城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2015/05

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2015年05月29日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!「シロ」(城)は「キャッスル」と兄弟関係にあたる外来語!!!という驚天動地の異説






「シロ」(城)は「キャッスル」と兄弟関係にあたる外来語!!!という驚天動地の異説




前回の真田丸の記事は、当サイトの“天守が建てられた本当の理由”を探りたいという趣旨に反して、この「一回だけ」ということで、天守とは全く関係のない話題にさせていただき、そのうえ <丸馬出しに偽装> などという縄張り研究ではオキテ破りの暴走妄言を申し上げたところ、意外にも、バナーの応援クリックがいつもより多めに頂戴できまして、ちょっと悩ましい状態です。

で、決して当ブログは“天守が建てられた本当の理由”を探る方向性を変えるつもりはありませんが、この間隙をぬって、以前に知人に問われて上手く答えられなかった(天守とは関係が無いものの、どこかで記事にしたかった)一件を、ブログの通算200回目の記事ではありますが、ここで申し上げてしまおうかと思います。


それは当時、私が城マニアだと知った番組プロダクションの上司が、“中国人の言う「城」には広大な城壁都市も含まれるんだよね”と(さも日本の侍は自分の身しか考えなかったのかという、やや非難めいたニュアンスのある)問いかけをして来た時、“そうでもありませんよ”と反する事例をいくつか挙げたものの、あまり納得した風ではなく、その後になって“…ア、櫻井先生の話でもすれば面白く受け答えできたかな”と私自身が後悔したという件です。

その櫻井先生の話というのが、いま我々が城を「シロ」と呼んでいるのは、なんと、ポルトガル語に由来した外来語だという説があるそうで、もしそのとおりなら「シロ」は英語の「キャッスル」(castle)とは兄弟関係の言葉かもしれない、というのです。



櫻井成廣著『戦国名将の居城』(1981年)の口絵


(同書所収の「跋」より)

日本語で城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してからで、古い日本語ではキと呼んだ。
キは限るという意味で一定の地域を限って敵の侵入を防ぐ場所を指し、磯城(しき)は石で仕切りをした城郭であり、琉球語のスク、古代朝鮮語のスキと同じ語源だという。

シロというのはポルトガル語の silo が日本語になったのだという説を聞いたことがある。
現代のポルトガル語で silo は穀物を入れる穴倉を意味するが、語源を同じくするドイツ語の Schlos は閉じ込めるという意味の動詞からきた名詞で城郭を意味するから、古いポルトガル語にもそういう意味があったのだろうか。
日本語のキと本来の意味は一致するようである。
Schlos はフランス語の Chateau 英語の Castle と同義語でラテン語の Castellum からきたともいう。




櫻井先生はいったい誰からこの説を聞いたのか、私はその後も不勉強で把握しておりませんが、これが本当のことなら「シロ」は「カステラ」や「テンプラ」と同時期に来た外来語だった!!という驚天動地の事態となり、上記のごとく「城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してから」とも言い切っておりますから、櫻井先生はこの異説にかなり本気だったのかもしれません。

現在の一応の通説でも、古代に訓読みで「キ」であった「城」が、やはり中世以降に「シロ」と読む(呼ぶ)ように変わったのだそうで、その経緯を例えば内藤昌先生は…


(内藤昌『城の日本史』1995年より)

「城」はもとより音で「ジョウ」と読む。訓では「シロ」であるが、これは「シリ(領)」の古い名詞形と推定されている。
「領有して他人に立ち入らせない一定の区域」を示すわけで、たとえば、苗を植え育てるところを「苗代」(なわしろ/播磨風土記)といい
…(中略)ただここで留意すべきは、中世以降のように「シロ」が城郭を意味しないことである。

「シロ」に「城(き)」を当てるようになったのは、平安京創設に当たって「山河襟帯、自然作城」ところの「山背(やましろ)」国を「山城(しろ)」国に読み変えたのに始まるという(松屋筆記)。



