城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2015

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2015年12月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!正確な極楽橋の描写は、瓦葺きではなく、総「檜皮(ひわだ)」葺きで描いた方か






正確な極楽橋の描写は、瓦葺きではなく、総「檜皮(ひわだ)」葺きで描いた方か


〜秀吉時代の大坂城に架かっていた特別な建造物「極楽橋」〜

YOMIURI ONLINE 中部発「図解 天下人の城」より引用/絵:富永商太/監修:千田嘉博




前回の記事では、オーストリアの大坂図屏風にある「極楽橋」の豪華な描き方の“隠れた由来”について申し上げましたが、やはりあの屏風絵のインパクトは大きかったようで、例えば2015年に千田嘉博先生が注目すべき指摘を行った <YOMIURI ONLINE 中部発「図解 天下人の城」権威象徴する極楽橋> のイラストもまた、基本的にオーストリアの屏風絵にならったものでした。

そしてこれ以外でも、昨今では諸誌を飾るCG等で豊臣大坂城の「極楽橋」が登場すると、これでもかっ! というほどの、ものすごい豪華版が描かれるようになったのはご承知のとおりで、こうした状況はぜんぶ、オーストリアの屏風絵とその解釈による結果なのでしょう。そして、あろうことか…


すべて! 瓦葺きの「極楽橋」まで登場―――

NHK「歴史秘話ヒストリア 古城に眠る秀吉の“Beobo”」平成21年放送より引用




NHKは私も長いこと出入りして来た局ですので、あまりケチをつけるような事をしたくはありませんが、さすがに、この映像を観た時は「ぁ……」と力の抜ける思いがしました。

何故こんな風に申し上げるかというと、長い間、極楽橋を描いた絵画史料といえば、以下の写真の大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」や大阪歴史博物館蔵「京・大坂図屏風」のように、総檜皮(ひわだ)葺きで描いたものしか知られていなかったところに、オーストリアの屏風絵の“瓦葺き”が発見されるや、たちまち状況が一変してしまったからです。

思いますに、檜皮葺きと瓦葺きの間には、けっこう大きな意味の違いや景観年代の問題も付随するでしょうから、この件を、そう易々と断定することは出来ないはずです。



<<対照的な「極楽橋」の描き方>>

総檜皮葺き
で描いた古風な二例=「大坂城図屏風」と「京・大坂図屏風」
VS
瓦葺きを取り入れた豪華なオーストリアの「豊臣期大坂図屏風」




で、前回も申し上げたとおり、当時の人々を驚かせた豪華な廊下橋というのは、「極楽橋」に関する記録ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」の方だ、という動かしがたい文献上の“事実”があります。

この際、是非とも申し上げたいのは、現在の「極楽橋」をめぐる無用な混乱をおさめるためにも、オーストリアの屏風絵の解説でよく引き合いに出された「1596年日本年報補筆」の全文を、一度、じっくりと読んでみて下さい。

そうすれば、そこで「政庁」と何度も書かれた建物が「千畳敷」に他ならない!! ことは、だれにでも分かるような文章になっているのですから、当然、そこへの「通路」として架けられた廊下橋は「千畳敷に付設の廊下橋」でしかありえないはずなのです。――



【ご参考】

(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

堺から三里(レーグア)隔たり、都に向かう街道に造られた大坂の市には、民衆がその造営を見て驚嘆に駆られるように、太閤の宮殿と邸に巨大な装置ができた。(太閤は)その政庁に千畳の畳(それは非常に立派な敷物の一種である)を敷き、それをダマスコ織と全絹の黄金色の縁で覆うよう命じたが…(中略)

デウスはこのように豪壮な造営における、かくも空しい誇示を本年 懲らしめ給うたように思われる。なぜなら大坂では豪雨のため政庁が支えられていた一方の壁面が崩壊したからである。この崩壊によって政庁に少なからぬ傾斜が伴った。しかし太閤はいっそう熱をあげて気をもみ…
(中略)

(太閤)はこの政庁の前の非常に美しい広場に狂言を上演するために舞台を構築するよう命じたが、その舞台の両脇に、或る程度の間を隔てて三、四層造りの二基の櫓を(構築したが)、その一基は降り続く雨のために、長く保たずして転倒し…
(中略)

(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。その小櫓には…




という最後の部分に続くくだりが、「豪華」説の紹介でさんざん引用された部分でありまして、このとおり、何度も申し上げて恐縮ですが、豪華なのは「極楽橋」ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」の方なのです。

(※「政庁の前の非常に美しい広場」とはきっと桜の馬場のことなのでしょう)

(※さらに追記:この「極楽橋」の豪華さをめぐる混乱の背景を皆様にお解りいただくために、勇気をもって追記いたしますと、この1596年=慶長元年に造営された廊下橋を「極楽橋」だと断定する「慶長元年説」を主導した北川央先生が、昨年から大阪城天守閣の館長に就任しております。北川先生は年齢で言えば私の一歳年下だということに免じて書かせていただきますと、先生は大阪城天守閣の言わば叩き上げの学芸員として活躍して来られた方ですが、得意な分野は織豊期の政治史や庶民信仰、大阪の地域史だそうで、絵画史料の分析でも権威とされています。ただ、私のような「城」にドップリの城郭マニアとは、興味や観点=城郭研究の先人達に対する思いが、やや違うのかもしれない… つまり、1596年に造営された廊下橋は「極楽橋」ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」であるとした櫻井成廣先生や宮上茂隆先生の業績を尊重する気持ち → 旧説の城郭論を否定するのならせめてその論拠を城郭論で示す姿勢が、やや違うのかもしれない… というあたりが、昨今の混乱の背景にあるのではないでしょうか?)

ということで、今回は、より正確な「極楽橋」の描写はどちらなのか? というテーマで、当サイトなりの解釈を申し上げておきたいと思うのです。




<「極楽橋」が“瓦葺き”だという文献を見ると>




(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け…


という風に、先ほどの1596年日本年報補筆には「鍍金した屋根」とだけ書かれていて、ここでは特に屋根の材料は限定されていません。(→柿葺きや檜皮葺きでも垂木に「金具」をあしらうケースはありますので…)

では、どこから“瓦葺き”という話が具体的に出て来るのか? というと、前回の記事でも挙げた「千畳敷に付設の廊下橋」のもう一つの記録の方に、それが登場するのです。



(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より/※細字だけ当ブログの補筆)

城外には湟(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)りにして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱 欄干 甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。



と、こちらの記録で「鍍金したるを瓦を以て屋を葺き」という風に、はっきりと“瓦葺き”と明言した形になっていて、この記録が千畳敷に付設の廊下橋のことであるのは誰の目にも明らかでしょう。

しかも絶対に見逃せないポイントは、最後の「此の如き結構は世に類なしと云へり」という部分でありまして、つまりは、この千畳敷に付設の廊下橋こそ、当時の日本はおろか世界的な観点で見ても、地球上で最も豪華な橋であろう、と記録したことになる点です。

ということは、もちろんそれは「極楽橋」よりも豪華であったはずで、この際、城郭論の立場から考えてみますと、豪華さ(→明国使節の目を驚かすこと)が「極楽橋」の命ではなかったはずであり、極楽橋が極楽橋たりえた最大の要件というのは、もっと別のところ―――それは、大坂城本丸から“北”に向けた出入口、すなわち都の朝廷を意識した出入口、という点にあったはずではないのでしょうか?




<そもそも「極楽橋」は誰が渡る橋だったのか??

 →それを本丸の搦め手(からめて)門や臨時の大手門とする諸説の限界>





ここで冒頭の、千田嘉博先生の注目すべき指摘について、改めてご紹介する必要があると思うのですが、そのYOMIURI ONLINEの記事には、

…天下人とそれに準じる大名の城には、さらにある重要な建造物があった可能性がある。「極楽橋です」と、千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は言う。(中略)千田さんは「官位で大名を序列化した秀吉は、権威を象徴する特別な施設として、極楽橋を架けさせたのではないか」と言う。…

とありまして、千田先生の関心もやはり豊臣関白政権を支える「権威」の一環としての極楽橋にあるようです。

であるならば、いったい「極楽橋」とは誰が渡る橋だったのでしょう?




その疑問について同記事には言及が無いため、まことに手前味噌ながら当サイトの大坂築城当初の想定をご覧いただきますと、図のように本丸北部の表御殿には「主門(礼門)」と「脇門」という二つの門があったはず、と考えております。

これらは足利将軍邸の門の形式を意識したもので、まさに築城当初から! こうした形が採用されていたという想定であり、ちなみに千田先生も著書の中で、洛中洛外図屏風に描かれた足利将軍邸を、以下のように解説しておられます。


洛中洛外図屏風(歴博甲本)の足利将軍邸



(千田嘉博『戦国の城を歩く』2003年より)

…館の正面には平唐門形式の礼門(らいもん)とよぶ正式の門と、四脚門形式の日常の通用門という二つの門があったことも見てとれます。

礼門は将軍のお出ましなど特別なときしか用いませんでした。ちょうどこの「洛中洛外図屏風」が描いた「将軍のある日」は特別な日ではなく、正式の門(向かって左側)は門扉が閉じたままでした。将軍は館にいるのでしょう。

日常使いの通用門は戸が開いていて、人びとが出入りできました。正門と通用門との違いも意図的にしっかりと描き分けています。



といった足利将軍邸の門の形式を、豊臣大坂城の表御殿も踏襲していたはず、というのが当サイトの基本的な考え方でありまして、ですから「極楽橋」というのは、本丸の搦め手門でも臨時の大手門でもない、最初から渡れる人物を厳しく限定した“特別な門”に直結した廊下橋なのだろうと思うのです。


当サイトの2010年度リポートより

築城当初(輪郭式の二ノ丸の造成前)を推定した略式イラスト


淀川に通じた舟入堀から入城すれば、極楽橋を経て表御殿に…



(※ご覧のうち極楽橋の望楼の屋根が薄青色なのは描画の都合ですのでご容赦を…)


そこで豊臣大坂城の「極楽橋」に限って申しますと、それは本来、城主の羽柴(豊臣)秀吉よりも高位の人物を迎えるための橋であった、と考えても良いのではないかと思われますし、千田先生が指摘された大大名らの「極楽橋」は、そうした大坂城の用法にならって、天下人・秀吉を各城に迎えるための御成り橋であった、と考えてみても良いのではないでしょうか。


で、そのうえに付言させていただくなら、そうした「橋」が築城まもない豊臣大坂城に必要とされたのは、やはり豊臣関白政権の異例の成り立ちや、かの「大坂遷都計画」の推進との関わりを、どうしても考えざるをえないように感じるのです。!!



檜皮葺き「勅使門」の一例、大徳寺・勅使門(創建は慶長年間)

宇佐神宮の呉橋(創建は鎌倉時代以前/これも勅使を迎えるための屋根付き橋)

そして何より実際の「極楽橋」そのものの現在の姿、宝厳寺・唐門

(※上記3写真はいずれもウィキペディアより)


ご覧の門や橋はもうよくご存知のものでしょうが、改めてこのように並べてみますと、総檜皮葺きの「極楽橋」というのは、大坂城の本丸から内裏移転候補地の天満地区に向けて、さらには京の都に向けて北向きに架けた廊下橋だった、という理解が深まる感がして来ますし、完成直後の「極楽橋」はまさに朝廷からの勅使(=大坂遷都の吉報!)を待っていたのではなかったでしょうか。


再びオーストリアの「豊臣期大坂図屏風」より

極楽橋の先、淀川の流れの先には、京の都が。…






かくして、オーストリアの屏風絵の極楽橋の方は、言わば <情報の折衷(せっちゅう)案> として、絵師が独断で瓦葺きと檜皮葺きの両方をとり入れて“作画”したもののように見えて来ますし、ましてや、この極楽橋をよーく見ると、その前には魚をのせたまな板をもつ庖丁師ら?が描かれていて、この廊下橋はいったい何なのか=超豪華な家臣の通用門!??…という、絵師の無謀な画面操作が暴露されているかのようです。

……以上のごとく、「極楽橋」とは一言で言えば、秀吉の政権構想のあらわれであり、総檜皮葺きこそが「極楽橋」にふさわしい屋根の意匠と思えてなりませんし、そういう考え方の裏側では、極楽橋を本丸の搦め手門や臨時の大手門としか(構造的に)扱えない諸説の“限界”が露呈していると思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年12月11日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!前回記事の部分訂正=「文献どおりの豪華さ」は極楽橋ではなくて千畳敷に付設の廊下橋のはずなので…






「文献どおりの豪華さ」は極楽橋ではなくて千畳敷に付設の廊下橋のはずなので…


極楽橋を“より豪華に”描いたオーストリアの大坂図屏風(本丸周辺のみ)


前回の記事では、ご覧の屏風絵の“天守の描き方”をめぐって色々と申し上げましたが、その文中において「極楽橋」に関して、その豪華な描き方が「正確である」かのように書きました。

しかしそれは、絵師が「情報を取り違えながらもその内容どおりに忠実に描いた」という意味であって、極楽橋の描写としては決して「正確」だとは考えておりませんので、今回は、そうした前回記事のつたないニュアンスを反省して訂正しつつ、そこでなおも深まるオーストリアの屏風絵に対する疑問を、補足させていただくことにします。



「千畳敷に付設の廊下橋」を紹介した宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』(1984年)

同じく「千畳敷に付設の廊下橋」がある櫻井成廣作・豊臣大坂城模型


さて、極楽橋の問題は4年前の記事(1)(2)でも取り上げましたが、ご覧の著書や模型の宮上茂隆先生や櫻井成廣先生など、往年の先生方は、『イエズス会日本報告集』『日本西教史』にある豊臣秀吉が晩年に大坂城内に造営した廊下橋というのは、極楽橋ではなく、上記のような千畳敷に付設の廊下橋のことだと解釈され、私なんぞもそれで間違いないものと確信しております。

そう考えざるをえない理由は、過去の記事の中でいくつも申し上げましたが、決定的なのは、文献にある橋の長さ「十ブラザ前後」=22m前後=約11間では、現実の極楽橋の半分くらいにしかならず、それではとても水堀を渡りきれない!! という点でしょう。


【ご参考】中井家蔵『本丸図』の極楽橋の周辺



【ご参考】

(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。
その小櫓には、四角の一種の旗幟〔長さ八〜九パルモ、幅四パルモ〕が鍍金された真鍮から垂れ、また(小櫓)には鳥や樹木の種々の彫刻がかかっている。(小櫓)は太陽の光を浴びるとすばらしい輝きを放ち、櫓に新たな装飾を添える。

(橋の)倚りかかれるよう両側の上方に連ねられた欄干は、はめ込みの黄金で輝き、舗道もまた非常に高価な諸々の装飾で鮮明であり、傑出した工匠たちの手によって入念に仕上げられたすばらしい技巧による黄金塗りの板が介在して輝いていた。

そこで堺奉行(小西ベント如清)はこの建物について話題となった時、我らの同僚の某司祭に、(その橋は)十ブラザ前後あるので、黄金と技巧に一万五千金が注ぎ込まれたことを肯定したほどである。




(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より/※細字だけ当ブログの補筆)

太閤殿下は頻(しき)りに支那の使者を迎ふる用意を命じ、畳千枚を敷るゝ程の宏大美麗なる会同館を建て、(中略)其内に入れば只金色の光り耀然たるを見るのみ。
城外には湟
(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)にして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱 欄干 甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。



ということでして、この二つの文献が伝えたのは、「極楽橋」としては明らかに短か過ぎる!!別の廊下橋であり、それはやはり豊臣大坂城の本丸南側に架けられた「千畳敷に付設の廊下橋」なのでしょう。

したがって、オーストリアの屏風絵で極楽橋がひときわ豪華に描かれたのは、必ずしも“正確な描写”と言えるものではなく、これもまた絵師の努力と工夫(→情報を取り違えつつも忠実であろうとした真摯さ)がもたらした表現なのだと理解せざるをえません。


この屏風の絵師については、17世紀中頃に活躍した京都の町絵師だろうと言われていますが、その町絵師が参考にしたと言われる<原画>の絵師も、これまた、ひょっとしますと、様々な資料を集めて作画を行ったのかもしれず、その絵師さえも豊臣大坂城を実際には見ていなかった!? 可能性がありうるのではないでしょうか。

……となれば改めて、やはり、と感じる、以下のごとき“画面構成の操作”が透けて見えるのです。








<天守の右側、極楽橋との間にある「小天守」風の三重櫓の正体は…>




ちょうど前々回まで、江戸城の元和度天守が大・小天守による連結式ではなかったか、という話題を続けて来ただけに、ご覧の天守も連結式(…前回記事の流れで言えば二条城の慶長度天守を意識したもの?)と早合点しそうですが、そう話は簡単ではないようです。

そもそも、描いたのが豊臣大坂城そのものであれば、こんな場所(本丸の北東隅?)に小天守風の三重櫓などあるはずがありませんし、そのせいで天守と極楽橋の位置関係がちょっとおかしいことを含めて、この屏風絵の本丸の描写には、かなりの混乱が見て取れます。

で、これに比べますと、例えば大阪歴史博物館蔵の「京・大坂図屏風」に描かれた豊臣大坂城の本丸などは、建物の配置にある程度の信憑性(しんぴょうせい)があるように思われます。


京・大坂図屏風(部分)…モノクロ写真で恐縮ですが…


ご覧の本丸は、西(北西)から眺めた景観であり、しかもここには前述の「天守の右側、木橋との間にある小天守風の三重櫓」と言えなくもない! ひときわ目立つ三重櫓が描かれています。

このちょっと意外な符号はどういうことなのか、当サイトが想定する(築城当初の)豊臣大坂城の本丸北部「表御殿」周辺の建物配置を、ご参考までにお目にかけますと…






どうでしょうか。このようにご覧になれば、この「京・大坂図屏風」の建物配置にはある程度の信憑性がありそうだ、と考える当サイトの立場にも、幾分かのご理解がいただけますでしょうか。


したがって、これらは同じ櫓(上記「三重菱櫓」)を描こうとしたのでは??


といった以上の見方を、さらに突き詰めますと…




まさにご覧のごとく、京・大坂図屏風とオーストリアの屏風絵は言わば“パズル”のような関係にあったのかもしれず、両者の違いとしては、オーストリアの屏風絵では屏風全体の“北(北東)から眺めた景観”に合せるため、判りやすい「記号」としての極楽橋が、本丸の北側(=正面側)にコンバートされていることが分かります。

こうなると「記号」として極楽橋は、とびきり豪華に(必要以上に?)描かざるをえなかったわけでしょうし、本丸内の描写の基本的なレイアウトを踏襲した以上は、画面の構成上、極楽橋だけの“単独移動”が不可欠であった、という絵師の事情がここに透けて見えるのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年11月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影 ?






オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影?




先日、NHK番組の「ハイビジョン特集 新発見大坂図屏風の謎 〜オーストリアの古城に眠る秀吉の夢〜」(初回放送2009年)の再放送が深夜にありまして、たいへんに遅ればせながらも、この機会をとらえて、この屏風にある“大坂城天守の描写のナゾ”について申し上げておきたいと思うのです。


2006年にオーストリアで発見された「豊臣期大坂図屏風」(部分)


もう良くご存知のことでしょうが、ご覧の屏風は、記録では17世紀後半にはオーストリア南部のエッゲンベルク城に収蔵され、その後に城内の「日本の間」の壁面に貼り付けられて、そのまま今日に至ったものです。

そして当地の博物館学芸員や大学教授から相談を受けた高橋隆博先生らによって「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城とその城下を描いた絵」と鑑定され、話題になりました。

当時のニュース報道は「どうしてオーストリアの古城に?」という意外性に焦点が当てられ、1640年代前半(=寛永年間)にオランダ東インド会社が長崎の出島から何十点かの屏風を輸出した経緯があることから、そのあたりの時期に描かれ、ヨーロッパに渡ったのだろう、などと報道されました。


で、ご承知のとおり、この絵には華麗な「極楽橋」が描かれ、天守は「望楼型」であり、豊臣大坂城に特有の巨大な「馬出し曲輪」もあるため、描かれたのは豊臣秀吉や秀頼の頃の大坂城と思われるのに、人物の顔の描き方などは、京都の町絵師による「洛中洛外図屏風」と同系統のものだそうで、そうなると制作は江戸時代の17世紀中頃になってしまう、という点(制作年代と景観年代のズレ)が大きな謎だと言われました。

そこで、おそらくは、より古い豊臣全盛期に近い頃の屏風を手本にしながら、17世紀に改めて制作された屏風なのだろう、と推定されています。


同屏風に描かれた大坂城天守


―――という屏風絵ですが、「極楽橋」の文献どおりの華やかさ(=正確さ)に反して、最近では、ご覧の天守の描き方が、他の豊臣大坂城天守の描写に比べて色々と相違点のあることが、やや問題視され始めています。

と申しますのは、天守の最上階には高欄廻縁があって「望楼型」らしき様子があり、その天守にシャチ瓦が無い!! のは豊臣大坂城らしい特徴ではあるものの、以下の白壁に黒い柱を見せた「真壁づくり」の建物として描かれた点は、他の絵画史料(=多くは天守の全体が黒っぽく、おびただしい金具や金箔瓦、金色の紋章群が光り輝く印象)とは、ずい分とかけ離れた描き方になっているからです。

(※ちなみに、豊臣大坂城天守を“白い天守”で描いてしまった例は、出光美術館蔵の大坂夏の陣図屏風など他にもありますが…)


そして、そういう壁面とは打って変わって、まるで小倉城天守の「黒段」のごとき真っ黒いだけの最上階はどういうことなのか?(→「黒段」は戸袋や雨戸を黒塗りしたものですから高欄廻縁とは矛盾する!)という不思議な点もあります。

さらに申せば、ご覧の天守は二重目の屋根に「唐破風」が描かれていて、<天守の下層階の妻側にある唐破風>となると、私なんぞは思わず(当サイト仮説の駿府城天守など)小堀遠州が関与した徳川の城の天守群を連想してしまい、これは徳川の天守か??と叫びたくなってしまう方なのです。…


豊臣大坂城天守の描き方の代表例 …大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」より


むしろ、こちらの方がそっくり!?

左側は京都国立博物館蔵「洛中洛外図」に描かれた徳川の二条城天守(慶長度)




!!! 左右の絵をじっくり見比べてご覧になればお判りのとおり、オーストリアの屏風絵の天守は、実は、様々な点において、徳川の天守(とりわけご覧の二条城天守)を描いた事例にたいへん近い表現がなされている、ということが言えるのかもしれません。

……となると、様々な相違点を抱えた天守の“ナゾの描写”はいったい何に起因したのか、この際、思い切った想像をめぐらせてみたいと思うのです。



豊臣大坂城の落城を伝えた最古のかわら版(大阪城天守閣蔵)


そこで、屏風絵の背景をさぐるうえで私なんぞが注目したいのは、豊臣大坂城が大坂の陣で落城し、徳川による天下の支配が加速していくなかで行われた、いわゆる“豊臣残党狩り”です。

例えば大坂陣の直後ですと、宣教師が記録した「京都から伏見に至る街道に沿ふて台を設け首級をその上にさらしたが、その台は十八列あり、ある列には千余の首が数えられた」という話が有名ですが、残党狩りの対象は幅広い人々に及んだようで、狩野派の絵師・狩野山楽なども、豊臣家との関わりがあって追及を受けたことが知られています。

そうした豊臣残党狩りがいつまで続いたのかと言えば、豊臣方のキリシタンの猛将・明石全登が消息不明のままであった中で、やがて島原の乱(寛永14年1637年勃発)が起きると、時の将軍・徳川家光は、改めて大規模な「明石狩り」を命じたことが知られています。


つまり、今回話題のオーストリアの屏風絵が描かれたとされる17世紀中頃というのは、そんなキリシタン鎮圧や豊臣残党狩りの余韻がまだ世の中にただよっていた頃のはずです。


何を言いたいのかと申せば、この屏風は、いよいよ徳川の支配が定まる頃の、ある種の虚無感のなかで、あえて豊臣全盛期の大坂城を描こうとした(意図はそうとうに挑戦的な)屏風であった、という点なのです。
それを考えますと、様々な相違点を含んだ天守の描き方についても、その動機が見えて来るのではないでしょうか?


