城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2016/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年11月
   
     

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2016年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から





聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から



(※TV報道画面からの切抜き)

(中井均『城館調査の手引き』2016年より)

現在復元が進められている名古屋城(愛知県名古屋市)の本丸御殿は慶長十五年(一六一〇)に造営された慶長期を代表する御殿であったが、表部分が手狭となったため、元和六年(一六二〇)には二の丸に広大な御殿が造営され、藩主御殿は二の丸に移った。

空となった本丸御殿はその後、徳川将軍の上洛用の御殿となるものの、ほとんど使用されることはなかった。






このように江戸時代においては、各地の譜代大名の城などで、本丸が天下人(徳川将軍)の宿所や御成りの場にあてられ、大名自身は二ノ丸に自らの御殿を構えた例がかなりの数に登りました。

そうした慣習に従うならば、城内の各御殿の順位というのは当然、【本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】という順位になるのでしょう。

で、この点について申しますと、そんな慣習(本丸を天下人の宿所にあてること)は必ずしも、江戸時代に入ってから突然始まったとも思えない節がありまして、例えば織田信長の頃に、坂本城を築いた明智光秀が、客人の吉田兼見を小天守でもてなした(→つまり大天守を外した)との記録があったり、または前々回も挙げた小早川隆景の三原城本丸御殿の件(→実は豊臣秀吉の御成り御殿?)があったり、さらには倭城の順天城では在番の小西行長が本丸を使わなかった、等々の事例があるからで、城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想は、江戸時代よりいくぶん前からあったように感じるのです。


そうした中で、どうも不思議だなぁ… と私なんぞが感じて来たのが「高知城」であり、現存する本丸御殿(わずか二例)の一つである高知城の本丸御殿が、築城当初は城主の山内一豊自身の御殿であったという点に、違和感を感じたのです。そこには何か、特殊な事情や仕掛けがあったのではないのかと。

(※ちなみに現存例のもう一方、川越城については、本丸御殿の奥の「天神曲輪」が、実は旧来の本丸(詰ノ丸)ではなかったか? という疑問も残るため、ここでは除外させていただきます)


高知城の航空写真より

本丸周辺の現状の略図


かように申し上げましたのは、今ある本丸御殿は江戸中期の火災後に再建されたもので、天守もほぼ同時期に再建されたのですが、ご覧のごとく天守と本丸御殿が寄り添って建つスタイルは、一豊の築城の頃からの伝統的な姿だとされていて、ならば当時の様子を、改めて想像してみますと…




一豊はこの時、徳川幕府のもとで外様大名の立場(→すなわち徳川将軍の「宿所」の可能性はゼロ)ではあったものの、冒頭から申し上げた“大天守や本丸は天下人のもの”という発想からしますと、ご覧の様子は、どこか僭越(せんえつ)と見られかねない“危険”を私なんぞは感じてしまうのです。

思えば、この時期、同様の立場にあった外様大名(旧織田・豊臣の配下で関ヶ原合戦の東軍諸将)を考えますと、例えば福島正則の広島城は、本丸内に“平然と”自らの御殿と(新築の?)大天守をセットで設けていましたが、その逆に、細川忠興の小倉城や浅野幸長の和歌山城などは、本丸(天守曲輪)を天守や多聞櫓で囲うだけに留めて、自らの御殿は天守とは別の曲輪に設けていた(言わば江戸時代を先取りした?)スタイルであったとも言えるでしょう。

(※追記:ちなみに加藤清正の頃の熊本城も、慶長16年に萩藩の密偵が描いたという「肥後熊本城略図」によれば、やはり後者!の城なのかもしれません。天守は大天守のみの独立式で、本丸に大広間はまだありません!!…)



ですから問題は前者の広島城の方であり、高知城と同じく、それは天下人の豊臣秀吉や徳川家康から「僭越」と見られかねない危険をおかしていたことになりそうですが、しかし、しかし、そこには一つ、ある特殊な事情(仕掛け)があったのではないかと、あえて今回は申し上げてみたいのです。

すなわち…




いかがでしょうか?

そもそも天守の原形は何であったか、それは織田信長の安土城天主のごとき「立体的御殿」であったという事情を知っていた(はずの)旧織豊大名らにしてみれば、本丸内にそうした天守と自らの御殿を並べるという行為は、すでに一つの「方便」として、天下人に対する一応の体裁を整えたことになっていたのではないでしょうか。!!…


…などと申しますのも、一豊が高知城を築き始めた慶長6年には、もはや天守の実態は「立体的御殿」ではなくなっていたのでしょうが、そんな「方便」がまだ通用したのだと仮定しますと、冒頭から申し上げた「城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想」は、実に 織田→豊臣→徳川 と一貫して、諸大名の間の不文律として受け継がれたことになります。

それこそ、藤田達生先生のおっしゃる「預治思想」がこんな部分に影響したのかもしれませんし、その間においては、城内の各御殿の順位が玉突き状にスライドしたのかもしれず、本来の順位は、

【立体的御殿(天守)―本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】

という順位であったのかもしれません。


(※追記:このところ申し上げた記事との関連で整理しますと、豊臣政権下の「外様の大大名」たち=徳川・毛利・織田信雄らに限っては、このような「方便」さえも辞退して、以下の聚楽第の風景にならいつつ、自らの城を「小天守」にとどめたのではなかったでしょうか?)




