城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2014/12

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2014年12月
 
     

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2014年12月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・豊臣秀長の遺産…“オール礎石”の石垣へ!? 城郭の「切石」普及のきっかけをめぐる夢想





“オール礎石”の石垣へ!? 城郭の「切石」普及のきっかけをめぐる夢想


産経フォト「郡山城天守は高さ20m 豊臣ゆかり、構造判明」2014年9月13日よりの引用


天下人・豊臣秀吉の弟で名補佐役と言われる豊臣秀長(とよとみのひでなが)が総石垣造りで大改修した大和郡山城において、天守台の上の発掘調査が行われ、そこから「天守」の歴史に関わる大きな発見があったことを、当ブログも話題にして参りました。

で、この天守台ですが、今回の調査報告では豊臣期(秀長→秀保→増田長盛の在城期)に築かれたものと結論づけていて、そうした中で当ブログは、天守も天守台も、初代の秀長が築いたのでなければ、その後の二度にわたる天守の(まるで改変の無い!)移築の理由が分からないため、そうした理由をさぐるシミュレーションのイラストなどをご覧いただいた次第です。


思えば、発掘調査の以前には、この天守台は豊臣期よりずっと後の時代に築かれたものではないか… 例えば元和・寛永の頃に、徳川家康の長女(亀姫)の子・松平忠明が城主だった時期(秀長の築城から約30〜50年後)などに、天守台がまるごと築き直された(もしくは石垣が張り直された)のではなかったか? という見方もありました。


もとは羅城門の礎石という言い伝えの「転用石」(天守台の北東の隅角部/下の三つ)


と申しますのも、ご覧のような切石の転用石や角の稜線を整形した石が、天守台のとりわけ北東の隅角部に集中的に積まれていて(※他の方角の隅角部は必ずしも転用石ではありませんが)その印象が、他の豊臣大名らの城の石垣よりずっと新しく見えるからでしょうか。

しかし今回の調査の結果、もしもこの天守台が松平忠明の時代にまるごと築き直されたのなら、発掘された天守の礎石の状況から、忠明はここに淀城天守にそっくりの(しかも天下人の規格と言われる柱間2.2m!の)天守を自ら再建したことになるのでしょうから、そんなことはありえたのか!?…と、これまた驚きの結論になってしまいます。

そこで、問題の隅角部の写真を、もう一度、別の観点からご覧になっていただきたいのですが…


算木積みを目指した感のある上部の石と、とても算木積みにはなりえない下部の転用石


【ご参考/切石による算木積みの例】駿府城の本丸堀で発掘された石垣

その発掘当時の写真 →隅角上部の三〜四石の完璧な「切石」に対して、

下方の矢穴のある二〜三石は慶長の天下普請とも…(=秀長の築城の約20年後)



このように「算木積み」と「切石」という観点から、問題の大和郡山城の天守台を見直してみますと、結局、新しいとも古いとも言えないと申しますか、少なくとも、ご覧の駿府城の石垣に比べれば、駿府城の上部の隅角部のような「完璧な切石による算木積み」には到達していない、新旧が混在した、まことに過渡的な状態である、と申し上げてよいのでしょう。


では、転用石ではない「自前の切石」を初めて使用した城はどこだったのか? と考えてみますと、おそらくは(上の駿府城の写真のように)石垣の隅角部だけに「切石」が入った、部分的な切込ハギが最初であろうとは思うものの、先生方の解説書等を読んでみても、どの城が最初だったかは、今ひとつハッキリしません。

例えば加藤理文先生は「文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い後の大名の配置替え、徳川・豊臣の対立により、石垣構築技術は格段に進歩するが、「より高く、より強く」という基本的志向が変化することはなかった。このころ、規格加工石材が使用されるようになり、さらに隅だけに完全加工を施した切込ハギも登場する」(『よみがえる日本の城25』)といった説明をされています。

またつい先日も、「太閤なにわの夢募金 豊臣石垣公開プロジェクト」が共催した歴史講座「地下に眠る豊臣大坂城の石垣を探る」において、玉野富雄先生(地盤工学)が「豊臣期石垣と徳川期石垣の構造論」というお話をされたようで、大阪城は徳川期の石垣が、算木積みが切込ハギで平石部が打込ハギという形になり、徳川期に最高技術レベルに達したことを強調されたそうです。


徳川幕府が修築させた大阪城の高石垣 / 算木積みだけが「切石」で統一されている

同じことは徳川の二条城天守台(寛永度)などのほか…

幕府の本拠地・江戸城では「そこだけ御影石の切石」でコントラストが強調された


ご覧のような状態は、現代人の我々にとって、どこか“当たり前の風景”になっていて、算木積みに「切石」が入っていることは、強度的にも、美観上の費用対効果からも、十分に納得できる、まったく違和感の無い手法として感じています。


ですが、ですが、慶長後期から寛永期のその当時、自然石や割り石の算木積みが「切石」の算木積みに比べて強度的に(明らかに)劣っているという人々の認識や、「切石」の普及をうながす具体的な事故などがあったかと言えば、そういう話は、なかなか聞いたことが無いのではないでしょうか。…

つまり、何を申し上げたいかと言うと、おそらくはその頃、誰かが率先して「切石」を算木積みに使って見せたことから、全ては始まったのであって、どこかの(大名家や石垣職人らの)研究や検証の末に「自前の切石」が城の算木積みに試験採用された、などという懇切丁寧なプロセスでは無かったはず… という、ちょっと強引な見立てをしてみたいのです。





<大和郡山城天守台の隅角部も、徳川家康が自らの城に“継承”したのか??

