城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2015/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2015年11月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影 ?






オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影?




先日、NHK番組の「ハイビジョン特集 新発見大坂図屏風の謎 〜オーストリアの古城に眠る秀吉の夢〜」(初回放送2009年)の再放送が深夜にありまして、たいへんに遅ればせながらも、この機会をとらえて、この屏風にある“大坂城天守の描写のナゾ”について申し上げておきたいと思うのです。


2006年にオーストリアで発見された「豊臣期大坂図屏風」(部分)


もう良くご存知のことでしょうが、ご覧の屏風は、記録では17世紀後半にはオーストリア南部のエッゲンベルク城に収蔵され、その後に城内の「日本の間」の壁面に貼り付けられて、そのまま今日に至ったものです。

そして当地の博物館学芸員や大学教授から相談を受けた高橋隆博先生らによって「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城とその城下を描いた絵」と鑑定され、話題になりました。

当時のニュース報道は「どうしてオーストリアの古城に?」という意外性に焦点が当てられ、1640年代前半(=寛永年間)にオランダ東インド会社が長崎の出島から何十点かの屏風を輸出した経緯があることから、そのあたりの時期に描かれ、ヨーロッパに渡ったのだろう、などと報道されました。


で、ご承知のとおり、この絵には華麗な「極楽橋」が描かれ、天守は「望楼型」であり、豊臣大坂城に特有の巨大な「馬出し曲輪」もあるため、描かれたのは豊臣秀吉や秀頼の頃の大坂城と思われるのに、人物の顔の描き方などは、京都の町絵師による「洛中洛外図屏風」と同系統のものだそうで、そうなると制作は江戸時代の17世紀中頃になってしまう、という点(制作年代と景観年代のズレ)が大きな謎だと言われました。

そこで、おそらくは、より古い豊臣全盛期に近い頃の屏風を手本にしながら、17世紀に改めて制作された屏風なのだろう、と推定されています。


同屏風に描かれた大坂城天守


―――という屏風絵ですが、「極楽橋」の文献どおりの華やかさ(=正確さ)に反して、最近では、ご覧の天守の描き方が、他の豊臣大坂城天守の描写に比べて色々と相違点のあることが、やや問題視され始めています。

と申しますのは、天守の最上階には高欄廻縁があって「望楼型」らしき様子があり、その天守にシャチ瓦が無い!! のは豊臣大坂城らしい特徴ではあるものの、以下の白壁に黒い柱を見せた「真壁づくり」の建物として描かれた点は、他の絵画史料(=多くは天守の全体が黒っぽく、おびただしい金具や金箔瓦、金色の紋章群が光り輝く印象)とは、ずい分とかけ離れた描き方になっているからです。

(※ちなみに、豊臣大坂城天守を“白い天守”で描いてしまった例は、出光美術館蔵の大坂夏の陣図屏風など他にもありますが…)


そして、そういう壁面とは打って変わって、まるで小倉城天守の「黒段」のごとき真っ黒いだけの最上階はどういうことなのか?(→「黒段」は戸袋や雨戸を黒塗りしたものですから高欄廻縁とは矛盾する!)という不思議な点もあります。

さらに申せば、ご覧の天守は二重目の屋根に「唐破風」が描かれていて、<天守の下層階の妻側にある唐破風>となると、私なんぞは思わず(当サイト仮説の駿府城天守など)小堀遠州が関与した徳川の城の天守群を連想してしまい、これは徳川の天守か??と叫びたくなってしまう方なのです。…


豊臣大坂城天守の描き方の代表例 …大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」より


むしろ、こちらの方がそっくり!?

