城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014/04

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2014年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ





幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ


4月19日 日本城郭史学会の大会「黒田官兵衛の戦略・築城」

講師の西ヶ谷恭弘先生  /  小和田哲男先生  /  丸山雍成先生



先週は城郭史学会の大会がありましたが、今年は各地で黒田官兵衛の城をテーマにしたシンポジウムが行われていて、西ヶ谷先生は2月の福岡の市民フォーラム『黒田如水と福岡城天守閣』にもパネリストで出席された関係から、話題になった天守復元の件についても一言、印象を述べておられました。


おなじみの福岡城天守の復元CG(佐藤正彦先生の著書より)


西ヶ谷先生の印象としては、ご覧の復元案は「広島城天守などを参考にしたためか、福岡城で多用された切妻の屋根や破風が一つも無く、その点がやはり気になる」というもので、この発言には私も思わず(心の内で)ポン!と膝を叩いたのです。


ご承知のとおり、現実の福岡城は… 例:南の丸多聞櫓の切妻屋根


ということで、今回の記事は、西ヶ谷先生の「切妻」発言にたいへん意を強くしまして、またまた立体的御殿の話題を先送りさせていただきつつ、この際、私なんぞが以前から「幻の福岡城天守」に感じて来ました、ある“戯れ言”をひとつ、申し上げてみたいと思うのです。


(※ちなみに私は天守の存在肯定派でありまして、思いますに、否定派の方々の反論は、黒田家に対する先入観や若い市長への反感が先走りしているように見えてならず、文献上に「天主」「天守」の文字がいくつも散見されるのに、天守そのものは全く無かったという理由を、当時の史料等でちゃんと示せていないのではないでしょうか。

とりわけ否定派の「代用天守説」では、黒田家はなんと、代用天守で徳川将軍を言いくるめようとしたことになりかねません。!!!…)




四重天守? と二基の三重櫓が見える


さて、ご覧の絵は、大会講師の丸山先生の発表用資料にもあったもので、キャプションは <『吉田家傳録』福岡城軒唐破風四層櫓(中央)> であり、荻野忠行著『福岡城天守と金箔鯱瓦・南三階櫓』や『福岡城天守は四層(四重)か』でもそのように表記されています。

ですが、見たところ「軒唐破風」?というよりも「切妻破風の張り出し(出窓)」ではないのかと思えてなりませんが、そんな点を踏まえて、是非とも、この見なれた浮世絵をご覧いただきたいのです。!!



歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(江戸末期/兵庫県立歴史博物館蔵)


おなじみの姫路城の浮世絵で、「えええ!? 浮世絵など当てになるのか」と即座に思われたことでしょうが、今回、是非とも申し上げたいのは、もし仮に、この絵に“浮世絵でないバージョンの絵”が存在したなら、話はかなり違って来るはずだということでして、もうしばらく我慢してお読みいただけますでしょうか。


まず、歌川貞秀(うたがわ さだひで)は江戸後期から明治時代(文化4年〜明治11年頃)に生きた浮世絵師で、美人画、武者絵、風景画(特に精密な鳥瞰図)を得意としたため、「空とぶ絵師」とも呼ばれる人物です。

そしてご覧の浮世絵は表題のとおり、姫路城の築城を題材にした江戸末期の作で、この浮世絵と福岡城とをつなぐような事柄は、何ら存在しておりません。

しかしこの絵は…



1.羽柴(豊臣)秀吉ゆかりの姫路城として描かれたものの、実際の姫路城天守とは似ても似つかない

2.「切妻破風」を最も多用した天守として描かれている

3.城外からは「四重天守」に見えた可能性がある

  (※浮世絵の下端にかすかに描かれた初重の屋根は、切妻破風の張り出しを伴わない腰屋根 )

