城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014/03

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2014年03月30日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方





階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方


雁行する二条城の二ノ丸御殿

内部の廊下も鉤(かぎ)折れしながら進む

(※この写真はサイト『紙ヤンの写真メモ』様からの引用です)


これは釈迦に説法と思いますが、ご覧のとおり、雁行した「書院造」建築のなかを歩く場合は、各建物の周縁部をめぐる廊下をつたって、奥へ、奥へと鉤折れしながら進むことになります。

そうすることで、それぞれに役割の異なる建物を、例えば遠侍→式台→大広間→黒書院→白書院という風に、公的な表向きの格式空間から、私的で内向きの日常的空間へと順々に入っていくことが出来ます。


二ノ丸御殿の平面図(抜粋)


これが雁行する御殿のメリットだと言われますが、ただ奥の深部へ入っていくだけなら「縦列構造」でもいいわけでして、そうではない「雁行」ならではのメリットが、書院造の「鉤(かぎ)座敷」との関係だそうです。




(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)

このL字形あるいはコの字形に屈折した座敷配列は、鉤の手に折れた部屋ないしは鉤の手につながっている部屋という意味で「鉤座敷」と呼ばれる。
(中略)
左奥に上段の間である「一の間」があって、そこから「二の間」、「三の間」、さらに「四の間」と続いて、部屋が左回りにまわっている。
これを逆にたどれば、「四の間」の下段の間から始まって、左奥にある上段の間へと右回りに段々と部屋の格式や奥行性が高まっていくことになる。

この部屋の折れ曲るつながり方は、右手前から始まって左奥へと、段階的に格式や奥行性を高めて、各棟がつながっている建物全体の雁行形のつながり方と相似である。




鉤座敷の作法と、雁行(御殿のつながり方)には密接な関係があった


ということだそうで、ご覧の二条城と、織田信長の「立体的御殿(天守)」との間には若干の時期差があるものの、(※またその時期には鉤座敷の成立が厳密にいつだったかという不確定要因もあるものの)この件はまったく無視するわけにも行かないようです。


と申しますのは、もしも「立体的御殿」で鉤座敷などを上下に重ねることになった場合、いったいどうつなげば当時の作法にかなったのか… つまり「階段」の付け方に、新たな法則を設けなければ、必ずや、とんでもない混乱が起きたことでしょう。

(例えば、招かれた者が不用意に階段を登ったら信長本人の寝間に出てしまった、とか…)


そんな刃傷沙汰になりかねない危険な構造ではダメなわけで、信長主従はきっと <御殿群をどう縦につなぐのか?> という大命題に直面したはずだと思うのです。



【ご参考】かの楼閣「銀閣」の二階の縁に見える階段口 / この異様な登り方は「金閣」もまったく同様

(※この写真はサイト「トリップアドバイザー」様よりの引用です)


【ご参考】まるで対照的な弘前城天守の階段 / 二階から三階へは建物空間の真ん中近くを占拠している


→ 江戸後期の再建で、とっくの昔に「立体的御殿」ではなくなっていた結果か…




さて、信長の「立体的御殿」は、階段の位置をさぐる手がかりも(※静嘉堂文庫の『天守指図』以外は…)まったく現存していないため、その他の天守の状態から、あれこれと逆算してみるしかありません。

そう考えた場合に、私なんぞがたいへん気になっているのは、天守内部に二系統の階段群を併用していた例です。

何故なら、そこにはちょっと意外な現象が見られるからです。


二系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか?


左の岡山城天守は付櫓(塩蔵)から入る形でしたので、まずは「手前の階段群」を登り、続いて天守本体を登る「奥の階段群」に向かうというのは、言わば順当なスタイルと申せましょう。

しかし意外なのは名古屋城天守でして、ご覧のとおり「手前の階段群」が建物の中央付近にあったにも関わらず、何故かそれらは三階までしか続いておらず、逆に、最上階まで達していたのは(地階の奥隅の井戸周辺に始まる)「奥の階段群」だったのです。!!