左側は京都国立博物館蔵「洛中洛外図」に描かれた徳川の二条城天守(慶長度)




!!! 左右の絵をじっくり見比べてご覧になればお判りのとおり、オーストリアの屏風絵の天守は、実は、様々な点において、徳川の天守(とりわけご覧の二条城天守)を描いた事例にたいへん近い表現がなされている、ということが言えるのかもしれません。

……となると、様々な相違点を抱えた天守の“ナゾの描写”はいったい何に起因したのか、この際、思い切った想像をめぐらせてみたいと思うのです。



豊臣大坂城の落城を伝えた最古のかわら版(大阪城天守閣蔵)


そこで、屏風絵の背景をさぐるうえで私なんぞが注目したいのは、豊臣大坂城が大坂の陣で落城し、徳川による天下の支配が加速していくなかで行われた、いわゆる“豊臣残党狩り”です。

例えば大坂陣の直後ですと、宣教師が記録した「京都から伏見に至る街道に沿ふて台を設け首級をその上にさらしたが、その台は十八列あり、ある列には千余の首が数えられた」という話が有名ですが、残党狩りの対象は幅広い人々に及んだようで、狩野派の絵師・狩野山楽なども、豊臣家との関わりがあって追及を受けたことが知られています。

そうした豊臣残党狩りがいつまで続いたのかと言えば、豊臣方のキリシタンの猛将・明石全登が消息不明のままであった中で、やがて島原の乱(寛永14年1637年勃発)が起きると、時の将軍・徳川家光は、改めて大規模な「明石狩り」を命じたことが知られています。


つまり、今回話題のオーストリアの屏風絵が描かれたとされる17世紀中頃というのは、そんなキリシタン鎮圧や豊臣残党狩りの余韻がまだ世の中にただよっていた頃のはずです。


何を言いたいのかと申せば、この屏風は、いよいよ徳川の支配が定まる頃の、ある種の虚無感のなかで、あえて豊臣全盛期の大坂城を描こうとした(意図はそうとうに挑戦的な)屏風であった、という点なのです。
それを考えますと、様々な相違点を含んだ天守の描き方についても、その動機が見えて来るのではないでしょうか?


なぜ天守だけが徳川風なのか…


結論から申しまして、この屏風の全体は、華麗な「極楽橋」がより正確に描かれた点などを考慮しますと、やはり高橋先生らの鑑定どおりに「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城」を描こうとしたことに間違いはないのでしょう。

ただし、先ほど申し上げた当時の世情と、天守だけが部分的に徳川風であるという矛盾点は、こんな可能性も示しているのではないでしょうか。


すなわち、挑戦的な画題ではあったものの、イザという時の危険回避のために、天守だけは徳川風の描写… 例えば前出の二条城天守とか、または寛永年間に再建された二条城天守や大坂城天守などの明らかな特徴を、巧妙に、ずい所に採り入れて描いたのではなかろうか? という可能性です。(例えば白壁、真壁の柱、唐破風…)


いつものごとく考え過ぎ、と言われてしまうのかもしれませんが、こんな手前勝手な見方で改めて屏風絵を見直しますと、この屏風が結局はオランダ商人に転売されたことや、前述の小倉城天守「黒段」に似た最上階の描写についても、まったく次元の異なる経緯によるものと思えて来てしまうのです。


これは、屏風を売却する際に、墨塗りで“危険な何か”を塗りつぶした跡!? なのでは…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年11月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!議論があった<江戸城の表門は半蔵門>説との関連で申せば…






議論があった<江戸城の表門は半蔵門>説との関連で申せば…


武州豊嶋郡江戸庄図(都立中央図書館蔵)をもとに作成


近年、<江戸城の表門は半蔵門>だという新説が話題になりましたが、これは竹村公太郎著『土地の文明』2005年や、同じくPHP文庫『日本史の謎は「地形」で解ける』2013年の刊行で幅広い層に知れわたったものでした。

しかしこの新説は、歴史好きやお城好きの人ほど、賛同者は多くなかったようで、それはご覧の寛永年間の江戸図のごとく、海側の大手門を城の正面とする根強い見方があり、それをくつがえすほどの説得力は無かったからでしょうか。

これに関しては私なんぞは、江戸の成り立ちと言うと、かつて鈴木理生先生が指摘した <寛永頃までの江戸は、オランダ流の手法に似た、海を埋め立てて造成した港湾都市であり、そのためオランダ東インド会社の本拠地・バタビアと非常によく似ている> という話の方をまず思い出してしまいます。