4.左右に二基の三重櫓を従えていて、黒田官兵衛を思わせる「天守曲輪」か

5.全体の「築城図」風の描き方が“築城名人”の関与を感じさせる



といった辺りが、気がかりな現象が重複しているところでして、そのため「これは本来、幻の福岡城天守の描画だったのでは…」という勝手な疑念が、私の頭の中でだんだん大きくなって来たのです。

そしてもちろん、この浮世絵の見所は、鳶(とび)職らの作業風景のようでいながら、それらの人物が「真柴久吉(羽柴秀吉)」など、豊臣家ゆかりの武将らに見立てられた(=差し替えられた)面白さにあります。


貼り札は左上から「真柴久吉」「麻野長正」「畑切且元」「佐藤清正」「滝坂塵内」等々

(※また最上階の屋根は、平側だけでなく、妻側にも「切妻破風」!)


で、ご覧のとおり、この絵は天守築造の作業風景を大雑把に描いたものとも言えましょうから、これには築城図としての「原画」が別途、存在していたのでは?… といった想像も出来るのかもしれません。

現に歌川貞秀は、江戸末期に全国を旅しながら各地の鳥瞰図構図の風景画も描いた人だそうで、どこかの地でそんな「原画」を見い出したのかもしれない、などという都合のいい空想が私の頭の中を飛びかうようになりました。

そう思って手がかりは何か無いのかと浮世絵を見ますと、背景の「海」の描き方が、ひょっとして福岡や博多湾の様子に似ていたりはしないのかと……


背景に広がるのは瀬戸内の海ではなく、「博多湾」だとしたら??

この絵の右下部分 / 港や、ぎっしりと並んだ蔵、水平線上の起伏の連なり



ご参考1)城と港の位置関係  金子常光画「福岡市及附近案内図」昭和7年


(拡大)

(※上図1はサイト「博多湾大図鑑/博多湾古地図ギャラリー」様からの引用です)



ご参考2)博多の蔵や港  林圓策画「福岡・博多鳥瞰図」明治20年(※上半分が福岡と中洲、下半分が博多)


(拡大)



ご参考3)水平線上の様子 「福岡城下町・博多・近隣古図」(※いわゆる「福博古図」文久9年写し)


(拡大)





という風に、ご覧いただいた図は少しずつ時代が違うものですし、まぁ、このような景色であれば、偶然の一致ということもあるのかもしれません。

それにしても、幻の福岡城天守から眼下に広がっていた博多湾は、右手の方に港や蔵の町並み、その向こうの水平線上には立花山から名島の丘、海ノ中道の砂州、そして左手の島々までと、ずうっと、この浮世絵のように起伏が連なって見えたことでしょう。


この一件の調べは(歌川貞秀についても)まだまだ不充分であり、やはり私なんぞには、史上最多の「切妻破風」を積み重ねた天守の描写が、どうにも気がかりで仕方がないわけです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年04月12日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!高精度VR安土城“コンペ落ち企画書”より もう時効でしょうから記事にいたしますと…





高精度VR安土城“コンペ落ち企画書”より もう時効でしょうから記事にいたしますと…


3月30日 VR安土城プロジェクト「高精度シアター型」完成報告会

(※これらの写真は 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)様よりの引用で、他にも多数あり)





かねてから話題のVR安土城(近江八幡市制作)は「高精度シアター型」が完成したそうで、ご覧の内藤昌先生の復元に基づく天主をはじめ、安土城下の高精度の再現映像が、先月末に公開試写されました。


実を申せば、かく申す私なんぞも、滋賀県のITコンサル企業・株式会社ナユタの北居様からお声をかけていただきまして、微力ながら、この映像制作のコンペに参画した経緯があったものの、結局は大手の凸版印刷さんが受注されました。

私はまだ完成映像そのものを観てはおりませんが、上記ブログの写真を拝見しますと、これまでにない角度からの迫力映像があるようで、出来栄えが期待できそうです。


で、完全に負け犬の遠吠えですが、コンペ落ちした企画書の私の元原稿には、完成映像には無い観点(アイデア)もあって、それがこのまま埋もれてしまうのはどうにももったいなく、そこで今回の記事は「立体的御殿」の話題を中断して、ちょっとだけ申し上げてみたいと思うのです。