なぜ天守だけが徳川風なのか…


結論から申しまして、この屏風の全体は、華麗な「極楽橋」がより正確に描かれた点などを考慮しますと、やはり高橋先生らの鑑定どおりに「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城」を描こうとしたことに間違いはないのでしょう。

ただし、先ほど申し上げた当時の世情と、天守だけが部分的に徳川風であるという矛盾点は、こんな可能性も示しているのではないでしょうか。


すなわち、挑戦的な画題ではあったものの、イザという時の危険回避のために、天守だけは徳川風の描写… 例えば前出の二条城天守とか、または寛永年間に再建された二条城天守や大坂城天守などの明らかな特徴を、巧妙に、ずい所に採り入れて描いたのではなかろうか? という可能性です。(例えば白壁、真壁の柱、唐破風…)


いつものごとく考え過ぎ、と言われてしまうのかもしれませんが、こんな手前勝手な見方で改めて屏風絵を見直しますと、この屏風が結局はオランダ商人に転売されたことや、前述の小倉城天守「黒段」に似た最上階の描写についても、まったく次元の異なる経緯によるものと思えて来てしまうのです。


これは、屏風を売却する際に、墨塗りで“危険な何か”を塗りつぶした跡!? なのでは…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年11月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!議論があった<江戸城の表門は半蔵門>説との関連で申せば…






議論があった<江戸城の表門は半蔵門>説との関連で申せば…


武州豊嶋郡江戸庄図(都立中央図書館蔵)をもとに作成


近年、<江戸城の表門は半蔵門>だという新説が話題になりましたが、これは竹村公太郎著『土地の文明』2005年や、同じくPHP文庫『日本史の謎は「地形」で解ける』2013年の刊行で幅広い層に知れわたったものでした。

しかしこの新説は、歴史好きやお城好きの人ほど、賛同者は多くなかったようで、それはご覧の寛永年間の江戸図のごとく、海側の大手門を城の正面とする根強い見方があり、それをくつがえすほどの説得力は無かったからでしょうか。

これに関しては私なんぞは、江戸の成り立ちと言うと、かつて鈴木理生先生が指摘した <寛永頃までの江戸は、オランダ流の手法に似た、海を埋め立てて造成した港湾都市であり、そのためオランダ東インド会社の本拠地・バタビアと非常によく似ている> という話の方をまず思い出してしまいます。


【ご参考】江戸にも、バタビアにもあった「八丁堀舟入り」

図19B(バタビアの絵図/鈴木理生『幻の江戸百年』より引用)



(鈴木理生『幻の江戸百年』1991年より)

図19Bはモンタヌス著『日本遣使紀行』(アムステルダム版、一六六九年=寛文九年刊)中にあるバタビア港である。
この一六一九年(元和五年)に建設された、オランダ東インド会社の本拠地の都市プランは、江戸と非常に似ている。

海岸に突出した「八丁堀」。そのつけ根の部分に、幕末に函館に築かれた五稜郭に似た、四稜の砲台があり、市内に縦横にめぐらされた水路と街郭は、江戸の河岸地帯を想起させる。

「八丁堀」の下に激しく砲煙をあげている帆船がみられるが、「八丁堀」の効果は、その砲撃が市街地を直撃するのを防いでいる。

(中略)
わざわざ江戸と赤道直下のバタビアの比較をしたのは、この時代の港湾都市には非常に共通する事柄が多いことを、この機会に再確認しておきたかったためである。

なお、バタビアとは現在のインドネシア共和国の首都ジャカルタの古名である。



鈴木先生の指摘はお読みのとおりでして、海と江戸城と言えば、当ブログでも、太田道灌の江戸築城の頃にさかのぼれば、海寄りの平川に架かる「高橋」のあたりが、舟運の荷揚げ地として城下の中心であったことに触れましたし、また徳川家康の江戸城についても、豊臣政権下では、東アジア制海権「城郭ネットワーク」の一翼をになう城であったはず、などという仮説を年度リポートで申し上げたりもしました。

やはり江戸にとって「海」は城の生命線をにぎる重要な存在であり、そのため海側が主要な城下であり、東海道も通りますし、そちら側に城の「表門」が無ければ、色々と不都合が多かったことでしょう。


ですから冒頭の<江戸城の表門は半蔵門>という新説は、とても言葉どおりに納得できるものではありません。

とは言うものの、大手門と半蔵門でどちらが表門か?と問うよりも、それぞれに“別次元の目的を持った正面口”だった、という風にでも考えますと、このところ申し上げている「元和度天守」と、思わぬ関係性が見えて来るのです。…




<名古屋城、八代城、元和度の江戸城…「連結式天守」の正面はどちらなのか?>




小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

※注:冒頭の武州豊嶋郡江戸庄図とは上下(=東西)を逆にして見た状態です。


さて、当ブログでは「元和度天守」はご覧のような連結式天守ではなかったか、との仮説を申し上げて来ました。

その賛否はひとまず脇に置くとしまして、そもそも連結式天守……大天守と小天守が一基ずつの連結式天守は、いったいどの面が「正面」になるのでしょうか??


おそらく名古屋城天守の場合がどなたにも想起しやすいと思いますので、例に挙げますと、大天守の入口は南の小天守と向き合う側にあり、そちらを「正面」とするのが順当でしょうが、見た目では小天守が重なってしまい、いま一つという感がぬぐえません。

ちなみに“天守が層塔型であれば「正面」は関係ない”とのお考えもありましょうが、例に挙げました名古屋城や八代城は、立地が本丸の北西隅!!であり、防御上の力点が東西南北でかなり差のある状態になっていて、そういう意味では単純に“四方正面”とは言い難い状態です。


ですから、そうした連結式天守には、一応の「正面」が想定できるはずだと思うのです。



望楼型天守(犬山城)にみる「内正面」と「外正面」


そこで、ご覧に入れた図は6年前の記事でお見せしたものですが、これは望楼型天守には明らかに「正面」があり、その中でも、天守の立地場所に応じて「内正面」(=味方、本丸や城内側)と「外正面」(=仮想敵、他国との境界側)とでも言うべき二つの正面があったはず、という仮説を図示したものです。


織田信長時代の岐阜城の推定


さらにご覧に入れたこの図も5年前の記事でお見せしたものですが、当サイトでは『日本西教史』に「欧州の塔の如し。此より眺望すれば美濃の過半を見る」!!と記されたとおりに、稲葉山の山頂には、直前までの居城・小牧山城に続く、原初的な「天守」があったはずだと確信しておりまして、それは図のように、山麓から見上げれば山頂部の“左端”に見えたはずでしょう。

これが天守の位置をめぐる<織田信長の作法>になったのだろうと申し上げてまいりましたが、現にこれ以降、織豊政権下の天守は、大手門から見た時、かなりの確率で、本丸か詰ノ丸の左手前の隅角に建てられることになりました。


では、その状況で、あえて天守の「内正面」「外正面」を問うとしますと、信長の岐阜城は畿内をにらんだ“西向きの城”であった点からも、おそらくは西の山麓側が「外正面」になり、山頂の天守の背後が「内正面」であったのでしょう。

で、そうした形は後の豊臣秀吉の大坂城天守にも…


豊臣大坂城の場合の推定


ご覧の豊臣大坂城では、左側に「天守」、その右側に「月見櫓」が見える、という並びになったと思われますが、その時、手前が「外正面」で奥が「内正面」としますと、連結式天守における「小天守」の役割の一つが見えて来るのではないでしょうか。

それはすなわち、小天守が右側に並んだ状態では、おのずと手前側が「外正面」(=仮想敵)を示すことになる、という不文律だと思うのです。

で、それは徳川の時代になっても…


名古屋城の場合の推定


このことが江戸において、生まれながらの将軍・徳川家光の就任に備えた「元和度天守」にも適用されたのではないか… と申し上げてみたいわけなのです。


元和度天守の場合の推定



※             ※



さて、以上のように申し上げたことは、徳川による一連の巨大天守の「唐破風」の配置方法にも、ちゃんと影響が及んでいて、造形的な配慮(統一的なデザイン)が施されたようです。



ご覧の「唐破風は天守正面の目印の代用物」という当サイトの仮説の先には…


このように、名古屋城の大天守も、江戸城の元和度天守も、徳川による妻入りの巨大な層塔型天守というのは、決まって上から二重目に「唐破風」が据えられておりまして、それは取りも直さず、直前まで徳川家で主流だった仮称「唐破風天守」を凌駕する一種の「格式」として、意図的に造形されたものだろうと思えてならないのです。…

で、そのような上から二重目の唐破風は(仮称「唐破風天守」と同じく)「正面」を指し示した目印であり、先ほどまで申し上げていた「右側に並ぶ小天守」が指し示した「外正面・内正面」の方角とも、みごとに合致していた!! ことになるのです。







そして最後に、江戸城の元和度天守には、こんな配慮もなされていたことを…



私なんぞが思いますに、「元和度天守」はこのあたりが大変に意識的で、周到に計画された天守であったと思えてならないのです。!!!…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年11月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…






宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…




現在の定説では、江戸城「元和度天守」は、元和8年に拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そういう見方の直接の根拠となっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。

このうち第一の根拠というのは、かの“駿河大納言”徳川忠長が、工事開始に先立つ正月十日、梅林坂辺の自らの屋敷をあけわたし、一旦、榊原忠次の屋敷に移り、その後に北ノ丸の新邸に入ったのですが、その件について、当事者の榊原忠次が編纂した『御当家紀年録』に、以下のように記されたことによります。


(『御当家紀年録』より)

甲斐参議忠長卿営作の間、松平式部大輔忠次の宅に移らる。
忠長卿の住所、本丸の東北梅林坂辺にあり。今度その所殿主台を築くに碍
(さまたげ)あり。ゆえにかの住所を毀(こぼ)つによりてなり。


【ご参考】武州豊嶋郡江戸庄図をもとに作成


上記の『御当家紀年録』の文面をそのまま受け取りますと、元和度の新天守台は「梅林坂」の辺りに出来なければおかしな話になるわけですが、では「梅林坂」の位置とは、江戸城の本丸御殿との関係ではどういう場所になるのか? という観点から考えますと、ご覧の「武州豊嶋郡江戸庄図」は元和度に該当する時期の史料ではあるものの、これでは本丸御殿の様子はまるで判りません。

そこで他を当たりますと、元和8年の工事の時に完成した本丸御殿は、図面の類いがまったく現存しないそうで、現存するのは、その前の慶長11年の徳川家康の天下普請による江戸城の絵図(「慶長十三年江戸図」)か、ずっと後の寛永17年の三代将軍・徳川家光による再建時の図面(大熊家蔵「御本丸惣絵図」)になってしまい、以前か以後の様子しか判らない、という状態だそうです。

そのせいで「元和度天守」の位置は、御殿の配置を含めて、ハッキリしない状況が続いているわけですが、ならば、ということで、以前と以後の様子をじっくり見比べますと…


以前(慶長)から以後(寛永)まで、江戸城の御殿配置の大枠のプランは一貫していた??



ご覧のうち上の方の図は、これまでお見せして来た図に、上記の「慶長十三年江戸図」の本丸御殿だけを新たにダブらせたもので、一方、下の方の図は前回と同じ小松和博先生の復元図を使ったものです。


かくして「以前」と「以後」の本丸御殿の様子と、それぞれの天守の位置を見比べますと、やはり、江戸城の御殿配置の大枠のプランはずっと一貫していたと思えてなりません。

おそらくはその中で、天守の位置がしだいに「中奥」と切り離され、大奥のスペース増大とともに、北へ、北へと押し出された、という風に私なんぞには見えてならないのです。


ですから、この間にはさまる「元和度」だけが、これらとは打って変わった“別物のプラン”であったとは全く思えませんし、現に、元和度の御殿も「小広間(=遠侍?)」「大広間」「白書院」「黒書院」「御座之間」という各殿舎が並んでいたと伝わります。

―――そうなりますと、記録の「梅林坂辺」という天守の位置は、どう見ても問題が大きいようなのです。…


小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)


前回もご覧いただいた図ですが、これを天守と本丸御殿との「接続」(=使い方)という観点から見直しますと、ご覧の当サイト仮説の元和度天守の位置ではなくて、もしも「梅林坂」の辺りに元和度天守があった場合、徳川将軍は「中奥」の御座之間などから天守に向かう時、多聞櫓づたいにグルッと迂回するのはあまりに遠いため、やむなく「御広敷」か「長局」の中を突っ切って行かねばならない(!…)という事態が予想されます。


……これはハッキリ申しまして“すっとんきょうな天守の位置”と言わざるをえず、当時の城中ではありえない、手打ちか切腹ものの大失態に当たるのではなかったでしょうか。

このため私なんぞには、そもそも「梅林坂」説というのは、論外の話であろうと感じられてならないのです。


では何故、そんな論外の天守位置が文献上に残ったのでしょうか?

ここで私なりの考えをアッサリ申し上げるなら、それは新将軍と張り合う弟君・徳川忠長を、本丸同然の梅林坂辺の屋敷から“本丸外へ”一気に追い出すための「口実」!だったのではないかと……


そういう事を持ちかける時は、やはり「天守うんぬん…」という理由づけの方が説得力を持っていたでしょうし、とりわけ二代将軍・徳川秀忠が造替を願っている新天守のため――― という所がミソであり、そう言われてしまえば、さすがの“駿河大納言”も自らの屋敷を明け渡さざるをえなかった、と想像するのですが、いかがでしょう。


で、それに加担した榊原忠次は、自ら編纂した『御当家紀年録』には、その経緯を淡々と記すにとどめ、実際にその後、梅林坂の辺りがどうなったか(→新天守はまるで別の場所!)は忠長の末路のこともあり、詳しく記すことが出来なかったのではないかと。

(※ちなみに『御当家紀年録』は忠次の遺志で他見が禁じられ、死後120年たってようやく幕府に献上されたそうです…)




さて、続いて「第二の根拠」に話を進めますと、元和8年から18年後の寛永14年、三代将軍・家光による寛永度天守の造替があったわけですが、この時、また新たな天守台を築くように命じられたのが黒田忠之(福岡藩)であり、これについて『黒田続家譜』が次のごとく記録していることによります。


(『黒田続家譜』より)

江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年加藤肥後守清正・浅野紀伊守幸長に命じ築かしめらる。
今春其
(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき由、忠之及浅野安芸守光晟に命を下し給ひ、両人是を奉て経営せらる。


という風に記された中の「舊(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき」という部分から当時を推測した場合、元和度天守と寛永度天守はおそらく“同じ位置”にあって長短の方向を変えて築き直しただけであり、やはり元和度天守は本丸北部にあったのだ、という説がとなえられました。


しかしこの記録は一見してお判りのとおり、旧天守台を築いたのは加藤清正!!と浅野幸長!!だという初歩的な間違いから始まっていて、実際は前々々回の記事から申し上げているとおり、清正の子の加藤忠広と、幸長の弟の浅野長晟による築造でありまして、その程度の公然の事実を『黒田続家譜』は認識していなかったことになります。


しかも文頭の「江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年…」とあるのもまた怪しい点でありまして、元和度天守台は寛永14年の時点でも“昔の築造当時のまま”と誤解していた節がありそうです。

と申しますのは、例えば内藤昌先生の著書『城の日本史』の江戸城の紹介ページに、こんな指摘もあるからです。


(内藤昌『ビジュアル版 城の日本史』より)

…寛永十三年、溜池から市ヶ谷を経て小石川に至る城の西北での濠の開削が決行され、これによって、江戸城の右渦巻状の全容が明確となる。
また同年酒井忠勝を総奉行として、本丸御殿と小天守台を付設する天守台の修築もあった。



!―― 寛永度天守の造替が始まる寛永14年の前年の「寛永十三年」にも、天守台をめぐる何らかの修築があった、ということでして、それは新たな小天守台によって本丸御殿との「接続」をはかるものであったのかもしれません。

そしてその総奉行を務めたのが酒井忠勝(→将軍家光の腹心中の腹心!)となれば、ちょうどこの時期に建造された、忠勝の居城・小浜城の天守(台)が、俄然、気になって来るのです。


小浜城天守台と小天守台

小浜城の絵図をもとに作成


小浜城の天守台はご覧のとおり、天守台の東側(ご覧の絵図では左側)に、細かく石段と石垣を屈曲させて守りをかためた「登閣路」の類いが設けてあるにも関わらず、その90度反対側(方角では北側)に「小天守台」が付設されている、というちょっと変わった形式になっています。

これはいったい何を手本にしたのだろうか… と想像力を働かせますと、ひょっとして、徳川家康が創建した二条城天守の「南の廊下」にならったのでは? という考えが頭に浮かびました。


この「南の廊下」については、最近出版された別冊宝島『蘇る城』に松岡利郎先生の慶長度二条城の推定図が載っていて参考になるのですが、これなどをご覧になりますと、家康の二条城天守も、やはり小天守の90度反対側に、別途、取付櫓や南の廊下が付設される、という似た形式だったようです。

これらはすなわち、大天守との連絡方法は、90度違う二方向から可能であり、その二つはそれぞれ違う形の建物や構造物、という特徴的な影響力の強いデザインだったのでしょう。


で、そうした形式の天守(台)を、三代将軍家光の腹心中の腹心・酒井忠勝が、寛永13年〜15年に居城の小浜城に築いていた――― となりますと、思わず、こんな仮説も付け加えさせていただきたくなるのです。





かくのごとき新たな小天守台の目的としては、本丸御殿との接続の便をいっそうはかるための措置… もしくは“大権現様・家康公の天守”に近づけるための酒井忠勝のご注進!? などなど、色々と想像できそうですが、申し上げたいのは、これによって元和度天守台の長短の方向が違って見えたのではないか、という点なのです。

これこそ、元和度天守台は「昔年」のままと思い込む『黒田続家譜』の筆者に、“旧基を改め縦横の長短を変えて”と書かせるに至った原因なのでは… と考えるのですが、いかがでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年10月18日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!名古屋城や八代城とまるで同じ形式?… 江戸城「元和度天守」も本丸の北西隅の連結式天守だったか






江戸城「元和度天守」も本丸の北西隅の連結式天守だったか


中井家蔵「江戸御天守」建地割 / 同封された2枚の図面

→ 両図面ともに裏側から小さく「江戸御天守」と墨書されている

 

ちなみに左の図面の方が大きく! 132.2mm×84.4mmで、右が117.0mm×59.2mm


江戸東京博物館で9月末まで行われた「徳川の城」展において、一番びっくりしたのは、実は、展示されていた上記の左側の図面が、予想外に大きかったことでありまして、これまで私は現物を見たことがなかったため「え、こんなにデカいの…」と、思わず立ちすくんでしまいました。

前回の記事のラストでは、この図面こそ、元和度天守の「小天守」ではないのか、などと申し上げたのも、この図面の大きさのインパクトが多少、影響していたのかもしれませんが、とにかくこれは長い間、正体不明の図面として諸先生方の判断を迷わせ続けて来たものです。

そのせいか「徳川の城」展の図録の解説文を見ましても、いちおうは現在の解釈の主流である「天守の上層部分の計画変更用」という見方を踏襲しつつも、けっこう“苦しい”解説がなされています。



(特別展「徳川の城」図録の解説文より引用)

(問題の図面は)江戸城天守の最上層および四層目の妻側の立面図。妻側に唐破風が、平側に千鳥破風が描かれ、建築的に装飾豊かな天守であったことがうかがえる。

また最上層の平面図も加えられる。平面図によれば、千鳥破風および唐破風はそれぞれ一方向のみに飾られていたことになる

本図は中井家文書のもう一つの江戸城天守図面
(※上記の右側図面)との関連が考えられるが、詳細はわからない。

同図に描かれる側面が破風のない側の断面であるため、補完として作成されたのであろうか。あるいは当初の計画から変更があったため、この部分の図が起こされたことなどが考えられる。




…正体不明の図面だけに無理からぬ点はあるものの、この短い解説文にも、私なんぞはいくつも違和感を感じる方でして、それはまず第一に、図面に描かれたのは「千鳥破風」ではなくて「切妻破風」だという点でしょう。

「切妻破風」とは、例えば下記の御書院二重櫓の図面では、初重の張り出し(出窓)にある破風が切妻ですから、この建物の妻側の描き方(右図)をご覧いただければ、冒頭の“問題の図面”においても、図の左端にあるのは「切妻破風」であって、決して千鳥破風ではない、ということは明白でしょう。



【ご参考】江戸城本丸の御書院二重櫓の正面と妻側(都立中央図書館蔵)

 → 右下に見える「切妻破風」の断面(横から見た状態)の描き方にご注目




切妻破風の断面の描き方は、ご覧の図面のように、いちばん外側の端面が“垂直な線で”表現されるのが当然のことでありまして、この他の立面図の描き方を参照しましても、もし千鳥破風であれば、いちばん外側はこのような垂直な線ではなく、ちゃんと千鳥破風だと理解できる、それなりの形状で描くものです。

ですから、これは明らかに「切妻破風」であると申し上げざるをえませんし、問題の図面の左上に添えられた小さな平面図から“千鳥破風”と判断するのは拙速(せっそく)と申し上げるほかなさそうです。


表側の二面だけに二種類の破風(+出窓)がある典型例 → 江戸城の富士見櫓


かくして「切妻破風」と「唐破風」という、城郭ファンなら即座にビビッ!と来る組み合わせが、問題の図面上には登場しているわけです。


ご覧の富士見櫓の初重の破風は、まさに“問題の図面”と同じ組み合わせ(しかも櫓の長短の向きとの組み合わせも同じ)になっていて、そのうえ、この裏側の二面には破風の張り出し(出窓)が一切無い、という点まで、両者は完全に一致しています。




したがって前出の解説文にある「(天守最上層の)平面図によれば、千鳥破風および唐破風はそれぞれ一方向のみに飾られていたことになる」という部分も、そうとうに“苦しい”分析であることに同情するわけでして、五重天守の上層部分にこんな風に「切妻破風」と「唐破風」が一方向のみに設けられた例は、日本の城郭史上で“皆無のこと”であろうと感じるのは、当然ながら、私だけではないでしょう。

と、あえて言い切りますのも、名古屋城の大天守(や駿府城天守・彦根城天守)の頃から「四方正面」の破風の配置を意識的に行っていたはずの徳川幕府が、こともあろうに、本拠地の江戸城の大切な天守で、そんなことをするだろうか… という率直な疑問は、そう簡単には解けそうにないからです。


かくして、ここまでの結論として、問題の図面は残念ながら「江戸城天守の最上層および四層目の妻側の立面図」ではないでしょうし、「補完として作成された」図面でもなく、「当初の計画から変更があったため」の図面でもなくて、大天守とは別途の、前回に申し上げた「小天守」のものであろう、という私なんぞの勝手な見立ては、ますます深まるばかりなのです。…






さて、これは前回にご覧いただいた図ですが、赤くダブらせた本丸御殿は、同じく赤い寛永度天守よりもやや後の時代の配置図を使ってしまいまして、少々正確さを欠いたため、今回はその点を反省して、下記の小松和博先生の本から引用した“寛永度天守が完成した直後の寛永17年当時の復元図”を使って、改めて仮説の「元和度天守」の位置をダブり直してみたいのです。

そうしますと…

小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」

※図の下部の( )内の表記は
(『御本丸惣絵図』大蔵家蔵、『二之丸御指図』国立博物館蔵、
参謀本部陸軍部測量局の『5000分1東京図』による復元図)


→ 仮説の「元和度天守」のあたりは、何故か、広いスペースが空いていた… !!


(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)


ご覧のとおり、寛永度天守が完成した直後の本丸御殿の配置は、何故か、申し上げている「元和度天守」のスペースが大きく空いておりまして、あたかも“それ”が撤去されたばかりのようにも邪推できます。

この後、ここには有名な「蔦の間」(=将軍の大奥での寝所)などが建てられ、しだいにスペースが埋まって行った場所ですが、ここにかつて「元和度天守」があったとしますと、本丸の「中奥」から程近く、いざという時に、将軍が天守に向かうにも便利な位置であり、また、そもそも天守の位置は「御上方」(おうえかた=正室のための奥御殿)と密接な関連性がありそう、などと申し上げて来た観点からも、ますますふさわしい立地と思えてならないのです。…


そして今回、是非とも申し上げたいポイントは、小松先生の図は上が北で、仮説の大天守のすぐ北側の足下には「西桔(はね)橋門」の虎口があるため、その位置は慶長度天守とさほど変わらないものの、城外からの見た目では“本丸の北西隅に出現した連結式天守”と見えたのではなかったでしょうか??


