城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2017/03

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2017年03月24日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる





せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる




前々回ブログの「一回だけ」がまったくのウソになってしまって恐縮しごくですが、前回に申し上げた「本丸が縦長になったのは二代目・豊臣秀次の改造なのでは?」との手前勝手な推測は、そもそも、こんなに「せまい本丸」で、豊臣秀吉による一回目の聚楽第行幸は可能だったのか、という問題がクリアされなければ話にもなりません。

そこで今回は、この一点だけにしぼって、せまい本丸でも行幸は可能だったのかを図上演習で試してみようと思うのですが、まずは、ご覧の『諸国古城之図』のままの本丸を、より詳細な地図とともに拡大してみますと…





この図はあくまでも、仮定(足利健亮先生の外郭ライン)の上にもう一つの仮定(『諸国古城之図』のせまい本丸)を重ねて出来たものであり、内掘の北側三分の二や天守台の位置が京大防災研究所の地中探査に即しただけですから、あまり細かい事を申し上げてもなんですが、ご覧の本丸の中は190m四方ほどになります。

で、こうしてみますと、ここでも伝承地名がいくつも目につき、例えば馬出し曲輪(旧南二ノ丸?)に「須浜町」「須浜東町」があったり、そのまわりに「下山里町」「亀木町」「高台院堅町」「天秤丸町」等があったりするものの、これらはすべて縦長の本丸に由来した町名と考えなければ説明がつきません。

――― といった中でも、ご覧の本丸の内側にある「山里町」「多門町」だけは、ひょっとしますと、この「せまい本丸」の時点まで由来が遡(さかのぼ)れる地名なのでは… という風に考えられなくもなさそうです。

(※ちなみに、図らずも「中立売通」など幾つかの通りが、内掘の形と微妙な感じで合致してしまうのも不思議です)


そんな「本丸」のど真ん中、中立売通に面した ライフコーポレーション西陣店

この地でかつて、天皇を迎えた世紀の饗宴が行なわれたのですが……



(※休館中の上越市立総合博物館蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻より)


さて、ではここで「聚楽第行幸」とは、そもそも何が行なわれたのか? を確認しておく必要がありましょうが、大村由己が秀吉の命令で書いた『聚楽行幸記』によれば、おおよそ次のような日程でした。

初日:行列による聚楽第入り/歓迎の宴/夕方から天皇公家自らの管弦 

二日目:天皇公家への洛中地子献上と諸大名の誓紙提出/引出物の披露と酒宴

三日目:清華成り大名もまじえた和歌の会

四日目:十番におよぶ舞楽の上覧

最終日:行列による還幸



そして行幸の実施に必要な“面積”を考える場合、大切な要素になるのが、行列に加わり五日間の催しに参集した公家衆というのは、夜もふければ各々の屋敷に引きあげ、翌朝はやくに再び出仕する、という内裏での行動パターンが聚楽第でも踏襲されたことでしょう。(もちろん武家衆も同様)

それは『聚楽行幸記』の「次の日は、公卿とくまいり給ひて 早朝し給ひしとなり」という部分にも表れていて、したがって聚楽第の本丸に宿泊したのは「今上皇帝(後陽成天皇)」「准后(新上東門院)」「女御(近衛前子)」とその側に近侍した人々だけということになりそうです。


そうした中で注目すべきは、秀吉自身の動き方と言えそうで、下記の引用文には「まうのぼる」という言葉が何度か登場するため、あらかじめその意味をご覧いただいたうえで、『聚楽行幸記』の注目の部分をご覧いただけますでしょうか。

(Weblio古語辞典より)
まう−のぼ・る 【参上る】
貴人のもとにうかがう。参上する。▽「上る」の謙譲語。
出典源氏物語 桐壺
「まうのぼり給(たま)ふにも、あまりうちしきる折々は」
[訳] (桐壺(きりつぼ)の更衣が帝(みかど)のもとに)参上なさる場合にも、あまりたび重なる折々には。



(『聚楽行幸記』より/赤文字が秀吉の移動を示した部分)