例えば…


有名な盂蘭盆会(うらぼんえ)のシーン / 完成映像は「軒先に」提灯をつっているようですが…


さて、私がナユタ版の企画書のために送付した元原稿でも、当然、織田信長が安土で行った盂蘭盆会はラストシーンとして盛り込みましたが、では、いったいどういう風にして、強風吹きすさぶ可能性のある(琵琶湖畔の安土山頂の)天主外側に提灯(ちょうちん)を固定できたのか?… という点に、かなりの疑問を感じました。

(※私の乏しい経験の中でも、佐和山城の山頂でけっこうな「突風」を浴びた記憶があります…)

完成映像は『信長公記』のごく短い文言を優先させた結果と思われますが、一方、当日の現場を目撃した宣教師らの『フロイス日本史』を読みますと、私の疑問を解くヒントがちゃんと書かれていて、その記述に基づいて、私の元原稿はこんな書き方で、もっともっと派手に光り輝いたのではないかと考えたのです。




【元原稿からの抜粋】

そしてVR映像のラスト、幻想的な盂蘭盆会のシーンですが、実はここにもちょっとした安土城の謎があります。

記録では色とりどりの豪華な提灯で天主を飾った、とあるのですが、天主の窓は堅格子が入った武者窓であり、いったいどこに提灯をつったのか?
フロイスは「七階層を取り巻く縁側」に飾ったと記しています。

しかも信長はこの日のために10日間以上も一行を足止めして待たせました。

ということは、この時、天主は臨時の縁側(足場)でぐるりと取り巻かれていたのかもしれません。





ご参考) 内藤先生の復元による安土城天主の模型 / 各階層の外側に(通常は)縁側の類いは無い


ご参考) 織田信長も楽しんだという尾張の津島天王祭 / 現在の様子と歌川広重の浮世絵(ウィキペディアより)



※各々の船に半円形に飾り付ける提灯は365個!!(1年をあらわす)




【松田毅一『完訳フロイス日本史』の該当部分】

例年ならば家臣たちはすべて各自の家の前で火を焚き、信長の城では何も焚かない習わしであったが、同夜はまったく反対のことが行われた。

すなわち信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提燈で上の天守閣を飾らせた。

七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。





この「七階層を取り巻く縁側」というのは、安土城天主の全階層に「縁側」があったとはどうにも思えませんので、やはり“臨時の足場”を、十日間で組み付けたと考えるのが自然ではないでしょうか。


そこに提灯を設置したならば、強風の件も、また当日の点火の件も、すんなりと解決の目途がつくはずです。

(※完成映像の場合、点火はどうなるのか?? 電灯スイッチの提灯ではないし、窓には堅格子も!)


そしていっそう重要なポイントとして、盂蘭盆会(お盆)に提灯となれば、それらは当然のこと、年に一度、先祖の霊を迎え入れるために焚く「迎え火」を意味したのでしょう。

ですから、ご承知のとおり「暦(こよみ)」の問題と信長は、色々と取りざたされている関係にありますので、ひょっとしてひょっとすると、安土城天主は太陽暦(=グレゴリオ暦)の日数 365個の提灯で! 完ぺきに取り巻かれていたのではあるまいか…


こんな仮説の部分は自治体制作の映像には盛り込めませんが、こういう妄想をたくましくしますと、安土のこの年の盂蘭盆会が、はるかヨーロッパのキリスト教国に(※グレゴリオ暦の普及が進むさなかに)伝えられたことは、これまた信長の、説明なき快挙であったようにも感じられてしまうわけなのです。



安土城天主が夜空にまばゆく光り輝いた姿は、信長が、地球の裏側に打ち返したシグナルだったのか







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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