城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2016/06

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2016年06月20日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…






40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…




今回もまた、驚きの調査結果がもたらす意外な可能性について、当サイトなりの推論(暴論?)を申し上げてみたいと思うのですが、先ごろ、京都大学の防災研究所などの地中探査によって、聚楽第の未発見の外堀や天守台の痕跡が見つかった、というニュースがありました。




ご覧の図は、その探査結果を伝えた京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」というネットニュースに掲載の図をそのまま引用したものですが、この際、ニュースの文面も一部、引用させていただくことにしますと…


現在の「今新在家町」あたりで天守台が削られたとみられる高まりを検出。約40メートル四方の天守台と考えられ、同町と隣の「新白水丸町(しんはくすいまるちょう)」の付近に絢爛(けんらん)な天守閣があったと考えられる。
(中略)
表面波探査は、地面を木づちでたたいて発生する表面波の強弱を測り、地中の痕跡を見つける。京大防災研の釜井俊孝教授らが防災地盤調査を兼ねて昨年10月から実施していた。


というものだそうで、屏風絵などの断片的な情報しか残っていない聚楽第天守が、ついにその片鱗(へんりん)を見せたか、と私なんぞは思わず心が踊ったものの、ニュースの内容をよくよく見れば、これまでの聚楽第天守に対する漠然とした想定をみごとに裏切るような情報が含まれています。

どういうことかと申しますと、例えば上記の探査結果の図を、現地の地図上にダブらせてみますと、驚くべき事柄が見えて来ます。






!!―― 天守台だけが、北西の隅角にかなり“飛び出た形”になる



ご覧のとおり、その天守台は、単独でずいぶんと北西側に“飛び出た形”になるわけで、これが本当だとしますと、私の直感として、そうした天守は広島城や萩城のように本丸の隅角に築かれた「望楼型天守」の手法(=本丸側の登閣口や接続の仕方を重視した形)とは明らかに異なる!!タイプではないか、と思えて来るのです。

――― それは例えて言うなら、現存の二条城天守台のように多少、水掘の側へ飛び出たスタイルの、“超”強調型とでも言うべきもの、と感じられてなりません。


現存の二条城天守台 / 40m四方とは、これの東西・南北へ約2倍ずつの規模にあたる



しかも、そんな形の天守台が40m四方(約20間四方)もあったとなりますと、これはもう、駿府城や名古屋城、篠山城、福井城、今治城といった徳川の矩形の平城に特有の、大型の天守台や天守曲輪の類いが連想されるものでしょう。

ということは、そこにあるべき天守は、十中八九、望楼型ではなくて、むしろ「四方正面の天守」=層塔型に近い天守が、かなり広めの天守台の真ん中に建っていた、という可能性が濃厚にならざるをえないように思うのです。

むろん、そのような状況は、これまで屏風絵だけから想像してきた聚楽第天守のイメージとはかけ離れたものになりますし、また層塔型天守の発祥の時期の問題もからんで難しい解釈になるのでしょうが、今回の探査結果を尊重するかぎり、こうした類いの新しい見方が不可欠にならざるをえないのではないでしょうか。…


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』より


ではここで、有名な『聚楽第図屏風』を改めて検討してみたいのですが、例えばご覧のように、この屏風絵には実は “本丸の天守は描かれておらず”、これまで天守に接続した「橋台」とその土塀と思われて来た部分が、実は “突出した大型の天守台だけの状態を描いたもの” という風には見えませんでしょうか。

そして、これまでずっと天守だと思われて来た建物は、屏風の貼り紙のとおりに(北ノ丸の築造以前からその周辺に造営された)加賀少将(=前田利家)邸の四重櫓?であった、としたならば、どうなのでしょう。




そして今回、是非とも申し上げてみたいのは、こうした描画上の“錯誤”が、このほかの聚楽第を描いた絵画史料にも“伝染して行った”可能性はなかったのか? という問題なのです。



