城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2017/01

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2017年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした





加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした




ご覧の表紙の帯イラストは、背景に描かれた安土城天主が、おなじみの三浦正幸先生の監修ではあっても、これまで各誌に登場した「佐藤大規復元版」ではなくて、新しい「中村泰朗復元版」(→同書141頁に立面図あり/昨年末にリニューアル発売のペーパークラフトもあり)のようです。

ですが、それが炎上前の白煙があがった演出なのか、ちょっと分かりにくいイラストになってしまったのは何故なんだろうと、ページを開く前から読み手の関心を誘ったのが、加藤理文先生の新刊本『織田信長の城』でした。


【ご参考】講談社の同書PRサイトからの引用(→上記の表紙の原画でしょうか?)


この「中村泰朗復元版」は同書の立面図などをご覧いただくと、さらによく分かるのですが、天主の建物の構造に、当サイトがずっと主張して来ました「十字形八角平面」(→関連記事<安土城天主に「八角円堂」は無かった!>)を部分的に採り入れたもののように見える辺りが、私なんぞには、実に興味津々の復元案なのです。


――― が、そんな前置きはさておき、加藤先生の新刊本は、織田信長が生まれた城・勝幡城から最後の安土城までを網羅しつつ、表紙の帯キャッチどおりに、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに注力した、かなりの意欲作だと感じ入りました。

しかも、またもや加藤先生の本らしく? 別の考え方もあれこれとインスパイアさせてくれる部分が多々あり、今回は例えば安土城の章から、そういう印象的なくだりの一部を、私なりの独善的チョイスで恐縮ですが、是非ともご紹介してみたく存じます。




<その1.一瞬、思わずノケゾッた、

     安土城「大手道」は山から下りるための“退出用の道”!!?>





安土山の南斜面にある「大手道」/ 次の写真の図では番号1の道

同書に掲載された城内通路の図 / 番号3が百々橋口(どどばしぐち)道


(加藤理文『織田信長の城』より)

『信長公記』(天正一〇年正月一日)には、<隣国の大名・小名御連枝の御衆、各(おのおの)在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ>と、近隣諸国の大名や小名、織田家一門の人々が、百々橋口から登って来たことが記されている。

年頭の挨拶の出仕であるため、正式な通路を使用することが当然で、百々橋口→ハ見寺→伝黒金門→本丸御殿対面の間というのが正式ルートと判明する。

(中略)
『信長公記』の記載から、百々橋口道(番号3)はハ見寺参拝ルートとして、町衆の往来可能な道だったことが判明する。
では、百々橋口から上がった町衆は、どこに下りたのであろう。

「死人が出るほどの混雑」と記されている以上、道は一方通行であったとするのが当然で、町衆は百々橋と接続する大手道を下るのがもっともわかりやすい。

つまり、大手道は町衆の往来も可能な道だったことになる。大手門は、見つからないのではなく存在せず、常に開口していたのである。



!―― 安土城の「大手道」と言えば、発掘調査で姿をあらわした当時はセンセーショナルな報道もなされ、安土城で織田信長が計画したと伝わる幻の天皇行幸では、この大規模な石段こそが、天皇の乗る鳳輦(ほうれん)がしずしずと登る「行幸道」になったはず、などと言われたものでした。

しかし、数々の城郭踏査の経験から“理詰め”で迫る加藤先生は、そんな可能性を全否定しておられ、大手道とは家臣や町衆も通る「往来」であって(※千田嘉博先生は一族や重臣の屋敷地をつらぬく連絡用の道としましたが…)城内の「正式ルート」としては、なんと!山から下りるための“退出用の道”だと解釈されたのです。




思わず私なんぞはイスからずり落ちそうになりましたが、すぐさま、それならば、小牧山城にある「大手道」もまた、正式ルートでは“下りるための退出用の道”なのか!?? と、にわかには納得しがたい気持ちでいっぱいになったものの…

しかし、そこで、いや待てよ… と考えてしまうのが私の悪いクセでありまして、これは信長自身の大手道の使い方としても、ひょっとすると、ひょっとするな、と。



登場したトップスターが先頭で降りて来る、タカラヅカの大階段

(※写真は織田信長役でも知られる月組・龍真咲の「Fantastic Energy!」より)

