城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014/02

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2014年02月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守は「台」の方が重要かもしれない、という観点から小牧山城の歴史的発見を見れば…





天守は「台」の方が重要かもしれない、という観点から小牧山城の歴史的発見を見れば…


小牧山城の航空写真(小牧市所蔵)


ご覧の山頂部分で発掘された総石垣づくりの主郭は、尾張の城としても、織田信長にとっても、初の大規模な石垣であったようですが、その意図は何か? 建物はどうなっていたのか? といった疑問は(主郭内部の改変もあって)完全には明らかになりそうもありません。


調査報告書の「主郭石垣概要平面図」を使って作成(上が真北)


小牧山城と言いますと、私なんぞは思わず、ここに原初的な天守(「御城には二層、屋上に楼を設けて三間四方、欄干より眺望雲煙十里…」武功夜話)があったかのような記録が頭に浮かぶ一方で、おなじみの千田嘉博先生は、北西に張り出した「櫓台」の発見に注目しておられます。



(千田嘉博『信長の城』2013年より抜粋)

小牧市歴史館建設前の図面や写真によると、主郭内には建物の存在をうかがわせる基壇状の高まりがあって、かなりの規模の建物が建っていたことは間違いありません。

発掘した櫓台石垣から規模を復元すると、櫓は東西方向に八メートルほど張り出し、南北方向も石垣塁線上ではおよそ八メートルでした。一間を六尺五寸(約一九七センチメートル)とすると、およそ四間となります。(中略)
天主の成立過程を考える上でも、小牧山城主郭の櫓は重要な意味をもつでしょう。



では、問題の「櫓台」はどうしてこの位置で北西側なのか? という点に関しては、千田先生は同書で「この櫓台が張り出した北西のはるか先には、信長が攻略目標にしていた稲葉山城(岐阜城)を今も望むことができ」るから、としておられます。

この重要な指摘は、私なんぞも5年前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)で申し上げたように、いわゆる「四方正面」以前の望楼型天守には、明らかに「正面」があり、しかもその正面には、攻略目標を意味した「外正面」と、真逆の自陣側を意味した「内正面」があったはず… などと申し上げた考え方ともピタリと合致します。


しかし、ここではもう一つ、<なぜ北西か?> に関して、それ以上に見逃せない理由があったように思えてならず、これが今回の記事の中心テーマなのです。




<なぜ北西側に?? もう一つの、見逃せない理由とは>




例えば、千田先生が以前に作成した縄張り図を使わせていただくと…

村田修三編『図説中世城郭事典 第二巻』所収/小牧城図(千田嘉博作図)のページ


同図の中心曲輪群の部分を使って作成(上が真北)


ご覧のように作成した中では、「山腹の横堀と土塁」はご承知のとおり、後の小牧長久手戦のおりに徳川が改修した部分らしい、と判って来ましたので、この部分は割り引いて考えなければなりません。

そして大手道から山頂主郭に至るルートとしては、蓬左文庫に伝わる江戸時代の古地図に、上図のようなクネクネと山腹を登るルートが描かれていて、それが調査報告書にも採り入れられています。


ところが、ところが! 例えば、おなじみの超有名サイト「余湖くんのお城のページ」の小牧山城の鳥瞰図などでは、まったく別のルートが印象づけられ(提起され)ていて、思わず、古地図に対する疑問がふつふつとわき上がって来るのです。…


「余湖くんのお城のページ/小牧山城の鳥瞰図」を引用させていただきました



ご覧のとおり、大手道の続きはさらに真っ直ぐ山を登っていて、小牧山の鞍部にまで登り、馬出し的な機能を果たしたと見られる曲輪(鳥瞰図の3、その下の図の5)を経たうえで、「土橋」を渡って中心曲輪群に入る、というルートが強調されているのです。

もちろん前述のように、山腹の横堀は徳川による改修箇所ですから注意が必要なものの、もしもこれを大手道から主郭に至る「メインルート」と考えた場合には、問題の「櫓台」の意図が、ずっと明確に見えて来るのではないでしょうか。


土橋を渡る先の真正面に! 原初的な天主(殿守)が? / 主郭石垣概要平面図の合成


いかがでしょうか。思えば、岐阜城の天守(山頂「主城」)や安土城天主もこんなレイアウトがされていたように感じられ、例えば安土城ですと、伝黒金門の手前の長い石段がちょうど「土橋」と同じ位置づけになり、それとは別のルートが南からも主郭に達する形になっています。





すでに報告書等で指摘されているとおり、小牧山城と安土城の築城方法の間にはかなりの類似性が見られ、それはまた、大手道から主郭や天主に至るルートの設け方についても、ほとんど同じ手法だと言えそうな感じです。


そして私なんぞが特に気になるのは、いずれも、土橋や伝黒金門の側から見れば、ルートは天主の背後に回り込んでから天主の建物に入る、という形をとっている点です。

これは、発祥まもない天守と主郭石垣(≒天守台)との関係を解き明かす糸口のように思われ、そういう観点に立ちますと、問題の櫓台の「真正面に見せつける」という意図がより明確になるのではないでしょうか。
と申しますのも…


私なんぞが思う、天守のいちばん原初的なイメージ 〜それは求心的な曲輪配置の頂点に〜

 
天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説)  / 本丸石垣の一隅に建つ、天守台の無い高知城天守(現存)


高知城天守(別の方角から見上げた、本丸石垣の一隅に建つ様子 / 大手門からの城道を威圧する)