 我が国の城に「切石」が普及したきっかけをめぐる 夢想その2>






【ご参考】大和郡山城の築城から約千年前、岩屋山古墳(明日香村)に積まれた精緻な切石!

(※ご覧の写真はサイト「Panchoの新・飛鳥路巡り」様からの引用です)


大和の国と言えば古墳の多い地域でもあり、大和郡山城は石垣に、礎石、墓石、供養塔、石仏、臼、燈籠、石棺など、数多くの「転用石」が使われていることでも有名です。

ちなみに「転用石」というのは、侍たちの生死を分けた城郭において、どうして墓石のような“縁起でもない物”を使ったのだろうか? という素朴な疑問が付きまとうわけですが、その動機としては「まじない」「霊力」といった指摘もされたものの、近年では「寺社勢力に対する徴発」という意味合いの説明が強調されているようです。

そして豊臣秀長は大改修の際に、領内の家々に石の供出を命じたため、人々が争って石をかき集め、騒動になったことが知られています。




そんな中で、この問題の隅角部も築かれたのなら、ここはひょっとすると「伝羅城門礎石」だけでなく、その上の石についても、石質は違うものの、いくつかは「転用石」ではないのでしょうか!? (しかも矢穴による割り石の技術は鎌倉時代からあるそうですし…)

その辺がもしもはっきりすれば、この天守台をまるごと秀長時代の築造と考えても不都合は無いことになるのでしょうし、現状と同じ姿を、徳川家康も目撃していた可能性は高まるでしょう。

さらに、豊臣秀長に仕え、大和郡山城に関連した人物としては、当ブログに何度も登場した籐堂高虎や中井正清、そして小堀遠州の父・正次もいて、そのため遠州自身は、父の正次が秀長・秀保・増田長盛の三代の城主に仕えたことから、幼少期を大和で過ごし、なんと10歳!で大和郡山城に登城した記録もあるのだそうです。


小堀遠州


その遠州のデザインとして、世界的に有名な孤篷庵(こほうあん)の延段(のべだん)

切石の直線(直角)と自然石の丸みとのダイナミックな組み合わせ




これも遠州の発案、天授庵の方丈前庭(東庭)/写真はウィキペディアより



【小堀遠州の略年譜】

天正7年(1579)/近江国坂田郡小堀村(現:長浜市)に生まれる。

天正13年(1585)7歳/大和郡山城主となった豊臣秀長に従って、父・正次とともに大和に移住する。

天正16年(1588)10歳/大和郡山城に登城し、秀長の屋敷ではじめて千利休に会い、翌日は豊臣秀吉の茶の給仕に出る。

文禄2年(1593)15歳/新城主の豊臣秀保が、600石を父・正次の知行から遠州に割譲するよう命ずる。

慶長元年(1596)18歳/伏見六地蔵に設けた自邸に洞水門(水琴窟)を工夫し、師匠の古田織部を驚かす。

慶長2年(1597)19歳/籐堂高虎の養女(豊臣秀次家臣・籐堂嘉清の娘)を正室として迎える。

慶長5年(1600)22歳/父・正次、徳川家康に従い小山へ出陣、続いて関ヶ原合戦に参戦。12月、正次が1万5千石を拝領し、備中国奉行として備中松山へ赴任。遠州も同道する。



ということで、遠州は7歳から22歳まで、大和郡山城とは付かず離れずの状態で生活していたわけでして、とりわけ10歳で登城した時に、城内のいたる所に「切石」の転用石が埋まっている石垣を見ただろうことは、まず、間違いないのではないでしょうか。


遠州の代表的な作庭、切石で池泉を囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※この庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)


遠州が庭を完成させた当時の絵図 …直線・直角と自然の山水の風景とのコラボレーション


……ご覧の世界的に有名なデザインについて、これも実は“秀長の遺産”だったのでは? などという戯言を口にしてしまうのは、本当にマズイことなのかもしれませんが、正直申しまして、今回のような夢想をあえて申し上げてみたいと思った動機はここにあります。


以上のように、今回の“夢想その2”で申し上げたかったのは、大和郡山城の「転用石」は人々に色んなインスピレーションを起させたのかもしれず、とりわけ問題の天守台の隅角部は、これまた家康に強い印象を残したのではなかったか? という点なのです。


宮上茂隆先生による二条城天守の復元案


そこで私なんぞは、(もはや幻ではない)家康の二条城天守の天守台には、きっと家康の記憶の中の「あの転用石」に似せた!!!「自前の切石」が、我が国の城で初めて、算木積みに使われたのではなかろうか…… などと、まことに手前勝手な夢想をふくらませているわけです。


二条城二ノ丸の北部 / 家康の天守跡と思われる周辺の微妙な地面の盛り上がり

冒頭から問題の隅角部分(下の三石が「伝羅城門礎石」)

例えば、その約70年後に築かれた江戸城の現存天守台…


ですから、全国の城に「切石」が普及した最初のきっかけが、本当に、秀長の大和郡山城の“問題の隅角部分”にあったのだとしたら、ご覧の江戸城の状態には“これは、オール礎石の天守台か!?” なんていう冗談も飛ばしたくなるのです。…

要は、物事は、何がきっかけになるか分からない、ということで。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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