【初日の行列で、天皇公家が聚楽第に先に着き、秀吉の到着を待つときに】

上達部、殿上人、便宜の所にやすらひ給ふに、殿下(=秀吉)御車四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、まうのぼりたまふてより、御座につかせ給ふ時、殿下(天皇の)裾(すそ)をうしろにたたみ、御前に畏(かしこ)まりて、御気色を取り、しばし候はせ給ひて、罷(まか)りしりぞき給へば、御殿の御装束もあらためらる。
ややありて、殿下又まいり給て、おのおの着座の規式あり。



【二日目の諸大名の誓紙提出が終わって】

さて、今日は和歌の御会とさだめられつれども、御逗留の間、翌日までさしのべ給ふ。殿上も、ゆるゆるとして、なにとなきうらうらの御すさみ計なり。
殿下(=秀吉)も、何かの事取まぜ沙汰し給ふとて、申刻(さるのこく=午後4時)ばかりに、まうのぼり給ひぬ。献々の内に御進上物。
一つ、御手本。則之が筆千字文。金の打枝につくる。…

(中略/各々への引出物に領地献上の折紙がそえられて配られ)
各(おのおの)歓喜し給ひあかず。なを、ふけ過ぐるまで御酒宴。
殿下たち給ひて後、いよいよ御かはらけかさなりて、みな酔をつくし給ふなり。




ごく一部分ですが、この文面からお感じになれたでしょうか、秀吉自身は形のうえでは“まねいた側の屋敷の主人(あるじ)然”とは全くしていなくて、あたかも迎賓館の支配人? か何かのごとくに、賓客の気分をはかりながら、いちいち時間はかかるものの最小頻度で、かつ的確に、天皇の前に姿を見せていた点が、私なんぞはものすごく意外に感じられてならないのです。

しかもこれが、天下人・秀吉が命令して書かせた『聚楽行幸記』でこの調子なのですから、これは何かあるぞ、という興味がわいてきて、秀吉の「まうのぼる」とはどういうことなのか、単なる謙譲語に過ぎなかったのか、それとも何か特有の行動パターンを示した言葉なのか、確認してみたくなったのです。

そこで、明確な絵図のある二条城(御水尾天皇の行幸があった寛永再築の「二條御城中絵図」)を使って何か分からないかと思い、ためしに冒頭の「せまい本丸」の「山里町」に、二条城絵図の「二ノ丸庭園」をちょうど重ねる形で(もちろん同縮尺で、方位は若干調整して)ダブらせたところ…




ご覧のとおり、二条城二ノ丸の主要な殿舎は「せまい本丸」に収まったものの、肝心の御水尾天皇を迎えた行幸殿などは、「山里町」にダブリつつ「せまい本丸」からはみ出てしまう形になりました。

つまり、このままでは二条城の行幸のように、二ノ丸に時の将軍・徳川家光がいて、本丸に大御所・徳川秀忠がいて、そのうえで行幸殿に御水尾天皇を迎えるという、三人の主要人物がそろって城内に居並ぶ形は、とても無理だということが判ります。

そこで話題の、秀吉の「まうのぼる」とはどんな動きなのか、という事柄になるわけですが、例えば…




思い切って、大御所・徳川秀忠がいた二条城本丸をグ――ッと西側に切り離して、ちょうど「加賀筑前守」邸がある辺りまで移動させてみた図です。

こうしてみますと、「せまい本丸」とその「加賀筑前守」邸の間にあるのは、現在「多門町」と呼ばれる場所と、旧南二ノ丸よりずっと簡略な「馬出し」がありまして、その延長線上に「加賀筑前守」邸の門が位置していたようにも感じられます。


! と、ここで気づくのが、二条城本丸の門と言えば、現在は解体されたままで復元計画の話もある二階建ての「橋廊下」があって、それで本丸と二ノ丸の御殿と行幸殿とが互いにつながっていた(=地上に下りずに行き来できた)ことが思い出されます。

ということで、例えば、例えばですが…




秀吉の「まうのぼる」とは、こういうことではなかったのか―――

またまたトンデモない仮説を申し上げて恐縮ですが、この間の秀吉の居所は「加賀筑前守」邸の御成り御殿にあったのだと仮定して、そのぶん、本丸はほぼすべて天皇に明け渡すかたちが取られたとしますと、臨時の橋廊下を使った「まうのぼる」動きは、いやがおうにも諸大名の目に印象的に見えた(見せられた)のではないでしょうか?