焼失前の名古屋城の連結式天守 / 現地案内板に描かれた八代城の連結式天守


本丸北西隅の連結式天守と言えば、即座に、ご覧の二つが頭に浮かびますし、ここから、ウリふたつ(否、ウリ三つ)とも言えそうな関係性が、元和度天守を含めて考えられそうで、現に、たいへん興味深いことに、これらの連結式の天守台は、いずれも「加藤家」が築造に関与したことになるのです。!!…


名古屋城天守と、その天下普請で天守台の築造を一手に担った加藤清正

八代城天守と、その築城を命じた熊本藩二代藩主・加藤忠広


名古屋城の天守台は、言わずと知れた加藤清正(熊本藩)が独力で普請を担ったことで有名ですし、一方の八代城は、清正の子・加藤忠広の家臣で、麦島城の城代だった加藤正方(まさかた)が築城したものでした。

ですから、両天守台の形や位置に共通した点があるのは当然でしょうが、そしてまた、江戸城の「元和度天守」もまるで同じ形式としますと…




前々回から申し上げて来たように、加藤忠広は二代将軍・徳川秀忠の「上意」のもとに、元和度天守の小天守台の普請を(八代城が完成した直後の)元和8年に行ったものの、その後、忠広の運命は暗転し、大御所となった秀忠が死んだ直後に、突然の改易(領地没収)となります。

―――ということは、三代将軍・徳川家光による江戸城天守の“謎の造替”も、どこか、加藤家の関与が影を落としたように見えてしまい……。





そこで最後に、前回に予告した、従来の「本丸北部説」に対する検証(反論)を申し添え… ようかと思いましたが、すでにかなりの長文になっておりますし、これはまた次回にさせていただきたく存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!拡張された江戸城本丸の北部に「元和度天守」はあった、という定説に対する疑問を少々






拡張された江戸城本丸の北部に「元和度天守」はあった、という定説に対する疑問を少々


まずは前回の「元和度天守」をめぐる主な出来事の時系列ですが…


元和8年  正月10日、弟・徳川忠長が梅林坂辺の屋敷をあけわたす

      (一旦、榊原忠次の屋敷に移り、3月には北ノ丸の新邸に入る)

      2月18日、慶長度天守の解体と本丸拡張の工事が始まる

      4月22日、家光が西ノ丸を出て本多忠政の屋敷に移る

      5月19日、上記の工事が完了か

      その同日に、秀忠は本丸から西ノ丸に移り、本丸御殿の増改築が始まる

      9月9日、浅野長晟、加藤忠広に新天守台の築造が命じられる(奉行:阿部正之)

      
(→『御当家紀年録』「江城の殿主台の石壁を改築す」)

      11月10日、本丸御殿が完成。秀忠は本丸に戻り、家光は西ノ丸に戻る


元和9年  3月18日、元和度の新天守台が完成する

            …      …

      〜同年中に中井正侶の設計による元和度天守が完成か〜



などと申し上げたなかでも、特に赤文字で示した項目は、最近では野中和夫著『江戸城 −築城と造営の全貌−』等の、江戸城を解説した大著の見解にならう期日で書いたのですが、その一方で、この工事の関係者らは、そうした期日よりもかなり“前倒しで”動いていた節があります。

例を挙げますと、上記の元和8年9月に元和度天守台の普請を命ぜられた浅野長晟(ながあきら)は、その事跡を広島藩が編纂した『自得公済美録』によれば、その年の正月! には早くも、大天守台・小天守台の分担を(加藤忠広との間で)どうするかを内々に通達されています。


(『自得公済美録』より)

正月廿九日亀田大隅守(=浅野家家臣)へ被下御書
一 御殿主之台方切之事、上意ニて北之方ノ大殿主之方、我等手前へ被仰付、
  南小殿主ニ付申候方、肥後殿
(加藤忠広)へ被仰付、
  役儀高ニ付被仰出候由、得其意候



浅野家が大天守台の方を任され、それを「その意を得て候(そうろう)」としめくくっているのですから、さらに以前から幕府関係者と水面下の交渉をしていたようで、この後も加藤家との分担をめぐっては一悶着(ひともんちゃく)あったらしいのです。

そしてご覧の文面からは、元和度天守は <北に大天守台・南に小天守台> という形式であった可能性がうかがえますし、同じ『自得公済美録』には、五月に早々と天守台の縄張りが済み、根石をすえる作業が始まった、とさえ書かれています。

しかも浅野家の普請場だけが、地盤に予想外の問題を生じたらしく…


(『自得公済美録』5月28日付の若林孫右衛門の書状より)

一 長晟(ながあきら)様御普請場、地心悪敷所ニ御座候て、下へ五間堀入候ても未堅土ニ成申候、
  長晟様外聞實儀、御機嫌も悪敷御座候

  (中略)
  肥後殿(加藤忠広)帳場ハ、壹(一)間餘(余)堀こみ、ね土ニ成申候


長晟(ながあきら)の普請場は「五間」≒10mを掘り返しても、根石をすえる堅い地盤が現れなかったというのに、加藤忠広の普請場(南の小天守台)は、一間あまりを掘り込んだだけで堅い地盤に達したというのですから、ほんのわずかな距離で“天国と地獄”のごとき条件の違いがあったことになります。

かくして、どの文献に基づくかで当時の様相はかなり違って見える状態だったわけですが、それにしても、この『自得公済美録』等に着目しますと、私なんぞがずっと気になって来た“ある心配”が、ドッとぶり返しそうです。




【私なんぞの根本的な疑問】

 盛土でそうとうな高さに造成したばかりの本丸北部に、

 すぐさま史上最大級の重い天守台を築くことが出来たのか??…

 (→沈下の問題!)






(※松江城管理事務所蔵『極秘諸国城図』の江戸城を現在の地図に重ねて作成)


前回から申し上げている元和8年の江戸城本丸の拡張工事とは、ご覧の図の中央の本丸を、その北側(左側)の細長い曲輪や堀をすべて盛土で埋めつつ、本丸と同じ高さにして敷地を広げた工事でした。

現在の定説では「元和度天守」は、拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そうした見方の根拠になっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という趣旨の記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。

この二つを文字どおりに受け取れば、確かに「元和度天守」は本丸北部になければならないのですが、しかし…


元和度天守(元和9年1623年〜寛永13年1636年)は果たしてどこに

→ 梅林坂の辺り? それとも寛永度天守と同じ位置?



上記の図の上に、三代目の寛永度の天守台とその後の本丸御殿の位置を赤くダブらせてみましたが、先ほどの定説の根拠によれば、元和度天守はこの中の「梅林坂」の辺りか、「寛永度天守」と同じ場所のどちらか(=いずれにしても本丸北部)ということになります。




ところがこの辺りは、かの太田道灌が江戸城を築城したおり(長禄元年/1457年)に、わざわざ本丸台地と地続きだった田安台(北ノ丸台)との間を大規模に掘り切った部分とも言われ、それを元和8年の工事で再び埋め戻した形です。

で、かくのごとく図をダブらせますと、なんと、寛永度天守台の真下は堀!…を埋め立てた場所であったのかもしれません。

そこで試しに、天守台の真下の「盛土」の厚みはどれほどかと推定してみますと、現在、蓮池濠の水面は海抜2m程度ですし、一方、本丸内の地表は海抜20mですから、単純計算では、天守台の真下には、厚さ20m近い大量の盛土がなされたことになります。…


では、そこに築かれた史上最大級の寛永度天守台の重さは? と申しますと、非常にざっくりした推定として、一般的に言われる「石の重さ1立方m=2.6トン」「土の重さ1立方m=1.8トン」をもとに単純に見積れば、寛永度天守台の重さは、小天守台を含めて数万トン!! に達したのではなかったでしょうか。

……20mもの盛土の直後に、数万トンの(元和度の!)天守台が載った、と仮定しますと、これはどうしても“構造物の沈下”が心配になります。


ひょっとして20mのかさ上げはすべて「版築」で突き固められた、というのでしたら、話はやや違うのかもしれませんが、そんな膨大な量の版築が可能だったのか分かりませんし、先ほどの記録で浅野長晟(ながあきら)が大変な苦労をしていることからも、本丸北部の埋め立てはかなりの突貫工事だったのではないでしょうか。

これはそもそも、土木の専門家でない私なんぞが口をはさめる事柄ではない、と言われてしまえばそれまでですが、「元和度天守」の位置をめぐる現在の定説は、地盤沈下の件をちゃんと織り込んでいるのだろうか… という疑問を引きずるばかりで、どうもすっきりしないのです。



『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた元和度天守の一例

(国会図書館デジタルコレクションより引用)


さて、そんな中では、前回もご覧いただいた『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた元和度天守の様子が、一つのヒントを与えてくれるようです。

―――ご覧の天守台からは、南の方角へ、まるで名古屋城の大天守と小天守との間をつなぐ「橋台」にも似た構造物が伸びています。


現在のところ、文献の中にある元和度天守の「小天守台」というのは、おそらく三代目の寛永度天守と同じ形式の、建物の「小天守」はともなわない「台」だけの構造物だろうと言われておりますが、どの文献や図面にも、それが寛永度と完全に同じ形式だという「証拠」の類いは一切ありません。

であるならば… と、この謎を頭の中で追いかけるうちに、ついに、こんな仮説に行き着いたのです。


またまた妄想仮説を! 問題の元和度天守台(元和9年〜寛永13年)はここにあったのでは!?


どうでしょうか。ご覧の位置であれば、まず、ここまで申し上げて来た“地盤沈下の心配”が大天守台には当てはまり、小天守台はまぬがれる、という絶妙な配置になりますし、本丸御殿の増改築にもさほど支障はなさそうでいて、その後の寛永度の天守造替においても、工事の不都合は起こりにくいように思われます。

そしてこの配置を“傍証”しているのではないか、と思われる記録も存在します。

前出の『自得公済美録』の書状の翌日に書かれた書状では、大天守台の普請場は、とりわけ北側と西側の地盤が悪かった、と報告しているのです。


(『自得公済美録』5月29日付の竹本外記の書状より)

一 廿四日まで、御殿主根切仕候、同廿六日まで根石すへ候様ニと被仰出候へ共、
  北・西之方地心悪候、然共、地心能所之分ハ、両方根石すへ申候






今回もまた手前勝手な妄想を申し上げておりますが、ご覧の仮説は、前述の本丸北部説とは完全にバッティングしておりまして、「梅林坂辺の徳川忠長邸が天守台築造の邪魔になった」とか「寛永度天守台は元和度とは縦横の長短を変えた」という記録についての検証(反論)は、次回の記事で改めて申し上げたく存じます。

私なんぞとしては、この妄想仮説の“鍵”をにぎるのは、中井家蔵『江戸御天守』建地割に同封されたもう一枚の天守の図面(→下図の左側/もしや前述の「小天守」!!?)をどう解釈するか、にあるのではないかと、にらんでいるのですが…。


  






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城の再発見!元和度「五重天守」の建造と同時進行で、西ノ丸に隠居した二代将軍・徳川秀忠






元和度「五重天守」の建造と同時進行で、西ノ丸に隠居した二代将軍・徳川秀忠


以前の記事より / 五重以上と言われる天守


※この中には足利義昭の二条城・南之矢蔵や、豊臣秀吉の聚楽第天守、

徳川家康による江戸城の初代「慶長度(四重)天守」は含まれない…


前回、江戸城の三代目の寛永度天守は、天守の歴史において、関白や将軍など日本古来の伝統的な地位を得た者の本拠地の城に「五重天守」をもろに上げたのはこれだけ? などと申しましたが、それは前の二代目の「元和度天守」が、そういう立場を回避した形跡が感じられるからです。

元和8年の江戸城本丸の拡張工事において、本丸にいた二代将軍の徳川秀忠、西ノ丸にいた将軍家世継ぎの徳川家光、そして梅林坂辺の屋敷にいた家光の弟・徳川忠長という、三人の人物の動きからそれが分かるように思います。


【ご参考】『武州豊嶋郡江戸庄図』をもとに作成


元和8年  正月10日、弟・徳川忠長が梅林坂辺の屋敷をあけわたす

      (一旦、榊原忠次の屋敷に移り、3月には北ノ丸の新邸に入る)

      2月18日、慶長度天守の解体と本丸拡張の工事が始まる

      4月22日、家光が西ノ丸を出て本多忠政の屋敷に移る

      5月19日、上記の工事が完了か

      その同日に、秀忠は本丸から西ノ丸に移り、本丸御殿の増改築が始まる

      9月9日、浅野長晟、加藤忠広に新天守台の築造が命じられる(奉行:阿部正之)

      (→『御当家紀年録』「江城の殿主台の石壁を改築す」)


      11月10日、本丸御殿が完成。秀忠は本丸に戻り、家光は西ノ丸に戻る


元和9年  3月18日、元和度の新天守台が完成する

      5月、秀忠は家光に先立って江戸を発ち、上洛する

      7月、伏見城で家光が新将軍の宣下を受ける

      9月、秀忠、家光に続いて江戸に帰着し、本丸に入る


        (新将軍の家光は依然として西ノ丸を居所とする)

      12月、鷹司孝子が家光の正室として輿入れする

       〜同年中に中井正侶の設計による元和度天守が完成か〜


寛永元年  1月、秀忠から家光に大馬印(=軍事指揮権)が譲渡される

      6月、家光、一旦、徳川頼房の屋敷に移る(→『本光国師日記』)

      7月、弟・忠長が駿河・遠江・甲州の計55万石を領有する

      同月、秀忠は自らの隠居所を駿府から小田原に変える方針を固める

      9月、しかし家光側からの引き止め工作で、秀忠は西ノ丸に隠居する

      11月、家光、ようやく本丸に入る



という風に、元和度天守が新たに建つ江戸城本丸の「主」が定まるまでには、細かな紆余曲折(うよきょくせつ)があったわけですが、一貫して感じるのは、秀忠の“新天守は新将軍のためのもの”という姿勢であり、結局、建造を命じた秀忠本人が、元和度の「五重天守」が建つ本丸御殿で暮らしたのは、一年にも満たない期間か、もっと短かった可能性も濃厚です。


徳川秀忠像(松平西福寺蔵/ウィキペディアより)


この秀忠という人物は、事実上の天下人ではあり続けたものの、当初は、新将軍の就任後は自分は完全な隠居の身になって、忠長のいる「駿府」で余生をおくることを願った節もあったそうですから(→細川家史料「内々ハ駿河御隠居所と御座候処」)、もはや新将軍にすべてを託したいとの思いが「五重天守」の用意に込められていたのではなかったでしょうか。

したがって新将軍の家光の側では、「五重天守」は言わば“前将軍からの就任祝いの品”であり、引き続き“自らが望んで上げた五重天守ではない”という形で扱うことも出来たはずでしょう。


しかも秀忠の側の目論見(もくろみ)としても、これだけの工夫をこらしたのですから、おそらくは元和度天守を、家光がその後も長く使い続けることを期待していたはず… と思えて来るわけでして、となると、一般に言われる「江戸城の代替わりごとの天守造替」というのは、

 初代の慶長度天守 → 実際は二代将軍の秀忠のための天守

 二代目の元和度天守 → 三代将軍となる家光のための天守


という風に考えてしかるべきなのでしょう。


ところが家光はその後、自ら天守を造替して「寛永度天守」を建てたのですから、“その天守って、いったい何??…”という疑問が広がるばかりです。


この点で、私なんぞの勝手な勘ぐりを申し添えるなら、おそらく三代目の寛永度天守は「代替わりごとの天守造替」といった既定路線から発したものではなくて、むしろ家光個人の、非常に内面的な動機が発端になっていたのではないか…

―――例えば、近年、福田千鶴先生が改めて指摘している「江は家光の生母ではない」「江と秀忠との間に生まれたのは、千・初の二女と忠長(だけ)である」(『江の生涯』)という“例の問題”に関する大胆な提示が、けっこう気になって仕方がないのです。

と申しますのも、それが「江の貴種としての役割」「江が秀忠と織田・豊臣氏、皇室・公家、大名たちとの絆をむすぶ結節点にいた」(福田千鶴『徳川秀忠』)といった見方にも展開されていて、ならば、それらを失ったあとの家光の精神はどうだったのか? という興味と「寛永度天守」とは、かなり深い所で結びつく、大きな探求テーマのようにも思えて来るからです。…


これは是非いつか、年度リポートなどで取り上げてみたい事柄ではありますが、今回の記事はあくまで「元和度天守」の方に焦点を当てて、その謎めいた実像に、少しでも迫っておきたいと思います。

ということで…



元和度天守の図面として最有力と言われる『江戸御天守』建地割(中井家蔵)



(内藤昌『城の日本史』1979年より)

(この図面によると元和度天守は)とくに五層大屋根の軒出少なく、しかもこの軒高が四層以下の逓減(ていげん)率からすると高く、概して安定感にとぼしいところに特質がある。


…!? 内藤先生のこの説明はどういうことなのか、上記の図面を見るだけではちょっと分かりにくいと思いますので、今回の記事では、この図面と、三代目の寛永度天守の図面として確実視される『江府御天守図百分之一』建地割(都立中央図書館蔵)との違いを、より分かり易くビジュアル化してみようと思うのです。

ただし今回はプロポーションの違いを確認するだけに留めるため、両者の縮尺を厳密に合わせるのではなくて、単に建物の木造部分の全高をぴたりと合わせる形で左右に並べてみますと…



(※元和度の方の図面は左右を反転させています)


ご覧のとおり、まず両者は最上階の軒高がかなり違っていて、これを見ますと元和度天守は確かに「五層大屋根の」「軒高が」「高く」て、けっこう頭デッカチな構造(印象)であったと分かりますし、これほどの違いがあれば(ちょうど四層目の屋根に破風が無いことも手伝って)最上階は人々の目にそうとうに大きく、印象的に見えたのではなかったでしょうか。

さらに元和度の特徴としては、どういうわけか、初重だけに長押がまわっていない、という相違点がありまして、これの意図はあまりハッキリしないものの、地上から見上げた時にはいちばん目立つ壁面なのですから、その差は誰の目にも明らかだったことでしょう。


で、こうした元和度天守の特徴を“いちばん意識的に描いた”絵画史料としては、一見、大ざっぱな描写でありながらも、実は『武州豊嶋郡江戸庄図』(ぶしゅうとしまごおりえどのしょうず)の天守の描写が、最も重要ではないかと思うのです。


『武州豊嶋郡江戸庄図』(寛永9年/=まさに元和度天守が存在していた時期)


いずれの版も、天守の最上階と初重に、人々の目を引きつける特徴があったことを伝えている!!!

A.都立中央図書館蔵より引用の天守周辺


B.国会図書館デジタルコレクションより引用の天守周辺

C.東京大学蔵より引用の天守周辺


かくのごとく、どの版を見ましても、そろって最上階と初重に人の目を引きつける特徴があったことを伝えていて、これが先の図面(『江戸御天守』建地割)とシッカリと呼応している点は、他の絵画史料をはるかにしのぐ貴重な情報であると思えてならないのです。

世間では、どうも破風の配置にばかり目が行くようですが、たとえその点で申しましても、上記のAやBは決して遜色(そんしょく)のあるものではないでしょう。


では最後に、これほどまでに最上階と初重が目立って見えた原因について、もう一歩、想像力を働かせてみますと、前述のプロポーションだけでなく、ひょっとすると「外装」にも、何か原因の一端があったような気もしますし、それは、ごくごく単純に考えれば、元和度天守の壁面が、実は、柱を見せた真壁づくり!?であって、そういう中でも、破風の影響を受けない(軒高の高い)最上階と初重は、とりわけ、真壁の柱がもろに目立って見えたのではないか――― という風にも思えて来るわけなのです。!!










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城の再発見!歴史的発言にまつわる疑惑 …保科正之の「天守はただ観望に備うるのみ」の「観望」は古語には存在しない語句!!?






保科正之の「天守はただ観望に備うるのみ」の「観望」は古語には存在しない語句!!?




当ブログの最近の記事は、言わば天守本来の「見せる天守」と「見せることは二の次の御三階櫓」との、時代をわける大転換が、話の背景にあったのだと申し上げていいのでしょう。

そうした大転換を語るうえで外せないのは、徳川三代将軍・家光があえて造替した江戸城の寛永度天守が、図らずも果たした役割だと思うのです。


江戸城の寛永度天守 / 歴博ギャラリー「江戸図屏風・左隻第1扇中上」より引用

(※破風の配置は元和度と混同していますが、その他は寛永度として描いたように思われます)




ご覧の寛永度天守は、天守の歴史においては、大変に特殊なカテゴリーをこの一基だけで生み出し、そこを独占していた天守(→関白や将軍など日本古来の伝統的な地位を得た者の本拠地の城に「五重天守」をもろに上げたのはこれだけ?…)ではないかと思うのですが、この天守は歴史上、もう一つ重要な意味をおびています。

それはご承知のとおり、明暦の大火による焼失が、天守の時代の終焉(えん)宣言を出させるきっかけになったことでしょう。

すなわち、将軍家光の異母弟・保科正之(ほしな まさゆき)が、幕府老中に対して、以下のように天守の再建を取りやめるよう献言したことで、江戸城はその後、天守のない府城となりました。


「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(寛政重修諸家譜)


これは例えば『続々群書類従 第三』にも正之の言行録があり、万治2年9月1日、明暦大火の被災から江戸城の再建が成功した旨の記述があって、その中にも同様の発言が載っています。


『続々群書類従 第三』の「土津霊神言行録 上」より


(※宮崎十三八編『保科正之のすべて』1992年での意訳)

「天守閣は織田信長公以来のものであり、ただ観望するには便利であるが、城の要害として必要なものではない。今はこのようなことに財を投じるときではなく、また、そのために公儀の普請が長びけば府下の士民が迷惑することになる」



しかし、この正之の歴史的献言の語句には“ある疑惑”が…

(※写真はサイト「西野神社 社務日誌」様からの引用です)


ところが、正之がそこで挙げた「理由」(現代語での意味)については、私はかねがね強い疑問を感じて来ておりまして、何故かと申しますと、天守が「軍用に役なく」とか「要害として必要でない」というのは当然だと思うものの、「唯観望に備ふるのみ」という理由づけは、当時の人の言葉として、ちょっと解(げ)せない、という印象があったからです。


と申しますのも、天守は、例えば籠城戦では真っ先に敵方の砲撃の的となり、戦闘が激化すればするほど「物見櫓」として役に立たなかっただろうことは、大津城の籠城戦の記録などを例に度々申し上げて来ました。

やはり天守はあくまで、平時の統治のための政治的モニュメントだったと思うのですが、それを言葉で表現するのに、正之の「城主の観望に備えるのみ」という言い方に限定してしまうのは、当事者としてちょっと言い過ぎ(おとしめ過ぎ)じゃないか… と感じていたところ、なんと、正之が言いたかった「観望」は、もっと別の漢字であらわすべき「かんぼう」だったのでは? という疑いが浮上したのです。!




<どの古語辞典で探してみても「観望」という二文字は見当たらず、

 明治以来の国語辞典に「観望」は登場する、というミステリー>






明治24年に初版の、大槻文彦著『大言海』1982年の新編版より


ご覧の国語辞典は、日本初の近代的な国語辞典『言海』がもとになって、版が重ねられて現在に至っている辞典ですが、ご覧のように「観望」という語句が(『史記』にも用例のある語として)ちゃんと載っています。


その一方で、実は、江戸時代までの「古語」を扱った古語辞典においては、どの出版社の、どの辞典を見ても、「観望」という二文字は、まるで見当たらない…!! という意外な事実があります。

つまり、古代から江戸時代までの人々は「観望」という二文字は日常的には使っていなかった?にも関わらず、保科正之は「観望に備ふるのみ」と語ったことになっている、という一種のミステリーがあるわけで、お疑いであれば是非とも、古語辞典をいくつかご覧になってみていただきたいのです。


そして上記の『大言海』に書かれた用例、特に最後の「形勢ヲ観望ス」などを見ますと、これはひょっとすると、「観望」という二文字は、日本では明治の帝国陸軍あたりの軍隊用語として生まれて、世間に普及したのでは…… とも邪推したくなるのですが、そんな中で、ふと、次の辞典を見つけてしまったのです。


江戸の住民が使っていた言葉を集めた、前田勇編『江戸語大辞典』1974年より


!!… かんぼうは「観望」ではなく「幹貌」だったのか??

これを発見してから、私の疑いはググググッと深まったわけでして、この本では「かんぼう(幹貌)やつす」という熟語で紹介されてはいるものの、前述のとおり「観望」は古語になく、一方、この「幹貌=姿かたち」ならば江戸時代にちゃんと使われた可能性がある、となれば、もはやこの件を、まったく無視することは出来ないのではないでしょうか?