内藤先生の説明は言い方が逆のため、ちょっとこんがらがりそうですが、要するに、日本人が城を「シロ」と読むようになったのは、平安時代に「山背(やましろ)国」が「山城(しろ)国」に変わったことの影響だろうというのです。

現状ではこの説明が一般的ではあるものの、西ヶ谷恭弘先生は「山背国が平安遷都により山城国にかわったことに由来するのではないようだ」(『戦国の城』)と否定的でありまして、西ヶ谷先生は、古代山城の岩座にあった神の憑代(よりしろ)や社(やしろ)の「シロ(代)」が、中世山城や戦国山城の、威力や霊力のこもった防御空間に見立てられたのではないかとしています。

そして三浦正幸先生は、やはりこの件での言及は著書の中に見当たらないようですから、どうやら、我々がいま「城」を「シロ」と呼んでいる由来や契機は、実は、よく解っていない(!!)という、お城ファンとしては、かなり意外な状況なのです。


ですから櫻井先生の驚きの「外来語」説を、ただ一笑に付しているわけにも行きませんで、ここは冷静に「外来語」説を一旦そのまま受け取ってみますと、そこにはちょっと意外な“光明”が見えて来るのかもしれません。


四角い都城制の城壁都市の姿を残していて人気の中国・平遥(この右側に碁盤の目の町家)


何を言いたいのかと申しますと、欧州の「Castle」「Chateau」は当然のごとく、ご覧の中国などの都城制の城壁都市は含まない概念ですから、もしもそうした「キャッスル」等と「シロ」が兄弟関係にあったのだとしたら、いま我々が日本の「城」を訓読みで「シロ」と読むとき、それは本来的に、都城制の城壁都市は含まない呼び方なのだ、ということが言えてしまうのかもしれません。
!!…

となれば、冒頭でお話しした日本の「城郭」の説明をめぐる面倒な問題は、例えば××城の読み方を「××ジョウ」ではなくて「××のしろ」と訓読みに変えるだけで、瞬時にクリアできるのかもしれない、ということにもなるのでしょう。

そのようにして日本中の城を、あえて「古代からのキ・ジョウ」と「中世以降に限るシロ」とで、もっとずっと意図的に呼び分けるなら、そこから先は、まさに名は体をあらわす状態になって、すっきりしそうです。


(※ただ、櫻井先生の「城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してから」という記述については、ポルトガル人の種子島来航が天文10年〜同12年1543年の間とされるのに対して、古語大辞典(角川書店/昭和62年版)にこんな文例が載っているそうで興味津々です。

「谷のしろへつめ候とて、どしめき候き。さうとよりしろを手をあはせ、みなとりまはし候由申候」(祇園執行日記/天文3年)

この日記文に基づけば、タッチの差で「しろ」の使用がポルトガル人来航よりも早かったことになりますが、このあたりはそもそも微妙な話であり、ポルトガル海上帝国がマラッカを占領したのは、30年も前の永正8年1511年のことで、ちょうどその前年に、鉄砲が大陸から日本に伝来していたという話が『北条五代記』にあったりもしますから、実態の解明はまだまだ先のことではないでしょうか…)



で、最後に、いつもどおりの暴走妄言を付け加えさせていただきますと、天下の府城として碁盤の目にならった城下町を「惣構え」で囲った伏見城、豊臣大坂城、江戸城などはそのままとしても、それら以外の中世からの城については、例えば八王子城は「はちおうじじょう」と呼ぶのではなくて「はちおうじのしろ」、滝山城は「たきやまのしろ」という風に、呼び方(読み方)を変えていく方がいいのかもしれない…

本居宣長のやまと言葉の研究ではありませんが、この21世紀、近隣諸国(とりわけアノ国など)からの観光客がどんどん増えていく時代にあっては、漢字の使い方(日本語としての読み)について、事前の理論武装をおこたらない方が、ひょっとすると、何かといいのかもしれないと、「外来語」説の思わぬメリットに目がいってしまうのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年05月16日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…






