城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014/08

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (260)



全エントリ記事の一覧はこちら

2014年8月
         
           

新着エントリ
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (20)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)


アクセスカウンタ
今日:1,302
昨日:1,742
累計:2,145,711


RSS/Powered by 「のブログ

2014年08月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々「金頂」の御座としての最上階 …正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?





正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?


是非もう一回だけ、織田信長の「立体的御殿」の最上階に関する事柄を申し上げてみたいと存じます。

すなわち、安土城の天主には「最頂上に一の鐘あり」(『耶蘇会士日本通信』1577年の書簡より)という珍しい記録があるものの、これは『信長公記』など他の文献にまったく登場しないため、<正体不明の鐘>とされている点です。

この宣教師の書簡について内藤昌先生は…


(内藤昌『復元 安土城』1994年より)

この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので、工事中の時鐘かもしれず、正確の意味を理解しかねる。
慶長十五年十一月上棟の小倉城天守などには、最上階に鐘がつられていた(細川家文書『豊前小倉御天守記』)ので、あるいはそうした類とも思える。



という風に、内藤先生もややサジを投げた状態のまま今日に至っているわけですが、例えば朝廷に「尾張暦」の採用を求めた一件など、言わば“時の支配者”をめざした感のある信長にとって、天主の最上階に「鐘」というのは、どこかピッタリ過ぎるシチュエーションのように思えて、気になって仕方がなかったのです。

しかも上記の文章で釣鐘があったという小倉城天守は、一階が御殿風の造りになっていたあたりが「立体的御殿」との関連性を感じさせますし、また寛永四年に焼失した初代の弘前城天守では、釣鐘は四重目にあったとも云います。

しかし安土城天主の最上階というと…


(尊経閣文庫蔵『安土日記』の記述より)

上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ



当サイト仮説の最上階(七重目)



手前味噌のイラストまでお見せして恐縮ですが、諸先生方による復元を参照しましても、最上階は決して鐘突き堂のごとき構造にはなっておりませんし、天井には格天井などがあって、部屋の内外にそれらしき「一の鐘」をつり下げる余裕はどこにも無い、という状態です。

ちなみに、福山城に現存の鐘櫓(かねやぐら)は時の鐘を鳴らしたものですが、天守の鐘というのはいったい何を目的としたのか…

 神社の鐘は、願いごとをする神様への挨拶として。

 寺院の鐘は、時報の役割やその音色による功徳。

 教会の鐘は、主に礼拝の開始を知らせる時報として。


ということで、もちろん「鐘」には純然たる時報以外の役割もありますし、当時、安土城下で日常的に城や天主から鐘の音が聞こえた、という記録は特に無いようですから、ひょっとすると信長の「鐘」もまったく別の目的があったのかもしれません。

そこで考え方を少々変えまして、仮に安土城天主に「鐘」があったとしても、それは一度も鳴らなかった(=鳴らすべき時がついに来なかった)と想定してみますと、それはそれで、一つのありようが浮き彫りになるのではないでしょうか。



アメリカ独立宣言の時に鳴らされた「自由の鐘」(写真:ウィキペディアより)


これなどはご承知のように、独立宣言にちなんだ銘文が刻まれていて、それは旧約聖書の「全地上とそこに住む者すべてに自由を宣言せよ」という一文で、それを鳴らした、ということであって、鐘そのものに意味があるのではなくて、銘文の文言の方に重要な意味があったという特別なケースの鐘です。


沖縄・首里城の正殿に掲げられていた万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘


これも銘文の中身が重要でして、そこには「偉大な尚泰久王は仏法を盛んにして仏のめぐみに報いるため、この鐘を首里城の正殿前にかけた」という意味の由来が刻まれているそうです。

ところが一般には、文頭の方の「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫(しゅうしゅう=舟運)をもって万国の津梁(しんりょう=橋渡し)となし…」という部分がクローズアップされ、そのためこれは琉球の“交易立国”を宣言した鐘なのだとされていて、その微妙な政治的立場も含んだ特別なケースの鐘だと言えるでしょう。


かくして、日常的に突いた鐘ではなく、何か特別な願文を刻みつけ、念願がかなった時にそれを打ち鳴らす、という目的で造られた「鐘」もありえたのではないでしょうか。

そして信長の安土城天主の場合、そうした鐘がついに一度も鳴らなかった、となれば、それはもう言わば「天下布武の鐘」とでも言うべき代物(しろもの)が、いやおうなく想像されてならないのです。