【ご参考】層塔型に描かれた聚楽第天守(御三階?)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



そこで、当ブログで再度、言及させていただきたいのが、ご覧の層塔型の聚楽第天守の絵です。


ご承知のように、この絵は問題の『聚楽第図屏風』の系統の描き方とは明らかに異なっておりまして、そのためか、上越市教育委員会が行なった学術調査報告書では…

「(屏風絵の)聚楽第天守には定型があったにもかかわらず、このように全く異なる姿で描かれたということは、その定型が忘れ去られる程度の時代に描かれたか、もしくは、三井本や堺市本は狩野派の絵師が描いたとされているので、それ以外の絵師、たとえば町絵師などが描いた可能性がある」
「天守、行幸御殿、東大手門には絵師の建築に対する理解の低さがうかがえる」


などと、かなり厳しい評価が下されてしまったわけですが、私なんぞは決して、ここに描かれた特異な「層塔型天守」に対する興味を失ってはおりません。


と申しますのも、これがもしも秀次時代にかけて問題の天守台上にあげられた天守(御三階櫓)であったと仮定しますと、それは当然ながら、太閤秀吉の伏見城からも見える距離にあったわけで、そうした政治的なエクスキューズとして、層塔型「御三階」という形を取った可能性は、決して低くないはず、…という風にも感じられてならないからです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年06月09日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか…






驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか…


元亀3年、織田信長が、対立する足利義昭に突きつけた最後通牒(さいごつうちょう)と言われる「十七ヶ条の異見書」の十七条目には、このように書かれていました。

<諸事について御欲にふけられ候儀、理非にも外聞にも立ち入られざるの由、その聞え候、しかれば不思儀の土民・百姓にいたるまでも、あしき御所と申しなし候由に候>




出典:http://i.imgur.com

そして、足利義昭の坐像(等持院蔵/ウィキペディア)より


【口語訳】

あなたは万事欲が深い。金を貯めたり、怪しいことをして懐(ふところ)をこやしている。理非曲直を明らかにせず、世間の批評も耳に入らないという評判だ。そのため、物を考える力のない無知の土民・百姓までもが、悪い将軍だといっている。

(朝尾直弘ほか共著『天下人の時代』掲載の訳文より)


ご承知のとおり信長は「天下の評判」を人物評価の物差しとして使い、自らの家臣の働きぶりをほめた書状でも、ご覧の足利将軍に対する最後通牒においても、そういう言い方をしていたことが知られています。

この件については、上の訳文が載っている著書『天下人の時代』で、歴史学(日本近世史)の巨頭のお一人、朝尾直弘先生が以下のように解説しておりまして、やはり私なんぞは、こんな見方の方がしっくり来るのです。




(朝尾直弘ほか共著『天下人の時代』2003年より)

ここで、信長は「土民・百姓」の意見を受けとめるかたちをとって、義昭を批判しています。

武田信玄がこの意見書を見て「信長という男はたいへんなやつだ」といったというエピソードが伝わっていますが、信長が「天下のほうへん(褒貶)」、すなわちほめるとけなすと、世間の動向をいうとき、それには「土民・百姓」が含まれていました。

「土民・百姓」はたんなる支配の対象でなく、政治的見解をもつ一つの勢力、世論を構成する主体として位置づけられていたと考えられます。「土民・百姓」の勢力がそれだけ無視しえないものに成長していたこと、信長の天下がそれだけ厚みをもってとらえられていたことを示していました。



このような見方の中でも、私は武田信玄がふと感じたはずの違和感(危機感?)に興味を感じておりまして、どういうことかと申しますと、織田信長が決して「土民・百姓」の味方でなかったことは明白でしょうし、それはおそらく武田信玄も百も承知だったと思うのですが、戦国大名(信長)が現職の足利将軍を詰問するのに、こともあろうに「土民・百姓」まで使って散々に言い立てる、という感覚に対して、まるで新種の生き物に出くわしたような(いよいよ出て来たか、といった)驚きが信玄の心にあったのではないでしょうか。


そもそも領国の“実効支配”に血道をあげていた戦国大名らが、自分たちは何者か、というアイデンティティをどこに求めたかと言えば、信玄などは文句なく“新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の血筋”がよりどころでしょうが、そんな信玄であれば、もしも足利将軍を詰問する立場になったとしても、絶対に「土民・百姓」の意見など、根拠にすることはなかったでしょう。

ところが、信長は違ったわけで、何故そんなことが出来たか?という点で、「天守」を創造するに至った信長や豊臣秀吉ら、織豊大名の「出自」が大きく関わっていたのだろうと思えてなりません。