話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…


ゴールデンウィークに大坂では「真田丸」の復元ジオラマが完成してお目見えしたそうで、いつか現物を見てみたいものですが、その復元には千田嘉博先生も監修で関わったとのことで、報道写真で見るかぎり、これまでに登場して来た真田丸の様々なイラストやCGとも違った点があるようです。

ご承知のとおり、真田丸と言えば、従来は、大坂城内と簡単に行き来できる構造と考えられて来たものの、最新の等高線調査の結果、城とは大きな谷を隔てた“孤立無援の砦”だった可能性が高い、という指摘が千田先生からあったばかりで、ジオラマも基本的にそうした考え方に沿っています。

写真で見たジオラマは、東西2カ所の出入り口がものすごく印象的で、そのため一見、これはやはり巨大な「丸馬出し」のようにも見えてしまうのですが、千田先生によれば“孤立無援の砦”であって、だからこの不思議な砦を「戦国時代最高の出城」と評したものの、決して“戦国時代最大の丸馬出し”とは言っていないところが、大きなミソのようです。


「真田丸」復元ジオラマ 完成イメージ(天王寺区のHPより)


かと思えば、時系列的には後先(あとさき)してしまいますが、先ごろ、城郭史学会の坂井尚登さんが、たいへんに精緻な地形考証を踏まえた「正方形に近い五角形」という画期的な真田丸の復元案を発表されました。

坂井さんは地形図の専門家であり、どの会合でも一目おかれている方ですから、千田案と対照的な「形」を提起されたことが、今後どうなっていくのだろうと、はるか遠方から遠目で見ていましたら、『歴史群像』6月号に、その坂井案を基本としつつ、軍事学的な検討を重ねた記事とイラストが登場し(文=樋口隆晴、監修=坂井尚登、イラストレーション=香川元太郎)、その記事の中では千田案への厳しい批判もあったりして、一気に、まるで大坂の陣のごときガチンコ状態が勃発したようです。


―――ということで、この“大坂の陣”を、おそらくは淡路島あたりから見ているに過ぎない私でありますが、遠くから見ているだけに感じる“ド素人なりの疑問”もあって、「天守」の話題でない記事を書くのは、これ一回きりにしたいと思いますし、岐阜城の続きの件も含めて、何とぞご容赦いただきたいと思うのです。





まずは『歴史群像』6月号を拝見しての率直な感想ですが、真田丸が、それほどまでに惣構え南面の欠点をおぎなって、緊密かつ精緻に(惣構えと)組み合わされて構築された「陣地」であったのなら、その状態に攻め寄せてきた幕府軍が、とりわけ真田丸を攻略目標に選んだのは、いったい何故なのでしょう??… という素朴な疑問が心に浮かびました。

つまり真田丸が「主陣地線防御の核心ともいえる存在」というほどに、軍事学的な優勢が強まれば強まるほど、逆に、そういう“疑問”がふくらんで来てしまったのです。

私の悪い猜疑心(さいぎしん)のせいでしょうが、真田丸が『当代記』に「惣構ノ横矢」と記されたなら、それは文字どおり、いかにも突出した“目の上のタンコブ”に見えて仕方がなかった―――という風にでも解釈した方が、幕府軍の動機を説明するうえでは合理的だろうと(ド素人の私には)感じられてならないのですが、どうなのでしょう。


「浪華戦闘之図」大坂冬の陣配陣図(大阪城天守閣蔵/右下の半円形が真田丸)


そしてやはり、何故、多くの絵図類で真田丸が「丸い形」として描かれて来たのか、坂井案のまことに緻密な検証はあるものの、これだけ共通して「丸い」というのは、何かそれなりに原因があったはず、という疑念がチラチラと消えないのは私だけでしょうか。