<よもや正体不明の鐘は、天主最上階の天井裏に!?…>




そこで例えば…

スロベニアの聖マリア教会では、天井から下がる紐をつよく引くと鐘楼の鐘が鳴る


(※写真は「Yahoo!Japanトラベル」の「にゃにお」様の記事からの引用です)


「最頂上に一の鐘あり」

ご覧の写真のように、高い鐘楼の上の鐘が(下から見えないものの)ロープで鳴らせる、という形は世界各地のキリスト教会に普及したようですし、そんなものを当時、信長も日本において見聞き出来たのかもしれません。

また日本古来のものでも、四天王寺の北鐘堂(現状は昭和の再建)は天井裏に鐘をつっている例として知られます。


となれば、冒頭の内藤先生の「この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので…」という指摘は、まさに、取り付け工事中でなければ目撃できなかった鐘!…といった可能性も含むわけです。

天主が完成すればその鐘は見えず、もしも屋根裏に仕込まれたなら、説明されないかぎり存在に気付きもしないでしょうから、『安土日記』(『信長公記』)の村井貞勝らの拝見記にまったく登場しないのも無理からぬところでしょう。


そのうえ注目すべきは、問題の宣教師の書簡が「最上階」ではなく、あえて「最頂上」という訳文が当てられた報告文であったことで、そこに並々ならぬ目撃者の感慨を読み取ってしまうのは、私の行き過ぎでしょうか。




かすかに記録された「鐘」の正体は、金頂の御座の天井裏に仕込まれた「天下布武の鐘」…。

その銘文に何と書いてあったかが分かれば、生涯、説明なき言動ばかりの織田信長の本意について、いくらかでも知ることが出来ただろうに、と想像が勝手にふくらんでしまうのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。


2014年08月04日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から





続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から


往年の超大作パニック映画「タワーリング・インフェルノ」(1974年)より



こんな写真をご覧になると、やおら「タワーリング・インフェルノ」の映画音楽が口ずさめてしまう方は、私と同じ中高年世代とお見受けしますが、映画のストーリーは、実業家ジェームズ・ダンカンが世界一の超高層ビルを建てたものの、腹心の部下の手抜き工事によって、開業日に大火災をおこすというものでした。

世界一高い建物… といった話題は、どうしても“バベルの塔”的な教訓話が着いてまわるようで、映画でも消防隊長役のスティーブ・マックィーンが「今にこんなビルで1万人の死者が出るぞ」と意味深なセリフを吐きました。


ですが、そもそも旧約聖書に描かれたバベルの塔の話というのは、要するに「新しい技術で天まで届く塔を造れば、その名は上がり、そこに全人類が集住するはず」という仮定の姿であり、現実にはそうならずに、世界中にバラバラの言語を話す人々が散らばっているのは「神がそういうバベルの塔を否定したからだ」という説話(説教)になっているそうで、ちょっと驚きです。

思えば西欧の伝統ある都市の中心にも大聖堂や市庁舎があり、現在も世界各地でそういう“集客効果”をねらった高層建築が続々と出来ているわけですから、天まで届くほど階を重ねることは、単なる虚栄心とか、神への挑戦、といった観点だけでは語れない何かを、きっと含んでいるのでしょう。


前回の記事より 織田信長の岐阜城の山頂天守(最上階)についての仮説

道教の聖地・武当山(湖北省)/ その天柱峰の頂上「金頂」にある金殿


さて、前回の記事でご覧に入れた武当山については、どうしても申し添えておくべき事柄が残っていまして、それはご覧の武当山の建築群はほとんどが、かの永楽帝が特別な意図をもって大規模に修築したものだという点です。


ご存じ、先帝との闘争の末に帝位についた、明朝の第三代皇帝・永楽帝

一方、長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)




永楽帝と言えば、信長とは切っても切れない関係にあると感じられてならない人物であり、その心は過去のブログ記事でも申し上げたとおり、貴種の生まれでない武人が新機軸・新兵器で天下人(皇帝)に躍り出ると、あえて壮大な土木事業で人々を動員する古代的なパワーに熱を上げてしまうのではないか… といった共通点です。

で、まことに残念ながら、いまだに私自身は話題の武当山を訪れた経験がないため、現地の写真などはすべて中国の観光サイトから引用せざるをえませんが、とりわけ興味を引くのは、天柱峰の中腹以上の(高さ10mの城壁と四隅の天の門に囲まれた)エリアが「紫禁城」!と呼ばれていることではないでしょうか。




