城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2015/06

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2015年06月27日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!臣下の五重天守をめぐる印象論=天下人の府城からの「距離」は関係していなかったのだろうか






臣下の五重天守をめぐる印象論

=天下人の府城からの「距離」は関係していなかったのだろうか



甲府城跡出土の金箔鯱瓦(推定の総高132cm/山梨県立考古博物館蔵)

※まことに勝手な私見ですが、細身の感じが屏風絵の聚楽第天守のに良く似ているようで…



当ブログでは過去に、天守はあったのか無かったのか、という論争に決着がつかない「福岡城」について、“空とぶ絵師”歌川貞秀の姫路城の浮世絵が、実は福岡城を描いたものではないか? などと申し上げたりしましたが、より私の地元に近い「甲府城」でも似たような論争があり、地域の経済振興をにらんだ再建運動が続いています。

しかも甲府の方では、ご覧の金箔鯱瓦の大きな物(ブツ)が天守台の脇から出土しただけに、どうにも治まりがつかない状況のようです。


そしてすでにご承知の、四重天守として復元案が示された甲府城天守

(※サイト「やまなしお城10万人ACTION」様のホーム画面を引用/部分)



そうした地元の依頼を受けて、三浦正幸先生がこのような復元案を示されたわけですが、先生が「四重天守」とした判断材料は、主に <天守台の平面規模> と <政権内での城主の位置づけ> が中心であったようです。(→PDFご参照

この点について私なんぞの印象をザッと申し上げますと、例えば、ともに五重天守だった名古屋城天守と松本城天守の圧倒的!!な規模の差(総床面積など)を考えれば、天守の「重数」と「総床面積」は各々バラバラのもので、個々のケースで様々な組み合わせがあり、したがって「重数」と平面規模とは、総体的には無関係の事柄であったと思えてなりません。


そして一方、天下人に臣従した武将の中には、天下人を上回る規模の五重以上という巨大天守をあげた例もありそうなのですから、一般的に城主の「格」や所領高が天守の規模(重数)に影響したとしても、必ずしもそれらが絶対条件ではなかったのかもしれません。



織田政権と豊臣政権における“北の果ての巨大天守”の可能性



ご承知のように柴田勝家(しばた かついえ)の北ノ庄城、蒲生氏郷(がもう うじさと)の会津若松城には、時の天下人を上回る天守があった可能性が言われていて、であるならば、天守の「重数」は何によって決まったのか? というナゾは、今もまだ完全には解明されていないのではないでしょうか。

そこで一つ、是非とも申し上げてみたいのが、天守の「重数」を決めた因子(要素)には、天下人の府城からの「距離」も関係していたのではなかろうか… ということなのです。





この図は、以前のブログ記事でご覧いただいた「本能寺の変」当時の織田家中の天守について、今回は、その中から五重天守だけを「宗家と一門」「臣下の武将」で色分けしてみた図です。


こうしてみて、まず感じるのは、五重天守はやはり希少な存在であり、とりわけその位置が(中心の安土城は別として)織田の勢力圏の陸地の「北限」「南限」を天下に指し示すかのような立地になっていて、その逆に、本州の陸地が続く「西」と「東」の方角には一基も無い、という点が非常に際立っています。

例えば「東」では、家督を継いだ織田信忠の岐阜城がありましたが、そこにも(あえて)五重天守は置かなかったわけですから、これは織田信長が「五重天守」というものをどういう風に考えていたかを押し測る、一つの観点として重要かもしれません。

想像で申し上げるなら、信長は、天下布武の版図の広がりを最も効果的に示せる天守として「五重天守」を用いていて、そのために、東西南北の将来にわたる最終到達点とおぼしき地点だけを厳選していたのではなかったでしょうか。