さて、どうでしょう。

「大手道」の機能としては、どうしても「登る」方に関心が行きがちであったわけですが、加藤先生の解釈はその呪縛(じゅばく)をとくきっかけになるかもしれず、上記の天正10年の正月参賀の件は特殊な用例だとしても、それ以外の普段の機能を考えれば、山頂の“聖域”に住まう天下人の信長が、山麓に居並ぶ兵たちの前に姿をあらわす時に、その姿が見えやすい直線道の部分が(言わば花道として)とりわけ大規模に整備されたのだ… と考えられなくもなさそうです。

これは逆転の発想として実に面白いものの、一方では、城のなかの「直線的な城道」の機能については、過去に当ブログでも一、二度申し上げたように、例えば近江八幡城や犬山城などにある直線道との比較(→重臣屋敷の二ノ丸・三ノ丸の類いを経由しないバイパス道の効果 →専制的な領主の位置づけ)も必要ではないかと感じておりまして、果たしてどうなのでしょうか??


【ご参考】大手道を下りる時の目線で見た南側山麓の風景

→ 木々が繁茂していなければ、向こうからも良く見えたはず!!!







<その2.伝二ノ丸を奥御殿のうちと解釈しつつも、

     三浦正幸先生風の階段(きざはし)を採用したため、

     その奥御殿に天皇の御座所「御幸の御間」があったことに……>





これからご紹介する部分の面白さを伝えるためには、当ブログを昔からお読みのような方々は百も承知の事柄でしょうが、安土城・主郭部の御殿の配置をめぐる研究者間(分野間?学界間?)のケンケンガクガクの大論争をもう一度、思い出していただく必要があります。


はじめに―― 通称「伝本丸」「伝二ノ丸」「伝三ノ丸」などの位置

A【考古学】発掘調査を担当した安土城郭調査研究所の御殿配置案

B【建築史】三浦正幸先生による御殿配置案(『よみがえる真説安土城』を参照)

C【城郭考古学】千田嘉博先生による御殿配置案(『信長の城』の文意から作成)


ご覧のとおり、それぞれの配置案をまずは「表」(公・ハレ)と「奥」(私・ケ)の領域の違いで確認しておきますと、結果的には、奇しくも、A案(安土城郭調査研究所/藤村泉・木戸雅寿両先生ら)とC案(千田嘉博先生)がともに、伝本丸や伝三ノ丸の御殿が「表」にあたり、天主や伝二ノ丸の御殿が「奥」になるという解釈で一致しておられます。

しかもC案の千田先生は、天主台西側の足下にピッタリ寄り添った不思議な礎石列は「外観上、天主と接合しているように見えた「懸(か)け造(づく)り建物」であった」(歴史発見vol.2)と推定され、その点ではA案の木戸雅寿先生も「天主の張出しも考えられる」(よみがえる安土城)と同様の発想で一致していて、手前味噌ながら当サイトもまた「懸け造り舞台」を想定してイラストに描いた経緯があります。


画面右下隅が「懸け造り舞台」→銅板包みを想定して青く描いた

(※なお、手前に降りて来る連絡橋の足下の石垣面には「寄せ掛け柱」も描いた)



そこで注目の加藤先生のお立場なのですが、奇しくも、7年前の当ブログ記事で『信長公記』天正10年の正月参賀のルートを話題にしたおりに、三浦正幸先生監修『よみがえる真説安土城』掲載のルート案をトレースして例示したのが下記の図なのですが、このルート案じたいを作成したのが、他ならぬ加藤先生だったのです。


このルート案では、表(ハレ)と奥(ケ)を横断して、天主以外はくまなく巡ったことに…

(※お馬廻衆・甲賀衆の見学ルートの場合)



ですから加藤先生は当然、三浦先生(B案)がその本で主張された、例の不思議な礎石列の上には「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)があり」とする説を大前提として、このルート案を作成した経緯をお持ちであったわけで、そうした経験などから自説を導き出され、今回の新刊本にも反映しておられます。


(加藤理文『織田信長の城』より)

前掲の『信長公記』の記載で、中枢部の建物配置を考える際、もっとも重要な手掛かりは、<階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候>である。

