城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2016/09

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年09月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説






「革命」は 織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった?


天下人の偉業の継承者・石田三成が完成させられなかった「革命」を、

268年後に実現したのが 大久保利通だったのでは… というお話。



!!
<<石田三成は本当に、豊臣家への「義」のために、決起したのだろうか?…>>


全国の三成ファンの方々が聞いたら、今なら一気にフクロ叩きになってしまいそうな、こんな疑問を、実は、私は長いこと胸の内に抱えて来ておりまして、なかなか自信を持てずにいたのですが、最近ようやく藤田達生先生の中公新書『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(2014年刊)を読んだことで、いささか気分が軽くなった思いがしています。




と申しましても、藤田先生の本に、決してそんなことがズバリと書いてあるわけではないのですが、この中の先生の指摘や各分野の学説の動向を読み進むうちに、「やはり、そうだな…」と、けっこうな手応えを感じるに至りました。

すなわち、石田三成は豊臣家に対する「義」のために決起したのではなくて、もっと別の「ある大望」を完成させるには、何としても、それに逆行していた徳川家康という巨魁(きょかい)は排除せざるをえない、というイデオロギッシュな!闘争のために決起したのだ、と。

ご承知のごとく当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という手前勝手な仮説を申し上げておりますので、そういう立場からも、今回はひとつ、余談の余談として、「城」とは関係のないお話をちょっとだけさせていただこうかと思うのです。



<石田三成は「義」に生きた武将? …どこからそういう話が出て来たのか>



昨今ちまたで流行の石田三成の人物像というのは、ゲームの影響がそうとうに大きいのではないかと想像され、試しに、書籍で「義」という文字をタイトルに使っている三池純正著『義に生きたもう一人の武将 石田三成』や、おなじみの『歴史人』9月号(なぜ石田三成は豊臣に殉じたのか?)を例に、本当に三成は豊臣家に対する「義」や「忠誠心」から家康打倒の大軍勢を組織したのか? という観点で確認してみますと、けっこう怪しい結果になるのです。…

例えば『歴史人』の方から申せば、巻頭の特集記事で作家の童門冬二先生は「石田三成の忠誠心は「豊臣秀吉個人」に対する、三成個人の至誠心の表明だ。豊臣政権という組織、あるいは秀吉の後継者秀頼への忠誠心という要素はあまりない。その意味では三成の忠誠心は、「限定された忠誠心」といっていいだろう。」とまで言い切っておられます。


そして一方の『義に生きたもう一人の武将 石田三成』では、三成の動機をさぐる手がかりとして、三成が家康の前で頭巾を取らなかったという『寛元聞書』の逸話や、三成が落とした杖(つえ)を家康が拾って返しても、三成は礼も言わなかったという『淡海落穂草』のエピソードを挙げたうえで…


「これらのエピソードは一面 三成が普段から家康を警戒し、露骨に敵意を表していたことを示しているともいえる。これは、家康は虫が好かないとか、家康とは性格が合わないとか、そんな感情的な次元の話ではなかろう。
(中略)
三成が家康に敵意をむき出しにしていたとすれば、それは、三成は家康が将来 豊臣家の敵となる存在であると早くから見抜いていたということであろう」


という風に“推理する”論述にとどまっていて、具体的に徳川家康の“何が”豊臣家や豊臣秀頼の命運にさしさわるのか、この段階(三成の存命中)では殆ど明確になっておらず、ただ、ただ、家康の豊臣政権内での“増長ぶりが目にあまる”という三成ら奉行からの糾弾が、有名な「内府ちがひの条々」に書き連ねられたことしか、動機の判断材料は無かったのだということが分かります。


したがって、こんな状態で、三成は本当に、豊臣に対する「義」や「忠誠心」のために家康打倒の軍を起こしたのだと判断していいのでしょうか?

そこで冒頭の藤田先生の本に戻りますと、三成が天下人・秀吉のもとで常に意識させられたはずの「大義」と、三成個人の運命?のようなものが見えて来ます。




<藤田先生の著書から読み取れる、天下人による「革命」の最重要ポイント。

 ツルの一声で国替えができる「鉢植え大名」化で、強力な中央集権国家へ>





(藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』より)

時は、スペインやポルトガルが植民地を求めて東アジアに跋扈(ばっこ)した大航海時代だった。東アジア社会の動揺のなかで信長のめざした天下統一とは、預治思想にもとづき領地・領民・城郭を収公して国家のものと位置づける上からの「革命」だった。

秀吉や光秀をはじめとする麾下(きか)の大名たちは、天下人信長からこれらを預かったのであり、政治状況の変化に応じて知行替(転封)が繰り返されることも覚悟せねばならなかった。