この意外な事実には、これといった特段の理由も思い当たりませんし、やはり何か、過去に消えてしまった手法のなごりではないのか… と思わざるをえません。


結局のところ、「手前(表)の階段」と「奥の階段」という二系統の階段群をもつことが、かつての天守(立体的御殿?)にとって有意義な形式であり、しかも「奥の階段」を使わなければ最深部(=最上階)には到達できない、といった決め事があったのではないでしょうか。


【模式図】「立体的御殿」は階段にも「表」と「奥」があったのか


これならば、不測の鉢合わせも起こらずに済みそう…


乏しい事例をもとに、これ以上、アレコレ申し上げるのは不謹慎でしょうが、こうした仮定の延長線上においては、例えばこんなことも付言できるのかもしれません。



【最後の付言】「階段室」は両刃の剣(もろはのつるぎ)だったのでは??

表紙に描かれた宮上茂隆案と佐藤大規案 / ともに「階段室」を採用した復元


宮上案の天主台上の一階 / 階段室があまりに便利すぎて…


ご覧のように宮上先生も鉤座敷を想定しておられたわけですが、同時に「階段室」を採用していたため、その効果がちょっと効きすぎると申しますか、天主に入った訪問者は、約50歩で信長本人の寝間にも到達できてしまうのです。

その後の大洲城天守など江戸初期の天守ならまだしも、黎明期の天守「立体的御殿」にとって、「階段室」は両刃の剣ではなかったかと、やや心配になるのですが。

(次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し





「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し


 【前回記事の大胆仮説】

  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、

  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。

  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか!?



前回記事の最後にまたまた妄言を申し上げてしまいましたが、この件についてもう少し、妄言の心理的な背景をご説明させていただきたいと思います。


一乗谷・朝倉館の建物群

(※養父市ホームページ掲載の「越前朝倉氏 朝倉館 配置図」を使って作成)


御殿が雁行していた一乗谷の朝倉館は、研究者によって個々の建物の想定が少しずつ異なるため、ご覧の書き込みは引用の配置図どおりとし、一部、「会所」に平井聖先生などがおっしゃる(楼閣か)という一言を加えさせていただいたものです。

あえて色分けしたとおり、接客や対面に使われた「主殿」など、手前の西寄りの建物群が表向きのもので、新たに日常生活の場として設けられた「常御殿」から向こうが、奥向きの建物ではないかと言われています。

で、冒頭の“妄言”は、これらのひとそろいの御殿を、山城の山頂の「台」上に建て込めるだろうか?という仮定の話ですので、試しに、小牧山城の主郭石垣を同縮尺でダブらせてみますと…


やはり、かなり手狭な印象!! →「立体的御殿」化への直接の動機か


ご覧のように、山城の主郭としては充分な広さがあるはずの小牧山城でも、その山頂部を巨石を積んだ別格扱いの「台」と考えた場合は、そこにどれだけの御殿を建て込めるかという <スペース的な制約> が生じて、その時、初めて「立体的御殿」が現実の課題になったのではないかと申し上げたいのです。

そしてその中では、例えば朝倉館の「遠侍」から一番奥の「数寄屋」等々まで、すべてを立体化して縦に重ねたのか? と言いますと、必ずしもそうではない節もありまして、それは「天主取付台」に関してちょっと気になる点があるからです。…




織田信長の奇妙な行為から推理した、安土城主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域案


ご覧の下の方の図は、4年前のブログ記事でお目にかけた図の抜粋でして、これは天正10年、織田信長が家臣らを安土城に招いたおりに、家臣らが差し出した礼銭を信長がみずから受け取り、後ろに投げた、という有名な逸話をもとに、その隠れた意図を推理してみた図になります。

すなわち、信長はその時、ハレ(表)とケ(奥)の境界線上に当たる場所に立っていて、銭を背後に投げるという行為そのもので「銭は受け取った!」という意思表示をおおげさに家臣に見せた、ということではなかったかと思うのです。

もしそうだとしますと、「天主取付台」はケ(奥)の領域のいちばん手前に位置づけられていたことになるため、どうも私なんぞには、天主取付台は“常御殿の一部”として機能していたと感じられてなりません。

