『日本城郭考』等を読みますと、乏しい史料の中で、手探り状態の設計を行っていたことが判ります。
 そのように間違いを知りえずに犯した間違いと、間違いを隠蔽(いんぺい)して強行突破する間違いとは、本質的に別次元の問題だと思われてなりません)



ですから、このような事実無根の説明のもとに、これから先、巨額の寄付金や公的な財政支援を引き出そうという「江戸城天守を再建する会」は、ひょっとすると、認定NPOとしての法人格に問題があるのではないか?…という疑義(金銭上の詐欺的行為の可能性)も感じられてしまいます。

もしも今後、このままいつまでも改善が見られない場合は、最終的には「告発」の必要性もあろうかと、本気で思ってしまうのですが、いかがでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2014年01月05日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!名案か!!【天守「木造化」宝くじ】の創設は





名案か!!【天守「木造化」宝くじ】の創設は


費用をどうするのか?…国指定史跡のコンクリート天守の木造化


前回の記事では、コンクリート天守群がこのまま歴史的に固定化してしまう危険性を申し上げましたが、これらを全て「木造化」していくには、木材や技術者の件はもちろん、それに先立つ「費用」の面が、もはや並大抵の努力では解決困難なレベルになりつつあるとも申せましょう。

中でも飛びぬけて大きく、高価なヒノキ材を使う名古屋城天守が342億円(再建中の本丸御殿の2倍以上)と試算されたのは記憶に新しく、その他の天守については、話題の小田原城もまだざっくりとした額しか言われておらず、その小田原を上回るはずの五重天守群はどの程度になるのか全く分かりません。

そんな段階でありますが、費用の捻出(ねんしゅつ)方法に関して、昨年12月の小田原城シンポジウムで、ちょっと耳寄りな話が出ましたので、今回の記事はそれをお伝えしてみたいと思います。



「平成の駿府城をつくる会」の宮城島弘正(みやぎじま ひろまさ)代表理事

(※清水市長時代の写真より)


当日のパネリストの一人、宮城島さんは、かの駿府城天守の再建運動のいきさつ(※地元で再建への気運が高まったものの、収集できた資料類を検討委員会が史実への忠実性は低いと評価し、現段階での再建はすべきでないとの結論に至った)を踏まえたお話をされました。

その中で、今なお運動は継続中として「費用については、宝くじがいいのかもしれない」と発言され、会場からホーッという反応を得ました。

まさに自治体首長の経験がある宮城島さんらしいアイデアであって、ご本人いわく「宝くじは率がいい」からなんだそうです。

宝くじと天守。一見、ほど遠い間柄であり、また市民運動がベースになる木造再建を話題にして来た中では、いささか“邪道”のように聞えますが、実は、我が国の歴史をふり返りますと、これに似た手法は、100年以上にわたって行われて来たという事実があります。


谷中感応寺 富くじ興行 の絵(江戸名所百人一首より)

(※ご覧の絵はサイト「江戸落語の舞台を歩く」様からの引用です)


ご存じのとおり、日本の宝くじのルーツは江戸時代の「富くじ」でして、それがどのように行われていたかと言えば、基本的に、寺や神社の修復費用を集める目的で発売されたのでした。


概略を申せば、江戸初期、徳川幕府は大阪で流行し始めた「富くじ」に一旦、禁令を発したものの、やがて寺社に対してのみ、建物の修復費用調達の手段として「富くじ」の発売を許したそうなのです。

それ以後、上記の絵に描かれた谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺(目黒不動)そして湯島天神の発売する富くじが「江戸の三富」として人気を博し、この手法が、幕末の天保の改革まで続きました。


ということですから、もしも今後、天守の木造化など、伝統建築を修復する「宝くじ」が登場したなら、それは邪道どころか、むしろ日本の歴史にならった、最も正統的な「宝くじ」とさえ言えそうなのです。



現在の全ての「宝くじ」は法律で地方自治体が発売元

なんと発売総額の41%が自治体の公共事業へ(平成23年度/宝くじ公式サイトのグラフを引用)