鉢植大名となった彼らは、預かった領地で城割・検地などの仕置を強行していった。天下統一に向けて、預治思想にもとづく大名の官僚化と 石高制導入にもとづく軍役負担制度とが一体になった 近世知行制の導入という方向性が示された。…




藤田先生はこの本において、各分野でひるがえりつつある学説の動向をにらみながら、代表作の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』などで示した天下人の戦争のあり方(…若き日には室町幕府に理解を示したはずの信長が、なぜ「天下人」をめざしたのか?)との決着点を見い出されたと感じるのですが、そのキーワードはやはり「預治思想」による「鉢植え大名」化でした。


先生の言う「預治思想」では、領地も、領民も、城郭も天下人のものであり、臣下の大名はそれらを預かりながら全国の統治を分担するだけであって、時に天下人の意のままに“鉢植え”のごとく国替えもせねばならず、そうなると家柄や地縁はほとんど通用せず、ひたすら大名個人や家臣団の能力を限界以上に使って、天下人が思いついた無理難題に必死に応えて行くことになります。

ですから、明智光秀などは“そこで脱落して”反逆したのでしょうし、反対に石田三成は、近江の没落した地侍と言われる一族の中から、「才器の我れに異ならない者は三成のみ」と秀吉に言わしめたほどの才覚を持って現れ、名だたる大々名からも畏怖される存在にまでのし上がりました。


ところが、それほどの権勢にも関わらず、ご承知のとおり(関ヶ原合戦後に落城した)三成の居城・佐和山城には、豪華な財宝類や意匠は一切無かった、という有名な話があり、現に『老人雑話』には三成が「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったと伝えられていて、これらの事柄は単なる“美談の類い”と片付けてよかったのでしょうか。


<<主君より戴いた物は(主君のために使うもので、断じて私の蓄財などに)残してはならない>>

なんと、これって「預治思想」そのもの!!?…… ということは、もしや石田三成という人は、実は、信長と秀吉・二人の天下人が実行した「預治思想」を受け継ぎ、たちまち預治思想の“権化(ごんげ)”と化していった、地侍出身の、成り上がり高級官僚だったのでは―――

そんな、思わぬ人物像が、藤田先生の本からインスパイアされて浮かび上がって見えたのです。


で、もしそうだとすると、そんな三成にしてみれば、徳川家康とは、主君(天下人の秀吉)から戴いた形のものを大量に溜め込んで残す、盗人(ぬすっと)同然の大悪党、と見えて仕方がなかったのだ… とも思えて来てしまいます。

また、とかく印象の悪かった三成の言動も、個人の性格というより、ことごとくが革命家の情念のなせるワザであったと考えれば、納得のいくことばかりではなかったでしょうか。


そして三成は当然ながら「中央」志向が強かったようで、三成の働きぶりを見た秀吉が、九州に33万石の領地を与えようとすると、三成は「私が九州の一大名におさまっては中央の政治に支障が出るので」との理由で加増を断ったという話もあります。

そんな姿に、私なんぞが連想するのは、明治維新を主導して「廃藩置県」などの“革命”を断行した<大久保利通>でありまして、次のことは司馬遼太郎の受け売りなのですが、下級藩士の出の大久保らは、さらに「国民皆兵」という形の革命(=究極の下克上/平民が武士に成り変わる国民国家への道/フランス革命が発祥)も成し遂げたとされ、もしも三成があと10年か15年、豊臣政権を思うままに主導していたなら、何をしでかしただろうか… とまったく余計な夢想をしてしまうのです。



例えば、三成の「大一大万大吉」の紋章。これは由来や意味がはっきりせず、

一説に「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」

などと解釈されていますが、これなどは、まさに… !?






<「革命」は織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった??

 それを押し戻したのが徳川家康、という歴史的な構図も描けるのでは…>








さて、三成渾身の「闘争」が関ヶ原合戦でついえたのち、三成を排撃していた豊臣「武断派」七将の領地は、合戦前は各地にバラバラに細かく散っていたのが、合戦後はそろって大幅に加増され、あたかも集団で西日本を占拠したかのような勢いになっています。

一般にこの状態は、徳川家康によって彼らが東日本から“遠ざけられた結果”だと言われ、さらには笠谷和比古先生が持論の「豊臣・徳川の二重公儀体制」論との兼ね合いから、西日本で“豊臣の”勢力基盤が維持されたようにも言われましたが、今回の石田三成の闘争や「預治思想」を踏まえますと、また違った印象があるのではないでしょうか?