この武当山の「紫禁城」については、フロイスらが千畳敷から登った山中にもいつかの城門があったと記録した「岐阜城」や、そして近年、千田嘉博先生が安土山の中腹以上が厳密な意味での信長の城ではなかったかと指摘したばかりの「安土城」を、是非とも意識したうえで、次の紹介文をお読みいただけませんでしょうか。


(二階堂善弘『明清期における武神と神仙の発展』2009年より)

現在の武当山の大規模な宮観群は、明の永楽帝の命によって建てられたものである。明王朝では玄天上帝を異様とも言えるほど特別視し、そのために膨大な国費を投じて武当山の殿宇を修築した。永楽十年(1412年)に始まった工事は、ほぼ十年近く続いた。
(中略)
武当山の麓から太和宮・金殿などのある天柱峰まで登るルートは二つ存在する。一つは南岩宮から一天門・二天門・三天門から朝天宮を経て徒歩で登るルート、もう一つは、自動車などで中観まで行き、そこからロープウェイに乗って山頂まで出るルートである。
(中略)
三天門を経てさらに登ると、武当山の頂点に天柱峰があり、そこには金殿・太和宮・皇経堂・古銅殿・霊官殿などがある。
金殿は建物自体が銅で出来ているという特異な殿宇である。このような建築は、五台山などにも見られるが、膨大な費用が必要なためか、それほど多く存在するわけではない。
金殿は天柱峰の頂上に設置され、明永楽十四年(1416年)の建である。中には披髪跣足の玄天上帝像が祀られている。



これはもう私なんぞには、永楽帝のタワーリング・パレス(立体的宮殿)だろうと想像されてなりませんでして、では何故、これほど永楽帝は「玄天上帝」を特別視したのかと言えば…




上記書によれば「玄天上帝は、関帝と並んで、中国の武神を代表する神と言ってよい」「この神は四神のひとつ玄武をその源流とし」「髪はざんばら髪であり、また靴を履かずに裸足である。足の下に玄武の本体であった亀と蛇を踏みしめる場合もある」そうです。

そして永楽帝の特別な信奉については「玄天上帝の「神助」を強調することにより、自己の帝位簒奪とその挙兵を正当化すること」が重要だったろうと指摘しています。


つまり、帝位を戦で勝ち取った永楽帝にとっても、また漢民族が元朝(北の異民族)から国を奪回して築いた帝国・明にとっても、北の守護神「玄武」は特別な存在であり、それが人格神となった玄天上帝が、修行を行い昇天したという聖地「武当山」は、膨大な国費をつぎ込んでも宮観を復興すべき場所であったわけです。




さて、それはそうだとして、今回の記事で是非とも申し上げたいポイントは別にあり、それはご覧の武当山の様子と、岐阜城や安土城のグランドデザインが似ている可能性もさりながら、そのうえさらに興味深いのは <玄天上帝は六天魔王と闘った神である> という基本中の基本の伝説があることです。


第六天魔王。


!! ご承知のとおり、信長は一向宗徒らから仏敵「第六天魔王」と憎しみをもって呼ばれたものの、意外にも本人はそれを気に入っていたそうで、それは武田信玄の書状の「天台座主」という肩書きに対抗したものと解説されますが、その自虐性は信長らしからぬものです。

その点で、ひょっとしてひょっとすると信長は、自らの旗にも名を掲げた「永楽帝」が信奉した玄天上帝は「六天魔王と闘った神である」という事柄に、めざとく気づいたのではなかったでしょうか。…


いわゆる六天(欲界)の魔鬼というのは、漢民族にとっては「異民族」を意味したであろうことは間違いないでしょうから(二階堂善弘「東北の方角に出現した毒気」)、当時、衰退しつつあった明朝を突き崩しかねない実在の脅威として、六天の魔鬼はまたもや、漢民族の深層心理を寒からしめていたのかもしれません。


だとするならば、信長の「我は第六天魔王なり」(=我は異民族の大王なり?)という思い切った物言いは、武田信玄の「天台座主」に対抗したドメスティックな意味合いだけではなくて、それこそ大陸の明朝(永楽帝とその末裔)に対する挑戦状にも等しい覚悟が込められた自称であったのかもしれない… などとも思われて来るのです。

おそらく、これも信長お得意の、誰もその真意に気づかぬ“説明なき言動”であって、それは本来、信長の天主(立体的御殿)の最上階には何があったのか? という大問題ともつながるような気がして来て、なんとも落ち着きません。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。