では現代はどうかと言えば、宮城島さんが「率がいい」とおっしゃったのは、ちゃんと法律のねらいに基づいた運営がされているからで、法律(当せん金付証票法)には「地方財政資金の調達」が目的だと明記されているそうです。

そのため、いわゆる払い戻し率(当せん金総額の割合)は五割を超えてはならない(!…)とも規定されているそうで、発売する側に「率がいい」のは当たり前のシステムになっています。


ちなみに、宝くじ公式サイトの収益金充当事業一覧(都道府県別)を見ますと、収益金が様々な事業に使われている姿は多少分かるものの、どの宝くじがどの事業に当てられたか?といった細かな追跡はできない状態です。

何故なら、例えば全国自治宝くじの収益金は、合算して各県に、ジャンボ売上げ成績に応じて!分配されるとかで…


使い道が明らかな変り種としては、一昨年に宮崎県など4県が共同発行した「口蹄疫復興宝くじ」

わずか10日間の全国発売で、23億7000万円を売上げた



果たして宮城島さんは、どういう規模や内容のものをイメージされているのか分かりませんが、もしもこの先、天守の木造化に決意を固めた各県や政令指定都市が、総務大臣の認可を経て、共同で、何十年もかけて、地道に発売をして行けたならば、それこそ思いのほかの満願成就(まんがんじょうじゅ)も夢ではないのかもしれません。


仮称【天守閣「木造化」宝くじ】で、大小様々の新しい木造天守が日本列島に並ぶのか





<「市民運動」と「宝くじ」という、まるで異質な二つの手法。

 宝くじ収益金で出来た天守に、市民からの深い愛着はわいて来ない!?>





さて、問題は、小田原の「みんなでお城をつくる会」がすでに寄付金の募集を始めているように、現状の基本は、コンクリート天守を抱えた市民が <自分達の手で全国にほこれる天守を造りたい> という意識や市民運動にあるのに対して、そういう動機と宝くじが合い入れるのだろうか、という心配でしょう。

世間ではふつう、宝くじの収益金で出来た道路や橋などに、特別な思い入れを感じる人は少ないでしょうし、むしろ心の底では「ラッキー…」という他力本願な感覚をおぼえる方です。


また、宝くじの発売元になれるのは、実際には都道府県か政令指定都市であるという点も、市民の動機がストレートに結びつかない(もう一段の政治判断がはさまる)のかもしれません。


このように宝くじにはいくつか欠点があるものの、この先、アベノミクスがどうなろうと、従前の地方財政のままでは、殆どのコンクリート天守は“無期限の凍結保存”“安全のための利用制限”しか将来の道がないようにも感じます。

そんな状況下では、宝くじの制度的なパワーは大きな魅力ですし、ここは江戸時代の先人達の知恵に学びつつ、一方で、小田原モデルの「地産地消」という幅広い業種の市民が関われるスタイル(林業・木造建築・観光業など)を加味すれば、宝くじの“無機質さ”をいくらかでも救えるのかもしれない、と私なんぞは思うのですが…。



駿府城公園の近くの神社境内にある看板の絵(画:渡辺重明)

天守の描き方は、内藤昌先生の復元を微妙にアレンジしているようで…




さてさて、最後に今回の発案者・宮城島さんが取り組んでおられる駿府城天守ですが、当サイトも厳しい見方をさせていただいたように、やはり復元のための具体的な根拠の問題が、依然として横たわっています。

ではありますが、何とかして早期にその問題をクリアして、駿府城(静岡県か静岡市)が共同発行などに加われるよう、是非とも、発案者の宮城島さんに力を発揮していただきたいものです。



【お知らせ/2013年度リポートは「駿府城天守」をテーマに作業中です】


年も明けてからこんなお知らせをするのは不格好と思いつつ、昨年中のブログ記事の流れも尊重しますと、やはりここで「駿府城天守」にケリをつけておくべきでは?という思いを強くしました。

そこで新リポートは、以下の内容に変更して鋭意、作業中です。


【仮題】
最後の「立体的御殿」としての駿府城天守

     二重目高欄からの眺望は全周360度!

     〜朱柱と漆黒の御殿空間をビジュアル化する〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。