御幸の御間へは階段を上がって行ったことが判明する。

この記述から、「御幸の御間」は伝二ノ丸南虎口の存在する平坦面から階段を上がった場所に位置していたことになる。



という風に、加藤先生は階(きざはし)案を支持しつつ、一門衆・大小名の見学ルートで言えば、その階(きざはし)で北側の石垣を乗り越えた先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があった、と説明されるのですが、何故そこまで階(きざはし)案を支持するかと言うと…


(上記書より)

(不思議な礎石列のうちの)東側の礎石列Aに沿って天主台に柱が焼けた黒色の痕が残されていたため、ここに斜めの柱があったとの説もあるが、石垣に押し当てて設置してある柱が焼けた場合、通常黒色ラインが残るのではなく、焼け残って柱部分のみ白く残るはずである。

ここで見られた黒色ラインは、焼けた柱組みが東側に倒れ、石垣に寄り添って燃えたための事象と理解される。



という理由で、天主台石垣に残った黒い柱状の焼け焦げは、懸け造りのための寄せ掛け柱ではなくて、階(きざはし)が燃えて倒れかかった結果だと説明されるのですが、そのようにして天主台にピッタリ寄りそう階(きざはし)があり、その先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があったとする一方で、加藤先生は、伝二ノ丸は(天主を含めて)信長の居所の「奥御殿」だとも説明するのです。

(※そして伝本丸が正式な対面を行なう政庁=南殿の「表御殿」、伝三ノ丸が行事等を行なう紅雲寺御殿の「会所」に相当する、と。つまり「表」と「奥」の領域の解釈はA案やC案と同じになるのですが…)

――― ということで、この新刊本では、信長自身と家族の居所の「奥御殿」に、天皇の御座所「御幸の御間」があったとしていて、それで具体的にどう使ったのだろうか?… と、やはり心配になってしまいますし、『信長公記』の階(きざはし)の先に「御幸の御間」を含む「御座敷」があった、との記述を重視する考え方も分からないではありませんので、どう受け取ったものか、頭をかかえていますと、例の不思議な礎石列について…



(同書より)

礎石列A、Bの南端で若干位置がずれる二個の礎石(22、23)も確認されている。(中略)南側一間分の軸のずれは、南側の櫓と通路との取り合いの関係が推定される。




ふと見れば、加藤先生の礎石列の説明文には、上記の一文がさり気なく加えられていて、すなわち、例の礎石列は南端の一間のうちに、すでにわずかながら“角度を変えている”とおっしゃるのです。!…

これは実に些細(ささい)な現象でありながら、城郭踏査を重ねた加藤先生ならではの注意力(ある種の違和感の察知)ではないかと感じまして、このこと(※三浦案では無視)を注視して行きますと、礎石列は逆に、南側の櫓との関係性(接続!?)がクローズアップされて来て…


【またもやインスパイアされた仮説】

もしも「懸け造り」の柱の間を登る階(きざはし)が、真逆の南側!!へと登る形で櫓内に至り、

さらに多聞櫓を通じて、伝本丸の御殿群の各所に至る複数のルートがあった、とすると…




→ フロイスが記した「この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿」

の「一つの側」とは??

「一つの側」は普通に読めば、主郭部の東半分という意味であろう、とこれまで多くの方々が受け取って来たものの、ご覧のようにしてみますと、「一つの側」が原文ではどこにかかる“修飾語”だったのか、分からなくなる感じもしてまいりまして、こんなことまで加藤先生の観察眼からインスパイアされてしまうところが、この本の不思議な魅力なのです。

(→もちろん本の全体の論旨は、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに、最大限の力が注がれております)


ちなみにご覧の配置図は、千田先生のC案をベースにさせていただきまして、それと言いますのも、千田先生の配置案には言外の大きなメリットが隠れているからです。

そのメリットとは、このように文献上に名前のある御殿がすべて、主郭部の東半分で“処理”できるなら、西側の伝二ノ丸は「奥御殿」ではあっても、そこには、これまたフロイスが記録した「広大な庭」の懸案の居所(いどころ)も推定できる、という多大なメリットに他なりません。


… 最後に、例の礎石列の西列で焼け残った壁材が見つかったという件がやや気になるものの、加藤先生は「壁材(厚さ約三〇センチ)は、礎石16上の炭化柱材の前後、南北方向で立ったままの状態で検出。」「北側西面(13〜16の間)に片開きの戸が設置されていたと考えれば、検出遺構と矛盾なく解釈が可能である」とも説明していて、南向き!の内部階段への「入口」はきちんとクリアできそうです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年01月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…





探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…




もう一回だけ、聚楽第の話題を続けさせていただきたいのですが、前回、絵画史料に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、ひょっとすると本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を(コンバートして)描き込んでしまったのではないか… などと申し上げました。

では、どこの景観なのか? とお感じになった方もいらっしゃるかと思いますので、今回は私なりの腹案を申し上げてみたいと思います。その場合、気をつけたい事柄としては…


話題になった聚楽第の「外堀」は、まだ未完の状態??