【ご参考】江戸にも、バタビアにもあった「八丁堀舟入り」

図19B(バタビアの絵図/鈴木理生『幻の江戸百年』より引用)



(鈴木理生『幻の江戸百年』1991年より)

図19Bはモンタヌス著『日本遣使紀行』(アムステルダム版、一六六九年=寛文九年刊)中にあるバタビア港である。
この一六一九年(元和五年)に建設された、オランダ東インド会社の本拠地の都市プランは、江戸と非常に似ている。

海岸に突出した「八丁堀」。そのつけ根の部分に、幕末に函館に築かれた五稜郭に似た、四稜の砲台があり、市内に縦横にめぐらされた水路と街郭は、江戸の河岸地帯を想起させる。

「八丁堀」の下に激しく砲煙をあげている帆船がみられるが、「八丁堀」の効果は、その砲撃が市街地を直撃するのを防いでいる。

(中略)
わざわざ江戸と赤道直下のバタビアの比較をしたのは、この時代の港湾都市には非常に共通する事柄が多いことを、この機会に再確認しておきたかったためである。

なお、バタビアとは現在のインドネシア共和国の首都ジャカルタの古名である。



鈴木先生の指摘はお読みのとおりでして、海と江戸城と言えば、当ブログでも、太田道灌の江戸築城の頃にさかのぼれば、海寄りの平川に架かる「高橋」のあたりが、舟運の荷揚げ地として城下の中心であったことに触れましたし、また徳川家康の江戸城についても、豊臣政権下では、東アジア制海権「城郭ネットワーク」の一翼をになう城であったはず、などという仮説を年度リポートで申し上げたりもしました。

やはり江戸にとって「海」は城の生命線をにぎる重要な存在であり、そのため海側が主要な城下であり、東海道も通りますし、そちら側に城の「表門」が無ければ、色々と不都合が多かったことでしょう。


ですから冒頭の<江戸城の表門は半蔵門>という新説は、とても言葉どおりに納得できるものではありません。

とは言うものの、大手門と半蔵門でどちらが表門か?と問うよりも、それぞれに“別次元の目的を持った正面口”だった、という風にでも考えますと、このところ申し上げている「元和度天守」と、思わぬ関係性が見えて来るのです。…




<名古屋城、八代城、元和度の江戸城…「連結式天守」の正面はどちらなのか?>




小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

※注:冒頭の武州豊嶋郡江戸庄図とは上下(=東西)を逆にして見た状態です。


さて、当ブログでは「元和度天守」はご覧のような連結式天守ではなかったか、との仮説を申し上げて来ました。

その賛否はひとまず脇に置くとしまして、そもそも連結式天守……大天守と小天守が一基ずつの連結式天守は、いったいどの面が「正面」になるのでしょうか??


おそらく名古屋城天守の場合がどなたにも想起しやすいと思いますので、例に挙げますと、大天守の入口は南の小天守と向き合う側にあり、そちらを「正面」とするのが順当でしょうが、見た目では小天守が重なってしまい、いま一つという感がぬぐえません。

ちなみに“天守が層塔型であれば「正面」は関係ない”とのお考えもありましょうが、例に挙げました名古屋城や八代城は、立地が本丸の北西隅!!であり、防御上の力点が東西南北でかなり差のある状態になっていて、そういう意味では単純に“四方正面”とは言い難い状態です。


ですから、そうした連結式天守には、一応の「正面」が想定できるはずだと思うのです。



望楼型天守(犬山城)にみる「内正面」と「外正面」


そこで、ご覧に入れた図は6年前の記事でお見せしたものですが、これは望楼型天守には明らかに「正面」があり、その中でも、天守の立地場所に応じて「内正面」(=味方、本丸や城内側)と「外正面」(=仮想敵、他国との境界側)とでも言うべき二つの正面があったはず、という仮説を図示したものです。