―――ズバリ申し上げるなら、この状態は、壮大な「共犯関係」の収穫物!!(獲物の山分け状態)ではなかったのか、と。

そんな風に私が感じたのは、かつて「三成研究家」を自称しておられた白川亨先生が、「武断派」の面々について、こう書いたことがあったからです。



(『歴史群像シリーズ55 石田三成』所収「関ヶ原決戦の虚実」より)

天正十八年(一五九〇)、病床を見舞った前野長康に対し、(豊臣)秀長は兄・秀吉に朝鮮侵略の無謀なることを諌(いさ)めたことを語っている(『前野家文書』)。

秀長はその言葉の中で「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」として「武断派」の存在を苦々しく語っている。

さらに秀長は、なおも秀吉に対して「(彼らが)それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」と迫り、朝鮮侵略計画の中止と、交易による隣善友好を求めている。

すなわち、秀長の言葉は「武断派」の存在を示唆すると同時に、その武断派が秀長にとって、嫌悪すべき存在であったことも匂わせている。

(中略)
彼らが東軍として家康に味方したのも、彼らなりの豊臣政権以後を睨(にら)んだ処世的行動と結論すべきである。

「武断派」七将が三成を襲撃し、佐和山退隠(たいいん)に追い込んだ日、当時の心ある人は、苦々しく、
「若き大名共、内府(家康)の気に入りたく体にて……云々」
と、家康に迎合する「武断派」七将の動きを冷静に見ていたのである。




こうした『前野家文書』に基づいた理解が正しいのなら、かの朝鮮出兵には「武断派」の面々、加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明の7人の圧力が、そうとうに加担していたことになるのでしょう。

(※ご承知のとおり『前野家文書』(武功夜話)は過去に偽書と言われ続けたものの、小和田哲男先生は歴史資料としての有用性を認め、前出の藤田先生もまた「良質な史料とは言い難いかもしれないが、信長や秀吉に関する一次史料の空白を補う参考資料としては貴重」としています)


となれば、その後の、徳川家康による上杉征伐から関ヶ原合戦へという大戦略の企図は、そもそも家康が、高禄を欲する「武断派」七将を手なずけ、ともに一大合戦を企てて、彼らにたんまりと日本国内に!!! 広大な領地を与えて“共存の新体制”を築くための大戦略だったのかと思えてなりません。…

その犠牲(いけにえ)にされたのが、豊臣政権の構造は温存したいと願う「吏僚派(集権派)」諸大名の領地だった… などというグランドデザインがあったとすれば、三成の危機感は当然のことであり、もちろん家康の思惑が一筋縄で行かなかったのも当然ですが、それにしても、家康の大戦略の結果は、三成の「革命」による中央集権国家とは“真逆の封建社会”に向かっている(逆行している)と見えたのではなかったでしょうか。





で、それから268年後、家康が築いた幕藩体制(官僚制的封建主義)が崩壊し、ふたたび「分権」と「集権」が大逆転しました。

薩摩藩の下級藩士から明治新政府の巨頭となって君臨し、西南戦争にも勝った<大久保利通>は、盟友・西郷隆盛の戦死を聞かされた時に「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が…」とつぶやいたと言われます。

以上の事柄を踏まえて、つぶやきの真意を想像してみますと、ともに幕藩体制を突き崩したものの、国民皆兵の思想にまではなじめず、征韓論を唱えて失脚した<西郷隆盛>という人は、どこか「武断派」七将… なかんずく加藤清正か福島正則のように見えて来て、清正や正則は本来なら、豊臣「新政府」のためにもう少し、三成と歩調を合わせられなかったのかと、時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説を夢想するわけなのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年09月14日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?






徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?


江戸後期の駿府城の体裁をかろうじて守った「坤(ひつじさる)櫓」/ 平成26年復元

これが例えば『東海道分間延絵図』の府中(=駿府)では…



天守と城下とのビスタ(vista/眺望)と言いますと、例えば岡崎城と大樹寺を結んだ一直線のビスタラインなどが有名ですが、似たようなことが駿府城でも言えるのかもしれず、ご覧のように東海道分間延絵図(文化3年完成)では、城の西側からの東海道の先(真正面)に、城内の重層の櫓が見えたかのように描かれています。

ご覧の三重櫓は、近年に復元された坤櫓とも見えますが、しかし地図上で厳密に線を引いてみますと、このビスタラインの真正面に建っていたのは、やはり本丸の「天守」に他ならなかった、ということがよく分かります。


明治22年 静岡市街図より



ためしに冒頭の絵と同じ「東海道分間絵図」の類いを見比べてみますと、時代によって、天守があった頃の描写が踏襲されたものもあり、また具体的な建物(天守か櫓か)がもう特定できなくなった絵図もあるようです。


九代目城代・三枝守俊の頃(延宝8年〜元禄8年)=天守が失われて45年〜



このようにして見て来ますと、「平城」という、平坦地に広がる城下町に囲まれた城においては、天守をどこに置くのか? という問題は、街道のビスタラインと連動したケースがいくつもあったのかもしれません。

そして当ブログはこのところ、聚楽第、広島城、駿府城といった「平城」を話題にして来ましたが、高低差のある平山城ならばともかく、まっ平らな平城の本丸の一遇に天守を置くとなると、それは厳密に申せば、織豊系城郭の縄張りの「求心性」の頂点(中心)とも言い切れなくなり、ちょっと外れてしまう? というやや困った現象が同時に起きたようにも想像するのです。


例えば、丘城(平山城)である岡崎城の復興天守内の模型を例に申せば、

高低差によって天守が「求心性」の頂点だと分かりやすいものの…



平城の駿府城でこうなると、求心性の頂点(中心)はいったいどこ???