例えば、南東側の浅い凹みは「その時まさに掘を掘っていた途中」のようで…




(※ご覧の図は京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」に掲載の図を引用)



二番目の明暗をつけた図は、当ブログの記事ですでにご覧いただいたとおり、外堀全体の配置をよくよく見ますと、南面(=太閤・豊臣秀吉のいた伏見城の側)の工事が後回しになっていて、これは外堀がまさに“造成途中”であったことを感じさせるものです。


ということは、当然、これら外堀の堀際に「櫓」の類いは、どこまで完成していたのだろうか? という疑問も出てこざるをえないのではないでしょうか。

そういう観点から、さらにご覧いただきたいのは…


個人蔵『京都図屏風(洛中洛外地図屏風)』に描かれた聚楽第の痕跡 → 内堀だけ!!



これも有名な絵画史料の一つであり、上記の探査結果がでる以前は、これによって聚楽第のおおよその形を、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸から成るものだと想定していたわけですが、今日、改めてこの屏風絵を見ますと、「どうして、きれいに内堀だけが残ったのか…」という新たな疑問を感じてしまいます。

この屏風は元和6、7年(1621、1622年)か寛永元年(1624年)の制作と考えられるそうですから、聚楽第の取り壊しが始まった文禄4年から数えて、20数年でここまで変わってしまったことになります。




ためしに探査結果の図を、東西・南北の比率をやや変えてぴったりとダブらせますと、問題の「外堀」があっという間に埋められて、市街地に変貌して行った様子が、ありありと想像できます。

破却開始から20数年で、どうして外堀だけが、跡形もなく消えて、いちはやく市街地化したのか? という風に改めて考えてみれば、やはりそれが“造成中”だったから、埋めやすかった(※残土も土塁用にちゃんと残っていた)のではないか、という想像をたくましくしてしまうのです。


……ならば『探幽縮図』の原画は、いったいどこの景観を描いたのか



さて、以上の事柄を踏まえた場合には、ご覧のように石垣の堀際に櫓群を連ねた曲輪というのは、どうしても、本丸か南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸のいずれかを想定せざるをえなくなってしまいます。

そこで、一つの参考事例としてご覧いただきますのが…


前田育徳会蔵『聚楽城古図』より

本丸の北側部分を拡大してみれば…


! これは城の描写が非常に簡略化されていて、なおかつ、そこにある人物名を見ますと、やはり参考資料にとどめなければならないものなのでしょうが、そんな側面をあえて差し引けば、「山口玄蕃頭」という人物の位置づけ―――すなわち、増田長盛や石田三成と並ぶほどの豊臣政権の幹部として、当時の人々に認知されていた可能性をうかがわせるようにも見えます。


そして、その名前がある部分(二ノ丸?の北西部分)を見ますと、そこは文禄2年に「北ノ丸」が新造された範囲に含まれるのか否か、微妙なところでしょう。

北ノ丸と言えば、かつて櫻井成廣先生は「北の丸は『駒井日記』文禄四年四月十二日の条に「北丸御袋様に八木(米の事)千石」の文字が見出されるから、当時関白秀次の母智子(後の瑞竜院日秀)の邸が此の郭に存在したに相違なく、従って彼女の来住以前には秀吉の母大政所が居たのではあるまいかと類推出来る」(『豊臣秀吉の居城』)とまで指摘していて、そこに山口玄蕃頭の屋敷があったとは、ちょっと考えにくい場所ではあります。


それでは、同じく「北ノ丸」がまだ無い状態を描いた、もう一つの資料では…


幕末の画家・名倉希言が書き上げた『豊公築所聚楽城跡形勝』より


なんと、こちらの有名な資料では、同じあたりが加賀少将(前田利家)邸とされていて、こんなチクハグな状態に至った背景を私なりに想像しますと、前々回から申し上げて来た <『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響> がまたここでも“悪さ”を働いて、混乱を助長させたのではなかったのか… と思わず邪推してしまうのです。




かくして、ここでも金雲を使った強引な押し寄せがあり、加賀少将邸の本来の位置はずいぶんと違っていた可能性を含めまして、以上の事柄のすべてを勘案した【仮説】を、この際、お目にかけたいと思うのです。


【本日の結論】 絵画史料に共通した<櫓群>というのは、実は、「北ノ丸」の景観なのでは!!?