かくして、正之が語った「かんぼう」は「幹貌=姿かたち」であった、ということだとしますと、そのあとの「備ふる」はどういうことになるのか、たいへん気になるところで、古語辞典では「備ふ」は「欠けるところなくそろえる、整える」という意味であり、現代語のような「予期される事柄に準備する」といった意味は無いようです。

―――となれば「備ふるのみ」というのは、正確には、非常時にそなえて観望の機能を「準備する」のではなくて、常日頃から幹貌=姿かたちを「全部きれいに整えておくだけだ」と、正之は言いたかったのではないでしょうか。



【以上の結論として…】

 天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯「幹貌」に備ふるのみなり。



このような解釈に立った場合、保科正之の献言の真意は、天守とは「ただ城の姿かたちを整えるだけのものだ」と言いたかったのであり、城主の眺望とか、物見櫓としての機能とは無関係な話であったことになります。

それがどうして「観望」の二文字で現代に伝わったのかは、私には究明する能力も資格もありませんが、ここまで申し上げた事柄が妥当であるなら、正之の関心事は、まさに、火災焼失を機に「見せる天守」を否定しておきたい、という政治的な大局観であったことになり、歴史的な意味合いに重大な違いが生じるでしょう。

そして、そのためには“征夷大将軍の府城の巨大五重天守”という、まことに抑圧的な建築(=社会的・軍事的に固定化しつつある格差をなおも見せつける天守)を否定することこそ、いちばん効果的だろうと、正之は気づいたのではなかったでしょうか。




これは私の突飛な仮説を前提にした話ではありますが、革命記念碑というのは、体制を奪取する側のスローガンを体現するうちは人々の熱狂や狂気をかき立てるものの、やがて新体制が固定化するにつれて、人々から怨嗟(えんさ)の声があがり始めるのでしょう。

その点、「天守」というのは、我が国の社会において、必ずしも怨嗟の対象とはならなかったようで、そのあたりに、保科正之の深謀遠慮が効いたのではないかと勝手に思っているのですが。…


で、もちろんその正之が、自らの領国においては、分権統治の中心をなすシンボルとして、また徳川将軍家を支える松平一族の勢威を示すためにも、会津若松城「天守」をちゃんと保持し続けたのですから、正之は「天守」自体を否定したかったのではないと思うのです。

それはひとえに、新たな天下人の版図を示す「見せる」革命記念碑は、もういらない、という時代認識から出たことではないのか、と。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年08月21日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!釈明を兼ねた独自仮説――沼田城には関東の「北辺」を守備する四重五階の天守がそびえていた






沼田城には関東の「北辺」を守備する四重五階の天守がそびえていた


前回記事より / 沼田城天守は五重天守ではなかった、という立場の作図

一方、沼田市観光協会のHP「ようこそ沼田へ」には壮大な五重天守の想像図が…


沼田城天守ほど、歴史的な位置づけに迷う「五重天守」もないだろうと感じて来ましたが、観光協会の想像図は、かつての宮上茂隆先生の復元案に基づいて描かれたものでしょう。

そしてその前を言えば、西ヶ谷恭弘先生の復元案も黒い五重天守として強い印象を残しましたし、一般に、真田信之(のぶゆき/いわゆる幸村の兄/正室は本多忠勝の娘)が関東でいちはやく五重天守を上げたのは慶長2年(1597年)であったとも、徳川の江戸城天守と同時期の慶長12年(1607年)だとも言われて来ました。

(※ちなみに私の勝手な自論ですと、その江戸城天守は四重の天守のはず、と申し上げて来ておりますので、当時、沼田城天守は依然として関東で唯一無比の五重天守だったのかもしれませんが…)


そうした中で、現在、ウィキペディア等では、信之の孫・真田信利(のぶとし)が抱いた真田本家・松代藩への過剰な対抗意識が、沼田藩主就任の1658年(=明暦4年!明暦大火の翌年!)以降に破格の五重天守を生んだのだという異説が踊っていまして、当ブログの冒頭の作図は(時系列的に見れば)その異説を支持しているかのようでもあり、ちょっとマズい状態にあります。

ちなみに昭和30年代から城の復元運動があったという沼田の地元としては、こんな異説まで出て来るようでは、ますます前途多難でしょうが、とにかく当ブログの作図はそうした異説とは無縁である、という釈明を兼ねまして、この際、自前の大胆仮説を申し上げておきたいと思うのです。



正保城絵図「上野国沼田城絵図」の本丸周辺(当図は右が北)




さて、かくのごとく正保城絵図に描かれたのですから、城絵図の作成が命じられた正保元年(1644年)の前後には、絵のごとき天守が沼田城に実在していたはずです。

とはいうものの、城絵図の天守台に「石かき高八間」と墨書されている点については、現地を訪れた方々は、口をそろえて“とても信じられない”とおっしゃいます。

高さ8間と言えば15〜16mであり、およそ5階建てのアパートにも相当するからで、いったいどういうことなのか、現地の様子を写真でザザッとご紹介しますと…


沼田駅から眺めた城址 / 木々におおわれた台地の突端が本丸 / 左の遠景は三峰山

各曲輪のかつての位置をダブらせた地図(オレンジ色はわずかに残る微高地)


台地の上には広い平坦な土地が広がっていて、そこに本丸以下の城と城下町があったわけですが、現在、公園や市街地になった台地上の印象は、城下から本丸までほとんど地表高に変化がなく、本丸の先の「古城(捨曲輪)」「侍屋敷(二之丸)」がガクンと低くなり、その先が急崖で落ちている形です。

で、地図上のアルファベットの各地点から見た様子は…

【写真A】台地の上、沼田公園の入口付近

【写真B】本丸堀が部分的に残った池


わずかに残った本丸堀のこの部分の石垣は、城絵図に「石かき高三間」と墨書されていて、例えばこの堀の東側(写真では右側の見えない部分)の微高地と同じ高さまで石垣が積まれていたと想像しますと、ちょうどそれは「三間」の高さになりそうで、墨書はまんざらウソでもなさそうなのです。
しかし…



【写真C】本丸堀を埋め立てた場所から、天守台の方向を見ると…


【写真D】本丸内から見た利根英霊殿 / わずかな微高地の上に建つ


ご覧のとおり、天守があった辺りは、先ほどの本丸掘の石垣の想定とほとんど同じ地表高の微高地でしかなく、とてもここに、5階建てアパートに匹敵するような壮大な天守台石垣を思い描くのは困難なのです。

もし本当にここにあったのだとすれば、その膨大な土砂や石材はそっくり綺麗に取り去られたことになりますし、それを使って本丸堀を埋め立てたのだろうか?と考えるしかありません。

ところが、ところが…


【写真E】利根英霊殿のすぐ裏=北側は、軽く10m以上はある土塁が落ち込んでいる!!!

どういうことかと言いますと…


ここでもう一度、城全体の構造を踏まえて天守の位置を再確認しますと、前述のとおり、城内の北端でガクンと低くなった「古城(捨曲輪)」「二之丸」と、本丸との間を画する大きな土塁上の際に、天守は建てられていたのです。

これは正保城絵図が東側から眺めた状態、すなわち本丸の大手虎口が正面になるような角度で描かれたため、なかなか意識されなかったことなのでしょうが、構造的に見れば、天守は城の「北」方を意識していて、「北」を仮想敵とする姿でそびえていたと思えてなりません。

しかも、その土塁は図のように、沼田城と言えばいつも写真が出る「本丸西櫓台」まで、一続きの土塁として考えることが出来そうでして、ということは、現状はここに石垣の痕跡は確認できないものの、ここには、天守と本丸西櫓が左右に居並ぶ形で!北方の仮想敵に見せつけるための構造が出来上がっていたのではないでしょうか。


そういう姿を解りやすくするため、今までご覧いただいた地図をひっくり返して、北を手前にしてご覧いただきますと…



2010年度リポートより / 天守は詰ノ丸の左手前隅角に!=豊臣大坂城にみる織田信長の作法


いよいよ冒頭で申し上げたごとく、沼田城天守の歴史的な位置づけに関わる話になって来るのですが、このように天守が「北」を強く意識して築かれたとなると、その完成が慶長2年であれ、慶長12年であれ、それは城主・真田信之と、江戸の徳川家康(および妻の実家・本多忠勝)との関係の中で、この天守は構想されたのだと考えざるをえないでしょう。


言うなれば、“江戸の防衛の最前線の役目”を買って出る意味合いが、信之の天守建造には込められていたのではなかったでしょうか。!…


ご承知のとおり、信之という武将は、父の真田昌幸、弟の幸村(信繁)に比べれば一般の方々の認知度は低いものの、第一次上田合戦での闘いぶりから、敵方の徳川家康や本多忠勝が信之の胆力を大いに評価し、やがて忠勝の娘・小松姫が家康の養女として信之の正室に迎えられる関係になりました。

そこから真田一族のドラマチックな歴史が複雑さを増すわけですが、ここまで申し上げたように、問題の天守も、そんな歴史と深く切り結ぶ存在であったとしますと、その間、現実には高崎城の井伊直政、厩橋城の平岩親吉、館林城の榊原康政といった徳川の譜代大名らが、すぐ間近から、信之の行動に監視の目を光らせていたのでしょうから、沼田城天守とは、そういう風当たりも受け止めながら建っていたのだと私には思えてなりません。


【ご参考】沼田城絵図(前述の信利の時代 / 当図も右が北)

大まかだが、天守の平面形の長短は“東西棟”のように見える



かくして、問題の「石かき高八間」というのは、おそらくは天守台の“北面”にあった高石垣の数値ではないかと思うのです。

しかも、下記の正保城絵図の拡大でもお分かりのように、天守の“向き”を考えた場合、この絵図は天守の屋根が“南北棟”であるように描いていますが、これが慶長期の層塔型天守としますと、先ほどの全体構造のねらいや、天守台の微高地の長短を踏まえるなら、むしろ実際のところは“東西棟”だったと考える方が自然でしょう。

となれば、この絵図に描かれたのは、墨書のある天守台ごと! 実は「北」から見た天守の姿なのだ、ということにもなりうるのです。

正保城絵図の拡大


そろそろ今回の記事もラストスパートですが、ご覧のとおり、城絵図は天守そのものの描き方もちょっと奇妙で、左側の櫓や門は普通なのに、これだけ天守台の内側に“めり込んだ”ような描写になっておりまして、ここにも大きな秘密が隠れていて、それは例えば、佐倉城の天守(御三階櫓)と同じ方式で、高石垣の内側の土塁に半分のっかるように建っていたからではないでしょうか。

佐倉城の場合、床下階を含めて五階の四重天守でしたが、城外の側の半分だけが土塁上に乗っかるように建てたため、その結果、城外からはちゃんと三階建ての「御三階櫓」に見えたという工夫でした。

そこで沼田城の場合も、建物は文献の記述どおりに五階建てであっても、同様の工夫の結果、城外からは四重天守のように見えたのではないかと思われ、その意図としては、慶長の天下普請の江戸城天守を取り巻く“有望大名の四重天守群”(→2012年度リポート/松岡利郎先生の指摘)のうちの一基とするための工夫ではなかったのか、と私なんぞは思うのですが、いかがでしょう。


【ご参考】上野国沼田倉内城絵図(城の破却直後の作/当図も右が北)

天守は四重に描かれ、なおかつ石垣からやや離れて建つ。

また天守台は、特に大きな隆起も無く、本丸石垣と一直線の高さである






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2015年08月11日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝説の「静勝軒」と同じ景勝を…… 関東の「御三階櫓」の建築的条件は富士山や筑波山の眺望のみ?






関東の「御三階櫓」の建築的条件は富士山や筑波山の眺望のみ?


「古河市立古河第七小学校」様の公式ブログから引用した綺麗な写真…

校舎の屋上から撮影したそうで、もちろん上が富士山、下が筑波山




当ブログではこのところ、何故ああも徳川の譜代大名は関東一円に「御三階櫓」を建て並べたのか?という話題を中心にお送りしていますが、ご覧の写真でお分かりのとおり、関東平野では、ビル群の無い開けた場所なら、どこでも似たような眺望を得ることが出来ます。


関東周辺にあった天守と御三階櫓(明暦4年1658年/明暦大火の翌年の時点)


これら古河城をはじめとする城のうち、地形図ではちょっと微妙に思える高崎や水戸でも、空気が特別に澄んだ日であれば富士山と筑波山の両方をのぞむことが出来ますし、このあとの江戸中期に建造された館林城や忍城の御三階櫓からも、同様の眺望が得られたであろうことは申すまでもありません。

ということは、やはり以前に申し上げたごとく、江戸時代、関東の譜代大名の意識の中では、天守の理想像が「太田道灌の富士見櫓や静勝軒」に変わる大転換があり、彼らにとっての天守とは、もはや外観の見事さを競うものではなく、道灌の江戸城をうたい上げた詩文のごとくに、そこから見晴らす四周の「風景」の方が、天守の理想像を形づくる重要な観点になっていたのでは… という疑いがぬぐえないのです。


そこで問題になるのは、京都五山と鎌倉五山の長老たちが、太田道灌に乞われて詠んだ数々の詩文(漢詩)の中身でしょう。


ただ、漢文にうとい私なんぞは、どれを例に挙げればいちばん適当なのか解りませんので、見た目のわかり易さで、まずは鈴木理生先生が著書で例示した口語訳を引用させていただきますと…



希世霊彦『村庵稿』より「静勝軒の詩の後題」(部分)

頃(このごろ)聞けり、太田左金吾源公は関左の豪英なり。武州の江戸城を守りて国に功ありと。蓋(けだ)し武の州たるや、武を用うるを以て名と為す。
甲兵四十万、応卒響くが如し、乃ち山東の名邦なり。江戸の城是に於てか在りて其の要に雄拠し、而して堅くその塁を備う。一人険に当れば万虜も進まざる所以なり。

亦乃ち武州の名城なり。矧(いわん)や此城最も景勝を鍾(あつ)むることを。寔(まこと)に天下の稀(まれ)とする所なり。睥睨(へいげい)の隙は地の形勢に随い、彼に棲観あれば、此に台榭(だいしゃ/高台式建築)あり。

特に一軒を置いて、扁して静勝の軒という。是を其の甲と為すなり。亭を泊船と曰ふ。斎を含雪と曰ふ。各々其の附庸(ふよう/支配を受けるもの)なり。
若しそれ軒に憑りて燕座し、四面を回瞻(せん)すれば、則ち西北に富士山あり、武蔵野あり、東南に隅田河あり、筑波山あり。此れ則ち四方の観の一城に在るものなり。一城の勝、又此の一軒に在り。…




という風に、歴史上に名高い「静勝軒」といっても、唯一の手がかりである詩文の上では、建築の外観について、その意匠や見事さを歌い上げるような表現は一つも無いわけです。!…

詩の中心的なテーマは、もっぱら道灌の江戸城が「景勝をあつめた」「天下に稀」なる城であることで、富士山が見え、武蔵野や隅田川、その先に江戸湾や高橋のたもとの港のにぎわいが見え、さらには筑波山ものぞめる、という「眺望」こそが、名城かつ名建築の由来とされています。

ただし文中の方角(「西北に富士山」「東南に隅田河」)は『五百年前の東京』の菊池山哉先生もつっ込んでいた部分で、実際には、南西に富士山、北東に隅田川や筑波山であり、これは作者の希世霊彦らが江戸を訪れずに詩を詠んで贈ったことによる間違いだそうで、本当に江戸に滞在して詩を詠んだ僧侶は、漆桶万里(万里集九)と蕭庵竜統の二人だけだそうです。



釈 蕭庵竜統『江戸城静勝軒に題する詩に寄する序』より(部分)

西望すれば則ち原野を逾(こえ)て雪嶺天と界(まかい)し、三万丈の白玉の屏風の如きもの(=富士山)あり。
東視すれば則ち壚落(=宇宙)を阻んで、瀛海(=大海)天を蘸(ひた)し、三万頃の碧瑠璃の田の如きものあり。
南嚮すれば則ち浩々呼たる原野、寛に舒(の)び広く衍がる。

平蕪(=草原)菌布し一目千里、野海と接し、海天と連なるものは、是れ皆、公(=道灌)が几案の間の(=机上でもてあそぶ)一物のみ。
故を以て、軒の南を静勝と名づけ、東を泊船と名づけ、西を含雪と名づく。

(中略)
含雪、泊船の如きは、浣花老人(=唐の詩人・杜甫)が蜀中倦遊の境なり。題扁の及ぶ所にして此の地の此の景と同じきを以て、摘(とり)て以て名と為すなり。



竜統のうたい上げもすごいですが、なんと道灌自身は、江戸の風景が伝説の「蜀」の国に似ていると感じていたようで、そこから「含雪」「泊船」という扁名を選んだという経緯もあったようです。

とにかく、ここまで「眺望」「景勝」にこだわって江戸城を詠んだ詩文が、これでもかっ!というほどに存在していたのですから、江戸時代、それらが関東の譜代大名の心理に与えたインパクトは、よほど大きかったのではないでしょうか。

築城にのぞんだ彼らの関心事が「伝説の静勝軒と同じ景勝が得られるか」に傾いたとしても不思議では無かったでしょうし、そんな状況から、まるで外観にこだわない「御三階櫓」が続出したとは考えられないでしょうか。(とりわけ関東平野の中心部の諸城において…)








<一つの疑問 /「静勝軒」と「富士見櫓」に歴史的な“混同”は無かったのか…>




さて、話題の「静勝軒」ですが、どうやら太田道灌の死後も、江戸城が後北条氏の時代になっても、シンボル的な存在の静勝軒(という建物)は残っていたらしく、それは「富士見の亭」とも呼ばれていたそうです。

ということは、ここで思いっきり邪推した場合、この後北条氏の時代に「静勝軒」と「富士見櫓」との混同が起きた、という可能性は無かったのでしょうか??


と申しますのも、諸先生方の復元の考え方には大きく二種類あって、一つは「静勝軒」は平屋建ての御殿建築であり、その奥に詩文で「閣」と称された櫓が別途あったという考え方であり、もう一つは「静勝軒」じたいが楼閣建築であり、屋根上に望楼を載せていて、「静勝」「泊船」「含雪」は、竜統の詩のごとく楼閣の南面・東面・西面を名づけたものだという考え方です。

特に後者の楼閣説では、「静勝軒」は「富士見櫓」と同一の建物だということになり、天守の原形の一つとしてふさわしい形になるのですが、これまで申し上げて来たように、江戸城において、天守建造の理屈の180度近い大転換が起き、そこから「眺望」第一の、外観にこだわらない特有の「御三階櫓」が関東に広まったのだとしますと、やはり「静勝軒」と「富士見櫓」は別々の建築でないと理屈が通りません。


……で、もし仮にそうだとしますと、混同された建物はそのまま後の時代まで長く残り、やがて江戸初期に、かの土井利勝が拝領して佐倉城に移築した「静勝軒(=銅櫓)」というのは、ひょっとすると、実際には「静勝軒」ではなくて「富士見櫓(含雪斎)」だった!? ということにもなりかねません。


そうした中で、やや細かい点で恐縮ですが、下記の「銅櫓」の古写真と、谷文晁の絵の「富士見櫓」は、最上階の屋根がそれぞれ形式は違うものの、ともに「錣葺き(しころぶき)」になっている点が、どうも気になって仕方がないのです。…


左:明治初めの佐倉城「銅櫓」解体工事中の古写真                 


これは「静勝軒」? 「富士見櫓」?





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!譜代大名があこがれた「富士見櫓」は太田道灌の江戸城の「高台」だったとすると…






譜代大名があこがれた「富士見櫓」は太田道灌の江戸城の「高台」だったとすると…


(『金城温古録』第十二之冊「天守の始」より)

武備の為に高台を建て威を示し、内に文を修て治道を専らとせしは
太田道灌の江戸城に権輿
(けんよ/事が始まる)す。
是、天守の起源とも謂ふべし。



そして天守のごとく描かれた谷文晁「道灌江戸築城の図」(個人蔵)の富士見櫓


……いったい何故、関東の譜代大名らは(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」をああも関東一円に建て並べたのだろうか? という疑問について、従来は「徳川将軍の江戸城天守をはばかり(ランクを一段下げた?)富士見櫓にならったのだ」というような説明がされて来ましたが、前回の記事では、そこで私なんぞが申し上げてみたい疑問として〈その富士見櫓とは、いつの時代の富士見櫓なのか〉という点を挙げました。

その過程でご覧いただいた谷文晁(たに ぶんちょう)の絵は、制作が弘化3年(1846年)で幕末のものだそうですが、但し書きには「江戸築城古図により」との墨書があるそうで、思わずグググッと仔細に眺めてみますと、色々と面白い点も見えて来まして、今回はその辺をちょっとだけ補足させていただこうかと思うのです。





ご覧の絵には随所に墨書(書き込み)がありまして、それらのいくつかを、墨書の表記を基本に赤文字で大きく表示し直しますと…


絵の左側部分(遠景は富士山)…「子(ね)城」が城のいちばん北側の最高所に!?

絵の右側部分(遠景は筑波山/つくばさん)


ということでして、後の江戸時代の城とも共通した名称が並んでおり、おおよその所は理解できそうなのですが、よくよく見ますと、どうやらこの絵は(左に南西の富士山、右に北東の筑波山が見えることからも)左右で別々の「視点」と「方角」による景観が二つ(または三つ)合体して!出来上がっているようなのです。


左右の絵は、景観の視点の位置や方角・画角がずいぶんと違っているのかも…


で、こうなりますと、絵の上部に示したごとく、中央の「富士見櫓」は、ひょっとして、左側の絵の「子城」の櫓と“同一の建物”ではないのか? という疑いが頭に浮かんでまいりまして、それは絵の「汐(見)坂門」と「吉祥門」の位置関係や、そして何より絵の「富士見櫓」の真下には「三日月堀」(=すなわち北桔橋門と西桔橋門の間の「乾堀」!!)と墨書されていることから、そのように思えて来るわけです。


ですからこの絵は、富士山と筑波山が両側に見えたという江戸城(静勝軒)のベーシックな情報に忠実な(工夫を施した)構図なのだ、ということが分かって来るのですが、それにも増して、この絵の描写=「子城」は城内でいちばん高い北側の部分という描写も本当のことだとしますと、これはかなり貴重な絵画史料(の写し)なのかもしれません。

何故ならば…


【ご参考】赤い表示→小松和博先生が想定した道灌時代の江戸城


太田道灌の江戸城の構造については、諸先生方が各々の考え方を提示して来られましたが、焦点の一つは、例えば道灌と親交があった僧・万里集九の詩文「静勝軒銘并序」に次の有名なくだりがあって…

「其の塁営の形たるや、曰く子(ね)城、曰く中城、曰く外(と)城と云ふ、凡そ三重なり、二十又(ゆう)五の石門ありて、各々飛橋(とびばし)を掛けたり」

という中の「子城」「中城」「外城」が、それぞれ後の江戸城のどこに当たるか?という観点から、いくつもの解釈が登場しました。


上の図や赤い表示はその一例で、小松和博先生の『江戸城』1985年から引用させていただいた形のものですが、ここで留意すべきは、小松先生をはじめ、ほとんどの先生方が「子城」については、それは「根城」「第一の曲輪」「詰の城」といった意味であり、場所としては江戸時代に「富士見櫓」があった本丸南端を含む部分だろう、という点だけは完全に一致している点でしょう。

…ところが、どういうわけか、谷文晁の絵では「子城」の位置が城のいちばん北側の奥で、しかも城内の最高所とおぼしき地点になっているのです。




このような「子城」の位置に関しては、例えば『五百年前の東京』の著者・菊池山哉先生も同様のお考えの持ち主であり、著書に掲載の見取り図では「子城」をいちばん北側にしておられていて、いくぶん勇気づけられるわけですが、このように「子城」は城の北部にあったという形で考えを推し進めますと、これまた、かなり意外な“符号”に出くわすことになります。…


以前の記事から/『極秘諸国城図』江戸城(=家康時代)の本丸部分をダブらせた地図

それをさらに小松先生の図ともダブらせていただくと…


ご覧のとおり、このままでは「子城」は江戸時代の富士見櫓を含むエリアですが、ここで試しに、「子城」は谷文晁の絵のごとく本丸の北側部分にあった、という風に想定を変えてみた場合、その結果は、次のような驚くべき状態になると思うのです。




!! やはり、と申しますか、太田道灌の「子城」と、その後に徳川家康が天下普請で築造した慶長度天守の天守台や天守曲輪(詰ノ丸)は、ほぼ同じ小丘を!!利用していた可能性が生じて来るのです。

これはまさに、前回ご紹介の『金城温古録』の「慶長十一年 御改築 の江戸城御天守」という記述は、本当のことだったのか!?…と絶句してしまいそうな事態を意味していて、この場所に道灌の子城の櫓(富士見櫓)があって、家康はそれを承知の上でその故地に慶長度天守を上げた、という陶然(とうぜん)となりそうなストーリーが浮かび上がって来ます。


かくして、谷文晁の絵のとおりに考えた場合、この絵の中央にある「富士見櫓」とは、おそらくは、数々の詩文にうたわれた「含雪斎」(=静勝軒の西側にあって富士山をのぞむことが出来、丸窓ごしに富士山の雪が見える様子から“含雪”斎と名付けられた…)と同じ建築物だと想定することは、位置的に見ても、城内の最高所という点でも、ほとんど違和感が無いのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年07月10日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・臣下の五重天守をめぐる印象論 →海外への拡張政策の道を閉ざされた天守配置の様変わり