そしてもう一つ、図中でいかにも目立つのが、安土城から北ノ庄城までの距離=約100kmの半径の円から、はるかに西へ飛び出した格好の「姫路城」三重天守でしょう。

この羽柴秀吉時代の天守は、考えてみれば、本当に三重天守だったのか?という議論もありえなくはないのでしょうが、おそらくは「姫路」が織田の勢力圏の西の端とは織田家中の誰もが思っておらず、とりわけ城主の羽柴“筑前守”秀吉が、そういう意志の強固な代弁者であったことが、三重天守にとどまらせた最大の理由であったようにも思えて来るのです。


では、そうした織田政権における「五重天守」や三重天守の扱いが、その後の豊臣や徳川の時代にどう変わったのかは、大変に興味のあるところで、順次、地図上で確認して行きたいと思うのですが、その前に、下の表は信長・秀吉・家康がそれぞれ死去した年でカウントしてみたものです。


五重以上と言われる天守



(※表の岸和田城天守の件は後述)

(※また豊臣の欄には、前田利家の金沢城天守や織田信雄の清須城天守なども入ったのかもしれません…)


で、このようにリストアップしてみますと、私の自説(=家康時代の江戸城は四重天守だった)もあって、徳川の欄には江戸幕府の「江戸城天守」が無いことになるのですが、不思議なことに、例えば織田の欄でも、信長が足利義昭のために建てた三重?の旧二条城天主が無く、また豊臣の欄でも、豊臣政権の政庁を飾った四重?の聚楽第天守が無いことになり、ここには何か一貫した法則が表れているようです。

これは当ブログで申し上げた仮説のように、そもそも天皇の血筋を引く「貴種」の生まれの武家ならば「天守」などは必要なく、もっぱら下克上の世の(素性の怪しい)天下人たちのために「天守」は創造されたはず、という天守発祥の原理が、ここに作用しているのではないでしょうか。

つまり「幕府」(征夷大将軍)の居館とか、「関白」の屋敷とか、日本古来の伝統的な地位を与えられてしまった城には、もはやあえて巨大な「五重天守」をあげる必要も無かった… という逆説的な論理が(この家康死去の時点までは)成り立っていたように思えてならないのです。





そして豊臣政権下の天守も前の図と同じく「五重天守」を色分けしますと、今度もまた、会津若松城の巨大天守が、天守群の「北限」(東限?)を指し示すかのように建っています。

では「南限」は?と目を移せば、ちょっと違った状態のようでいて、その実、織田政権の姫路城三重天守とまったく同じ論理が押し進められたのではなかったでしょうか。

と申しますのは、ちょうど織田の姫路城と同じような位置に肥前名護屋城があるようで、そこを新たな基点(宗家の五重天守)としつつ、豊臣政権はさらに西へ、西へと拡大を続け、そのうえで漢城(ソウル)に宇喜田秀家があげた天守は、まさにこの時の「姫路城三重天守」(→“もっと西に進むぞ”という意志表示)であったように見えてしまうのです。




<勢力圏の最終到達点をにらむ防人(さきもり)としての「五重天守」と、

 最前線に突出する橋頭堡としての「三重天守」というカテゴリーもあったのか…>





かくして、天守の重数を決めた因子には、天下人の府城からの「距離」も関係していたという風に考えますと、前述の“北の果ての巨大天守”が現れた理由をうまく説明できそうですし、また各地の城に「五重天守」や三重天守があげられたことについて、必ずしも城主の側の「格」だけではなくて、もう一つ、政権の側からの判断(カテゴリーの指定!)があったと考えることも出来そうなのです。

では、そのような不文律が、次の徳川の時代にはどうなったか? という観点から三つめの図を作りますと、これがまた興味深い現象を示していて、江戸時代は将軍のお膝元近くでは、いかなる天守も建造をはばかる、という慣習がどこで始まったのかが見えて来るようです。