織田信長時代の岐阜城の推定


さらにご覧に入れたこの図も5年前の記事でお見せしたものですが、当サイトでは『日本西教史』に「欧州の塔の如し。此より眺望すれば美濃の過半を見る」!!と記されたとおりに、稲葉山の山頂には、直前までの居城・小牧山城に続く、原初的な「天守」があったはずだと確信しておりまして、それは図のように、山麓から見上げれば山頂部の“左端”に見えたはずでしょう。

これが天守の位置をめぐる<織田信長の作法>になったのだろうと申し上げてまいりましたが、現にこれ以降、織豊政権下の天守は、大手門から見た時、かなりの確率で、本丸か詰ノ丸の左手前の隅角に建てられることになりました。


では、その状況で、あえて天守の「内正面」「外正面」を問うとしますと、信長の岐阜城は畿内をにらんだ“西向きの城”であった点からも、おそらくは西の山麓側が「外正面」になり、山頂の天守の背後が「内正面」であったのでしょう。

で、そうした形は後の豊臣秀吉の大坂城天守にも…


豊臣大坂城の場合の推定


ご覧の豊臣大坂城では、左側に「天守」、その右側に「月見櫓」が見える、という並びになったと思われますが、その時、手前が「外正面」で奥が「内正面」としますと、連結式天守における「小天守」の役割の一つが見えて来るのではないでしょうか。

それはすなわち、小天守が右側に並んだ状態では、おのずと手前側が「外正面」(=仮想敵)を示すことになる、という不文律だと思うのです。

で、それは徳川の時代になっても…


名古屋城の場合の推定


このことが江戸において、生まれながらの将軍・徳川家光の就任に備えた「元和度天守」にも適用されたのではないか… と申し上げてみたいわけなのです。


元和度天守の場合の推定



※             ※



さて、以上のように申し上げたことは、徳川による一連の巨大天守の「唐破風」の配置方法にも、ちゃんと影響が及んでいて、造形的な配慮(統一的なデザイン)が施されたようです。



ご覧の「唐破風は天守正面の目印の代用物」という当サイトの仮説の先には…


このように、名古屋城の大天守も、江戸城の元和度天守も、徳川による妻入りの巨大な層塔型天守というのは、決まって上から二重目に「唐破風」が据えられておりまして、それは取りも直さず、直前まで徳川家で主流だった仮称「唐破風天守」を凌駕する一種の「格式」として、意図的に造形されたものだろうと思えてならないのです。…

で、そのような上から二重目の唐破風は(仮称「唐破風天守」と同じく)「正面」を指し示した目印であり、先ほどまで申し上げていた「右側に並ぶ小天守」が指し示した「外正面・内正面」の方角とも、みごとに合致していた!! ことになるのです。







そして最後に、江戸城の元和度天守には、こんな配慮もなされていたことを…



私なんぞが思いますに、「元和度天守」はこのあたりが大変に意識的で、周到に計画された天守であったと思えてならないのです。!!!…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年11月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…






宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…




現在の定説では、江戸城「元和度天守」は、元和8年に拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そういう見方の直接の根拠となっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。

このうち第一の根拠というのは、かの“駿河大納言”徳川忠長が、工事開始に先立つ正月十日、梅林坂辺の自らの屋敷をあけわたし、一旦、榊原忠次の屋敷に移り、その後に北ノ丸の新邸に入ったのですが、その件について、当事者の榊原忠次が編纂した『御当家紀年録』に、以下のように記されたことによります。


(『御当家紀年録』より)

甲斐参議忠長卿営作の間、松平式部大輔忠次の宅に移らる。
忠長卿の住所、本丸の東北梅林坂辺にあり。今度その所殿主台を築くに碍
(さまたげ)あり。ゆえにかの住所を毀(こぼ)つによりてなり。


【ご参考】武州豊嶋郡江戸庄図をもとに作成


上記の『御当家紀年録』の文面をそのまま受け取りますと、元和度の新天守台は「梅林坂」の辺りに出来なければおかしな話になるわけですが、では「梅林坂」の位置とは、江戸城の本丸御殿との関係ではどういう場所になるのか? という観点から考えますと、ご覧の「武州豊嶋郡江戸庄図」は元和度に該当する時期の史料ではあるものの、これでは本丸御殿の様子はまるで判りません。