続・臣下の五重天守をめぐる印象論

→海外への拡張政策の道を閉ざされた天守配置の様変わり



前回記事の、織田・豊臣政権による「五重天守」の配置方法




前回にご覧いただいた五重天守の配置は、意外にも、当地の城主の「格」や所領高だけではなく、天下人の府城からの「距離」も深く関係していて、言わば政権の勢力圏の最終到達点をにらむ防人(さきもり)のような存在として、「五重天守」などの巨大天守が配置されたのかもしれない… などと申し上げました。

しかもそのような不文律は、日本列島の範囲を越えて「西」へと向かう拡張政策を前提にしていたようで、例えば宇喜田秀家が漢城(ソウル)にあげた三重?の天守は、そのはるか先の「西の最終到達点」において、やはり五重天守などの巨大天守が建造されることを織り込んでいたようにさえ、私なんぞには見えてしまいます。


五重以上と言われる天守



しかし朝鮮出兵の失敗と豊臣秀吉の死によって、その直後に関ヶ原合戦などの動乱が勃発し、そこから新たな天下人の座をつかんだ徳川家康は、政治体制の刷新をめざすなかで、諸大名が望む天守の建造(全国的な配置のしかた)についても、織田・豊臣の頃とはまったく異なる不文律を打ち出したようです。




これはその家康が死去した時点の様子を図示してみたものですが、一見してお気づきのとおり、もはや織田・豊臣の「北の果ての巨大天守」といったものは存在しませんし、臣下の五重天守のなかで天下人の府城(駿府城)から最も遠い地点にあったのは、南(西)の柳川城天守や熊本城天守でした。


そして私が気になるのは、西の橋頭堡としての三重天守が無いかわりに、瀬戸内沿いの中国・四国地方にはズラリと!!臣下の五重天守が並べられていて、これは西国大名らの要望に応えた結果のようでいながら、前述の時代状況を踏まえた目で見ますと、あたかも <臣下の五重天守群が外国軍隊の国内侵入に備えていた> かのようでもあり、はたまた <朝鮮通信使の来訪ルートを意識した配置> のようでもあった点でしょう。

このことは、前回の妄言を引き継いで申し上げるなら、防人(さきもり)としての五重天守というカテゴリーが立場を失い、もはや勢力圏の周縁部で領民や敵方に見せつける必要も無くなった「五重天守」を(既存の岡山城や広島城を含めて)今後はどういう風に扱えばいいのか? という大命題に対して、徳川幕府がひねり出したアイデアだったのではないでしょうか。




そして天守の配置をめぐる幕府の最大の関心事は、西国に臣下の五重天守が建ち並んだ一方で、技術的には九重・十二重などという巨大化も不可能な中で、<いかにして天下人の天守を際立たせるか> に腐心せざるをえなかったようです。


そこで出現した興味深い現象が、ご覧のとおり、駿府城天守を中心にして、松本城・名古屋城の五重天守と、江戸城天守という、三基の大型天守が、等距離の円周上にピタリと位置づけられていたことではないでしょうか。

半径の146km(37里)と言えば約4日の行程ですし、この時期、オレンジ色の円の中にあったその他の天守は、小田原城(→おそらくどこかの時点で石垣山城天守を破却した後は後北条氏の本丸天守を継続使用か)・横須賀城・吉田城・高島城の各天守や御三階櫓しか無かったはずですから、駿府城の五重七階天守は、他の大型天守との「距離」を別の意味で応用することでも、存在感を高めていたと思えてなりません。


で、重要なのは、こんなことは前の豊臣政権ではありえなかった手法だという点であり、そうした様変わりの裏では(やがて三代将軍・徳川家光の江戸城寛永度天守という「天守」の歴史でも大変に特殊なカテゴリーが出現したことを含めて)天守建造の理屈の180度近い大転換が起きていたようです。

と申しますのも、ためしに江戸城天守が明暦の大火で焼失した翌年(明暦4年)を4枚目の図にしてみますと、もしかすると「天守」の歴史をチョットとらえ直す必要があるのかもしれない… と思うような現象が見て取れるからです。


明暦大火で江戸城天守が焼失して初めてわかった?意外な等距離の円…


居城の佐倉城古河城を大改修した幕閣の最高実力者、土井利勝(どい としかつ)

(※肖像画は正定寺蔵/ウィキペディアより)

ありし日の佐倉城 / 現地の説明看板のイラストをもとに作成

ご覧の佐倉城と言いますと、徳川家康から江戸城の櫓を拝領して移築したという「天守」御三階櫓と、太田道灌の頃の江戸城「静勝軒」を移築したという「銅櫓」が、本丸の土塁上に並んでいたことで知られています。

で、それらが佐倉城に移築されたのは慶長16年以降と言われ、それは大御所家康と将軍秀忠による江戸城の慶長の天下普請と一連のタイミングで行われた作業と言えるでしょうから、言うなれば“古い江戸城を物語る建築”を拝領して佐倉に引き取った形であって、そうした措置がかなった土井利勝は「城の本丸や天守は天下人のもの」という趣旨の発言をした人物としても知られています。


そこで思いますに、いったい何故、関東の譜代大名らは(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」をああも関東一円に建て並べたのだろうか? という疑問について、従来は「徳川将軍の江戸城天守をはばかり(ランクを一段下げた?)富士見櫓にならったのだ」といった説明がなされて来たわけですが、私なんぞが今回、特に申し上げてみたいポイントは、〈その富士見櫓とは、いつの時代の富士見櫓なのか〉 という問いなのです。

そこで是非ともご覧いただきたいのが次の絵でありまして、これは江戸後期の鬼才・谷文晁(たに ぶんちょう)が、太田道灌の時代の江戸城を、築城古図を参照しつつ描いたという絵です。


谷文晁「道灌江戸築城の図」弘化3年(個人蔵)

その中央には「富士見櫓」がさも天守のごとく…





<江戸時代、関東を守る譜代大名らの意識では、天守の理想像が

 従来の安土城天主等から「太田道灌の富士見櫓や静勝軒」に変わる大転換が起き、

 それが「御三階櫓」を積極的に志向する流れを作っていたのかも??>





ご覧の谷文晁の絵は、やや石垣が多い点など気にはなりますが、要は <どうしてこんな絵が制作されたのか?> という辺りが、たいへんに興味を引くわけです。

そこで関東の御三階櫓の様子を含めて考えますと、それらのそっけない外観は、安土桃山以来の築城者たちの造形に対する意欲が萎縮(いしゅく)したのではなくて、ひょっとすると、この時期、譜代大名らの“あこがれる対象”が変わってしまっていた、ということだったのではないでしょうか??

考えてみれば、譜代大名の側からしてみれば、一度も訪れたことの無い安土城の幻の天主などより、いくつもの詩文にうたわれた太田道灌の江戸城「静勝軒」や富士見櫓(「含雪斎」?)の方がずっと身近であり、あこがれの対象になりやすかったことは確かでしょう。


現在、静勝軒などの具体的な姿は謎が多く、研究者の間で説が分かれるものの、江戸時代の認識としては、例えば名古屋城の記録集『金城温古録』の「天守の始」という文章には「武備の為に高台を建て威を示し、内に文を修て治道を専らとせしは太田道灌の江戸城に権輿(けんよ/事が始まる)す。是、天守の起源とも謂ふべし」とあり、その後段で「慶長十一年御改築の江戸城御天守」とも書いてあって、つまり江戸城は慶長11年の天下普請まで太田道灌ゆかりの「高台」が存在し、それが天守の起源であった、という理屈で(実際はどうであれ)首尾一貫している点は見逃せません。

(※『金城温古録』の「高台」は楼閣全般を示す言葉として使用)


ですから、先ほど“天守建造の理屈の180度近い大転換”と申し上げたのは、このように徳川幕下の天守は、理想の姿(手本/モチーフ)が以前とはかなり違っていた疑いがあるためで、それは太田道灌の江戸城をことさらに崇敬したものであったようです。

すなわち天守とは、太閤秀吉のごとく外観の見事さを競うものではなく、道灌の江戸城をうたい上げた詩文のごとくに、そこから見晴らす四周の「風景」の方が、天守の理想像を形づくる重要な観点になっていたのだとすれば、関東の譜代大名が建て並べた(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」というもののナゾが、ようやく解けるような気がして来るのです。




さて、元和8年に本多正純が失脚して、土井利勝が名実ともに幕閣の最高実力者となった晩年に加増移封された城が古河城であり、そこで佐倉城天守と同規模で建造した天守(御三階櫓)のCGが、「古河史楽会(古河の歴史を楽しむ会)」様のHPで公開されておりまして、最後にその一つを、ご参考までに引用させていただこうかと思うのです。

……と申しますのは、CGはちょうど「松本城天守」と規模の比較になっており、これは何かの引き合わせではないのかと、大変に驚いている次第だからです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年06月27日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!臣下の五重天守をめぐる印象論=天下人の府城からの「距離」は関係していなかったのだろうか






臣下の五重天守をめぐる印象論

=天下人の府城からの「距離」は関係していなかったのだろうか



甲府城跡出土の金箔鯱瓦(推定の総高132cm/山梨県立考古博物館蔵)

※まことに勝手な私見ですが、細身の感じが屏風絵の聚楽第天守のに良く似ているようで…



当ブログでは過去に、天守はあったのか無かったのか、という論争に決着がつかない「福岡城」について、“空とぶ絵師”歌川貞秀の姫路城の浮世絵が、実は福岡城を描いたものではないか? などと申し上げたりしましたが、より私の地元に近い「甲府城」でも似たような論争があり、地域の経済振興をにらんだ再建運動が続いています。

しかも甲府の方では、ご覧の金箔鯱瓦の大きな物(ブツ)が天守台の脇から出土しただけに、どうにも治まりがつかない状況のようです。


そしてすでにご承知の、四重天守として復元案が示された甲府城天守

(※サイト「やまなしお城10万人ACTION」様のホーム画面を引用/部分)



そうした地元の依頼を受けて、三浦正幸先生がこのような復元案を示されたわけですが、先生が「四重天守」とした判断材料は、主に <天守台の平面規模> と <政権内での城主の位置づけ> が中心であったようです。(→PDFご参照

この点について私なんぞの印象をザッと申し上げますと、例えば、ともに五重天守だった名古屋城天守と松本城天守の圧倒的!!な規模の差(総床面積など)を考えれば、天守の「重数」と「総床面積」は各々バラバラのもので、個々のケースで様々な組み合わせがあり、したがって「重数」と平面規模とは、総体的には無関係の事柄であったと思えてなりません。


そして一方、天下人に臣従した武将の中には、天下人を上回る規模の五重以上という巨大天守をあげた例もありそうなのですから、一般的に城主の「格」や所領高が天守の規模(重数)に影響したとしても、必ずしもそれらが絶対条件ではなかったのかもしれません。



織田政権と豊臣政権における“北の果ての巨大天守”の可能性



ご承知のように柴田勝家(しばた かついえ)の北ノ庄城、蒲生氏郷(がもう うじさと)の会津若松城には、時の天下人を上回る天守があった可能性が言われていて、であるならば、天守の「重数」は何によって決まったのか? というナゾは、今もまだ完全には解明されていないのではないでしょうか。

そこで一つ、是非とも申し上げてみたいのが、天守の「重数」を決めた因子(要素)には、天下人の府城からの「距離」も関係していたのではなかろうか… ということなのです。





この図は、以前のブログ記事でご覧いただいた「本能寺の変」当時の織田家中の天守について、今回は、その中から五重天守だけを「宗家と一門」「臣下の武将」で色分けしてみた図です。


こうしてみて、まず感じるのは、五重天守はやはり希少な存在であり、とりわけその位置が(中心の安土城は別として)織田の勢力圏の陸地の「北限」「南限」を天下に指し示すかのような立地になっていて、その逆に、本州の陸地が続く「西」と「東」の方角には一基も無い、という点が非常に際立っています。

例えば「東」では、家督を継いだ織田信忠の岐阜城がありましたが、そこにも(あえて)五重天守は置かなかったわけですから、これは織田信長が「五重天守」というものをどういう風に考えていたかを押し測る、一つの観点として重要かもしれません。

想像で申し上げるなら、信長は、天下布武の版図の広がりを最も効果的に示せる天守として「五重天守」を用いていて、そのために、東西南北の将来にわたる最終到達点とおぼしき地点だけを厳選していたのではなかったでしょうか。


そしてもう一つ、図中でいかにも目立つのが、安土城から北ノ庄城までの距離=約100kmの半径の円から、はるかに西へ飛び出した格好の「姫路城」三重天守でしょう。

この羽柴秀吉時代の天守は、考えてみれば、本当に三重天守だったのか?という議論もありえなくはないのでしょうが、おそらくは「姫路」が織田の勢力圏の西の端とは織田家中の誰もが思っておらず、とりわけ城主の羽柴“筑前守”秀吉が、そういう意志の強固な代弁者であったことが、三重天守にとどまらせた最大の理由であったようにも思えて来るのです。


では、そうした織田政権における「五重天守」や三重天守の扱いが、その後の豊臣や徳川の時代にどう変わったのかは、大変に興味のあるところで、順次、地図上で確認して行きたいと思うのですが、その前に、下の表は信長・秀吉・家康がそれぞれ死去した年でカウントしてみたものです。


五重以上と言われる天守



(※表の岸和田城天守の件は後述)

(※また豊臣の欄には、前田利家の金沢城天守や織田信雄の清須城天守なども入ったのかもしれません…)


で、このようにリストアップしてみますと、私の自説(=家康時代の江戸城は四重天守だった)もあって、徳川の欄には江戸幕府の「江戸城天守」が無いことになるのですが、不思議なことに、例えば織田の欄でも、信長が足利義昭のために建てた三重?の旧二条城天主が無く、また豊臣の欄でも、豊臣政権の政庁を飾った四重?の聚楽第天守が無いことになり、ここには何か一貫した法則が表れているようです。

これは当ブログで申し上げた仮説のように、そもそも天皇の血筋を引く「貴種」の生まれの武家ならば「天守」などは必要なく、もっぱら下克上の世の(素性の怪しい)天下人たちのために「天守」は創造されたはず、という天守発祥の原理が、ここに作用しているのではないでしょうか。

つまり「幕府」(征夷大将軍)の居館とか、「関白」の屋敷とか、日本古来の伝統的な地位を与えられてしまった城には、もはやあえて巨大な「五重天守」をあげる必要も無かった… という逆説的な論理が(この家康死去の時点までは)成り立っていたように思えてならないのです。





そして豊臣政権下の天守も前の図と同じく「五重天守」を色分けしますと、今度もまた、会津若松城の巨大天守が、天守群の「北限」(東限?)を指し示すかのように建っています。

では「南限」は?と目を移せば、ちょっと違った状態のようでいて、その実、織田政権の姫路城三重天守とまったく同じ論理が押し進められたのではなかったでしょうか。

と申しますのは、ちょうど織田の姫路城と同じような位置に肥前名護屋城があるようで、そこを新たな基点(宗家の五重天守)としつつ、豊臣政権はさらに西へ、西へと拡大を続け、そのうえで漢城(ソウル)に宇喜田秀家があげた天守は、まさにこの時の「姫路城三重天守」(→“もっと西に進むぞ”という意志表示)であったように見えてしまうのです。




<勢力圏の最終到達点をにらむ防人(さきもり)としての「五重天守」と、

 最前線に突出する橋頭堡としての「三重天守」というカテゴリーもあったのか…>





かくして、天守の重数を決めた因子には、天下人の府城からの「距離」も関係していたという風に考えますと、前述の“北の果ての巨大天守”が現れた理由をうまく説明できそうですし、また各地の城に「五重天守」や三重天守があげられたことについて、必ずしも城主の側の「格」だけではなくて、もう一つ、政権の側からの判断(カテゴリーの指定!)があったと考えることも出来そうなのです。

では、そのような不文律が、次の徳川の時代にはどうなったか? という観点から三つめの図を作りますと、これがまた興味深い現象を示していて、江戸時代は将軍のお膝元近くでは、いかなる天守も建造をはばかる、という慣習がどこで始まったのかが見えて来るようです。

……ですが、すでにかなりの長文になって来ておりますので、これは次回のブログ記事で改めて説明させて下さい。



【補足】岸和田城の五重天守について

「正保城絵図」和泉国岸和田城図より


さて、上記の表では、岸和田城の天守を「豊臣一門の五重天守」として扱いましたが、これは当時3万石の大名・小出秀政(こいで ひでまさ)がご覧の天守を建てたとの伝来(慶長2年説)によるもので、秀政が秀吉の母・大政所の妹を妻にしていたことが「五重天守」につながったのでしょう。

しかし、この天守を建てたのは江戸初期の松平康重だという説(元和5年説)もあって、親の代に松平姓を許された康重が、この時点で「五重天守」をあげるのは、かなり分不相応の感があるものの、康重という人物は“家康ご落胤”とささやかれていたそうで、それが松平一門のトップをきる「五重天守」につながったのでしょうか。

という風に、岸和田城の五重天守はチョット分からない部分もありまして、それでもやはり小出秀政の建造と考えるならば、冒頭の「甲府城天守」だって、秀吉の正室・北政所の実家である浅野家の当主(で妹の夫の)長政が築けば、そうとうな規模(五重?)になってもおかしくありません。

が、その前の甲府城主・加藤光康が築いたとなると、三浦先生の「四重天守」という考え方に俄然、説得力を感じるのですが、なんと先生自身は「豊臣秀吉の親戚筋であった浅野長政、そしてその息子・幸長の親子によって建てられた天守閣です」と説明しておられて、私なんぞはぷっつりと解らなくなってしまうのです。…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!精神的には岐阜城の山頂天守の方が安土城よりもラジカルだったか… と思わせる織田信長の問いかけ






精神的には岐阜城の山頂天守の方が安土城よりもラジカルだったか… と思わせる織田信長の問いかけ


思いますに、我が国の「天守」が最たるもので、建築というのは本当に「意味」「意図」「目的」の体現だと感じるのですが、こんなことを申し上げるのは、オリンピックで使う新国立競技場が“いったん屋根無しで完成”というドタバタ劇を聞いたからでして、そもそもは、ラグビーW杯の誘致との抱き合わせという姑息(こそく)な発想が災いしたのでしょうか。

そこで一つ、比較になるのか分かりませんが、「意味」「意図」「目的」が完全に抜け落ちてしまった無残な建物として“日本史上ワーストワン”に挙げるべきは、戦前の、大政翼賛会の本部だったのではないでしょうか??

―――かの大政翼賛会の本部がどこにあったか、ご存知ですか?

その歴史的なネームバリューから言えば、アドルフ・ヒトラーの総統官邸のむこうを張るぐらいの建物なのかと思いきや、まるで逆でした。


終戦時に、大政翼賛会の本部は、今では法務省がある霞ヶ関1丁目1番地で…


昭和20年、終戦時の大政翼賛会の本部は、ご覧のとおり場所だけはスゴイものの、建物はなんと、移転したあとの府立第一中学校(都立日比谷高校の前身)の廃墟同然の空き校舎(!!)を使っていたのでした。


その経緯は杉森久秀著『大政翼賛会前後』に詳しく、大政翼賛会というのは、かの近衛文麿(このえ ふみまろ)を中心に、すべての政党・政治勢力を糾合すべく発足したものの、実態は、政党や政治活動を“あって無きがもの”にする統制組織に横滑りし、近衛自身は早々に意欲を失っていたそうです。

そのせいか、発足時の本部は皇居近くの壮麗な「東京會舘」を接収してスタートしたものの、まもなくタライ回しの転居が始まり、まずは現在の国会議事堂の建設中に使った木造の「仮議事堂」に引っ越しし、さらに戦局が悪化するなかで、府立第一中学校が移転して十数年、空き家状態だった「日比谷校舎」(明治32年造)に入居して、終戦を迎えました。

ですから「大政翼賛会」という名前(=現在のイメージ)と実態との間には、実は、そうとうな開きがあったわけでして、そのうえ上記の東京會舘や日比谷高校は自身のHPにそうした経緯を一切、載せておりませんし、当時も今も殆どの日本人が所在地を知らないわけですから、大政翼賛会の本部とは、言わば「意味」「意図」「目的」のすべてを失った“迷いの館”であったと思えて来るのです。

で、新国立競技場はそんなものにならぬように祈りつつ、今日の本題に入りますと…




<岐阜城の山頂天守の最上階はどうなっていたか? を想像させる

 ロレンソに対する織田信長の問いかけ>





当ブログでは、岐阜城の山頂の「主城」でロイス・フロイスらが目撃した「千本の矢」というのは、アマテラスとスサノオの伝説にちなんだ神前の「千入(ちのり)の靫(ゆぎ)」ではなかったか? などと申し上げましたが、そうした千本の矢が置かれたのが山頂天守の一階とすれば、最上階の方はどうなっていたのでしょう。

例えば最近では、姫路城天守の最上階にある長壁(おさかべ)神社が改めて話題になりましたし、その他を見回しても、天守の最上階にあった宗教関連のものはどれも神社や神棚ばかりである一方、何故か、織田信長の安土城天主の最上階だけが古代中国の三皇五帝など儒教的な絵画で占められていた、という妙なコントラストがあります。

これはいったい何に起因した現象なのか? という疑問を解くカギは、岐阜城の山頂天守にあるのではないでしょうか。


この人物が、修道士のロレンソ了斎か?(神戸市立博物館蔵「南蛮屏風」より)



さて、平戸の出身で、それ以前は琵琶法師だったという修道士・ロレンソ了斎(りょうさい)は、フロイスと共に岐阜城の「主城」に登り、そこで信長みずからの歓待を受けたわけですが、結城了吾著『ロレンソ了斎』によると、ご覧の絵の人物がロレンソらしいとのことで、思わずハッとするものがあります。

と申しますのは、絵の人物は外国人宣教師らの間に立っていて、私のごときテレビ番組制作を行って来た者には、ロレンソらしき人物の立ち位置は、さながら海外取材の成否を左右する「現地コーディネーター」そのものに見えてならないからです。



(『完訳フロイス日本史』第一部九五章…岐阜城の訪問)

信長の傲慢と見栄は一通りでなく、あらゆる人々、ことに仏僧を軽蔑し、彼らに対して非常な嫌悪を抱いていた。(中略)彼がなしたすべてのことのうち、我らはここでは若干の主要なことだけに言及しよう。
(中略)
信長は談話を続け、ロレンソ修道士に、日本の神につき、なお伊弉諾(イザナギ)、伊弉冉(イザナミ)がこの国の最初の住民であるとの説をどう思うか、と質問した。信長はこの際、修道士から与えられた返答を喜び、修道士はデウスの正義と慈悲に関し詳細な談義を続けた。

他の部屋で傾聴していたおびただしい数の貴人たちは、修道士の言葉を聞いて非常な喜びを示し、信長は彼ら以上に喜び、明白な言葉で、「これ以上に正当な教えはあり得ない。邪道に走る者がこれを憎悪するわけがわくわかる」と語った。

(中略)
その時、以前に仏僧であり、信長が大いに信頼している(松井)友閑なる老人が口を出して、「伊留満(修道士)がデウスの教えについていとも詳細に語り得ても、これは伴天連らが教えこんでいるのだろうから予は驚かぬ。だが、彼が日本の諸宗の秘儀をかくも根本的に把握していることは、仏僧らにおいても稀なことで、予はその点で驚き入った」と述べた。



ご覧の部分からして、この時、ロレンソは信長の問いかけに対して、イザナギ・イザナミという、日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく)において神世七代の最後に生まれ、日本列島を創造した男女神について、決して否定や非難をしたのではなかったのでしょう。

逆に松井友閑もうなるほどの上手(うま)い受け答え… おそらくは日本神話とキリスト教の天地開闢(天地創造)との間の解釈的な整合性をとなえてみせたのは明らかで、そうした解釈を信長も喜んだのでしょう。

このことは記録者のフロイスにしても、この第一部九五章で信長の「若干の主要なことだけ」として挙げたのは、イザナギ・イザナミの話題と、もう一つは、同行したフランシスコ・カブラルの「眼鏡」に驚いた民衆が三千人も集まってしまった、という笑い話の二つだけなのですから、とにかくロレンソの対応ぶりを注目の成功事例として報告したかったのでしょう。




そこで私なんぞが一番、気になるのは、そういう問いかけをした信長の側の深意でありまして、つまり信長は、キリスト教の教義から見ると「日本神話」がどういう風に見えるのか、心の底で“かなり気をもんでいた”のではなかったでしょうか。

そうとでも考えませんと、無駄なことは一切発言しない性格の信長が、なぜ突然にイザナギ・イザナミなどと言い出したのか分かりませんし、この密かな心配は「おびただしい数の貴人たち」も察知していたようで、彼らが「修道士の言葉を聞いて非常な喜びを示し」てホッと安堵している点は見逃せません。