<築城当初の聚楽第には「天守」がまだ無く、せっかくの天守台上が

 ガラ空きであった可能性の「原因」「理由」としても…>








さて、当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉による築城当初は、まだそこに天守が(少なくとも望楼型の天守は)無かったのではないか?? との疑問を申し上げてまいりました。

例えば徳川家康の二条城においても、築城準備を始めた慶長6年に対して、初代の天守(=大和郡山城天守の移築か)を建てた年は慶長6年説から7年説・8年説・11年説と様々に言われていますから、聚楽第でも、最初は天守が無くても不思議ではないのかもしれませんが、ただ、聚楽第の場合は天守台の独特の形状(本丸の北西隅にかなり飛び出た構造)が原因と思われますので、やはり異様な事態… かなり特殊な事情によるレアケースが持ち上がっていたとも想像できます。


そこで、その「原因」「理由」を大胆に推理しますと、今回申し上げた「どこが天下人の宿所か」という問題が、とりわけ聚楽第は天皇の行幸を大前提として築かれただけに、天守という新種の建築物の使い方をめぐって、足利義教以来の150年ぶりの行幸をおこなう上で、政権内部に思わぬ“混乱”を引き起こしていたとは考えられないでしょうか。


聚楽第に向かう後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



すなわち、聚楽第は豊臣政権の政庁と言われますから、そこに天守があがれば、それは当然、天下人の秀吉を示す旗印であり、秀吉の存在(居住や宿泊)を京都盆地一帯の人々に見せつける強烈なランドマークになったはずでしょう。(→現に妙顕寺城の天守はその可能性も…)

しかし、そんな聚楽第に天皇の行幸をあおいだ最大の眼目は何か、と言えば、諸大名がずらりと居並ぶ大広間において、その最上段に天皇が着座しつつ、それを補佐する形の(天下人)秀吉に対して、すべての大名らが臣従を誓うセレモニーを成功させることであり、それが豊臣政権の命運をにぎっていました。

で、そのために迎えた後陽成天皇の「宿所」はどこか、となると、後の二条城と同様に、城内に行幸殿の「儲(もうけ)の御所」を造営したことが『聚楽第行幸記』に書かれています。


――― ならば、そんな城内の風景の中で、天下人の「宿所」をも意味する(なおかつ公家社会とは無縁の)新機軸の「立体的御殿」(=天守)を、ヌオッと御殿全体を見おろすように建ててしまっても、大丈夫なのか?

――― それが政権の意図とは逆効果になって、重要なセレモニーを進めるうえで、差しさわりが生じるのではないか?…

そんな、日本史上、初めての経験を前にした心配が、相手は天皇や公家らも含むため予断を許さず、ここは緊急避難的に、天守台だけ雄大に(→掘の対岸から見えやすい形状を特別に工夫しつつ!!)築いてみせるものの、そこに天守そのものは建てずにおこう、という超レアケースの対応を、秀吉本人らが決断したのでは? と想像するのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?






加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?




ご覧の加藤理文先生の著書『日本から城が消える』はこの夏に出版されたものですが、刺激的なタイトルに示された懸念については、これまでに当ブログもそれに近い話題(「コンクリート天守」云々…)を記事にして来たため、まことに遅ればせながら、この本についての感想を手短かに申し上げてみたく存じます。


この本は表紙の黄色い帯で「名古屋城、江戸城の再建はほんとうに可能なのか?」という話題のテーマをキャッチコピーにしながらも、内容的には、明治時代から最近までの城郭再建の歩みを網羅(もうら)的にまとめておられます。

とりわけ全国の「コンクリート天守」の耐用年数が終わりつつある問題や、掛川城・大洲城・金沢城などの木造復元の実情(いくつもの妥協があったこと)を紹介しつつ、いま話題の天守の木造再建が「費用や材料の問題以前に、じつは法律の問題が大きく横たわっているにもかかわらず、報道ではまったくふれられていない」ことに焦点を当てたものです。



(同書「はじめに」より)