こんな平城での困った現象をおぎなうための工夫が、実は前述のビスタラインや、天守じたいの「四方正面」の造形(とりわけ八棟造り)だったのではないか? という新たな興味(仮説)が私の頭の中に浮かんで来たのですが、果たしてどうなのでしょう。…




<八棟造りの「小傳主」は、破風の多い徳川版“見せる天守”の原型だったか>




関ヶ原の東軍大名・中村忠一が、駿府から米子に転封の後にあげた「四重天守」

友森工業様の地域貢献活動(CSR)のCG作品を引用 →右上端が四重五階の天守


さて、前回のブログ記事の最後で、天正の徳川時代の駿府城「小傳主」というのは、後の米子城天守にそっくりだったのではないか、などという勝手な推測を申し上げました。

そんな風に申し上げた理由としては、その後も家康とは縁の深かった「四重天守」であり、なおかつ四方正面(八棟造り)というスタイルであり、また唐破風を使用していて、しかも最上階には高欄廻縁が無い、という家康ゆかりの天守の特徴がいくつも揃ったうえに、中村忠一の移封を考えますと、忠一がそういう「小傳主」を意識的に米子の地に移植(増殖)したのだ、と想定しても全くおかしくないように感じるからです。


そしてもう一つ、家康の側の事情を想像しますと、前回に申し上げた時系列の主な出来事の間には、ある大事な出来事を書き加えなければならないでしょう。


天正13年
 徳川家康、第一回目の駿府城築城を開始。翌年には居城とする

天正16年
 4月、家康は聚楽第行幸に参列する

 5月(『家忠日記』より) 十二日、甲午、てんしゆの才木(ざいもく)のてつたい普請あたり候、家康様より普請ニせいを入とて御使給候、…

 8月、家康は豊臣秀長の大和郡山城を訪ねる

天正17年
 2月(『家忠日記』より) 十一日、己丑、小傳主てつたい普請當候、…



!! 大和郡山城天守の推定シミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)


ご覧のとおり、家康はこの時期に大和郡山城天守を目撃していたことになり、イラストは宮上茂隆先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)に基づいたものですが、このような天守を見た家康はきっと、東西南北・四面の破風の印象で、これが日本初の「四方正面」天守と見えたのではなかったでしょうか。


これまで当サイトでは、天守に「四方正面」が広く求められたのは徳川幕藩体制の確立と深く関わる事柄であり、それまでの織豊期の望楼型天守は明らかに「正面」や「側面」が存在していて、それらは城の大手や城下町、仮想敵の方角とピタリと合致していたはずだと申し上げました。(→天下布武の版図を示した革命記念碑か)

ところが幕藩体制下になると、天守は新たに、各藩の分権統治の中心をなすモニュメントとして役割が見直され、四方に広がる領国や城下町のすべての方角に正面を見せる必要が生じて、「四方正面」の天守が全国的に普及したのだろうと申し上げて来ました。


そういう意味では、大和郡山城天守は時代の変化を先取りしたデザインであったと申し上げていいのでしょうが、大和郡山城も平城に近い地形の城ですから、それを目撃した家康の心には、自らが初めて平城を居城にしたばかりでもあったためか、「四方正面」にもう一つ、別の動機(効果)を見い出したようにも想像できてしまうのです。


―――すなわち、自らが初めて建造する天守(小傳主)は、大和郡山城のような「四方正面」としつつも、さらに破風を増やした「八棟造り」にするならば、それは平城の縄張りの求心性の「自己表現」としても使えるのではないか!? という画期的な効果に気づいたのではなかったのかと。



【ご参考】 同じく平城の尼崎城の「四方正面」四重天守(※荻原一青「旧尼崎城」を引用)

これを築いた戸田氏鉄は、家康に近習として仕えた後、膳所城など四重天守の城の主を歴任した



そして、そんな家康の気づきが、天守におびただしい数の破風が設けられる引き金(トリガー)となり、その後の徳川の巨大天守のデザインにつながって行ったのかもしれません。

以上のように、駿府城「小傳主」は、城内で一基だけの天守建築だからこそ、余計に工夫が凝らされたとも思われ、家康の意地があらわれた部分と妄想するのですが、果たしてどうでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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