こうした不思議な場の状況と、その後に安土城天主の最上階だけが儒教的空間であったことを突き合わせて考えますと、そこに一つの想像が働いてしまいます。

―――それは、この時、完成したばかりの岐阜城の山頂天守は、発想は安土城天主と同じでも、障壁画の表現が「日本神話」に置き換えられていたのではないか? という疑いです。

!! 古代中国の「岐山」の故事にちなんだという「岐阜」の城で、そんなことが論理的に可能なのか? と言えば、それが、出来なくもなさそうなのです。…



天地開闢の主人公らを描いた日中それぞれの想像画

(左:小林永濯画のイザナミ・イザナギ / 右:中国神話の巨人「盤古」)



右の盤古(ばんこ/Pan-gu)というのは、ブリタニカ国際大百科事典によりますと「中国の天地開闢神話の主人公である巨人。槃瓠とも書く。天地がまだ形成されていない混沌の状態のとき、そのなかに生れ、1万8000年たって、天地を押し分けて分離し、その後に三皇が出た、という。」と説明されています。

…あれ? 古代中国の伝説の帝王は「三皇」と五帝から始まると安土城天主に描かれたはず、と思いきや、そういう形は、中国の歴史書の第一とされる『史記』(三皇本紀)にしたがったものであり、そもそも『史記』には天地開闢の神話は存在しないのだそうです。

で、そういう『史記』とは別に、呉の時代(3世紀)に成立した『三五歴記』などに「盤古」による天地開闢の神話があって、そのため、盤古のあとに三皇や五帝が出現したという形の神話が、民衆の間に根づいて来たそうです。

そして何故か、その「盤古」と日本の「イザナギ」には共通点がありまして、例えば盤古の左目が太陽に、右目が月に、吐息や声が風雨や雷霆(いかづち)になった、というあたりは、まさに古事記や日本書紀で、イザナギが左目を洗った時にアマテラス(太陽)が、右目を洗った時にツクヨミ(月)が、鼻を洗った時にスサノオ(雷)が生まれた、とされていることにそっくりなのです。




ということでして、ですから織田信長が岐阜城天守において、安土城天主と同様の障壁画(画題)を各階に配置しようとした時、その上層部を「日本神話」に置き換えてしまうことも、出来なくはなかったのかもしれません。

結局のところ、安土城天主は『史記』にならった正統的な形でまとめたものの、その前例の岐阜城天守では、話が天地開闢にまでさかのぼっていて、しかもそれが「日本神話」に置き換えられて表現された、となれば、岐阜城の方がずっとラジカルな建築であったようにも思えて来ます。

そこで山頂天守の最上階は、一つの想像として、天井画でイザナギ・イザナミの絵が大きく描かれ、その下の壁面には、彼ら男女神が創造した日本列島(すなわち大八島/おおやしま=淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州)の八つの島が、ちょうど日本八景の名所図会のごとくに、ぐるりと描かれていた…… というような姿が、思わず目に浮かんで来てしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年05月29日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!「シロ」(城)は「キャッスル」と兄弟関係にあたる外来語!!!という驚天動地の異説






「シロ」(城)は「キャッスル」と兄弟関係にあたる外来語!!!という驚天動地の異説




前回の真田丸の記事は、当サイトの“天守が建てられた本当の理由”を探りたいという趣旨に反して、この「一回だけ」ということで、天守とは全く関係のない話題にさせていただき、そのうえ <丸馬出しに偽装> などという縄張り研究ではオキテ破りの暴走妄言を申し上げたところ、意外にも、バナーの応援クリックがいつもより多めに頂戴できまして、ちょっと悩ましい状態です。

で、決して当ブログは“天守が建てられた本当の理由”を探る方向性を変えるつもりはありませんが、この間隙をぬって、以前に知人に問われて上手く答えられなかった(天守とは関係が無いものの、どこかで記事にしたかった)一件を、ブログの通算200回目の記事ではありますが、ここで申し上げてしまおうかと思います。


それは当時、私が城マニアだと知った番組プロダクションの上司が、“中国人の言う「城」には広大な城壁都市も含まれるんだよね”と(さも日本の侍は自分の身しか考えなかったのかという、やや非難めいたニュアンスのある)問いかけをして来た時、“そうでもありませんよ”と反する事例をいくつか挙げたものの、あまり納得した風ではなく、その後になって“…ア、櫻井先生の話でもすれば面白く受け答えできたかな”と私自身が後悔したという件です。

その櫻井先生の話というのが、いま我々が城を「シロ」と呼んでいるのは、なんと、ポルトガル語に由来した外来語だという説があるそうで、もしそのとおりなら「シロ」は英語の「キャッスル」(castle)とは兄弟関係の言葉かもしれない、というのです。



櫻井成廣著『戦国名将の居城』(1981年)の口絵


(同書所収の「跋」より)

日本語で城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してからで、古い日本語ではキと呼んだ。
キは限るという意味で一定の地域を限って敵の侵入を防ぐ場所を指し、磯城(しき)は石で仕切りをした城郭であり、琉球語のスク、古代朝鮮語のスキと同じ語源だという。

シロというのはポルトガル語の silo が日本語になったのだという説を聞いたことがある。
現代のポルトガル語で silo は穀物を入れる穴倉を意味するが、語源を同じくするドイツ語の Schlos は閉じ込めるという意味の動詞からきた名詞で城郭を意味するから、古いポルトガル語にもそういう意味があったのだろうか。
日本語のキと本来の意味は一致するようである。
Schlos はフランス語の Chateau 英語の Castle と同義語でラテン語の Castellum からきたともいう。




櫻井先生はいったい誰からこの説を聞いたのか、私はその後も不勉強で把握しておりませんが、これが本当のことなら「シロ」は「カステラ」や「テンプラ」と同時期に来た外来語だった!!という驚天動地の事態となり、上記のごとく「城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してから」とも言い切っておりますから、櫻井先生はこの異説にかなり本気だったのかもしれません。

現在の一応の通説でも、古代に訓読みで「キ」であった「城」が、やはり中世以降に「シロ」と読む(呼ぶ)ように変わったのだそうで、その経緯を例えば内藤昌先生は…


(内藤昌『城の日本史』1995年より)

「城」はもとより音で「ジョウ」と読む。訓では「シロ」であるが、これは「シリ(領)」の古い名詞形と推定されている。
「領有して他人に立ち入らせない一定の区域」を示すわけで、たとえば、苗を植え育てるところを「苗代」(なわしろ/播磨風土記)といい
…(中略)ただここで留意すべきは、中世以降のように「シロ」が城郭を意味しないことである。

「シロ」に「城(き)」を当てるようになったのは、平安京創設に当たって「山河襟帯、自然作城」ところの「山背(やましろ)」国を「山城(しろ)」国に読み変えたのに始まるという(松屋筆記)。



内藤先生の説明は言い方が逆のため、ちょっとこんがらがりそうですが、要するに、日本人が城を「シロ」と読むようになったのは、平安時代に「山背(やましろ)国」が「山城(しろ)国」に変わったことの影響だろうというのです。

現状ではこの説明が一般的ではあるものの、西ヶ谷恭弘先生は「山背国が平安遷都により山城国にかわったことに由来するのではないようだ」(『戦国の城』)と否定的でありまして、西ヶ谷先生は、古代山城の岩座にあった神の憑代(よりしろ)や社(やしろ)の「シロ(代)」が、中世山城や戦国山城の、威力や霊力のこもった防御空間に見立てられたのではないかとしています。

そして三浦正幸先生は、やはりこの件での言及は著書の中に見当たらないようですから、どうやら、我々がいま「城」を「シロ」と呼んでいる由来や契機は、実は、よく解っていない(!!)という、お城ファンとしては、かなり意外な状況なのです。


ですから櫻井先生の驚きの「外来語」説を、ただ一笑に付しているわけにも行きませんで、ここは冷静に「外来語」説を一旦そのまま受け取ってみますと、そこにはちょっと意外な“光明”が見えて来るのかもしれません。


四角い都城制の城壁都市の姿を残していて人気の中国・平遥(この右側に碁盤の目の町家)


何を言いたいのかと申しますと、欧州の「Castle」「Chateau」は当然のごとく、ご覧の中国などの都城制の城壁都市は含まない概念ですから、もしもそうした「キャッスル」等と「シロ」が兄弟関係にあったのだとしたら、いま我々が日本の「城」を訓読みで「シロ」と読むとき、それは本来的に、都城制の城壁都市は含まない呼び方なのだ、ということが言えてしまうのかもしれません。
!!…

となれば、冒頭でお話しした日本の「城郭」の説明をめぐる面倒な問題は、例えば××城の読み方を「××ジョウ」ではなくて「××のしろ」と訓読みに変えるだけで、瞬時にクリアできるのかもしれない、ということにもなるのでしょう。

そのようにして日本中の城を、あえて「古代からのキ・ジョウ」と「中世以降に限るシロ」とで、もっとずっと意図的に呼び分けるなら、そこから先は、まさに名は体をあらわす状態になって、すっきりしそうです。


(※ただ、櫻井先生の「城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してから」という記述については、ポルトガル人の種子島来航が天文10年〜同12年1543年の間とされるのに対して、古語大辞典(角川書店/昭和62年版)にこんな文例が載っているそうで興味津々です。

「谷のしろへつめ候とて、どしめき候き。さうとよりしろを手をあはせ、みなとりまはし候由申候」(祇園執行日記/天文3年)

この日記文に基づけば、タッチの差で「しろ」の使用がポルトガル人来航よりも早かったことになりますが、このあたりはそもそも微妙な話であり、ポルトガル海上帝国がマラッカを占領したのは、30年も前の永正8年1511年のことで、ちょうどその前年に、鉄砲が大陸から日本に伝来していたという話が『北条五代記』にあったりもしますから、実態の解明はまだまだ先のことではないでしょうか…)



で、最後に、いつもどおりの暴走妄言を付け加えさせていただきますと、天下の府城として碁盤の目にならった城下町を「惣構え」で囲った伏見城、豊臣大坂城、江戸城などはそのままとしても、それら以外の中世からの城については、例えば八王子城は「はちおうじじょう」と呼ぶのではなくて「はちおうじのしろ」、滝山城は「たきやまのしろ」という風に、呼び方(読み方)を変えていく方がいいのかもしれない…

本居宣長のやまと言葉の研究ではありませんが、この21世紀、近隣諸国(とりわけアノ国など)からの観光客がどんどん増えていく時代にあっては、漢字の使い方(日本語としての読み)について、事前の理論武装をおこたらない方が、ひょっとすると、何かといいのかもしれないと、「外来語」説の思わぬメリットに目がいってしまうのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年05月16日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…






話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…


ゴールデンウィークに大坂では「真田丸」の復元ジオラマが完成してお目見えしたそうで、いつか現物を見てみたいものですが、その復元には千田嘉博先生も監修で関わったとのことで、報道写真で見るかぎり、これまでに登場して来た真田丸の様々なイラストやCGとも違った点があるようです。

ご承知のとおり、真田丸と言えば、従来は、大坂城内と簡単に行き来できる構造と考えられて来たものの、最新の等高線調査の結果、城とは大きな谷を隔てた“孤立無援の砦”だった可能性が高い、という指摘が千田先生からあったばかりで、ジオラマも基本的にそうした考え方に沿っています。

写真で見たジオラマは、東西2カ所の出入り口がものすごく印象的で、そのため一見、これはやはり巨大な「丸馬出し」のようにも見えてしまうのですが、千田先生によれば“孤立無援の砦”であって、だからこの不思議な砦を「戦国時代最高の出城」と評したものの、決して“戦国時代最大の丸馬出し”とは言っていないところが、大きなミソのようです。


「真田丸」復元ジオラマ 完成イメージ(天王寺区のHPより)


かと思えば、時系列的には後先(あとさき)してしまいますが、先ごろ、城郭史学会の坂井尚登さんが、たいへんに精緻な地形考証を踏まえた「正方形に近い五角形」という画期的な真田丸の復元案を発表されました。

坂井さんは地形図の専門家であり、どの会合でも一目おかれている方ですから、千田案と対照的な「形」を提起されたことが、今後どうなっていくのだろうと、はるか遠方から遠目で見ていましたら、『歴史群像』6月号に、その坂井案を基本としつつ、軍事学的な検討を重ねた記事とイラストが登場し(文=樋口隆晴、監修=坂井尚登、イラストレーション=香川元太郎)、その記事の中では千田案への厳しい批判もあったりして、一気に、まるで大坂の陣のごときガチンコ状態が勃発したようです。


―――ということで、この“大坂の陣”を、おそらくは淡路島あたりから見ているに過ぎない私でありますが、遠くから見ているだけに感じる“ド素人なりの疑問”もあって、「天守」の話題でない記事を書くのは、これ一回きりにしたいと思いますし、岐阜城の続きの件も含めて、何とぞご容赦いただきたいと思うのです。





まずは『歴史群像』6月号を拝見しての率直な感想ですが、真田丸が、それほどまでに惣構え南面の欠点をおぎなって、緊密かつ精緻に(惣構えと)組み合わされて構築された「陣地」であったのなら、その状態に攻め寄せてきた幕府軍が、とりわけ真田丸を攻略目標に選んだのは、いったい何故なのでしょう??… という素朴な疑問が心に浮かびました。

つまり真田丸が「主陣地線防御の核心ともいえる存在」というほどに、軍事学的な優勢が強まれば強まるほど、逆に、そういう“疑問”がふくらんで来てしまったのです。

私の悪い猜疑心(さいぎしん)のせいでしょうが、真田丸が『当代記』に「惣構ノ横矢」と記されたなら、それは文字どおり、いかにも突出した“目の上のタンコブ”に見えて仕方がなかった―――という風にでも解釈した方が、幕府軍の動機を説明するうえでは合理的だろうと(ド素人の私には)感じられてならないのですが、どうなのでしょう。


「浪華戦闘之図」大坂冬の陣配陣図(大阪城天守閣蔵/右下の半円形が真田丸)


そしてやはり、何故、多くの絵図類で真田丸が「丸い形」として描かれて来たのか、坂井案のまことに緻密な検証はあるものの、これだけ共通して「丸い」というのは、何かそれなりに原因があったはず、という疑念がチラチラと消えないのは私だけでしょうか。

そこで、ちょっと視点を変えまして、例えば「丸い曲輪」という点から連想しますと、真田の名をいちやく天下にとどろかせた「上田城」も、ひょっとすると、真田時代の本丸は、丸かったのかもしれない… と思わせる古城図が残っています。


真田時代の上田城の破却後の状態を描いた「元和年間上田城図」(個人蔵)


ご覧のとおり、左下に描かれたのが、関ヶ原合戦後に破却された真田昌幸(まさゆき=幸村(信繁)の父)築城の上田城の跡で、半円形の「古城本丸」のまわりを、少しずつ四角くなっていく二ノ丸と三ノ丸の痕跡が取り巻いています。

ちなみに「古城本丸」のすぐ南(図の下側)は断崖絶壁であり、絵図のように千曲川の尼ヶ淵が流れていた地形であることは、現地を訪れた方はよくご記憶のはずです。


現在ある上田城の四角い堀や石垣、櫓、門などは、江戸時代に仙石氏が大々的に復興したものに基づいていますから、真田時代の本丸がこのように半円形の曲輪で、しかも城全体は完全に土塁づくりだったとしますと、見た目の印象は、けっこう違っていたのではないでしょうか。


で、そんな真田時代の「上田城」が、どうして徳川の大軍を二度も撃退できたのかと言えば、田舎じみた古風な城構えに反して <挑発行為で敵を引きつけて強力な鉄砲隊の火力だけでなぎ倒す> というパターンが繰り返し成功したようで、徳川方はこれに「腰を抜かした」という話がよく紹介されます。


上下二段の鉄砲狭間もさりながら、間の櫓の二階は全面に石落し(=唐造り!!!)

(東京国立博物館蔵「大坂冬の陣図屏風」より)


転じて、真田丸の場合を想像しますと、<鉄砲隊の火力だけで> はご覧の大坂冬の陣図屏風の描写でおなじみですが、要は <挑発行為で敵を引きつける> ことが出来なければ、この得意の勝ちパターンには持ち込めない?という話に戻ってしまうわけでして、どうやら、真田丸の「形」と密接にからんだ「勝因」をどのように描くかで、千田案と坂井案は、思った以上に決定的な違いをはらんでいるようです。

とりわけ戦端がひらくキッカケになった、真田丸の手前の「篠山」という小山の位置については、坂井案と歴史群像は、従来言われてきた位置(=真田丸のずっと南側)とは違う場所を想定していて、その位置で「挑発」になりえたのか?という点など、戦いの様相をかなり変えるものと言えましょう。


こうなると私なんぞの立場では、人間の能力は瞬時に10段階も20段階も成長できない、といった当たり前の話を持ち出すしかなく、やはり真田丸の「勝因」は、どこか部分的に、上田城の勝因をなぞっていたのではなかろうか―――というド素人の感覚がぬぐいきれません。

とりわけ幸村(信繁)は長い間、幽閉生活をおくっていたわけで、その間は、何か文献で学べたとしても、実地の試行錯誤のチャンスは一切、無かったのですから、なおさらそのように感じられてしまいます。

そこで今回の記事の最後に、真田丸が幕府軍を「引きつける」ために必要だった「形」を、私なりに思いっきり妄想しますと…





<真田丸は意図的に、田舎じみた古風な「丸馬出し」に偽装されていた!?>





千田案の考え方を基本として、一部、坂井案の地形考証を参考にさせて戴くと、

こんな「真田丸」を想定することも出来るのでは…


(※大阪文化財研究所と大阪歴史博物館による「古地理図」を使用しております)


それは南から来る街道の、右斜め前方に、やや見おろすような位置にあって、

第一印象として、幕府軍の諸大名には“格好の餌食”と見えたか…





そしてやはり、真田丸の発想の原点は、真田昌幸の「上田城」にあり!!??

(左図は南北を逆にした上田の地図に、古城図の本丸の位置だけを合わせた状態)



左右の地図はもちろん同縮尺にしてあり、ちょっと見づらい図になっていて恐縮ですが、こうしてみますと、右図の豊臣大坂城の惣構えは、左図の上田城における背後の千曲川(尼ヶ淵)と同様に見立てた形のなかで、「真田丸」は計画され、築かれたようにも見えて来るのです。


このことは時空を超えて、しかも空から見おろした時に初めて(真田丸の背後にも惣構えがそのまま残っていると)確認できることであり、地上を攻め寄せてきた幕府軍の将兵の目には、ただ単に、古臭い武田遺臣の一点張りのような「丸馬出し」が、こともあろうに豊臣大坂城の防御の最前線にしゃしゃり出てきた!! と見えてしまって、多くの兵が思わずうすら笑いを浮かべた… というような状態だったのではないでしょうか?


で、そういう「偽装」がどこか上田城に似ていたとしても、それは苦杯をなめた徳川の将兵にしか解らないことであり、味方の豊臣勢にも解らなかっただろうという点が、まことに興味深いところで、なおかつ徳川家康や秀忠自身は“過去の汚名”があるだけに、そのことを心中でうっすらと察知しても、なかなか言い出せない(!!)…という好条件があったのかもしれません。




例えば、玉造を応援する情報サイト「玉造イチバン」様のインタビュー記事によれば、千田先生は真田丸の解説として「砦の出入口は東西2カ所、西側の出入り口は惣構の近い場所にわざと作っています。徳川軍が出入口を襲おうとすれば、砦からはもちろんのこと、惣構内の右側からも左側からも射撃され、三方向から袋だたきに合います」と説明しています。


説明のとおりに、西側(左側)の出入り口に注目しますと、惣構堀の内側(上側)の丘にも、強力な狭間鉄砲による鉄砲隊を潜ませたことは間違いないでしょうし、この出入り口に殺到した幕府軍が、戦死者 数千人以上とも言われる膨大な数の犠牲を出して、ここが凄惨な“屠殺(とさつ)場”と化したのは本当かもしれません。

ですからひょっとすると、左右二つの出入り口も、かなり「偽装」された疑似餌(ぎじえ)のような巧みな工夫があったのではないでしょうか…。


そもそも幸村(信繁)という人物の評価は、前半生が謎だらけで、なかなかに難しいとされていますが、今回申し上げた妄想のままなら、父・昌幸ゆずりの策謀家と思えて来ますし、そのため <真田丸は真田の父子二代にわたる策謀の結晶だった> と、ここで一気に申し上げてしまうのは言い過ぎでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年05月02日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?






いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?


前回は話題を急拠、佐賀城天守の復元案に対する疑問に差し替え、次回はまた岐阜城の話題にもどりますと申し上げましたが、せっかく天守の外形的な問題に触れたチャンスでもありますので、この機会に、佐賀城天守とも関係があり、岐阜城の山頂天守とも関連性のある話題として、いわゆる「唐造り(からづくり)」に焦点を当てて、さながら半分だけ“もどる”お話をさせていただこうかと思います。


唐造りの例(左:高松城天守の古写真 / 右:小倉城の復興天守)


ご承知のとおり「唐造り」は、南蛮造りとも呼ばれ、大概の天守は下から上へと階の大きさが逓減(ていげん)するのに対して、その一部分だけ、下階よりも上階の方を張り出させた独特の構造を言い、佐賀城天守も、細川忠興による小倉城天守に学んだとの伝承のもとに、三浦正幸先生らの復元案では最上階がこんな構造であったと考証しています。

そもそも人々は何をもってこれを「唐風」「南蛮風」と呼んだのか、よく解らないところがあり、上階を張り出すことが中国建築や南蛮(南欧や東南アジア)の建物の特徴だった、などということは殆ど言えないわけ(→例外は後述)ですから、日本人の勝手な思い込みだったのでしょうか。


で、この唐造りの「現物」は、今はどこにも現存しておりませんで、そのため古写真や文献の各階の記録から、張り出しの幅は「半間」程度であったと分かるものの、それ以上の具体的な構造は不明のままなのです。

ですから、それを例えば、望楼型天守によく見られた普通の高欄廻縁を“ふさいで内縁にしたもの”と見るなら、天守から高欄廻縁が失われていく過程での、ある種の進化形(試行錯誤)と見ることも出来ましょうし、そういう意味では「唐造り」はいくぶん新しいスタイルだということになります。

ところが…


「唐造り」の事例の中でも特徴的な 岩国城天守

古図!に基づく藤岡通夫先生の作図(『城−その美と構成−』1964年より)



いくつかあった事例の中で、いちばん興味を引くのは、ご覧の岩国城天守ではないでしょうか。

小倉城や高松城のように最上階ではなくて、中層の三階と四階も「唐造り」の構造になっていて、ご覧の藤岡先生の図にあるように、その部分の下の階が「ほらの間」と呼ばれていたことは注目せざるをえません。

これは思わず、以前に何度も申し上げた「屋根裏階と張り出し」との関係を連想してしまいますし、そちらの場合、第一の目的は大屋根におおわれた屋根裏階の明りとりのための構造でしたから、もしも「唐造り」も同じ目的から始まったのであれば、そのルーツはずっと古いことになるでしょう。

そして現状の復興天守を設計した藤岡先生は、この岩国城天守を「古風な天守」と解釈しておられたのです。



(藤岡通夫『カラーブックス 城−その美と構成−』1964年より)

岩国城は関ヶ原役後 吉川広家が建設したものだが、錦帯橋で著名な錦川に沿った横山の山頂に築かれている。
建て始められたのが慶長七年(一六〇二)であるが、古風な山城であっただけに、その天守もいろいろと古風な点があり、図を見ると軒先も塗籠とせず白木のままで、屋根もこけら葺ではなかったかと思われる。
これより少し早く文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)の間に建てられた信州高嶋城の天守もこけら葺であったし、その他の例からみても関ヶ原役前後までは、このように武備からみると不備な古風な天守が建てられていたわけである。




錦帯橋と復興天守(見上げた様子は、まるで岐阜城の山頂天守のようで…)


藤岡先生は主に屋根が柿(こけら)葺きだった点から「武備からみると不備な古風な天守」と評したわけですが、これは言葉を変えますと、柿葺きの天守が、岩国城や鳥取城のようにかなり高い山頂に築かれた天守か、逆に高島城のように湖中の浮城の本丸隅角に築かれた天守という、比較的安全な立地と言いますか、二の丸に侵入した敵から直接の攻撃を受けないような位置にあったことが、古い「柿葺き」の温存につながったのではなかったでしょうか。

すなわち、織豊系城郭や近世城郭の平山城などで“精緻な縄張り”が進む前の城に「柿葺き」天守があったのであれば、一方の「唐造り」についても、岩国城のように中層に設けたスタイルの方が、冒頭の小倉城などより、ずっと原初的な姿であったのかもしれません。