(※内堀・外堀の状態は京都大学防災研究所の復元図に基づいて作成)


仮説としてここで申し上げたいのは、山口玄蕃頭の屋敷が本当に「北ノ丸」にあったと言うのではなくて、あくまでも絵図や伝承に基づいた絵師の「見立て」として、このような視点が設定されつつ「北ノ丸」を前景とした景観が(聚楽第を代表して)描かれたのだと仮定しますと、その他の絵画史料との共通性や間違いの伝播(伝染)についても、ある程度、合理的に解釈して行くことが可能なのではないでしょうか。

では、どの絵画史料が一番先で、どれが一番正確なのか、と言われますと、こうした仮説の上に立つなら、『探幽縮図』で本丸からポツンと離れて天守らしき建物が描かれたのも、当ブログ仮説の「加賀少将邸四重櫓」ならば、前田邸の伝承が残る福本町か加賀屋町のいずれであっても、まさにそのように見えた!! ことでしょうから、(※この屏風絵全体は聚楽第の東西南北と行幸の行列との方角が合わなくなるものの…)『探幽縮図』原画の聚楽第の描写じたいは、かなり有力な候補に思えて来てならないのです。




おそらくは、こうした視点から描く『探幽縮図』の原画などが最初に現れ、続いて本丸御殿を強調するためのコラージュ画として『聚楽第図屏風』が作られ、その後に、それらの櫓群(実は北ノ丸)と本丸御殿を踏襲して、城絵図を加味した『聚楽第鳥瞰図』の類いが制作されたのでは… と勝手に想像しているのですが、果たしてどうなのでしょう。??






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年01月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してきた…




前回の年末の記事では、注目の『探幽縮図』と、三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比から見えた「疑惑」について申し上げました。




ご覧のような、金雲を巧妙に使ったギュウギュウの寄せ集め(コラージュ)の可能性を申し上げたわけですが、この『聚楽第図屏風』そのものは、本丸?を囲んだ屋敷に「加賀少将」「松嶋侍従」との貼札があることから、景観の想定としては聚楽第完成の頃(天正15〜16年)と見て矛盾は無く、屏風の制作時期についても、日本美術史の辻惟雄(つじ のぶお)先生が「様式的に見ても、その当時の制作と見て差支えないと思う」と鑑定したものでした。


ということは、その他の聚楽第を描いた絵画史料と比べても、おそらくいちばん早い時期に!…こういう(城郭の主要部分がコラージュされた)描き方の『聚楽第図屏風』が登場したことになりそうです。

ですから、そのことが、もしかすると、幻の聚楽第の描写をめぐる混乱に“いっそう拍車をかけた”元凶ではなかったかとも思えますし、現に、下記のごとき一連の絵画史料の存在が知られています。

個人蔵『聚楽第鳥瞰図』

(これには長谷川等伯が所蔵した屏風絵の「縮本」であるとの裏書きあり)



ご承知のとおり、これと同様の鳥瞰(ちょうかん)図が、大阪城天守閣蔵のものなど何点か伝わっておりまして、これらは一見したところ、堀の配置の様子は伝来の城絵図を踏まえたらしく、ある程度の説得力はあるものの、その一方で、城の中心をなす大型の御殿群が、手前の櫓群のすぐ裏にまで迫って来ています。

思わず私なんぞは、これらが『聚楽第図屏風』のコラージュの(悪)影響ではないのか!?… と叫びたくなってしまいます。


そのうえ、こちらの鳥瞰図はどれも「天守」とおぼしき建物が見当たらない、という別の要素が一貫していて、それはそれで見逃せないものがあり、ならば長谷川等伯(慶長15年没)が所蔵したとか、海北友松(慶長20年没)が描いたとかいう原本の絵図はどう位置づけたらいいのか?… ここは一度、聚楽第の絵画史料の“全体”を見回した整理が必要だと思えて来てなりません。


そこで今回は、注目の『探幽縮図』の方に似た描き方の史料は他にないのか? という観点で見回しますと、有名な堺市博物館蔵の屏風絵が、ほぼ同じ構図であることに気がつきます。



【年初の大胆仮説】聚楽第の構造により忠実な描写は、下の二点なのでは!?