戦後、城が復興されたときの法律と、今の法律はまったく異なってしまった。

より安全性や利便性が優先された法改正は、「文化」を置き去りにしてしまったのである。

城は、文化財保護法だけではなく、建築基準法や消防法等、一般住宅のために制定された法律の対象となったのである。




つまり、城やその中の天守というのは、本来ならば法隆寺の夢殿や平等院の鳳凰堂などと同類の、我が国の歴史・文化的な「遺産」のはずなのに、高度経済成長期の観光開発として「コンクリート天守」などが重宝(ちょうほう)された結果、今ではそこに消防法!!! までが適用される実態を、加藤先生はこの本でつまびらかにしておられます。

そうした環境の下では、本家本元のはずの現存十二天守は、言わば現行法の規制の対象外として、仕方なく認められたクラシックカーのごとき存在だと分かるのです。!!

ですから話題の名古屋城など、これから木造で天守を再建しようにも、またはコンクリートのまま建て替えようにも、実は「法律」の強力な壁で建て替えられない(→解体したら、もうそのまま消えるしかない)というケースが、全国でいくつも出現する可能性があり、そのため <消える城の危険度> を検証したくだりは、この本の最大の見どころでしょう。


加藤先生が、消滅の時期が最も早い存在、と予想した洲本城の模擬天守



さらに加藤先生は、中世城郭の土の城を含めて、多くの城跡が“公園”と見なされてバリアフリー化していく大きな矛盾についても指摘し、それらが相まって、『日本から城が消える』というタイトルどおりの懸念が現実化する実態に警鐘を鳴らしています。

新刊書ですから、これ以上、“ネタばれ”になる感想は申し上げられませんが、先生ご自身の懸念に対する「結論」とは別に、私なんぞはもう一つ、別の「結論」もありうるような気がいたしました。

…          …

と申しますのは、「コンクリート天守」を抱えた県庁所在地などの自治体は、住民の根強い願望(やはり天守閣は欲しい…)と法律との板ばさみになったあげく、やむなく、苦肉の策に突き進むのかもしれない、という悪い予感です。

――― すなわち、現状の「コンクリート天守」の延命化を、何が何でも、どんな手を使ってでも、新しい建築技術や法の網の目をかいくぐる裏の手段を使ってでも、永久に、頑(かたく)なに続けるだけではないのか… という、ゾッとするような「結論」が頭に浮かんだのです。

勝手な妄想で申しますと、例えば、寿命が近づいた「コンクリート天守」を部分的・計画的・段階的に改修して行って、いつの間にか、それが新築同然!の別のコンクリート天守に“すり替わっている”などという画期的な新工法が開発されるのは、そう難しい話でもないように感じるのは、私だけでしょうか。…


【ご参考】旧川崎銀行の外壁だけ残して近代化された日本興亜損保横浜ビル

これほどの技術なら「昭和のコンクリート天守」を未来永劫、残すことも可能なのでは?…




おきて欲しくない、実に悪い予感ですが、こうした技術を応用して、あくまでも「改修だ」と言い張れば、加藤先生が指摘された法律上の様々な制約には引っかからずに済むのではないかと思われますし、あとは予算と住民願望との折り合いだけで、その結果は、史跡のど真ん中に「昭和のコンクリート天守」が日本の城郭建築として固定化するという、おぞましい未来像が頭に浮かんで来て、それはひとえに現行の「法律」がそうさせるのだ、という点を叫びたくなりました。

ひょっとすると、文化財保護法や建築基準法は、城の分野においては、かつての徳川幕府の「一国一城令」に勝るとも劣らない! 歴史的にいちばん“強固な法令”になって行くのかもしれません。


で、さらに問題なのは、そんな状態が悪いこととは感じない人々が日本社会の多数派かもしれない… とりわけ「天守閣」などは、それでいいじゃないか、と言う人が多いのかもしれない、という絶望的な気分もぶり返して来たのです。


思えば、今年春に耐震改修を終えた小田原城天守閣も、ちょっとそんな印象を感じさせるもので…


(※写真は産経ニュース様より引用させていただきました)

この際、極端な言い方でたいへんに恐縮ですが、おそらく「コンクリート天守」というものは、薬物などと同じで、一度やったら止められない、という類いの強い“魔力”を持っているのではないかと、常々、私なんぞは感じております。

つまるところ、戦後の日本的な民主主義のもとでは、<コンクリート天守の木造再建> などという社会や時代のスケールを超えた難問は、きっと名古屋市の河村たかし市長のような独善的な政治リーダーがいなければ進まないし、解決の道筋も付けられない政治案件なのかもしれません。

――― そこで、さもなくば私なりの一案として、現状維持を旨とした「文化財保護法」に加えて、学術的に間違った現状を、より正しい旧態に戻すことに強力なインセンティブを与える「文化財<保全>法」とでも言うような新法が必要かと思うのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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