と、ここまで申し上げて来たところで、「古風」というキーワードと、「唐」「南蛮」という呼び方を意識しつつ、やや突飛な連想を申し上げてみたいのですが…



19世紀の報道画家 W・シンプソンが描いた ヒマラヤの建築様式

( from "The Architecture in the Himalayas" 1970, New York )


かねてから私なんぞは、ヒマラヤ山脈の城や山岳寺院は、日本の多聞櫓のある城や天守曲輪に <ものすごく似ている!!> と感じて興味をそそられて来ました。

この件では、私が多大な影響を受けたと感じている建築家の神谷武夫先生によるサイト「インド・ヒマラヤ建築紀行」の、第6章「異形の寺院とコトカイの城郭」などに詳しい紹介があり、上記の絵や以下のもう一枚の絵は、そのサイト中で例示されたものです。


で、ご覧のように一目瞭然、城郭ファンなら誰しも「これって唐造り!!?…」と、思わず人類の悠久の歴史や文化の伝播(でんぱ)に想像力がめぐってしまいそうで、是非とも神谷先生の現地取材の写真もご覧になっていただきたいところです。


サイトの紹介文によれば、ヒマラヤ山脈(インド北部のヒマーチャル地方)の城や山岳寺院には、ご覧の「角塔」という、上部が張り出した塔が付設された例が多いそうなのです。

角塔の下の部分は、水平に組んだ木の井桁の中に石をぎっしり詰めて積み重ねた「ドルマイデ構造」というもの(→まるで栗石を詰めた日本の石垣のよう!?)で、それを高く建てて角塔とし、最上階にバルコニーをまわして、切妻や入母屋の屋根を架けているとのことです。

張り出した部分はあくまでも「バルコニー」だそうですが、その一方で、この建物への出入りは、最上階や中層の木造部分までは「階段」をドルマイデ構造に外付け!して上り下りする形だそうで(→下図ご参照)こうした様子は、とどのつまりは“外敵が来襲した時の立て籠もり”を想定した建築なのだと受け止めざるをえません。

(※また他の考え方として「積雪対策」もありえそうですが、その辺りは神谷先生の紹介文に説明はありませんし、寺院の他の建物にドルマイデ構造が無いところを見ますと、やはりこれは「立て籠もり」用なのではないでしょうか)


0.C.ハンダのスケッチによる、チャイニのヨーギニー寺院

( from "Art and Architecture of Himachal Pradesh" by M.G. Singh )


こういうものを見てからは、またぞろ私の悪い猜疑心(さいぎしん)が頭をもたげまして、ならば「唐造り」というのは、本来的には、何のために考案されたのだろうかという疑問が芽生え、それは美観上の意匠で始まったものではなくて、元々は軍事的な、防御上の工夫だったのでは… という疑いが増して来たのです。

かと言って、ご覧のヒマラヤの城や寺院が、日本の「唐造り」と直接の関係があったなどと申し上げるつもりは毛頭ありませんが、時代や国柄・文化の違いをこえて <下階より上階を張り出す> という行為そのものに、やはり防御的な意味合いがあったのではなかろうか、と思われてなりません。

―――すなわち頑丈な(入口や窓もない)下層部分で敵の猛攻を耐えつつ、その上から敵に反撃を加えて撃退をくり返し、その建物だけでも籠城戦を闘いぬく、といった必死な形相を「唐造り」に感じるようになってしまったのです。

現に、一階はろくに窓もなく、ひたすら敵の攻撃を耐えしのぶだけの(まるで石垣の代用か延長であるかのような)蔵づくりの壁面の櫓や天守は、いくつか事例がありますし、そんな構造の場合、すぐ上の二階からの銃撃などは、引きつけた敵に対する有効な反撃手段だったはずでしょう。


例えば、「××紀功図巻」に描かれた順天城の本丸と天守…


慶長の役における順天城の戦いを描いたご覧の絵は、どこまで正確に実像を伝えたものか解りませんが、天守はけっこう細かく描かれていて、初重の白壁には窓が無く、二重目の雨戸?か堅格子窓?は四方にやや張り出していて「唐造り」であったかのような描写になっています。

もしこれが本当のことなら、中層の「唐造り」は岩国城天守と共通しますし、初重の状態はヒマラヤの「角塔」のごとく、敵の攻撃にひたすら耐えるだけの構造だったのかもしれません。

こうした画像を見るにつけ、「唐造り」というのは、本来の意図は、言わば「石落し」の原形か派生形(=天守直下の銃撃や監視用)のごときものに思えて来たのです。


ですから、ひょっとすると「唐風」「南蛮風」という呼び方も、異国風のエキゾチックな意匠というニュアンスではなくて、その180度逆の、歴史的に常に異民族と対峙してきた人々の厳しい住環境のイメージをまとっていた、ということはなかったのでしょうか?







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年04月21日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!どうも気がかりで急拠UP <佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは…>という心に消えない疑問






<佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは…>という心に消えない疑問


(一昨年の佐賀新聞より)天守台跡の礎石配置から三浦正幸教授らが作成した1階部分の復元図



当ブログでは何回か前の記事から、階段の付け方、表と奥・ハレとケの使い分け、といった観点から、名古屋城や岐阜城を例にあげつつ、天守の原形「立体的御殿」の内部の構造について、何か見えて来るのではないかとアレコレ申し上げて来ました。

そうした中では、一昨年、天守台の発掘調査に基づく三浦正幸先生の興味深い復元案が示された「佐賀城天守」は、一階に書院造りの部屋が並んでいたという驚きの内容もあって、何か関連で申し上げられるのではないかと感じていました。

で、そんな風に思っていたところ、しだいに三浦先生の復元案そのものについて「…ちょっと待てよ」と、ある疑問が頭に浮かび、予定では今回の記事も岐阜城の話の続きのつもりでいたのですが、どうにも佐賀城天守への疑問の方が気になって仕方なく、急拠、こちらの方に(今回だけ)話題を変えてみたいと思うのです。


復元案の発表は一昨年ですから、概略はご記憶のことと思いますが、まずは当時の報道内容をもう一度なぞって、思い出していただくことにしましょう。



佐賀城天守は書院造り 礎石から構造推測

(佐賀新聞 2013年01月07日更新)

 佐賀城天守台跡(佐賀市城内)を調査した城郭研究の第一人者で広島大学大学院の三浦正幸教授(文化財学)は、天守1階部分が「武者走(むしゃばし)り」と呼ばれる廊下が部屋を二重に囲み、内側には広い縁側が付いていた可能性があるとの研究をまとめた。三浦教授は内部構造について「豪華な書院造りだった」とみており、来年以降に著書『天守閣(仮称)』で発表する予定。
 佐賀市教委が実施している現地調査で、柱を支えたとみられる礎石が多数見つかっており、三浦教授は、複雑な礎石の配置から、部屋の間取りを割り出したという。
 それによると、武者走りは幅1.5間(約2.7メートル)で、籠城の際に兵が動きやすいように二重になっており、さらに外周側と内周側との境には、上層の階を強固に支えた柱があったと推測。また、部屋の両側には幅1間(約1.8メートル)の広縁があり、2.5間幅の部屋など「半間」という寸法が多用されているとみて、「部屋に床の間や違い棚を設けた書院造り」と結論付けた。
 三浦教授は「書院造りは安土城や大阪城でみられる。佐賀藩主が大阪城を訪れた際、城作りの参考にしたのではないか」と話している。
 佐賀市教委は来年度にも天守台跡の保存・活用策を検討する委員会を開く予定で、三浦教授の見解も参考に「埋土保存や部分展示など、どんな方策が最適かを見極めたい」と話す。




というものでして、その後、佐賀市教育委員会から現地説明会用の資料がPDFで出ていて、冒頭の図と同じことですが、その一図をご覧いただきますと…



(※資料「佐賀城天守台発掘調査」から引用)


ご覧のような驚きの間取りが示された中で、私の疑問がふくらんで来たのは「二重の武者走り」でして、これは天守が天守台石垣いっぱいに建っていたのなら、その範囲に天守一階の間取りの折り合いをつける必要があるため、そういう結論になったのかもしれません。

つまり <佐賀城天守は天守台いっぱいに建っていたはず> という事柄は、これまでどなたも疑問を差し挟んだことは無かったようですし、この度の発掘調査においても、例えば天守台上に、それらしき雨落ち石は発見されなかったとか、何か理由が挙げられるのかもしれませんが、それにしても、本当にそうなのか… という部分が私の「疑問」の出発点なのです。

そこで私の「疑問」を順序だてて申し上げますと…



疑問の論点【1】

一昨年の復元案では、礎石列の解釈方法から、天守の一階に「二重の武者走り」があったとしていますが、二重の武者走りとは一体、どういう使い方になるのか、(上記の報道文では「籠城の際に兵が動きやすいように二重に」とありますが)よくよく考えますと、どうも私なんぞには戦闘時の具体的な様子が頭に浮かんで来ません。

その逆に、実際の戦闘では、かえって混乱の元になるのではないかという心配もありそうですし、むしろそれは、三浦先生がよく指摘される「江戸軍学の机上の空論」から生まれた設計であった… というのであれば、解らないでもない、といった印象なのです。


疑問の論点【2】

そこで礎石列の解釈方法について、復元案とは違う考え方として、今回発見された礎石の範囲内だけに天守の建物は建っていて、天守台石垣のきわまでいっぱいには建っていなかった、という風に、解釈の方向性を変えてみますと、「二重の武者走り」というような復元を無理に行う必要は無くなります。




疑問の論点【3】

そしてご覧のようなスタイルは、まさに天守台近くの有名な「鯱の門」や、他の城では会津若松城の天守など、石垣上の建物の周囲に「空地」(犬走り)がぐるりとめぐっていた様式として、全国的にいくつも類例がありますし、とりわけこうした解釈方法であれば、以前から懸案の「佐賀城天守は五重か?四重か?」という大問題の決着にも糸口が見えて来るのかもしれません。


左:佐嘉小城内絵図         右:寛永御城并小路町図
 


すなわち、前出の会津若松城天守のケースでは、その空地の外側・石垣のきわには「土塀」(狭間塀)がぐるりとめぐっていて、これが外観上、天守のひとつの階のようにも見えたことは、城郭ファンなら誰もが知る事柄だからです。





ちなみに上記の左右二つの絵図のうち、特に左側の絵図を見ますと、見た目の初重と二重目にだけ「窓」の類いが描かれていて、この初重が実は土塀だったとしますと、そうとうに特徴的な(例えば金沢城の石落し付きの土塀のような)防御性を高めたものだったのか、その正反対に(一階の書院造りに呼応するような)優雅な透き塀がめぐっていたのか、新たな興味もわいて来ます。

しかも絵図のとおりなら、見た目の二重目は、そんな土塀の上から堅格子の武者窓をのぞかせて周囲を威嚇していたようですから、土塀の高さとの兼ね合いで、天守の初重は内部が二階建てになっていて、その二階が「見た目の二重目」だったのかもしれません。


結局、話題の佐賀城天守は、図らずも会津若松城天守に似た手法(構造)を選択しつつ、初重の内部は「一重の武者走り」に囲まれた書院造りと広縁であったように感じるのですが、いかがでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年04月03日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!そして岐阜城の山頂天守と「策彦周良(さくげん しゅうりょう)」を結びつけると…






そして岐阜城の山頂天守と「策彦周良」を結びつけると…


もしも織田信長が、岐阜城を奪取せずに、小牧山城から天下に覇をとなえていたなら、

我が国に“高層の天守”は出現しなかったのかもしれない… と心配になるほど、

岐阜城は「天守」の完成にとって重要な城であったはず。



前回の“コペルニクス的な革新”を示してみた図ですが、信長の岐阜城では、山頂天守と(天守の原形とずっと申し上げて来た)立体的御殿が同時に並存していることに、疑問をお感じになった方がいらしたかもしれません。…

これについて最初に申し上げますと、後に安土城の山頂で統合されて完成した七重天主に比べれば、岐阜城の山頂天守というのは「その一部分」とも「半人前」とも言えそうですが、何より留意したいポイントは、「天守」の第一の要件は、建物の重数ではなくて、城内における「立地」であったはずだと申し上げて来た観点でしょう。

その意味では、ご覧の図には何ら問題はなく、やはり山頂にあったのが「天守」なのだと(たとえ重数がいくつであれ)確信しております。

―――すなわち、城内の曲輪配置の求心性の頂点にあり、「台」などを伴って他からぬきん出た位置に建てられた領主の館こそ、原初的な「天守」であり、それが、岐阜で進化した「立体的御殿」ともう一度、統合(立体化)されて、安土城の七重天主が出現したのではなかったでしょうか。…




「岐阜」「殿守」の命名など、多くを織田信長にさずけた名僧・策彦周良(さくげん しゅうりょう)

その策彦和尚が幼少時、初めて仏門に入ったのは 鹿苑寺(金閣寺)!! だったそうで…



(※ご覧の絵は『集古十種』/ウィキペディアより)


さて、前々回の記事では「どう登るかも天守のうち」という話題の中で、金閣と「天鏡閣」の関係に話が及んでしまいましたが、そもそも「金閣」を織田信長に強烈に意識させたのは、ご覧の策彦周良だったのではないでしょうか?

と申しますのは、策彦と信長が初めて会ったのは永禄11年(=岐阜城奪取の翌年)のことで、足利義昭を擁して上洛を果たしたおりに、信長の側から会見を申し入れて実現したもので、策彦と言えば、禅宗・京都五山の碩学というよりも、遣明船の正使として二度も明に渡った名僧でしたから、当然、二人の会話は寧波(ニンポー)や北京の見聞などに及んだことでしょう。


そんな策彦和尚は、細川家の家老・井上家の出身で、永正6年(1510年)に9歳で初めて仏門に入ったのは京都北山の鹿苑寺!!だったというのですから、私なんぞは、当ブログでも触れた「宮上茂隆説の本来の金閣」の姿を、小坊主の策彦少年が毎日のように仰ぎ見ていた可能性があることに、思わず身震いしてしまいます。

とりわけ渡航・帰国後の『策彦入明記』の様子からしますと、策彦和尚という人は「仏閣」への興味が大変に強かったようですから、なおさらのこと震えが止まりません。


宮上茂隆先生の考察による本来の金閣(『週刊 朝日百科』日本の歴史1986年より引用)


そんな策彦和尚が、中国各地の寺院を訪れた経験の上で、日本を代表する楼閣「金閣」をどう評価していたかは(それを造営した足利義満への人物評を含めて)大変に気になるところです。

信長の側としては、もしも京都の会見の場で、策彦という日本と中国の両方を見ていた賢人の口から「金閣」や天鏡閣について言及があったのなら、それは岐阜築城の大いなるヒントとして受け取ったことでしょうし、その会見の後、フロイスが岐阜城を訪れたのは永禄11年(=会見の翌年)のことでしたから、築城のあらゆる事柄が、信長が感じたインスピレーションのままに超・突貫工事で進んだことを想わざるをえません。


宮上先生の主張に沿った信長公居館のイラスト(『信長の城と戦略』1997年より)


で、ご承知のとおり宮上先生は、信長公居館については千畳敷C地区に楼閣形式の建物を想定し、それが策彦和尚によって「天主」と名付けられたはずだと主張されましたが、この命名は、決して何か“物証”のあった話ではなくて、安土城天主をめぐる『匠明』の記述から逆算した“宮上先生独自の推理”に基づく主張であったことは、当ブログでもご紹介したとおりです。

しかも何故か、宮上先生はそうした主張を展開した論文(『天主と名付けられた建築』日本建築学会大会学術講演梗概集/昭和51年)の中では、前述の <策彦和尚と鹿苑寺との関係> にまったく触れておられない!!わけでして、となると、本来、宮上先生が着目すべきだった「策彦和尚と金閣」の関係に焦点を当てて、アレコレと想像をめぐらせますと、私がかねてから気になっていた“ある事柄”に、もろに突き当たるのです。






ここからは、当サイトの我田引水の度がいっそう強くなりそうで恐縮ですが、以前のブログ記事で、宮上説の本来の金閣は、その外観や内部の構造がどういうわけか、静嘉堂文庫の『天守指図』(→内藤昌先生が安土城天主の復元の基本的な資料とされ、当サイトもイラスト制作の重要な資料とした図面)の高層階の状態によく似ている、と申し上げました。

で、今回は、その「よく似ている」ところを具体的にお目にかけますと…


金閣の二階平面図(上記の左イラストでは真っ黒に塗られた階)


『天守指図』五重目(上記の右イラストでは朱柱で貫かれた五重目・六重目に相当)


この『天守指図』五重目の方は、「屋根裏」に囲まれた中央の各室にご注目いただきたいのですが、この中央付近のプランが、上図の金閣の二階のプランによく似ているわけでして、これらは、両方にそれぞれ最上階の位置をダブらせてみますと、さらに類似性が際立ちます。


宮上先生の考察による本来の金閣の最上階(赤く表示)

(※注:金閣の最上階の階段の位置は宮上先生の著書からの推定です)


そして誠に手前味噌ながら、当サイト仮説の最上階(赤く表示)等々を書き加えますと…


ご覧の手前味噌の部分をご容赦いただけると仮定した場合のことですが、金閣の「東室」というのは、実質的に「階段室」同然の役目を担った部屋でしょうし、そこから「広縁」を介して、最上階の真下にあたる主室と隣り合っている、という全体のプランが“よく似ている”ように感じられて来るのです。

もちろん『天守指図』の信憑性は諸説あるものの、どういうわけか、ご覧のような類似性が見て取れるのです。

これに関しては、生前に『天守指図』と内藤昌先生の安土城天主復元案を徹底的に批判しておられた宮上先生ですから、ご自身が復元した金閣の構造と『天守指図』に似ている面がある、などとお知らせしたら、あの世でムッとされるのか、腰を抜かされるのか解りませんが、やはり前述の <策彦和尚と金閣> という新事情を踏まえますと、これはちょっと見逃せない要素になって来るのではないでしょうか。

そこで、あえて申し上げてみたいのは…




<信長の岐阜築城のインスピレーションは、城の劇的な高低差を活かして、

 山頂に「金閣」を模した天守を、

 山麓に「銀閣」にならった四階建て楼閣を配置した!!?>








ちなみに宮上先生は、山頂の天守については、関ヶ原合戦の後に加納城に移築された「御三階櫓」の前身の建物が、そのまま信長時代から在ったのだろうとした一方で、安土城天主については「この天主は、住宅建築の屋上に宗教建築を載せた構成において、金閣と共通する。」(『図説 織田信長』)とまでおっしゃったものの、両者のつながりや進化のプロセスといった事柄には言及がありませんでした。


その点、やはり私なんぞは「七重の天主」というのは、そう易々とこの世に(突然に)出現するものではないだろう、という感覚が強過ぎまして、だからこそ岐阜城では、山頂のあり方(天守)にも、山麓の御殿のあり方(立体的御殿)にも、それぞれにモデルがあって、一つは金閣、一つは銀閣という、見上げた人々が全員驚嘆する“垂直配置”を信長はもくろんだのでは…… などという妄想に囚われてしまうのです。

そしてそれらの完成を見た信長は、ひょっとするとその場で即座に、次の京の都付近の城では「この二つを合体させてやろう」と心中密かに決意したのかもしれない、と…。







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城の再発見!岐阜城の劇的な高低差こそ「立体的御殿」を一段と進化させたはず






岐阜城の劇的な高低差こそ「立体的御殿」を一段と進化させたはず


北方の百々ケ峰(どどがみね/標高417m)から撮影された金華山・岐阜城のみごとな写真

話題の「千畳敷」は右下の山すそのあたり
(※ご覧の写真はブログ「写真を楽しむ」様からの引用です)



当サイトはこれまで、岐阜城千畳敷の信長公居館をめぐる「階段式御殿説」に対して度々、疑義を申し上げ、あらがう記事ばかりを書き続けてまいりました。

それと言いますのも、以前も申し上げたとおり、かの松田毅一・川崎桃太先生が翻訳したルイス・フロイス著『日本史』全12巻を通じて、階ごとに建物の内部を描写したのは、金閣など5例だけで、そのどれもが「一階」「二階」という表現(訳語)で月並みに階層を示していて、等しく「楼閣」類だと思えてならなかったからです。

1.金閣(第一部五八章)
2.岐阜城山麓の信長公居館(第一部八九章)
3.都の聖母教会(第一部一〇五章)
4.安土の神学校(第二部二五章)
5.豊臣大坂城天守(第二部七五章)

では、それぞれの書かれ方を、ちょっとだけご覧いただくと…


【金閣の文例】

同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の塔のような建物がある。
(中略)二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。
回廊が付いた上階はすべて塗金されていた。
(中略)上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは(空白アリ)パルモ、幅は(空白アリ)パルモで、まったく滑らかで、たった一つの節もない。


【信長公居館の文例】

二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます。
三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望することができます。


(※東洋文庫版の柳谷武夫先生の翻訳文と照らし合わせますと、明らかに、文中の「そこ」「山の側」に、「それ」「茶室」にかかる言葉です。つまり二階は、山の側で水鳥が何種類も泳ぎまわる池を見渡せる構造であり、また三階の茶室の中が「人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅」なのは当然で、何も不自然なことはありません)


【聖母教会の文例】

教会の敷地は狭く、隣接の異教徒たちは、キリシタンがどのように高額を支払っても、その敷地を全然売ろうとしなかったし、司祭の修道院を別の場所に建てることはできなかったから、やむを得ず教会の上に二階(すなわち第二、第三階)を設けることに決めたが、教会はすでに一階(すなわち二階)の梁まで完成していた。


【安土の神学校の文例】

二階には、一つは市の上に展開し、他は心地よい広々とした田園の眺望に向けられた幾つかの窓を付した廊下によって三方囲まれた我らの寝室、または部屋に利用される若干の広間を作った。
(中略)この二階の上に、さらに一階を設け、そこには巡察師の意向に添って神学校として使用される長くよく設備された住居を建てた。


【豊臣大坂城天守の文例】

これら全階層と階段を登るごとに、関白の前を、非常に愛らしく敏捷で立派な衣服をまとった十三、四歳の少女が刀を肩に担いで進んで行った。
(中略)四階までおもむろに登り終えると、関白は疲れたろうから茶を飲まれよ、と言った。すると入念に茶が運ばれて来た。
最終階に登った時にもまた彼は茶を命じ、下へ降りる時にも茶が供せられた。
(中略)(天守閣の)最終階には周囲に突出した外廊がついていた。


このようにどの建物も「一階」「二階」という風に階層が紹介されていて、そういう文体の上では、岐阜城の信長公居館だけが、取り立てて、異なった構造であったというニュアンスは感じられません。

そのため私なんぞはずっと、階段式御殿説は、千畳敷の地形に合わせて、あまりに都合良く、フロイス日本史を読み過ぎていると感じて来ました。


この際、ナレーションやコピーを仕事で書いてきた者として強く申し上げたいのは、上記の引用のごとく、どの文章も、原典の文体を尊重した翻訳文であるため、どうしても日本語としてはツタナイ部分が残っていて、もっと流暢な文体に直してしまうことも出来たのでしょうが、松田先生らはそれをあえて避けた、という経緯なのです。

それはこの文献が、後々の世まで、多くの分野からの研究対象となることを見越した判断でした。


(昭和52年初版『フロイス日本史1』の訳者序文より)

「いかに重要文献であるかは、すでに翻訳された部分に対する史家の評価により十分立証されており(中略)それを簡潔にして平易な文章に変えることは、きわめて容易な業であると言いたいが、それでは原著者フロイスに礼を失することになるし、その文体の面影を損なうことになりかねず…」


ですから、よく話題になる信長公居館の「三階は山と同じ高さで」にしても、仮に階段式御殿説の考え方に基づくなら、フロイスはもっと単純に「三階は山の中にあり」とでも書けばよかったはずのものを、わざわざ「同じ高さで」という複雑な表現で書き示したわけで、そんな原著者の意図や苦心が、階段式御殿説には反映されていないと思うのです。


おそらく「山」とは千畳敷のある中腹の「丘」のことで、それと同じ高さに三階が…

(※ちなみにこれは、以前に話題となったアルカラ版等の文献でも、同じような事柄が言えるはずです)


上図は何度もお見せして来た一連の図の新バージョンですが、これらには長らく「一階」についての注釈が付いておりませんでした。

フロイス日本史によれば、一階は部屋数が二十近くもあったとしていますし、この階の説明にいちばん多くの文言を費やしていること、そしてこの建物全体を天守の原形「立体的御殿」とする立場から考えますと、岐阜城の場合、その一階には「対面所」や「御座ノ間」をふくむ諸室が並んでいたと想定しても、特段の違和感は無いはずでしょう。




これで当サイトが考える「四階建て楼閣」のアウトラインは全て申し上げたことになりますし、また前回の記事のように、千畳敷C地区の御殿は、例えて言えば“織田信長の天鏡閣”とでも申すべき、広大な山里曲輪群(千畳敷)にふさわしい二階建ての会所だったのではないかと考えております。

しかし、ですが、ここに至ってもなお、諸先生方がどうしても「階段式御殿説」にこだわる理由を想像いたしますと…

それはきっと、岐阜城の山麓全体の御殿群の「表」と「奥」の使い分けや、山頂付近の城砦を含めた「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」の空間の想定に対して、やはり四階建ての「楼閣」などはそぐわない、と先生方に思われているからではないでしょうか。


例えば、発掘調査ホームページの「地形復元図」に勝手に色づけさせていただきますと…


ご覧の図で申しますと、当サイトの「四階建て楼閣」は、足利義政の東山山荘の「銀閣」の位置にならって山麓の平地(ひらち)の部分に建てられ、それはちょうど図の「表の領域」昔御殿跡にあたるのだろうと申し上げて来ました。

ですが、一般的に「楼閣」というのは、言わば庭の“景物”の類いに含まれる建築でしたから、そんなものが「表の領域」 = 武家の公式儀礼の場である「表」の御殿群の中にまぎれて建っていたなど、もってのほかだ!! という感覚が、先生方の第一印象にはあったのかもしれません。


しかしその一方で、天守の発祥のナゾを解き明かしたい、と思ってやって来た私の立場からしますと、近年、岐阜城には「楼閣形式の居館は無かった」「山頂にも信長の時代は天守など無かった」とおっしゃる先生方がどんどん増えているようで、ならば次の安土城で、いきなり!!七重天主が出現したことを、どう説明できるのでしょうかと、今後への不安感に襲われてしまう今日この頃なのです。


やはり私なんぞの感覚としては、信長の<小牧山城−岐阜城−安土城>という三つの城は、天守の原形「立体的御殿」の発展過程における<ホップ−ステップ−ジャンプ>に違いない、という見立てが、どうにも捨てられません。

とりわけ岐阜城は、その劇的な高低差が「立体的御殿」を一段と進化させたはずだと感じられてなりませんで、そこでは「立体的御殿」でなければ出来ない“ある革新”があったものと考えています。



ハレとケの空間を垂直にまたぐ「立体的御殿」ならではの、コペルニクス的な革新……



どうでしょうか。これならば「立体的御殿」の発展過程における岐阜城の位置づけ、そして次の安土城で七重の天主が出現した経緯を説明するうえでも、かなりの整合性を見い出すことが出来るのではないでしょうか?