……ですが、すでにかなりの長文になって来ておりますので、これは次回のブログ記事で改めて説明させて下さい。



【補足】岸和田城の五重天守について

「正保城絵図」和泉国岸和田城図より


さて、上記の表では、岸和田城の天守を「豊臣一門の五重天守」として扱いましたが、これは当時3万石の大名・小出秀政(こいで ひでまさ)がご覧の天守を建てたとの伝来(慶長2年説)によるもので、秀政が秀吉の母・大政所の妹を妻にしていたことが「五重天守」につながったのでしょう。

しかし、この天守を建てたのは江戸初期の松平康重だという説(元和5年説)もあって、親の代に松平姓を許された康重が、この時点で「五重天守」をあげるのは、かなり分不相応の感があるものの、康重という人物は“家康ご落胤”とささやかれていたそうで、それが松平一門のトップをきる「五重天守」につながったのでしょうか。

という風に、岸和田城の五重天守はチョット分からない部分もありまして、それでもやはり小出秀政の建造と考えるならば、冒頭の「甲府城天守」だって、秀吉の正室・北政所の実家である浅野家の当主(で妹の夫の)長政が築けば、そうとうな規模(五重?)になってもおかしくありません。

が、その前の甲府城主・加藤光康が築いたとなると、三浦先生の「四重天守」という考え方に俄然、説得力を感じるのですが、なんと先生自身は「豊臣秀吉の親戚筋であった浅野長政、そしてその息子・幸長の親子によって建てられた天守閣です」と説明しておられて、私なんぞはぷっつりと解らなくなってしまうのです。…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年06月12日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!精神的には岐阜城の山頂天守の方が安土城よりもラジカルだったか… と思わせる織田信長の問いかけ






精神的には岐阜城の山頂天守の方が安土城よりもラジカルだったか… と思わせる織田信長の問いかけ


思いますに、我が国の「天守」が最たるもので、建築というのは本当に「意味」「意図」「目的」の体現だと感じるのですが、こんなことを申し上げるのは、オリンピックで使う新国立競技場が“いったん屋根無しで完成”というドタバタ劇を聞いたからでして、そもそもは、ラグビーW杯の誘致との抱き合わせという姑息(こそく)な発想が災いしたのでしょうか。

そこで一つ、比較になるのか分かりませんが、「意味」「意図」「目的」が完全に抜け落ちてしまった無残な建物として“日本史上ワーストワン”に挙げるべきは、戦前の、大政翼賛会の本部だったのではないでしょうか??

―――かの大政翼賛会の本部がどこにあったか、ご存知ですか?

その歴史的なネームバリューから言えば、アドルフ・ヒトラーの総統官邸のむこうを張るぐらいの建物なのかと思いきや、まるで逆でした。


終戦時に、大政翼賛会の本部は、今では法務省がある霞ヶ関1丁目1番地で…


昭和20年、終戦時の大政翼賛会の本部は、ご覧のとおり場所だけはスゴイものの、建物はなんと、移転したあとの府立第一中学校(都立日比谷高校の前身)の廃墟同然の空き校舎(!!)を使っていたのでした。


その経緯は杉森久秀著『大政翼賛会前後』に詳しく、大政翼賛会というのは、かの近衛文麿(このえ ふみまろ)を中心に、すべての政党・政治勢力を糾合すべく発足したものの、実態は、政党や政治活動を“あって無きがもの”にする統制組織に横滑りし、近衛自身は早々に意欲を失っていたそうです。

そのせいか、発足時の本部は皇居近くの壮麗な「東京會舘」を接収してスタートしたものの、まもなくタライ回しの転居が始まり、まずは現在の国会議事堂の建設中に使った木造の「仮議事堂」に引っ越しし、さらに戦局が悪化するなかで、府立第一中学校が移転して十数年、空き家状態だった「日比谷校舎」(明治32年造)に入居して、終戦を迎えました。

ですから「大政翼賛会」という名前(=現在のイメージ)と実態との間には、実は、そうとうな開きがあったわけでして、そのうえ上記の東京會舘や日比谷高校は自身のHPにそうした経緯を一切、載せておりませんし、当時も今も殆どの日本人が所在地を知らないわけですから、大政翼賛会の本部とは、言わば「意味」「意図」「目的」のすべてを失った“迷いの館”であったと思えて来るのです。