そこで、ちょっと視点を変えまして、例えば「丸い曲輪」という点から連想しますと、真田の名をいちやく天下にとどろかせた「上田城」も、ひょっとすると、真田時代の本丸は、丸かったのかもしれない… と思わせる古城図が残っています。


真田時代の上田城の破却後の状態を描いた「元和年間上田城図」(個人蔵)


ご覧のとおり、左下に描かれたのが、関ヶ原合戦後に破却された真田昌幸(まさゆき=幸村(信繁)の父)築城の上田城の跡で、半円形の「古城本丸」のまわりを、少しずつ四角くなっていく二ノ丸と三ノ丸の痕跡が取り巻いています。

ちなみに「古城本丸」のすぐ南(図の下側)は断崖絶壁であり、絵図のように千曲川の尼ヶ淵が流れていた地形であることは、現地を訪れた方はよくご記憶のはずです。


現在ある上田城の四角い堀や石垣、櫓、門などは、江戸時代に仙石氏が大々的に復興したものに基づいていますから、真田時代の本丸がこのように半円形の曲輪で、しかも城全体は完全に土塁づくりだったとしますと、見た目の印象は、けっこう違っていたのではないでしょうか。


で、そんな真田時代の「上田城」が、どうして徳川の大軍を二度も撃退できたのかと言えば、田舎じみた古風な城構えに反して <挑発行為で敵を引きつけて強力な鉄砲隊の火力だけでなぎ倒す> というパターンが繰り返し成功したようで、徳川方はこれに「腰を抜かした」という話がよく紹介されます。


上下二段の鉄砲狭間もさりながら、間の櫓の二階は全面に石落し(=唐造り!!!)

(東京国立博物館蔵「大坂冬の陣図屏風」より)


転じて、真田丸の場合を想像しますと、<鉄砲隊の火力だけで> はご覧の大坂冬の陣図屏風の描写でおなじみですが、要は <挑発行為で敵を引きつける> ことが出来なければ、この得意の勝ちパターンには持ち込めない?という話に戻ってしまうわけでして、どうやら、真田丸の「形」と密接にからんだ「勝因」をどのように描くかで、千田案と坂井案は、思った以上に決定的な違いをはらんでいるようです。

とりわけ戦端がひらくキッカケになった、真田丸の手前の「篠山」という小山の位置については、坂井案と歴史群像は、従来言われてきた位置(=真田丸のずっと南側)とは違う場所を想定していて、その位置で「挑発」になりえたのか?という点など、戦いの様相をかなり変えるものと言えましょう。


こうなると私なんぞの立場では、人間の能力は瞬時に10段階も20段階も成長できない、といった当たり前の話を持ち出すしかなく、やはり真田丸の「勝因」は、どこか部分的に、上田城の勝因をなぞっていたのではなかろうか―――というド素人の感覚がぬぐいきれません。

とりわけ幸村(信繁)は長い間、幽閉生活をおくっていたわけで、その間は、何か文献で学べたとしても、実地の試行錯誤のチャンスは一切、無かったのですから、なおさらそのように感じられてしまいます。

そこで今回の記事の最後に、真田丸が幕府軍を「引きつける」ために必要だった「形」を、私なりに思いっきり妄想しますと…





<真田丸は意図的に、田舎じみた古風な「丸馬出し」に偽装されていた!?>





千田案の考え方を基本として、一部、坂井案の地形考証を参考にさせて戴くと、

こんな「真田丸」を想定することも出来るのでは…


(※大阪文化財研究所と大阪歴史博物館による「古地理図」を使用しております)


それは南から来る街道の、右斜め前方に、やや見おろすような位置にあって、

第一印象として、幕府軍の諸大名には“格好の餌食”と見えたか…





そしてやはり、真田丸の発想の原点は、真田昌幸の「上田城」にあり!!??