そこで他を当たりますと、元和8年の工事の時に完成した本丸御殿は、図面の類いがまったく現存しないそうで、現存するのは、その前の慶長11年の徳川家康の天下普請による江戸城の絵図(「慶長十三年江戸図」)か、ずっと後の寛永17年の三代将軍・徳川家光による再建時の図面(大熊家蔵「御本丸惣絵図」)になってしまい、以前か以後の様子しか判らない、という状態だそうです。

そのせいで「元和度天守」の位置は、御殿の配置を含めて、ハッキリしない状況が続いているわけですが、ならば、ということで、以前と以後の様子をじっくり見比べますと…


以前(慶長)から以後(寛永)まで、江戸城の御殿配置の大枠のプランは一貫していた??



ご覧のうち上の方の図は、これまでお見せして来た図に、上記の「慶長十三年江戸図」の本丸御殿だけを新たにダブらせたもので、一方、下の方の図は前回と同じ小松和博先生の復元図を使ったものです。


かくして「以前」と「以後」の本丸御殿の様子と、それぞれの天守の位置を見比べますと、やはり、江戸城の御殿配置の大枠のプランはずっと一貫していたと思えてなりません。

おそらくはその中で、天守の位置がしだいに「中奥」と切り離され、大奥のスペース増大とともに、北へ、北へと押し出された、という風に私なんぞには見えてならないのです。


ですから、この間にはさまる「元和度」だけが、これらとは打って変わった“別物のプラン”であったとは全く思えませんし、現に、元和度の御殿も「小広間(=遠侍?)」「大広間」「白書院」「黒書院」「御座之間」という各殿舎が並んでいたと伝わります。

―――そうなりますと、記録の「梅林坂辺」という天守の位置は、どう見ても問題が大きいようなのです。…


小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)


前回もご覧いただいた図ですが、これを天守と本丸御殿との「接続」(=使い方)という観点から見直しますと、ご覧の当サイト仮説の元和度天守の位置ではなくて、もしも「梅林坂」の辺りに元和度天守があった場合、徳川将軍は「中奥」の御座之間などから天守に向かう時、多聞櫓づたいにグルッと迂回するのはあまりに遠いため、やむなく「御広敷」か「長局」の中を突っ切って行かねばならない(!…)という事態が予想されます。


……これはハッキリ申しまして“すっとんきょうな天守の位置”と言わざるをえず、当時の城中ではありえない、手打ちか切腹ものの大失態に当たるのではなかったでしょうか。

このため私なんぞには、そもそも「梅林坂」説というのは、論外の話であろうと感じられてならないのです。


では何故、そんな論外の天守位置が文献上に残ったのでしょうか?

ここで私なりの考えをアッサリ申し上げるなら、それは新将軍と張り合う弟君・徳川忠長を、本丸同然の梅林坂辺の屋敷から“本丸外へ”一気に追い出すための「口実」!だったのではないかと……


そういう事を持ちかける時は、やはり「天守うんぬん…」という理由づけの方が説得力を持っていたでしょうし、とりわけ二代将軍・徳川秀忠が造替を願っている新天守のため――― という所がミソであり、そう言われてしまえば、さすがの“駿河大納言”も自らの屋敷を明け渡さざるをえなかった、と想像するのですが、いかがでしょう。


で、それに加担した榊原忠次は、自ら編纂した『御当家紀年録』には、その経緯を淡々と記すにとどめ、実際にその後、梅林坂の辺りがどうなったか(→新天守はまるで別の場所!)は忠長の末路のこともあり、詳しく記すことが出来なかったのではないかと。

(※ちなみに『御当家紀年録』は忠次の遺志で他見が禁じられ、死後120年たってようやく幕府に献上されたそうです…)




さて、続いて「第二の根拠」に話を進めますと、元和8年から18年後の寛永14年、三代将軍・家光による寛永度天守の造替があったわけですが、この時、また新たな天守台を築くように命じられたのが黒田忠之(福岡藩)であり、これについて『黒田続家譜』が次のごとく記録していることによります。