ですから、立体的御殿(萌芽期の天守)はどこから奥の御殿を立体化したのか?という先程の疑問については、結局、<常御殿から奥が台上で立体化された> と申し上げざるをえないように思うのです。…



発掘当時の小牧山城の主郭石垣 / 左上が小牧市歴史館のある主郭内

台上に誕生したのは「殿守」か「天主」か「殿主」か


おなじみの木戸雅寿先生は、当時、様々な文献に書かれた天守の文字は「殿守」「殿主」「天主」「天守」と色々であり、それらのうち「殿守」「天主」がいくつもの城で使われた一方、「殿主」は安土城天主を示した別称でもあり、豊臣政権の成立後はすべて「天守」に統一されたと指摘しておられます。(『信長の城・秀吉の城』2007年)

こうした書き方の問題からも、天守の起源について、色々とアプローチがなされて来ましたが、今は小牧山城の発掘成果(とりわけ主郭石垣の重大な意味)によって、新たな段階が見えてきたのではないでしょうか。

と申しますのは、機能を分化した「書院造」や望楼の立体化で誕生した「殿守〜天守」と、逆に一棟に機能を集約していた「主殿」建築も網羅して考えるなら、これまでにない建築史的な天守の解明が、いっそう系統的に進むのではないか… といった将来への希望的観測も感じられるようだからです。



ご参考) 天主取付台に大型の付櫓が続く可能性を主張されて来た、西ヶ谷恭弘先生の復原案

著書『復原図譜 日本の城』1992年の表紙より



このように、意外にも「天主取付台」は多くの可能性を秘めていると思えてならず、それは小牧山築城の4年後に早くも移転した居城・岐阜城においても、同じことが言えるのかもしれません。





<峻険な岐阜城の山頂の天守は、手前に「天守取付台」を考えれば…>





岐阜城 山頂の復興天守


さて、織田信長の時代、岐阜城の山頂(「主城」)に「天守」はあったのか無かったのか。

現状では「無かった」とおっしゃる研究者の方が、多数派を占めておられるようです。

その理由としては、現状の復興天守が載っている天守台石垣はもちろん明治以降に度々積み直されたもので、それ以前の、古図にある天守台も池田輝政時代のものである可能性があり、信長の時代は、険しい山頂部分に大規模な石垣を築けず、「天守」に充分なスペースは無かった、と考える方々が多いからのようです。


復興天守に入る天守台石段の周辺 / 当記事ラストの図の「写真A」の角度から

前掲書の岐阜城のページ(古図に基づく復原 / イラストレーション:香川元太郎)


しかし私なんぞは、そもそも、城内での建てられた「位置」(曲輪群の求心性の頂点)と「台」こそが天守の物理的な必要条件であって、三重から五重の階層が無ければ「天守でない」等とはツユほども感じませんので、多くの方々のような心配はまったく気になりません。

しかもその上、この度の小牧山城の大発見によって、岐阜城にも、ほぼ同じプランの萌芽期の天守(二〜三重程度の望楼と御殿の複合立体化)が、しっかりと建っていた可能性が見えたように感じております。


(※香川元太郎先生のイラストレーションをそのまま使わせていただきながら図示してみました。

  前出の小牧山城の図とは、ちょうど反対側から見たような形になります)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月03日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!小牧山城でおぼろげに感知できる「立体的御殿(天守)」造型のDNA





小牧山城でおぼろげに感知できる「立体的御殿(天守)」造型のDNA


前回記事では「小牧山城の主郭石垣こそ、天守台の原型でもあるのではないか」!?などという突飛な考え方を申し上げましたが、試しに、その広さを安土城の天主台と比べてみますと…




ご覧のとおり、広さは格段の差があるものの、やや角ばった環状の平面形(※小牧山のは元々の地山とは無関係に造成されたもの!)が何故か似ているようです。

そして小牧山城にあった基壇状のスペース(オレンジ色)と、安土城天主の建物初重の広さがほぼ同じだということもあってか、さも両図は、望楼と御殿が合体して天守に変わる「以前」「以後」を見ているかのようでもあります。