で、かくのごとき行幸のあり方は、過去の室町将軍邸の行幸においても似たような形が取られておりまして、例えば永享9年、将軍・足利義教の邸では、主屋である「寝殿」を後花園天皇に明け渡して御在所とし、義教自身は「会所」や「常御所」を自らの御殿としたそうです。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収より)

天皇の御在所となる寝殿において、着御・還御の儀や晴の御膳、和歌御会、舞御覧、贈り物の儀など多くの行事が行なわれたこと、その一方で室町将軍邸や中世住宅で注目されている会所では、釣殿になぞらえて使用した詩歌披講を除くと、最終日の一連の一献の儀しか行なわれていないことがわかる。
最終日の一連の会所における一献の儀に際しては、たくさんの献上品が義教から天皇に贈られているので、寝殿が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所は義教の御殿という認識があったものと考えられる。



という風に見てまいりますと、むしろ二条城の徳川による行幸の方が“異様な御殿配置”がなされていて、本来ならば、大御所・秀忠の本丸にこそ後水尾天皇を迎えるべきところを、あえて二ノ丸の“門の脇に”行幸殿を押し込めたのだという、徳川の姿勢(レジームチェンジの視覚化)が如実に分かって来ます。

そこでこの際、秀吉の「まうのぼる」姿をもう少し具体的に想像しますと、前出の『聚楽行幸記』の引用部分で、天皇公家に遅れて聚楽第に着いた秀吉が牛車でくぐった「四足の門」とは、「加賀筑前守」邸の御成り御殿の「門」だということになり、そこから「まうのぼる」臨時の橋廊下の形は、二条城とは若干異なって、あえて秀吉の行き来(=政治的デモンストレーション)が丸見えになる開放的な箇所もあったのでは… などと想えて来るのです。


殿下御車 四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、

まうのぼりたまふてより、(天皇を)御座につかせ給ふ時、……






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年03月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…





大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…


前回、この一回だけ、と申し上げておきながら、記事のラストでお見せした「合体図」が、あのままほおってはおけない代物(しろもの)であったようで、下記のごとく見づらく、判然としない状態では、何が問題なのか、ご説明することもままなりません。






そこで今回は、ご覧の『諸国古城之図』(山城 聚楽)は大名の名の当て字が多く、なおかつ屋敷地の場所も違うのでは?と指摘される部分があるものの、それらはひとまずこのままにして、明らかな書き間違いと思われる「細川中越守」「有馬法印」「牧野民部」の三箇所だけ、それぞれ「細川越中守」「前田法印」「牧村民部」と訂正して清書してみますと…





ご覧の図は、前回の説明どおりに、足利健亮先生の思い切った聚楽第「外郭」ラインに沿う形で、堀川と天守台の位置を合わせつつ『諸国古城之図』をはめ込んだものであり、本丸の周辺は『諸国古城之図』のままにしてあります。

このように清書してみて、一見して気になる問題は、大名屋敷の面積が、どれも本丸に比べてけっこう大きいのではないか? という点でしょう。

とりわけ「三好孫七郎(後の豊臣秀次)」「大和大納言(豊臣秀長)」「(徳川)家康公」の三つの屋敷地は、面積で本丸を上回ってしまい、不自然さがいなめません。


文献の記録に照らせば、徳川家康邸は『小牧陣始末記』に「浮田ガ屋敷向カハ三軒ヲ一ツニシテ可進トアリテ是ヲ被進。何レ二町余有リシトナリ」という風に、豊臣秀吉が特別に「二町余」の広さを与えたことが書かれていて、さらに豊臣秀長邸と同じ広さにせよ、と命じたとも伝わっています。

「二町余」と言えば、六尺間の場合、二町(216m)×一町(108m)と少々という意味ですから、図の左下の250mスケールを参照いただくと、家康邸も秀長邸も明らかに大きすぎるようです。