で、新国立競技場はそんなものにならぬように祈りつつ、今日の本題に入りますと…




<岐阜城の山頂天守の最上階はどうなっていたか? を想像させる

 ロレンソに対する織田信長の問いかけ>





当ブログでは、岐阜城の山頂の「主城」でロイス・フロイスらが目撃した「千本の矢」というのは、アマテラスとスサノオの伝説にちなんだ神前の「千入(ちのり)の靫(ゆぎ)」ではなかったか? などと申し上げましたが、そうした千本の矢が置かれたのが山頂天守の一階とすれば、最上階の方はどうなっていたのでしょう。

例えば最近では、姫路城天守の最上階にある長壁(おさかべ)神社が改めて話題になりましたし、その他を見回しても、天守の最上階にあった宗教関連のものはどれも神社や神棚ばかりである一方、何故か、織田信長の安土城天主の最上階だけが古代中国の三皇五帝など儒教的な絵画で占められていた、という妙なコントラストがあります。

これはいったい何に起因した現象なのか? という疑問を解くカギは、岐阜城の山頂天守にあるのではないでしょうか。


この人物が、修道士のロレンソ了斎か?(神戸市立博物館蔵「南蛮屏風」より)



さて、平戸の出身で、それ以前は琵琶法師だったという修道士・ロレンソ了斎(りょうさい)は、フロイスと共に岐阜城の「主城」に登り、そこで信長みずからの歓待を受けたわけですが、結城了吾著『ロレンソ了斎』によると、ご覧の絵の人物がロレンソらしいとのことで、思わずハッとするものがあります。

と申しますのは、絵の人物は外国人宣教師らの間に立っていて、私のごときテレビ番組制作を行って来た者には、ロレンソらしき人物の立ち位置は、さながら海外取材の成否を左右する「現地コーディネーター」そのものに見えてならないからです。



(『完訳フロイス日本史』第一部九五章…岐阜城の訪問)

信長の傲慢と見栄は一通りでなく、あらゆる人々、ことに仏僧を軽蔑し、彼らに対して非常な嫌悪を抱いていた。(中略)彼がなしたすべてのことのうち、我らはここでは若干の主要なことだけに言及しよう。
(中略)
信長は談話を続け、ロレンソ修道士に、日本の神につき、なお伊弉諾(イザナギ)、伊弉冉(イザナミ)がこの国の最初の住民であるとの説をどう思うか、と質問した。信長はこの際、修道士から与えられた返答を喜び、修道士はデウスの正義と慈悲に関し詳細な談義を続けた。

他の部屋で傾聴していたおびただしい数の貴人たちは、修道士の言葉を聞いて非常な喜びを示し、信長は彼ら以上に喜び、明白な言葉で、「これ以上に正当な教えはあり得ない。邪道に走る者がこれを憎悪するわけがわくわかる」と語った。

(中略)
その時、以前に仏僧であり、信長が大いに信頼している(松井)友閑なる老人が口を出して、「伊留満(修道士)がデウスの教えについていとも詳細に語り得ても、これは伴天連らが教えこんでいるのだろうから予は驚かぬ。だが、彼が日本の諸宗の秘儀をかくも根本的に把握していることは、仏僧らにおいても稀なことで、予はその点で驚き入った」と述べた。



ご覧の部分からして、この時、ロレンソは信長の問いかけに対して、イザナギ・イザナミという、日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく)において神世七代の最後に生まれ、日本列島を創造した男女神について、決して否定や非難をしたのではなかったのでしょう。

逆に松井友閑もうなるほどの上手(うま)い受け答え… おそらくは日本神話とキリスト教の天地開闢(天地創造)との間の解釈的な整合性をとなえてみせたのは明らかで、そうした解釈を信長も喜んだのでしょう。