しかし昨今、小牧山城では、望楼はすでに主郭の御殿の屋根上に載っていた、という形の復元方法も推定イラスト等でよく見かけるようになって来ておりまして、果たしてこの城から「立体的御殿(天守)」は始まっていたのかどうか、まことに興味は尽きません。


そういう中では、前回と同じく、千田嘉博先生の次の一言もたいへん気になるところで、それは話題の「櫓台」について「この櫓はほかの主郭内の建物と、ひとつづきにつながっていた可能性が高いと思います」(『信長の城』)という見方です。

何故これが気になるかと申しますと、もし本当にそうなら、私はアレコレと連想が止まらなくなり、その果てに、ある“共通項”が浮かび上がるからなのです。



小牧山城の基壇状スペースに対応する位置の、安土城の「天主取付台」に着目しますと…






!!… ご覧のとおり、小牧山城の基壇状のスペースに対応するかのような位置に、斜めに付櫓や本丸御殿が接続した天守が、この他にも色々と連想できまして、しかもそれらの位置関係については、これまでに(※小牧山城の大発見までに)何か指摘されたことは一度も無いだろう、という点がたいへん気になります。

そして「雁行(がんこう)」と言えば、私なんぞは城郭ファンとして、てっきり二条城の二ノ丸御殿で確立したスタイルとばかり思い込んでいたのですが、そうでもない、と言いますか、逆に、明らかな間違いなのだそうです。…





(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)

雁行形の建築は近世においてその完成を見る。しかし、その形態を持つものがそれ以前になかったわけではない。むしろ相当に古くからあり、それが時代とともに発展し、近世に洗練され完成に至ったと考えるべきである。
(中略)
寝殿造も中国伝来の左右対称形の配置を踏襲するものも残るが、その一方で割合早い時期から、その配置形式を崩していたことがわかる。


さらに、15世紀初頭の応永度内裏を描いた町田本の洛中洛外図(部分)にもハッキリと…

「せいりやうてん」貼り札の上半分が紫宸殿、下半分が清涼殿。この絵は左が北



(前出本より)

平安期の火災以後、紫宸殿と清涼殿は、規模や形あるいは周囲の建物を変えながらも、雁行状の配置関係を一貫して変えることはない。
この紫宸殿と清涼殿の雁行配置の一貫性は、それが日本の権威の中枢にある象徴的な建物だけに、影響力もあったはずで、注目すべき点であると思われる。




この本の著者・川道麟太郎先生によりますと、古代から平安時代にかけて、内裏や寝殿造の建物群は(中国古来の四合院住宅の影響で)左右対称形で建てられていたものの、いわゆる国風文化の広がりとともに左右対称は崩れ、早くも宇多天皇の離宮・朱雀院(9世紀)で非対称が始まり、白河上皇の仙洞御所・鳥羽殿(11世紀)で日本人好みの典型的な「雁行」は始まっていた、と指摘しておられます。

その後は、一棟に機能を集約する「主殿」がいっとき現れたものの、再び複数の棟で機能を分ける「書院造」の普及によって「雁行」はいっそう広がりを見せ、われわれ城郭ファンにもおなじみの一乗谷朝倉氏館など、武士階級のステイタスとしても「雁行」形はすでに認知されていたようなのです。


ということは… ここからは私の勝手な空想が混じりますが、小牧山城の歴史的発見から見えて来た、御殿と望楼の雁行(の可能性)というのは、あえて巨石を並べた主郭石垣上の建築を、さらに“別格の存在”として建て込みたい、という意志の現れではなかったでしょうか。







ここで再び大胆仮説

  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、

  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。

  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか!?>





「天守」はいかにして誕生したか、という大テーマは、当サイトにとってもこの上ない関心事です。

それが織田信長時代の小牧山城での発見を契機に、解明の糸口が見えて来るなら、まことに嬉しいかぎりですし、しかもその場合、山頂の「台」が不可欠の役割を演じていた可能性がありそうだということにも、思わず興奮してしまうのです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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