そこで、そこでなのですが、前回に申し上げた「鉄(くろがね)門」は、当図では黒門通と下長者町通の交差点の東側になり、ほぼ正確な位置に来ているようですから、ここで思い切って、当図の下長者町通から下の部分を、縦に(南北に)半分強ほどのサイズに縮めてみることにいたします。





!! 図の下の方がガバッと空いてしまいましたが、これならば、家康邸や秀長邸は文献どおりの広さになりますし、さらに大名屋敷街の中央の通りを広くとれば、黄色く下地を塗った「浮田宰相」「脇坂中務」「加藤左馬助」の三大名(宇喜多秀家・脇坂安治・加藤嘉明)の屋敷がちょうど、かつての浮田町・中書町・左馬殿町の位置に、うまく三つ並んで合致することになります。

したがって、前回に申し上げた「家康公」邸と二条城の位置は離れてしまうものの、この方が大名屋敷の面積と伝承地名をふまえるなら、より正しい姿であろうと言わざるをえないのです。…

そしてこの場合、「金吾中納言(後の小早川秀秋)」ただ一人が、面積で本丸に匹敵する形になり、これは聚楽行幸の際、諸大名の起請文の差出し先が「金吾中納言」宛てであって、この時点では秀吉の後継者と見なされていたことと符合するようでもあります。





さて、そもそもこの図は『諸国古城之図』どおりに、本丸と南二ノ丸(馬出し曲輪)の南側に広大な空地がありますが、これについては『川角太閤記』に、秀吉が小田原攻めの凱旋の祝賀として、あの「金配り」を「三の丸の大庭」で行なったとありまして、櫻井成廣先生は「広い空地が描かれているがこれこそ有名な金配が行なわれた二町の白洲と思われる」(『豊臣秀吉の居城』)と解釈しました。

しかも面白いことに、林羅山の『豊臣秀吉譜』では「金配り」のやり方として、二町の範囲に金銀を台に積み上げ、秀吉自身はその「門戸(本丸虎口?)」の側に座り、秀長はその「東」側に座って!! 金銀の配布を受けたと書いてあり、どうやら秀長は、自らの屋敷の前に陣取っていたようなのです。

かくして文献ではこの場が「三の丸」と伝わっているため、当ブログは『諸国古城之図』の問題の黒い太線を、仮に「三ノ丸築地塀」と呼ばせていただくことにしたいと思うのですが、あえて築地塀としたのは、二代目の豊臣秀次がこの太線の内側にわざわざ「外掘」を掘ったのは、それが防御面ではやや弱い築地塀だったからに他ならないと感じるからです。


さて、この図でもう一つ申し上げたいのが、有名な「日暮(ひぐらし)門」の正体です。




これまで「日暮門」と言えば、その美しさが聚楽第の門で第一と言われ、「聚楽城の巳(み)の方に有て南にむかへる門也。其(その)工(たく)み美々しく、見る人立さらで日をくらす故、名付たり。今の日暮通は其門ありし筋とかや」(『菟芸泥赴(つぎねふ)』)といった具合に、現在の日暮通の名の由来になり、おそらくは聚楽第の内城の南門(正門)であろう、などと言われて来ました。

しかし私なんぞは、上記の文献の「聚楽城の巳(み)の方に有て」という部分が、どうも引っかかるのです。 と申しますのも、もう一度、図をご覧いただくと…




ご覧のとおり、今やどう頑張っても、現在の日暮通を、聚楽城(地中探査で判明した本丸)の位置の巳(み=南南東かそれよりやや東)の方角に持って来ることは出来そうにありませんし、また日暮通そのものが本丸や南二ノ丸の「門」にぶち当たるとも思えませんから、ここはむしろ、あっさりと、日暮門とは、本丸の南南東にあった「大和大納言」邸の御成り門!! と考えた方が、解決が早いのではないでしょうか?