堺市博物館蔵『聚楽第行幸図屏風』との対比 → 構図的には、ずっと近い関係に見える



こちらの二つを並べますと、一見して、ともに左上に本丸御殿があり、両図に共通した<櫓群>は、その本丸御殿とは別郭にあったもののように見えて来ます。

このことはやはり、申し上げた『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響が、いかに(当時の絵師らも含めた)大勢の日本人に、間違った聚楽第のイメージをすり込んできたのか??… という疑念を増幅させるものでしょう。

で、そうした疑念に、追い打ちをかけるような墨書(書き込み)があるのです。


謎解きのヒントは「山口玄蕃屋敷」!!?…



そしてなんと『探幽縮図』には、山口玄蕃頭(げんばのかみ)宗永という、思いもよらぬ名前が書き込まれております。

私なんぞもほとんど知識のなかった武将ですが、玄蕃頭は天文14年(1545年)の生まれと言われ、ちょうど浅野長政らと同世代の豊臣秀吉の家臣でした。


例えば、江戸後期の加賀藩士(富田景周)が加賀・越中・能登の地理歴史をまとめた『三州志』には、山口玄蕃頭について「山口本姓ハ多々良也。周防大内介ノ族ニシテ防州ニアリ。義隆滅亡ノ後秀吉公ニ仕ヘ秀秋ノ後見トナル」とあるそうです。

大内義隆が陶隆房の謀反で死んだのは天文20年ですから、それは玄蕃頭がまだ幼い頃のことであり、それからどのようにして秀吉に仕えたのか、46年も後の慶長2年に小早川秀秋の付家老となって大聖寺城(大正持城)の城主になるまで、その間の経緯があまり分からない、ナゾ多き人物と言っていいでしょう。


玄蕃頭が関ヶ原戦の西軍方として戦死した大聖寺城址 / 天守台かと見まごう本丸の櫓台跡


ただ、その『三州志』には「賦斂(ふれん/税の取り立て)ヲ重クシ金銀ヲ貪(むさぼ)リタレバ領民窮スト云」ともあって、ここからはおのずと、玄蕃頭とは「検地」に巧みな豊臣政権の官僚だったのでは?… という想像力がわいて来ます。(→秀吉の直轄領での検地に活躍した、との話もあるそうですので。)

そして結果的に、玄蕃頭は金銀を大聖寺城に溜め込んだことがあちこちの文献にあるそうで、「家族が城を落ちのびるとき、多量の金銀を持ちきれず、大聖寺川に棄てたという巷説がある。その場所が、今の新橋のあたりだと、幼いころ父から聞いたことを想い出す」と、『聖藩文庫蔵 山口記』を発行した加賀市立図書館の東本進館長が同書で解説しておられます。

ならば、そんな山口玄蕃頭が、もしも『探幽縮図』のとおりに、聚楽第の中に屋敷を与えられていたとすれば、どのあたりが相応しいのでしょうか。



そして、謎解きのもう一つのヒントが「前乃(野)但馬屋敷」??



正直申しまして、こちらの部分に何と書いてあるのか、ちょっと自信が持てないのですが、ひょっとすると「前乃但馬屋敷」と走り書きしたようにも見えまして、正確にはどうなのでしょうか?

―――が、いずれにしましても、上記の玄蕃頭の件と考え合わせれば、これはもう聚楽第の本丸の内であるはずがなく、やはり「別郭」を想定して描いたのだと思わざるをえません。


ということは、結果的に、前回からご覧いただいた『探幽縮図』『聚楽第図屏風』『聚楽第行幸図屏風』『聚楽第鳥瞰図』に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、実際のところは、本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を“コンバートして”描き込んでしまった疑いが出て来るのではないでしょうか。…




(※次回に続く)

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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