(左図は南北を逆にした上田の地図に、古城図の本丸の位置だけを合わせた状態)



左右の地図はもちろん同縮尺にしてあり、ちょっと見づらい図になっていて恐縮ですが、こうしてみますと、右図の豊臣大坂城の惣構えは、左図の上田城における背後の千曲川(尼ヶ淵)と同様に見立てた形のなかで、「真田丸」は計画され、築かれたようにも見えて来るのです。


このことは時空を超えて、しかも空から見おろした時に初めて(真田丸の背後にも惣構えがそのまま残っていると)確認できることであり、地上を攻め寄せてきた幕府軍の将兵の目には、ただ単に、古臭い武田遺臣の一点張りのような「丸馬出し」が、こともあろうに豊臣大坂城の防御の最前線にしゃしゃり出てきた!! と見えてしまって、多くの兵が思わずうすら笑いを浮かべた… というような状態だったのではないでしょうか?


で、そういう「偽装」がどこか上田城に似ていたとしても、それは苦杯をなめた徳川の将兵にしか解らないことであり、味方の豊臣勢にも解らなかっただろうという点が、まことに興味深いところで、なおかつ徳川家康や秀忠自身は“過去の汚名”があるだけに、そのことを心中でうっすらと察知しても、なかなか言い出せない(!!)…という好条件があったのかもしれません。




例えば、玉造を応援する情報サイト「玉造イチバン」様のインタビュー記事によれば、千田先生は真田丸の解説として「砦の出入口は東西2カ所、西側の出入り口は惣構の近い場所にわざと作っています。徳川軍が出入口を襲おうとすれば、砦からはもちろんのこと、惣構内の右側からも左側からも射撃され、三方向から袋だたきに合います」と説明しています。


説明のとおりに、西側(左側)の出入り口に注目しますと、惣構堀の内側(上側)の丘にも、強力な狭間鉄砲による鉄砲隊を潜ませたことは間違いないでしょうし、この出入り口に殺到した幕府軍が、戦死者 数千人以上とも言われる膨大な数の犠牲を出して、ここが凄惨な“屠殺(とさつ)場”と化したのは本当かもしれません。

ですからひょっとすると、左右二つの出入り口も、かなり「偽装」された疑似餌(ぎじえ)のような巧みな工夫があったのではないでしょうか…。


そもそも幸村(信繁)という人物の評価は、前半生が謎だらけで、なかなかに難しいとされていますが、今回申し上げた妄想のままなら、父・昌幸ゆずりの策謀家と思えて来ますし、そのため <真田丸は真田の父子二代にわたる策謀の結晶だった> と、ここで一気に申し上げてしまうのは言い過ぎでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年05月02日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?






いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?


前回は話題を急拠、佐賀城天守の復元案に対する疑問に差し替え、次回はまた岐阜城の話題にもどりますと申し上げましたが、せっかく天守の外形的な問題に触れたチャンスでもありますので、この機会に、佐賀城天守とも関係があり、岐阜城の山頂天守とも関連性のある話題として、いわゆる「唐造り(からづくり)」に焦点を当てて、さながら半分だけ“もどる”お話をさせていただこうかと思います。


唐造りの例(左:高松城天守の古写真 / 右:小倉城の復興天守)


ご承知のとおり「唐造り」は、南蛮造りとも呼ばれ、大概の天守は下から上へと階の大きさが逓減(ていげん)するのに対して、その一部分だけ、下階よりも上階の方を張り出させた独特の構造を言い、佐賀城天守も、細川忠興による小倉城天守に学んだとの伝承のもとに、三浦正幸先生らの復元案では最上階がこんな構造であったと考証しています。

そもそも人々は何をもってこれを「唐風」「南蛮風」と呼んだのか、よく解らないところがあり、上階を張り出すことが中国建築や南蛮(南欧や東南アジア)の建物の特徴だった、などということは殆ど言えないわけ(→例外は後述)ですから、日本人の勝手な思い込みだったのでしょうか。


で、この唐造りの「現物」は、今はどこにも現存しておりませんで、そのため古写真や文献の各階の記録から、張り出しの幅は「半間」程度であったと分かるものの、それ以上の具体的な構造は不明のままなのです。