そう考えますと、図のごとくに、現在の日暮通が鍵の手にまがる位置で御成り門=日暮門を想定できそうですし、秀長は天正15年8月にすでに大納言に昇進していましたから、ここに華麗な四脚の唐門があっても不思議ではありません。

しかも上記文献の「南にむかへる門也」という書き方は、ひょっとすると、その意味は、南に向かって入る門、つまり北側が門の表であった、とすれば、まさに本丸からやって来る兄・秀吉を迎えるために、秀長は諸大名の模範となるべく、日本初の?豪華絢爛な「御成り門」をここに構えたのだとも思えて来るのです。




それでは、この図の最初の疑問点 → 南側のガラッと空いてしまった範囲は、いったい何だったのか?というお話ですが、ここは決して空地ではなく、大名屋敷か、町家か、何かがぎっしりと詰まっていたことは間違いなさそうです。

そう考えるヒントとして、前出の櫻井先生は「南方二条城の南隣には最上町がある。そして伊達家の古文書によると最上邸は伊達邸の次であったことが分かるから、伊達政宗邸の位置は今の二条城の東部に当ったのであろう」(『豊臣秀吉の居城』)と推理しておられ、したがって最上義光は、残念なことに「外郭」の外に押し出されていたと言うのです。


ならば、伊達邸のほかは何だったかと言うと、同書の「脇坂、加藤左馬、長宗我部、早川等は皆水軍の将であったから聚楽南部は水軍諸将の邸が集っていたことになる」という指摘は、何らかのヒントになるのかもしれません。…

では、そんな櫻井先生の著書の指摘をすべて加味し、また同書に掲載の『聚楽第分間図』(『諸国古城之図』と同種でありながら若干異なる)もふまえて、もう一度、図を修正しますと…


櫻井先生の著書にしたがって、名前や境界線を修正すると…(黄緑色が修正箇所)



きっと、これでも詳しい方がご覧になれば、色々と問題があるのでしょうが、今回、最後に申し上げておきたいのは、この後、天正19年の「京中屋敷替え」による大名屋敷の大規模な移転と、文禄2年の「北ノ丸」新造についてであり、どちらも二代目・豊臣秀次の関白就任(聚楽第の城主)や二度目の天皇行幸と同時期のことで、無関係の事柄ではないでしょう。

それはとりわけ「北ノ丸」新造が、以上の築城プランの全体像に、少なからぬ変更を強いたように感じるからでして、ただ単に本丸北側の屋敷を“どかせばいい”では済まなかった事情(→慢性的な屋敷地の不足)を想像すると、より大きな改造計画に付随した普請であったようにも感じるからです。


【ここで最終の修正図】

森島康雄先生が想定する「京中屋敷替え」後の大名屋敷地区(青枠)を加えてみれば…


(※京大防災研究所による内堀・外掘も図示しました)




ご覧の大名屋敷の移転例を示した「矢印」のごとく、天正19年「京中屋敷替え」の結果、おそらく秀吉時代の大名屋敷街は、スカスカに抜けて、空地だらけになったことが想像されますし、そんな築地塀の内側はやがて、ことごとくが二代目・秀次の「外掘」でつぶされたことになります。

ですから昨年、京大防災研究所チームが明らかにした「外掘」と、ご覧のように縦長の本丸を囲った「内堀」というのは、そもそもが一連の、秀次時代の“聚楽第改造プラン”による城構えだったのでは… という気もして来るわけです。


で、森島康雄先生の研究(『豊臣秀吉と京都』他)によれば、新たな大名屋敷地区が軒瓦までキンキラキンになったのも天正19年以後、つまりは秀次時代のことだった!! という再認識が不可欠のようで、以上の結論として、聚楽第とその周辺は、二代目の秀次のときに、本丸を縦長に拡張しつつ、二重の堀で城構えをギュッと凝縮(ぎょうしゅく)させ、そのかわりに、内裏(だいり)とつながる街路の方へ大名屋敷を追いやり、そこを大量の金箔瓦でまばゆく変貌させたようなのです。


――― つまり、ある意味、秀次は関白の「城」兼「政庁」として、聚楽第が本来やるべきことをやっただけ、という風にも見えるものの、そんな果敢(かかん)な秀次の行動は、結局、裏目に出てしまったのかもしれません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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