当ブログで何度も申し上げたことですが、貴種の生まれでない武家が足利将軍を追放し、自らが天下人として君臨するとなれば、それ相当の軍事力があってもまだ不安のようで、そこで例えば、従う信者達の信仰心とか、民衆の「世論」といった、人々の「数」の力をよりどころにして、貴種の力に対抗するしかなかったのではないでしょうか。



BS朝日「歴史ミステリー 日本の城見聞録」徹底解明!天守の建築美 より




さて、そこで話はちょっと変わりまして、先ごろ、皆様おなじみの「城」番組において、木岡敬雄(きおか たかお)先生の出演で「天守の建築美」が語られたりしていましたが、番組での木岡先生の解説は主に技術的な観点からのもので、これを観ていた私なんぞは、どうしても、城主や大工の動機の面… つまり「見せる天守」を造り上げた原動力はどこから発していたのか? という面の方が気になって仕方がありませんでした。


その点で、前述の朝尾先生の「信長の天下がそれだけ厚みをもってとらえられていた」との指摘がググッと突き刺さるわけでして、つまり「見せる天守」を見せる対象というのは、それだけ厚みのある、当時の日本社会のあらゆる階層を想定したもので、それらをまるごと吸引する“力”のある建築が求められ、そのための「建築美」の追求であったように感じるのです。

とりわけ、我が国の「天守」が領国周辺のあらゆる人々に見せつけることを目的としたのに対して、西洋の美しい城館などは、その多くが領民の眺められる場所には建っていなかった、という事実は、美しい天守を造りあげた原動力が、どこから発したのかを如実に物語っているのでしょう。




<信長は結局、将軍にも、関白にも、太政大臣にもならずに(なる前に)

 いきなり“キングメーカー”になろうとしていた、という朝尾説への興味>





ではここで、信長をめぐる論議の最大のテーマ「信長の未完の政権構想とは」という問題で、少々確認をしておきたいのですが、信長が目指したのは将軍か関白か太政大臣かと、諸先生方や作家の方々がいろんな説をとなえた中で、前出の朝尾先生は(いまや古典的な?)解釈を表明されました。

すでにご承知の方も多いとは思いますが、朝尾先生は『御湯殿の上の日記』にある“正親町天皇の譲位と誠仁親王の天皇即位の費用は信長が負担するので、その後に官位の話はお受けする”という天正9年(本能寺の変の前年)の信長の返答について、次のように解釈しておられます。


(前出『天下人の時代』より)

信長の態度、考え方はここにはっきりと述べられています。

すなわち、かれのねらいは将軍や太政大臣など、朝廷の官職に無条件につくのではなく、キング・メーカーとして誠仁親王を即位させ、そのもとで権力をふるうところにありました。

これは秀吉が後陽成天皇を擁立し、太閤(前関白)として権力を行使し、家康が後水尾天皇を立て、大御所(前将軍)として政権を掌握したのと同じパターンです。

信長は「前右府(さきのうふ/前右大臣)」として死にましたが、かれのねらいは官職の制約を受けず、天皇の地位を左右する実力者として君臨するところにあったのです。



思えば、前回のブログ記事でも申し上げた「死ぬその時まで都の寺に<寄宿>し続けたのは何故なのか」というナゾも含めて考えますと、朝尾先生の言う、信長は結局、将軍にも、関白にも、太政大臣にもならずに(なる前に)いきなりキングメーカーになろうとしていたのだ、という極めてストレートな解釈は、たいへん魅力的に見えるのです。

信長は、朝廷が与える官職の枠に取り込まれず、より自由な立場で自らの政権を構想したい、という建て前を押し通したかったのであり、むろん足利将軍の位を簒奪(さんだつ)するつもりはなく、朝尾先生の言う「将軍に代わる新しい武家=天下人」による体制を模索していたのでしょう。


ですから、そんな信長らの美しい天守=「見せる天守」には、それ相応の動機や意図や思惑があったはず、という前提で申しますと、天守は言うなれば“安土桃山時代のマスメディア”でもあったのかもしれない… と思えて来まして、それは信長が気にした「天下の評判」にも、かなり巧妙に作用していたように思えるのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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