ですから、それを例えば、望楼型天守によく見られた普通の高欄廻縁を“ふさいで内縁にしたもの”と見るなら、天守から高欄廻縁が失われていく過程での、ある種の進化形(試行錯誤)と見ることも出来ましょうし、そういう意味では「唐造り」はいくぶん新しいスタイルだということになります。

ところが…


「唐造り」の事例の中でも特徴的な 岩国城天守

古図!に基づく藤岡通夫先生の作図(『城−その美と構成−』1964年より)



いくつかあった事例の中で、いちばん興味を引くのは、ご覧の岩国城天守ではないでしょうか。

小倉城や高松城のように最上階ではなくて、中層の三階と四階も「唐造り」の構造になっていて、ご覧の藤岡先生の図にあるように、その部分の下の階が「ほらの間」と呼ばれていたことは注目せざるをえません。

これは思わず、以前に何度も申し上げた「屋根裏階と張り出し」との関係を連想してしまいますし、そちらの場合、第一の目的は大屋根におおわれた屋根裏階の明りとりのための構造でしたから、もしも「唐造り」も同じ目的から始まったのであれば、そのルーツはずっと古いことになるでしょう。

そして現状の復興天守を設計した藤岡先生は、この岩国城天守を「古風な天守」と解釈しておられたのです。



(藤岡通夫『カラーブックス 城−その美と構成−』1964年より)

岩国城は関ヶ原役後 吉川広家が建設したものだが、錦帯橋で著名な錦川に沿った横山の山頂に築かれている。
建て始められたのが慶長七年(一六〇二)であるが、古風な山城であっただけに、その天守もいろいろと古風な点があり、図を見ると軒先も塗籠とせず白木のままで、屋根もこけら葺ではなかったかと思われる。
これより少し早く文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)の間に建てられた信州高嶋城の天守もこけら葺であったし、その他の例からみても関ヶ原役前後までは、このように武備からみると不備な古風な天守が建てられていたわけである。




錦帯橋と復興天守(見上げた様子は、まるで岐阜城の山頂天守のようで…)


藤岡先生は主に屋根が柿(こけら)葺きだった点から「武備からみると不備な古風な天守」と評したわけですが、これは言葉を変えますと、柿葺きの天守が、岩国城や鳥取城のようにかなり高い山頂に築かれた天守か、逆に高島城のように湖中の浮城の本丸隅角に築かれた天守という、比較的安全な立地と言いますか、二の丸に侵入した敵から直接の攻撃を受けないような位置にあったことが、古い「柿葺き」の温存につながったのではなかったでしょうか。

すなわち、織豊系城郭や近世城郭の平山城などで“精緻な縄張り”が進む前の城に「柿葺き」天守があったのであれば、一方の「唐造り」についても、岩国城のように中層に設けたスタイルの方が、冒頭の小倉城などより、ずっと原初的な姿であったのかもしれません。


と、ここまで申し上げて来たところで、「古風」というキーワードと、「唐」「南蛮」という呼び方を意識しつつ、やや突飛な連想を申し上げてみたいのですが…



19世紀の報道画家 W・シンプソンが描いた ヒマラヤの建築様式

( from "The Architecture in the Himalayas" 1970, New York )


かねてから私なんぞは、ヒマラヤ山脈の城や山岳寺院は、日本の多聞櫓のある城や天守曲輪に <ものすごく似ている!!> と感じて興味をそそられて来ました。

この件では、私が多大な影響を受けたと感じている建築家の神谷武夫先生によるサイト「インド・ヒマラヤ建築紀行」の、第6章「異形の寺院とコトカイの城郭」などに詳しい紹介があり、上記の絵や以下のもう一枚の絵は、そのサイト中で例示されたものです。