(『黒田続家譜』より)

江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年加藤肥後守清正・浅野紀伊守幸長に命じ築かしめらる。
今春其
(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき由、忠之及浅野安芸守光晟に命を下し給ひ、両人是を奉て経営せらる。


という風に記された中の「舊(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき」という部分から当時を推測した場合、元和度天守と寛永度天守はおそらく“同じ位置”にあって長短の方向を変えて築き直しただけであり、やはり元和度天守は本丸北部にあったのだ、という説がとなえられました。


しかしこの記録は一見してお判りのとおり、旧天守台を築いたのは加藤清正!!と浅野幸長!!だという初歩的な間違いから始まっていて、実際は前々々回の記事から申し上げているとおり、清正の子の加藤忠広と、幸長の弟の浅野長晟による築造でありまして、その程度の公然の事実を『黒田続家譜』は認識していなかったことになります。


しかも文頭の「江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年…」とあるのもまた怪しい点でありまして、元和度天守台は寛永14年の時点でも“昔の築造当時のまま”と誤解していた節がありそうです。

と申しますのは、例えば内藤昌先生の著書『城の日本史』の江戸城の紹介ページに、こんな指摘もあるからです。


(内藤昌『ビジュアル版 城の日本史』より)

…寛永十三年、溜池から市ヶ谷を経て小石川に至る城の西北での濠の開削が決行され、これによって、江戸城の右渦巻状の全容が明確となる。
また同年酒井忠勝を総奉行として、本丸御殿と小天守台を付設する天守台の修築もあった。



!―― 寛永度天守の造替が始まる寛永14年の前年の「寛永十三年」にも、天守台をめぐる何らかの修築があった、ということでして、それは新たな小天守台によって本丸御殿との「接続」をはかるものであったのかもしれません。

そしてその総奉行を務めたのが酒井忠勝(→将軍家光の腹心中の腹心!)となれば、ちょうどこの時期に建造された、忠勝の居城・小浜城の天守(台)が、俄然、気になって来るのです。


小浜城天守台と小天守台

小浜城の絵図をもとに作成


小浜城の天守台はご覧のとおり、天守台の東側(ご覧の絵図では左側)に、細かく石段と石垣を屈曲させて守りをかためた「登閣路」の類いが設けてあるにも関わらず、その90度反対側(方角では北側)に「小天守台」が付設されている、というちょっと変わった形式になっています。

これはいったい何を手本にしたのだろうか… と想像力を働かせますと、ひょっとして、徳川家康が創建した二条城天守の「南の廊下」にならったのでは? という考えが頭に浮かびました。


この「南の廊下」については、最近出版された別冊宝島『蘇る城』に松岡利郎先生の慶長度二条城の推定図が載っていて参考になるのですが、これなどをご覧になりますと、家康の二条城天守も、やはり小天守の90度反対側に、別途、取付櫓や南の廊下が付設される、という似た形式だったようです。

これらはすなわち、大天守との連絡方法は、90度違う二方向から可能であり、その二つはそれぞれ違う形の建物や構造物、という特徴的な影響力の強いデザインだったのでしょう。


で、そうした形式の天守(台)を、三代将軍家光の腹心中の腹心・酒井忠勝が、寛永13年〜15年に居城の小浜城に築いていた――― となりますと、思わず、こんな仮説も付け加えさせていただきたくなるのです。





かくのごとき新たな小天守台の目的としては、本丸御殿との接続の便をいっそうはかるための措置… もしくは“大権現様・家康公の天守”に近づけるための酒井忠勝のご注進!? などなど、色々と想像できそうですが、申し上げたいのは、これによって元和度天守台の長短の方向が違って見えたのではないか、という点なのです。

これこそ、元和度天守台は「昔年」のままと思い込む『黒田続家譜』の筆者に、“旧基を改め縦横の長短を変えて”と書かせるに至った原因なのでは… と考えるのですが、いかがでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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