このことは記録者のフロイスにしても、この第一部九五章で信長の「若干の主要なことだけ」として挙げたのは、イザナギ・イザナミの話題と、もう一つは、同行したフランシスコ・カブラルの「眼鏡」に驚いた民衆が三千人も集まってしまった、という笑い話の二つだけなのですから、とにかくロレンソの対応ぶりを注目の成功事例として報告したかったのでしょう。




そこで私なんぞが一番、気になるのは、そういう問いかけをした信長の側の深意でありまして、つまり信長は、キリスト教の教義から見ると「日本神話」がどういう風に見えるのか、心の底で“かなり気をもんでいた”のではなかったでしょうか。

そうとでも考えませんと、無駄なことは一切発言しない性格の信長が、なぜ突然にイザナギ・イザナミなどと言い出したのか分かりませんし、この密かな心配は「おびただしい数の貴人たち」も察知していたようで、彼らが「修道士の言葉を聞いて非常な喜びを示し」てホッと安堵している点は見逃せません。


こうした不思議な場の状況と、その後に安土城天主の最上階だけが儒教的空間であったことを突き合わせて考えますと、そこに一つの想像が働いてしまいます。

―――それは、この時、完成したばかりの岐阜城の山頂天守は、発想は安土城天主と同じでも、障壁画の表現が「日本神話」に置き換えられていたのではないか? という疑いです。

!! 古代中国の「岐山」の故事にちなんだという「岐阜」の城で、そんなことが論理的に可能なのか? と言えば、それが、出来なくもなさそうなのです。…



天地開闢の主人公らを描いた日中それぞれの想像画

(左:小林永濯画のイザナミ・イザナギ / 右:中国神話の巨人「盤古」)



右の盤古(ばんこ/Pan-gu)というのは、ブリタニカ国際大百科事典によりますと「中国の天地開闢神話の主人公である巨人。槃瓠とも書く。天地がまだ形成されていない混沌の状態のとき、そのなかに生れ、1万8000年たって、天地を押し分けて分離し、その後に三皇が出た、という。」と説明されています。

…あれ? 古代中国の伝説の帝王は「三皇」と五帝から始まると安土城天主に描かれたはず、と思いきや、そういう形は、中国の歴史書の第一とされる『史記』(三皇本紀)にしたがったものであり、そもそも『史記』には天地開闢の神話は存在しないのだそうです。

で、そういう『史記』とは別に、呉の時代(3世紀)に成立した『三五歴記』などに「盤古」による天地開闢の神話があって、そのため、盤古のあとに三皇や五帝が出現したという形の神話が、民衆の間に根づいて来たそうです。

そして何故か、その「盤古」と日本の「イザナギ」には共通点がありまして、例えば盤古の左目が太陽に、右目が月に、吐息や声が風雨や雷霆(いかづち)になった、というあたりは、まさに古事記や日本書紀で、イザナギが左目を洗った時にアマテラス(太陽)が、右目を洗った時にツクヨミ(月)が、鼻を洗った時にスサノオ(雷)が生まれた、とされていることにそっくりなのです。




ということでして、ですから織田信長が岐阜城天守において、安土城天主と同様の障壁画(画題)を各階に配置しようとした時、その上層部を「日本神話」に置き換えてしまうことも、出来なくはなかったのかもしれません。

結局のところ、安土城天主は『史記』にならった正統的な形でまとめたものの、その前例の岐阜城天守では、話が天地開闢にまでさかのぼっていて、しかもそれが「日本神話」に置き換えられて表現された、となれば、岐阜城の方がずっとラジカルな建築であったようにも思えて来ます。

そこで山頂天守の最上階は、一つの想像として、天井画でイザナギ・イザナミの絵が大きく描かれ、その下の壁面には、彼ら男女神が創造した日本列島(すなわち大八島/おおやしま=淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州)の八つの島が、ちょうど日本八景の名所図会のごとくに、ぐるりと描かれていた…… というような姿が、思わず目に浮かんで来てしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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