で、ご覧のように一目瞭然、城郭ファンなら誰しも「これって唐造り!!?…」と、思わず人類の悠久の歴史や文化の伝播(でんぱ)に想像力がめぐってしまいそうで、是非とも神谷先生の現地取材の写真もご覧になっていただきたいところです。


サイトの紹介文によれば、ヒマラヤ山脈(インド北部のヒマーチャル地方)の城や山岳寺院には、ご覧の「角塔」という、上部が張り出した塔が付設された例が多いそうなのです。

角塔の下の部分は、水平に組んだ木の井桁の中に石をぎっしり詰めて積み重ねた「ドルマイデ構造」というもの(→まるで栗石を詰めた日本の石垣のよう!?)で、それを高く建てて角塔とし、最上階にバルコニーをまわして、切妻や入母屋の屋根を架けているとのことです。

張り出した部分はあくまでも「バルコニー」だそうですが、その一方で、この建物への出入りは、最上階や中層の木造部分までは「階段」をドルマイデ構造に外付け!して上り下りする形だそうで(→下図ご参照)こうした様子は、とどのつまりは“外敵が来襲した時の立て籠もり”を想定した建築なのだと受け止めざるをえません。

(※また他の考え方として「積雪対策」もありえそうですが、その辺りは神谷先生の紹介文に説明はありませんし、寺院の他の建物にドルマイデ構造が無いところを見ますと、やはりこれは「立て籠もり」用なのではないでしょうか)


0.C.ハンダのスケッチによる、チャイニのヨーギニー寺院

( from "Art and Architecture of Himachal Pradesh" by M.G. Singh )


こういうものを見てからは、またぞろ私の悪い猜疑心(さいぎしん)が頭をもたげまして、ならば「唐造り」というのは、本来的には、何のために考案されたのだろうかという疑問が芽生え、それは美観上の意匠で始まったものではなくて、元々は軍事的な、防御上の工夫だったのでは… という疑いが増して来たのです。

かと言って、ご覧のヒマラヤの城や寺院が、日本の「唐造り」と直接の関係があったなどと申し上げるつもりは毛頭ありませんが、時代や国柄・文化の違いをこえて <下階より上階を張り出す> という行為そのものに、やはり防御的な意味合いがあったのではなかろうか、と思われてなりません。

―――すなわち頑丈な(入口や窓もない)下層部分で敵の猛攻を耐えつつ、その上から敵に反撃を加えて撃退をくり返し、その建物だけでも籠城戦を闘いぬく、といった必死な形相を「唐造り」に感じるようになってしまったのです。

現に、一階はろくに窓もなく、ひたすら敵の攻撃を耐えしのぶだけの(まるで石垣の代用か延長であるかのような)蔵づくりの壁面の櫓や天守は、いくつか事例がありますし、そんな構造の場合、すぐ上の二階からの銃撃などは、引きつけた敵に対する有効な反撃手段だったはずでしょう。


例えば、「××紀功図巻」に描かれた順天城の本丸と天守…


慶長の役における順天城の戦いを描いたご覧の絵は、どこまで正確に実像を伝えたものか解りませんが、天守はけっこう細かく描かれていて、初重の白壁には窓が無く、二重目の雨戸?か堅格子窓?は四方にやや張り出していて「唐造り」であったかのような描写になっています。

もしこれが本当のことなら、中層の「唐造り」は岩国城天守と共通しますし、初重の状態はヒマラヤの「角塔」のごとく、敵の攻撃にひたすら耐えるだけの構造だったのかもしれません。

こうした画像を見るにつけ、「唐造り」というのは、本来の意図は、言わば「石落し」の原形か派生形(=天守直下の銃撃や監視用)のごときものに思えて来たのです。


ですから、ひょっとすると「唐風」「南蛮風」という呼び方も、異国風のエキゾチックな意匠というニュアンスではなくて、その180度逆の、歴史的に常に異民族と対峙してきた人々の厳しい住環境のイメージをまとっていた、ということはなかったのでしょうか?







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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