(※次回に続く)


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2015年03月07日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!例えて言えば織田信長の「天鏡閣」?…岐阜城千畳敷C地区の御殿をめぐる妄想






例えて言えば織田信長の「天鏡閣」?…岐阜城千畳敷C地区の御殿をめぐる妄想





前回記事の「どう登るかも天守のうち」という話題の続きで、是非とも「岐阜城」のケースを申し上げてみたいと思ったのですが、そのためには前置きとして、かねてから懸案の岐阜城千畳敷下の「四階建て楼閣」について、いま一度、念押しをしておかねばならないという条件がつくようです。

で、このところ「YOMIURI ONLINE 中部発」で連載中の「図解 天下人の城」シリーズや、以前の「図解 信長の城」シリーズなどは、千田嘉博先生の新しい見解も踏まえていて、たいへんに面白く、毎回、興味深く拝見して来ました。

ただ一つだけ残念なのは、そんな注目のシリーズにおいても、岐阜城の千畳敷については、次のようなイラストと共に、いわゆる「階段式御殿説」がいまだに紹介されていたことでしょう。


「図解 信長の城 6回 岐阜城の麓の館は4層構造」より


ご覧のイラストは、発掘調査チームによる呼称「館の入口」奥の曲輪に「1階」、「C地区」に「2階」、そして「B地区」に「3階」「4階」という風に、階段式の御殿が信長の時代にはあって、それらの全ての御殿が、さも一体化して連続していたかのように見える角度でイラストが描かれています。

しかし、このような構造の御殿群は、当の発掘調査の成果として、C地区の東端に「巨大な石を背景とした庭園」が見つかり、そのため、1階〜4階の全てが一体化した階段式の御殿は、物理的に不可能であることが判明したばかりです。

そこでこの際、失礼は承知のうえで、あえて上記のイラストに加筆させていただきたいと思うのですが…




千田先生も著書では「1階」から「4階」まで全部の御殿がイラストのように連なっていたとはおっしゃっていませんし、ここは段々畑のような四段の曲輪のうち、下の二段(入口地区とC地区)には立体的にまたがる(二階建ての?)御殿があった可能性はあるものの、その先にはC地区の庭園があり、そこで御殿の構造的な接続が途切れていたことは千田先生も認めておられます。


(千田嘉博『信長の城』2013年より)

発掘では曲輪3a(=イラストの「1階」部分)から曲輪5a(=同「2階」部分)をつないだ階段全体が、段石垣を利用しつつ建物で覆われていた可能性が指摘されています。

曲輪5a
(「2階」部分)は破壊が激しく建物は見つかっていませんが、曲輪の端から園池をかたちづくった州浜と思われる遺構を検出しており、庭園をそなえていたとわかります。


発掘の成果から、C地区の庭の東側(奥側)には巨大な石が庭の背景として並べられていて、どう見ても、それらを、一体化した御殿群が“乗り越える”ことなど不可能な状態なのですから、もう「増築を重ねた温泉旅館のような構造」という考え方は、無理が出て来たはずだと思うのですが、いまだに上記のようなイラストが示されるのは残念でなりません。

とは言うものの、上記のイラストには注目すべき表現もありまして、それは入口地区とC地区にまたがる立体的な二階建て御殿から、橋廊下と登廊が、千畳敷下との連絡用に延びていたと描いている点でしょう。




この橋廊下と登廊は、昭和62年までの発掘調査ですでに見つかっていた礎石群に基づく復元でしょうが、これが今回、是非とも申し上げてみたい“妄想”の引き金になるのです。



2013年7月31日放送 NHK「歴史ドリームチーム 金閣の謎を解き明かせ」より

足利義満が北山第に建立した「天鏡閣」と金閣の推定復元CG



左側の見慣れない建物「天鏡閣」は、応永4年1397年の足利義満による北山第の造営時に、金閣(舎利殿)の北側に建てられた二階建ての会所であり、金閣との間が橋廊下(複道=空中廊下)でつながれていたものの、その後、義満の死後に南禅寺に移築されて(→南禅寺方丈閣)焼失した幻の建物として知られています。(『臥雲日件録抜尤』等の記録より)

ご覧のNHK番組のCGでは、島尾新教授(日本美術史)らの復元考証に基づいて、その「天鏡閣」を金閣のすぐ北側の鏡湖池の水際にあったとする状態で描いておりましたが、ここで注意すべき基本情報は、現在までに鹿苑寺の境内では「天鏡閣」のそれらしき遺構は一つも見つかっていない、という点でしょう。そこで…


【 私なんぞの妄想的!!「天鏡閣」のイメージ 】

文字どおり「天鏡閣」という雅名からのダイレクトな連想として、

「天」空に「鏡」のごとく映った楼「閣」であったのなら、

こんな風に、もっと背後の丘の上に建っていたのかも……



天鏡閣… まさに“写し鏡”のごとく… という所をポイントにした、幻想的な仕掛けを思いっきり妄想してみたのですが、どうでしょう。

この突拍子もない“妄想”の動機をもう少しだけ申し上げますと、天鏡閣の遺構は現状の境内からは見つかっていないため、ひょっとすると、ご覧の丘の上にある池「安民沢」の中に!?「金閣」同然に(もしくは高床式の水上家屋のように)建っていたのではあるまいか… という素人考えも手伝った妄想でありまして、もしそうであったなら、金閣との間は、合わせて100mを超える、長大な橋廊下と登廊でつながれていたことになります。


金閣寺(鹿苑寺)境内図 / 京都市「フィールド・ミュージアム京都」より


背後の丘の上の池に建つ、高床式の二階建ての会所…… 実は、そんな風に「天鏡閣」を想像して描いた絵もあるようでして、もちろん織田信長の時代には、すでに天鏡閣はこの世から失われていたわけですから、信長の場合にしても、それは伝承と想像力にまかせた産物にならざるをえません。

それにしても、足利義政の「銀閣」にも橋廊下が接続していた可能性が言われておりますし、そんなダイナミックな造形には、信長なら、思わず飛びついたのではなかろうかと…

したがって岐阜城千畳敷C地区の二階建て御殿からも、当サイトが申し上げて来た「四階建て楼閣」に向かって、長大な橋廊下と登廊が、ずうっと延びていたのかもしれない… などという、まことに勝手な妄想が止まらないのです。




【 余談の追記 】

上記の「安民沢」については、鹿苑寺の庭園内の調査で、池の浚渫工事をした時の池底の地形図が、京都市埋蔵文化財研究所による報告書に載っております。

報告書によれば、池の中央付近では、本来の池底の表面には何も無かったそうですが、図の等高線は高さ20cm間隔ですから、池の西半分(=図の左半分)は、けっこうガタガタした地形のようで… 何の跡なのか、念のため図を引用しておきます。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年02月21日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!名古屋城の新・旧天守における「階段」とエレベーターの使われ方






名古屋城の新・旧天守における「階段」とエレベーターの使われ方


戦災焼失前の名古屋城天守と本丸御殿(※写真は「Network2010」からの引用です)

改めて、天守と御殿は一連のもの(雁行する建築群)という印象が…



… やはり元来の姿は、本丸御殿が「表の御殿」、天守(立体的御殿)が「奥の御殿」なのか?

一方、現在の復興コンクリート天守の、吹き抜けらせん階段、土産物店、来館者用エレベーター


現状の復興天守を将来的にどうするのか(耐震改修による延命か?木造復元か?)で話題の名古屋城ですが、あるニュースでは、ご覧のエレベーターのメーカー保守期間が平成28年に終わるそうで、新しいエレベーターへの入れ替えを含めて「耐震化工事か木造復元か早急な判断が望まれる」という監査結果が、市の包括外部監査人から出たそうです。

まあ、これで即どうなるという話でもないでしょうが、思えば当ブログでは、天守の原型「立体的御殿」の階段の配置のしかたは、きっと“立体化の成り立ち”と深く関係していたはずだろう、などと申し上げて来ました。

そういう意味では、実は <どう登るかも天守のうち> だったのではないか、という気もしてなりませんで、ちょうどいい機会ですので、名古屋城天守の「階段」とエレベーターをめぐるお話を、少々付け加えさせていただきたいと思うのです。


二条城・二ノ丸御殿の平面図(抜粋)

書院造の「鉤(かぎ)座敷」の構造

鉤座敷の作法と、雁行(御殿のつながり方)には密接な関係があった


ご覧の図は以前の記事でお見せしたものですが、もしこのような御殿が縦に重なって立体化したとなれば、それらをつなぐ「階段」の位置は、やはり要注意の案件だったはずでしょう。

そこで当ブログが注目したのは、名古屋城の大天守にもあった「二系統の階段群」でした。


二系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか?

【模式図】…それならば「立体的御殿」は階段にも「表」と「奥」があったのでは??

これなら、不測の鉢合わせも起こらずに済みそう…



この模式図をお見せした時は、あまり詳しく申し上げなかったのですが、図をよくご覧いただきますと、「表の階段」が途切れた上の最上階(図では三階)が、ちょっと変なことになっているのがお分かりでしょうか。

この図のままですと「奥の階段」の導線と、最上階の「鉤座敷」の導線とが、ちゃんと噛み合っておりませんで、この点を例えば、実際の名古屋城天守はどうなっていたかと『金城温古録』で確認してみますと、実は、最上階は「鉤座敷」が逆回り! という面白い仕組みになっていたのです。


復興コンクリート天守の空撮

これに旧天守の各階の床面をダブらせ…

さらにその上に「二系統の階段群」の位置をダブらせると…


それぞれの階段は、手前の階段群が「御成階(はしご)」、奥の階段群が「段階」と呼ばれておりましたが、これは『金城温古録』によりますと、寛永11年に三代将軍・徳川家光が登閣した際に、奥の階段では地階で井戸や流しのある「御勝手」をお通りいただくことになり、それは大変に恐れ多いため、手前の階段も使ったからだろう、と記しています。

ですから、両方の名称の違いにこだわるのはあまり意味が無いのかもしれず、むしろ何故、手前の階段は“三階(天守台上の三重目)までしか”設けられなかったのか? という原因の方が、ずっと重大であるように思われてなりません。

と申しますのは、もし本当に手前の階段が「表の階段」をルーツとしたものなら、それはやはり「立体的御殿」全体の使われ方! に由来した現象だったかもしれないからです。





例えばご覧の写真のごとく、五重天守の三重目が「第二の望楼」とされた例もあったのかもしれない、などと申し上げた件を思えば、ひょっとすると原型の「立体的御殿」では、中層階までが領主本人とその家族や内々の訪問客も想定したエリアであり、そこから上は、それこそ、領主本人しか立ち入れないような領域であったのかもしれません。




そして問題の最上階ですが、名古屋城の旧天守では、入側縁に囲まれた四つの部屋は、それぞれご覧のような名称になっておりまして、つまりここでの「鉤座敷」の導線は左回りであり、天守を登った最終的な終着点は、南東側の、本丸御殿に面した側の部屋になっていたわけです。




本丸御殿では奥へ、奥へ、と進んでいた「鉤座敷」の導線が、何故か、天守の最上階になると逆に表側へとターンして来ていた…… これはいったい、どういうことなのか…。

ここで「立体的御殿」全体の使われ方を、思い切って想像してみますと、登閣の終着点が表側だったということは、その意味は「本丸御殿」の方角というより、もっと正確に申せば「大手門」の方角に出るための構造だったのではないでしょうか。

すなわち、その構造は、登る人物の側の便宜や作法のためではなくて、最終的には外の城下や城内の人々からの「視線」が最優先の事柄であり、高欄などで<領主がそこに姿を現すこと>が「立体的御殿」のセオリーになっていたのではなかろうか… という気もして来るのです。


このことは他の城においても、例えば萩城天守の場合、四代目藩主・毛利吉広が、初入国のおりに天守に登ったという記録がありますが、その時、吉広は最上階の部屋の南側に着座した、と書かれている点とも符号しそうです。

と申しますのは、ご承知のとおり萩城天守は、その南側に二の丸以下の各曲輪や城下町が広がっていた一方で、逆に本丸御殿は、天守の北側にあったからです。

(※ただし地形の問題で、城下から天守が見えにくい、という萩城の設計ミス?はご愛嬌でしょうか…)


さらに、これは後出しジャンケンのようで恐縮ですが、前出の二条城の二ノ丸御殿においても、いちばん奥に示した白書院だけが、慶長の創建時は「鉤座敷」が逆回りだった可能性が言われているのも、ご存知のとおりでして、これもまた何かの符号かもしれません。


以上のごとく、名古屋城の旧天守における「階段」の様々な意味を考えますと、現状の復興コンクリート天守は“展望台付き資料館”として実に単純でありまして、「階段」の位置など問題外で、地階から最上階まで便利にすばやく移動できることが必須条件なのですから、上下の移動は「エレベーター」かエスカレーターでなければ苦情が出てしまいます。





今回の記事は <どう登るかも天守のうち?> という観点から申し上げて来ましたが、名古屋城の旧天守の「階段」のつけ方には、「立体的御殿」の成り立ちや、天守とは何だったのか、という大仰な話をひも解くヒントが隠れていそうです。

ひるがえって、それ以降の徳川の巨大天守 = 例えば江戸城天守ですと、やはり二系統の階段群があっても、それらはもう「表」「奥」は関係なく、ただ単に左右に並列していた疑い(→江戸期の再建案の指図!)もあることと比べますと、名古屋城天守というのは、実に稀有(けう)な建築であったと言わざるをえず、それもこれも、小堀遠州と中井正清という最強コンビの手になるエポックメイキングな建築だったからでしょうか。…


江戸城天守の再建案にみる「階段」の位置(→ 内閣文庫蔵の史料をもとに作成)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年02月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!糸杉が描かれた「死の島」と大坂夏の陣図屏風の天守






糸杉が描かれた「死の島」と大坂夏の陣図屏風の天守


前回、前々回と、当サイトがスタートした当時(2008年)のリポートをWeb形式に変えてお届けしましたが、それらの内容は、これまでのブログ記事と部分的な重複(焼き直し)もあって、そうしたネタばれの部分も露呈してしまったようです。

そこで今回の記事は、そうした白状のついでに、リポートでご覧いただいたイラストについて、今だから申し上げたい、作画の裏話として、豊臣秀頼の再建と思われる大坂城天守の右脇に描かれた「糸杉」の、ちょっと怖いお話を申し上げてみたいと存じます。


※             ※



ですが、その前に「秀吉の大坂城・前篇」の論拠に関わる追記を、ほんの少しだけさせて下さい。

それは、羽柴(豊臣)秀吉はなぜ「関白政権」を選択したのか?という理由について、リポートでは今谷明先生の学説(=小牧・長久手の敗戦が征夷大将軍の任官の障害になったというもの)を挙げさせていただきましたが、この今谷説をめぐっては「秀吉は自ら征夷大将軍を断った」との記録もあり、ご懸念の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

例えば堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』では「秀吉が「将軍の官」を断ったことは『多聞院日記』天正十二年十月十六日条に明記されている。(中略)信長も秀吉も将軍任官を望んだがはたせなかったとすることで、将軍となった家康の正当性を強調し、さらには将軍職の神聖化をはかった徳川史観である。」とも書かれています。

そのように秀吉が自ら将軍職を断っていたのなら、小牧・長久手の敗戦のせいで将軍職を断念したという今谷説は、説得力を失ってしまいそうですが、しかし私なんぞの感想としましては、その「断った」時期が大問題だと思えてなりません。

すなわち『多聞院日記』にある天正十二年十月十六日という日が、どういうタイミングなのかと申せば、リポートと同じ年表にその「時期」を書き加えますと…






ご覧のように秀吉が「将軍職を断った」時期というのは、秀吉が織田信雄と和睦し、矢継ぎ早の任官昇叙が始まるのとほぼ同時期でありまして、あえて申し上げるなら、これらはすべて一連の出来事だったのではないか、という気もしてまいります。

つまり秀吉としては、この頃にはもう、矢継ぎ早の任官昇叙でいずれ従一位・太政大臣にも登り詰める“めど”は得ていて、したがって将軍職はもはや関心の枠外になりつつあり、そうした直後に、たまたま関白職を近衛信輔から奪取するチャンスにも恵まれた、という風にも見えるわけです。

ですからこの時期には、秀吉自身が今谷説の言う「王政復古政権」をはっきりと自覚(選択)していたのかもしれず、そんな秀吉の心理をうかがえるのが、前出の『多聞院日記』の記録に付け加えられた秀吉の一句ではないのでしょうか。

 冬ナレト ノトケキ陰ノ 光哉
(冬なれど のどけき陰の 光かな)

…厳しい冬かと思ったら、うららかな日の光も見えて来た、と詠んでいるようでして、結局のところ、「将軍職を断った」という記録は、むしろ今谷説を“補強”する材料でさえあるように、私なんぞには感じられてしまうのです。


※             ※



さて、それでは今回のメインテーマ「糸杉」の話題に戻りますが、まずはこれらをご覧下さい。


大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)の天守部分と、当サイトの推定イラスト



ご覧の3点でお判りのように、屏風絵の天守の右脇には、杉かヒノキか分かりませんが、「針葉樹」が特徴的に描かれていて、この木々は、推定イラストの方では省略して描いておりません。

これは作画した当時、天守の脇に「松」を描いた屏風絵なら他にいくつも思い当たり、また実際に天守の脇にあった木としては熊本城のイチョウなども思い浮かびましたが、針葉樹の「杉」ですと、城外からの見通しをさえぎるため、土塀の手前などにはあったものの、天守の脇という例はちょっと聞いたことが無かったため、本当だろうか… と作画に加えるか否か迷ったのです。

そんなおり、ふと、西欧では「糸杉」の木が象徴的に描かれた絵として、こんな絵もあるのだと初めて知りました。

かのヒトラーが、同じ画家による三枚目を所持していたという「死の島」です。


アルノルト・ベックリン画「死の島」1880年制作(ウィキペディアより)


(中野京子『怖い絵2』2008年/「死の島」解説文より)

水面からは、ごつごつ赤茶けた岩島が立ち上がり、その懐(ふところ)には不気味な糸杉が何本も高くそびえている。
糸杉は死の樹だ。
黄泉(よみ)の国の支配者ブルトンに捧げられ、不慮の死を司る女神アルテミス(ディアナ)の聖樹でもある。太陽神アポロンは、誤って自分の鹿を弓で殺した少年キュパリッソスを、永劫に嘆き続けることができるようにと糸杉へ変身させた。またこの木は神々の彫像や棺の材料として用いられ、しばしば古代神殿跡や墓地に植えられる。

(中略)
糸杉、棺、小舟、白装束、そして岸壁に穿(うが)たれたいくつもの人工的横穴、即(すなわ)ち埋葬所。
さまざまな死のモチーフを散りばめたこの絵は、陰鬱な死の気配に満ち、人が生から死へ向かうときの気分とでもいうべきものを濃密に伝える。





この絵で一躍、19世紀末のドイツ画壇で人気を博し、その陰鬱なイメージにも関わらず、多くのドイツ人家庭でこれの複製画が飾られ、若きアドルフ・ヒトラーもそうしたファンの一人で、のちに本物(1886年制作の三枚目)を手に入れたというベックリンの絵です。

『怖い絵』シリーズで知られるドイツ文学者の中野京子先生の解説のとおり、この絵の中心の「糸杉」というのは、欧州やイスラム文化圏では「死」の象徴でもあるそうで、その木部に虫除けの効果があるため、腐敗を防ぐとして死者の埋葬に使われ、そのためか、キリストが磔にされた十字架は、この木で作られたという伝説まであるそうです。


墓地の糸杉 / ベックリンの娘も埋葬されたフィレンツェのイギリス人墓地(ウィキペディアより)


ちなみに、日本のスギやヒノキは日本列島周辺の固有種だそうですから、ここで言う「イトスギ」とは別種の木になるわけですが、キリシタン大名・黒田官兵衛の子、黒田長政が、問題の大坂夏の陣図屏風の発注者であるとも言われて来た経緯を踏まえますと、天守脇の植樹としては異例な「針葉樹」は果たして何なのか… このままイラスト化をしても良いのか… まったく判らなくなってしまったのです。




リポートの論点においては、この天守が、大坂夏の陣図屏風(右隻)の右端にある徳川秀忠本陣と徳川家康本陣の対極(=絵の左端)に位置づけられたのは、ある特別な意図が込められた配置であって、それは「天守」と「征夷大将軍(幕府)」が本来は対極的な存在であり、まさに豊臣関白家vs徳川将軍家の闘い(=大坂の陣)の政治的な図式を、象徴的に示した構図だったのではないか? という仮説を申し上げました。




と同時に、この絵の構図はご覧のとおり、左右で「敗者と勝者」「死者と生者」という対比やコントラストも強烈でありまして、そんな構図のいちばん左端(!)に、もしかして、キリシタンの“死の象徴”イトスギが、あえて描き加えられたのではあるまいか… などという、悪い想像も出来てしまうのです。

考え過ぎとは思いつつも、もしそうであったなら、それを「封印」と見るか、「鎮魂」と見るかで、これまた、注文主の本音はやや違って見えるわけなのです。



合掌…。(豊臣秀頼像/方広寺蔵)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年01月23日(Fri)▲ページの先頭へ
【続報!!】予告のリポート「秀吉の大坂城・前篇」がWeb形式になりました






予告のリポート「秀吉の大坂城・前篇」がWeb形式になりました


やはり年度リポートの作業は時間を要してしまい、アップが遅れました。

2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」がWeb形式になり、文章もブラッシュアップして、作図も大幅に増やして読みやすいものにいたしました。

もちろん無料です。どうぞ、上のバナーからご覧になってみて下さい。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年01月01日(Thu)▲ページの先頭へ
【お知らせ】2008年の「渾身の第1弾リポート」がWeb形式になりました!!






2008年の「渾身の第1弾リポート」がWeb形式になりました!!


新年にあたり、当サイトも今年2015年を新たなスタートの年にしたいとの思いから、第1弾のリポート「豊臣秀頼の大坂城再建天守 −復元篇−」を、これまでのPDF形式からWeb形式に変え、文章も部分的にブラッシュアップしたうえ、作図も適宜くり返すなどして、グンと読みやすいものにいたしました。

どうぞ、上のバナーからご覧になってみて下さい。

なお次回は、2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」も同様のWeb形式に変え、もちろん無料で、自由にご覧いただける形に変えさせていただく予定です。ご期待下さい。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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