ご覧のように高知城天守の建つ位置と、小牧山城での大発見とを並べて考えてみますと、問題の櫓台は千田先生のおっしゃる「のちの天主につづいていく象徴的な櫓」であるとともに、<話題の大規模な主郭石垣こそ、天守台の原型でもあるのではないか> !?という、突飛な考え方(可能性)にたどり着いてしまうのです。…



今回の記事のタイトルに、天守は「台」の方が重要かもしれない、としたのは、例えばこのような事柄もあるからです。

念のため説明を付け加えますと、天守台の「台」というのは、天守建築の研究(特に「立体的御殿」としての発祥)と、近年の山城をめぐる様々な研究成果(とりわけ織豊系城郭の求心性)とをつなぐ、言わば近接的な学際研究のミッシングリンクとでも言うべき、見逃されて来た存在ではないのかと、改めて強く申し上げたいのです。


ですからこの際、何度でも申しますが、我が国の「城」の歴史から見れば、天守は「台」の方が重要かもしれないのだ、と。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年02月02日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態





いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態


先日の日刊建設工業新聞オンライン(2014年1月28日号)にも載っていた「江戸城天守完成イメージモデル」


ご覧の写真は、おそらく認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」が、建設工業新聞の記者に推薦・提供したものと推察して引用させていただきますが、模型そのものは東京国際フォーラムの会場等にも展示された、1/100縮尺の岡本正之様制作の模型かと拝察いたします。



より複雑な構造をしていた寛永度天守台と、簡素化された現存天守台


上記の下の方の2図は前回の繰り返しですが、これらを合わせて見ますと、模型は石垣の色も含めて、明らかに、現存天守台の上に寛永度天守の木造部分を載せようとしているものだと解ります。

したがって「再建する会」がめざす建物は、なかなかに複雑な事情を抱えて(※模型の段階から問題化しそうな石垣の南端部はカットしつつ!…)完成をめざしていることが想像できるわけで、今回の記事は前回に続き、「再建する会」がどのような建物を建てようとしているのか、より具体的に検証してみたいと思います。




【検証点】

 「幕府はこの台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だった」

 という三浦正幸先生の主張が、「再建する会」の唯一の後ろ盾(だて)





前回に申し上げたとおり、寛永度天守台と現存天守台はまったくの「別物」

(※注:図の天守は石垣部分をデフォルメした描き方です)

さて、もれ伝わる情報によれば、おなじみの寛永度天守CGを監修された三浦正幸先生は、「再建する会」のシンポジウムにおいて、「現在のこっている天守閣の台座は寛永の天守の台座ではありません」と前置きしつつも、現存天守台の「面積は寛永天守と全く同じです」と強調されたそうです。

そして高さが低いのは「台座の石垣が外から見えるのは下品だ」という徳川三代将軍家光の生前の言葉にしたがって施工したものであり、「ですから幕府はこの台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だったのです。しかし当時、財政難がひどくなり再建ができなかったのです」という説明を行ったそうです。


ということは、すでにお察しのとおり、「この台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だった」というのは、何よりも現存天守台と将軍家光との関係性に重きをおいた、三浦先生の<見解・分析・主張>であるという点を、まず確認しておく必要があるでしょう。


さらに、そうしたお考えに影響を及ぼしたのは、江戸時代に浮上した再建計画ではないか…という辺りも、城郭ファンならすぐに思い当たる点ではないでしょうか。

と申しますのは、三浦先生は「再建する天守の台座は4階(のビルに相当する)12メートルです」ともおっしゃったそうで、12メートル=6間ですから、きっと現状の高さ5間半の石垣の上に「狭間石(さまいし)」を増設して6間にすることを意味していて、それは江戸時代の再建案とまったく同じ手法だからです。





再建案なのか、寛永度天守そのものか、諸先生方の見解が分かれて来た図面

(左:内閣文庫蔵 / 右:都立中央図書館蔵)



ご承知のとおり、江戸時代の再建計画というのは、例えば正徳年間、六代将軍家宣(いえのぶ)が関心を示して推進されたものの、家宣の死去とともにあっけなく沙汰止みになったというものがあります。

江戸時代の再建案をめぐっては、いくつかのそれらしき図面が伝わって来ていて、特に上の右側の図面は、斜めから見下ろした(「軸側投影図」という絵巻物の建物描写のような)珍しい描き方の図面として知られています。

で、私なんぞは前々から気になっていたのですが、これらをよくよく見ますと、破風(特に千鳥破風/ちどりはふ)や降り棟(くだりむね)の描き方において、どうも腑(ふ)に落ちない点があるのです。


ひょっとすると、再建計画では「破風」も簡略化された疑いがあるのでは…









1.千鳥破風の勾配がゆるい

2.降り棟が千鳥破風には描かれていない


この二点は、諸先生方の見解が分かれて来た二種類の図面で、何故か、共通している現象でして、昔の建物の立面図などで降り棟を省略してしまうのはよくある描法でしたが、前述の、斜めから見下ろした珍しい図面においても、それが共通しているのは、やはりただ事ではないと感じられてならなかったのです。…




やや勝手なことも申し上げましたが、いずれにしましても、「再建する会」がめざす建物というのは、ひとえに、三浦先生の<見解・分析・主張>を唯一の後ろ盾にしたものであり、本当に「寛永天守と全く同じものを造る予定だった」のかどうか、これから真剣な検証がなされるべきだと思うのです。



現段階では、これは「復元」ではなくて「仮想再建」と説明すべきもの






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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